往転
KAKUTA
本多劇場(東京都)
2020/02/20 (木) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★★
初演からほぼ十年がかりで、面白い芝居ができた。三演目という。
東京から仙台へ向かう深夜バスが、たまたま荒天で横転事故を起こしたために乗り合わせた人々の人生を狂わせていく。乗り合わせ、というのは一つのパターンではあるが、そこに、現代社会の風俗、風景が面白く織り込まれていて、優れた現代劇になった。
技術的にも工夫が凝らされていて、見ていて、おや?とひかかったところは、後に見事に回収されていき、そこに、現代社会の断面が顔を出す。
長い間KAKUTAで芝居をやってきた桑原裕子らしい地道な努力が実を結んでいる。それを見て、俳優たちも集まってくる。今回は、なんといっても、峯村リエと小島聖。どちらも、小劇場でも、大劇場でもこなせる力のある女優だが、戯曲にこたえて現代を生きる女性を見事に演じている。いまの社会に確かにいる切なく生きる女性像だ。(忘れずに小島聖には今年の女優賞を上げてください!!)入江雅人もうまい。こういう中途半端な人間は演じにくいのだが、中年は寄る辺ない寂しい存在なのだ。俳優はそれぞれしどころで力を発揮して、本多の舞台が狭く見える。
思わぬウイルス騒動で客足にぶったか、八割の入りは残念だ。今年は「ひとよ」も再演するという。こちらは映画版で田中裕子の快演を見たばかりだ。楽しみだ。
Pickaroon!<再演>
壱劇屋
DDD AOYAMA CROSS THEATER(東京都)
2020/02/25 (火) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★
この「見てきた」批評でも、年間ベストテンでも評判がいい劇団というので早速拝見。
大阪の劇団はここのところ、iakuとか京都の劇団がいい舞台を見せてくれるので楽しみに見に行った。殺陣を見せ場にして、新感線が登場した時のような、東京にはない新鮮さのある劇団ではある。しかし、新感線登場におよばないのは、つぎの三つ。
まず第一に、芝居にドラマがない。これは詳しく述べるまでもないだろう。新感線の古い映像もDVDで出ているので、見てみるといい。七人というのを真似るなら演劇の基本〈7というのは娯楽時代劇のパターンだ〉も押さえてほしい。音でごまかしてしまうのはいかがなものか。
第二。殺陣は始めから終わりまで続く。体力には感心するが、パターンをもう少し工夫しないとただ賑やかだけで終わってしまう。中段の、階段を動かしながらの対立はよかったが、紙を使った殺陣などは何度も重ねられると、知恵が出尽くした感じで苦しい。昔から序破急というではないか。新感線も最初は走り回るだけと批判を受けたものだが、そのなかで、役者の個性的な肉体を立てて見せ場を作った。
第三.登場人物の衣装は凝っているが、それぞれの役の中身も考えないと。新感線は、ばかばかしいけど、よく工夫されていた。真似をせよと言っているのではない。役を考えておかないと、筋もつまらなくなってしまうということだ。敵役も単調だし、ヒロインのお姫様は、これではかわいそうだ。
熱量はあるのだから、腰を落ち着けて。新しい分野の2.5ディメンションなどの成熟にも挑戦してもらいたい。
社会の柱
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2020/02/21 (金) ~ 2020/02/26 (水)公演終了
満足度★★★★
現代劇はイプセンにはじまるといわれているが、19世紀の本は、さすがに古い。しかし、ここから始まる、という初々しさもある。新国立の俳優養成所の卒業生の修了公演である。
俳優と戯曲がともに、新しい世界に挑む船出につながって気持ちのいい公演になった。3時間の長い芝居で、主演の男優は声がかれかけていたが懸命に努め、度胸のいい女優もいる。優等生ばかりで端役も隙がないという印象ではあるが、セリフも動きも、技術的には安定している。
ノルウエイの田舎の港町の話だが、面白くできあがった。。
公演の趣旨とは違うかもしれないが、久しぶりに、のびのびとした宮田慶子の演出を見た。宮田演出は、やさしくいきとどいたタッチが女性演出家の中では傑出していたが、新国立でもみくちゃになっている間にしぼんでしまって残念に思っていたが、今回は基本を押さえながらも流れるように新人たちに舞台の動きもセリフも示唆している。宮田慶子、復調して快調である。新国立では、とんだ目にあったのに、新人養成には地道に力を尽くしていたことが分かる。活躍できる公共劇場も増えてきたので、改めて元気のいいお姉さんの活躍を期待したい。
ありがとサンキュー!
劇団青年座
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2020/02/19 (水) ~ 2020/02/25 (火)公演終了
満足度★★★★
宗教で生活している登場人物というのは、舞台ではどこか一枚フィルターがかかっていて,観客からは感情移入しにくい。難しい素材だ。
この芝居は宮崎のキリスト教会の牧師の家の百年紀だが、宗教色よりも生活感が強い。作者得意の宮崎の言葉も効果を上げている。普段あまりかかわることのない宗教で生活している一家の素顔が描かれる。戦後に一時流行した生活劇のような味がある。さすが青年座で、俳優陣は宮崎弁を、演劇の言葉にしていて、うまいものだ。しかし・・・・という前に。
個人的な感想になってしまうが、私は、宮崎出身でこの舞台のようなキリスト教を信じる大家族出身の方とある時期仕事を共にしたので、この舞台設定は理解できる。見ていると善意と自省の人だった故人(その方はもうなくなっている)が懐かしく思い出される。登場人物やシーンのリアリティはある。
しかし、引いてみればドラマのバランスが悪い。主人公(増子倭文江)の一代記、ないしはこの大家族の百年をやるつもりだったら、もう少し、長い時間の中で、相互のシーンの関連するテーマがあり(それはやはり、宗教と生活、ということだと思うが)、その葛藤がないと、生活感の面白さだけに頼ったエピソードの羅列になる。それでは、たとえば、休憩後の長い三幕は持ちきれない。
登場人物も多すぎて説明不足だし、百年を行ったり来たりする劇の時間も長すぎ、その処理も恣意的という感じをぬぐえなかった。
まほろばの景 2020【三重公演中止】
烏丸ストロークロック
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2020/02/16 (日) ~ 2020/02/23 (日)公演終了
満足度★★★★
京都の劇団の震災もの。京都の劇団というと、斜に構えたスタイルが多いが、ここはさらに一ひねり。幕開きはさらりと主人公の震災地の介護士(パンフは配るが出演者の配役が書いてないので類推するしかない。こういうところも京都風)が担当の知的障碍者を探しているという語りで入るが、中身はひねってある。骨組みはこの介護士が、震災後社会で、担当の知的障碍者とめぐるロードムービーである。
舞台の中央から奥には長い白布が何本も垂れ下がっていて、主人公と出会う出演者はそこから現れ、消えていく。障碍者の姉、自分の父、土着的な宗教者、いずれもこの社会の中で、本来は生きていく共通基盤となるべき人間関係が断絶していて、震災でその断絶が露呈している。風呂に入るというような生活の細部、障碍者を散歩させるという日常、生活宗教の過去帳や祭文など、生身の人間が理屈でなく接するところから、抽象的なドラマが組まれていて新鮮で、洒落ている。京都スクールらしいソフィストケイトが成功している。
舞台の影で演奏されるチェロを主体に日本の打楽器による演奏もいい効果を上げている。
1時間45分。劇団になじみがないせいか、入りは半分ほどで、もっと、入ってもいいと思った。
八つ墓村【公演中止(02/28(金) ~ 03/03 (火) )】
松竹
新橋演舞場(東京都)
2020/02/16 (日) ~ 2020/03/03 (火)公演終了
満足度★★★★
昨年「犬神家の一族」で劇団新派の新境地を開いた横溝シリーズの第二弾。脚本・演出は犬神に続く斎藤雅文。犬神は登場人物の人間関係も本格向きに複雑なのだが、要領よくまとめて、横溝作品の演舞場上演のスタイルを作った。
横溝正史のミステリは、謎解きがしっかりある本格味でファンが多いが、この原作「八ッ墓村」は伝記小説の色彩が強い。そこが犬神とは違う。
突然、実の父親が判明して、岡山の山村、一村全部という広大な遺産を相続することになる27歳の男(室隆太・関ジャニ)に沿って物語は展開する。物語の背後に、戦国時代の落ち武者惨殺の歴史や、ほぼ二十年前に起きた村民32人が惨殺された事件がある。犬神のような一家でなく、村全体がおどろおどろしい空気と人間関係に包まれている。名探偵金田一耕助(喜多村緑朗)も登場するが影が薄い。脚本は、巧みに原作追っていくが、芝居の本筋ががなかなか定まらない。端的にその処理の良しあしが舞台に出た。
遺産相続の連続殺人の犯人探しなのか、山村の伝奇ホラーものか。名探偵ものなのか。
登場人物と場所の紹介で一幕。事件の展開と解決が二幕になるが、鍾乳洞の中のサスペンスは、劇場機構をうまく生かして、八つ墓村の伝奇的雰囲気はよく出ている。反面人間関係は意外に淡彩にまとめていて,美也子(河合雪之丞)や典子は、えっつ、そうだったのか、という感じ。
新派といえば、八重子に久里子、うまく役どころを心得ていて舞台を締める。喜多村緑朗と河合雪之丞が立派になって、演舞場の大舞台が務まるようになった。残念なのは、室隆太。昭和中期の雰囲気がまるでないので、この劇団の中では浮いてしまう。
音楽に昔の映画の芥川也寸志の曲を使っているがこれがうまくはまっている。やはり、近時代劇なのだ。
横溝の世界は乱歩のようにもう過去のものだ。今回はその中のその中の伝奇性がうまく取り入れられていて、公演的には犬神の持つ謎解き本格性よりも新派には親和性があるかもしれない。しかし、現代で受けるには、もう一つ思い切った革新的工夫がないと難しい。そこは新派の役割ではないかもしれないが、この路線でも、新派の財産になるよう丁寧に育てていってほしいものだ。ユニークであることは確かだから。
酔鯨云々
文化庁・日本劇団協議会
ザ・ポケット(東京都)
2020/02/12 (水) ~ 2020/02/16 (日)公演終了
満足度★★★★
文化庁主催の戯曲新人賞の入選作である。
演劇界と官庁(政府行政機関)との間には長い確執の歴史がある。そのぎくしゃくぶりは、いまもパンフの裏にある主催者挨拶にも表れているが、演劇側も新劇団が軸となっている公益社団の劇団協議会が共同主催して、時代に合った関係を築こうとしている。
文化庁の旗印は時代の文化を創造する新進芸術家を育成する、となっているが、戯曲は上演されてこそで、戯曲が演劇にがなるまでフォローしなくては意味がない。
そこで、中野の小劇場を抑えて、劇団側も中堅の俳優を出し、演出もそこそこの若手でとにかく結果をと、やってみる。形だけは公共の文化振興の体裁だけは整える。
演劇の中の戯曲の在り方を知らないイベント化である。江戸川乱歩賞とはわけが違うのに気がっつかないふりをしている。
国立劇場でも、創作歌舞伎をもう何十年も新人募集しているが、その後使える本ができたという話も、いい作家が生まれたという話も聞かない。
本気で応募した人たちが気の毒である。演劇側からすれば、正直、十万円の賞金で、いいホンができるはずないよな、と思っているし、官庁もこれでは演劇界を懐柔できない、と思っている。それなのにだらだらと意味のないイベントを続ける。コンクールなら、民間の利賀村の演出コンクールのほうがはるかに打率が高い。
戯曲以外では実績が上がった仕事もある。国立劇場の歌舞伎の研修生制度は大きな成果を上げて今や、国立の研修生がいなければ幕があかない(ということもないだろうが)といわれている。新国立の俳優養成でもすでに確かな脇役は生まれてきている。それぞれのアーカイブも充実してきた。どれも幕内の専門家が深くかかわっていて、文化庁の小役人が「ご挨拶」したり、組織に口出し(天下り)していないからである。
戯曲に関して、文化を創造する新進芸術家のために「目に見える」事業をというなら、
帰りに、出口で、脚本を無料で配っていたように、小劇場で、観客に脚本を配る助成金を出す、というのはどうだろう。小劇場でもいくつかの劇団は千円で、脚本を売っている。売ってほしくない劇団もあるだろうが、舞台で上演した作品の戯曲に印刷代を助成する、というだけで、戯曲が広く市中で親しまれるようになるだろう。今回の作者の手元にも、書き始める前の段階で畑澤聖吾の「どんとゆけ」の台本は届いていただろう.そうすれば、今回のように、畑澤作品と同じようなシチュエーションの弱さがそのまま出てしまうようなことはなかったに違いない。
こういうところにも文化庁の「演劇という芸術」も、「興行や教育手段としての演劇」も全く分かっていないダメサ加減が現れている。
ねじまき鳥クロニクル【公演中止(2/28 (金) ~3/15(日))】
ホリプロ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2020/02/11 (火) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★
村上春樹は自分の作品は、小説であって、ほかのメディアの素材ではないと思っているにちがいない。ことに国内メディア(映画、テレビ、劇画化など)に任せると、国内向けにローカル化、歪曲化されるという不信感があってか、なかなか原作を提供しない。
国際的な制作環境で幾つかの映画・テレビ作品があるが、母国読者から見れば、エエッツという出来が多い。昨年は「納屋を焼く」(映画タイトル「バーニング」)が韓国で作られた(これは日本資本)が、ずいぶん違和感があった。世界的なベストセラーなのに成功しない。
そこが、ミステリのベストセラー原作と違うところだ。
しかし、演劇は、観客が日本にいる以上ここでやるしかない。口説き落として(だと思う)実現した「海辺のカフカ」(演出・蜷川幸雄)は日本の演劇界としては万全の布陣で制作(ホリプロ)、蜷川らしいケレンミ味のある大劇場向け演出も功を奏してヒットした。しかし、ここでも脚本はアメリカのフランク・ギャラティ脚色。昨年の「神の子どもたちはみな踊る」も同じギャラティ。原作を生かした脚色だった。演出は倉持功。
今回は座組が変わって、演出/振付/美術:インバル・ピント 脚本/演出:アミール・クリガー 脚本/演出:藤田貴大というクレジット。
原作を生かした脚色というのは変わらないが、今までとはかなり違う公演になった。地の文そのままではないが、それを生かした長い独白、セリフが多いのは、時間のねじを巻いて過去の物語を遍歴するという小説の仕組み(そこは「神の子どもたちはみな踊る」と似ている)を継承しているが、舞台ではコンテンポラリーダンスや音楽、舞台美術を大きく取り入れている。四角い箱と、ホリゾントに抜ける長方形の壁に囲まれたいい色彩の空間がベースになった舞台に、さまざまな場所から登場人物が現れる。幕開きから歌があるように、終始、リズム系を主体にした音楽が上手で演奏されている。随所に歌はあるが、かと言ってミュージカルではない。前衛劇のような趣向なのだが、曲芸的な見世物にもなっていて飽きない。
ドラマ的には主役の岡田亨〈成河・なかなかいい〉と隣に住む高校生が庭の古井戸の中に見るさまざまのシーンが展開する。岡田の妻久美子(門脇麦)の失踪の謎を解く、ということが物語の軸になっていて、時間は過去へとねじまかれていく。それは、個人と歴史の混在する一種の現実性のない抽象的な世界だ。ここで効果を上げているのは、人間の肉体の一部だけを見せるというダンスカンパニーの踊りの演出と踊り手の技術である。
この舞台、原作読者の気にいるかどうかは別にして、新鮮な面白い舞台作品としては楽しめた。だが、客の入りはどうだろう。カフカほどの大衆性はない。いまは満席だが、寝ている客も多い。
たまたま、この舞台、16列ながら劇場中央の席で見た。この公演では、正面から見て効果があるシーンが多く得をした気分、左右の席の方には気の毒な気もした。この際だから言ってしまうと、日本の大劇場では席の料金にもっと高低差をつけてもいいのではないか。ほとんどの劇場で最高の値段の席がそれに値しない席に対して売られている。ついでに言えば、一階に二等席がある歌舞伎座は、、やはり老舗だけに興業のツボを知っていると感心する。
野兎たち【英国公演中止】
(公財)可児市文化芸術振興財団
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2020/02/08 (土) ~ 2020/02/16 (日)公演終了
満足度★★★★
国を超えた共同制作というのはなかなかむつかしい。演劇は特に。
これが、日本人が海外へ行った話、とか逆に外国人が日本で経験するドラマとなると結構面白く仕上がった作品があるのに、共同制作となると、議論も随分尽くしているはずなのにぎごちない。きっと、共同で取り組むと素材の選択から難しいのだろうと思う。その結果、まぁまぁの素材が選ばれ、一つの舞台にするために、作者も演出も演じる俳優も妥協を重ね、結果はどちらの国の上演も、やってみただけで終わってしまう。
今回はまず脚本。日英の男女が結婚することになって、名古屋に近い地方都市の女性の実家に夫となる英国人とその母がやってくる。結婚をめぐるそれぞれの両親との葛藤、結婚式への考え方の違いなど、よくある話から入るが、途中から妻になる日本人女性の兄の失踪の話になり、母を連れて日本にやってきた夫となる英国人と母親は置いてきぼりになってしまう。バランスの悪い本で、いかにもの風俗は色々見せられるが、どこが焦点だかわからない。テレビの連ドラによくある「身の上相談ドラマ」ならこれでいいのだが、演劇は、これではもたない。テレビは顔なじみのスターが出て、わかったような気分になるが、必ずしも実績の多いとは言えない日英の俳優では、本の不備を割引しても苦しい。客も正直で、ようやく半分しか入っていない。
家族劇というが、両国の家族の一面を素材に、それぞれのお国ぶりがある、というだけに終わってしまった。昨年は帰郷ものの家族劇としては秀逸な「たかが世界の終わり」が二つのカンパニーで上演されたが、いずれもが消化しきれていなかった。身近な素材だけに茶の間で見るだけのテレビと違って、肉体をさらす演劇では難しいのだ。
リーズの劇団の日本人女優(スーザン・ヒングリー)は、この物語のホンモノの経験者らしく、英国でたくましく生きていく日本人を生々しく演じている。新しいタイプの日本人ともいえるが、それを浮き彫りにするには、周囲がまるで追いついていない。
公共劇場の国際共同制作(日本側は可児市の劇場。英国側はイングランドの地方都市リーズの劇場)は劇場の一つの旗になるし、やって見れば、関係者にはいい経験になるから無駄ということはないが、こういう形の仲良し共同制作はどこか修学旅行を思わせて、むなしい。典型的な「ことなかれ共同制作」の、残念ながら同じ轍を踏むことになってしまった。
映像都市(チネチッタ)
“STRAYDOG”
ワーサルシアター(東京都)
2020/02/05 (水) ~ 2020/02/11 (火)公演終了
満足度★★★
三十年前に、まだ世に知られていなかった鄭義信が所属劇団の新宿梁山泊のために書いた戯曲だが、いま改めて見ると、この作家の原点が詰まっている。
時代設定は、映画館の壁に「ラストショー」のポスターが貼ってあるから70年代前半。映画界が50年代の栄光の時代から滑り落ち、ほとんど、どん底の時期である。撮影現場は荒廃し、地方の映画館は次々と閉館した。副題にチネチッタ(イタリアの大スタジオ)と振ってあるが、ここもマカロニウエスタンなどで食いつないでいたころだから、似たようなものだが、全く関係ないのに…と思っていると。
そこは川崎(架空の設定)で、現実にチネチッタという独立系の映画館があった(今のシネコンとは違う)。映画に夢を抱きながら、手作りシュークリームを館内販売しながら小さな映画館を経営する夫婦と、撮影現場でわがままで中身のない大監督に無理無体を言われながら苦労する若手脚本家と裸でしか売れないワンサの女優、彼らの生活の周囲を、現実の世界と映画の中の世界を交差させながら、描いていく。おや、ここはどこかで・・と既視感に襲われるが、それは、鄭義信が、その後、「焼肉ドラゴン」や「血と骨」などで、軸となるシーンとして再生させたからだろう。作劇的には寺山や唐の影響も深く、バブルの中で、忘れ去られようとしているまだ傷跡の生々しい昭和懐古の90年代ドラマである。
その戯曲を演出の森岡は自身の原点でもあるとして舞台にかけたわけだが、如何せん、今の若者には全く通じていないようである。かと言って、新しい形で再生もしていない。劇団としては番外という若い俳優の稽古公演のようなものだから、それを言うのは野暮だろう。この戯曲の存在を思い出しただけで良しとしなければ。
コタン虐殺
流山児★事務所
ザ・スズナリ(東京都)
2020/02/01 (土) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
風呂敷を広げすぎた感のある舞台であった。
現代のアイヌ差別を理由に町長刺殺を図った事件を入り口に、16世紀ごろからの和人との積年の対立、そこでの和人の搾取、アイヌ側の対応、部族内の対立などを、殺陣とレビューを交えて(流山児風に、といった方がいいかもしれない)2時間の中に織り込んでいる。 辺境部族に対する近代国家の対応はどこでも似たようなもので、アメリカの原住民対策、ソ連の中東対策、ナチスドイツの中欧政策、中国の万里の長城と、今となっては消し去りたい差別と抑圧の歴史をどの国も持っている。日本は島国だし、ちょうどいいサイズだったということもあって、辺境問題がクローズアップされることは少ないが、これからはもっと多角的に民族問題は考えなければならなくなるだろう。この物語は歴史をたどっていて、アイヌ問題の大雑把な経過はわかったとしても、具体的な現在のアイヌ対策には精神論以上には触れていない。
それよりも、これから起きてくるのは、枠に振られたように、この問題が、社会不満分子のネタにされてしまう、ということがある。アイヌを語らって町長刺殺を試みる青年(田島亮)とアイヌの血をひく取り調べ警官(杉木隆幸)との対立(共に好演)は現代社会の大きなテーマを含んでいる。ここだけを絞ってドラマにしてもよかったのに、と思った。しかし、ここで、話を広げて、神戸の新聞記者無差別殺人まで取り込んでしまうと、問題の一端はそこにあるとしても、結論を急ぎすぎてドラマで訴える力が弱くなっていることも否めない。
詩森ろばとしては、制作側の「エンタティメント」という話に乗ったのかもしれないが、これはそういう素材ではないだろう。これでは戦後、「イヨマンテの夜」が素人のど自慢でしきりに歌われた以上の問題提起になっているとは思えなかった。
メアリー・ステュアート
アン・ラト(unrato)
赤坂RED/THEATER(東京都)
2020/01/31 (金) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
ほとんどの日本人が昔、世界史で習っただけで、すっかり忘れてしまっている16世紀の英国史の一駒。イギリス人ならだれでも知っている信長―光秀的歴史寓話は、わが国でも人気があって、現在は二劇場で競演中、春にはさらにもう一つ公演が控えている。このマライーニの本は、女優二人だけで演じ切るという趣向が、女優たちの心をくすぐるところもあってか、よく上演される。今回の競演の一つは別の本で普通の歴史劇のようだが、メアリー・スチュアートといえばやはり本はこれだろう。(1975年初演)
今までは、はっきりしたキャラや技の立つ女優の組み合わせで見てきた演目だが、今回は、小劇場でミュージカルスターの顔合わせという異色作である。。
感想1。実質二時間半ほどもあるせりふ劇で二人の女優は、メアリー(霧矢大夢)とエリザベス(保坂知寿)のほかに、それぞれの相手のおつきのもの(侍女など)の役も演じる。休憩が二十分あるが二人はほぼ出ずっぱりで休む間がない。女王以外の役は受け役だが、ここでしっかり受けてくれないと、イギリス人ほど話になじみのない日本人には、筋がつかめない。第一幕(60分)は、説明も多く女王から、侍女役へのスイッチングもあわただしく、苦労している。動きがないから、結構寝ている客も多い。
ところが、第二幕になると舞台は急変。幕開きの夢の中でメアリーがエリザベスに出会う甘美なシーンに始まり、メアリーの処刑に至るまで、一幕がウソだったみたいに二人の女王の女の激突がドラマチックに展開する〈75分〉。この狭い劇場の舞台中央に、せいぜい5メートル四方の演技スペース、奥には鏡を置き周りは舞台裏のような雑然とした道具類を飾っただけのセットで、なにもかもやってしまおうというのはいい度胸である。しかもそこが一つの劇的宇宙になっている。蜷川門下の新進の演出(大河内直子)、評判にたがわぬ力量である。それにしては、第一幕のぎこちなさは何だったのだろう?
次は木下順二の「冬の時代」だそうだ。歯ごたえのある既成の戯曲でせいぜい場数を踏んで、最近多い創作劇になると手も足も出ない「新進演出家」の轍を踏まないよう精進を祈って、楽しみにしている。
感想2。俳優。いずれも大役で、無事に幕が下りただけでもご苦労さまなのだが、やはり俳優にはもって生まれた柄がある。今回はそこが苦しかった。それぞれの役の微妙な心理の変化を演じ切らねばならない小劇場では、大きくまとめることに慣れてきた大劇場出身の俳優には戸惑いも大きかったのではないだろうか。宝塚から突然これでは荷が重すぎる。その辺は周囲も考えなければ、とは言うものの、この役はやはり40歳前後でやっておかないといけないところが悩ましい。白石加代子がエリザベスを演じた時はぴったりだった。(相手は麻美れいだったっけ)
感想3。これでチケットが8,800円というのは高すぎる。宝塚、四季の固定役者ファンのリピートを当てにしているのかもしれないが、それは邪道である。この値段なら、もっと仕込みに金をかけるとか、せっかくだから歌うところをなんとかするとか、客を酔わせるところがないと。二人の衣装を同じにした意図もわかるが、生きていない。
少女仮面
トライストーン・エンタテイメント
シアタートラム(東京都)
2020/01/24 (金) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
つくづく、芝居は生のもの、今の一瞬を逃れられないものだと思う。同時に、遂に、あの唐十郎も、ひとり戯曲だけで演劇の大海に漕ぎ出した、いや漕ぎ出さざるを得なくなった、という時代の変遷への感懐がある。
唐十郎が、半世紀前鈴木忠志の求めで早稲田小劇場のために書いた岸田戯曲賞受賞の戯曲「少女仮面」を、今注目の若い演出家・杉原邦生が演出する。時代はヒトめぐりした。
今、日本の演劇界では、唐の大きな影響を受けて蜷川や野田がひらいた演劇が隆盛を極め、小劇場では、ほとんどの本がその驥尾に付している。唐の登場は大きな衝撃だった。もちろん、パンフレットに採録されているように、その時代のリアリズム至上の演劇界との大きな軋轢もあった。改めて読むと懐かしい、笑えてしまう混乱と混沌を乗り越えて、今の日本の現代演劇は自由に時代のリアルを追求するようになった。唐は十分に役割を果たした。
いまさら、杉原がこの戯曲を上演することに意味があるのだろうか。
今風に整理された舞台の愛の亡霊も、肉体の乞食も、すでに形骸化してしまった春日野八千代にも、かつて我々が親しんできた唐の「高級な西洋の芸術論」と「猥雑な日本の下町の現実」との奇妙な夢想や混淆の匂いはない。舞台の上にいるのは、唐の名前など知らず、ましてや戯曲など読んだこともないまぎれもなく今の健康な俳優たちであり、たぶん、背景音楽で始終流れる「悲しい天使」も。ウロ覚えの懐メロ以上のものではないだろう。だが、そこには唐の描いた愛も肉体も不条理な存在のまま、確かに、生きている。
それがかつての唐演劇とは別物であったとしても、いまやってみる意味はあった。今度の上演は、演出者本人が志したかどうかはわからないが、非常に論理的でよくわかった。かつての唐演劇の俳優の肉体と情念を強調する中に隠れていた戯曲の構造がよく見えてきた。同時代の寺山修司、鈴木忠志、などに比べて、わかりにくいとされた唐の戯曲は、こんなにもわかりやすいものだったのか。その一点からも今後も上演が続けられるだろう。
杉原邦生の演出は、過去の上演をなぞったり、媚びたりすることなく、今、現在を生きる芝居の生命を追求しており、その姿勢は颯爽としていてなかなか良かった。二年前の、福原充則が演出した「秘密の花園」が、惨憺たる上演であった記憶を払拭する新しい世代の「おりこうさん」ぶりである。俳優はよくその任を果たしていたが、大西多摩恵はキャスティング・エラーではないだろうか。せっかくうまい人なのに。力量を発揮していない。
唐の演劇がこういう新しい形で上演されるのは、唐スタイルに長く親しんできた観客にとっては寂しさも感じる出来事だが、そこが生でなければならない演劇の面白さなのだ。
『だけど涙が出ちゃう』
渡辺源四郎商店
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/01/23 (木) ~ 2020/01/26 (日)公演終了
満足度★★★★
問題提示劇、ディスカッションドラマといってもいいかもしれない。難しいテーマである。人間が同じ人間に死刑を課することができるのか。死刑の是非をめぐっては様々な議論と歴史的経過がある。日本ではなかなか国民の納得する結論にたどり着いていない問題だが、そのうえ、高齢化社会の課題である安楽死の選択の問題も出てきた。安楽死に加担する医師は犯罪者なのか。
この芝居は、今は声高には論じられないが、たぶん、今後は避けて通れない現代社会の、二つ課題をテーマに作られている。
何年か前に劇団主宰の畑澤聖吾が書いた「どんとゆけ」と対になるような作品で、死刑執行にあたって、被害者の親族が参加できる法律が成立して、死刑囚が執行を望んだ家庭に護送されてくる、という場面設定である。今回は、加害者、被害者の設定に工夫が凝らされているが、それがかえってディスカッションのポイントをあやふやにしている。被害者参加の死刑執行という法律があるという設定自体が飛び道具で、その上に設定を重ねると論理、倫理も複雑になるばかりで、せっかくの道具が機能しなくなってしまう。問題はよくわかるが、考えるべきことが多くなりすぎて、芝居自体が方向を失う。
畑澤聖吾は今回は出演だけで、いつもの前説の時と違って、柄を生かした迫力で、難しい地域劇団を長年運営しているエネルギーを垣間見た思いだった。
それは秘密です。
劇団チャリT企画
座・高円寺1(東京都)
2020/01/23 (木) ~ 2020/01/30 (木)公演終了
満足度★
こういう舞台を見ることになろうとは予想していなかった。
スタンダップ・コメディと漫才の寸劇を混ぜたような舞台である。しかし、どちらも中途半端。きついことを言えば、スタンダップコメディには出演者のコメディアンの地の大きさが要る。寸劇に大筋ストーリーがあるがこれがまるで陳腐、七年前の再演というが、なんで今更こういう愚にもつかないものを、再演するのかといえば、昨今、政府の情報操作や情報規制、秘密保護のみのを着た隠蔽が次々と明るみに出たので、話題になると踏んだのだろう。だが、これでは、批判にもならなければ、第一、面白くもなんともない。さして長くない時間(100分)でも退屈した。役者もそろって粒立たず。これではこういう仕組みの舞台は成立しない。
「日本劇作家協会が杉並区と組んだ演劇振興のプログラムの一環」と振られているが、この作品をどのような経過で選んだのか、情報公開してほしいくらいだ。
劇作振興なら、ここ十年ほどの小劇場のいい作品の再演をやってもらいたい。こういう場に出せば新しい座組も可能になる。土田英生の再演がここのところ多く試みられたが、いずれも新しい再演になった。この程度の作品はもう結構。プロなのだから、ちゃんと選んで、いいものを見せてほしい。
ニオノウミにて
岡崎藝術座
STスポット(神奈川県)
2020/01/11 (土) ~ 2020/01/19 (日)公演終了
満足度★★★★
二年前に岸田戯曲賞を受賞した上里雄大の新作の公演・客席50ほど(満席)の横浜のビル地下の狭いスペースでの上演である。長い年月をかけて練り上げられた昨年の受賞作「バルパライソの長い坂をくだる話」に比べると、こちらはエッセーの味。それでも、天皇の血で琵琶湖が真っ赤になる、とか外来魚のブルーギルが人間の勝手を訴えるとか、それぞれ、ふつうの演劇の舞台ではなかなか観客に納得させるのが難しいところを、ホリゾントの黄色と朱の幕(この色彩感覚は大したものだ)で表現してしまうとか、異様ともいえるブルーギルの着ぐるみ(衣装デザイン秀抜)の女優(重実紗果)の快演でみせてしまうとか、思い切った演出があって芝居好きは嵌められてしまう。
エッセーの趣旨は、作者が国境横断派ということもあって、琵琶湖で外来種として駆除されるブルーギルの命に託して、現在問題になっている外国人労働者をはじめとする開放化に対する日本の無意味で不思議な閉鎖性への多角的な批判、ということだろうが、作者の意図に反して、そのような内容より、舞台の仕組みが面白い。
舞台は三場に分かれていてそれぞれ約30分。一場(夜更け)は、竹生島に夜釣に出かける湖岸の過疎の村の老人と娘が島で神に会う話、二場(夜明け)。は、外来魚として排除されるブルーギルの訴え。三場(曇り空)は鎮魂の神の舞.で、一場と二場の間に10分の休憩がある。ここで、横浜ということもあって、観客にシュウマイ弁当やスナック、お茶を売る。もぐもぐしながら気軽に見てくださいという趣旨と説明されるが舞台の方が広いスペースで壁際に押しつけられて見ている観客はとてもそんな気分になれない。が、「バルパライソ」でも大きな船のデッキの客席を組んで、観客を取り込もうとした作者の意図はよくわかる。観客は、読むかどうかっ分からないアンケートを書かされたり、次回公演の広告をもらったり、突然舞台から賛否の声を上げるのを強制される観客参加には心底うんざりしているのだ。
俳優は三人。柄が役にあっているうえに、ダンスもやっているらしく、動きがきれいで無駄がない。巫女の役を演じる浦田すみれはまだあまり経験はないようだが、こういう役を演じられる貴重な年齢にも恵まれた。受けの諸役を演じる男優の嶋田好孝も、相手をよく見て演じている。舞台が狭いという条件もあるが、動きと衣装がち密に計算されている。能のワキだ。
平らなギターのような木切れにモニターを張り付けたような持道具が登場して、モニターの部分にはその楽器を弾く手元が鮮明に映し出される。音は、琵琶で、この楽器の伝来と三線としてのこの国での普及が語られる。また、終盤では「琵琶湖周遊の歌」が聞こえるともなく聞こえてくる。論理的な起承転結でなく、埋め込まれた民族の記憶の断片が立ち上がってくる。こういうところがうまい。
最期に内容になるのは本末転倒だが、この舞台や、松原俊太郎、岡田利規などの新しい演劇を作ろうとしている人たちには、既成のリアリズムに対する根強い不信がある。セリフによる戯曲、現実べったりの俳優演技のリアリズム、劇場の仕掛け、そこをウザイ、似非だと、否定するところから彼らの演劇は始まっている。岡崎芸術座の舞台は、地点よりも、木下歌舞伎よりも、前衛的だが、スッと観客の心に入ってくるところがある。これからの演劇を純粋な形で見せているのかな、とも思う。
雉はじめて鳴く
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2020/01/10 (金) ~ 2020/01/19 (日)公演終了
満足度★★★★
学園ものである。どこにでもありそうな高校の青春物語なのに、現代社会の辛いところをシャープに織り込んで、見事な現代人間ドラマになっている。さすが、横山拓也!
昨年の秀作「熱い胸さわぎ」のカップリングとでもいうべき作品で。同じく母子家庭の母子が主人公になっている。こちらは子供が男の子、あちらはひと夏の物語、こちらは冬。家族、親子がすべての人間の避けられない根源的人間関係だということを作者がよく心得ている。
ぎりぎりの暮らしの母子家庭の高校二年生男子の冬物語。体をすり減らして働く母(清水直子)を重荷に感じて、サッカーの部活と、担任の年上の女教師(若井なおみ)に避難所を求めているケン(深堀啓太郎)。母との殺伐とした日常関係と、もう二年間も、祖母の介護のためといって国へ帰ってしまった父の不在で心理的に追い詰められているケンを、担任の女教師は話し相手になり求めに応じてハグしてやる。そういう、人間同士の肉体的接触の多義的な意味あいもこの作者は巧みに取り込んでいる。「あつい胸騒ぎでは「乳房」、こちらは「父」。その「ハグ」が学内で問題になる。
物語は高校に派遣されてきた新任のスクールカウンセラー(保亜美)を通して分かりやすく展開し、ケンの家出、失踪へと広がっていく。
感想1。新劇団が、小劇場のめぼしい作家に作品を委嘱するのは、ここ数年の趨勢で、文学座、青年座、民藝はもとより、銅鑼とか青年劇場とか、以前から戯曲主導でやってきた劇団はどこでも同じことをやっている。それぞれの文芸制作部の力がなくなってしまって、窮余の策だろうが、作品的にはあまり成功例がない中で、この作品はかなりうまくいっている。よくある、劇団側も作者の側もお互い帳尻を合わせました、という発注作品的安易さがない。深みのある出来のいい現代青春ものになっている。見ていても気持ちがいい。
感想2。さすが俳優座で演技がモダンで鋭い。脇がもたもたしていない。母親の清水直子の無駄のない人物造形。学校の校長(山下裕子)と教頭(河内浩)もウけ芝居をやりたくなるところを見ごとに抑えてリアリティを担保する。たいしたものだが、ここでも、熱い胸騒ぎのiakuと俳優座の違いがくっきりと出ている。どちらがいいというレベルではなく、二つの提示が舞台にある。面白い。
それにしても、ブレヒトと田中千禾夫、千田是也の俳優座も変貌するものである。しかし、時代とともに歩まざるを得ない演劇では変貌を畏れてはいけないだろう。
感想3。平日の昼公演、客席は三割がた空いていた、若い客も少ない。Iaku公演なら満席である。客席数が違うというかもしれないが、アゴラで見るより、最初から演劇劇場として作られた六本木の真ん中の俳優座の方が客にとってはいいに決まっている。そこで僅か10公演でも客が埋まらない(アゴラの手打ちは15公演全席完売である)というのは、やはり、経営部がよく考えなければならないだろう。つまらないことを言うようだが、せめて、当日客席パンフで、配役くらいは知らせるべきだろう。俳優座なら役者は誰でも知っている、配役表など無駄だと思うところがダメなのである。
『荒れ野』
穂の国とよはし芸術劇場PLAT【指定管理者:(公財)豊橋文化振興財団】
ザ・スズナリ(東京都)
2019/12/18 (水) ~ 2019/12/23 (月)公演終了
満足度★★★★
平田満の出身地の豊橋の地域劇場が制作したユニークな社会ドラマである。脚本・演出はKAKUTAの桑原裕子。出演者は平田のほか、新劇系のいい俳優をそろえて、高年齢時代の現代日本の地方に生きる人々の問題を直視している。
かつて開発の夢があった地方都市。しかし、その夢も消えてショッピングセンターも、開発した住宅地もさびれている地域で起きた大火の一夜、今の社会から零れ落ち、そういう地域を離れられない人々の、夜から翌朝までの物語。優れた社会劇であるのだが、登場人物に「役割」を負わせて問題を提示する今までの社会問題劇とは違う。そこが非常に優れている。
その新開地に隣接した団地に独り住まいしている藍子(井上加奈子)の部屋に、火事を心配した親族や友人がやってくる。藍子の高校の同級生の路子(増子倭文江)その夫の哲夫(平田満)と娘の有季(多田香織)も一緒である。保険会社の社員だったが、中年に心臓バイパス手術をしなければならなかった哲夫は家族の主長の役割は果たせず、娘は失職中。独身と信じていた藍子の団地の部屋では一階上の年金生活者。元高校の英語教師・石川(小林勝也)と、彼の若い同性パートナー(中尾諭助)がともに生活している。
このドラマは、そういう地域で、いま人々が生きている生態を活写している。かつてのような安定した社会関係、家族関係から脱落し、忘れられた荒れ地で生きていかなければならなくなった人々は、そこでも果敢に新しい人間関係を求め社会とつながろうとする。問題は全く解決されていないし、セリフで提示されることもないが、ここで生きている人々の姿は感動的である。
ストレイト・プレイ系統の俳優が健闘。同性のパートナーと暮らす小林勝也がうまい。井上と増子は柄が似て見えるのが損をしている。この中に入ると若者のカップルはさぞ大変だったろうが、作・演出の桑原はよくまとめている。1時間50分休憩なし。
地方の公共劇場は、今それぞれ問題を抱えているようだが、その中で県庁所在地でもない豊橋の劇場が、いじましい地域への媚態もなく、優れた演劇を送り出してくれたことに拍手。今夜のスズナリは超満員だった。
正しいオトナたち
テレビ朝日/インプレッション
東京グローブ座(東京都)
2019/12/13 (金) ~ 2019/12/24 (火)公演終了
満足度★★★★
この小屋で、久しぶりに男子トイレがいっぱいになった。いま、フランスを代表する劇作家の代表作の一つで 男女、年齢を問わずに楽しめる生きのいいフランス喜劇で、笑いの中に現代風俗も、時代批評も巧みに忍ばせている。いつもはジャニーズ目当ての女性客ばかりで、せっかくいい芝居もあるのに残念と思っていた小屋だが、客はよく知っていたのだ。
「子供の喧嘩に親が出る」のはわが国でも冷笑の対象となる「よくある話」だが、これは読んで字の通り、世間では良識があり、その地位も認められているいい大人たちが、子供のケンカの和解に乗り出して、自己本位のわがままな本性をむき出しにしていく喜劇である。こういうドラマでは、一人だけいるヘンな人に巻き込まれていく設定が多いのだが、ここは登場する二組の親全員が、何とか場を掬おうと良識を発揮して、ますます深みにはまっていく。そこがよくできている。
大企業の製薬会社の顧問弁護士(岡本健一)夫婦(中島朋子)と安定した商店主(近藤芳正)とその妻のアフリカ問題の研究者(真矢ミキ)。両家の12歳の男の子が、ケンカになってけがをさせ、その収拾に弁護士夫婦が商店主宅を訪れる。
はじめは何とか穏便にと、考えているのに、確認文書の些細な文言から関係がこじれだす。日常生活の中の微妙な細かく仕掛けられているが、話の経過にお構いなく、弁護士の携帯電話に始終かかってくる係争中の薬害裁判の対処とか、田舎住まいの老母から商店主にかかってくる電話が効果を上げて、お互いの二組の夫婦関係も泥沼化する。
役者が四人そろって、とにかくうまい。自立しているフランス人ならこう言いそうだと納得させる面白さだ。それでいて錯綜するお互いの人間関係も巧みにさばいていく。演出も全員が少しづつヘンになっていく脚本のうまさを十分に生かしてしている。結局は結論の出ない問題をハムスターで締めて、これはこれで見事な休憩なしの実時間そのままの1時間45分だ。
以下は感想だが、一つは、やはり、演劇は生ものだけによく出来ていればいるだほど国情というか、その演劇が生まれた国に左右される。この作者はスペイン生まれで、フランス語で書く、現在世界的に活躍している代表的な劇作家というが、お故郷は争えない。後半、座が崩れ始めてからは、誰にも分かる笑い転げる可笑しさだが、前半のお互いの距離を測らいながらの対立はきっと、フランスなら、もっと受けるところだろうと思う。
商店主の妻がアフリカ研究者という設定も、この舞台では壁にアフリカの仮面を飾って生かしている。フランスはアフリカに植民地を持っていて、アルジェリア戦争も経験しているから国民にも、それぞれの思いがあるらしいのだが、その辺の微妙なニュアンスもよくわからない。原題は「殺戮の神」となっているが、日本でタイトルにした「正しい大人たち」からはこの原題の意図がうかがえない。 ポランスキーの米映画「おとなのけんか」(日本公開タイトル)はほとんど芝居のままだが、英米公開時の原題は「殺戮」というところだけとっている。一方、先年、岩松了翻案の舞台は「大人のケンカが終わるまで」(2017)。パンフレットを買えばそのへんの説明があったのかもしれないが、ここは劇場内チラシででも知らせてほしかったところだ。
義経千本桜
花組芝居
あうるすぽっと(東京都)
2019/12/13 (金) ~ 2019/12/22 (日)公演終了
満足度★★★★
花組芝居の歌舞伎名作一気読み。全部やれば一日では終わらない義経千本櫻は、大歌舞伎でも始終上演されるが、いつもみどり。ここは川越上使からはじまって、鳥居前、渡海屋、大物浦、いがみの権太、すし屋、四の切りまで全部ある。ここは、あの・・・。と記憶をたどって見ているうちに次へ行ってしまう忙しさで三時間弱。
菅原伝授手習鑑 仮名手本忠臣蔵に続く名作ダイジェストで花組風に上手にまとめてある。狐忠信の袴の裾を長くしてしっぽにして捌くところなどうまいものだ。下座も巧みに入れていて劇場のスケールにあっている。
伝統演劇を果敢に若者演劇に取り込んだ先覚者としての花組芝居の功績は大きいが、その後、野田秀樹が頑張り、一方では木の下歌舞伎やKUNIOが出てくると、花組芝居は先行しただけに分が悪い。ここでも加納をはじめ、長くやっている俳優たちは花組風を体得していて独特の演技で面白い。多くの俳優が、小劇場や商業演劇でも活躍しているのもうなずける。ダイジェストもなかなかこうは思い切ってできないだろう。
しかしそれが、大歌舞伎のように時代を超えて受け継がれ再生するか、となるとどうだろうか。これはこれで面白いのだが、時代がそれを受け入れるかどうか、ここにも「舞踏」や「テント」と同じ先覚者の大きな課題がある。