デカローグ7~10
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2024/06/22 (土) ~ 2024/07/15 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
公演の後半にDプログラム、最終盤にEプログラムを駆け込みで観た。順番に感想を書いていたら中々のハードルなので簡略に、まとめて。
Dは上村演出の2つ。一つ目の「ある告白に関する物語」は、「子どもは誰のものか」を問う物語。
母=エヴァ(津田真澄)の<娘>アニャ(三井絢月=Wキャスト)を<姉>のマイカ(吉田美月喜)が誘拐する。実際はアニャはマイカの娘であり、エヴァはマイカの母。
冒頭、夜泣きする赤子に手をこまねくマイカの姿がある。マイカは年端が行かないか世間知らずの(発達障害的な?)風情で、これを見かねたようにエヴァが赤子をあやす・・という象徴的シーンが切り取られる。アニャはやっと学校に上がった位の年頃で、<姉>のマイカにもなついているが、頼りにしているのはエヴァのよう。現状を納得していないマイカはかねてからの計画を決行する。ある日アニャと<母>二人が劇場に行った際、エヴァが席を立った隙にマイカがアニャを連れ去る。アニャは「誘拐」を楽しんでいる風だが、エヴァの方は顔面蒼白、夫(大滝寛)に告げて心当たりに電話をかけまくる。一方マイカは子どもの「父親」(章平)を訪ね、一晩の宿を請う。かつてエヴァが校長をしていた学校の生徒だったマイカは、若い国語教師だった彼と「出来て」しまい、子を授かったのだった。
エヴァは激怒して二人を別れさせ、男は教師を辞めたらしい。地味に暮らしていた彼はマイカを見て驚き、自分の子を見て戸惑うが、最初は拒絶感の強かった男もマイカの純粋で一本気な人間性を思い出してか、一個の人格として愛した過去が蘇ってか、宿を与え、彼女のために自分がやれる事をやって良いという気になった事が分かる。男の所にもエヴァから電話が掛かり、彼は「知らない」と答える。
夜、マイカは実家に電話を掛けるとエヴァはホッとするのもつかの間、マイカの強い決意を聞かされ、絶望する。夫はそんな彼女に、「なぜマイカを拒否するのか」と諫める。エヴァは自分がマイカをとうの昔に失っている、とこぼす。ここで母娘関係のしこりが見えて来る。そしてエヴァが「マイカの代わりに」アニャという娘を得たと思っており、仕方なくアニャを引き取ったのではなく「かけがえのない存在」として迎えたのだという事が知れる。十戒の「他人の財産を欲してはならない」が浮上する。私達は如何にマイカが力不足であろうと、子を奪ったエヴァに疑問を投げかけなければならない、と促される。そんな予感が押し寄せる。
マイカは早朝目が覚めると家を出て、近くの駅へ向かう。彼女の行く先はカナダ。遠い。男は彼女の不在に気づくと、エヴァに電話をかけ、マイカが居た事を告げる。酷寒の早朝、始発までの時間駅員は暖かい駅員室へ二人を誘う。うたた寝の間にマイカたちは捜索者に見つけられ、アニャは「ママ」とエヴァへ駆け寄る。ちょうど電車が着いた時だった。エヴァはほんの僅かな変化をここで見せる。アニャを諦め、一人でホームへ向かおうとしたマイカの背中に、「あなたが必要だ」と声をかける。直情的で決めた事に一直線に進む習性のマイカは、去る。彼女の内心は分からないが、娘を奪われた思いだけは消えずに持ち続けるだろう。母はそんな娘を受け入れられなかった過去をどうにかこの時、辛うじて「否」と言えた。マイカの挙行に見合うだけの内省を要請されている事に、気づいたのである。
キェシロフスキの書くエピソードはどれも悲しい運命と、僅かながらの光がある。
二演目めは、他の作品中最もストーリー性に乏しい(又は描き切れてない)話だった。テーマは最も社会的に重いホロコーストである。観察者である「男」(亀田佳明)が唯一、台詞を喋る場面がある。ポーランドの大学のゼミで教授(高田聖子)が与えたテーマを考察するために学生が持ち込んだそのエピソードは「デカローグ」の何作目かのもの、だからそれを「知っている」男がこれを代弁する(女学生は口を動かし、声は亀田のもの)形である。このゼミには訪ねて来たばかりの女性(岡本玲)がいる。教授の著書を英訳した女性であるが、それ以上の縁があった事がやがて明かされる。戦中、アウシュビッツで親を亡くした彼女に関わる事になった教授は、彼女を冷遇したのだった。(ただその具体的な出来事が台詞だけで説明されるその台詞がよく聞き取れず、把握できなかった。)
ユダヤ殲滅が企まれたホロコーストと、その行為がどう重なるのか、別物なのかが不明。ただし「赦し」がテーマである事は分かる。最後の場面までに演出的な趣向が凝らされた後、教授側から彼女へ手を差し出し、抱擁するという美しい形で幕となる。独特な語り口の話であったが、「何があったのか」がその説明台詞以外から汲み取るヒントが得られず、それはその事実を多面的に見る視点ないしは感情が人物を通じて見えてこなかったためではないか・・といった事を考えてしまった。
やはり短くは書けない(言っちゃってるし)。最後のプログラムは別稿にて。
ナイトーシンジュク・トラップホール
ムシラセ
新宿シアタートップス(東京都)
2024/07/16 (火) ~ 2024/07/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ムシラセを二度目の観劇。前回観た芝居といい、お笑い(芸人)の世界がこの作者のホームグラウンド的な(勝手知ったる?)フィールドなんだろうな、と開幕早々に想像された。江戸の戯作者(浮世絵師の名も戯作者として扱っている)の名をもらった登場人物たちが、着物をまといつつ現代の熾烈なコミック作家の世界を生きる当事者たちとなる。当人らは時代がどちらになろうともキャラ・役割とも変わらず、その変化をやり過ごしてるのがノリ突っ込み的な味で、作劇に生かしている。
ネタバレは避けるが、出来る役者、キャラの立った役者を配して美味しいシーンもあるがギャグを日常語とした作風にシリアスが混じると扱いに難渋してる印象が少々(作者的には狙ったニュアンスなのかもだが)。最後はメッセージにうまく落としている。「創り出す者」の苦悶、熾烈な競争世界を生きる孤独、そんな彼らに温かい眼差しを当て、幕を閉じていた。(どう落としたか=どんな言葉を彼らに掛けていたかは、忘れてしまったが・・どうも劇の最終場面は「終わるな~」という感慨が先行するせいでえらく忘れがちである。)
客席に(何故か前の方に)空きがあったのが空間的には淋しかった。直前に公演を知った私のような人も多かったのでは。
オーランド
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2024/07/05 (金) ~ 2024/07/28 (日)公演終了
実演鑑賞
作家バージニア・ウルフへの関心とも相まって観たかった演目。序盤のステージを観た。オーランド役の宮沢りえが延々と喋る。台詞の言い淀みも噛みも無いのだが幾許か、探り中な感じが流れるような、ゲネプロな空気感がある。形先行・内面後から・・栗山演出のステージ捌きは(当り前だが)先行している。隅々に血が行き渡ると凄いだろうな、と思う所はあった。
本作の梗概をどこかで読んでいて、時空を旅する超越的な主人公を「ペール・ギュント」と重ねていたが自分の中ではそう外れておらず、幾人かの登場人物は人間だが、(貴族階級の世界というのもあるのか)浮世離れした、それぞれが独自進化したような生物に見える。舞台はイギリス、16世紀から、現代まで(作品は20世紀前半の著)。時代を超え、果ては性別も超えるがそれも「無くはないかも」な空気が流れている。性差が人間に及ぼすもの、についての壮大な思考実験の実験室は舞台奥一面の壁(人一人通れる出入口が中央下にあるのみ)、宮廷のような床の伽藍とした空間で、これが目に焼き付いている。スタッフ陣も一流で音楽・国広氏は相変わらず縁の下に徹した深層に働きかけるような音楽(だから毎回あまり覚えていない)。
作者は女から男、ではなく男から女への転身とした。そこに意味を見出す。ある種の不条理だが、「どちらかに(自分の選択によらず)生まれる」事自体、もっと言えば生命そのものが不条理である、その感覚を深掘りした先にある何かは、人が辿り得る最も尊い「変化」なのかも。
『口車ダブルス』
劇団フルタ丸
小劇場B1(東京都)
2024/07/10 (水) ~ 2024/07/14 (日)公演終了
実演鑑賞
フルタ丸初観劇。「うまいな~」と幾度となく感心しながら観た。下北沢B1は馴染みのある劇場だが、舞台をゆったりと贅沢に使ってる感覚が新鮮。未知数であった「講談」要素がどう絡んでいるのか・・そこにやはり関心が向かうが、開場時間の間流れる女性講談の音源がアウトし、開演となると、見台を高くした台上に何と女性二人が座り、講談調の語りが始まる。さて・・・
もっとも自分は講談を「落語」を通してしか知らない。(神田伯山氏の動画を初めて目にしたのは割と最近。)枝雀の秀逸なくしゃみ芸が聴ける「くしゃみ講釈」や、志の輔の全編講談調の新作を今思い出すが、(伯山氏のを聴いて実感した所の)講談の真骨頂である「クライマックス」のテンションであったりが、今回の作品にも盛り込まれ、また時折高座に出てくるフレーズをうまく嵌め込んだりと、単に「語り手(講談師)の進行による劇」止まらない趣向の充実がある。
ストーリー的には舞台となる保険屋の営業部員それぞれの人生模様が切り取られ、各人の人生の分岐点を華麗に(見た目的にはバタ臭くとも)経て行く物語が講談的に綴られる。
正直、出だしは打ち込みの音楽が「和」と合わないな、とか、可動式「見台」台の二人が人に隠れて見えないといった「不便さ」や多少多めな「甘噛み」など物理的要素に引っ掛かっていたのだが、仕込んだ伏線がやがて花開く考えられた台本に、「なるほど」「うまい」と心で呟くのであった。
ナイロン100℃ 49th SESSION 「江戸時代の思い出」
ナイロン100℃
本多劇場(東京都)
2024/06/22 (土) ~ 2024/07/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ナイロン観劇4度目になるか。比較的、見応えある舞台だった。と言っても以前観た「わが闇」等は一定評価されているので、自分の感受性の問題かも知れぬ。で、今回はナイロン的アプローチを漸く理解し始めたという事なのかも・・?
所詮遊び以上のものではない、と作者は腹をくくってるのだろうと推測しているのだが、何かメッセージらしきものを込めて来る瞬間があり、それが茶化しなのか、その逆(日和った)なのか、どっちだ。やっぱ日和ったのね、と。「いい話」にしたいなら直球でやってみろ、と言いたくなる感覚?それかも知れない。
ただ、死体の腕や足が出て来ても平気で見れてしまうシュールなワールドへの巻き込み術は、さすがである。心から笑えるギャグも一つあった(一つかいっ)。
シュールなワールドでの、俳優の肉体の「力」の貢献を実感する所あり、途中で気づいた存在がズームされて目に入って来る池田成志、同じく途中で気づいた奥菜恵(どこまでも変らない)、コールでやっと気づいた山西惇らの圧は中々であった。客演四名の一人坂井真紀はビッグネームと悟るも、判別できず(坂井美紀、水野真紀、水野真紀未だに識別できない)てな塩梅。
だが、どこか「勿体ない」感が残る。それがナイロンと言えばナイロンなのだな。
小劇場への客演で目にしていた水野小論が出るとホームなのに何故かアウェイで頑張ってる錯覚に。
問わず語りの三文オペラ
YUTOMIKA ゆーとみか
座・高円寺2(東京都)
2024/07/05 (金) ~ 2024/07/06 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
こんにゃく座人脈だろうか、比較的新しいユニットによる「歌」芝居である。クルト・ヴァイル作曲の「歌」が十数曲、この「三文オペラ」という話がよく分かった。シンプルなストーリーだが独特な匂いがある。悪事を働き、女を弄ぶマック・ザ・ナイフが、最後は縛り首になる悪役物であるが、石川五右衛門よろしく最後に公開処刑される怪盗・鼠小僧を翻案した芝居(佐藤信版は観てないが野田歌舞伎版は確かそんなであった)はこれに着想したのかも。。
ヤツに娘をたぶらかされたピーチャム商会の店主、その実乞食らに盲や片輪を演じさせ浄財を巻き上げて伸しているピーチャムが、マック捕獲に執心し、逆に警察署長タイガー・ブラウンがマックを逃そうとする転倒。最後はタイガーは折れ万策尽きるのだが、描かれるマックの人間的魅力を作者は、実は弱き者の味方であったとか、親思いであるといった徳目でなく、己が歓心の赴くまま、自由に生きる姿に見出させる。そこに女郎たちやある種の人間は惹かれ、ある人間は疎ましがり、またある人間にとっては「裏切っても許してくれる」人物。
彼がやった程度の「悪」は、大手を振って罷り通る巨悪に比べれば取るに足らないものだ、という視線は芝居の中でほぼ語られる事がないが、物語の底流にひたひたと流れている。ブレヒトは壮大な皮肉の物語を書いたのだな、と思う。
舞台の方は、演奏者二人(ピアノ、サックス)以外は6名。同好会的雰囲気のあるユニットだが、公演ひと月前に主要出演者の一人が急逝したとの事で、追悼の言葉がパンフにも記されている。そんな事もあってか、初日は台詞が詰まる等厳しい瞬間もあったが、その時の気まずさを超えて、終わってみればドラマの情感を伝えて来るものがあった。歌の力だろうか。
こんにゃく座の芝居がそうである時が私は大変好みなのだが、「歌」に芝居を従属させない、「歌が芝居である」表現に、なっている。歌唱力はバラつきがあるも、個性の振り幅と言え、「歌」が芝居として連なり行く舞台になっていた事が、私は満悦であった。
地の塩、海の根
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2024/06/21 (金) ~ 2024/07/07 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
公演序盤のステージを観たが書き忘れていた。正直「当たり率」の低迷が個人的には続いた時期があったがこの所、往年の燐光群舞台、坂手洋二氏の筆致が蘇る感覚がある。本作はウクライナに照準した。二年前に関西で行なわれた反戦イベント(渋さ知ラズの名も出ていた)の会場に立って当時を振り返り、この場所で今リーディングを行なうとしているのだと男が語ると、俳優らがわらわらと登場。取り上げるのは、ウクライナ出身作家「地の塩」である。
場面変ってウクライナのとある地方都市の郊外、ロシア語で書かれたこの小説をウクライナ語に訳す使命(ウクライナ人アイデンティティの模索)を自らに課す男と、彼の良き対話相手の妻が登場し、当地で開かれた演劇祭に参加したOFFにそこを訪れた日本人の男女と、草原を見渡すそこで出会う。演劇舞台の話題も少々。
その夫妻の息子が今、自らの意思でロシア(クリミア)に滞在していると言う。やがて息子は帰郷した折、「ロシア人であること/ウクライナ人であること」の意味を探る旅の中で彼が得た必ずしも父母と考えを一にしない考えを告げる。
ある場面ではロシア・プーチン大統領の演説が、説得力を持って演じられる。プーチン大統領の資質についても語られる。が、彼を礼賛するネットの記事や書き込みの中には不正確で盛った事実も随分あると、日本人のリーディング話者らの会話により紹介される。引いては日本のリベラル派識者の中に「さえ」ロシアを擁護する人間がいる事を嘆く台詞も。
ウ露関係を前世紀から歴史的にひもとき、現在の状況の本質を作者なりに捉えた現在地は、横暴なロシア・プーチンの所業はどこまでも看過すべきものでない、というものだった、と思う。そこに結論の押しつけ感はなく、ウクライナにも様々な声がある事、我々は事態を「よく見て行く」責務がある事、この結語へと芝居は収斂する。
ウクライナの場面では、「地の塩」翻訳の志が事態の緊迫により頓挫した、とあったがそこから時を経て(確かそこがエピローグ)、翻訳作業は妻が引き継ぎ、ほぼ彼女の手で完成を見た事、夫は「地の塩」の続きを「海の根」と題して書こうとしている事、その未来への眼差しで芝居は幕を下ろす。
今回の舞台装置は十年近く前観た舞台(不正確だが「ゴンドララドンゴ」あたり)で使われた、前方客席をえぐり取って残った最前列前に壁を据えて、死角部分が「袖」代りという設え。奥側へ傾斜した舞台を見下ろし、手前の壁上のエリアでの演技を超至近距離に見る。これの視覚的な塩梅も面白かった。
OVERWORK
キュイ
スタジオ「HIKARI」(神奈川県)
2024/06/28 (金) ~ 2024/06/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
直前に飯を(しかも消化の良くない)食って観劇に臨んだ。この所観劇中のうたた寝がなく完全に油断していた。第一部の後半1/3と第二部の前半1/3を見失ってしまった。二演目の間に中央手前に調理台となるテーブルが出て来るが微かにその記憶があり、演目の境目と認識しなかったような体たらくであったが、中々面白いと思わせるものがあった。
綾門氏のテキストも久々。モノローグ系の戯曲を書く作家の中では最も早く目にした(というより聴いた)人だが、恐らくそれは変わらないだろう、息の詰まるシビアな現実(又は心的風景)を書いてるに違いない、という予想はその通りだったが、言葉が立っている。睡魔の中では言語が逐語的な理解に到達させないがその手前の所で、語感やリズムで感覚的に伝えて来るものがあり、流石と思う。美術批評家椹木野衣氏の言う作品を「丸ごと飲み込む(食べる)」という奴か。
ニュアンスの伝達は役者の貢献である。
第一部は3名がそれぞれのモノローグを別個に、日々のルーティンを象徴する動きをしながら、時に折り重なって吐き続ける。第二部は一人によるモノローグを、松森モヘー氏がテーブル上で野菜を切り出す所からスープを作りながら、喋り続ける。マイクを通して時に加工した声を使ったり音楽、照明、ある種のパフォーマンスに勤しみながらとにかく喋り続ける。語る主体は女性と思しかったが、人物が一人なのか別人物をも演じているのかまでは判らない。中野坂上デーモンズを私はほぼ初めて観たが中々の迫力であった(テキストはきっと報われたろうと思わせた)。
日本社会の絶望は根が深い。立ち上がらないからであり、立ち上がらせない力学が働くからであり、切腹だけが最後に溜飲を下げさせる唯一の手法だという倒錯の文化を有難く引きずり続けているからだ。自分もそこにどっぷり浸かっている。
二十一時、宝来館
On7
オメガ東京(東京都)
2024/06/26 (水) ~ 2024/06/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「灰皿役」とあるので擬人化の遊び要素がありそうだが回替わりのゲストが矢部氏、青山氏、On7メンバー(当初宮山だったのが小暮に替わり、宮山は小暮灰皿の回のみ人間役で参加)と、余りにかけ離れたチョイスでどの回に行くか正直迷った。擬人を演じる姿が想像されてしまう矢部氏より、On7フルの回、または予想の付かない青山氏の回が良いな、と思い始めるも行き易さを優先し、結果矢部氏の回を観た。予想通り「予想を裏切らない」演技であり佇まいで正直裏切って欲しかった(灰皿というモノに扮してるのに違和感がないのである。違和感がない事は逆に「?」を残す。俳優は役になりきって演じるのでなく、演じる姿(俳優自身)をさらしてナンボだったりするので、矢部氏は円筒形の灰皿(赤い)を頭に被り全身真っ赤なタイツ姿をさせられた事に、些かの違和感を覚えたならばその事態に何らかのアクション、抵抗感や違和感が漏れる等の内的アクションがほしいし、逆に心地よいのであればそれを全開で伝えて欲しかったりする。
とは言ってもそれは役者としてはかなりら高度な技に属するのだろうが。。
無茶振りにどう応えるか、というお題のようなものだ。
とは言え話は面白く、高校時代の同窓会会場のホテルの喫煙室での短い芝居の中に、三者三様の時代を反映した生きる切実さがあり、その模索の先は暗澹としているが仄かな救いの予感のようなものもある。三人を点とした面は群像を作っていてそれが胸をざわつかせる。
灰皿の語りから始まった劇は最初標準語だったので「おや!」と驚いたが、女性らの登場以降高知版(幡多弁)がスタンダードとなり、安堵。耳に心地良く台詞を聞いた。
音埜淳の凄まじくボンヤリした人生
ほろびて/horobite
STスポット(神奈川県)
2024/06/21 (金) ~ 2024/06/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久々のほろびて。と言っても本公演2本、さいたまネクストシアターへの書下ろし作品(演出:岩松了)を観たに過ぎない。今回は初期作品のリクリエイトとの事で、新鮮な感触が味わえた。
表現上「これは幻想なのか、想像なのか、現実なのか」が決定的な部分で判らなかった所があった。二つばかりの解釈があり得るそのどちらかによって評価が分かれるという所でもあり、あらまほしい解釈の方を信じたいが、そのためにはもう少し表現上の工夫がなければ・・という感想であった。
STスポットを横長に使い、調度は置かれているが住居内の「壁」部分は床にテープで示され、映画『ドッグヴィル』(黒い床に白ガムを貼りつけただけの「村」のセットの中で演じられる)で、人物らが次第にリアルな存在に立ち上がって行くのに似た、「段々見えて来る」感覚が中々面白かった。
雨とベンツと国道と私
モダンスイマーズ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2024/06/08 (土) ~ 2024/06/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
正直ツボであった。ハラスメントがテーマとして浮上しており、回想場面と現在進行形の場面を行き来するが、芝居の真ん中で長尺の回想場面がぐっと入り込ませる。根底には総合芸術である映画を「創り出す」営為と、非対称的な関係性の歪みをどう評価するか(できるか)の問題がある。前作「ビリー..」も劇団の話だったが、映画現場ではより「仕事」の側面が強くなる。芸術性の要素に「お金」の要素が大きく絡む。勢い現場は熾烈になる。ハラスメントすれすれの言動が飛び交う。
句読点シリーズが始まった頃だったと思うが入場料3000円にこだわると宣言し、コロナを経て今はそれをアピールすらしていないが、今となっては破格である(無論芝居のレベルも勘案して)。
芝居は映画界に憧れを持つ(講座に通ったりして一度現場の手伝いに入った事がある)女性が語り手となり、彼女の視線で久々にお手伝いを乞われて久々に訪れた撮影現場の光景が描かれる。だが彼女は語り手に留まらず、徹するのでなく、以前行ったその現場と、久々にお手伝いを頼まれて訪れた現場の二つは、世の中では終息しようとしているコロナ同様、彼女にとって「終っていない」問題として交錯する。彼女がかつて見たハラスメントの飛び交う現場は、彼女にとっては「勇気をもって立てなかった」忸怩とした過去であり、それは彼女の儚く終えた「初恋」に絡んでいる。パワハラ一般の問題ではなく、個的な体験としてある。世間一般で言う「パワハラ」はその当事者である監督のスキャンダルとして映画界から放逐される要因として機能するのみ。物語はそうしたもやもやと未解決に取り残された問題群を看過する事なく、最後に拾い上げる。
見事に溜飲を下げる場面に私は快哉を禁じえなかった。放送コード、コンプライアンス・・表現そして芸術の領域に、これらが果たしてどう有効に機能するのかは大きな議論が必要だと思う。その議論を喚起するに適切なケースが、この芝居では作られている。そこが巧い。色々と語りたくなるが、もう少しまとまったら書いてみるか。。
火の方舟
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2024/06/14 (金) ~ 2024/06/23 (日)公演終了
実演鑑賞
堀江安夫戯曲は以前一度拝見した程度でほぼ未知数だったが結局観た。完成度云々で語れない迫力がある。原発擁護論を一身に担う父役と反対論の二人(新人新聞記者の娘とその伯父=父の兄)が拮抗し、父が養子入りする格好になった妻と兄弟の過去そして反原発運動を担った妻の亡父の存在も絡んで語りに語られる。奇しくも2011年3月10日、たまたま沖縄から所用で出てきた兄との何十年ぶりの再会を機に、原発の是非からジャーナリズム、人生を語り尽くす一夜の劇だ。
演出桐山知也の名を突如?頻繁に見るようになったが、数年前にも観ていた。所属はなく実力で伸して来た新鋭のよう。
おちょこの傘持つメリー・ポピンズ
新宿梁山泊
新宿花園神社境内特設紫テント(東京都)
2024/06/15 (土) ~ 2024/06/25 (火)公演終了
実演鑑賞
ほぼ諦めていたが、何とか客席に滑り込む事ができた。
どこから吟味すべきか・・。
本戯曲、初演は1976年。状況劇場時代の演目であった(場面転換が少なく登場人物の人数の大きく変化する場面も少ないこの類型は唐の後期戯曲と勝手に決めつけていた)。
この演目を知ったのはSPACが珍しく唐作品を取り上げた事(2020コロナ中止、2021年上演。未見)によってであったが、2022年唐組で上演したのを観た(他の上演記録がないのでここで観た事になる)。梁山泊では初である。
何と言っても話題は今回の俳優の布陣に集まるが、劇場公演で金守珍が著名俳優の座組を演出する事はあっても、今回は花園神社・紫テントである。サプライズ感の大きい豊悦と勘九郎、今回の舞台のレベルは両名無しには達せられなかった事を認ざるを得ない。作品本位での配役である。一つ付け加えれば、(御大の死を金守珍が予感したのかは知らないが)状況劇場が当時具現していたテントの熱気を今ここに彷彿させようとしたのではないか、とも。そんな思いが過ぎったのは寺島しのぶ演じるヒロインが李麗仙に見え、相対する白スーツの豊悦が唐十郎に重なるような幻視の瞬間がふと訪れた時。(もっとも私は最晩年の李麗仙が梁山泊「少女仮面」に客演したのを観たのみで、唐十郎は短い映像でしか見ていない。)アングラ前の時代を知る人に、当時アングラは何だったのかと訊いたら、言葉を探しながら「(あれは別カテゴリー、というニュアンスで)有名人が出たりしてね」の言葉でまとめていたのを印象深く覚えているが、私なりの解釈を重ねると、スター性を帯びた特権的肉体が、一身に視線を受け止める事で成立する観客との交歓がテント公演の熱気であった・・となる。私の想像の届かなかった「時代の中のアングラ」の一側面を感覚的になぞる(追体験する)観劇となった。
世界に憧憬し悩む無垢な青年と、曰くある過去を持つ大人(男そして女)の構図はやはり唐十郎世界に欠かせないなと改めて思った次第だが、その青年役を勘九郎が担い、冒頭から喋り倒す。見事である。感想はまた改めて。
残す所1ステージ、完売。ネットでの当日券抽選も前日に終えている。
ただ一点、当日になって空席が生じる可能性はゼロでなく、テント公演の寛容さは「前日抽選の当選者か」を問う管理的目線より「観たい」情熱を受け止めてくれそうな現場での心証ではあった。「外で声を聴いて想像するだけでも良い」と腹を括れる熱量の方には、足を運ぶ事をお勧めする。
水彩画
劇団普通
すみだパークギャラリーささや(東京都)
2024/06/17 (月) ~ 2024/06/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
今回も茨城弁の日常風景を切り取った会話劇。堪能した。
おなじみ用松亮と坂倉なつこ(奈津子改め)の夫婦役コンビに、娘(安川まり)とその婿(浅倉浩介)がまた「らしい」。
同じカフェスペースを訪れ隣のテーブルに陣取るカップル(伊島空・青柳美希)も、地元で結婚を控えた風情で年代差もうまく出てる。
後者の話題が序盤は聞き取れず、両グループ同時進行とは言え(青年団のように)重なる事なく聞き取れるが、序盤での若者コンビの方の会話は四人組に比べると少々理解に難があった。中盤以降漸く会話とそこに込められた感情が見えてきた。
この二組同時進行の会話劇が、今回の試みであったが、まずまずであった。
古い夫婦像がモデルになっていると感じるが、2020年代の今も、ああいう感覚は生きているのだろうか。坂倉演じる母の「曲げなさ」が見物だし、用松父のあの感じ(うまく言えない。そういう領域を表現しているんである)も相変わらず良い。
地元で暮らして行けてる、という所で人物ら全員がとりあえずは生活の安定が約束されてる感があるのだが、今の時代シビアな経済面への言及が、(そういう問題を忘れる時間が有難いのも本音だが)リアルを穿つ劇としては、欲しい所。
地元で教師をやっていたのが黙っていなくなり、最近東京でNPO活動をやってる事が分った友人が、若者カップルの主な話題で、そのあたりで微かに触れてはいるのだが。
白き山
劇団チョコレートケーキ
駅前劇場(東京都)
2024/06/06 (木) ~ 2024/06/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
随分ご無沙汰してしまった当劇団であるが、観に来て正解。斎藤茂吉という題材を、うっすらと(終盤では濃く)戦争に絡めて描いていた。急遽主役の変更との事だったが、緒方晋の出演も楽しみで観劇した。この人にしか出せない味がある(そういえば一応は関西弁は封印していたな)。村井國夫氏では全く違っただろうと、とりわけ主人公の特徴「雷を落とす」場面で、想像もしながら観た。茂吉の息子二人を浅井と西尾、弟子を岡本、三人のコンビネーションを茂吉に対置させ、第三者の存在として近所の農婦を柿丸氏に振って五人芝居、シンプルな構図も憎かった。
地の面
JACROW
新宿シアタートップス(東京都)
2024/06/14 (金) ~ 2024/06/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
久々に生観劇のJACROW、今回の舞台は不動産屋。
作劇と俳優と演出と、快楽に満ちたステージ。名古屋演劇界から参加した両名が実によい。気づけば、男だけの芝居であった。面白い。
阿呆ノ記
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2024/06/04 (火) ~ 2024/06/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
「夏至の侍」(2022)にて筑豊地方の斜陽産業の金魚問屋の女将を演じた音無美紀子が再び客演。桟敷童子は東憲司の言うように毎度似たような話(凡そ三つのパターンを焼き直している)だがオリジナルを生み出しており、売りは完成されたテンポ感と高揚感、舞台装置と屋体崩し的クライマックス、という事になる。この桟敷童子の芝居に音無美紀子が加わり、ナチュラルに真情こぼるる姿がハマる。墨汁が広がるように芝居の隅々まで「リアル」の魔法が掛かるのである。私にはそれが圧巻であったが、今回も全く同じ事が起きていた。
桟敷童子の物語は神的存在や天災や魔物の伝説が民間伝承で伝わっている村落が舞台となり、やがて近代化の波に浸食されて行くといったものが多いが、今回「敵」としての近代は、狩猟を生業とする村に対する鉄道事業(工事で使う発破で獣らがいなくなる)、戦争協力の要請(銃の供出、徴兵)である。近代化は根本的な誤りを抱え、人間を虐げる。そうした被虐の人間が己らの復権を目指す時、伝承が蘇るのである。
今作の伝承は「阿呆の子」と言い、村が飢餓などの危機に瀕した時、生け贄に捧げられるべく育てられた「捨て子」たちがいて、劇中では三人の子という事になっていて時に舞台上に姿を現わす。実際に彼らを目で見たのは幼い頃のおばあ(音無)のみで、まだ子供だった彼らと山の中で話した記憶が劇の終盤に蘇り、そして今「婆」となった彼らと、再び相まみえる。猟で食べて行けず鉄道工事の人夫となった男たちにも(徴兵は免除されると言われたのに)赤紙が届き、不幸な事故も続いて村は荒廃し、強風が吹きすさぶ山の天候をして阿呆の子らが怒りの声を上げている、とする。
もう一人の主人公は、鉄砲問屋をモーゼル銃付きで追われた一人娘。おばあが呼び寄せた娘を、昔妻を亡くした自分の息子の後添えにと考えたが息子はまだ妻を忘れられぬと拒否するも、宿を与えて村に棲み着く事になる。この娘(大手)のキャラが秀逸。後に悲劇のヒロインとなり行く。悪役をやらせれば何と言っても原口。
我らが板垣女史は・・阿呆の子に扮していた。顔をさらすのは終盤の「出会い」の回想場面。一瞬とは言え変幻自在振りに嘆息(先般のこまつ座での客演に続き役の振り幅があって最初気づかず)。
主役の露出が突出した分他の俳優が控えめであったが相変わらず見事なアンサンブルである。
Medicine メディスン
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2024/05/06 (月) ~ 2024/06/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アイルランド産の戯曲は日本でもよく取り上げられ、話題作も多い。主に英語で書かれ英米で上演されやすい=各国にも翻訳されやすい、という事もあるだろうか。
エンダ・ウォルシュは近年(2000年代以降)の作家で若手のよう。日本ではいずれも白井晃の手で演出され、私は今回初めて目にした。
チケットは早い段階で完売であったが、当日券に並ぶと結構な数があり、最後尾に並んでも「座席」には座れた。どういう売り方を?・・とふと疑問が。
幕が開くとそこはだだっ広いスタジオのような空間。物がやたらと置かれてある。パジャマ姿の男が入って来て、どうやらパーティの残骸らしい物たちを男は仕方なく片付ける。奥にドアがあり、ドアまでの幅広の通路の左側に防音室のような部屋が設えられており、正面がガラス張り。ここへも頻繁に出入りする。その手前の横に広い舞台空間は、上手に人一人入る小さなブースが、下手には小卓と椅子が、奥には音響設備が置かれた小さなワゴンが置かれ、その下手側の隣にドラムセットがある。
三人芝居。プラス、ドラマーが参加。
戯曲の語りの技巧というか、洗練され具合が現代的で、隠喩の手法が独特である。
精神障害、と思しい青年がそこは病院か施設に通じてあるか内部なのだろう、パジャマのまま(着替える間を与えられず)年一度というこの日を迎えたものであるらしく、彼のためにこのスタジオは予約されている。
彼自身の物語を語るパフォーマンスを完遂させるための助っ人として、二人の女性(たまたま二人ともメアリー)と、ドラマーが順次、入って来る。
青年自身が書いた台本を読む彼のバックで、ドラマーが即興の伴奏、音響係の女性が効果音やマイク音量調整、そしてもう一人のメアリーが全体を仕切り、台本を勝手に(断りなく)削ったり、スタッフに指示を出す。彼女はこのイベントに実は深くコミットをしており(趣旨を理解しており)、青年が今後も施設で暮らし続ける選択をするよう誘導するのが使命らしい事が後に分かる。
そこまでのミッションを伝えられてない(趣旨にそれ程賛同も関心も寄せて一方のメアリーは、彼のパフォーマンスを完遂する、という表向きの使命に真面目に取り組む内に青年の語り(幼少時の虐待=ネグレクトの風景など)をその言葉通りに(意味付けせず)受け止め始める。このパフォーマンスのポップな演出に疑問を持ち始めた様子で、孤独であり続けてきた彼の「友達」(あるいは恋人)となって行く。
まるは食堂2024
Nana Produce
座・高円寺1(東京都)
2024/04/17 (水) ~ 2024/04/21 (日)公演終了
実演鑑賞
何度目かこのタイトルをチラシで見て(「続」が付いたのも同じデザインらしく)、「では一度観てみるか」と足を運んだ(正に宣伝効果)。
実話に基づく芝居であり、知多半島で夫婦で漁師をしていたおかみが夫の若死にから紆余曲折を経て食堂そして旅館を経営するようになった一代記なのだが、脚本・演出は佃典彦、恐らく中京文化圏における「郷土史の宝発掘」の趣きである。従って「いい話」という大前提がある。何しろ女将は近年まで実在したのである。
これは演劇が一つの「歴史」を描く際にどういうスタンスがあり得るかを考えさせる。
私はこの舞台に物足りなさを感じたのだが、その大部分は竹下景子の演技であった。女将という既に大きく認知された存在、その評価の量的大きさに、竹下景子というタレントのタレント性の量的大きさを当てている、その企図だけが私の目に入って来る。特に鼻に付く演技をしているわけでも目立ち過ぎといった事でもない。一見普通にお芝居をしているのだが、その演技の根底に、「俎上に乗る」覚悟がない。女将という存在は大きく、その大きさを体現できるわけではない自分を、彼女はどう処しようとしたのだろうか。シリアスな場面も無くはないが、基本コメディタッチである。これは演出の意図に違いないが、そこに乗っかる主役として、何らかの人物像(決して本人にはなり得ないが俳優なりに作り出した)を果して提示しようとしたのか・・そこに大きな疑問が残る。その作業を「敢えてしなかった」のかも知れず、演出のリードではその余地を見出す契機を捕えられなかったのかもしれないが、私には「さぼった」としか思えない。つまりそこがボッカリ穴になって見えた。
感情を露わにする真剣な演技が出る場面もある。だが、他の場面になると「戻って」しまう(そのように見える)。
一つの人生を描いてはいる。だがこの女将でなくても良かった。全く架空の人を描いた事にしても良かった。何だかそう思えてしまった。酷評であるが、私がこだわる部分に「抵触」してしまったようである。
破壊された女
お布団
サブテレニアン(東京都)
2024/05/23 (木) ~ 2024/06/02 (日)公演終了
実演鑑賞
お布団は昨年7月漸く初観劇してまだ二度目ながら、期待値は勝手に上昇。一人芝居という事で難解さもある程度覚悟して観劇に臨んだが、その覚悟を上回り、汲み取れずに見終えてしまった。
台本を買い、半分を割とすぐ、残りを一週間後に読む。やはり厳しいものがあった。台本から若干端折った部分があったのかどうなのか・・中盤に差し掛かったあたりで台本では台詞を断ち切るように「暴力が発動」、「身体が倒れる。立ち上がる。」と指定するト書きが頻出する。これ、やっていたか、別の動作で代替していたか、も忘れた。途中瞑想の時間が生じてたのやも。ほぼ全編、客席に向かって俳優は語る。例外は、三部構成の二部で「女」が働く現場の描写が(これも語りの台詞を断ち切るように)頻繁に差し挟まれる。「先にお席の確認からお願いします」(カフェでの接客)、その職場を出て、次はコンビニ「いらっしゃいませ」「申し訳ありません。トイレの貸出しは行なっておりません。」・・ここではカスハラ客のネチネチと怒って来るその客の台詞も言う。(このやり取りは「語り」の内容のヘビーさと相まってかなり消耗する。)
第一部は「彼女」の物語。「絶望」や「悪」という、「彼女」が帯びる属性について語られる。他者の物や、人との関係、希望や生き甲斐を「奪う」技に長け、そこにしか「生きる実感」を感じる事がないことを自覚し、それを実践する。
この内面描写的な始まりから、少し進むと叙事詩的展開となる。「彼女」はやがてカリスマ的存在としてカルトの教祖のようになり、「現実を生きづらい人たち」の帰依の対象となる。使徒を引き連れた彼女は「悪」の実践の果てに地上を破壊するが、正義の勇者によって殺される。さらに話は神話的となる。彼女は復活し、再び悪を為す。そして二度殺された後は、彼女という存在がアイテムとして流通し、象徴となり、果てはゲームキャラとなり、消費され尽くす。絞り取られた「彼女」のエキスは枯れた挙げ句ついに完全に消えてしまう。これが第一部。
「彼女」について語った「女」は、さてこれからどう生きるかと現実に立たされている。第二部には現代の風景がある。コンビニやカフェで働く接客場面の台詞、そしてチック症状のような動作が、「語り」の台詞を絶えず中断させる。動作は単純作業(例えばコンビニでの仕事)を手が習慣的に覚えていて勝手にしようとし、それを止める、といったもの。語りはいつしか「女」にとっての「彼女」、を語る「私」の語りになっている。女の内面にある「彼女」の残滓についての言葉は、人は何によって立つか、生の根拠、力の源、といった要素について語っているようで。
そして第三部はどうやら、既存のそれも含めた「神」と、人間の関係を語っているようだ。結語のあたりで、「神は死んだ」という言い尽くされた事実が、もちろん別表現でではあるが据えられ、語りは終わる。この部分が私には、結局着地できなかった思考の経過を見せられたような余韻を残した。舞台を観ての「わからなさ」の理由は、思考が辿る旅が終着点に来たと感じられない自分にあった、のかも。
現代人の存在のあやふやさを、神的な要素をメスとして切り開き語ろうとした試み、それ自体は大変応援をしたくなる内容ではあった。
テキストは現代の生にまとわりつく精神的な「生きること」を巡る困難を想起させる。物語としては成立した(書き切れた)とは言えず、スッキリもしないが、問題の球をガンガンと投げている。