cocoon 公演情報 マームとジプシー「cocoon」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    「生きる」ということ、すなわち、「走る」こと、「走り続ける」こと。
    100の言葉をつなげても、この作品から受けた印象・体験は語ることができない。
    演劇でしか表現できない手法で、「戦争」を、そして「生きる」ということを語りかけてくる。
    いや、語りかけるという生やさしいものではなく、両肩をつかまれ、ガクガクを揺さぶられるように、訴えてくる。

    そして、「戦争は悲惨だ、残酷だ」というメッセージにとどまらず、さらにもう一歩、その先へ、現代に生きる者たちへ、「生きる」ことのメッセージを送っていたと感じた。

    ネタバレBOX

    この作品は、いわゆるストレートプレイの演劇とは違い、独特な演出で作品を見せる。
    例えば、過剰な繰り返し、例えば、同じシーンをアングルを変えたり、例えば、回想シーンとは別の、時間を前後させる方法や、時間や空間のレイヤーを重ねていく手法など。

    時間や空間のレイヤーを重ねていく手法では、オリジナルの戦争・沖縄戦に巻き込まれた少女たちを描くだけでなく、現代にまで広げていく効果もあったと思う。
    これについては、先のほうで書く。

    いろんな手法を使うのだが、それによって単にスタイリッシュな印象の中に物語を閉じ込めてしまうのではなく、逆に、ストーリー、テーマ、そして登場人物たちの鮮明にさせていく。

    冒頭、女子高生たちの日常を、同じシーンの繰り返しの中で描いていく。
    繰り返すことで、リズムが生まれ、弾けるような会話と若さが溢れて見える。
    それは、生きていることを実感させる。

    毎日同じような日々が繰り返されていくことと、実はそれこそが、愛おしい毎日であったということの確認でもある。
    そして、それがやがて訪れる非劇を際立てていく。

    さらに、先生の「教師として……」の台詞、生徒たちのそれぞれの台詞や、人物紹介が後半に効いてくる。

    物語の内容(原作の内容)を知っているだけに、最初のシーンから、ぐっと重いモノ感じていた。
    「生きていたい」と叫ぶ、最初のほうのシーンですぐにクライマックスがやってきた。
    しかし、これはあくまでも序盤であり、同じ台詞をスポットを浴びて同じように叫ぶシーンがラストにも訪れるのだが、当然、まったく感じ方が違ってくる。

    物語が進んでいくことで、役者がどんどん登場人物になっていくからだ。
    それは、この作品に限らず、どんな演劇や映画でもあることなのだが、先にも書いたように、回想シーンとは違う感覚で、時間が前後しながらエピソードを挟み込んでいくことの効果も大きい。

    そのことで、例えば、「猫のももが死んだときに涙が出なかった」という台詞、例えば、「どんな人だったか思い出せない」という台詞などが、別のシーンに現れ消えて行くことで、より「意味」が出てくる。同じ台詞の繰り返しなので、実際はわずかな台詞と登場人物の情報のはずなのに、「知っている」感覚が生まれ、より身近である感情も生まれてくる。

    同じような衣装の少女たちに、それぞれの「顔」が見えてくる。
    このあたりは、こうした戦争モノのストーリーの常套手段でもあるのだが、そういうあざとさは感じなかった。
    のめり込んで観ていたからだろうか。

    別の時間や場所のシーンを重ねることは、単に戦争に巻き込まれる前の楽しいエピソードと、沖縄戦での悲惨な状況、残酷さをクローズアップさせるだけに機能しているわけではない。

    現在のどこかの中高一貫の女子高生たちの日常と、沖縄戦で学徒隊として兵士の看護をしている女学生たちが、時空を超えて、クロスしていく。彼女たちの台詞は、すべて現代のそれのままということもある。

    ここは、過去・歴史が単なる点として存在しているのではなく、「現在と地続き」であるということを強く印象づけ、さらに「生きる」ということを軸に、現代に生きる若者たちの「生きる」をも炙り出していたように思う。

    つまり、ラスト近くで円陣になって自決しようとする少女たちが発する言葉「それだったら死んだほうがまし」(正確な台詞ではないが)は、今の世界でも自ら命を絶とうとする人の言葉に重なるのではないだろうか。それは、「生きたい」「生きたい」「生きたい」と叫ぶサン、「生きたいと思うことはいけないのか」という台詞、そうした思いがありながらも自ら命を絶つ人の姿と重なる。生きにくさのある世界。

    沖縄戦の中で、「生きたい」と強く願った少女たちは、その意思に反して銃弾に倒れたり、病死したり、自決の道を選んだりする。現代の日本でも、「生きたい」と強く思っていても、何らかの障害で自らの命を絶ってしまうこともある。それは両方とも「意思に反して」なのではないか。追い詰められ、意思に反してそういう道を「選ぶしかなかった」人たち。

    戦争中と現代では違うではないか、と思う人もいるとは思うのだが、当の本人にとってはその重さは変わりないと思う。

    したがって、最初からずっと発せられる「ここはどこなのか」「いつの時代なのか」にこれらがリンクしてくるのだ。

    「戦争は悲惨である」、もちろんそうだ。

    しかし、この作品ではもう一歩踏み込んで「生きる」ということに焦点を当てたのではないだろうか。

    「生きる」ということは理屈ではなく、「生きる」ということなのだ、ということ。
    うまい言葉は見つからないが、「意味」じゃなくて「意思」なんだということではないかと思う。すなわち、「走る」こと、「走り続ける」こと。

    ラストで学徒兵の少女たちが沖縄の南の海岸を目指して走る姿は、「生きる」ことに向かって走っている姿であり、映像で延々と続く道、沖縄の風景、青い空は、残酷に見えてくる。
    しかし、「走らなくては辿りつかない場所」が「生きる」という場所だということなのだろう。

    「生きるために走る」。しかし、それが叶うかどうかの確約はない。
    だけど、走る。立ち止まらずに走る。あまり考えすぎずに走る。
    それが「生きる」ということなのだ。
    すなわち、「生きる」ということは、「走る」こと、「走り続ける」ことだ。

    タイトルについて少し触れると、「繭」が、少女たちを守る、学校、ガマと象徴的に使われ、主人公のサンをいつも守る同級生の名も「繭」になっていた。
    原作では、同級生の繭の秘密と、「繭」の意味にこの舞台とは少し別の意味合いも持たせていたと思うのだが(男は「白い影」も含めて。舞台ではラスト近くで繭は「ボク」と言っていた)、この舞台では「繭」の意味をさらに効果的にとらえ、「生きる」という決意で「繭」から脱皮していく少女を表現していたように思えた。

    劇中で使われていた今日マチ子さんのイラストはこのための描き下ろしだった。
    ロビーに原画が展示してあり、それを1つひとつ観ていくと、舞台が蘇った。

    繭のように白くて丸い当パンもいい感じ。
    歌のシーン(ギターを使うところ)もグッときた。


    これは、まったく別次元の話だが、劇中で何かの幼虫が嬲り殺されていたように見えた(映像)。表現の手段としてそれは「アリかナシか」と言えば、私は「ナシ」だと思う。特にこういうテーマの作品だけに、ショッキングは、観客の脳内にわき上がるほうが大切ではないかと思うからだ。

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    2013/08/12 21:39

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