tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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さなぎの教室

さなぎの教室

オフィスコットーネ

駅前劇場(東京都)

2019/08/29 (木) ~ 2019/09/09 (月)公演終了

満足度★★★★

コットーネの大竹野正典シリーズ、「埒もなく..」(大竹野伝)に次ぐ発展形第二弾は、大竹野作品「夜、ナク、鳥」を原案にした新作という試み。作演出=松本哲也(小松台東)、コットーネ企画でなくても観たいと思っただろうが、演技陣も目を引いた。
森谷ふみが降板、代役は演出本人と言うので、男女入れ替えも可な端役かと思えば、中心人物であった。松本氏が女装で、「この姿に一秒でも早く慣れていただく事がこの芝居を楽しむ要素です」とシナも作らず宮崎訛りで。戯曲も例に違わず宮崎弁。

昨年吉祥寺での大竹野戯曲舞台の記憶は朧ろだが、看護学校出の女友達4人組が如何にして保険金殺人をやる犯罪グループと化したか、を淡々と描いていた。今作はそれを土台に幾つか足された要素はあるものの(看護学校時代の四人のシーン等)、基本的には実話の下敷きがあり、女性らの姓を含め原作は踏襲されている。
今作の特徴と感じたところは、主導者ヨシダの強烈な人物像、執拗で細かい場面描写(小松台東特有)、場面の組み方(特に終盤)。最後のは、ラスト及びラス前で時系列的には唐突に過去、さらにその過去と空いたピースを嵌める具合に「全体図」を一気に(ぶっきらぼうに)完成させたような趣。
女装ヨシダ役については、松本氏の好演もあったが決してヨシダそのものでなく、言わば人形劇と同様「本物ではあり得ない」形代が「異形の人間」を観客の想像力で作り上げる媒介機能を果たした、という意味では(結果的に)適切な配役になった、かも知れない。
舞台は駅前劇場を両面客席に組み、ステージ上は動かせる白い立方体数個と小さめの白テーブル一つのみ。俳優の体一つで世界が立ち上がる様を高画素数で眺める緊迫の舞台ではあった。

ネタバレBOX

ヨシダの人物造形には難しいものがあり、今作では閉じた世界で権威と権力を持つに至る新興宗教の構造に近いものを感じた。仲間の結束、紐帯よりも騙す者騙される者の構図がより強く印象づけられ、そうなるとヨシダの行動の動機が少しぼやけて見えてしまった。
ENDLESS-挑戦!

ENDLESS-挑戦!

劇団銅鑼

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2019/08/27 (火) ~ 2019/09/01 (日)公演終了

満足度★★★★

劇団球主宰田口萌作、文学座西川信廣演出コンビによる劇団銅鑼公演は二度目という。最近知った書き手(未見)だが他劇団にまで書下ろす書き手とは露知らず。産廃という題材をどうドラマ化するのか戯曲と作家への関心で拝見した。
先進的取り組みをしている埼玉の実在の産廃業者の題材を、先代の家業を継いだ新米女性社長の奮闘記として舞台化。
地域の厳しい目や不当な抗議、やる気がなく従わない従業員等ネガティブ要素を克服する過程と、持続可能社会を見据えた改革への挑戦とを重ねたドラマになっているが、あまり知られない企業努力の事実性がフィクションに重みを与えている。
今回の事例に改めて感じた事は、産業イノベーションに失敗したと言われる日本では、こと環境部門は国が十分に投資し成果を期待して良い部門に関わらず、構造転換が見込まれるためか既得権益構造(原発含む)を揺さぶる予算配分(インセンティブの設定)は為されない、ばかりか、国民が環境部門に成長を展望するような材料=情報を積極的に流さない(これはマスコミの忖度)という事になっているように感じられる。自分も「言っても仕方ない」病にいつしか感染している。
今回の公演は劇団がこれに目を付け、田口氏に執筆を依頼した事のようであるが、非常に判りやすい紹介となっていた。

ネタバレBOX

難点。西川演出のトリッキーな転換や、それを可能にする汎用性ある数点のカラフルな箱、そして同じ色調の正面奥上方の重機の模型など、軽快なストーリーに合った仕事であったが、描かれる人間ドラマのリアリティがあってこその話。もう少し丁寧に、書き込んで欲しく思った。台詞をさほど増やさずとも、新しい事実が持ち込まれた時にもう一つ質問を投げれば事実の輪郭が見えるのだがなぁ、という場面が多々あった。無論辻褄が合っている必要があり考証をクリアせねばならないが、その労を飲んで踏み込めば舞台上の世界が愛おしく立ち上がったように思う。役者がクリアできる部分もあっかも知れないが全体としてはテキストの問題に思う。
ただ、作者の性格だろうか、真の楽天性からしか生まれて来ないような台詞が胸を突く瞬間があったのも確か。
『humAn』

『humAn』

劇団夢幻

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2019/08/28 (水) ~ 2019/09/01 (日)公演終了

満足度★★★★

つい先日訪ねたプラザソルが相貌を違え、隅々まで飾り込んだ美術(装いは受付付近から始まっている)が夢幻世界のお膳立て完了と開幕を待っていた。後で思い出したが神奈川界隈で一度ならず目にしていた美術担当の名前はこの劇団員であったと知り、成る程と納得。舞台奥にシンプルな二階立ては機能的、一方これを基調に近未来らしくツルンと淡白に収めるかと思いきや、大柱に枯木の枝を配したり緊縛紐の赤が走ったりと素材は不統一なのに全体としてある世界感を持っている。神奈川の演劇文化圏の主要拠点の一つであるプラザソルにて、気になっていたこの劇団にお目見えできた。
女性だけの劇団に半数を占める客演も全て女性で十五名が並ぶと壮観。これが各人堂に入った存在感を放ち、かつアンサンブルを醸す。要所での場面の作り、特に終盤畳みかける幾つかの劇的シーンは「見せ場」として形を仕上げ、灯台下暗し、実力派が育まれつつある感を強くした。
さてお話の方は・・。

ネタバレBOX

本論=ドラマについて。実は開演前鏡に映った自分の目がえらく充血していたのだが、観劇前半に体に来た。相当の時間意識を喪失したため話の人物関係把握と個体判別に難あり、後半の会話が伏線あっての会話なのか、エピソードがどの位説明されているのか等不明点が残った。終盤語られるメッセージの説得力がそれによって違って来る。ただし先述の通り(テキストでなく)「舞台」の収束に繋ぐ「技」により、観客を劇的体験から疎外せず、私もご相伴には与れた。

全編通じて人形の館が舞台。冒頭、人間の女の子たち(高校~二十代?)がある目的でこの場所を訪れるが一枚岩ではない模様。「タイズ・オートマタ」と呼ばれる人形が、訪れた人間(女の子ら)をもてなしている。ちなみにオートマタとは英語で機械仕掛けの人形(複数形)、タイズとは固有名詞に当たるのだろうが語は「絆」の意らしい(私の耳は最後まで「泰造トマタ」と聞いていた)。
全員特徴的衣裳に身を包んだ(メイドカフェの未来形?)人形たちだが、実は人形らは人間の死者を蘇生する技術によるもので、これを発明した科学者キズナの死者への思いが重ねられている存在である事が後半見えてくる。人形たち自身も感情面は変化を遂げているが過去の自分の延長を生きている様子があり、このあたりは完全にSFであるが、新たな使命を自任しているものの「人間ではない」存在とも自覚し、矛盾に行き着く。健気な人形は反乱を起こす事もなく悲哀に満ち、死者の再生に真の解決はない、というマッドサイエンス物の主題をなぞりながら、一つの閉じた世界の終末を演出していた。
二つのキーワードがドラマの収束へ押し出す。一つは先の「死者(人形)=過去」、いまひとつは「友達」(友情?)。前者には普遍性があるが、友達というのは過去の具体的なエピソードが鍵になる。前半の見落しが仇となったとは先述の通りで、視覚的な美と相俟った物語の味を味わい損ねた。
第一部『1961年:夜に昇る太陽』 第二部『1986年:メビウスの輪』 第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

第一部『1961年:夜に昇る太陽』 第二部『1986年:メビウスの輪』 第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

DULL-COLORED POP

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/08/08 (木) ~ 2019/08/28 (水)公演終了

満足度★★★★

ダルカラ自体さほど観ていないが谷賢一氏の演出らしさというのはあり、自分の中では成否がある。前回アゴラで演った福島三部作第一部の時は、演劇特有の「喧騒」が耳についた。戯曲の方は「癖」が無く(無色のイメージ)、それは堅実な作である証と考えているが、シアターイーストで観た今度の第二部も同じ印象ながら、喧騒のエリアから出て後方席から俯瞰で眺めると、舞台としても堅実な作品である。
原発立地自治体の首長となった元反原発運動家の「変節」を描いた悲喜劇。古典劇のような明快な主題がある。チェルノブイリ事故の1986年の設定をどう使うかも関心だったが、史上初の苛烈事故を受け、町民から説明を求められた彼がどう答えるかが焦点。「今回の事故を受けて我が自治体の原発にもヒューマンエラーの余地がないか点検し、備えていく所存」と真っ当な姿勢を語るのか、東電や政府当局がやってきた通り「日本の原発は安全です」と答えるのか・・。

日程に苦慮し、公演終盤で第二部観劇に漕ぎつけたが、第三部は当てにしていた千秋楽当日券狙いが「セット券のみです」との回答に敢えなく沈没。
だが、第二部『メビウスの輪』が投げかけるものは、霞が関に巣食う無謬性の原則(何とアホな原則)なる最も巨大で動かしがたい日本の中枢のモンダイのくすぐりに過ぎないとも言える訳で、考える素材としては腹一杯の感がある。時間を経て是非再演にお目にかかりたい。

肉体だもん・改

肉体だもん・改

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2019/08/17 (土) ~ 2019/08/26 (月)公演終了

満足度★★★★★

前作(熱海の大火前後を描いたやつ)に続き社会性たっぷり勿論歌に踊りのエンタメ性(場末的=私としては良い意味で)満載の2時間半の舞台。真正面から性を扱った原作に正当にあやかり、具体的な形、導入部ではパンパンの客引きとやり取りのバリエーションが紹介され。客いじりに盛り上がる。計算通りの「手玉に取った」ドガドガショーは最後まで息もつかせずこれでもかと多彩なシーンをぶちこみ、社会の下層でままならない状況に翻弄されてなお希望にすがる人間達の物語を力強く描いた。ドラマ的にも殆ど文句の付け所が見つからない出色の舞台。

狂人と尼僧

狂人と尼僧

サイマル演劇団+コニエレニ

シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)

2019/08/22 (木) ~ 2019/08/25 (日)公演終了

満足度★★★★

サイマル演劇団二度目、赤井氏演出は三本目だったか。予想したテイストではあったが、今回は戯曲(作者)に興味がありそしてその期待には応える内容であった。
客演陣にヒロインを演じた元唐組女優・赤松由美、同男優・気田睦と奇しくも共演となり、両者とも存在感あり。昨年横浜で「発見」した演劇集団・荒馬の旅の田村義明氏、怪優と呼ぶに相応しい葉月結子(恐らくサイマル関係)等役者ぶりを味わう快楽は保証付きという所であった。
作品については、時代性を表わす幾つかの特徴と、戯曲に流れる「気分」を堪能したが、筋は部分的に見落とし、本来目指された戯曲の方向も掴みそこねた。それでもドラマの骨格から言葉から迫力は滲み、劇的瞬間がある。狂気がスタンダードである空気が好みであった。

ネタバレBOX

精神病者を収容する施設。医師からの指示を受けて若い尼僧がある独房の男を訪れる。男から何らかの兆候を引き出す目的らしかったが、彼は実はかつて尼僧が心震わせた詩を書いた詩人本人である事を知る。男はこの二三年「女」に渇えていた事を相手に告げ、女は彼に当初と全く異なる感情を抱く。やり取りの中で尼僧はいつしか男の拘束衣を解き、一夜の内に二つの肉体は結ばれ、二人は愛を確信する。男の様子(症状)が変わった事を喜んだのは尼僧を男にあてがう治療方法を提唱した精神分析医であり、束縛や禁止でなく人間的な干渉で人は変わる事の証明である(大意)と上気するが、やがて二人の男女関係は知られる所となる。施設を治める修道院の責任者(修道女)は件の尼僧を指弾し、男を狂人だと激しく罵る。若い二人は逃亡を企てるがその後すったもんだあって(忘却)、男は首を括る。女は狂乱し、刃物を振り回して施設の医師の一人がその犠牲となる。・・その後生き返った(死者として)詩人は喜ぶ女と連れ立って去り、今一人の死者は悪玉性が漂白されたキャラで蘇る(シュールさ極まれり)。このあたりの細部も忘却した。
時代性を表わす要素として、宗教的妄信、新学説である精神分析学、狂人の定義に関する自己言及性などがあるが古さを感じさせず、作風としては科学的議論とオカルト要素が共存するシュールな世界がとりあえず初「ヴィトカッツィ」の印象となった。
「Tip」

「Tip」

円盤ライダー

山野美容学院マイタワー27(東京都)

2019/08/23 (金) ~ 2019/08/30 (金)公演終了

満足度★★★★★

久々3年振り、2度目の円盤ライダー。前回と同じ作・演出村井雄、会場山野美容学院。所謂「劇場」での公演を原則やらない演劇企画体(と呼んでみる)であるが、今回は石坂勇氏プロデュースとある。何だろう・・?この正体知れなさには踏み込むにもエイヤと気合が要る。このたびは休暇をとり、心にゆとりを確保しつつ会場へ赴いた。
客席の大部分が女性なのは前に同じであるが此度は男性の姿も散見し、場違い感なく落着いて観劇できたのはよかった。バーカウンターのある側をステージに、二方向二列の座り心地良い椅子が並ぶ。高い天井まで張られた巨大なガラス面は南北とも縦のブラインドカーテンが引かれ、自然光の間接照明。プラス、天井の照明と、シャンデリアも灯っている。
無言の身体から芝居は始まる。黒スーツ姿の男7人による驚きの舞台であった。・・何に対して?正統に演劇であり劇的である事に対して(殆ど何も言ってないが)。
予期せず胸に溢れた感興を、今は語らず反芻していたい気分である。

ネタバレBOX

私の円盤ライダー瞥見二度とも村井雄氏の作であるので、開幕ペナントレース的世界と円盤ライダー的個性の説明などできないが、全員黒スーツのキメは開幕Pスタイルである所のユニフォームと解釈できようか。体育会ノリに馬鹿をやらかす男共を、熱い眼差しで遠巻きに見る女性たち・・という構図を純粋に体現しているのはこの舞台。馬鹿発散のためのツールであり楽譜である所の「劇」、これに「ダンス」なる飛び道具を加え発散ボルテージは倍加。要した習練量は想像できないが、その道の人である石坂氏と並んで皆一体と化した。
村井氏のテキストは要所で杭を打ち、他はアドリブ混じりの緩い駄弁の時間、ところが終りの方の杭を打ったと思うや綱を引きにかかり、ピンと張られた綱は一気に形をなした。そうなると後は余裕綽々、もう一二本杭を打ち、余った綱を渡すのみ。そのかん場内は激しい音楽の中、馬鹿で無垢で一つな男らの狂い踊りが撒き散らす蒸気が満ちる。かつて踊りに生き、どう見積もっても先の短い人生に絶望し、全てが無意味に思えている男(Tip)が、「現在」通うバーの男達を通して自分の父や若い頃働いたトラック野郎たちと出会い直す物語。そして男らは一様に馬鹿な(=何の利得も無い)エールをTipに投げ、高い天井の場内に谺する。振り向けば新宿の空。27階の窓から男がジャンプしたとしても彼らは男を祝福しその人生を讃えただろう。願望の種を育てたような幻想譚が、身体一つで強烈に立ち上がる演劇のミラクル。
堕落ビト

堕落ビト

劇団桟敷童子

サンモールスタジオ(東京都)

2019/08/23 (金) ~ 2019/09/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

サンモールスタジオでも桟敷童子。
舞台美術に塵芥と並んだ竹邊氏は調べると5年程前に一度だけ観たおぼんろの美術担当であった。客席エリアも装置の一部とし細部に拘った美術が印象的で、桟敷との共同作業というのも頷けた。
すみだパークは横広に使ってなお奥行があるのに比べ、特にクライマックス(屋台崩し的ラスト)の迫力は遠く及ばないが、狭いサンモールを最大限活用。
今回俳優陣が小編成であるのも容量と関係していそうだが役者の丁々発止が加速が止まらないのをどうにか抑制している、と見える程に鮮やかで普段に輪をかけて「芸」の域。
ドラマは近年の桟敷童子が傾斜するペシミスティックな人間観が濃く垂れ籠めて、時代設定は敗戦直後だが現代日本に影が伸びる。ちょうど先日のドガドガ+と同じ時代の「気分」を史実に分け入って再現しながら、舞台としての色彩は全く異なるのが興味深い。

千年ユニコーン

千年ユニコーン

東京演劇アンサンブル

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2019/08/21 (水) ~ 2019/08/25 (日)公演終了

満足度★★★★

アトリエ閉鎖後初の貸し小屋公演。まずはやはり劇場とアンサンブルの芝居とのマッチングが気になっていた。というのも、シアターグリーン(box in box)で観た芝居(過去10本程度だろうか)全てでは勿論ないが「頑張って作ってるのになぜかイマイチ」と感じる事しばしば。原因を手繰って行くと私の見立てではどうやら舞台上に架空空間を作り込めない(チープに見せてしまう)劇場の造りにある、と思っていたからで。ステージの奥行は狭く、客席の勾配に比してステージの天井が低く照明機材も見てしまう。この特徴はブレヒトの芝居小屋(旧アトリエ)とは真逆である。
舞台は健闘していた。可動式の装置、唄、かいぶつのキャラクターや、背景映像など。しかし、劇場の特徴に関連するが、客席から見下ろす条件で見るステージは箱のようで、三つの装置は動くので感覚としては一面の床であるが、これが「黒いパンチ(カーペット)が敷いてある場所」、という具合に見えてしまう。役者が「役」としてでなく本人に見えてしまうのと同様、劇場が架空の空間でなく劇場として見えてしまう。この「素」へ戻される引力にどうにか抗って役者は役を生き、スタッフワークに工夫を凝らし、そして観客は想像力を逞しくして物語世界を泳ぐ事はできた。

ネタバレBOX

作品は高校教師が書いた戯曲だという。舞台は終始「学校でない場所」で、いじめで学校に行けなくなって辞めた高校生マルオと、彼を見つめる主人公アン(明確ではないが女性と思しい)の関係が綴られる。静謐な現実シーンと幻想的なシーンで占められ、現実社会(学校)に疲弊した心を癒し再生させる場所としてのファンタジー(ダークだが)そのものが展開していく。
ほぼ全編に亘り、トーンは夜。明るいシーンは冒頭、仲よく二人で下校した小学時代の一コマと、そこへ一瞬回帰するラストのみ。マルオは色んな知った事をよく喋る少年だった。転向で別れた二人は、高校でいじめられるマルオをアンが目撃するという形で再会をする。
学校をやめたマルオと、彼の身が気になり始める主人公アン。ユニコーン伝説を媒介に現実世界と対峙しようとするマルオの「物語」は主人公の中にも浸潤し、怨念に生きる神話世界の怪物らに遭遇したりする。だがあるときアンは「怨念のユニコーン」説とは異なる「自由のユニコーン」伝説に行き当たる。人類破滅への行進を始めた青年や怪物らにその事を告げ、必死に説得した主人公はその翌日(か数日後)、ケロリと何事もなかったような顔をしたマルオに会う。かつてよく下校途中に寄った場所。アンは、マルオがいじめられていたとき自分は何もしなかったとマルオに謝罪した。目の前には小学校時代と変わらぬちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべたマルオの顔がある。二人はいつもやっていたジャンケンをした。ちなみに、前夜の危機は現実には「破滅」の兆候を示して世間を騒がせ、翌日その危機は回避されたと報じられる。つまり微かだが確かな爪跡を実世界に残して、青年マルオは人生の路程へと戻って行く。・・マルオのストーリー・ラインがメインではあるのだが、ただラスト(寄り道の場所のシーン)で照明は冒頭と同じ「現実の昼」の明りになる。全てはこの瞬間に辿り着くための暗いトンネルだった、というような。すると焦点はマルオからアン自身に移行し、迷えるアンの心が壮大なファンタジーを作り出し、それを潜り抜けて漸く現実の一歩を踏み出すことが出来た、という(よくある)オチも可なお話である。
ファンタジック世界の構築に映像の効果大。不可思議を起こす「夜」のイメージ、また月、光たちといった言葉に対応するイメージが言葉の中だけでなく視角的な補助としてあったのは、ことこの劇場では必須であったかも。
思春期特有の鬱屈や闇を通過儀礼として潜る物語とまとめる事もできそうだが、この芝居のミソは、理不尽さを耐え、受容する大人への階段を上る「普通の道」に、マルオも戻って行くのであった「めでたしめでたし」・・とはなっていない所。若干、ラストの二人の去り際の客席に向っての爽やか笑顔が取ってつけたようで不満だったが(しかも直後に唐突な終幕の演出が続くので、ここは余韻を残してほしかったが)、復讐に燃えるマルオの「誤り」よりは、その動機となる現実がしっかり押さえられており、作品の感化力はそこにある。
光の祭典

光の祭典

少女都市

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/08/21 (水) ~ 2019/08/27 (火)公演終了

満足度★★★★

兵庫出身の葭(よし)本未織が主宰、作演出のユニット少女都市は、この公演で一旦休止という。聞けば活動は僅か2年と何ヶ月。今回久々の公演。で、兵庫と東京で活動と紹介にあるが、東京での公演は初めて。未だ二十代半ばである彼女の中に流れる時間は長く(時間の速度が遅く)、たかだか2年でもある事を成すに十分な年月という事なのだろう。今後は「兵庫に帰って」、文筆の方に力を入れるのだとか。
これからウォッチして行こうと思った矢先で残念である。
舞台は中々うまい作りで若い役者誰もが目を引く立ち姿。乗峯雅寛の美術は中央に回転する円形の台(同心円の小さいのが上に乗っかる)を置き、効果的であった。

ネタバレBOX

学生映画サークルのメンバーの、その後と学生当時の回想を行き来し、「実態」「真相」に迫るミステリー型の構成。映像業界だけにそうなるだろうホットな男女関係(その道で地歩を築く男に憧れる女、その熱い眼差しに揺れ悩む男)あっての別離、喪失の切なさを滲ませる演技が皆うまい(絶妙な泣きの表情が)。切なげの表情は見る者に感染し、心揺さぶるので気持ちが良い。(この表情見せられちゃったら感染しちゃうよね、というやつ。)
ただしストーリーは終盤になるにつれ、情報の空欄(謎)を残してじらし、散々盛り上げただけに、その答えを何にするかが問題になるが、う~むそこ止まりか、という種明かし。(だが観客はそこまでに盛り上ってるし役者も好印象でイメージ壊したくない心理が働き、まあ許容することだろう。)書いた順序が気になるが、この最後に謎解きされる「事実」は、当事者たる男と女いずれにとっても、それまでの行動の裏づけとするには弱く、そこは残念さがよぎる。
残念と言えば、これも。・・地味だが堅実さを発揮する男が、主人公の女性に「手伝って欲しい(カメラを回してほしい)」と頭を下げるその仕事が、始めは自分の地元の「おじいさん」のために、お祭で流す映像だと言っていた。カメラを握れない程のトラウマを抱える彼女に男は、この地味げな仕事のことを静かに情熱的に語るのだが、業界特有の「人気」「成功」「受賞歴」といった競い合いの喧騒に振り回されるのでなく、本心から意義を感じる仕事に能力をささげるべきではないか、というメッセージの仄めかしがあった。その通りならかなり感動モノなのだが、ところが彼の言う「おまつり」とは4年に一度のスポーツの祭典の事であり、デカイ仕事なのであった。そうなると、男は自分が大きな仕事に携わっている事を誇示し、女心にアピールした事により、女がなびくと思いきや、またぞろ女はトラウマに悩む事に・・そして女はその男のもとを去り、新たな道へと踏み出していく・・と来るのが常套だろうに、「大きな仕事」はこの芝居ではドラマ的に盛り上る要素と位置づけられているのだ。これは一瞬大きな感動の波が寄せただけにガッカリであったが、二十代半ばの上を夢見る作家に相応な展開かも知れない。

ストーリー的には他にもすっきりしない部分があったが、しかし芝居は全くストーリー頼みであったかと言えばそうではなく(先日同趣旨を書いた気がするが失念)舞台に漂う一貫した気分があり、総体として何かを伝えてくる感触はあった。
バルパライソの長い坂をくだる話

バルパライソの長い坂をくだる話

岡崎藝術座

ドイツ文化会館ホール(OAGホール)(東京都)

2019/08/21 (水) ~ 2019/08/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

岡崎藝術座の名は数年前F/Tトーキョーのラインナップで知ったが観たのは横浜。象徴的シーンの並列、役者の身体負荷の小ささ、引っかかりのない抽象画のように何も残らなかった。
過剰なテキストという顔をもって再登場した(私の印象)神里氏は形的には荒削りだが自身の体験をそれこそ武器にした思索の軌跡の提示が、ある可能性を感じさせた(イスラをSTスポット、サンボルハを別集団だがやはり横浜で)。
草月会館近くのドイツ文化センターは3度目になるがどれも芸術性の高い作品であった。岸田賞受賞に納得。軽妙と深まりとが波のように寄せて返し、やはり基本モノローグだが静かな語りが壮大なイメージへ誘う作品である。舞台製作はブエノスアイレスで行なったという。演者はかの地で活躍する優れた表現者である四名。船上を模した多様な客席(バーカウンターや二段ベッド、ベンチ、ソファ、礼拝堂の長椅子数列、広い板だけの二等客席などなど)でゆったりと眺める。場所それぞれに趣きがあって良席不良席の別が無い。損得感情からも解放されるこの感覚はかつて訪れたある途上国の空気だ。
効率性の不徹底を「愚か」と感じる呪縛に当時は無自覚で、どこか相手を見下している自分がぶっちゃけあった。このおかしな時代の到来を目の当たりにして、愚かはどっちかと自問せざるを得ない。
演劇を構成するのは「行為」であると言われるが、この芝居では母を連れて父の骨を受け取りに来た息子が、骨を渡した二人組の相手と別れるまでの、会話の時間である。あるのは語りだけ。いつ終るとも知れないやり取りの時間、想念だけが廻る時間、彼に次の予定は無いのか、等と考えるが、劇の都合上なのか、作者の性格なのか、このドラマには急ぎの用があるといった「テンション」は持ち込まれない。言葉だけが連なっていく(意表を突く演出的趣向はゆるっとあるが)。船での長旅にも似た時間、拘束=日常からの解放たる所以でもある。傑作である。

ネタバレBOX

息子と、その相手と、話者がどちらなのかもう忘れたが(主には相手役)、幾つかの国・地域の風景が紹介される(間違いなく作者の体験だろうと思われる具体的描写)。生地である父島に戻ってバーテンをやってる男の事、そしてチリのバルパライソの長い坂を上った教会の土地から見た海に浮かぶ町の風景。旅情は世界への思念から湧き起り、歴史の視野からも立ち上る。
烈々と燃え散りしあの花かんざしよ

烈々と燃え散りしあの花かんざしよ

新宿梁山泊

ザ・スズナリ(東京都)

2019/08/13 (火) ~ 2019/08/18 (日)公演終了

満足度★★★★

夏の新宿梁山泊は『楽屋』で十分戴いた気持ちであったが、「もう一本」と欲かくのも人情で。二つの組合せを今一つ飲み込めずにいた所、「朴烈」「金子文子」の文字に気づき、書下ろしでなく過去作のチョイスだというのでこれは観ずばなんねでねが?と再びスズナリへ足を運んだ由。
歴史上の二人の事を調べた事はないが随分前、行き合ったある日韓史専門の退職教授が「金子文子が面白い」と目を輝かせていた。その随分あと古書店で「金子文子」なる著書を見つけ懐かしく購入したが、頁を開かぬまま思い出の品のように本棚に飾ったままである。だが漠然とながら脳裏にあったこの人物の魅力を、舞台上に見ることが出来たと感慨深く劇場を後にした。
水嶋カンナの陰にこもらないキャラとパンチの効いた「演技」が生き、屋台崩しと錯覚させるラストで新宿梁山泊の朴烈・金子文子伝が織り上っていた。
マスカラをしない佐藤梟と子役との回想場面が、舞台としても金子文子のバックグラウンドとしても魅力である。物語上の「現在」即ち、出会いから「大震災~検挙~獄死」へと辿り着くまでの二人の人生の概略紹介では主に彼の仲間たちとのやり取りを通して朴烈の人と思想の輪郭を浮かび上らせる。難題に対処する立ち回りはまるで任侠芝居の主役の趣きで、温泉ドラゴンから起用のいわいのふ健が無二の朴烈の風情を作っていた。もっともこのキャラクターは(根拠はないが)史実とは離れている可能性が高い、とは思うが。
公、世間に抗い悲劇的結末の内に終えた人生を、同じ思いを抱き続けた同志的愛の勝利としてシンプルに力強く描き出したこの作品は、二人が寄り添い続ける事を可能にしたもの、に目を向けさせる。

ギョエー! 旧校舎の77不思議

ギョエー! 旧校舎の77不思議

ヨーロッパ企画

本多劇場(東京都)

2019/08/15 (木) ~ 2019/08/25 (日)公演終了

満足度★★★★

上田誠作・演出舞台は2作目(一作目は「続・時をかける少女」)、ヨーロッパ企画は初である。『ビルのゲーツ』で劇団名を知ったが中々観る機会を得ず、そのかん岸田戯曲賞も取り、昨年は雑誌に載った戯曲を面白く読んだ。で、初観劇。
「笑い」とは何を共有しているかに大きく左右される、とは先般のラッパ屋公演終演後の挨拶で、鈴木聡氏が呟いた趣旨であったが(挨拶を振られてボソボソと喋った文句にしては含蓄があり笑いを誘っていた)、ヨーロッパ企画も笑いの出所は「ヨーロッパ企画的笑い」を共有する観客の記憶、にあった。何が笑えるかは時代や状況により、引いては個々の生い立ちや文化により変わるので、「大勢が同時に笑う」という現象はむしろ希少価値である、くらいに考えるのが正しい。同時代の共通体験、教育やメディアを通じた共通認識、共通感覚は笑いの味方であるが、「これだけしっかり作られているから笑うのが正しい」とは言えないのが笑いの難しい所。
「時をかける」はどうだったかと言うと、こちらもそういった観客によって会場の笑いが加算されていたと思うが、しかし役者の演技の普遍性・伝達力が比較的広範な観客層が理解し得る「おかしさ」を的確に伝えていたという感じがある。ただしその中には(メイク等で判らなかったが)著名な俳優が居てその耳慣れた喋りが過去の記憶を呼び起こし、広い意味での「共有」効果が生まれていた面もありそうだ。
一方今回のは(「時をかける」にも多く出演したに違いないが記憶には残っていない)ヨーロッパ俳優+知らない客演者による舞台。役者たちは実力を見せていたから、本+演出・趣向の中身が「笑えたか」の問題だろうか。。結論は「期待したほどではなかった」。無論それは「笑い」の性質からして自然な結果であって、もっとヨーロッパ企画の俳優を知り、違う作品を味わえば「あの役者がここではこんな事を・・:」と笑いの材料はきっと増えていくことだろう。

ネタバレBOX

しかし一発目でガツンと来なかったのは一方的な期待とは言え若干淋しい。その理由については一々言挙げしないが、全般に「笑いを優先し筋を曲げる」箇所が細かな部分だが自分の中では白けを生んでいたように感じる。だがそうなるとヨーロッパ企画の笑いそのものの否定とならないか(曲げた筋から物語が展開されていくナンセンスもヨーロッパ劇の特徴かも)。

それはともかく、笑いのタイプについてよく考える。今作に限らず現代の笑いのある舞台、また「お笑い」に多いのは「結果」に対する笑いでなく、未だ見ぬ展開への「期待」が大部分である所の笑いというもの。つまり期待を共有する笑いとなるが、これは先行投資、先物買いなので幾許か不安が忍び込む(意識するしないに関わらず)。この微妙な感じは「面白いに違いない」という確信を自然にではなく作為的に作り出す。ここに無理が来ると、今回で言えば休憩中の客の表情にそれが表れる。トイレに並ぶ列で順番がどうのと難癖をつける若者が居たが、この事をもって前半の芝居は観客を「幸福」にしていない証左、と言えば言い過ぎだろうか。もっとも芝居というものは休憩後が勝負であってその部分で作品を判断するつもりはないが。
ところでこの笑いに忍ばせた「期待」の正体は、物語性に向けられたものだ。さて怪異現象が頻発する校舎を舞台にした納涼企画、にしては、物語性は「有った」と言えるだけ有難いのだろうが、薄味であったのは否めない。
’72年のマトリョーシカ

’72年のマトリョーシカ

風雷紡

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2019/08/14 (水) ~ 2019/08/18 (日)公演終了

満足度★★★★

4~5度目の風雷紡、と最初つい書いたが調べれば3度目だった(しかも2016、2018と見始めたのは近年)。脳ミソの劣化は言わずもがな、風雷紡舞台の持つ奥行きも一因と推察した次第。
余談は置いて・・
歴史的事件を題材に独自の脚色を施す劇団(吉水女史戯曲)の特色は今作にも堅持され、浅間山荘事件を同じく長野の蓼科に舞台を移し(蓼科山荘事件)、人質となった主婦とその家族・親族の物語を織り込んで再構築した。
同じ題材の舞台にチョコレートケーキ「起て、飢えたる者よ」があり、最近シライケイタ演出で若松孝二監督映画の舞台版があった(こちらはリンチ粛清事件が主。舞台版は見ず)。同時代のテロ集団の閉塞を描いた鐘下戯曲も蘇ってくる。映画も多く視点は多様にあり得る中で、冒頭人質と犯人とのやり取りが始まり、一瞬食傷気味が襲ったが、すぐさま風雷紡の語りに引き込まれていった。人質主婦の人生をドラマを通す線に据え、事件渦中から抜け出た「その後」の時間を、事件またそれ以前から連なる時間として描き出し、緊張感ある構成である。
毎回演出を外注しているユニットだが今回は箱庭円舞曲・古川氏(初)、私も数年前に劇団公演を一度観たきり、久々2度目の仕事を拝見し好感触であった。
シリアス劇志向にとっての会場の条件不利を懸念していたが、出入口の両側にL字客席、対する面をパネル等でうまく処理し、注意の拡散を防ぐ設えであった。
俳優諸氏の特徴的演技が芝居を非常に立体的に、判り易く伝えていた。

ネタバレBOX

主婦がつい口走った証言が世間の不評を買い、悪戯や脅迫状騒ぎになる。このあたりの描写は「世間」のいかがわしさとして現在に通じるチクリ痛い批評になっている。一方、姉の婚約相手を奪って家族と縁を切った形の彼女と家族の関係、姉との関係、引いては夫との関係が最後、彼女自身の自己覚醒により解かれて行く瞬間は、もう一歩実感的に理解したかった。
工場

工場

青年団リンク 世田谷シルク

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/08/13 (火) ~ 2019/08/18 (日)公演終了

満足度★★★★

二三年前の横浜公演が最後だったか、久々の世田谷シルク。もっとも初観劇は「赤い鳥の居る風景」(座高円寺)だから大した数を見ていないが...気になる作り手の一人。修行を経ての現・世田谷シルクをアゴラで鑑賞した。
今作は身体パフォーマンスを封印し、主宰自身も結構喋る現代口語劇は世田谷シルク的に新鮮だったが、師匠の土俵に敢えて乗っての勝負だろうか。演劇人やるのも「楽じゃない」オーラが堀川女史の小さな体躯から滲むせいか(勝手なイメージ)、題材へのこだわりもそぐわしく、そしてその期待を裏切らぬ酸味と渋味の効いた一編だった。
無論、架空の国の設定ではあってもリアルの芝居なればリアル基準での評価は避けられないが。

ネタバレBOX

正確を期せば自分は冒頭を見逃したため、幾つかラッキーな誤解が生じていた(台本で確認)。
伏線が周到、説明が親切というのが読み返しての印象だが実際どう演じたかにも依る。私は観劇中は「関連付け」からむしろ解放された感覚的な(突発的に見える)アクションとして見ていて、つまり冒頭がなくて成立する線を鑑賞したことになるが、その方が(恐らく自分なりの補足ができるので)見やすかったしそれぞれのエピソードの中に普遍的な広がりを(勝手に)感じる事ができた訳だ。

例えば派遣男の人物像は、「自分なりに将来を考えているが詰めが甘い」程度で、終盤受かった(正社員採用)会社を蹴ったのも次のような理由。「派遣として働く今の会社でいずれ正社員となる事を望んでいる」か「どうやら受かったのはブラックらしいがプライドからそれを口にしない」「現状を変える勇気がない」「(同僚でもある)彼女との結婚自体を躊躇し始めた」あたりだろうと見ていた。が、台本には、彼は正社員になるよう声が掛かっているのに彼が拒否している、とあった。つまり理想主義のモラトリアム志向であるが、その癖給料が安いとこぼしたりもする。正社員になってから面従腹背、「次」を狙えば良いのに、という話。これでは会社の方針に対し、彼は自らの人生設計と選択のミスを悔いる事になり、観客もどちらかと言えば彼を哀れと見て、自分を重ね合わせはしても一つ向こう側の出来事として収束する。
選ばされているようで実は選んでいるのだよ、も真だが、選択の余地があるように見えて実はほぼない、も真である。

で、ラストだけは身体表現解禁、人物らが踊り出し、徐々に皆も現れて一同に会し、えじゃないかよろしく踊り狂って暗転となる。ただ、ここではやはり「えじゃないか」のエネルギーがほしいのだが、矛盾が噴出しきっていないのでそこに達しない。派遣男は欠点はあってもそれなりに頑張って生きている。対立してしまった彼女も実は忸怩を抱えている。奇妙な主役である外国人の男は中盤、通訳を介して日本の「ここが変だよ」をぶちまけたが、実はまだ燻っている。吃音の男は脇腹に痣があり実はいつも誰かの鬱屈の捌け口にされている(私の創作)。・・それぞれの日常の卓袱台を引繰り返す事が許された時間、存分に解放された「踊り」を私としては見たかった。
4 A.M.

4 A.M.

青年団若手自主企画 川面企画

アトリエ春風舎(東京都)

2019/08/08 (木) ~ 2019/08/12 (月)公演終了

満足度★★★★

経験と実績を積んだ若い演劇人が修行のために門を叩く青年団併設無隣館。ハイバイ川面千晶の名を見てオヤと思ったが、確かハイバイで川面作品をやった何か公演があった(未見だが)。骨のある俳優というイメージは滲み出る人柄だろうか、狭いアトリエ春風舎とはいえ早々に完売なのには驚いた。
この企画は菊池明明と二人で立ち上げたという。パンフの協力者欄には豪華な演劇人の名前が並び、一体何の協力を?と興味が湧く。
舞台「4 a.m.」は2時間に及ぶケラ作品。(先般モメラスが上演した同名の短編ではなかった。)成長株山田由梨の演出も見ものだったが、初めて目にするケラでない演出によるケラ作品舞台には様々発見があり、芝居としても(春風舎だと忘れる程。失礼)面白かった。
川に沿った国境を南から北へ移って来たある夫婦の家のお話。屋根は持ち得ているが食糧難、政情不安定。場所(国)、時代とも、どこかに重なりそうで重ならず(虎が出てくる等着想は北朝鮮に違いないが)、荒唐無稽だが一定のリアルを保ち、信憑性あるドタバタ故に深刻になる暇がない、ケラ流ディストピア劇をが現出していた。
役者も大奮闘、また「奇妙な現象」を起こす舞台上の仕掛けたち、とりわけ赤いアレを作った小道具に拍手。

名探偵ドイル君 幽鬼屋敷の惨劇

名探偵ドイル君 幽鬼屋敷の惨劇

糸あやつり人形「一糸座」

赤坂RED/THEATER(東京都)

2019/08/08 (木) ~ 2019/08/12 (月)公演終了

満足度★★★★★

こいつぁケッサク。ハチャメチャだが好みである。
例を挙げれば、以前観た名取事務所「背骨パキパキ回転木馬」の感じが近い。これは別役実の「新作」ではあったが、演出ペーター・ゲスナーに拠れば病床にある別役氏から渡されたのは殆どエッセイに近い短文のコラージュのようなものだったとか(逐語的ではないがそういう趣旨)。要は別役戯曲の醍醐味たる「会話」が殆どない。しかし、脈絡のない場面の連なりの中に通底する気分や雰囲気は確かに流れており、これが何とも言えず美味であった。
さて作・演出天願大介、幽鬼屋敷が舞台と来れば、冷気が漂うmetroの隠微で猟奇な世界を想像したが、真反対とも言える乾いた笑いのある舞台。文脈無視スレスレの際どさがあり、自由と言えばあまりに自由に様式の壁を超え、拡散気味であるが私には「散漫」でなく包摂を感じさせる「気分」があった。
人形劇の懐の広さの秘密に接近した気もする。操る人間と、人形との関係が既に見えている(晒されている)特質が、人形の出ない場面にも波及していた。
「ドイル君」では、人間と人形というサイズ的(だけではないが)開きの間にドワーフが加わる事により、何でも可という条件が整い、最大化しようというベクトルが働いたかも知れない、と想像する。役というより本人そのものであるマメ山田の役との距離感・遊び方は唐十郎の域。言わば「素」場面がシュールに成立する事が最大の現れで、ヒール役がマイクを持って歌えば本来味方役である綺麗どころ2人がノッてライブノ盛上げ役をやるというハミ出し場面まである(ここだけはとっつき兼ねたが)。
物語として大したカラクリは無いが、この気分と雰囲気は希少であり、買いであった。そして「幽鬼」屋敷の住人である(人類を異種配合して改造したという)異形の生物らの「存在じたい阿鼻叫喚」の造形はやはり人形劇ならでは。嫌悪に笑うしかない。
そう言えば物語には関わりのない、人形だけで演じる情緒たっぷりな無言劇など挿入されるが、なぜか違和感なくウェルカムであった。
ただしこれは全て計算ずくの成果だろうか・・偶然の要素も幾分ありそうに思う。いずれにせよ演劇の「不思議」の賜物であり、言うまでもなく、実力ある演者の芸の賜物でもある。

楽屋 流れさるものはやがてなつかしき

楽屋 流れさるものはやがてなつかしき

新宿梁山泊

ザ・スズナリ(東京都)

2019/08/08 (木) ~ 2019/08/11 (日)公演終了

満足度★★★★★

パンフに書かれた「楽屋」の上演歴(5回ばかり)の中程に2003年満点星(新アトリエ)とあるのを見て、当時劇団から届いていた案内葉書に『楽屋』とあったのを朧ろに思い出した。この時足を運んでいたら『楽屋』は果してmy favouritレパとなったか。。(否、と思う)
しかし私の初演劇体験のテントに確かに居た、度会久美子と三浦伸子、以後20年以上梁山泊の舞台に彩りを与えてきたレギュラー残留組二女優を幽霊コンビに据えた「楽屋」は開幕から魅せた。
細部の処理によって無限に近い正解がある(が不正解もある)この演目の、今回も目から鱗の発見があり、主宰金守珍にはその確かな演出力を改めて見せつけられた。そして4女優の細やかな演技、金氏がつけただろう細かな動きや趣向。幸福な70分であった。感謝、感謝。

怪物/The Monster

怪物/The Monster

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2019/08/03 (土) ~ 2019/08/05 (月)公演終了

満足度★★★

作者A・クリストフが「悪童日記」で小説家デビューする以前(70年代)に寓話的な短編戯曲を物していて、邦訳されたのが2巻に収められている。舞台で観たのは「エレベーターの鍵」と「道路」で「怪物」は初めて。しかも新国立の本公演より面白い事もある研修所公演だけに期待大であったが・・

アゴタ戯曲は、読んでその喩える所を考えるには楽しい読み物だが、舞台化は難しい(不可能ではないだろうが)と思っている。「怪物」は、未開時代のとある村に現れた「怪物」を廻る年代記で、時間経過を挟んだ数場面から成る短編。各章の記述も最小限なので、読む分には想像力で余白を埋め、もしくは保留しながらでも読み進む事はできる。結語に皮肉を読み取ってにんまりしたりゾクッとしてみたり。
だが舞台上の時間を進めるとなると、演出的工夫を要求する粗さがある。

戯曲を大きく分ければ二つ。前半は異臭と醜さを放つ「怪物」(ある日獲物をしとめる罠にかかっていた)を、最初村人は退治しようとするが手を尽くして叶わず諦め、やがて怪物の背中の花が放つ匂いの虜になってしまう。そうして幸福感に満たされた人間が怪物の口の前に姿を現わすと怪物は人間を食み、大きさを増して行く。後半は、怪物が肥大して二つ目の村も飲み込まれてしまったのを受けて、敢えて怪物を避け花の匂いを嗅がずにいる(怪物を憎み続ける事が出来ている)主人公の青年と村の長老が、「村が消えた」村人の不安感を追い風に、怪物の周囲に高い石塀を作り、近づく者は容赦なく殺す、という取り決めが作られた。時が経ち、二人を除いた最後の村人だという男が塀の前に現われ、村人たちは全員殺され生き残ったのは自分だけである事、生きていても意味がないので怪物に食われて死ぬために禁を侵してやってきた事を青年に告げる。男は、「最後に花の匂いを嗅がせてくれ」と懇願するが、青年は無慈悲に答える「あと一息で怪物はようやく消える。今人間を食べればまた膨れ上がり、元に戻るのに何十日も掛かる。私はここに近づく人間を殺してきた、村人も、自分の肉親さえも。勝利は目の前だ」
男がフラフラと石塀に近づくと青年は容赦なく撃ち殺す。長老は青年を讃え息絶える。

この話は「怪物」も花も姿を見せないし(見せてみたとしても象徴的提示にしかならないだろう)、村人の生業や慣習、人間の三大欲求と怪物の放つ香りとの優劣や棲み分けなど、全体として理解する(リアルに想像する)ディテールがない。従って、観劇においては全てを象徴と捉えその含意を汲み取る、という事が求められる。
ではどう読めば良いのか。(長文につき後半はネタバレで)

ネタバレBOX

前半は未開の地を、貨幣や資本主義経済といったものが浸透し、価値観を変質させられていく様子を重ねる事ができる。後半は村人の欲望充足(とその先の死)を物理的に断ち、怪物(忌まわしきもの)の成長(浸透)を止め、衰弱死へと追い込む、この試みの失敗を描いている。

この寓話は、資本主義の人間に及ぼす危険を知り、危機感を抱く人間が行動を起こしたまでは良かったが、そう単純な問題ではなかったという、鋭い皮肉であるのか(社会の矛盾に立ち向かおうとした若者の初心に寄り添っている)、それとも誤った手段に固執した愚をむしろ告発しようとするのか(旧共産圏にあった独裁=傀儡政治への糾弾)、強調点の置き方で変わるように思う。
何を象徴する物語に立ち上げようとするのかが、舞台化には愈々必要に思うのだが、そこがはっきりしなかった。

マンチェスターの学生との合同という面でも、同じ役に日英両俳優を付け、同じ場面を日本語と、英語(字幕付)で繰り返したりする。これは蜷川幸雄の「トロイアの女たち」で日、イスラエル、パレスチナの女優による合同舞台を、結局同じ台詞を三言語で各国の女優に喋らせるという超緩慢な、観客の忍耐力を鍛える演出になったあの舞台を思い出す。なぜ日英合同なのか、その必然、面白さも見えなかった。利点は多人数である事による「壮観」だがこの演目では舞台成果に結び付かず(戯曲に加筆等を検討しなかったのか)。
未開部族の衣裳だけは立派だったが、立派に見えてしまって良いのか?と疑問。独自の堅固な文化を持っていそうだし、それが切り崩されていく悲劇の要素など戯曲には一切ないし。何か良い所を見つけたかったが残念な結果である。
しかし失敗率の高い難しい戯曲に敢えて挑戦した。敢えての失敗なら次に繋がる拾い物も大だったのではないか。
『熱海殺人事件』  vs.  『売春捜査官』

『熱海殺人事件』 vs. 『売春捜査官』

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2019/07/26 (金) ~ 2019/08/06 (火)公演終了

満足度★★★★

燐光群とつかこうへいの取り合せは以前沢野ひとしをやった時のような意外性からの成功のパターンか、失敗かのどちらか・・迷ったが好奇心には勝てず千秋楽を観た。
つかこうへい作品のエッセンスは、あるアマ劇団の気合いの入った舞台を一度観て辛うじて片鱗に触れたのみだが、それでも十分なインパクトがあり、当時の日本演劇の画期であった所以を了解した(つもり)。従って今回はつか作品の換骨奪胎が勿論狙いではなく、つか演劇という実体を掘り起こして現代という土俵に据える試みに大いに期待をした。
(続きは後程)

ネタバレBOX

つか劇団出身の麗女優木下智恵を招き入れての燐光群流・つか舞台への挑戦。意気込みを感じるが、確かに前半戦は「熱海殺人事件」の笑いのうねりを作っていた。取調べ刑事伝兵衛が事件の真相よりも彼なりの「犯罪らしさ」(ドラマ性)への拘りを優先し、本来の職務を逸脱して容疑者と被害者(死者)の人生に干渉していく。無名の彼ら同時代の多くの若者の冴えない日常が、取調室という閉鎖空間に居合せた同床異夢らのてんでな喋くりの中で、鎮魂の対象のように浮上する。
言葉の応酬で固定観念を平然と超える醍醐味は、以前アマ劇団で見た「熱海」にもあった。
一方坂手特有のテキストは中盤から登場する。元戯曲の「あの海に浮かんだヨット」を辺野古の海に浮かぶ「抗議船」へと半ば強引にスライドさせ、調書に書かれるべき被害者(愛子)と容疑者の青年とのデートをかっさらって抗議行動に愛子を青年が誘ったという事になった。その後観客としては忍耐の時間が流れるが、ラストは坂手一流の技で「つか」の文脈に合流させた。私の見た坂手台本の中でも、最も強引な部類に入りそうだ。ただ、木下女史の孤軍奮闘とは言わないが、「つか」世界に生きる彼女の姿を信じられた事で、舞台は閉じるを得たり、という具合であったように思う。

あまりに異質な二つの文脈に、芝居が引き裂かれた印象は拭えない。確かに沖縄は日本社会の不全を象徴する代表的トピックで、今日上演される全ての演劇の舞台の台本にこのトピックをを書き込めないものかと頭を悩ませるのが自然だ、位に思っているが・・・、少なくとも正論を吐いて「正義は我が方に有り」と溜飲を下げる台詞は、どうも「つか」文脈に馴染まない。余裕がなく感じるからだろうか。
一介の刑事が犯罪を人間ドラマに仕立てようとする偏執的行為には、どこか可愛げがあり、正義の彼岸に自身を置くことでいっぱしな硬質な言葉で政治を語るような分際でない、と卑下する態度があり、そうしながら真の価値を生み出す人間の本性に近いところに居る。・・人間の「欲求」への居直りというか、自覚にこそ「ほんたう」の次元からの変革は可能なのである、といった70~80年代の思潮が「つか」作品(「熱海殺人事件」しか知らないが)のベースにある。もちろん一つの解釈に閉じ込める必要はないのだが・・。
それでも「熱海殺人事件」だけあってエネルギッシュで爽快な舞台の後味であった。

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