スモール アニマル キッス キッス
FUKAIPRODUCE羽衣
吉祥寺シアター(東京都)
2020/08/28 (金) ~ 2020/09/07 (月)公演終了
満足度★★★★
久々に羽衣妙ージカルを観たが、最も完成度が高く感じられたのは何故か。総勢15人全てにメインキャストとなる小エピソードがあてがわれ、10個程あったろうか。曲に乗って描かれる色恋にまつわるエピソードは、人間と小動物が半々位。曲+歌には好みもあるが場面に即しており、秀逸なものが幾つか。振りと曲のマッチングもさすがだが、踊り手もいい。
今回の特徴は「口ぱく」との事。最初離れた男女が呼び合う声に違和感あり、奥の女性が生声、手前の男性がマイクを通したこもった声に聞こえ、確かに喉も枯れていたので窮余の策かと思えば、他もマイクの声である。そこで「なるほどステージ前面では録音を使い、感染症対策としている」と納得。だがよく見ると殆どが口パクである。
場面は音曲とダンスが基本構成要素なので、歌は音楽に乗せて録音できるが、ただの台詞は合わせが大変である所、よくやっていた。それにしても録音は声のテンションと身体状態とのギャップを生むが、臨場感ある録音の声に身体が付いていく。稽古の賜物か。またエピソードが少人数ごとなので稽古参加人数も制限できたに違いない。
さて今回感じた優れた点は恐らくこの「口パク」が理由だ。というのも生声であの動きを全力でやるのは無理である。録音だったからこそ身体パフォーマンス(口パク込み)に専念でき、質を高めた。コロナ対応のためのアイデアが舞台上でもうまく機能した訳である。演じ手と語り手の分離は宮城總のお家芸だが、この手法の利点に通じる。
糸井氏演出による「摂州合邦辻」の再演も嬉しい。
BLACK OUT
東京夜光
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2020/08/21 (金) ~ 2020/08/30 (日)公演終了
満足度★★★★
作演出の名もユニット名も初、星のホールのNEXT COLLECTION(注目の若手)にしては小劇場の実力派を揃えており、評判も良いのでコロナ後初の三鷹(最遠方)へ足を運んだ。
小劇場演劇界のあるあるを超えて当事者だから書ける生々しい逸話が、2月後半あたり、つまりコロナ事態の迫る状況を背景に展開し、フィクションながら(観劇屋として)身に詰まされるリアルなドラマであった。
作演出を夢見る(まあまあ書ける)主人公が、「仕事はあり金にもなる」演助のオファーを受け、夢と天秤に掛けて手堅い将来像を思い描くあたりは切ない。
芝居の大部分はあるプロデュース公演の稽古。映像の仕事にかまけて?ブランクのあった鬼木が久々に舞台の仕事を受け、企画段階とは異なるコロナを題材に自分としては満足の行く台本で挑もうと意気込み、先の主人公も制作担当である旧知の女性の声掛けで演助に入っている。所が問題発生、観客の7割を動員するだろう事務所所属の若手俳優が台本に異論を唱えた。「今苦しんでいる人がいるのに何故コロナか」(彼なりの真剣な意見)。一度疑問を呈して黙ったが、いつか答えが解るだろうと思ってたが未だに理解不能と彼は言い、説得に失敗。結局鬼木は台本を書き直す事になる。「バイトのつもりで頑張る事にするよ」と主人公にこぼす鬼木。
物語は、主人公の「作演出者への夢」と「演助への期待度が高い現実」の葛藤の構図の中に意味づけられながら展開する。「夢」の片隅にいた制作の女性が実は婚約していて妊娠中、最後の仕事として鬼木の作演舞台を企画した事が後に判ったり(主人公は彼女と大学時代から演劇を作った仲で自分の夢も語り共有してくれていると思っていた)、演助を受ける代わりに鬼木に自作を渡してもらうよう依頼していたが今の仕事の中で渡すタイミングなく過ぎていた頃、別のルートから作演オファーが来て舞い上がる。一方「コロナ」から「不倫」をテーマに変えた鬼木の舞台は転換手順の検証など粛々と進み、主人公は演助の役割を見事にこなして信頼を得るが、作品の「中身」は観客には伏せられている。そこで主人公による舌禍事件発生。確か照明スタッフとして稽古参加し気安くなった声力のある女性に、つい通し稽古の感想を漏らす。相手は「演助」としての彼に「うまく行った」感想を期待したのだが彼は首を傾げ、「え、え、何、問題あった?」と突っ込まれて「正直自分がやった方がうまく行く気がする、台本も含めて」と本音を漏らす的にこぼす。「お前がそれ言ってんじゃねえ!」と一刀両断された直後(この先が「通常ない」だろう展開だが面白くなる)、稽古場の片隅でのこのやり取りに気づいた鬼木が、記録のために録っていた主人公のレコーダーを見つけ(このかん主人公は手も出せない)、会話の全てが全員が聴く中で再生される。次に主人公がとった行動が哀れで滑稽で、普通なら脇役に振られる類の中々なシーン。「演劇界」で生きて行こうとする彼の本心が実力者鬼木にすがりつき己の非を詫び、受けたオファーも断ると宣言するという行動へと突き動かす。つまり演助として「食って行く」道を選択したと見えるのだが、同時に「作演出」を貫く器ではない、との周囲の評価そのままが露呈した風景にもなる(自分を対象にしなければこうは書けないだろう)。が、主人公がオファー元に電話をした携帯を鬼木が取り上げ、「彼、今酔っぱらってるんです。仕事、とても喜んでまして。では」と相手に言って切る。それをきっかけにだったか、主人公はついに自分の本音に居直り、コロナの芝居の方が断然面白かった事、新しい台本がつまらないゆえに通し稽古もつまらない事、皆がそれを指摘しない事の欺瞞を吐き出すように言う。この瞬間は一旦突き落とされた地獄(世間)から、かつて魅せられ信じた演劇に対する思い(己にとっての真実)に踏み止まった瞬間とも言え、胸を掴まれる。鬼木は「面白くないと言われれば、謝るしかない」と頭を垂れ、「面白くないのなら面白くするしかない」と彼に稽古の進行を頼む。周囲は再び稽古に戻って行く。
もみくちゃになりながら舞台を作ってもコロナには勝てなかった結末を含め、演劇製作者へのエールになっていた。
ひとよ
KAKUTA
本多劇場(東京都)
2020/09/03 (木) ~ 2020/09/13 (日)公演終了
満足度★★★★
初演から9年。題名から舞台風景がすぐに浮かぶレアケースだったが、笑い所豊富であるのは記憶と違った。初演時は震災の記憶が未だ生々しく、笑いのある日常を背景(地)に、不穏要素が「図」として強調された、のに対して今回は(確かに脚本もそう描いてあるのだが)不穏な事情を背景とし(て利用し)、笑い待ちの観劇となった。
恐らくコメディエンヌにしか見えなかった主役渡辺えりの演技の影響も(本人は大真面目だと思うが)。本来なら物語そのものが問う「果たしてそれはあって良かった事なのか」という、ナイーブな問いが全編通じて波寄せるようでありたかったが、渡辺女史の逼迫振りを示すような噛みトチりは「コメディ的には」どうにかクリアしても、役の裏面史的にはどうだったか。聞けば前日が初日で、観劇日は魔の2ステージ目・・という問題ではなさそう。
役の女性は、渡辺本人と重なる要素はあるが、私には真逆の人物像に感じられる。「言わずにおれない」渡辺えりがあの行動に出る事は想像しにくい。男女同権の思想や女性のマイノリティ性の認識や自意識からではなく、言葉で状況が変えられないと悟ったからこそ家族のために「行動」を選択した一個の女性であり母親。それがこの芝居のヒロインである。
言わば自己犠牲・忍従の方に情熱を傾け得る古風な人格が、渡辺女史の演技に宿るか否か。。
社会の制度や風潮の変革を訴えることをしない代わりに、ヒロインは愚直に己の考えから割り出した「正解」を実行し、法が定める善悪を相対化した。そこには聖性が宿る危険もある(「危険」とは世間一般の価値基準によるが)。
芝居の方は母親が去った後も続けられていたタクシー会社を舞台に、様々な人間模様が展開するが殆どが男女関係に帰結し、親子関係が絡む。ヒロインの家族以外の人物は悲喜こもごも、人生あるあるを辿るのに比して、中心となる家族の事情はやはり特殊だが、両者がタクシー会社という場所で共存しているのが不思議である。従業員や関係者がある程度「過去」を知っている様子であるのも(やや曖昧に見えた部分もあったが)不思議なバランスで、この日常の帰趨には興味がそそられる。
KAKUTAお得意の笑いは吃音の長男(若狭)の妻(桑原)、男性目線では中々こうはフィーチャーされない「面倒くさい女性」キャラをうまく(可愛く)カリカチュアして見せていた。主人公が旅先で助けられた外国人のキャラ作りは(訛りも含め)芸の域。新米ドライバーの弟分だった男と恋人のカップルが訪れ終盤波乱を起こすが、主人公(母)の存在自体が波乱要因であり、このコミュニティの耐性を与えている。
この場所に横たわるぎこちなさや欠落が、言葉を当てられる事で埋まり、皆に収まり所が与えられ、芝居は終わる。シェイクスピア喜劇がフィナーレにもたらす統合は、戯曲がかくありたいモデル。KAKUTAらしい作品と言える。
風吹く街の短篇集 第二章
グッドディスタンス
「劇」小劇場(東京都)
2020/08/26 (水) ~ 2020/08/30 (日)公演終了
満足度★★★
村松恭子企画・演出(初?)によるアラバール3作品を観劇。「風の短編集」は第一章を逃し、第二章を楽しみにしていたが、今回劇場で観たのはこれのみ。生で観る演目に選んだのは、アラバール作品が難解そうだから(あと赤松由美出演もあったが降板していた..T_T)。ところが一つ一つの短編はむしろ分かりやすく、60~70年代だな~という感想で、つい最近観たアラバールの監督作品『ゲルニカの木』の「分かりやすさ」に通じた。村松女史がこの演目をなぜ選んだのか、の方に興味が湧く。舞台化という面では、戯曲を書かれた当時の文脈から現代(というより現コロナ状況?)に植え直すことが出来ておらず、見るに少々厳しいものがあった。合計で1時間に収まる3つの短編はそれぞれの「舌足らず」、即ち書かれた(上演された)当時なら説明不要だったろう何かが「要説明」となっている訳である。村松女史の中に何か恐らく思いはあるのだろうが・・処理しきれず消化不良。
フランドン農学校の豚/ピノッキオ
座・高円寺
座・高円寺1(東京都)
2020/08/28 (金) ~ 2020/10/03 (土)公演終了
満足度★★★★
佃脚本の「観たかった」作品。座・高円寺の「劇場へ行こう」シリーズで継続的な上演(毎年)を行うレパートリーの一つであるが、子ども連れも結構多い会場で一番手ごわい観客相手に舞台は健闘していた。
観てみると宮沢賢治作品のテーマが明確な「生き物を食べること」に関する考察的寓話と言ってよいくらいであったが、説教臭くなり兼ねない題材を、正当なラストにまで持って行く音曲多用した演出、演技は申し分ない。60分。
無畏
劇団チョコレートケーキ
駅前劇場(東京都)
2020/07/31 (金) ~ 2020/08/10 (月)公演終了
満足度★★★★
リアルタイム配信(その後アーカイブ鑑賞1日可)のみ。上演は駅前劇場。劇チョコらしい芝居が観られたが、配信での観劇「体験」は濃度として薄いためか、観劇した事を暫く忘れていた。見ている間は興味深く物語に入って行ったが・・。
(元々配信時間14時には観る事はできず、夜中に見るつもりであった。が、途中体調による睡魔に襲われ、翌13時まで危うかった。助かったのは「読み込み」によって期限を過ぎても見続ける事ができたこと。不明点を見直したり、十分堪能した。)
松井石根という唯一「政治家でない」処刑されたA級先般の名前は耳にしていたが、日中友好を願う親中派であった事、南京での無法な兵士の所行に怒り軍規引き締めを通達した等は「虐殺の司令官」イメージとはかけ離れ、どの程度事実が反映されたかは不明でも人物としてのリアリティはあった。むしろ「善意」の決断が結果的に何を招来したかを考察する適材を与えている。
戦後巣鴨プリズンの彼を訪ね真相に迫ろうとする弁護士(西尾友樹)と松井(林竜三)が舞台の後半、何気に30分を超える(測ってないがもっと長いかも)息詰まるやり取りがある。弁護士は「何故こうなったのか」「何を誤ったのか」の問いを、手を変え品を変え松井に投げて行くが、松井が自分を支えていた「善意」なるものの確信が揺らぎ、支えを失ったそれを差し出し裁きに委ねるまでを台詞にした脚本、命を吹き込んだ俳優に感服した。
イヌビト ~犬人~
新国立劇場
新国立劇場 中劇場(東京都)
2020/08/05 (水) ~ 2020/08/16 (日)公演終了
満足度★★★★
長塚圭史作演出の舞踊ドラマシリーズ(という名称ではないが)。パンフによれば「子ども向け」と。まあそんな感じだが、子どもの目に適う作品は大人の平均的評価を凌駕する、と考える自分にとって「子ども向け」とは「通常より高い作品レベルを目指す」と同義である。だから「子供向け」という概念そのものに意味を認めない。
舞台を観ながら、過去の新国立長塚舞踊子供向けシリーズを思い出したが、過去作よりもストーリーが通っていて、舞踊畑の演者たちの俳優振りを見た印象。面白い場面もあった。見ると俳優陣の(知名度的な)レベルが高く、コロナ禍に結集といった裏物語が匂い、それに乗っかりやすい観客層の「3コール」も予測済みのようであった。
物語を思い出すと・・何年か前に流行った伝染病(狂犬病)が理由でイヌが排外されている町に、ペットのイヌと一緒にある家族が移住してきたというのが始まり。私の理解が追いつかなかったのかも知れないが、「差別・排外に遭う種族」として設定されたイヌまたはイヌ族が、コロナ禍の現在に排外される「何」を象徴したかったのか、いまいちピンと来なかった。コロナ感染者への差別が、コロナが終息すれば無くなるものでなく人間の本質に根差すもの、というあたりの考察だろうかと思うが、私などは人間存在にとってのコロナ禍は、「それを嫌悪・排除する」という態度に隠れて表出されている「何か」を見る事で浮かび上るものと考える。そうした洞察を促す知的な要素が(子供向けだから回避したのか?)物足りなかった。
中劇場での長田佳代子の装置は幻想的で壮観であった。
フィジカル・カタルシス【THEATRE E9 KYOTO公演中止】
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/08/15 (土) ~ 2020/08/24 (月)公演終了
満足度★★★★
アゴラ観劇二発目。一発目の屋根裏ハイツ(の中村氏)と昨年利賀Cで決勝対戦した一方がここ。
結成間もないユニットに(HPを見ただけで)注目したのが一年半前だったが、その後中々の頻度で公演を打つも実際に観たのはアゴラ公演一本。思考優位の試行まだまだこれから、との感想に止まった、
だが2018年初演の今作はアグレッシブな製作で最後まで凝視させるものがあった。
台詞無し、身体パフォーマンスのみ、音楽の伴走なし、背後のディスプレイに同じ(ようで同じではないが)パフォーマンスをアゴラでやってる映像が流れ、録画の音が環境音のようにザー、と鳴り、換気の音のようでもあるが時おりの電車通過音も含め「音」が場を規定していると感じる(うまく使ってるという事か)。踊り、ムーブ(縄跳びやバスケ、アスリートっぽい動きが基調)は音楽の伴走の代わりに環境音に呼応する事で成立している模様。
何時しか始まり四名が入れ替わったり共演しながら予想を裏切りながら動力は加速し、上手奥のシンセドラム(パットは一つのみ)で中盤オフテンポな刻みを伏線に終盤インテンポの刻みがビート感を高めての最後の裏切りが生歌、初演作成の曲と今回の新曲を左右の壁に向かって唄う(コロナ配慮)。音楽に弱い私ではあるが、あの曲を知り尽くしたような花井のドラム(後で聞けば作詞作曲者だから当然ではあった)、演者の荒木、古賀による歌と、マルチ振りに感応。
注視させる「動き」が最大のテーマだが解説困難につき今日は割愛。
『とおくはちかい (reprise) 』『ここは出口ではない』【京都公演公演中止】
屋根裏ハイツ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/07/23 (木) ~ 2020/08/02 (日)公演終了
満足度★★★
「とおくはちかい」・・案内された客席のライトが暗く、「被災地の旧友の部屋を訪れた時の会話」とのパンフの説明を読めていれば、「この話の先に何があるのか」の疑問符に意味がないと悟り、それとして観る事ができたのに・・と悔やんだ。だが何にせよ声が小さい。聞こえるか聞こえないかギリギリを狙う事で観客の集中力を引き出す戦略は、結果的に聞こえなければ意味がない。リアルな小ささでなく、敢えての小ささを感じ、その無意味さに苛立った。特に聞いてほしい話題でもないから聞こえなくて良いのであれば、やらなくて良い。
「ここは出口ではない」・・これも声が小さい。男女2名ずつ4名だが女性1名はタブレットのリモート出演。男の彼女(または妻)で、男が台所で物を探そうとして女が「見せて」とタブレットを台所に持ち込むよう指示し、探してやるという事をやっているので、芝居の中でも「リアルにリモート」の状況だと分かる。が、やはり本来は酒の場に男女2組が居る臨場感をベースに書かれた本だろうと思われ、もう一人の女性が実は幽霊で、という意外要素が普通にリアルな場で起きている落差を楽しみたいところ、顔も姿も見えないリモート人格の参加はやはり存在感も半分。
で、その彼女がタブレットから発している結構大きな音量に対して、男がまた「ギリギリを狙う」小さい声を出すのである。普通相手が出してる声量に合わせた会話になるだろう、と突っ込みたくなる。
昨年アゴラ劇場を予選会場として2組を利賀に送り出した「利賀演劇人コンクール」で、優秀賞をとった中村氏であるが、本年度のアゴラ劇場の幕開け公演は、地味なものになった。
フライ,ダディ,フライ
劇団文化座
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2020/08/06 (木) ~ 2020/08/16 (日)公演終了
満足度★★★★
文化座が10年程前に上演した「GO!」の著者金城一紀の原作小説の舞台化。
「フライ・・」は映画版を見て佳作であった記憶のみ残して詳細は忘れていたが、「これはあくまで恋愛の物語だ」との宣言で始まる(「在日」問題に接続することを拒否する)「GO!」のスピリッツは「フライ・・」にも何処となく流れている。フライの主人公=父親は闘う事を自分に課するが、個の中のドラマの歩みに徹することが人的な広がりを生み、物語の普遍性を生む逆説は、「GO!」が遂げたコロンブスの卵だ。
前夜の新宿梁山泊に続き、「在日」差別に明確に言及する台詞があり、シンクロニシティと思う。語り古された事実でも口にすれば唇寒い時代のせいで新鮮に響く。前夜の芝居の秀逸セリフは「マスク、消毒、検温、ほんっっっと嫌!」。よく言ったこれが本音、本音に罪はない。モラルハザード何するものぞ。
さて芸劇Wでの文化座、このかん見た舞台の多くが「おっかなびっくり」と見えた中では、コロナ後の無事復帰を示す題材として軽快・痛快リベンジ物は相応しかった、と思った。
場内コロナ対策として、ディスタンス客席ではあったが中央の広い区画は席間隔が一席分も取っておらず、その事が劇場客席の趣きをキープし、寂れた感を回避した。これは結構重要な要素かもしれぬ。ステージとの距離は十分で、俳優のマスク、シールド類装着は無し。
演出・田村孝裕の名が目に入る。同作は所謂「復讐物」でも、娘を殴打した相手に文科系出身サラリーマン親父が特訓を受けて立ち向かう「奮闘記」の趣きである。相手は有名人の子息らしい石原某という高校ボクシング全国大会の覇者、方や生白いガリガリ君のしがないサラリーマン。力勝負ではこの対照が「ウサギと亀」の図式、判官贔屓を刺激。
優秀な生徒を誇りたい学校側の教員2名と石原が病院に現われた時、強面教師と教頭に言いくるめられ示談金の申し出に抗えなかった父は、娘の拒絶を受け、親を名乗る資格を失った事を痛感する。絶望感にうちひしがれて刃物を手に学校へ押し入ったところが実は学校違い、そこで偶然出会うのが、夏休みに学校からの「取り調べ」に呼び出されていた変わり者グループ。メンバーの一人が喧嘩の達人、準主役のスンシン(GO!の主役をやった俳優で役柄的に重なる)。「法の外」に生きる術を体得する彼らが、主人公に手を差し伸べる。
目標を始業式の9月1日と定め、主人公は特訓、グループらは「復讐劇」のお膳立てに奔走。この過程のディテイルが作品の目玉だ。スンシンが持ち込む訓練のメニュー、語られる哲学、ヘタレ主人公の変化、二人の交流が、この作品をありきたりなリベンジ物と峻別させている。
「出来すぎ」なオハナシ系、ウェルメイド系と呼ぶならこれに相応しい田村孝裕が文化座舞台を初演出。エンタメ要素を入れながら(例えば笑いの取り方..文化座若手は折り目正しく馬鹿をやっていた)爽快感を吹き込み、バランスが良かった。
音楽劇「風まかせ 人まかせ」~続・百年 風の仲間たち~
新宿梁山泊
ザ・スズナリ(東京都)
2020/08/06 (木) ~ 2020/08/16 (日)公演終了
満足度★★★★
小林恭二や1980との共作等、芸劇を準本拠地に異色舞台を打ち出していた10年前の新宿梁山泊の一つの極点がパギやんこと趙博氏との前作、脚本も趙博による趙博の世界で、氏に梁山泊本体の使用権を与えたようなものと思ったものだが、あれから早8年。コロナ状況に物申さぬ訳がない趙博の今回も作であるが、趣向は場末のライブハウスのマスターに金守珍氏を据え、歌あり芝居に真正ライブも兼ねた、肩の力の抜けた何でもあり感溢れる舞台。
趙博前作の目玉として披露された歌の新版、新百年節が今回もこの舞台の魂。在日ヘイトもアベノマスクも「ど阿呆!」と叱る「正常な言論」が、お芝居であるはずの空間(特に密を味方に上演を続けてきた梁山泊には難点であろう空きっ歯のような客席とステージとの間にぽっかり空いた空間)では生々しい響きを持つが、「正常な言論」が生き延びる(語られる)場がないならこの場所をその場とするしかない今を痛感する。
従来の梁山泊では見る事のなかった噛みは、稽古の事情か台本の影響か、はたまた客席との距離感から来るものか。だが後半リハーサルの体で展開するライブ(出し物あり)、そしてコロナの現在進行形に立ち戻らせるラストまで、可愛らしくも力強い舞台。
赤鬼
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2020/07/24 (金) ~ 2020/08/16 (日)公演終了
満足度★★★★★
コロナ後、劇場で大人数の芝居を観たのは初めて。四面客席の前に大きな横長の透明ビニール幕。客電が落ちると自分の側は全く見えなくなり、すこぶるクリア。シアターイーストの懐(容積も)の大きさか、余裕ある客席でも「淋しい」感がない。
さて「古いテーマ」だと戯曲を読んだ数年前に感じた『赤鬼』が、今を映す舞台となっており、目が離せなかった。読んだ時は抽象的に処理された(ゆえにリアル感の薄い)舞台を予想させた戯曲(多場面で構成された)が、言葉遊びもナチュラルに感じさせる程にリズミカル、躍動的に展開され、「演出」野田秀樹の技量にも感じ入った。
今回のBグループで知る俳優は2名のみ、赤鬼の喋る「異言語」は中国語(風?)で、中国人を起用したかと見ていたら、日本人俳優であった(他のグループの同役も同じ言語を使うのか・・そこは気になる)。
「村八分」「隣組」「竹槍訓練」・・非合理・非民主的で愚かな古い因習のイメージが現代に復活したことを知り、愕然とした日本版「コロナの時代」であったが、そんな事で初読時は「その他大勢」の村人を敢えて「悪く」描いて主人公の被害者性=ヒロイズムを強調したかに見えたこのお話に、全く違和感なく見入ったという訳であった。
おくすり、ひとつ
法政大学Ⅰ部演劇研究会
YouTube Liveにて上演致します(東京都)
2020/07/17 (金) ~ 2020/07/20 (月)公演終了
満足度★★★★
これも観ていたのを失念していた。
恐らく録画ではない動画配信(ライブ)と思われるが、リモートを活用した作り。人物は画像に映り込むという登場の仕方である。つまり空間としてのステージはない。
現世とあの世の挟間のような場があって、そこに住まう人と訪れる人がいる、という舞台設定なので、劇場スペースがむしろ不要で「映像向き」。いや映像配信ありきで作った話かも知れない。
もっともテキストは演劇寄り、と見えてしまうのはライブならではのひずみ、間、未完成感が勝っているからか(映像として仕上げるならもっと編集のしようがある)。
場面の大半は「先生」と呼ばれる存在(AIだったか)の前で、訪問者がそこに来るに至った経緯を語る、告白および回想。
前半に登場する男女(一応相思相愛らしいカップル)の、煮え切らない、踏み込まない会話が続く時間は耳がつらかったが、場面が変わると徐々にドラマ世界が開けて見えてきた。
近未来。「消えてなくなくなりたい」、と心に思っただけで存在が消失する怪現象(病)が散発する。最近のニュースでその病に効く特効薬が開発されたと報じられるが、「生きたいと本人が願わなければ薬の効き目はない・・」といった解説がある。次元の狭間には「先生」(声は女性)が居るが、そこに主人公である青年がやって来る。やって来る、と言っても目が醒めたらこの場所に居た、が正しい表現。この青年はここに暫くとどまる事ができる珍しいケースだと言われる。普通は「消えた」直後にこの場所に来て、「先生」に経緯を話した後、服薬を勧められ、生き直そうと思わなければすぐに消えて(死んで)しまう。
かくして物語の舞台設定は整ったが、青年が観察する「死にゆく者」のケースは1組の男女のみで、もう一つのエピソード(女2人)は実は種明かし的サブストーリーとなり、さらにもう一つのタイムリープ的な仕掛けがオチに据えられている。
最初に登場して儚く死んで行く男、その後を追う(「消えたい」と思ってしまう)女のもどかしい関係性は、優しさが持つ「嘘」を巡る自家撞着。男が「消えたい」と思うきっかけは、「好き」だったはずの相手が「気遣う存在」になった、要は好きでなくなったからに違いなく、「終わり」なのは恋愛なのであって人生ではないと、認めないのは利己的になれないからで、人間の真実から目を背け、綺麗ごとで飾って人生を終えたいなら勝手に終えるがいい・・等とイライラしながら会話を聞く事になるが、利己的に生きるよすが=己自身が希薄であるのだとしたら、とふと思う。若者の根源的自信を喪失させる社会の深刻さはこういう場面に表れてもいるのだろうか・・と。(自信満々に見えるのは一部の○○な連中だけ。)
二つ目のエピソードはアイドルを目指す女子とその旧友で臨床心理士を目指す女子の関係。アイドル女子は上京して所属した事務所で壁にぶつかる。ただしその壁は「自分」という存在の核が無い、というもので、それは対人関係の中で気づかされるという順序を取り、抜け道を失う・・。これはわが事として見てもよく分かった。旧友の存在が救いにならなかったのもむべなるかな。「己の核」は社会的認知によって形成されるもので、早くは家庭で、あるいは家族があやふやでも地域で、学校で、友人関係で、最終的には職場で、作られる契機がある、と考えられてきたが、今はそのどれもが「核」たる保証を与える資格を返上し、現実世界での孤立を掬うのは「大きな物語」としての国家だけ、というのも現代的風景だ。専らSNS、ネットといったバーチャルで記号的な繋がりに比重が移っている現状もありそうだが、これに依拠したがために起きたと見える秋葉原事件が思い出される。
アンチフィクション
DULL-COLORED POP
シアター風姿花伝(東京都)
2020/07/16 (木) ~ 2020/07/26 (日)公演終了
満足度★★★★
今ダルカラが劇場公演を。。と出掛けたら一人芝居だった。しかも谷氏自身による。上演は60分。存外濃いコンテンツに満足。ゆったりした客席にも慣れてきた(興行側は大変だろうが)。
配信もあると聞いたが、映像向きと思われる「パッケージ」として完成度のあるもの、起承転結が明快な演劇らしい演劇ならともかく、「アンチフィクション」の題名から想像されるチャレンジングなのは狭雑物無しで見る(劇場で見る)選択肢以外思い付かなかった。
病床の別役実氏が名取事務所(ペーター・ゲスナー演出)に書き下ろした「背骨パキパキ」を思い出す。結局出て来たのは戯曲というよりエッセーのコラージュのようなもので、作者の呟きのような文から夢想された場面で構成された舞台は不思議な趣きがあった。今回のアンチフィクションも作者の呟きがベースであるが、「全て本当にあった事、本当に起こる事」との前置きの真偽が揺らぐフィクション性高い後半のコンテンツまで、コロナ禍下の劇作家の生態という内容は、それが真実でも虚構でも、単純に面白かった。最初に「真実」を謳う事は必要だったろうが、俳優の体は舞台の時間のそれであり、演劇のそれであった。
プレイタイム
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2020/07/12 (日) ~ 2020/07/12 (日)公演終了
満足度★★★★
演目(岸田國士「恋愛恐怖症」)と出演者(森山未來/黒木華/北尾亘)を見て予約。演出(杉原邦生)は後で知った。映像配信でも期間中なら複数視聴可というもの。うっかり見逃す所だった。
映像としてよく出来ている。ざらつきのあるフィルム映画風の画面では画面の暗部が「映らない部分」と溶け合い、映り込む対象は細工無しのシアターコクーン内部。眠ったそれらが徐々に動き始め、音楽(音響)が重なり、役者の背中が現れ台詞の断片が語られ出す。演奏はオケピの生演奏、役者はやがてステージに現れ、台詞を合わせるが、その後黒木が着飾った衣裳で登場し直し、二人の若い男女の「結婚」にも言及しながらの駆け引き台詞が切なく展開する。
最初台詞と映像をコラージュしたものかと思わせつつ、しっかり芝居を見せる場面はあり、客席にも密を避けて後方に座った観客=エキストラも置かれる(従って恐らく一発本番で役者の噛みも若干あり)が、静かに風景を眺める映像トーンは最後まで変わらす。
劇場に息が吹き込まれる瞬間を映しとった味わい深い映像作品。
「野鴨」公演ワークインプログレス
社会福祉法人トット基金日本ろう者劇団
シアターX(東京都)
2020/07/19 (日) ~ 2020/07/19 (日)公演終了
満足度★★★★
ろう者劇団、デフパペットひとみ、カンパニーデラシネラ(小野寺修二)と来て、観ない選択肢は無いてなものだが、予想通り無言のマイム作品でも質の高い出し物であった。もっとも昨年のハツビロコウによる原作の胸を掴む舞台を観ていなければ、場面を理解する事はなかったと思う。断片から記憶の中のドラマが甦り、野鴨を味わったという個人的体験になったが、小野寺氏らしい秀逸なムーヴの構成はやはり快感。人間の右往左往を他所目に暢気に歩く鴨の造形が優れものであったが、デラシネラメンバー崎山氏と後で知り、さもありなむである。
出演9名の内ろう者の割合が少なくとも半数以上で、音楽に合わせての複雑なムーヴのアンサンブルが中々の完成度で披露されていた。
天神さまのほそみち
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2020/07/03 (金) ~ 2020/07/19 (日)公演終了
満足度★★★★
別役芝居に開眼(2014-15年)してより、別役グルメを様々堪能したが、今回(別役作品に関しては期待低めだった)燐光群の公演は予想を裏切って見応え十分であった。トークゲストの一人名取氏は(残念ながらトークは拝見できず)以前ある座談会で別役戯曲の舞台化の難しさを語っていたが、今回のをどう評しただろうか。よく上演され、私も過去4本程観ていた別役の最初期作品(燐光群の「象」もその一つ)が「メッセージ性」に着地させ得る(と同時に時代的制約も帯びる)のに対し、その余地がない中期以降の作品は役者、演出に自由を保証するが「面白い」舞台にするのは難しい。坂手氏が戯曲を我流解釈に組伏すのでなくそのまま料理し、成立させるとは失礼ながら予想しなかった。
「あなたの家の前をトラが通りましたか?」と謎の問いを問う背広男を演じたさとうこうじは、20年前の黒テント『メザスヒカリノ・・(略)』で「この人にしかできない」ふーちゃん役を演じた姿を彷彿させた。全く違うキャラだし作品だが、どちらも「異界に通じる超越性」が終盤に向かって際立つ。神憑り的存在を信じさせる俳優さとう氏の独特さが古い記憶を呼び起こした模様。
別役実は氏のトレードマークである舞台上の電柱を、水平思考に慣れた日本人観客に垂直思考を想像させるため、と説明したが、背広男はカオスである世界の創造主の使者又は預言者と見えなくもない。「不条理の真実」は絶対神の想定=人間の理解を超えて全てを支配する存在を予感させる。人間はそこに無秩序ならぬ秩序を直観し、不安や恐怖を覚えるが、己の中の何かが投影されたもののように感じ、因果関係を見出だす。(己を映す予感が恐怖を催すのか、恐怖から投影=因果を考えるのか・・私は前者と思うが如何。)不条理は超常現象とは違って道理を求める心が裏切られる実態だとすれば、一見バラバラな事象が不条理を証明するかのように構成される事によって人は不条理に遭遇したと確信する。(つづく)
パンデミック・パニック
Nakatsuru Boulevard Tokyo
APOCシアター(東京都)
2020/07/04 (土) ~ 2020/07/12 (日)公演終了
満足度★★★★
ライブ配信だが久々にガッツリ2時間の濃い芝居を観た。
中津留氏らしい本と演技(役者への演出)。本は新型コロナを題材に、小さな商社とそこで働く人々が登場する話であったが、重要な問題を掴まえドラマ化する筆力にやはり感心。ただ、幾つかある笑わせどころで、さすがに観客不在はきついが、それでも書いてしまうのは作者の願望なのに違いない。(画面のこちらで視聴者は反応した事だろうが、通常なら必ず起こっただろう「ざわ」という笑いが欠けている・・私はスタッフが笑っても良いと思う・・しかし作者はそういう場面を書かずにおれないのだろう。)
上演は劇場を使い、配信はリアルタイム、従って役者全員が全ステージ通常公演のように出演する。映像は複数のカメラで場面の風景・役者を追う。その分、正面から見てわかる立ち位置などは判りにくくなるが、カメラの寄り方やスイッチのタイミング等は日によって異なるとか(今回はカメラというスタッフワークが加わった訳だ)。
12日夜の千秋楽を観たが、翌日から一週間アーカイブ配信(上演順に各ステージを1日ずつ)を行うとの事。
第14回 シアターΧ 国際舞台芸術祭2020
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2020/06/13 (土) ~ 2020/07/12 (日)公演終了
満足度★★★★
X主催「国際芸術祭」鑑賞2回目。3演目の内訳はダンス・ダンス・演劇。
先陣は女性2人組、天然素材感ある薄褐色のドレスで舞う。チベットのティンシャ他の鈴を使い、水音や優しげな音楽が流れる中、自然讃美の特命で地上に遣わされた者の如く。一人は力量十分で曲線を描き、一人は音や補助的に立ち回る役割分担であったが、「二者の差をもっと明瞭に出してよかったのでは・・」との客席からの意見に首肯した。やや予定調和な作り。
二つめの踊りは女性ソロ。勅使川原氏を思わせる素早く鋭い動きと、生じた波動が部位を伝って連続し展開する視覚的快さがあり、想定される何らかの「身体言語」が、何を語ろうとするのか?という関心へ引き込まれる。舞踊は抽象次元の遊びだが、何らかの一貫性を保ちつつドラマ性を演出するという意味では演劇に似ている。今回のは前半保たれていた強く太い幹が、後半やや細まり、勿体なく感じた。前半で自分の中に膨らんだ「当て」が外れただけに過ぎないのだが。
演劇は企画のテーマである「蟲愛づる姫」を主人公とし、彼女の前に生物進化の各段階をユーモラスに擬人化して登場させ、生物多様性を教える教材のような出し物。バクテリア、ミドリムシ、ボルボックス、海綿、クラゲ・・等々。明治座シニアクラス出身者で作ったグループで、高齢者劇団の趣きだが、キャラの立つ役者揃い。憾みは(恐らく)稽古量の少なさ、内容も相まって余興を見るノリで見てしまった。本来なら相当の時間をかけて作られる演劇という芸術が、今置かれている状況を思う所であった。
『未練の幽霊と怪物』の上演の幽霊
KAAT神奈川芸術劇場
KAATyoutubeチャンネル(神奈川県)
2020/06/27 (土) ~ 2020/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
生エンゲキではないが、意外に味わいある「作品」に遭遇できた。
今夏の目玉の一つになるはずであった公演だが、作演出・岡田氏からの申し出で実現した"何らかのクリエイト"。夏に未練を残して現れたこの「上演の幽霊」という作品は風変わりで、不思議にある完成形を成していた。
感触はラジオドラマに近い。映像は、画面の端に暮れなずむ街路がガラス越しに見える小さなカフェ風の空間で、真ん中のテーブルの上にスマホが置かれている。時おり通行人の影が通過するので「ライブ」が目指されていると分かる。
カメラは固定。場面の変り目(人物の登退場)には沈黙が訪れ、人影が現れてスマホが出はけされる。そこでよく見ると、画面には人物が映っており、演者がスマホ画面の中に「存在」しているのだと気付いた。もちろん表情は見えず、殆ど独白(手記の朗読風)であるので動きもあまり無い。したがって視覚情報から「物語」の手掛かりをもらう努力は不要と知れ、耳での鑑賞を意識した演出だろう、ゆったりした台詞の間合い、声のトーンで、深夜ラジオの声に身を委ねるあの感覚に誘われる。最近コロナの巣籠り効果でラジオ聴取率は上がり、ラジオ番組動画がyoutubeにも上がるようになって、好きな番組も出来た。映像メディアが「目」をくらます術を使うのと違い、聴覚メディアは「耳」をくすぐる。耳が聞き分けるのは「そこの本当があるか」であり、「実は・・」と内緒話を始める媒体としてラジオは(不特定多数を対象にしながら)最適なメディアであるのも、「聴覚だけ」が関係してそうだ。そんな事を感じていた頃合、その特性をとらえた「作品」にラジオ的に没入した。
独白が続き、「能だ」と思う。宣伝に「能」と謳っていたっけ? 『挫波』・・建設中の新国立競技場に、一度はそのデザインが採用になった今は故人であるザハの影がしばしば過る。霊の予感。と、彼の前に不審な人物(競技場の生霊?)が現われ、ザハの霊が憑依した体験でもあるかのようにその物語を語る。能のワキに当たる主人公の目も、いつしか問題の人物を見、彼を置き去りにして五輪の喧噪に沸く社会を、見る。
長い独白自体、岡田氏らしいテキストでもある。二話目の「敦賀」は廃炉が決まった高速増殖炉もんじゅが擬人化されていた。
上演後のリモートトークに拠れば、稽古もリモートで行い、独白シーンが多いテキストでも個別稽古でなく役者は揃ってやり取りをした。上演は録画された映像を使って行う。スマホに映ったように見えた映像はスマホ型の板面にプロジェクターで映したものだという。ただし録画+録音はやはり上演の時間通り、演者たちは相手役が喋っている間も自分の姿を存在させ続ける、という「上演」と同じ条件で為されたものだという。リモートのタイムラグが障害になるような丁々発止の台詞交換は無いのでテンポ感の問題は生じない、にしても、画面上フィギュア人形がテーブル上に踊る程度のサイズであれ、同時に登場している者同士のやり取りは、為されている。その意味でこれは「演劇」と呼べそうだ(同時進行で相手に即応して存在しあう関係がそこにあるので)。ただその苦労話として、モニターとしてのスマホの画面は小さいため相手の姿は殆ど見えず、聞こえる台詞をリアクションの手掛かりにするしかなかった、というようなこと。
聴覚をくすぐられたもの・・言葉と言葉の間の十分な間に聞こえて来る波の音、ギターをメインの風景描写的な音(楽)、そしてエネルギー量的には圧倒的だった七尾旅人の歌も、「作品」と調和していた。
五輪開催を前提に企画されていた作品だが、五輪中止の状況では「五輪」鎮魂歌とも解せる。場違い感は全くなかった。
2021年の東京五輪中止を「考えられない」多くの都民により小池都知事続投が決められたが、もし舞台の上演が来年実現したとして、さて五輪の方は果たして・・。