満足度★★★★
公的な空間と「聴覚」「視覚」を遮断した中で、触ることのできないプライベートな空間。
ネタバレBOX
近所のサポーターの人たちは、確かにお節介。
というよりも、いちいち顔と口を突っ込みたい。
対する若者たちは、マニュアル通りな。
おばさんも床屋のおじさんも、もっとセンターで起こることに興味津々のほうが良いのではないか。つまり、「お節介な人たち」が出てきたように思えるからだ。
笑いはどうも上手くはない。
演劇の笑いの1つ、「ある人が知っていることを、ほかの人が知らない」という結果生まれる笑いが、イマイチ爆発力が足りない。「ここは笑わせる」を意識してこのシークエンスを作っているのならば、きちんと笑わせるツボを押さえてほしい。
正直、こういうテイストの作品だから笑ってしまった、感はある。
もちろんコメディでないことは承知の上なのだが。
なんとなく「昭和は良かった」風に見えてしまうことが少し残念か。
面接室で歌って、悪態をついて去っていった女性は、何だかわからない恐さがある。そういうわけのわからなさまでも受け止めなければいけないというにしても、恐すぎる。もっとソフトな訳わからなさでもよかったのではないか。エキセントリックすぎるので。
歌が要所要所に歌われて、ラストも歌で閉じるというのは、平田オリザ風味ではあった。
近所のサポーター役のおばさんの、妙なハイテンションは、観ていてちょっと苛つく。たぶんそういう人はいるのだろうが、地に足が着いていないというか、唐突に叫んで歌って、手をグルグル回して、に違和感を感じる。
「私」の自意識と「存在」のアピールの「痛さ」なのだろうが、それが「お節介おばさん」の範疇を超えて、歌って叫んだ意味不明の女性と同様に恐い存在だ。
床屋のご主人も「私の存在」を訴えかけすぎる気がする。それが「私の存在意義」ということへの主張ということなのか。
しかし、床屋やってる感じがなぜかしない。仕事を持っていて、手空きのときにちょっとやって来てお手伝いという雰囲気がしないせいだろうか。
満足度★★★★
シンプルな舞台で、演技者の力を素で見せた。
非常にシンプルな衣装。
そしてシンプルなセットと装置。
したがって、出演者に意識が集中する。
ネタバレBOX
とてもシンプルなセットと装置。
舞台の後方に、色を変化させる光のパネルがある程度。
登場人物の衣装も極めてシンプル。
メインの登場人物も誰が何の役なのかがわかりやすい。
コロスの人々は、同じ衣装のまま、ヘッドギア風の被り物の色や帽子で、自由民、兵士、結婚式の参列者を演じ分ける。
ローエングリンのフォークトは、白鳥に語り掛けるときには、なめらかに優しく、闘う決意を示すときには力強く、かつ若々しい。
オルトルートとエルザのやりとりに火花が散る。
結婚への期待に包まれているときに、内側からの疑念が湧き上がる感じの演出が上手い。
疑念とともに、歩む足取りは、重い。
満足度★★★
『止まらない子供たちが轢かれてゆく』
過剰さが面白い。
スピード感が気持ちいい。
ネタバレBOX
過剰さが面白い。
スピード感が気持ちいい。
しかし、ラストと、言うか、オチ的なことは意外と面白くない。
そこまでのトーンと違うためか。一気呵成に行ってほしかったような気もするし、上手くスピードを止める方法もあったのではないかとも思う。
過剰な台詞と、普通の会話との差が上手く処理しきれていない印象も。
小学生って思った以上にオトナなのかもしれないと思いつつも、やっぱり子どもなんだな、という細かい描写もほしいところだ。
とても乾いた感覚の子どもたちが登場する。
台詞が重なる。誰が誰だかわからない感覚になっていく。
しょせんオトナから見たら、誰が誰なのかはわかるはずもなく、これは学級崩壊を黙認した教師そのものの視線かもしれないとも。
舞台の上には実際には出てこない、その他大勢の、空気たちのような存在が、実は主人公だったりする。
満足度★★★★
客入れから映画『東京物語』の音声が流れている。
舞台の上には、台詞に出てくる映画などのポスターが飾られている。
「ゲバラ」「道」「アラビアのロレンス」「キャットピープル」など。
ネタバレBOX
ある刑務所。「革命家」ブレーキと「オカマ」のオリーブが退屈を紛らすためるに語る映画の話。
そして脱獄へと。
『東京物語』を語る、語り口のうまさ。
2人芝居の面白さがある。
2人のバランスがとてもいいのだ。
台詞のタイミングやトーンなど。
上演回数を重ねているだけの良さがありつつも、マンネリ化してない新鮮さもある。
満足度★★★
今後が楽しみなカンパニー。
初めて目にするカンパニーで、なぜ気になったのかは覚えていないが(フライヤーしか目にしていないので、たぶんフライヤーを見てだとは思うが)、思い立って劇場に行った。
ネタバレBOX
受付から案内までも丁寧で気持ちがいい。
とてもシンプルな舞台装置と手作りの衣装。
しかし、センスはいい。
細かいところまで神経が行き渡っていることが窺える。
音の出し方まで含めて。
若々しさが活かされている演出。
ダンスのような舞台での動き。
限られた照明を使った効果。
客席の後ろまで使った。
(これは必要ないかも、と思ったが)
強く伝わるものがなかったが、全体的にはとても好印象である。
女性ならでは、しなやかさを感じられ、今後がとても楽しみである。
作品とは関係ないが、私の観た日には関係者の親族らしき高齢の女性が観客席にいた。
暗い中での動きや台詞に「暗くて見えない」、あえて囁くような台詞に「聞こえない」などと声を出していた。さすがに「んー」とは思ったけど、付き添いの女性が気を遣い、高齢の女性に注意はしているけど、ご老人なので、どうしても声が出てしまうようだ。
まあ、しょうがないか、と思っていたら、その高齢の女性の後ろのほうに座っていた男性がかなり強い口調で注意をした。
付き添いの女性とのにらみ合いのようになり、かなり気まずい空気が漂ってしまった。
注意したい気持ちはわかるけど、どうしようもなさそうだ、というのは見てわかったと思うのだから、より悪い雰囲気になってしまうことが予測できるので、ここはひとつじっと我慢するが良かったのかもしれない。
その女性を追い出しても後味が悪いし、周囲の人も楽しくない。
こういうのって、難しいですよね。
前もってこういう方がいらっしゃるのがわかっていたのならば、その方には申し訳ないが、少しだけ端のほうの席に着いていただくという方法もあったのではないかと思うのだった。
満足度★
ストーリーとまったく関係ないどころで、少しだけ面白いと思ったが、その後は笑えるところがなく、ほぼ苦痛だった。
ネタバレBOX
最初から台詞を叫びすぎで、真相がわかっていきつつの盛り上がりが感じられない。
全体的に台詞が聞き取りにくいし。
作品全体のリズムをきちんと計算してないのではないか。
観客が笑っていたところが、ほとんどテレビネタなのも御寒い。
コメディのフェスなのに、団体の紹介のようで、コメディ要素はほとんどない。
でもファンはいるようなので、私にはまったく合わなかっただけか……?
本公演は面白いのかもしれない、と思ったりして。
満足度★★★★
劇団俳優座の岩崎加根子さんによる朗読と人形劇。
裁縫の動きなど、人形の動きはさすが。
朗読のテンポもいい。
ネタバレBOX
「月夜とめがね」「野ばら」「赤い蝋燭と人魚」の3本立て。
「赤い蝋燭と人魚」は、登場人物がすべて白い紙で出来ているような人形を使っていた。
顔には目鼻などもなく、表情は観客にゆだねられる。
拾われた老夫婦から金のために売られていく人魚娘の悲痛さや、売ってしまった老夫婦の後ろめたい表情などは観客の中にある。
白い人形の中で、人魚の娘が残した「赤い蝋燭」が存在感を増し、老夫婦を責める。
哀しい「死」を感じさせる3作品だった。
満足度★★★★★
鋼鉄らしいストーリーを、かっちりと上手くまとめた。
面白い!
中短編の作品で、このクオリティーにはなかなか巡り会えない。
ネタバレBOX
バブルムラマツさんはどんどん腕を上げていっているのではないか。
(ボスさん焦ってる? 笑)
物語が「鋼鉄村松」という枠をはみ出ず、演出がタイトになっていきながらも盛り上げていく。
次回作『オセロ王』にも期待が高まる。
ボスさんがいい役者だということを再認識させてくれた。
朗々と語る台詞が、物語の軸になっている。
そして女優の小山さんが、ものすごくいい。
鋼鉄村松役者陣の大きな支柱であった、ムラマツベスさんが休止中の今、そのあとを継ぐのは彼女かもしれない。
すぐにでも「村松」の名前を与えるべきだ。
満足度★★★★★
とにかく最初から最後までずっと笑った。
前説から笑った。
再演だか再々演だかの作品。
なので、非常にこなれていて見やすい。
ネタバレBOX
サイショモンドダスト☆さん(以下長いのでサイショモンドダストとする)は、実はかなり苦手な役者さんだった。
ポップンマッシュルームチキン野郎を初めて見たときに、「うわー」っとなった。
でかい声がうるさすぎるからだ。
しかし、徐々にこちらが慣れてきたのかもしれないが、作品の中で浮いていた彼がしっくりとハマっていくのだ。
とにかく存在をアピールしようとしすぎるところが少し変化してきたのかもしれない。
彼を主人公にした短編からそれが如実になってきたように思える。
そのサイショモンドダストさんは、あいかわらず鬱陶しいのだが(笑)、とてもいいのだ。
会話がきちんと成立しているし、聞かせる。
サイショモンドダストさん、最高! だった。
彼がいいから作品が良くなったのではないかとさえ思えた。
ストーリーは前回を見ているので知っているにもかかわらず、笑ってしまう。
戯曲自体がしっかりしているのと、演出が巧みでダレさせないからだ。
役者も作品と演出の呼吸がわかっているので、タイミングは絶対に外さない。
前回は車が飛び出す仕掛けがあったりしたが、今回はそういう仕掛けはない。
ほとんど「素」とも言える、シンプルなセットや装置でこれだけ楽しませてくれるのだから、彼らの力量がいかに凄いかがわかる。
この作品には、シンプルに彼らの良さ、面白さがすべて詰まっている。
お下品でナンセンスで、不敬で、純情で。
いろんな仕掛けや装置に頼らなくても、これだけのものを作り上げることができるのだ、ということを示してくれた。
満足度★★
タイトル思わせぶりすぎて少しださい。
連作短編的な印象から、カズオイシグロ原作の舞台『夜想曲集』が少しだけ思い浮かんだ。
ネタバレBOX
福島、障害などか唐突に現れてくる。
しかし、これらが登場することの納得度が低いのだ。
普段の生活の中に紛れている、という視線だとしても、唐突にしか感じられなかった。
1つひとつのシーンの中でのインパクトと意味合いでそうしたのだろうが、全体を俯瞰するとしっくりこない。すなわち、構成力が足りないのではないか。
5年後に死んだ妻と会うとか、最初の場面の違う時間を見せるとかは、ないほうが良い。湿り気が少なくクールなほうが引き締まったのでは。
「なぜ来たの?」は、自分のことを聞いてほしいからだろう。
満足度★★★★
「会議コメディ」とは別のアガリクスのもう1本の柱、「不謹慎シットコム」。
東京大空襲の前日を描いた『大空襲イヴ』では、主人公を含めすべての登場人物が翌日の東京大空襲を知らないまま物語は進んでいく。
観客のみが知っている悲劇が笑いの下に流れていて、どんなラストにせよ、悲しくて強いメッセージの裏打ちがあった。
そして今回は……
ネタバレBOX
今回の『わが家の最終的解決』は、ユダヤ人であることで待ち受けるホロコーストと、それを匿うことで主人公が被るであろう死が、背中に張り付いたまま進む。
こちらは、その後、彼らがどうなるのかは観客もわからないのだ。
この点が『大空襲イヴ』とは異なる。
どちらがいいか、ということではないが、『大空襲イヴ』のほうが、どう転がっても悲劇なので、戦争をテーマにしたということが、きちんと伝わってきたのではないかとも思う。
とは言え、あいかわらずテンポがいいし、知られたくない情報と顔合わせをしたくない人、そうした関係が、人ごと、時間ごとに変化して突き進む戯曲は面白い。
1本の中心ストーリーを交差して、絡めてくるエピソードの多様さがうまいのだ。
ただ、逆に言えば、盛り込みすぎで山場がうまく作り上がっていかない気もしたし、ガチャガチャしすぎな印象もある。
小さな緩急と、大きな盛り上がりがうまく組み合わされば、静かなラストを演出でき、さらに最後のオチも鮮やかに決まったのではないだうろか。
ラストで言えば、単純な「メデタシ、メデタシ」でないところが、「うまいな」と思わざるを得なかった。
音楽でメンデルスゾーンとワーグナーの対比が効いていて、さらにワーグナーの『結婚行進曲』が使われているオペラ『ローエングリン』では、ローエングリンが自分が何者であるかを、妻エルザに告げることで彼女の前から去るというストーリーであり、このラストを暗示してたのではないか、と公演を観てからしばらくして気が付いた。
……そこまで意識して作ったのかどうかはわからないけど。
ゲシュタポの黒い制服は、この時期はすでに着用禁止だったと思うのと、そもそもゲシュタポの場合、制服と私服のどちらでもOKだったはずなので(実際、上司は制服着てないし)、主人公ハンスは、私服のままでよかったのではないかと思う。
ハンスの制服にまつわるドタバタはそれほど意外性もないので、むしろハンスの友人のどちらかが、黒い制服にこだわりがあり(着用禁止にもかかわらず好きだから着続けている的な)、彼が現れてから彼を匿っている家族から見えないようにする、さらに制服を脱がせる(太陽と北風的な)というステップのほうが、よりハードルが高くなり、面白さが増したように思うのだが、どうだろうか。
ハンスを演じた甲田守さんだからこそ、の変な生真面目さが良く出ていたが、よくよく考えるとゲシュタポに入っていてこんなことをやっているというのは、明らかに頭がおかしい(笑)ので(愛のためとはいえ)、甲田守さんの一途さが段々不気味に見えてきた。
逆にエヴァを演じた熊谷有芳さんは、明らかに頭の回転が早く、行動力もあるので、ハンスが何者か知っていて、ハンスの間抜けさを利用したように思えてきた。だからラストはあっさりと分かれるのは当然。
2人が愛し合っている、という雰囲気もまったく伝わってひなかったし。
レジスタンスの淺越岳人さんは、あいかわらずの屁理屈王だったが、ちょっと無理矢理そうさせすぎたか。
タイトルは上手い。
満足度★★★★
隠されていて見えない、舞台の後ろ側。
そこには何があるんだろうと、少しわくわくした。
予想できなかった、その後ろ側が現れたときには「これは面白くなるぞ」と思ったのだ。
ネタバレBOX
結局、後ろの採掘現場は、主人公の「心の中」であって、それをまるで「自分探し」をするような作品だったのではないか。
彼にかかわってきたいろいろな人がそこに次々に現れる。
彼らがいるはずのネットカフェ自体も、そこに存在しているのかと考えると怪しくなってくる。
彼はネットの中で生きているようだ。
まるで大団円のように「メデタシ、メデタシ」となったラストではあるが、本当にそうだったのだろうか。
つまり、ここで繰り広げられていたのは、「彼の心の中」のことだけであり、そこに現れてくる人々とはすべて「彼の中」にある「妄想の産物」ではないのか。
例えば、彼のトラウマになっている、幼稚園時代の熊の縫いぐるみのエピソードも、実はこうでした、という彼ににとって「救い」になるような「真相」も「彼の中」でのことであって、本当かどうかはまったくわからない。というか、単なる願望でしかなく、彼を励ます母親の姿も彼の願望であろう。
したがって、大団円もまた「彼の心の中」に去来したものであって、実は彼はネットカフェの1室で妄想に耽っているだけの彼の可能性がある。
誰も注意を払っていない、誰も見てすらいない彼の哀れな妄想がこの作品の内容むそのものではないのだろうか。
ネットカフェの1室で、垣間見た、救いのある妄想を見ているだけの男の話だったように思える。
主人公の名前が「ななし」と言うのもそれを裏づけているのではないだろうか。
したがって、『僕の居場所』というタイトルは相当つらいタイトルではないだろか。
主人公を演じたカズ祥さんは、声のトーンといい、繊細で追い詰められている感があって良かった。
満足度★★★★
とにかく面白くって笑って、楽しんだ。
今までありそうでなかった視点、角度を少し変えた視点からの観察力が、この劇団の特色であり、強みであろう。
ホントに上手い。
シットコムの前提条件を笑いにするのは、誰でもが考えつくであろうし、それを作品の中で取り上げたものもある。しかし、これを公然と(笑)全面に打ち出した作品はなかったのではないか。しかもシットコムを得意とする劇団が、だ。
もう1本も「お得意」の「屁理屈」が炸裂しつつ、「パクり」とか「リスペクト」とかいうあたりを上手く見せた。
ネタバレBOX
いきなりの展開に大笑いした。リアルタイムで進行させ、観客の気持ちも乗せていく上手さがある。さすがだ。
観て気がついたのは、この作品で突っ込こまれていること、つまり、「いくらなんでも、それ見えているじゃないか」ということも含めて、コメディとして楽しんでいるということ。
出会ってはいけない者同士が互いに見えているのに、「見えていけない」という演劇のルールに従っているだけであって、実は、そういうウソも含めて、シットコムとして楽しんでいたということに、気づかされた。
なので、この作品の突っ込みは、観客の誰もが思っていることなので、合点がいき、笑いやすいのだ。
いかにもありそうな「翻訳モノのコメディ」っていう雰囲気もいいねー。
だから一見、シットコムを上演するアガリスクにとって禁じ手のようなこの作品は、「そのことを熟知している」アガリスクだからこそ、出来たことであろう。
今回の上演は、『七人の語らい(ワイフ・ゴーズ・オン)』と『笑の太字』の2本立てであるが、これはシットコムに対する、アガリスクの考え方の表明ではあり、別角度から見たコメディの考え方であると思うのだ。
ラストを、変顔でシツコク笑わせる、「最後、それで笑わせるのかよ」という、シットコムに対しての、卑怯な感じの出し方も上手い。
ただ、残念なのは、もうひとつシットコムへの愛情がストレートに出ていなかったことだ。
ラストは、いかにもこうしたコメディにありがちなオチを見せたが、そうではなく何かアガリスクの考える、気の利いたオチが欲しかった。
それがないので、単にシットコムにありがちの、突っ込みどころを、突っ込みました、になってしまっている。
『笑の太字』は、見事に「笑の大学」のパターンを踏襲しながら、アガリスクらしい、いつもの屁理屈(笑)が展開される。
「ああ、そういえば、三谷幸喜って、そうだったな」と気がつく。
「同業者」として感じるどころがあったのだろう。笑いの中に、主張というか、考え方を表明している。
たぶんこの作品も「屁理屈」が展開されるのだろうと思っていたので、ホンネを言えば、屁理屈と言えば、アサコシさんなので(笑)、彼のチームを観たいと思っていたのだが、スケジュールが合わず、Bチームになってしまった。
しかし、甲田守さんがとてもいいのだ。アサコシさんのような屁理屈顔(失礼・笑)をしてないので、真面目な学生が考えてきた、という感じになっているのだ。しかもその表情からは「何を考えているのかがうかがい知れない」のだ。
だから、指導教官の困惑にうまくつながる。津和野諒さんもこれには対話しやすかったのではないか。
指導教官を演じた津和野諒さんもとても良かった。学生を演じる甲田守さんの台詞に対して、とてもいいタイミングとトーンで突っ込むのだ。とてもいいコンビネーションである。
なので、指導教官が、徐々に学生の屁理屈に引き込まれていくさまも納得度が高い。
この2人の組み合わせを選んだ演出の巧さがわかる。
コンビが異なれば、また違う化学反応があることを感じさせる。これはもう、他のチームも観たくなってしまうのだ。
残念なのは、わずか45分の作品で、そこまでは1シーンでリアルタイムに進行していたのが、ラスト近くになって、2回も暗転を入れたことだ。これはあまりにもカッコ悪い。
また、最後にもうひと笑い欲しかったのはわかるがオチ自体がイマイチ。
このオチではあまり納得度も低く、あまり笑えない。
満足度★★★★
『いつまでも私たちきっと違う風にきっと思われていることについて』とは、作中のキャラクターたちのことだろう。
この作品に限らず、すべての創作中のキャラクターたちは、観客の目にはいつまでも、あるいは「いつも」違う風に見えているのではないか。
その「違う風」を作品にしたのがこれなのか。
ネタバレBOX
ジエン社は好みだが、いつも感じる気持ち悪くなるほどの「断絶感」がこの作品にはないのが残念。
だぶん、たぶんだが、山本陽介さんはキラキラした目でロロの作品を観て、そしてこの作品を作ったから、リスペクト度が高すぎて、いつもの感じになれなかったのではないだろうか。
ロロのオリジナルは知らない。
(たぶん)戯曲を読んでもその「空気」は伝わらないので、やっぱりわからないだろう。
山本陽介さんの熱は残念ながら伝わってこないが、作品自体は面白い。
結局、みんな自分に向けて語っているだけ。それは実生活でもそうに違いない。
ウソは自由であり、能動的であるということ。
現実は受動的。
「まなざされる」ということ。
満足度★★★★★
さらに現代にアップデートされた『東京ノート』
ネタバレBOX
『東京ノート』の舞台設定は、美術館。
これをけたたましい身体の動きと高速回転の台詞が印象のミクニヤナイハラプロジェクトが取り上げるという。
さぞ美術館にいるほかの人たちが迷惑なことになるだろうと(笑)思いつつ、「静」の『東京ノート』と「動」のミクニヤナイハラプロジェクトの化学反応を楽しみにしていた。
『東京ノート』の底にはなんとも言えない不安感がある。
戯曲にももともとある感覚だ。
PM2.0のように見えないそれは、登場人物たちを覆う。
しかし、ミクニヤナイハラプロジェクトではそれが具体的に「見えて」くる。
時代の不安感とともに、個人の不安や不快さがリンクしていくのだ。
不安が高まり過ぎての、異様なテンション。
乱暴で、暴力的とも言えるテンション。
床に投影される文字は、「本音」のようで、実は匿名のネットの書き込みのように、自己の感情を自分がさらに増長させているようだ。実際に自分が感じていること、思っていることよりもより過剰になっているのではないか。
感情の拡散は、エントロピーをさらに増加させつつ、怒りや嫌悪の感情に注ぐシステムとなっている。
ネット社会の歪さを表せているのではないか。
過剰な動きと高速の台詞は、本当は取り澄まして美術館にいる人たちの内面を露骨に抉り出していたようだ。
同時多発の台詞は、もともとの戯曲でもあったのだが、この作品ではそれがさらに過剰になていた。観客は、意識してだけではなく、無意識の中で、自分が聞きたい台詞を聴いているのに違いない。
したがって、全体に漂う感情の受け方も観客それぞれだったに違いない。
満足度★★★★
上手い人が演ると面白い
それは、当然のことなのだけど。
椿組と言えば、テント公演、群衆劇の熱さ、
なのだが今回は4人芝居。
ネタバレBOX
別役実の脚本ということで、少し悩んだ。
別役実の不条理劇が「これぞ演劇!」みたいな感じがあって、妙に古くさく感じて好きではないからだ。
繰り返し上演されるところを見ると、演じる側、演出する側からは、別役実の戯曲は結構気持ちいいのかもしれない。
椿組は夏の風物詩となった花園神社のテント芝居のイメージがある。
大勢の役者が出てきて、熱い芝居をするというイメージだ。
今回は4人芝居。
冒頭、傷痍軍人らしき2人が登場する。
このやり取りがかなり面白い。
それは辻親八さんの「声」から発せられる押し出しの良さにあるのではないだろうか。最初は座ったままで布を被されていて声しか聞こえないのだが、その「声」がいい。相手をねじ伏せる強さがある。それを受ける木下藤次郎さんの弱っぽい感じがまた上手いのだ。
だから、不条理感の前に、リアルが立っていた。
2人の会話が絶妙なのだ。
4人芝居のはずだが、なかなか出て来ない夫婦のコンビネーションがまたいい。
辻親八さん演じる男の両親だと言う夫婦が、2人の傷痍軍人の間では「上」にいたはずの辻親八さん演じる男の、その上に立つのだ。
有無を言わさず辻親八さん演じる男を倒しあっという間にねじ伏せてしまう。それは強い言葉や語気ではない、すっと相手を倒してしまう夫婦の畳み掛け、浴びせる台詞の上手さなのだ。そしてそれを浴びて微妙にトーンダウンする辻親八さんの演技のバランスが絶妙なのだ。
母親役の水野あやさんの「母親」的な迫力がとても上手い。
鍋焼きうどんを突っつく細かいやり取りがまた面白い。
正直、ラストは「なんだかなぁ」と思う戯曲ではあるのだが、この4人の役者さんたちの演技を観ているだけで楽しめる舞台であった。4人のバランスがとってもスリリングなのだ。
戦争で死んでしまった者、生き残ってその男の体験を自分のものとしてしまう男、さらにその男に付いて回り、戦争に行ったわけではないのに、自分の体験とし、傷痍軍人と偽って生きる男。
彼らを、まるで罰するように現れた夫婦は、男たちの幻だったのか。
死んでしまった者には「生きていることの実感」=舞台の上の男にとっては「痛み」「苦しみ」は、ない。ましてや便意を堪えるものであるはずもない(この不条理的設定が個人的には鼻につくのだが・笑)。
2人の男たちの前に現れた「両親」を名乗る夫婦は、戦争で命を奪われてしまった者の「無念さ」を訴えていたのかもしれない。
傷痍軍人の男は、夫婦がいつか現れることを予感していたのではないだろうか。自分の苦悩の終止符を打ってくれる2人の到来を、だ。
……鍋焼きうどんの匂い、空きっ腹に応えた(笑)。
満足度★★★★★
芸術家にとっての「桜の園」はもうない
それは伐採されゆく運命にある。
上演時間260分!
休憩20分込みだが、実際には270分を超えたと思う。
いわゆる「お通夜の席」での出来事。
まあ、日本でも映画や演劇でよくあるやつだ。
ネタバレBOX
主人公が体験した一夜を軸に「芸術家」と呼ばれる人々の触れてほしくないのに触れなくてはならない「場所」が、痛みを伴いながら語られる。その「痛み」を感じる人が「芸術家」なのかもしれない。
ガラス張りの大きな箱が舞台中央にあり、それが回転することで場面展開をしていく。
あたかも彼ら「芸術家」たちが、ショーケースに入れられて衆人環視されていることを表しているようだ。自己顕示欲と相反する状況。
その中で彼らは「芸術家」でなくてはならない。「芸術家」とは何者なのか。「芸術家」として存在するには。
知人の死を悼む、いわば「お通夜」の席で痛々しく剥がし、剥がれてされていく。
日本の映画や小説、舞台にもよくある手法である。亡くなった人について語るうちに、感傷的になりさらにアルコールの酩酊と疲労によって、言わなくていいこと、本音が飛び出してくるアノ瞬間である。
芸術を志し死んだ者についての「幸不幸」は、「芸術」と切り離して語ることはできない。したがって、つい芸術家である自分たちの姿と重なるのではないだろうか。
特に自分たちの不幸と。
だからより感傷的になりやすく、亡くなった彼女をよく知っている者にとっては気分を害する内容となり、さらにその話が自分に及ぶことになってくる他の芸術家にとっては、自己を守るためにさらなる言葉を尽くすことになる。
主人公は常に芸術家たちの話から離れ、観察をしているように描かれているが、実際は、彼も彼らと似たようなことを話していたに違いない。
小説にするにあたって、自分だけ「安全圏」に置いたように見えてしまう。
そして、自らを語らせるのだが、それは自分のことではなく「芸術家たち」のことであり、少し卑怯だなと思ってしまう。
後半は互いに自分の傷を見せ合い、そして相手の傷をえぐっていた彼らにとって恰好の標的がやってきた。
「国立劇場」という大きな後ろ盾を持った役者に、「私」である作者は(この小説の中で)どうでもいい自慢話をさせ、俗物として描く。
彼は集中砲火を浴びることになるが、それはまた不安定な地位と収入の自分たちの「妬み」であって、それが自分たちに降りかかってくることになるのだ。
自傷し傷つけ合う芸術家たちには出口はなく、自らの「芸術」で落とし前をつけようとするわけではない。
それは「年齢」が関係するのではないか。
主人公があとで若い2人の作家を褒めるのはそういうことではないか、とも(2人の作家は、ジェイムズとジョイスだったような気がするが聞き間違い?)。
途中に回想として差し挟まる映像シーンがとてもいい。映画のようだ。このまま映像でずっと観ていたいと思ったほど(笑)。
台詞は、特に後半は「話し言葉」というよりは「書き言葉」の印象が強く、やはり小説で読めば面白いのではないか、と思ったが、小説で読むのもキツそうなので、このまま黙って椅子に260分座っていたほうが正解かもとも思った。
主要登場人物のほぼ全員が(女主人を除く)、必ず激し、激しい口調で台詞を言うというのは、平板になりがちな作品の構成を考えてのものなのか、あまりにも順番で各1回ぐらいあるのには、残念感があった。
まあ、それがないとこの上演時間だと厳しかったかもしれなのだが。
気がつけば前半の休憩になり、後半も実際の時間よりは体感時間ははるかに短く終了した。
どうやらこの時間を集中して観ていて、面白かったということなのだろう。
全体を見終わった後も、思った以上に疲労感はなく、徒労感はまったくなかった。
正直に言えば「面白かった」ということになる。
字幕上演の常なのだが、字幕と役者のリンクが悪い個所がかなりあった。
特に劇場のことについて国立劇場の役者とやり合うシーンは、まったく字幕なしで進んでしまった。
しかし、何をやり合っているのかは、会話のきっかけでなくとなくわかっていたのだ、「まあいいか」と思った。それよりも彼らの演技の凄さを感じることができだのだ。
字幕を追うことで、ストーリーのことばかりに気を取られていて肝心の役者をきちんと見ていなかったようだ。
映像のシーンは映画のパターンなので、そういうことはないのだが、字幕は出る位置との関係もあり、なかなか不自由なものなのだ。
改めて役者の演技を見ると凄いのだ。
全身でなり切っていて全身から感情と台詞が出ている。
主人公の演技も素晴らしいものであった。
ひょっとしたらきっかけの台詞のある部分だけを抜き出して字幕にして、あるいは国立能楽堂の字幕のようにその場面のあらすじだけを字幕にして、あとは舞台の上に集中させほうがいいのかもしれない。そうでなければ、イヤホンガイドによる吹き替えとかのほうがいいと思う。たぶん台詞の1つひとつがわからなくても(文字数の制限などもあるから、字幕にしたところですべてを訳しているわけではないだろう)、演劇に関しては楽しめるのではないか、とも思った。
舞台の上で、ふいにする人の変な声(最初は前のほうの観客が発しているのかと思っていたが)、口からつい洩れてしまう吐息のようだったりため息のようだったり、鼻歌のようなものだったりする「声」が、とても気持ち悪く、不安と不快を表現していた。特に主人公が発していたようだ。
ときどき点灯する客電も、舞台の上の彼らの姿と観客の姿を、強制的に重ね合わせるようであり、それは左右前の観客がなんとなく見えているように、暗闇に隠れ守られていたはずの自分も見られている感覚が強く働き、身じろぎもできないような不快で不安なものであった。
こういうシカケが上手い演出なのだと思った。
セットは、先に書いた中央の箱と、その背景にある町並みがある。これが単なる書き割りではなさそうで、この出来の良さにも驚いた。
「伐採」は「伐採の音」という字幕も出ていたが、彼らの背景はその町並みからいつの間にか煙る森の中にあり、これが伐採されるのだということを暗示させられる。
伐採されるのが、「桜の園」の「桜」であれば、彼らにとっての伐採される運命の「桜の園」は「芸術」であり、その安住の地はなくなっていくものであることと、「カネ」に変わっていくものということ暗示していたのではないか。
それが主人公にとってのジレンマであり、芸術家を常に悩ませる命題でもあろう。
彼ら老芸術家にとっての芸術は、ノスタルジーの中に花咲いていた栄華であったということだ。
若い芸術家や、彼らの芸術家たちのパーティの場から怒りとともに去った者にこそ、新しい芸術が生まれるのではないかということも示唆していたように思えた。
ラストの「これを書かないで」と女主人が主人公に言った台詞には笑ったが、老芸術家である主人公が生き延びる方法として、悩んでいた彼が結局「この状況が面白い」と気づき、それを小説として書くことになったというとは、とても興味深い。とてもしたたかであるのだが、頭でっかちに「芸術とは?」「芸術とは!」と悩んだり口角泡を飛ばすのではなく、「書きたい」という「初期衝動」に駆られて芸術は生まれるものである、という結論にも見えた。
そして、彼らに小説で与えた「痛み」が、彼らの「芸術」の根幹にあり、その「痛み」をきちんと感じることのできる人が「芸術家」なのかもしれないということなのだろう。
そして、私にとっての「桜の園」は何なのだろう? ということにも考えが及びそうだ。
満足度★★★★★
MUはJoy Divisionなのか、New Orderなのか
初演は予約していたのだが、風邪をひき、咳が酷いので断念した。
その後、「いつものMU」の感じをあてはめながら戯曲を読み、ニヤリとしながら観に行けなかったことを悔やんだ。
そして、まさかこの作品が再演!
作・演のハセガワアユムさんによると「リブート」的で、ある意味、ここまでのMUの「集大成」であるという。
期待は高まるしかない。
(以下ネタバレボックスですが、思いつくままに書いてしまったので、とんでもない長文になってしまいました)
ネタバレBOX
連作4話構成。
短編と中編作品に定評があるMUだけあって、それぞれのまとまりがとても良い。
そもそも短編作品というと、つい「オチ」に集約させてしまうものが多い中で、MUは良く出来た短編小説的な世界を広げ、きちんと人を描いていく。
その中には、独特のネジれ方とアイロニー風味が必ずある。
今回の作品でも4話ともにそれが上手く発動していて、見事である。
それぞれの幕切れの個所とタイミングが、スッパリしていて気持ちがいい。
「いかにも」というところ(役者がドヤ顔的な顔をして「いかにも」な台詞ではなく・笑)で幕切れにしないところが、上手く余韻を残す。
舞台の外では狂犬が徐々に増えていき、大変なことになりつつあるという様子と舞台の上の出来事の悪化がリンクしているのも上手いなと思う。外の出来事を観客に想像させるやり方も上手い。
登場人物たちに「余裕」がなく、何かについも急き立てられていて、自分の正面しか見ていない(見ることができない)。客観的に見ているのは観客だけ。観客には登場人物の行動が滑稽であったり残虐であったり、理解不能であったりする。
それは彼らが「狂っている」わけではなく、狂犬病のように伝染していくわけでもない。観客を含めて「普通の姿」なのだ。普通の姿が「狂っている」ように見えてしまうほど、余裕のない世界に生きているのかもしれない。
今回の作品で特筆すべきは「座組の良さ」ではないだろうか。
役者たちのバランスがとてもいい。それは『狂犬百景(2016)』と言う作品においてのバランスである。
主人公を最上段に据えたヒエラルキーがあって、主人公に対するカウンター的なキャラがいて、なんて風にはなっていない。
短編連作でそれぞれにクローズアップしたい主人公やキャラがあるだろうが、そこをあまり強く押さないし、役者も出たいところをうまく抑えているように見える。
しかも、作品全体は、全体的に上手く抑制が効いていて、非常にクールな顔をしている。
台詞がリズムに乗ってポンポンいくような感じではなく、どこかオフビートである。
その台詞のビートがMUらしくて面白い。
一部の役者を前に出し過ぎないこと、台詞をテンポだけで見せないことは、作品に強弱をつけにくくなるのではないだろうか。それはメリハリがなくなってきて冗長になってしまう危険性があるのではないか。
ところがこの作品では冗長になることもないし、途中で気持ちが削がれることもない。4話がそれぞれ暗転で繋がっているにもかかわらずにだ。
そのあたりの演出が上手く機能しているのと、役者がそれぞれの作品の中で立っている場所を理解しているからだろうと思う。
MUは劇場以外の場所で観客と至近距離で上演することが多い。
今回、星のホールは結構大きいし、普通に劇場である。
至近距離での上演は、役者の熱量が伝わりやすい。だから熱さのある演出だったが、今回はサイズが違い、観客は「客席」から観るという構図ということもあり、この抑制の効いた演出だったのではないか、とも思った。
第3話の「漫画の世界」での、犬殺しの元ボクサー橘あたりは、大塚尚吾さんという肉体を持った俳優さんが演じることで、凶暴なキチガイにもできたものをそうしなかった。そうしないことで、観客は彼の内面に触れたような気分なるのだ。実はそろそろ辞めたくなっていて、「狂っているか?」と自分のことを聞く彼に、漫画家の田崎が「そう聞くやつは狂っていない」という台詞がとてもすんなりと入ってきて、さらに彼を形作る。
普通のおっさんのような編集者の西田が、橘が集めている犬の爪が入っている瓶を空けたときに「いい匂い」という台詞は、すでに第1話を観ている観客にとって、それは「臭い」ものであるということを知っているだけに、彼の普通ではなさが一瞬で現れたシーンであって、そこを強調しないところが、また上手いのだ。
漫画家とその仲間たちが家に侵入した犬を片付けて部屋に戻ってきたシーンでも、彼らがはしゃぎすぎることなく、身体の内側で喜びを感じているという表現があることで、彼らの内側にこもっている熱と残虐性を感じさせる。まるで犬殺しが、彼らのダウナー系の薬のように。
ここがあるから最後の第4話で明らかになる彼らの姿が効くのだ。
第2話の「グッドバイブレーション」では、専務がキーパーソンになるのだが、彼を特殊なキャラにしなかったことで、第2話の収まりがうまくついたのではないだろうか。落ち着いた印象で優しいおじさんが渦の中心にいることで。
第4話では第3話で登場した彼らが爪を剥がされた悲惨な姿で現れる。
(集めているのが「爪」ではなく、犬なんだから「犬歯」とかだったらどうかな、とも思ったのだが。痛そうだし、「歯には歯を」にも合うし。合いすぎるか・笑)
犬殺しの彼らに罰を与えているのだが、先の第3話で彼らの行為が酷く狂ったものであることは十分にわかるのだが、「相手は狂犬だし」という感情もわく、それは第3話での彼らの描き方もある。さらに彼らに罰を与えている深谷は、明らかにやり過ぎで引いてしまう。
この、どちらにもまったく共感を生まない対立のさせ方は、暴力に暴力であたる無意味さを如実に表している。
深谷を演じた古屋敷さんは、カメラマンの立場から漫画家たちのカバンを暴くところ、動物愛護センターで働いているところで、顔に陰を落として目に変な光を輝かせるあたりは、なかなかだと思う。MUでは、いつもこんな自分の思い込みに囚われる役が多いような気がするが、そういうのめり込み方のネジれ方がいいのだ。
ライターの元カノの目のアザも気になる。
ライターがいい感じで自分の言葉・考えにのめり込んでいくことで、深谷の変な感じが上手く消されていて、という視点の切り替えの上手さも感じた。ライター役の青山祥子さん、ぐいぐい来ていて、この人の目の輝きもとってもいい。飲み込まれて圧倒される。MUにまた出てほしい。こんなネジれた役だとは思うけど(笑)。
第4話ではそれをさらに上にいく、動物愛護団体に所属している久保がいる。久保を演じているのは黒岩三佳さんで、彼女ののめり込み方も凄まじい。
第1話で元カノとして現れてきて普通に元カレに寄付を頼んでいて、特に変なところはないのだが、なんか「恐い」。今回のフライヤーに彼女がドーンと写っているのだが、「恐い」のだ。
(1話で元カレに突っ込みの手が入るのだが、このタイミングの良さはさすが、あひるなんちゃらで鍛え抜かれた黒岩さんである、と感心した)
第4話で彼女はさらに恐くなっていて、モダン・ホラーそのものだ。
自分の信じていることを疑わない深谷と久保の2人の会話は、相手に向かって話しているようで、言葉は自分自身に向かっている。
この2人の会話がいい。
第1話と4話で登場する佐々木なふみさんの振り幅も見事。やっぱり安定していて上手い。ほかの女優さんとはまったく違う空気があるから、大人数が登場するときのMUには欠かせない人なのだろう。どうやら1話と4話では別人のようだが、一緒でも良かったのではないだろうか。子どもが出来てから別人になって、なんていう設定でも。
第3話で登場する漫画のアシ役の沈ゆうこさんは、実家のアガリスクでは優等生的なイメージがあるので、オタク的な感じからの、あのさらりと言ってのける発言がいい感じにネジが外れているんじゃないかと思わせる。短い登場時間と台詞なのに物語にきっちりと爪痕を残していた。
あと、第2話の女子社員同士の無言のキャットファイト、笑った。こういう細かいところが面白い。
第4話後のカーテンコールで登場人物たちがすべて舞台の上に出るのだが、彼らが拍手の中立ち去る後ろ姿を見て「あれっ、こんなに出てたんだ」と思った。
つまり、客演がほとんどという作品で、いいバランス座組を作り出していたことに驚かさせるのだ。こんなに多くいて、きれいに整理されていたということを。まるでイコライザを使って音のレンジを調整するように、演出家が舞台の上ある感情や盛り上がりの上下をうまくコントロールしていたようだ。
ついでに書くと、当パンには登場人物たちの年齢まで書いてある。これ見ながら舞台を思い出すとまたちょっと面白くなったりする。
台詞の細かいところにとても注意を払って戯曲が作られているのがよくわかる。
文字面ではわからないタイミングの妙が舞台の上にある。
シリアスなのだが、笑いは結構ある。
クスクス笑いが多いのもMUらしい。
第3話の「オザケン」とか、第2話で腕に怪我をした岸の写真を撮るときの「笑顔はいらない」とか、第2話の「俺を踏み台にして行け」「(ペットボトルを出されて)そっちじゃないほう」とか(笑)。
パンクの終焉に、彼らが外に向かって吐き出していた暴力的なものが内向し、彼らが内向していた内省的な感情が外に出てきたバンドが、ヨーロッパを中心にいくつか出てきた。
その中の1つが「Joy Division」だ。
「いかにも」なバンド名とサウンドはリスナーも内省的な気分にさせる。「いかにも」のバンド名やカッコ良すぎのジャケットデザインは、「つかみはOK」で、その意味「ポップ」でもある。
中心メンバーのイアン・カーティスが自殺したあと、残ったメンバーで組んだのが、「New Order」だ。
New Orderの最初のアルバムを聴いたときに「あれっ?」となった。
シンセのリズムが強いのだ。
明らかにポップ。
「Joy Divisionと違いすぎるじゃないか!」と思ったら、メロディの切なさが効いた曲調であり、Joy Divisionに戻ってみるとボーカルの強い印象の陰には、やはり切ないメロディが鳴っていたことを発見する。
そして、New Orderのダンサブルな曲の裏側には「陰」がある。
MUは「狂犬」とか「ゾンビを狂犬に変えて」とかというあたりは、Joy Divisionのバンド名やジャケットワーク的な、(Joy Division的)ポップさを感じる。
そして作品自体については、今回は特に「主人公(たち)」の前面に押し出さなかったあたり(個人より作品を前に出した)が、イアン・カーティスなきNew Orderであり、New Orderの入口のダンサブルに似た口当たりの良さと、良く聴くと「陰」があるというところがNew Orderっぽい。
ポップで口当たりはいいのだけど、グロさ(人間そのものの行為のグロさも含めて)を前面に出さずに、観客に「その人それぞれの中にあるグロさレベル」で感じさせる上手さがある。聴く者に感じさせ方を違わせる。
つまり、公演の楽しさを味わう(ダンスビートに踊る)もよし、裏のグロさに思いを馳せるのもよし、というところではないか。
Joy DivisionとかNew Orderとか出して、結局何が言いたかったのか、わかんないか(笑)。まあいいや。
で、この作品が「(ここまでの)MUの集大成」であるのは間違いない。
今までの公演で培ってきた作品へのアプローチ方法がうまく活かされているだけではなく、単にそれらを大きな場所で上演しただけではない。それらを1つの完成型として高めた作品であったと思う。
こうなると「MITAKA “Next” Selection」後のMUにも期待せざるを得ない。
あ、そうそう、セットや装置のセンスも抜群だった。
満足度★★★★
重層世界への広がりと視点の転換にアマヤドリの良さを見た
なぜだか初演を観ていない。
なので、初『月の剥がれる』。
一見とてもストレートなテーマなのだが、答えがそこにあるのではなくきちんと考えさせるところがアマヤドリだ。
19時30分からスタートで上演時間2時間30分のアナウンスには、エエッとなったが、最後の最後まで目を惹き付けた。
また長文になってしまった。
以下ネタバレボックスヘ。
ネタバレBOX
フライヤーの出演者を数えたら27人もの登場人物がいるわけで、その人数を登場させ1つの方向へ演出する力は並大抵のものではないと感じた。
ただ、どうもキレがあまり感じられない。いつもはビシビシと決まっていたのに。
きちんと描きたいという想いからつい盛り込みすぎたのではないか。伝えたいことに対しては言葉を尽くして、役者を観客に向き合わせてじっくりと見せたかったのではないか。
その気持ちはわからないでもないが、逆に疎かになってしまったところはないだろうか。
演劇は、小説ではなく、戯曲を読むことともイコールではない。
当然のことだが、生身の人が演じることで文字だった台詞に「意味」をもたらす。
極端なことを言えば演出によって台詞の「意味」だって変わってしまう。
「文字の固まり」の戯曲では語ることができないものを舞台の上ならば語らせることができるのが演劇だ。
しかも「言葉で語ることができない何か」「戯曲作者もそれがなんだかわからないモヤモヤのようなもの」をそこに込めることができる。
そして、その送り出された「モヤモヤ」と観客が受け取る「モヤモヤ」には差が出来てしまう(これは演劇に限ることではないかもしれないのだが)。さらに演出家(戯曲作者)と役者との「モヤモヤ度」や解釈の違い、齟齬も生まれるだろう。しかもそれらが「生」で訪れるのが演劇だ。
その「生で訪れる」「差」や「齟齬」も含めて演劇であり、そこが演劇の面白さでもある。
アマヤドリ(ひょっとこ乱舞)の舞台にはそんな面白さがある。
つまり、観客には「劇団」(演出家・戯曲作家・役者)からの「モヤモヤ」まで繋がっている糸を探すために、舞台の上で行われていることを解きほぐしていく楽しみが常にあるのがアマヤドリの作品ではないか、と思う。
非常にまどろっこしく書いたが簡単に言えば、「舞台を見終わってから、あれってこうだったのかな、と考えながら帰るという楽しみを与えてくれる」ということとも言える。見終わって「ああ、面白かった」だけで終わらない楽しみがそこには広がっている。
こういう見方は私個人の見方なのかもしれないが。
さて、この作品についてそれはどうだったのだろうか。
「もやっとした部分」を整理するために、いったん引いた世界、つまり学校のある世界を設定したのではないかと思った。
なぞの転校生との関係が散華の結末(物語の結末)を表している。そんな関係だ。
「命」を巡るストーリーであり、散華のエピソードは「命」を「数」や「道具」としてしか見ていない。そこに散華という団体の問題点や限界がある。
「死ぬ人、1名」とカウントしているからこその樹海でのスカウトだ。
しかし、ラストに至り「命」は「生命」であり、連綿と現在まで続いていているもので、さらにさらに続いていくものだという展開が見えてくる。
その価値観の転換の上手さに「あっ」と思った。そして少し恐くなった。
そして、散華のリーダーだった男の妹がどうしたのかが見えてくる。
つまり、「いたはずの転校生」がラストでは「いなくなってしまう」、つまり妹は自己矛盾をしながらも散華に対して自らの命を引き替えに止めようとしたのではないか、ということだ。だから「生命」の連続が断ち切られてしまったのではないか。
朝起きると世界が変わっていると言う女子学生の台詞とも繋がっていく。
「自分がいなくなる」ということではなく、過去との繋がりの中で「世界が変わっていく」ことの恐怖。価値観の変化は実は恐ろしい。世界を破滅に導いていたのが
戦争だけではなかったという恐怖も冒頭とラストからうかがえる。
彼女の台詞が2度あることで「繋がり」を意識させられる。
過去と現在というリンクの中で、「現在はどうなっているのか」が見えない。「怒りを放棄した世界はどうなっているのか」がわかるとさらに世界が広がったのではないか。
自殺をしようとしている女性の位置づけも上手い。これで散華の正体が少し見え、それだけでなく彼女のその後の台詞により、もうひとつ散華の世界の外側と内側(内面)を描いたのではないか。
散華という団体の行動だけでなく、さらにその世界から視点を引いていくことで、さらなる世界を見せ、「命を引き替えに戦争(人を殺すこと)を止めさせる」ということだけでないテーマへも、深さを増して見せてくれたのではないかと思うのだ。
このあたりのダイナミックさと視点の移動がアマヤドリならではであり、見応えがある。
ただし、先に書いたように疎かになってしまったところがあると感じた。
1つは散華の実質的なリーダー・羽田。彼はもと証券マンだったらしい。それもたぶんやり手だったのだろう。彼が本音では何を目指してるのかが、どうもつかめない。ネットで散華のアイデアを知り、彼の豪腕で団体を立ち上げ大きくしていった。そして内部からそれを破壊しようとする。カネが動いてそこが彼の目的かと思えばそんなところは出てこない。彼に賛同しているクラッチバッグを手にしているスーツの男は十分に怪しいのに。そこが見えて来ないので、散華自体の意味合いがきちっと頭の中にはまってこない。
さらに、下手にときどき座っている袴姿の女性がよくわからない。彼女は過去の人らしいのだが、明治〜大正時代っぽい。当日パンフ的な相関図を見ると名字が同じで繋がりがわかるのだが、いまひとつ判然としない。教室での議長的発言があることや、九条に重ねた「怒りの放棄」で過去と現在(教室のこと)との関係はわかるのだが、どうもそのあたりがすっきりとしない。テンとソラといういい名前があるのに、それが人物相関図の中だけなのがもったいない。というか何故そこの中だけなのか。
時間をかけて広がる世界を描いているのだが、この2点はストーリーの土台に位置すると思うだけに、つかみ切れなかったのは残念だ。
あと、ジャーナリストの設定はなくてもよかったような気がする。取材により語る姿などは演劇なのだから「自分語り」がいきなり出てきても違和感は感じなかっただろう。
オープニングとラストの飛行機のシークエンスは9.11を思い起こさせる。炎に包まれるビルと焼身自殺を遂げる散華のメンバーの姿が重なる。
そして、子どもたちも死ぬ。
「戦争」ではなく「テロ」によって奪われる多くの命があり、これからはそれと見合うだけの散華に属する人の命を差し出さなければならないということなのだ。
大きな戦争でなくても、世界中で起こっているテロで多くの人が亡くなっているということも、ここのテーマに含まれているのだろう。
散華の命がいくつあっても足りない世界に我々は生きているということなのだ。
広田さんからの挨拶文によるとこの作品は、チベット僧の抗議が発端だと言う。私は見ていて、ベトナム戦争時に僧侶がアメリカ大使館前で焼身の抗議を行った写真を思い出した。「自分の命と引き替えに」という行動は気高くあるが、そこにある「死」すなわち「生」は、正しいのだろうかというモヤモヤも同時にわいてくる。それには答えはなく、そのモヤモヤが作品化されたのだと思う。
「死をもって…」ではなく「命を捧げて…」という「死」と「生」の発想の逆転があるのではないか。
散華という団体の行動は先に書いたとおりに問題点がある。「死」を「道具化」してしまったことだ。
僧侶たちの抗議の焼身はどうなのか、という重い問いかけがそこにはあるのではないか。
散華のメンバーたちがカウントしているような「他人の死」としてではなく「自分が死ぬこと」として考えることで、何かが感じることもあるのかもしれない。
アマヤドリという劇団は、役者の見せ場をストーリーの1つの山にしているようにいつも感じる。
そうした「山」は役者の姿と「台詞」によって形作っている。
ついも「ここぞ」というシーンでは役者の力を見せつけられ、惹き付けられる。
今回のこの作品で言えば、「そうしたシーンは、たぶんここではないか」と思われる個所がいくつかあったのだが、不発に終わってしまった感じがある。
シーンがぐっと立ち上がってこないのだ。
散華の実質的リーダーである羽田や散華の発案者である赤羽あたりには情念のような自分の想いを吐露するような台詞があっても良かったのではないか(台詞が立ち上がってくるようなシーンが)。それらが「山」となっていないと感じた。
そんな中で、唯一立ち上がってきたシーンがある。
兄と夫が散華に入ってしまった女性・朝桐が夫を止めようとするシーンである。
彼女がすべての登場人物の中で観客に近いところにいる。真っ当でそれが変な方向を向いてしまっている兄や夫に伝わらないもどかしさと哀しさが観客には理解しやすいということもあるのだが、舞台の上に彼女が1人立っているように思えるほど、役者と台詞がやってきた。
そうした「立ち上がる台詞(シーン、役者)」の少なさが、先に書いた「キレのなさ」に関係しているのかもしれない。
もちろん、そんなシーンばかり続いてもメリハリに欠けてしまうのだが。
そういう意味において、アマヤドリをよくわかっている笠井さんや渡邊さんの使い方は少々もったいないように思えた。
役者は前に書いたように朝桐を演じた小角まやさんがいい。いつも普通の真っ当な人がそこにいる。切実さが伝わる。
ザンヨウコさんの佇まいもいい。この味はほかの人では出なかったのではないか。
ダンスで舞台の上のリズムを生み出そうとしているようだったが、一部、せっかくの会話のやり取りをしているときに、ダンサーが前に出て台詞のやり取りから気が削がれてしまうところがあったと感じた。動いているから視線がそちらに奪われていまうのだ。視線が奪われればせっかく積み重ねていた台詞が脇に行ってしまうのではないか。
それと今回はユーモア(笑い)のパンチが弱かった。先生のところでそれが垣間見えたのだが、弱い。
アマヤドリ(旧ひょっとこ)フォーメーションと勝手に私が名づけた群舞は迫力がある。汗だくの真剣さが伝わってくる。蠢き混ざり合い、混沌と秩序を生み出していく「生命」を感じるフォーメーションだ。
満足度★★★
『門』はリーディングの演目に向いていたのか
別役作品は、とても狭い範囲しか見えてこない。
人物の背景などの広がりが見えてこないのだ。
たとえ設定が町や国であってもそう感じる。
ネタバレBOX
別役作品は、とても狭い範囲しか見えてこない。
人物の背景などの広がりが見えてこないのだ。
たとえ設定が町や国であってもそう感じる。
今回の作品でもそうだ。
舞台の上の半径1.5メートルの、スポットライトの当たっているところのみが世界のすべてではないか、と感じてまう。
この作品はリーディング公演だから、実際はそうではないのだが、男と門番の2人が舞台の上にする様を想像したらそんな感じだった。
たとえここに門のセットがあったとしても、門には気持ちがいなかないような気がする。
「家族」という言葉があってもその家族へ想像は膨らまず、「公務員だ」という台詞があってもその勤務先には気持ちがたどり着けない。
女が出てくるが、彼女も現れて、そこから出るとまるで存在しないようだ。
彼らの背景は見えてこない。
いろんなモノが削ぎ落とされている。
それが登場人物たちを所属不明にし、不条理の住人としているのだろう。
それが作品全体の印象を良くし、作品に集中させることもあるが、素っ気なさ過ぎると感じることもある。
今回は、広がりがないことが功を奏していないと感じた。
なので、台詞に取っ掛かりのようなものが見出せず、前半はただ見ているだけだった。
中盤以降、門番の吐露から感情が出てきて、歌が入り、さらに門番の感情が激しくなってくる。このあたりは面白くなってきたと感じた。
この作品は、男と門番の会話が肝であろうと思う。
台詞自体よりも、彼らの仕草や対峙の仕方にミソがあるのではないかと思った。
なので、リーディングの題材としては向いていないのではないかとも感じてしまった。