『ロデオ★座★ヘヴン』
ロデオ★座★ヘヴン
スタジオ空洞(東京都)
2016/10/25 (火) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
異なる作家の3短編上演
ロデオの二俳優を中心に、三作品それぞれ異なる作・演出とキャスティングで磨きをかけてのご機嫌窺い。三作いずれも風味が異なり、文学の薫り高き「私家版・罪と罰」(柳井祥緒作演出)を挟んで、オープニング「four face eight」(ひがしじゅんじ)はヒューマン・コメディ、トリを飾る「キミがお金を食べるなら」(成島秀和)はファンタジック・ラヴ・ストーリー。
軽快さとスピード感、美しき心を旨とする両者に対し、「罪と罰」は人間探究の姿勢ゆえ「醜き心」をあぶり出す。断然後者が好みである。
「four」は、後に登場する「兄」をカッコに括り、それ以外の者がドタバタを演じる。10年以上会っていない兄に自分の変貌ぶりを見せたくない、という弟の主観が周囲の人間(たまたま出会ったその場所でバイトをしていた三人)を振り回すが、最後の兄とのやり取りでは二人がそこで会う事になった本当の理由も判明する。
ただ私としては、そこで感動が作られるのは兄が多くを語らず、また去って行く兄を弟は追わず、「次はない」という事になっている(=「別離」に等しい)からである。兄の事情、兄の生の現場に、弟は踏み込まないと決めた。二人の間に出来てしまった絶対的な距離が、そこで問題にされているなら、それなりの深み、感動というものがあったろうが、兄は去り、弟の杞憂が判ってホッとした(それとて重要な事だが、弟のちっぽけな主観以上の問題が兄に降りかかっているのにそこには干渉しない)、という展開はちょっとすっきりしない。(注文を付けすぎかもしれないが)
「お金を食べる」も大きな声でスピード感と動きのあるタイプの芝居だったが、それなりにしっとりと「感動」を残したのは女優の佇まいが、同じものを指す言葉でも「欲求」「わがまま」といったネガティヴな概念を、「純粋な願い」「夢」「切望」といった「良い感じの概念」に置き換えさせる容姿を備えているから、である。女がその男に惹かれた理由、・・女自身の生きた背景がそこに影を落としているはずだが、そこは見えない。解釈の幅は広く、観客に委ねている格好だ。私は、つい悪い方、卑小な方に見てしまう。
劇団の形態がユニークで、確か今回3度目の観劇。成り立ちを今回ようやく理解した所。作・演出・キャスティングに磨きをかけた次回作に期待。
劇場-汝の名は女優-
劇団NLT
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2016/10/25 (火) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
女優。
役にハマりすぎな旺なつき。最後に至ってメーターを振り切り、瞠目した。
つい二三ヶ月前、新宿のさびれた古本屋で古びた背表紙を見せていたのが件のサマセット・モーム作「劇場」で、かの作家に劇作があったと発見したばかり、という縁にかこつけて、普段は観ない喜劇を得意とする印象のNLTを初観劇。
社交界に名を馳せる往年の名女優(現役)が主人公だが、その特殊な役柄の背景は、芝居では奥へ引っ込み、もっと日常な、卑近な、立場を他に替えた庶民にも起こり得る出来事として見え、女優ならではの(その地位を利用したと言えなくもない)行動が喝采を浴びる理由が、作劇にある。
そして「天晴れ」と言わしめる自在な演技を見せた主役女優、こちらも初見だったが、特権的な意味で称される(狭義の)「女優」を見た。彼女でなくてはこうはならない、見事な仕上がり。(勝手な印象ながら)チープなイメージのシアターグリーンがこういう華やぎのある空間に・・化かす技が演劇の手管なら、相応しい劇場だったと言えるか。
アントニーとクレオパトラ
うずめ劇場
シアターX(東京都)
2016/10/25 (火) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
ペーター・ゲスナーの仕事
うずめ劇場の過去レパに「夜壺」(唐十郎)があった。ちょうどその頃北九州の劇団として知り、同レパは既に終えていて見逃したが、なるべく追いたいと思って以来、今日まで。
とにかく演劇が好きで(演劇的)遊びに貪欲で(演劇的)食欲旺盛なゲスナー氏の世界、とでも称する以外ない毎回趣向の異なる舞台だが、今回もユニークな作り。
台詞の多い長い芝居に役者も必死に食らいついている様子であったが、不思議な味のある・・最後は情趣溢れる光景が焼き付く舞台になった。
ワイン・サービス付休憩を挟んで、3時間。
21年目からの活動を待望する。
『哀れ、兵士』
フェスティバル/トーキョー実行委員会
あうるすぽっと(東京都)
2016/10/27 (木) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
日本語字幕だが観れる(ら抜きで悪いか)
うまい。演技が的確でシーンが端的で無駄がなく、ステージ上部の字幕を見ながらの観劇でも、伝わる。観れる。
兵士とはどのような存在か・・犠牲者の観点から、望まぬ加害者という観点から描いている。だから「哀れ」な存在。
舞台処理がうまく、俳優が必要な芝居をきちんと(笑わせるタイミングも)やっている。
劇団コルモッキルは日本との演劇交流の実績のある劇団(私は初見)だが、若い俳優が一回り年上の母役をやったりもしていて、「若い集団」の印象が強い。若い作演出家が、年上の俳優を使うのは韓国では難しいのかな・・などと想像したりしたが、堂々たる舞台だった。
夜壺
劇団唐組
雑司ヶ谷鬼子母神設紅テント(東京都)
2016/10/29 (土) ~ 2016/11/06 (日)公演終了
満足度★★★★
風雨と歳月にさらされて。
紅テントがよく見ないと赤だと判らないのが、いつも夜だからなのか・・少し淋しい。
宵闇に浮かぶ幻のような唐十郎の芝居の中でも、比較的時空がとっ散らからないストレートプレイだ(少女仮面レベルの)・・と、今回主役を張った女優赤松由美の舞台での「日常」感覚を新鮮に眺めていたが、二幕ではとっ散らかった混沌モードに変容。毎度の唐芝居、ラストの屋台崩しに照準した作りになって行く。
序盤に流れる「日常」、ナンセンスが挿入しながらも戻るべき「日常」に回帰するとホッとする。「こんな感じが続いて欲しい」と思わせる雰囲気は赤松の持つ「日常」な空気によるが、混沌の二幕では「日常」な赤松が息の上がる様を見ることになった。
たぶん自分には混沌の中の「日常」を観たい欲求があり、既に混沌である所の現実にあっては、日常が混沌化して行く様はあまり観たくない、と感じているのだろう。本来それは飛躍への想像力を称揚するものだったのだろうが、今、そういう形での飛躍を求める時代ではないのではないか・・。
そんな事を思った。
ここはカナダじゃない
オイスターズ
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2016/10/22 (土) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
オイはスターや。
不条理、というよりこの劇団の、ナンセンスは最近のコントや漫才の主流であるボケ役のシュールさに通じる。人としておかしな反応や奇妙な行動でツッコミ役を呆れさせ、憤慨させるアレ。「おや?」「おかしいな」と思わせるタイミングと手順に技が求められ、結句その態度が意表をつく原因に発していたと判明した時の落差=「緊張の緩和」。
奇ッ態も極まった時点で如何にもマトモな提言をする者が出て来るのが、この作家の特徴だろうか。出来過ぎな台詞が、ミスマッチな状況で発せられ、皆をまとめ上げ、美談の主人公のように振る舞い始めたりする。終盤に近づくにつれ何やら「感動的な話」に見えなくもないやり取りが交わされ、熱を帯びて行く。演劇だから「劇的」であるべき、との使命に呼応しているが、皆動機はバラバラで各人が「形」をなぞっているだけの皮相的なありようである。
しかし、信じ続ければ真実になる、との要素も混じって芝居は本当に「良い話」になってしまったのか、それとも「そんな阿保な・・」と突っ込んで良いのかが微妙であったりもする。
過去作「トラックメロウ」を映像鑑賞した印象は、風刺であったものが何か良い話になっている、チグハグさであった。その後生で観た2本は風刺が勝ち、そして今回、困惑が極まった状況ではせめて良い話にして上げても良いかな・・という気にさせる「感動あり」のパターンと見えた。
皮肉の効いたやり取りが、私たちの生きる現実の「根拠のあやふやさ」を奇妙な仕方で炙り出す、この味がこの劇団に人を惹きつけるのだろう。
旅の話。荒唐無稽で、かなり無理のある「認知」における欠陥が、ちぐはぐなやり取りをどうにか成立させる。本気なのか暇つぶしなのか分からないアジテーションが大いに笑えるが、おちゃらけか本気か、という峻別も意味のない事かも知れぬ。言葉は状況・文脈で意味を変えるのであって正しい命題などない・・・と思えば、どんな熱っぽい言葉も冷静に受け止められるし、価値あるものと受け止める事もできる。
棘/スキューバ
不思議少年
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/10/12 (水) ~ 2016/10/16 (日)公演終了
満足度★★★★
「棘」70分/「スキューバ」20分
後者は短編のコンペで賞を取った三人芝居、軽快な場面処理が湿っぽい「家族・感動モノ」をサラリ、ふんわりとレノアに仕上げていた(自分は好みでなかったが・・)。
前者が公演の本編に当たる、二人芝居。最期を迎えようとする老女(男が演じるので女性だとは後半で気づく)が、うら寂しげな声と共に薄暗がりの中に浮かび上り、向こうに対面しているらしい傷ついた「坊や」を呼び抱き寄せ、孤独の淋しさを隠し立てせず吐露するのを端緒に、女の告白が始まる。初めての男、その次の男・・・人生の節目での異性との出会いはいずれも「痛い」結末で、その折々の女の赤裸々な姿が、変顔をモノとしない女優の全力の演技(怪演)でかたどられていく。
男女二人は、性別を障害とせず絶えず役割を替え、現在と過去を往復する。告白された人生の時間、それをこれから歩もうとする「坊や」は今、その一歩(異性との遭遇)を踏み出そうとする・・そんなラストだったか。
薄靄に浮かび上る様が、荒涼たる被災地の亡霊のように見え、泣く「坊や」は親を亡くした子ども・・・熊本から来た劇団という前知識は、観る目に作用した。だが、被災しようがしまいが、描かれているような痛い人生は存在する。
敢えて震災に関連づける意図は作者にはなく、メーターを振り切りそうな女優の演技は逆に感傷を退けているようでもあった。
星回帰線
パルコ・プロデュース
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2016/10/01 (土) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★
蓬莱戯曲の世界
大枚と言える額をはたいて、蓬莱竜太の芝居を観に行く。
蓬莱のモダンスイマーズ時代(今もあるが)からの戯曲世界は現代的な、かつ都市に対する地方の、上層より下層の、コンプレックスや下世話な感情を抉り出しながら止揚するものだったが、ここ最近の芸劇での舞台(今回もだが)での冴え渡り方は何だろうか・・と感慨しきり。
今回は一つの「答え」には到達しない・・・人物の内心には畢竟立ち入れない、分からない、是非はつけられない、という微妙な線上を行く感じ。主人公(向井理)と、彼が職場=故郷の群馬を離れて訪れた中学時代の恩師の作る北海道のコミュニティ、その代表としての恩師藤原(平田満)とのシーソーゲームは、サスペンス劇のように「最後はこちらが正しかった」という結末にはならず、「実態」が知らされることで図が描けるような結末にもならない(それに近い所までは迫るが)。
実態が「何」であるか、という事よりも、この芝居は、「今、こうである」なら、「どう評価するか」でなく「どうするか」に踏み出すべきなのであり、その事で何かが生まれる、一個人の中にある限界を超える可能性をはらんでいる、言葉にすればわざとらしいが、現代人が(現代の状況ゆえに)ぶち当たるテーマに丁寧に触れられている。
この芝居で作演出の意図が、主人公を「痛い人」として描くか、誤解されやすい被害者的位置づけにするか、明確には見えない。
観た客がどちら側の感性に近いかで、違ってくるかも知れない。
向井理が責められた挙句に声を荒げて相手の非を、鬼の首を取ったように指摘する・・その時、主人公の側に「理がある」と感じさせる響きがあって、しかし客観的に見ると自分が他者に及ぼす影響力を知らない「甘い」主人公にこそ非があるでしょう・・と感じる。
ここで気になるのは主人公の年齢だ。
中学時代の恩師と「あれから10年」と言ったのを卒業以来とすれば、現在25歳。だが彼は医学部を卒業して実家の産婦人科に雇われて一定程度の経験をつんでいる(日は浅いと考えられるが)。ならば通常20代後半だろう。
さてそうなると、彼が倫理的な大きな落ち度がないとするには年齢が高すぎ、しかし行動じたいは若すぎる。「イケメン」にしては女性との接触の多さから学んでいない、いじめの影響か・・など推察するが戯曲にはそのあたりは書かれていない。
この倫理的な落ち度の程度によって、彼という人物への評価は変わってくるのだが、戯曲はその問題への拘泥を回避して、「そうであれば、どうするか」へと物語を進めて行く。
彼のあり方の問題は人の社会の平和にとって深刻なもので、現に芝居の中では「痛い」存在に成り下がって行くのだが、運命は彼らの破綻をつくろい、掬い上げて行くかのようで、芝居の大半で見せられる醜さ、痛さに比して最後は美しい。がその美しさも、痛々しさを孕む。人は痛々しくも生きて行く・・そんな余韻もあるが、解釈次第かも知れない。
「行動」を記す蓬莱戯曲のストイックさ、その流儀じたいがテーマとして芝居の世界に重なったような、面白い出し物だった。
満天の星が見える空の下での暮らしの空気も、よく出ていた。
的確に演じる役者の力は言うまでもなし。
亡国の三人姉妹
東京デスロック
横浜赤レンガ倉庫1号館(神奈川県)
2016/10/14 (金) ~ 2016/10/16 (日)公演終了
満足度★★★★
テキストのコラージュ
主宰多田淳之介の日韓共同製作「カルメギ」(チェーホフ「かもめ」の翻案)、「台風奇譚」(「テンペスト」の翻案)に続く、同趣向の自劇団版と思されるが(この二つは残念ながら見ていない)、この古典をどういう視点で料理するのか。「カルメギ」「台風」は企画上からも明確に朝鮮史を舞台にとった作品になったが、今回はそうではない。ばかりでなく、物語としての「三人姉妹」はそれとして原作の登場人物名(ロシア人名)で演じられながら、戯曲「外」の要素が折々に浸潤してくる。(幕開きの舞台の光景から既に奇妙だ。)
場面はおそらく抜粋で、時系列も戯曲通りなのか不明、そのように作られてもいる。場面と場面の間には、前の語り手がゆっくりと歩いて去る間や、「音」が主役になる場(間?)によって、実にスローな時間が流れる。それらの場面は「何」によってチョイスされ、並べられているのか・・ いずれにせよこの舞台は人物がある状況で語るテキストが「固有の状況」を離れて言葉自体として浮かび上がるように切り取られ、強調され、繋げられている。「三人姉妹」はそのコンテキスト(文脈=物語)を語らない、言葉の集合としてそこにあるようであった。
言葉自体を独立させる事で、言葉は「現在」を指し示そうとする。俳優の「語り」の作法(技術)から、その意図が伝わる。
つまりこの「亡国の三人姉妹」は現代の「亡国」の風景に翻案した「三人姉妹」だ、ということになるだろう。
浮かんでくる疑問は、「三人姉妹」である必要はあったのか・・という点だが、連想を逞しくすれば、故郷=モスクワから遠く離れたわびしい田舎の生活に押し込められ、いよいよ待ち望んだ旅立ちの日に望みが断たれる結末は、故郷を思えどいまだ土を踏めない境遇、また故郷が他者のほしいままにされた状況にある人達にも、重ね得るかも知れない。
にしても、この舞台は知られ過ぎた戯曲だからやれた異色の翻案だったかと思う。
慕情の部屋
スポンジ
新宿眼科画廊(東京都)
2016/10/14 (金) ~ 2016/10/18 (火)公演終了
満足度★★★★
豚箱友情物語、ではないが。
初スポンジ、名前もこの度知った。
タテに長い新宿眼科画廊(地下スペース、逃げ口無し)の奥行きを使った、多場面を作りだす装置の活用で、「物語」はテンポ良く、スリリングに進んでいた。
スーパーのバックヤード、ビデオ屋店内、主人公の部屋、上野、留置場、接見室・・。
印象的なのは、狭い横幅をさらに狭める上手側の小さなエリアで、機材を駆使して無機質系の「音楽」未満ただの音以上の幻想音を「生演奏」する姿、ドラマを「不穏」に盛り立てていた。
当て書いたように物語上のキャラに合う人達は、一劇団に属する同質感がないが、持つキャラによって物語の中に嵌め込まれ、総体で一つの芝居をこなし切った感じ。
悪行の果てであるはずの檻の中が、最もヒューマンな空間だというのも皮肉が利いて好きである。
あの大鴉、さえも
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2016/09/30 (金) ~ 2016/10/20 (木)公演終了
満足度★★★★
デラシネラな運び屋達
ネタバレ注意。であるが少しばかり。珍しく俳優目当てにチケット(安くない)購入、戯曲は以前読んでいたから「短い」「盛り上がりはない」「不思議な雰囲気(何ならゴドー)」「どんな趣向かに拠るが・・小野寺修二」と、考え得る舞台の形を想像してもよく分からず、俳優の選定に答えがあるかな・・と推定してみたのである。
答えは三人の取り合わせ、には必ずしもなく(私の目には)、個々の持ち味は発揮されていたが、三人三様に得意とする所が異なるため、あのような形になったかと思う。とは言え、多くは三人が息を合わさない訳に行かない場面。さて如何。
北村想名作戯曲リーディング
流山児★事務所
Space早稲田(東京都)
2016/10/12 (水) ~ 2016/10/15 (土)公演終了
満足度★★★★
リーディングの愉楽
何年か前の山元清多特集リーディングの一つを見たときの多くの発見・・作品「海賊」の世界、俳優、「リーディングがこれほど沸騰する舞台になるのか・・・」という、この(まぐれかもしれない)遭遇を思わず期待したのは、今回の北村想特集4作品の一つにあの「海賊」の座組み(演出=東京ミルクホールの佐野バビ市=演出、黒テント片岡哲也その他)の賑やかな面々の名を見たからで。それ以外の演目・座組も気になりつつ、幸いお目当てのBチーム「DUCK SOAP」が観れた。
小アフタートークでの流山児祥・演出佐野氏のやりとりから北村想という作家の背景、演劇界での位置、人となりが知れて興味深い。
作品は演出による大きな加筆によりメタシアター(入れ子構造)化され、お笑いが勝っていたが、俳優が目一杯やっている舞台を作っている。「そう言えば台本持ってやってたっけ?」という位に動き回る印象。1演目をたった2ステージでは役者も淋しい事だろう・・と、「存分に楽しんだ」観客=私は勝手に想像する。
「お国と五平」「息子」
(公財)可児市文化芸術振興財団
吉祥寺シアター(東京都)
2016/10/06 (木) ~ 2016/10/13 (木)公演終了
満足度★★★★
近代古典という世界
日本の戦前に書かれた戯曲は骨っぽい。「確かな言葉」で紡がれ、言葉として普遍性が高いと感じさせるものがある。高度情報社会である現在より、人や権力の「眼」の監視の度合いがもっと粗く、「個」としての内心の自由度が(制度上はともかく実質上)大きかった分、「他者」に伝達すべき言葉の使い様に丁寧さがあった、という事ではないのか・・そんな事を想像させられる。
近代古典の世界を味わいたく観劇。私としては感動の『息子』が目当てだったが、最初に上演した『お国と五平』の尺が長く充実しており、『息子』はあっさりと終わった。前者は谷崎潤一郎作。高校の一時期ハマって以来何十年ぶりに谷崎文体に相見え、武家の女房と家臣が交わす台詞の端麗さもさりながら、後半登場し「女々しく」憤怒と哀願の言葉を繰り出す男の居直った人生観には、谷崎の底に流れるものに思い当たった感でハッとした。人々にもてはやされ颯爽と生きる者は元々その素養(この場合は武術の覚え・それに発する自負、勇気等)を生まれながらに持ちえた事でその誉れを手にしているに過ぎない。してその身分が約束されている条件では多少の欲もかき、隠し通せると高を括っている。それを「目撃した」と暴きながら、「生まれながら」の素養に恵まれず白眼視され捨てられた身で卑怯な刃傷に及んだその男が免罪されることは大義として無い・・・それだけに相手を謗り情けを語りながら「命乞い」をするしかない哀れな男であったが、彼に「一言」言わせたかった谷崎の、顧みられぬ人の人生を見つめる眼差しを彼の作品を思い出しながら思った。喜劇仕立てである。
一方『息子』は難しい芝居だ。約30分の短いやり取りの中に、台詞とは別に「いつ気付くのか」、探りと確信のプロセスがしぐさとして表現されねばならず、その微妙な線をどこに引くか、どう振舞うか・・そしてあの距離でその関係を成立させるキャラ作りからして大変である。老父は元気すぎ、息子はもっとくたびれ切っていい。谷崎作との関連で言えば、彼がそうなった全責任が彼にある訳ではない、が世間は冷たい。微かながらに、情が通った片鱗が、彼らを取り巻く冷たさを逆照射する。そして近づく捕り物の音が、哀れな彼らの存在を浮き上がらせる。芝居の方はまだ、作り込む余地があった。
アンダーグラウンド
無隣館若手自主企画vol.14 小林企画
アトリエ春風舎(東京都)
2016/10/07 (金) ~ 2016/10/10 (月)公演終了
満足度★★★★
巻き込まれ型舞台
「参加型」とは露知らず参加した。トークに招かれた女性が「参加型」に一家言ある人らしく、今回の趣旨の曖昧さについて指摘していた。その様子からすると、「参加型」のスタイルは何らかの理念を原点に持つようだ。舞台→客席の一方向コミュニケーションの限界、といった所だろうか。
地上人である所の観客が、大きなエレベータに乗って地底世界へ向かっている。会場は客席がなく、地底人であるキャスト5人の誘導でまずは紙製眼鏡作りと地底世界についてのレクチュア。観客が何らかの「態」でその場に居る中で、いつしか芝居(地底人として名を持つ彼らのやり取り)が始まっていたり、地上人集団に語りかけたりする。「劇」の要素に観客が組み込まれている形は珍しくないが、同じ平場でそうなっている、という感覚はまた別である。
ポイントは「原罪」を背負った歪な存在となった地上人を地底人は蔑視しており、地底世界の人口が減ってしまったため労働力として、しかし生活と身分を保証する約束で地上人が移住させられる途上である、という構図が後半に判ってくること。白の衣裳で統一されたキャストは高等な人種らしく、無垢で情熱的な演技によって我々とは異質なものとして存在し、「今ここ」が地上世界の劇場である「現実」から離れた、「地底」というフィクションを成り立たせている。
紙製眼鏡をかける事で「現実」に属する観客同士の対面を回避し、照明や音の効果、そして地底にまつわる詩的な言葉によって、普段は舞台上で観る架空世界を自分らもそこに紛れ込まされた形で観る、という体験になった。もっともストーリー自体は単純だが。
それらがフィクションのモードだとすれば、冒頭の作業と、もう一箇所途中でキャストがちょっとしたゲーム的な動きを観客に指示してやらせる場面、これはフィクション世界とは違う質に感じられた。フィクションの世界は観客が想像を逞しくして架空世界を理解しようとする時間になるのに対し、フィクションにあまり寄与しない動きをやらされる時間は、自分の身体という現実に引き戻されそうになる。もっと別な動きならどうだったか・・。
さて先述した「参加型」が目指すのは、フィクション世界よりは、それとは異質に感じられた時間、つまり観客が自分の身体(自分自身の現実)を意識させられ、他者の前にさらされる条件で何らかの物語に参加する形なのだろう。
その意味では今回の舞台は、参加型というより、フィクションに巻き込まれる体感型舞台とでも言ったらよいだろうか。
いずれにせよ、興味深い「観劇」ではあった。私には待遇の良い奴隷船に乗せられた感覚、そうなった場合の自分の感情を垣間見る瞬間があり、それなりに新鮮な体験であった。
夜明けに、月の手触りを ~2016~
mizhen
【閉館】SPACE 梟門(東京都)
2016/10/05 (水) ~ 2016/10/10 (月)公演終了
満足度★★★★
「みずへん」、また一つ発見。
5名の女優による、それぞれの切実な物語--モノローグによる--が舞台上で交差しつつも融合せず、互いの動線が絡み合いつつも整理され、それぞれに展開する。舞台処理がユニーク。独白で綴るテキストにはキレがあり、それ以上に俳優がそれを飲み下して十二分に生き生きと演じていた。
小野寺ずる登場。やがて全体の中心に来る彼女の役、なりきり具合と言い、凄みあり。
篦棒 べらぼう
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2016/09/28 (水) ~ 2016/10/09 (日)公演終了
満足度★★★★★
中津留氏の言語が「新劇」舞台で命を得る
「中津留らしさ」について、ここ最近否定的な意味のそれを語っていた気がするが、今作は出色であった。休憩を挟んで三時間にわたる、ある一家の叙事詩は細密画でありながら中津留氏らしい豪快な線も入る。最終局面などイプセンかハウプトマンかの戯曲か、と思わず唸った。今の中津留氏の文体に、劇団民藝が持つ演技態が合ったのやも知れぬ。
狂犬百景(2016)
MU
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2016/10/01 (土) ~ 2016/10/10 (月)公演終了
満足度★★★★
初MU
短編ではあるが、作者の思い描く架空の「狂犬な世界」での幾つかのエピソード4編、となっている。つまり、全体として「狂犬な世界」を構成する、規模は違うが「火星年代記」的な、一つの未来形、あるいは「あり得るもう一つの世界」を提示する一まとまりの出し物だ。
「百景」の名の通り、作者によれば「狂犬」エピソードは百あるのだとか。その事を言わせるだけの、創作意欲の源泉がこの架空世界である「狂犬な世界」にはあるのだろう。
個人的には、「初」のMU式文体に不慣れのせいか?、台詞が入って来ず、前半の二編は意識が途切れがちになり、目の前の現象が何であるのか、分類すれば喜劇か悲劇か、そこで起こっているのは対立か迎合か、さえも判別しづらい(中々味わえない)状態となった。
後半二編では、はっきりした感情、激した感情を乗せやすい台詞と展開があり、俳優から発した「感情」をよすがに、芝居に入ることが出来た。
『Re:』
Element
参宮橋TRANCE MISSION(東京都)
2016/10/01 (土) ~ 2016/10/02 (日)公演終了
満足度★★★★
リーディングのためのお話
書かれたメールを読みあう構成は、形としてリーディング以外にあり得ない、というかこのテキストを用いる限り、「読み合う」形が正解で、リアル。
メールの文面らしいリアルが(むろん「読み手」の演技もだが)、信憑性を与えている。メールに現われて来ない領域を聞き手の想像力に委ね、その分、説明不要な飛躍的な展開が可能である。
最初のやり取りで女性側が突っ込んで行く所、男が会社を辞め、父母の居ない実家の家屋がちゃんと残っていてしばらく働かなくて良い稼ぎを得ていた身分、また男が画家として成功を手にする展開など、都合のよい出来すぎた展開なのだが、「読み」=小説の要素でもって、焦点を二人の「心の行方」に絞り込むことが出来、二人のそれぞれの歩みのディテイルは、常に距離を持つ宿命にあった男女(だからメールも可能)の心の軌跡を描写するための背景画となっている。
・・という構造の下、観客の想像力は、二人が(全ての男女がそうだとは限らない)相性を持ちえた者同士として、その最も相応しい関係に到達できるかどうか、という関心に発展していく。その結末が見たくて仕方なくなっている。その瞬間までの全ては伏線であった・・と総括される結末へと、急ぐ訳だが、少し気になる部分もある。
男女は離れていて互いに好きあっている(これを私は相性と呼ぶ)、一時的な(性)衝動でない事を男は自らに確信した、というが、「単なる好き」以上の「愛」だとか「決意」だとかの手を借りる必要のない「相性」を持つ男女(と、しておこう)が、結ばれるか結ばれないかは、個的な関係の帰趨の問題だ。愛を育んだり困難を乗り越えて行くかどうかの出発点に、到達するかどうかは、単に二人の「好き」が結実するか否かの問題。だから観客はこのドラマからもはや高尚なテーマや感動を得ようとは思わず、ただ個的な関係の顛末を「覗き見」しながら追体験する。そこでの快感は、はっきり言えば甘味な人生(の中のある時間)だ。
もっとも互いに離れていることで、間違いなく結ばれるだろうその時を至福の時のように思い描く、その「未然」の時間も、甘味である。「迷いがない」状態も、ある種の快感だ。男は成功した、だから生活上のあれこれで迷うことがない。好きなものにダイレクトに向かって行ける。これが彼の「成功」が可能にしたものなのか、彼の「思い」(心)が可能にしたものなのか、それは判らない。得てして、ある高みに上った時人間はその確信の根拠についての吟味などしないものだ。
観客は、男が得たその身分じたいには共鳴しなくても、女を求める心には共鳴できる。身分はどうあろうと、二人の望ましい結末という快感を手にしたくてこのリーディングを今味わっている。早くくれ。結末をくれ・・。
でもって、その(観客いや私が勝手に抱いた)やや「不純な」思いの投影として、それが遂げられない不安もよぎる。テキストにその伏線ははっきりあるが、その陳腐な結末はないだろうと思っている。だがそうなってしまう。
女は10/2の記念日に亡き相手にメールで語りかける。そこには相手という肉体をなくしてもなお残る「愛」がある、かに見せている。しかし私は、男が亡くなった時点で、女にとって男は「異性」として求める相手ではなくなる。メールの文面も、空しい。予期せぬ辛い体験の中で「男を信じられなくなった」女が、その頑なな心を再び開く者として男は現われたが、固有の一人でしかないその男と、始まりを迎える前に死別したという顛末には、女は新たな出会いに向かう力を手にした(男の存在によって)という含意がある。つまりこの時点で二人の物語は二人の間だけで完結できなかった事が(現実的に考えれば)明らかになる、という感じ。
別にその解釈でいいじゃん・・と一蹴されそうだが、まァそんな事を思った。
結末はやはり、そこで終わって美しいパッケージにしてしまうのでなく、実はそこからが大変な共同生活の端緒についた二人、で終わりたかった・・個人的な願望。
僕の居場所
劇団あおきりみかん
王子小劇場(東京都)
2016/10/01 (土) ~ 2016/10/03 (月)公演終了
満足度★★★★
10月初観劇・・特に意味はないが。
今年も余すところむにゃむにゃ。「居場所」という、味の消えたガムのようなテーマで、しかしありきたりな芝居は作らない事の期待で、三度目のあおきりみかん観劇。前回アゴラ劇場の狭い空間で難渋していた事を思い出した。舞台いっぱいの装置、色々盛り込んで装置も活用して、道具を出したり引っ込めたり、引っ掛けてバスっと音がしたり・・もあったが目立たない程度であった。この装置に人一人の重量を委ねるシーンにはとにかく冷や冷やした。もっとも、ドテッと落ちたとしても、ギャグに回収する技はありそうだが。
一劇団としては役者のレベルも結構高いのでは。鹿目戯曲は一応テーマ性、感動らしきものが用意されているが、どこまで本気かも微妙な、「お芝居」と割り切った眼差しを感じなくもない風合いがある(というか、8割方笑い)。この「笑」と「テーマ性」を両立させる役者の技術、また風貌の力を、感じさせる舞台だった。ラストに向けた「謎解き」は、それこそ「所詮お芝居」の醒めた眼差しで、さらりと流してもらっていい気もした。そこまで整合性を求めてない、というか。。
『OKINAWA1972』
流山児★事務所
Space早稲田(東京都)
2016/09/15 (木) ~ 2016/10/02 (日)公演終了
満足度★★★★
本土復帰の年、沖縄じゃ沖縄の時間が、流れていたさァ。
流山児+風琴の合同公演という趣き。役者は流山児主体だが演出的仕上り、また役者も2,3人混じって、風琴らしい。
ヤクザの視点で本土復帰当時の沖縄の民衆の温度を伝える芝居。沖縄は地理的にも「日本」という領域を構成する四島からは遠い。これは「日本という奇異な精神風土に染まらない)健全さを維持し得る距離だが、日本政府によって米国に売り渡されている(今も)現実も「距離」の一面だ。
さて沖縄の「庶民」、それも下層に属する(上層が存在したのかは知らないが)人々の自らを語る中に「混血児や親を知らない者が多い」・・という台詞があった。米軍=強者と、被占領民である沖縄人=弱者の関係を如実に表わす台詞として、今は迫ってくる。
男は「力」に憧れ、女は風俗業に身をやつす。本土復帰を前に、「力」は対本土(のヤクザ)に向けて結集されるが、うまく立ち回ろうとする欲は本土とのパイプやパワーバランスの活用に手を出してしまうという悲しい顛末もある。裏社会では「沖縄」は分断され、潰された。
主人公は母の手一つで育った(なぜか)フィリピン人との混血、これと一風変わった彼の親友がいいコンビで、「組織」に居る本土帰りのエリートのキャラクター設定もうまかった。破天荒で命知らずだが「太陽」のように周囲を照らす、と評される男、そいつに殺されかけた過去を持ちながら、大義(沖縄を本土の魔の手から守る)のためにその男とも契りを交わす武術を身につけた男、その男に惚れ、危険な選択にも奥歯を噛み締めて同意する女房・・・役者揃いである。
さて「沖縄」で進行するドラマにしばしば挿入されるのが佐藤栄作総理大臣と、彼が沖縄復帰交渉を委ねた某という学者の対話シーン。これは本土復帰が沖縄の「権利回復」でも何でもなく、実質は占領期と変わりない米軍の権利が継続することを「密約」で約束しながら、表向きには、「核抜き本土並み」を取り付けて復帰の「偉業」を成し遂げた演出がなされる、その裏側を暴露するシーンなのだが、惜しいことにこれが判りづらい。
沖縄の物語の、重要な背景を説明しているが、佐藤首相という人物、交渉者の○○という人物が、それぞれどういう動機や目的で行動しているのかが舞台上の姿を通してはもう一つ見えて来ず、重要な基本情報だけにもう一工夫できなかったか・・という憾みが残った。