tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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改訂版「埒もなく汚れなく」

改訂版「埒もなく汚れなく」

オフィスコットーネ

シアター711(東京都)

2019/05/09 (木) ~ 2019/05/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

初演と同じ芝居とは思えない。舞台の明度、風景、台本の構成、演技、どれも熟成され洗練され、深まり、冒頭から引き込まれて最後まで一人の劇作家というか、自身と向き合い何かを追い求めた一人の人間を、その同伴者を、彼に連なった者達の存在を感じ味わう2時間10分だった。「あの『山の声』を書いた人の話」を超越して、たまさか演劇をやる事になった人間の魂(と名づけるなら)の足跡、大竹野正典なる人物の人体に宿った魂のあり方の軌跡が描かれている。作品として焦点化される『山の声』は、遺作ながら彼の人生の通過点としてしっかり捉えられて説得力がある。固有名詞から普遍へ、深化した同作に拍手である。
「お前何で芝居やってんねん」のくだりで漸く初演を「観た」感覚を思い出した。

ネタバレBOX

演技陣は初演より1名少なく、キャスティングも練られた感あり、新キャストは半ば今回のお目当てであった、関西土着人らしい(後半は標準語を喋る批評家の役になるが)緒方晋と、芸(演技)達者・福本伸一という高校時代の級友コンビに、初演組・照井健仁演じる若者の恋人役・橋爪美萠里。初演組・柿丸美智恵が唯一次元を超越した役を伸び伸びと演じて笑わせ、誰も立ち入れない心の深い部分での交感を表面化させて見せる主役二人の脇をしっかり固めていた。
久々に濃厚なアトモスフィアへ熟成された舞台を観た。
「日本国憲法」を上演する

「日本国憲法」を上演する

die pratze

d-倉庫(東京都)

2019/04/30 (火) ~ 2019/05/13 (月)公演終了

満足度★★★★

中野坂上デーモンズの憂鬱と、IDIOT SAVANT theater companyはどちらも「激しい」舞台。もちろん「劇」とは激しさを伴うものだが。
毎回恒例のトークでは前者の主宰松森モヘー氏は今回の台本76頁と言って驚かれていたが(平均十数枚だろうと他の二人)、舞台はボルテージ高く、高速の絶叫声(一人の台詞は短い)が数珠繋ぎにまくし立てられていく。
後者は鍛え抜かれた肉体が圧倒する毎度の舞台で悲壮感と身体負荷によって絞り出される台詞の熱量は健在だったが、今までになく多量の言葉(書き下した何編かの詩)を独白するシンプルな舞台だった。
今回のシリーズは3組観劇でき、それぞれ健闘ぶりが見える成果で観劇としては満足だが、テーマそのものの課題は重くのし掛かる。

ネタバレBOX

デーモンズのタイトル「No.12」は、パンフを見る限り俳優が12人である事以外あまり意味はない。数は意識されているようでそれは憲法条文への意識だろう、などと想像したが特に関連を考えなくてよさそうだ。本番3週間前の文章がパンフに載っているが終始「わからない」と書かれている、その通りの舞台だった。客電落ちの前に俳優が一人ずつ登場し、動きが付随する一定リズムで数を1からカウントする。最後の一人が入って12人の輪ができると、主催者の開演の挨拶を挟み、本編が始まる。
基本形としては俳優は横一列に並んで観客に向かって喋り、他者がリアクションして会話に発展する。また出番の無い者は体育座りで並び、その並びが舞台ギリギリに来た所で再び全員が一列に並んで座り、折り返し地点。
喋りはガナリでも、台詞自体はアングラよりは静かな演劇系、何も無い所から立ち上がっていくテキストで、冒頭は「私たちは高校生」だが「高校生ではない」、といった禅問答。言葉を詰めに詰め込んだ60分が、日本国憲法(というか社会的な視野)にリンクする箇所は何度か訪れるが、結語的に感じられたのは「変化の時(現在)を感じ、身を置く事、対峙していく事」といったもの。改元などが影響しているのか知らん、憲法は「変えるべきもの」と本人が考えているかどうかは別にしても、その感覚に捕われる危うさを覚えたのが私の印象。
愚策を国民挙って歓迎した郵政選挙での小泉派圧勝という前例が日本にはあり、「変えねばならない」気分が内容抜きに高まる事ほど危険なものはない。
トークで今回よく聞かれたのは、日本国憲法というテーマの難しさと、改めてこれを考える機会を与えられたというもの。松森モヘー氏は「頭がよくなりたい」と印象的フレーズを繰り返していた。(もっとも自称偏差値30台というのは名刺代わりなのだろう。同学年での学力相対評価に過ぎない偏差値でなく、IQテストをやれば決して低くないはずだ。)

IDIOT SAVANTは苦しむ心の身体表現に息が詰まる冒頭のくだりを潜ると、俳優個々がやはり苦悩しながらも、語りが個の身体というより理性や心情に接続する感じがあり、詩の朗読の様相となる。この詩が何とも直裁で気恥ずかしい程に青く、願い、祈り、絶望と希望の文字が並ぶが、これを聴かせてしまう身体がある。7名の俳優は皆黒のスーツを着込み軟弱さを見せないのがスタイルのよう。最後は奥に椅子を並べて各様の決めポーズを取ると客電が点き、互いが見合う空白の時間が暫く続く。個人の独白を終えて観客への問いかけの流れはテーマに即していると感じ、違和感がなかった。トーク用の椅子とマイクを仕込むスタッフが現れ、漸く立礼にて終演。
きく

きく

エンニュイ

SCOOL(東京都)

2019/05/08 (水) ~ 2019/05/12 (日)公演終了

満足度★★★★

ビル5階の狭小空間SCOOLで役者9名のモノローグとくっ喋りとムーブやゲームを見た。向い合せに高低2タイプのパイプ椅子が間隔を置いて2列並び、空いた側の壁には一列椅子が並ぶが後者が実は俳優がずらり座っている。一人がおもむろに口を開くと開演。ちょうどキャンプファイアで自分の事を語り合うようなモードで、他者の話を「きく」行為・態度についての検証材料が展開する。この「告白」モードでの語りには、人のプライバシーを覗くちょっとしたわくわく感があり、それへのリアクション、薀蓄や話題の転換などネタ的には面白く見られるが、作り手が選択した仮説へと収斂して行くものがなく、云わば検証材料陳列になっている。
これらがまるで即興のような臨場感で表現されるのは興味深い。パンフに書かれているとおり製作過程で俳優個々が持ち込んだ素材が活用されているのだろう、俳優らは彼ら自身として存在し、与えられた役を演じているようには見えない。台詞の流れは最終的には即興でなく決定稿となったと思われるが、「作りこまれた」ように見えないのは作品というよりワークインプログレスの発表に近い。作り手は作品として提示したに違いないが内容はそういうものに思えた。
俳優が演じやすい俳優個人としてありながら、つまり出し物としての作為性が比較的薄いものでありながら、狭小空間の利点と考えてか客に介入する(舞台をはみ出る)部分が時折ある。しかしこれが不遜な印象を与えなくもない。作為的に堅固に作られたものの上で「遊ぶ」のは(戻るべき場所があるので)有りだが、あやふやな土台の上で客に介入すると自信の無さの裏返し(本人的には積極的介入?)にみえてしまう。
出し物として面白い場面、秀逸な局面は多々あったが、作品にまとめ切れなかった印象が残る。

尾を咥えたり愚者の口

尾を咥えたり愚者の口

電動夏子安置システム

駅前劇場(東京都)

2019/05/07 (火) ~ 2019/05/12 (日)公演終了

満足度★★★★

劇団名は言はずもがな劇タイトルも独自思考が滲む劇団(個人の感想)を初観劇。
予想に反して役者力あり、エンタメ性あり、もっとも解読困難な混み入ったストーリー、だが娯楽重視らしく「物語」は役者の飛躍からステロへ着地する演技と雰囲気をヒントに、流れに乗って観られる。
作劇は、相互に微妙な接点のある5、6組の対話(ほぼ2人一組)がリレーしながら快速で走行、数組の逸話がどう繋がるのか判らずもどかしいまま、しかも二つの異なる次元(時代)を跨ぎながら場面としては隣接して展開し、その事態の観察者であり渦中から脱しようとする者(主人公的グループ)が、今見ている場がどの次元の話なのかが判らないらしいという事が観客に判るまでの滞空時間も結構長い。事態は冒頭より何やらドラマティックに、面白おかしく展開するが、事態の推移は見守るしかなく、思わせ振りでクリアな演技で役者らがこの滞空時間を甲斐甲斐しく繋ぐ訳である。
ミステリーな物語の裂け目から世相への皮肉が覗き、馬鹿馬鹿しい騒ぎの末絡まりに絡まった糸が解けると、元来利害相容れない者らが(図らずして)困難を共に克服して大団円を迎えるという、「構造」だけは王道、テイストはかなりの程度亜種な人情喜劇。

ネタバレBOX

GHQ占領下の日本で起きた毒殺事件の犯人が未だ逃走中というなか、検閲というキーワードが二つの次元(GHQ時代と現代)を繋ぐループに掛かるのを主人公グループは発見。だがいずれにせよ右往左往するしかなく、その滑稽さを自嘲する眼差しもある。
理知的・沈着な脳ミソを覗くような劇をぼんやり想像していたが、若く身体能力に油の乗った俳優達はむしろ活気があり、演劇好きな者達が演劇を楽しんでいて、その楽しさの観客とのシェアが「出来る演技」によって実現している。
第7回公演 『飛鳥山』

第7回公演 『飛鳥山』

ほりぶん

北とぴあ ペガサスホール(東京都)

2019/05/02 (木) ~ 2019/05/06 (月)公演終了

満足度★★★★

牛久沼のうなぎの壮絶な奪い合いを3編に亘って見せた、横に広いだけの体育室のようなペガサスホールが、普通の劇場のように階段式座席が組まれ、袖もあってなんと立派な(?)舞台装置も組まれたステージ。客演黒田大輔も加わり「どんなスゴイ話なんだ」と熱気の高まる中、始まった劇は、川上友里子の語りでのっけに膝折れを食らわされ脱力(笑い)。そしてほりぶんならではの感情過多(笑い)、膝折れ(笑い)、また感情過多(笑い)を繰り返し、それらが過剰演技(笑い)で繋がれ、腹筋が疲れる。そして最後は絶叫の域へ。
この笑いはなんなんだと毎回思う。王道の笑いではなく時代性との緊密な距離感で発生しているように感じる。
「本気」である事を冷笑、もしくはそれと距離を置く時代は既に長く、一方本気でありたい願望は皆しもある。渦中にある人生に憧れ事後的に本気を求め旅する自分探しの時代、「本気」と「私」との微妙なありようを特徴とする現代、「本気である」表現を過剰な演技で行なうほりぶんの芝居が笑えるベースがここにあるに違いない。それにしても展開の読めない怒濤のような1時間ちょいが終わってみると幻のようである。

「日本国憲法」を上演する

「日本国憲法」を上演する

die pratze

d-倉庫(東京都)

2019/04/30 (火) ~ 2019/05/13 (月)公演終了

満足度★★★★

AMMOとノアノオモチャバコの回を観劇。毎年各団体のステージ数は通常2、3回だが今年は1ステージのみ(特別出演)が1団体、他は2ステが2組、4ステが2組の変則形。今回観たのは4ステージある組の初回。
まずAMMOはここ2年程気になっていて未見だった劇団だが、現実にある自民党の改憲案を扱った直球の議論劇(近未来の要素あり)。若い実力の片鱗が見えた。ノア..は数年前「胎内」をシアターミラクル(確か)で観て以来だが、古典戯曲などの脱構築的舞台が領分かと思ったら、意表をついてコメディ仕立ての家族劇であった。早川紗代が婆役で舞台を掻き回し(邪魔をし)、なぜこの女優が居るのに普段お笑いをやらないのかと首を傾げる八面六臂の出しゃばりっ振り。
1時間でやれる事には限りがある、とは他ならぬ両劇団にこそ言え、凝縮された内容でお得感あり。

シナモン

シナモン

KARAS

シアターX(東京都)

2019/05/02 (木) ~ 2019/05/06 (月)公演終了

満足度★★★★★

舞踊公演というものを初めて観たのが恐らく10年位前、勅使川原三郎で「○○凱旋」なる文句に弱い素人丸出しで興味本位で観劇した。普通に海外でやってる人だから今思えば凱旋じたい特別でもなかったが、とにかくその公演ではまことによく寝た。明度が絶妙に睡眠に誘うのは今も変わらない。
数年前の「青い目の男」に続いてブルーノ・シュルツの文学作品が題材だというので、あの感動をもう一度と出掛けた。この人の才能は踊る肉体もさる事ながら照明、音響(選曲・コラージュ)と一体化した世界にあり、今作は一きわ斬新な照明効果、そして音との不思議な絡みによって、言葉に触発された世界が今生まれたかのように浮かんでいた。静と動、明と暗が一瞬にして変化し(この一瞬と緩慢との間のグラデーションがまた自在)、後を引かない。踊り=演技?は高潔・純粋で、艶かしい。勅使川原は小刻みに震えたり吃音的動作という変則的動き、佐藤利穂子はこれまで見て来た記憶と合わせ、彼女独自の言語を持っている事を発見。「動いていること」が生命レベル(否物質レベル)では常態である事の示唆を私はどこか受け止めていて、彼らが激しく動いていても「している」でなく「ある」が見えてくる感覚を味わう。実際はかなりの運動量なのだろうけれど。

背中から四十分

背中から四十分

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2019/05/01 (水) ~ 2019/05/06 (月)公演終了

満足度★★★★★

渡辺源四郎商店主催の公演で再演モノを観るのは、もしや初めてでは。。
ナベ源が誇る女優・三上晴香を久々に拝めた。キャラクター頼みの面もあるか、と今まで見ていた所があるが、今回の演技は女優としての幅を(私に)実証した。また、知名度があれば好感度第一位説有力な?レギュラー・山上由美子、残る二役が実力派の客演と、満を持しての感もあるナベ源公演。出ずっぱりの中年男役に、札幌座所属とあるが実力者らしい斎藤歩、旅館の女将に青年団・天明(みょう)留理子。彼女が出てくるだけで期待させ、笑おうと構える我々に期待通り振舞ってくれる。
そして斎藤と三上の絡みがメインになるが、戯曲、役者とも見事であった。

ネタバレBOX

芝居を見終え、幸福感に浸っている。出会う二人がそれぞれ身の上を語りあう終盤、語られる内容がそれまでの行為を裏付ける「謎解き」の答えとなる。言葉頼みの面がある戯曲はそのオチが弱い時に危うさが過ぎるが、作者は意外性があってしかもリアルなエピソードを二人に語らせ、言葉だけで観客を納得させてしまう。妻子に捨てられる父親キャラも滲み出ていて話に説得力があり、三上が陥った誤りとその残酷な結果も、殊更な不幸の陳列とならず俳優はそうなるのが自然である人物を演じて、その姿にため息が出るほどのシンパシーを覚える。この場合、語る者に対してもそうだがそれ以上に、聞く方の心に共振し、舞台上の人物と同じく相手の話を受け止めている。
笑えて愛おしくなる人情物ではあるが、二人の物語の向こうには、世の中が見えている。
「日本国憲法」を上演する

「日本国憲法」を上演する

die pratze

d-倉庫(東京都)

2019/04/30 (火) ~ 2019/05/13 (月)公演終了

満足度★★★★

初回は満席で予約が取れず、雨の中会場を訪れ、幸い当日券で観る事ができた。
「戯曲でない」憲法を題材に何がやれるのか?不安ながらに見始めたが、さほど違和感が無かったのは、思えば「戯曲」での企画で各集団それぞれ、圧縮の手際や翻案・表現手法もバラバラ、原形をとどめなかったり換骨奪胎された舞台を過去に観ていたからだろう。(来年はテキストからも離れるらしい)
今回全組合せは観られないが、まず第1グループのスタートに立ち会えてラッキー(観客が皆同じ条件で観劇)。出演団体は毎回舞踊・身体表現系と芝居系、凡そ半々の陣容だが、1グループはくっきり身体思考が舞踊系、加藤と八谷が演劇系。それぞれに感想があるがいずれネタバレにて。

ネタバレBOX

身体思考「九条小町」は台詞無し、象徴表現を読み解く観劇。初日の一番手だったが、空間を味方につけ、即興要素がありそうで意外とカッチリ作られた出し物だった。
演者が登場して布を束ねた長い帯を真四角に敷き詰め、各人が所定の位置に付くまでの動作を見せる。やがて客電が落ちると和服の女中っぽいのが摺り足で現れ、一嘗めして去った後、白髪の老婆が登場し目を閉じて震えながら悲しい出来事を語るように動き、物語の始まりの体。ふと目に懐かしさを覚えて当日パンフを見れば、老婆はグループの主宰の男性舞踊家であった。その往年のパートナーも振付・出演で参加。踊りはスローの舞踏系の所作からロボットダンス、ジュリアナ東京を連想させる華やかな踊りと多彩で、一つ一つはオーソドックスな踊りだが目を飽きさせない。
ただしストーリーの解読には苦労する。全体に悲劇調なのは、舞踏の動き=能=無念の死・・の影が覆っているからか。細部の解釈は難しいが、擬人化された9条(戦争放棄)が生きていた往時を偲び、供養する夢幻能と捉え、未来の視点からの平和憲法への鎮魂劇と解した。
舞台上(正面奥2階部分も使う)には踊り手だけでなく、刀を手に浪人風にただ佇む老齢の人、能の謡い方風の声を出す人、など、多様なパフォーマーが所を得て存在するが、既視感あり。老婆役が昔客演していたのを観たパフォーマンス、舞踏の芥正彦の公演(首くくり栲象もいた)、元SCOT笛田宇一郎、音楽畑ではあるが渋さ知らズ・・。何処となく箱庭な異種統合の様式の発祥は何だろう。

対照的な加藤航平と八谷しほ「VOTE!」は、若い俳優たちによる学園ドラマ。バカっぽい高校生を振り切り気味の誇張演技で演じるテンションで憲法論議をやらかすという発想で、演者が楽しそうに演じるのを見るのは楽しく、比較的まともな会話のできる主役JKと準主役JKの周りを、クラスの中心的男子、ナルシス長身男子、純粋熱血男子(ホレ易い)に、超泣き虫JK、助っ人に連れてこられたスピリチュアルなダンサーが囲む構図。
本作の仕掛けは、高校3年生の最後の文化祭で発表する芝居を「ロミオとジュリエット」ではなく日本国憲法についての劇とせよ、とのお達しが来た、というもの。伝えに来た教師が唯一の大人である。作・演出本人がアフタートークで、脚本は3回没にして4本目を上演した、との苦労を吐露していたが、書き手として困ったのはこの題材では「主張をしたくなってしまう」事だという。役者の意見も入れて書き直した結果、憲法の事を全く知らない、考えた事もないノンポリである18歳の高校生に議論させる形となった。
この設定は、ちょうどこの企画に挑戦する事になった一グループの状況に重なる。もっとも企画に参加する選択は自ら行なったのであり、高校生らは「受け身」の出発である。この「受け身」で始まる困難、つまり巻き込まれ型ドラマの弱点は、どんな筋道を採ろうと「よく頑張ったね」に着地できるが、「俺は誰の世話にもなってない」と言い張れる若者だけに許される着地。もっとも国民投票の権利を手にする生徒らも「よく頑張った」では済まなくなる、という話の筋からして成立しづらく、本作はこの甘さをうまく回避している。
秀逸は憲法の中身に全く触れずにディベート(自民党新憲法草案か現憲法かという格好)を暫くの間成立させる前半。賛成派は「賛成」という言葉のポジティブな印象をアピールし、ゆるキャラも導入、一方反対派は悲劇の主人公を登場させ同情による票を得ようという戦術。ここで冒頭、二人の女子高生が共通の想い人に接近するため「自分がジュリエットをやる」とけん制し合った伏線を活用、純粋熱血男子のマナブ君のハートを準主役(行きがかり反対派)がゲット、となる。主役(行きがかり賛成派)は絶望と怒りにかられる・・。
危ういのは、バカな高校生らの憲法論議とは言え、新憲法草案という現実に存在しているトンデモな代物が扱われ、何も知らない彼らが賛成だの反対だの言い合っている事。この現実感覚を(草案の本質を知る人にとっては)拭い切るのは難しい。やがて高校生らも「憲法の中身について何も考えられてない」事に気づき、やってきた教師にここは素直に教えを請うのだが、教師が開陳する憲法構造の理解に危うさが漂う。
芝居としてはバカな生徒=大衆が行き着く混沌を皮肉を込めて描く側面があるが、判りにくいのは、憲法論議の文脈上では教師も「愚かな大衆」の一人に見えるが、芝居の文脈でみると神の視点で生徒を揺さぶる立派な教育者に見えてしまっている点だ。
しかし作者は生徒らに最後には受け身である事をやめ、「ロミオとジュリエット」に戻って行く道を辿らせる。「○○の本当にやりたい事をやりな。それなら応援する」と泣き虫が主役JKに言い、本当の憲法論議(自由と権利についての)がそこにある事を観客に仄めかす。そしてお定まりの恋バナでの大団円、「中身」への言及は薄いが憲法エンタメとして一応の完成をみた。
俺が代

俺が代

かもめマシーン

早稲田小劇場どらま館(東京都)

2019/04/27 (土) ~ 2019/04/30 (火)公演終了

満足度★★★★

数日前に公演を知り、これは見ておくべ。と久々に早稲田どらま館を訪れる機会を得た。「日本国憲法を読む」を含む独り芝居との前情報、構えは出来ていたが、舞台造形と演じ手のパフォーマンス、テキスト、総合して想像を超えた濃さ・面白さ。
会場には演劇界の異端児A氏や俳優T氏の姿も見え、実は人脈厚い意外と年嵩の演出者?と思い浮かべたが、終演後に姿を現した萩原氏は若かった。

奇しくもd倉庫での現代劇作家シリーズ「日本国憲法」初日をその夜観たのと比較して本作がかなり「踏み込んだ」憲法評価に立っている事が印象づけられる。
表現の細部はともかく、今このように語る事が真っ当である、と感じる。自分が時代をみる見方がそこに反映されている。という事は観客一人ひとりこのパフォーマンスの受け止め方も感じ方も様々に違いない。
状況がより厳しくなり、「それ」について語らない事が「それ」を容認するという意味で背徳的である、という事態にまで至った時、つまり芸術領域に政治が浸食してきた時(できればそんな時代は来ない事を望むが)、その時どれほどの芸術家の沈黙を見てしまう事になるのか・・そんな事を覚悟しつつ、期待もしつつ、今日も芝居を観る。

ネタバレBOX

2、3日の内に見た山下残「GE14 マレーシア選挙」、本作、d倉庫の「日本国憲法」パフォーマンス(身体思考/加藤航平と八谷しほ)と、通底する舞台が続いたのは偶然もあるだろうが、それぞれ演劇的議論の新しい形が模索されている。
GE14 マレーシア選挙

GE14 マレーシア選挙

山下残

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/04/26 (金) ~ 2019/04/29 (月)公演終了

満足度★★★★★

観劇は過去一度だけであるが十分にインパクト有り、舞踊というカテゴリーを文句を言わせない着想で拡張し続け、ついに舞踊でさえなくとも観客に飲ませてしまう山下残が今回何を見せるのか。なぜマレーシア選挙か。超気になって出掛けた。
素材は一年前政権交替を起こした選挙で、映像もドキュメント、出演者まで当人という特殊な出し物だ。ファーミ・ファジールの出で通訳に付くのが青年団の松田弘子でこれが「出来る」故のオファーなのか俳優としてのチョイスか判らない(恐らく出来るんだろうが「実は全然喋れなくて」とかヒネリも有りな雰囲気)。

ドキュメント素材をパフォーマンスとして見せる形態に演出家・実演家「山下残」の名前が光るが、マレーシアの国政選挙への着目にも(縁もあったにせよ)山下残の影が見える。選挙運動の紹介だけをやっておりその事で舞台は完結しているのだが、我らが無名候補ファジール(アーティストでもある)の選挙活動の帰芻に関心が高まるだけでなく批評性を帯びて身に迫ってくる。彼の当選と、マレーシアの建国以来初の政権交代の実現の中に何があったのか、読み取る材料はそのプロセス。観客はその経過に身をおいて歴史的事態へ突き進む高揚に浸り、迎えた結末に揺さぶられている。
我が国の選挙、即ち政治状況の体たらくが過るが、人が何かに気付き動き始めるきっかけというのは意外な場所に眠っていてその日を待っているのかも知れない。
斬新かつ確かな仕事。

BATIK100会

BATIK100会

BATIK(黒田育世)

急な坂スタジオ(神奈川県)

2019/04/24 (水) ~ 2019/04/28 (日)公演終了

満足度★★★★

初の劇団を観るべく初の劇場(萬劇場)へ当日券狙いで向かう予定が、時間がなく断念。そうだBATIKを観ようと目的地を変え、急な坂スタジオを訪れた。初BATIK。
会場は名前の通り急坂を暫く登った所にある。鮮やかな褐色系の外観(煉瓦の塀)が目印。内部はゆったりしたロビー、観客というより利用客を迎える雰囲気。廊下を伝って奥の会場まで、途中にも稽古場らしい部屋の扉があり、劇場というより合宿所のよう。
公演会場とされた部屋はそれなりに広いが、劇場仕様ではなく天井も低い。照明は床に置いた幾つかで間に合わせていた。長方形の短辺側に三列段差の椅子席が二十数くらい。開演時刻の20時には席が埋まり、約1時間の上演が始まった。
「BATIK100会」の第1回(会)は息長い企画のスタートとしてまずまず面白い内容だった。4人のソロダンスで1時間。1曲目以外は松本じろ(g、vo)の生演奏をバックに踊る。一曲目はSTスポット「地上波」第四波で見た政岡由衣子が、練られた振付の曲を20分。2・3曲目が合わせて20分弱。4曲目が即興性ある(実際は判らないが)演奏と踊りで20分間飛ばしまくり、燃焼し尽くした体で上演は終わった。
名前だけ承知していた黒田育世振付の踊りにやっと相見え、100回の何度かは覗いてみようという気になっている。登り坂はきついが・・。

『のぞまれずさずかれずあるもの』  東京2012/宮城1973

『のぞまれずさずかれずあるもの』 東京2012/宮城1973

TOKYOハンバーグ

サンモールスタジオ(東京都)

2019/04/11 (木) ~ 2019/04/21 (日)公演終了

満足度★★★★

内容では東京2012に、俳優では宮城1973に食指。一作のみ観劇可で悩ましかったが無理やり順位をつけ、東京2012を拝見した。新作の方はまた再演のチャンスも...と期待する事にする(その際も是非福寿奈央氏に)。
事件を私は殆ど覚えていない。初演の2012年、被災地宮城だから作者はこの題材を選んだのだろうと想像する。血の繋がらない家族の物語だが、家族内の関係が適役の俳優によって浮かび上がる幸福に浸った。開演まもなく、前列の客が携帯着信バイブ音に「どうしよう」と慌てながら決して切ろうとしないのにイライラむかむか、1分近く舞台上は幾分激しく動くていたが台詞情報が頭に入らず。にも関わらず人物の関係性は損なわれず肌に入って来たのは、役者がその人物として存在していた証だ。言葉の謎掛け・謎解きで注意を引っ張るタイプの芝居でなく素直に人物を描いて行くTOKYOハンバーグの真骨頂に救われ、空白時間とならずに済んだ(その女性には終演後苦言しておいた)。
それぞれがそれぞれらしく生き、悩み、「家族」の紐帯の中から力を得て前へ進んで行く涙ぐましくもいじましいドラマ。言わば「血縁」以上に情に結ばれた、理想的な家族像がそこにある。「人と違う」不遇が育んだ連帯意識なのか、血縁でない以上「関係」を必然化する事が暗黙に目指された結果なのか・・。そうした説明は芝居には一切ないが、台詞の中に様々な思いが沸々と渦巻く様が想像され、存在の輪郭がリアルに迫ってきた。
ただ・・震災直後の日本で、打ちのめされた心を癒す彼らの心遣いを描きたかった書き手の思いを想像しながら、今は、残酷な結末もあり得ると想像する余地を与えない綺麗にまとめたラストには、少し物足りなさも残った。
最後に置かれる結語には、人の善意や優しさが当てにならない事もある「未知数」な未来を警鐘する要素を持ってもいい、そんな気がした。この事件の当事者である医師や、子をもらい受けた夫婦は善意の人であり良いことをした、果たしてそうなのか・・突き放される事で観客は、結論を自らの思考によって選択する、その決断に委ねる余地がほしかった。十中八九、客は善意の選択をしようが、そうする事で己にその選択には責任が伴うことになる。激しい雨の夜、病院の待合室で他人の赤ん坊の誕生を待つ夫婦のシルエットが、冒頭とラストに出てくる。ラストの扱いは多様に有り得て、迷う気がするが、上の感想を反映するとすれば私はシンプルに、二人が命を待ち続ける姿を残して暗転、がいい。安易と言われるかも知れないが。。

『ニーナ会議-かもめより–』

『ニーナ会議-かもめより–』

演劇ユニットnoyR

WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)

2019/04/17 (水) ~ 2019/04/28 (日)公演終了

満足度★★★★

2016年観たのとだいぶ違うと思ったら、演目が違っていた(そもそも役者数が倍)。私が観たのは「かもめ」で、ニーナは勿論「かもめ」に登場するニーナであるが、タイトルに「会議」とある通り、ニーナが会議をする。「かもめ」の翻案というよりスピンオフな作品と言えようか。大変ユニークな台本で、樋口ミユはやはり台詞を書く人なのだ、と改めて認識。
若葉町wharf(ウォーフ)には出入り口が二つあり、同じスペースでも大きく2パターンの使い方があると気づく。印象がまるで違って面白い。今回は黄金町駅に近い方が入口となり、長辺側に対面式の席が並ぶ。入って奥にステージに当たる台がありテーブルと三つの椅子、楽屋っぽい歓談の場。そこから手前側に台が延長して長く突き出し、テーブルと真逆の突き当たりに一脚の椅子。この遠い両端の間で芝居が展開する。登場人物については詳述を省くがトレープレフとトリゴーリンは登場。主人公ニーナの一人称の目が、二人の存在を認める、その対象として男性の身体が駆り出されている。
チェーホフ作「かもめ」の物語が、ニーナの視線を通して再構成される。トレープレフ目線ではニーナは彼に残酷な仕打ちをし、最後まで身勝手にも見える女性だが、この舞台で作者はニーナの中にある女性ならではの葛藤を普遍的な情景として描出した。
原作を知らずにどの程度楽しめるかは判らないが、ニーナ(女性、と言い換えたい)が、己の人生が問う問いに真剣に対峙していく姿は感動的である。女性のアンサンブルは流麗で目に美しい。

さようなら

さようなら

オパンポン創造社

シアターKASSAI【閉館】(東京都)

2019/04/18 (木) ~ 2019/04/21 (日)公演終了

満足度★★★★

最もパッとしない男役が主宰で、他は全員客演とは終演後知った。調べたら一人作・演出・出演ユニット。今回の「最後の上演」への思い入れは強かったらしい。
今回で封印する理由は判らないが、確かに15年選手にしては本作は若者目線のドラマ。軽快なテンポとキャラ立て優先の演出も、脚本の良さで無理を感じさせない。小ギャグの好みはそれぞれだろうが、吉本文化圏の大阪らしく本人と役が渾然一体のキャラで押し出す役者根性は私には彼我の差と映じた。
話の舞台は淡路島。しがない工場の従業員たちの、変わらない日常と、事件、その顛末を描く。最後まで「何を作っている工場か」に触れないのに、不思議と宙に浮いた話に感じさせないのは人物造形の勝利か。
中卒以来十八年勤務するベテランと、彼に毎日飲みに誘われ付いていく九年目の後輩、カラオケの合いの手も職人技のスナックのママ。飲みを断り続ける二人は、風俗にはまる中国人従業員と、進路に悩む事務の女性。朝のラジオ体操にだけ姿を見せる社長。
そんなある日、一度も飲まなかった二人が「飲みに連れて行ってくれ」と先輩に申し出る。ルーティン反復の日々に初めて波風が立つ。
テーマは食い尽くされた感のある「変わらない事の良さ」と「変化への渇望」との葛藤。地方で燻る事への倦み、自分との折り合い。上演する場所が東京か地方かでも随分切実さが違うのではないか、と想像しながら観ていた。本作は舞台が淡路島で、女性事務員が憧れるのは東京と、うまい設定である。地方都市住人が抱える憧憬する側の疼きと、される側の余裕、関西の観客は「疼き」をより理解するのではないか。もっともこれは土地に関係なく個人が持つ二つの感情でもあり、文明とその中心地が形成された古代から存在する、普遍的なテーマなのだろう。

ネタバレBOX

実は余裕で到着する予定が、電車の乗継ぎ案内を信じたばかりに開演に遅れてしまった。タイトル映像の前の喧騒場面が終わる頃に入場した。
「撮って出し」DVD(関西公演)があるというので購入した。見直してみると冒頭でしっかりと「事件」後のスピード感ある場面が3つばかり伏線としてピックアップされている。本編で言及して欲しいと感じた部分(ちょっと舌足らずに思われた部分)が冒頭にきちんと出ており、映像で逆算すると開演は定刻か1分遅れ、私が見逃した3分が有ると無いとではこれは間違いなく開きがある。「さすが受賞作!」とまでの高まりに至らなかった理由はそれ、との説を自分では有力視している次第。
しかしお陰でDVDを1000円という安価で入手でき、素撮りでも十分見られる。二度目でもつい引き込まれ、お得感有り。
疾風のメ

疾風のメ

くちびるの会

吉祥寺シアター(東京都)

2019/04/17 (水) ~ 2019/04/22 (月)公演終了

満足度★★★★

今はない雑遊で数年前に観たきりでご無沙汰だったくちびるの会。アルゴリズムな感じで俳優が動きながら、その中に情念の火がふと点ったような、そんな朧げな記憶で、未完成ながら独自の演劇的言語を持っている印象だった。少し寝かせて(ワインではないが)観に行くつもりが随分経って久々の観劇。
役者陣が充実しているな。と観終わった後サイトで確認すると、くちびるの会は2014年から活動のプロデュースユニット。俳優には今回出演の野口オリジナル、佐藤修作、橘花凜、鈴真紀史、丸山港都、加藤ひろたか、そして丸山厚人。他に傳川光瑠、宍泥美、一回切りだが小沢道成など。今回初出演が東谷英人、藤尾勘太郎。無敵と言える陣容だ(他は黒田光、聖香)。
作・演出山本タカの志向は過去一作と今作のみでは判らないが、2000年以降の若者が潜っているだろうペシミズムが作品の前面ではないが通奏低音に鳴っている。俳優各人の持ち味の生きる人物を登場させ、終盤近くまで軽快に飛ばしていた。が、作家山本氏としてはどうか知らないが、もう一歩書ききれなかったように思う。何かが惜しく、悔やまれた。

ネタバレBOX

唐十郎の舞台を担った特権的肉体・丸山厚人の起用は、「風男」なる異形の主人公(野口)を世界へ送り出して幕を下ろすという、唐作品を思わせるような劇の構想からだろうか。
この劇はぶっ飛びな展開と、リアルな・シリアスな現実世界が錯綜する面白さが、実現されていた。俳優の働きが大きい。先の丸山演じる清掃会社社長はシリアスな現実に「理念と情熱」で突き進む第三の道を示して閉塞感に救いをもたらす存在、弱者にたかるゴロツキ(東谷)・子分(木村)・その手先(石黒)、「悪」の狡猾に対し無力な高齢者施設(実際にはこれほど柔ではなかろうが、ある本質を穿ってはいる)には、模範的な主人公と新人(佐藤)、シュッとした男と噂に弱い女性上司(鈴)、ある嫌疑が掛かって辞職に至るベテラン(藤尾)、その後釜(石黒=手先)。
主人公はドラマ的に二つの側面を担い、これが戯曲の魅力でもあり欠陥にも思われる。介護職という低収入の身分への不全感から、「踏み込めない」主人公に決断を迫る3年同棲した恋人(聖香)と、自分につきまとう「兄」=清掃会社社長にその風の威力で諦めさせて欲しいと頼む街角の風俗客引き(橘)は共に、主人公の自己像を知らせる鏡であり、応援団だ。つまり主人公の男は自分探しと成長の物語の主人公である。
一方この主人公には子どもの頃、憎しみの目が「風」を起こしたという体験があり(手持ちサイズの風車で恋人によくその話をしたらしい)、成人した彼の憎しみが極点に達したそのときに再びそれは起こる。橘の依頼から風使いとしての修行が始まり、その途上に清掃会社社長との対決、そしてシビアな相手、執拗なゴロツキらの攻撃に立ち向かう事となるが、ここでの彼は、特殊な力を与えられた「選ばれし者」である。
もちろん「風を起こす」とはある種の比喩とも取れる。意志の力が何事をも動かす、誰しもその力は平等に与えられている・・という。だが物語を動かし周囲も動かすのは「風を起こす」具体的な力で、この力によって彼の性格(あるいはスタイル)を変えない事も許されるとなれば、風は変化の象徴でなくなり、持てる者の特権の構図になる。自信がなく意志が弱いという評価は3年間暮らした女が下したある意味揺ぎない事実で、決して彼を嫌いでない様子から、彼女が高望みをしたのでない事も判る。その彼女は「風」を起こし始めた彼の内に込められたもの=彼自身をやがて認めていく事になるが、孤高を潔しとする境地に至った彼は、風を「起こす」のでなく風と対話し、彼の口癖であった「申し訳ない」態度を貫くことで世界を救おうと旅立っていく(その覚悟を貫くべく日常へ戻っていく、とも解釈可能)。
「変わるべき人間が変わる」物語のはずが、「変わらなくていい(ありのままでいい?)」の文脈が入り込んでくる。「変わるポイント」がズレている訳だが、では何が変わり何を変えなかったのか、そこがぼんやりしている。
テント芝居なら屋台崩しの後、吹きすさぶ風の中、場外へ去って行くラスト、そこに様々な未来への希望が仮託される。作者にもその思いはあったろうと想像しつつ、では何が変わりたいと切望されているのか、感覚で摑まえようとしたが掴めなかった。この戯曲の流れでは、風に去って行く幻想的な最後の場面から、もう一度日常に戻りたくなる。
もし精神世界を描き、そこで完結するのであれば、「現実」場面で取りこぼした藤尾演じる職場の同僚(コンビニでバイトしている)には、最後に「謝り」に行くのでなく力を貸してくれと頼みたかった。「子どもの目」なら「あの人も味方にできる」と、思ったんじゃないかな。
喫茶ティファニー

喫茶ティファニー

ホエイ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/04/11 (木) ~ 2019/04/21 (日)公演終了

満足度★★★★

アゴラ劇場の壁際一杯に作られた古びた喫茶店内。下手手前にゲーム付のテーブルが置いてある。冒頭森谷ふみがお客に対してセットの事、程なく登場する幾人かを紹介するという「親切な」導入以後は、ホエイには珍しく「逸脱」「ぶっ飛び」のない地に足のついた現代設定のストレートプレイであった。
アウトロー世界の入口として機能する喫茶店には、そうした者たちが滞留し、通過する。場の設定が見えると作者の狙いも頷け、際どい問題に突っ込んだ芝居の輪郭が浮かび上って見えてきた。
青年団系が多いとはいえ多様な存在があって「あうん」で成立していないのが良い。

ネタバレBOX

この芝居は制度的に生み出されているアウトロー(従って合法世界の住人にも無縁ではない)の話である。
ただリアルを追求すれば、中心人物である在日の青年のあり方などいささか違和感はある。

経済的事情で(植民地由来でなく)渡日する外国人がある種の孤立の状況を嘗めている事は想定でき、外国人コミュニティのある部分がアウトロー化すれば、そこでの階層形成もあるに違いない。映画が好んで描きたがる世界だが、様々な矛盾を孕んでいるが故だろう。ただアウトローが世間的常識や法に頼らず自立心を発揮する気概の方が絵になるが、この芝居ではその主張を体現する存在をささやかに残しながらも矛盾の提示に重心がある。

余談ではあるが・・朝鮮籍の朝鮮人は今は在日の中でも少数派というが、同じ法の埒外でも日本社会でそれなりの地位を確保するための長い運動があり、民族的紐帯も形成されているので、法的処遇の厳しさを見ずそこだけ見れば、羨ましいと感じる温かい関係がある。コミュニティを構成する国籍状況も多様と聞く。ここ10年、朝鮮学校が高校無償化措置ばかりか補助金からも見放され、教師はほぼボランティア状態で後続のために身を削っているのだとか。だがそれを支えようとするコミュニティは温かい。
このコミュニティがまず土台としてあり、そこからはみ出した存在なら「なぜそうなったのか」が、青年の固有のあり方となってくる。
在日の女性の方も、名前を隠すか否かなど十代に悩み尽くしているはずで、結婚相手になろうかという男性に出自を隠す事にはリスクの方に自覚的なのが普通だろうと考える。元々本名を名乗っていた彼女が仮に在日コミュニティから抜け出したくなったのは何故だろうと思うが、そうだとして国籍問題を解消して日本人のいいとこの男と付き合う順序は難しいから、結婚によって無理なく帰化するために相手を選ぶだろう、その場合の相手は彼女の出自にむしろ同情的な人間であるはずだ。

ただ、男女二人の「らしからぬ」人物設定にも、出自を忘れる日常にあって「ある局面でその事が桎梏になる」という制度差別の本質はみえる。ほぼ日本人の感覚を持ち、就職難の現実も日本人同様に味わう彼らが、見えない差異を突き付けられる。

ちなみに「朝鮮籍」とは日本国憲法成立の前日、それまで日本国籍者であった朝鮮半島出身者を「外国人」に括る法律が出来、憲法の「法の下の平等」の対象から排除する事ができた訳だが、その時彼らに当てがわれた国籍が「朝鮮籍」であって、実在する国に帰属する国籍とは異なる。
つまり朝鮮籍は北朝鮮に帰属している訳ではなく「韓国籍をとる」という選択をしなかった朝鮮人たちが持っている籍、という事になる。日本の朝鮮半島植民地化がなければ彼らは元々存在しない。国や制度に翻弄された彼らが少なくとも、喜々としてある国籍を選ぶ、などという事はなかったに違いない。
時は流れ、情勢も変わり、便利だから韓国籍をとる、結婚したら日本国籍になる、というケースが増え、韓国籍・朝鮮籍ともに年々減っている。
一方アイヌ人には国籍そのものがない。ただ民族的自覚を持つ人間によって、受け継がれていく。そういう存在を包摂する日本でありたいが、なぜ「差異」に人は足を掬われてしまうのだろう。
幻想寓意劇 チェンチ一族

幻想寓意劇 チェンチ一族

演劇実験室◎万有引力

ザ・スズナリ(東京都)

2019/04/05 (金) ~ 2019/04/14 (日)公演終了

満足度★★★★

万有引力 in スズナリへ、また出掛けてしまった。非寺山作品に挑み、天井桟敷を正統に継承する舞台と評価された作品とか。狂気の演劇人アルトナン・アルトーの名に「オ?」と目が行くが、かの地の前衛の前衛たる所以はこのテキストからは判らなかった。残酷な状況が取り上げられているとは言え、人物に正当な台詞を言わせ、主張をさせている。様々な理不尽を、相手を慮って受容するという「残酷」とも言える現象に、エロティシズムさえ重ねられる日本人の精神の屈折からすれば、理が勝った西洋のそれなど単純に見えてしまうという事だろうか。

さて冒頭から光と音、美術のアンサンブルで舞台は魅せていく。今回は特にJAシーザーの音楽の木目細やかな音使いを、初めてしかと確かめた。再演というから、楽曲も若き日のシーザー氏の迸る才気が書かせたものだろうか。それとも今回新たに書き下ろしたものか(現代的アレンジも感じたので)。単純構造の戯曲の色彩を与えていたのは美術+照明と、間断なく寄せて返す音楽だった。

この話、前半は貴族の家庭内残酷劇、後半はチェンチ伯爵を殺した娘ベアトリスの裁判で情状酌量の余地を認めるか認めないかを延々と争っていると言ってもいい話だ。
日本人の感覚では(に限らないかも知れないが)、認められようが認められまいが罪は罪、結果に差はないと考え、いずれの処断も受け容れるというのが「ストレスのない」覚悟であったりするが、このドラマの主人公である被虐の親殺しベアトリス・チェンチは頑として「罪はない」と主張し続ける。
戯曲が用意する頂点は、処刑されようとする孤高のベアトリスが、「神の名の下に」彼女を裁こうとする判事や教皇の使者へ反駁をする最後の場面。現状への嘆きと、希望を裏付ける切々たる正当性の主張は、ギリシャ悲劇の詩(長台詞)を思わせる。彼女の弁は人間宣言であり、律法学者を難じて処刑されたキリストが重なる。相手が聖職だけに痛烈な皮肉となるが、この正当な批評態度は、仏では異端のそれなのだろうか? アルトーをまだよく判っていないので、考え保留。

血と骨

血と骨

トム・プロジェクト

ザ・ポケット(東京都)

2019/04/10 (水) ~ 2019/04/14 (日)公演終了

満足度★★★★

初日を拝見。客席に多くの演劇人が見られた。劇評家の姿もあって注目度が窺えたが、確かに話題になって良いタイトルである。
もっとも私は在日の世界を日本人が象る事の困難、況んやこの作品をと見切っていて、観るつもりはなかったのだが直前に「凄い事になってるかも」と期待の虫が這い出てきた。最近注目していた演出家というのも大きな要因となり、観劇。
構造はシンプルで、在日一世のある男の一代記として描かれ悪い感触はなかった。私は映画版がいまいちだった口で、映画より今回の舞台が良かった。父子の対決図を軸に据えたことで世代の継承の視点からこの異形の男の存在を捉え得た、というのが理由だろうか。
ただし「俊平」その人の存在を本質から形象し切れていないとの感想は映画に同じ。想像の中でしか作れない人物なのか・・判らないが、乱暴な言動の背後に流れている何か、核を掴むことは確かに大抵ではないとは思う。
舞台は暗転を多用した点描スタイルのニュアンスもあり、暗転になると人と物の出入りの際、芝居でなく作業員のようになるのが、私としては気に食わず、照明が落ちても役の気持ちでいて良いように思った。「割切り型」と「粘着型」とあるとするとこの芝居は「割切り型」(最近見たのでは「はだしのゲン」が典型)の構成と言えるか。
俊平の妻・英姫役は立派な関西弁でパキパキと喋り、韓国訛りとして「ツ」を「チュ」に変える配慮をやっていたが単純変換で機械的。この違和感というのは、関西弁の使い手として人選されたとすれば、韓国訛りなど入れず流暢に関西弁を喋ればよく、韓国訛りを入れるならむしろ関西弁はうまくなくて全然よい。最初に出てくる「あてつけ」を「あてちゅけ」と読ませた変換は、「あッてちゅッけ」(小さい<ッ>は短く跳ねる)もしくは「あでちゅッけ」と行きたかった。台詞には無かったかも知れないが「ざ」は「じゃ」になる。こだわるなら粘っこくこだわってほしく、こだわらない(割切り型)なら、むしろ韓国訛りが要らない。日本で育って自然な日本語が話せる設定でも他郷人らしさ=どこか遠慮がちである等=があればいい(それが出来ないから言葉で対処しようとしたと言われれば黙るしかないが)。
今回どういう事情か知らないがアンケートを取っておらず、ビッグな芸能人でもあるまいし、様々な疑念が湧く。出来についても批評を臆するような出来でなく。憶測を逞しくすれば、コールの際にスター然と佇んでいたあの役者の要求か、などイメージ的には最悪である。そもそもアンケートを取らない事の意味のほうが不明で、私には論外。舞台が思いの外良かったから非常に惜しい思いを抱えて劇場を後にした。

ネタバレBOX

少し考えたが、今回出演予定だったみょんふぁが体調不良で降板、クレームはなかろうが「彼女のチャーミングな立ち姿だと随分違ったかも、、」等の一言くらいはもらったかも知れない。役者への配慮。だがもしそうならこの措置は妥当と言えるか。私はその想定自体が許せん、となる。役者交替で舞台の質が変わるような作品だと自認している事が論外だ。
またこうも考えた。今や紙に感想を書く人など僅か。それにアンケートを請う謙虚さでお茶を濁してる印象を持たれたくない。舞台に自信があるからこそアンケートを乞わない態度が正しい在り方である・・。
いやいや。作品は一つでも観客の受け止め方は様々であり、それを「知りたくない」という姿勢が演劇をやる者としてどうなのかという話。違和感は拭えない。
半永久的なWIFE

半永久的なWIFE

劇団NLT

オメガ東京(東京都)

2019/04/12 (金) ~ 2019/04/19 (金)公演終了

満足度★★★★

普段あまり観ない“ジャンル”の芝居だが、<喜劇>一筋30年の劇団NLTは3年前池袋の小屋で「劇場-汝の名は女優」を観ていた。年増女と疎まれる元(?)大女優が、彼女が入れ揚げている若い男と新人女優に裏切りを食らうも最後は舞台上で勝負、見事一矢報いて拍手喝采の爽快な舞台だった。先日話題になっていたルー大柴主演舞台や、少し前の賀来千香子主演舞台など著名俳優を招いてのプロデュース型も多いようだが、今回は昨年開業した「オメガ東京」という小さな劇場で「劇団公演」の趣き。演目は劇団主催戯曲コンペの受賞作という事で全くの未知数である。予測不能なタイトルに惹かれたが、意味じたいは内容を割と忠実に表していた。
装置もお芝居チックな室内劇は、劇団代表の川端氏が片割れを演じる老夫婦の奇想天外な近未来家族ドラマ。貫禄ある二人の比較的自然体な存在感に、周囲の面々がキャラと個性豊かに茶々を入れる。メイド・ルーシー(察しの通り英語圏のどこかが舞台だ)、営業員ジュリア・ロボッツ、修理担当マイク、数十年ぶりに帰還した娘オリビア、その夫の残念男ジョージと、周辺の役を担う俳優が特徴的だ。「如何にも」なキャラ、際立つ個性を自分なりに見出し強調し、存在から滲み出る笑いの要素を磨き鍛えているのがNLTの俳優だろうか。
序盤はこのドラマの奇抜な「設定」に移行するためのやり取りの部分が、脚本的には苦慮したと見える要素があるが、俳優の技量で乗り切ると、この設定を楽しむ時間である。だが予測可能でも予期しない事態が間断なく訪れ、「設定」自体が揉まれた末、あっても良かったのに無かった平凡な場面が現われて終幕。思わず「うまい。」と言う間もなく温かな闇に包まれた。「喜劇」とは愛を確認するまでの試験ないし前戯であり、照れ臭さを隠すボヤキの時間。時折目にする芝居は早々にボヤキその実ノロケの延長と悟られるが、本作は着想の勝利でノロケ要素が当初より除外されている。つまり未踏の変化を辿りつつ、回帰するかのような不思議な構造。大騒ぎな大団円だけが大団円でないと妙に感心した。結語(回帰)そのものは喜劇の王道なのだろうが「変化」の方に未踏の時間(未来)への希望が滲む、とは大袈裟だろうか。
ただ、小さな劇場とは言え客席にもっと客が入っても良かった。「喜劇」にこだわり、これを続ける事の苦労が過ったが、笑いの中には不屈の細胞がある、と感じる所がある。笑い、不可思議也。

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