草の家
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2021/02/05 (金) ~ 2021/02/18 (木)公演終了
満足度★★★★
昨年の別役実戯曲の上演、そして2018年TOON戯曲賞を受賞した今作と、非坂手戯曲かつ社会派プロテスト演劇的要素のほぼ無い、(それでも十分見せる)燐光群の舞台が観れた。
岡山県の作者の実家がモデルだという本作は、昭和中期から現代が生存時期になる四兄弟の家族の物語で、今は高齢の母一人が住む実家(開店休業となって久しい計量器販売店)が舞台。舞台奥に並んだ計器類は岡山のその実家から借り受けたものだという。魅力的な作品であったが、こういう作品の魅力は言葉にしづらい。
母と同居していた長男夫婦の夫は鬼籍に入り、妻が重病で入院した今、(母を一人に置けないという理由で?)東京から来た次男夫婦がしばしの逗留をしている様子で、そこに地元で暮らす四男、大阪で暮らす三男、最後には長男の息子とその嫁、孫が訪れる。血族が織りなす歴史が垣間見え、来し方から今に至る必然=リアルが細密画のようである。こういう作品が魅力を放つのはまず都会から見た地方の風土への憧憬があるだろう。そして家族問題の普遍性、絶妙な距離感でのコミュニケーションのあるある感(多兄弟が集う雰囲気を私は親の世代に見ているが今の若者はその体験を持たないかも...)。
この作品に流れているのは「変わり行くもの」への思いだ。変わらないものの方が多いと思わせる「地方」の佇まいが、変化に気付かせ、無常感を催させる。
「地方」というのは象徴的な意味も含む。冒頭、富山の薬売りが登場して面白気なやり取りをして去って行く。「無くなった薬だけを補充しに来る」という、今流行りの「最適化」とは対極のあり方もそうだが、薬とは別に1本3千円のリンゴ酢を3本、「お母さまがお好きとの事で、お嫁さんが買って下さっていた」と売りつけようとする営業の男を最初はいかがわしく見ていた次男が、最後は「よっしゃ」と買う事を決める瞬間、都会暮らしの警戒モードから地方モードへ次男がシフトするのが判る。「一回3本」とは営業の男が盛った話で、実は「たまに一本だけ買う」が真相と後で判るが、男らは騙された気がしていない。
金銭換算で値打ちを測る思考に絡めとられない言動の方を、戯曲はさり気なく登場人物に取らせていて、それが昔風な構え方として目には映る。
不在の二人(長男夫婦)は後半に入って存在感を示す。母と長男(の亡霊)との会話(あるいは生前の会話か?・・時期は不明)によって、最後まで登場しない入院中の妻と彼の夫婦時代を語る(場面は病気の進んだ長男の死去間際での母との会話に見えなくもない)。頭脳明晰で仕事もできる身でありながら田舎に暮らす自分に嫁ぎ、苦労をさせただろう事、しかし自分はなぜか彼女には優しく出来なかった事、それでも彼女はその後半生の唯一の趣味となる短歌と出会い、せめて彼女のために歌集を自費出版した事が置き土産となれば良いと思っている事。。
老母を演じているのが鴨下てんし(男優)だがこの時点で違和感はとうに消え失せている。
夜が明けた朝、白い陽の光が注ぐ中、最後の場面では長男の息子夫婦と、その息子(子役に子供が登場!)が現れるのが鮮烈で、この孫によって(彼にとっての)祖母が詠んだ歌が紹介される。
次世代へとバトンを繋ぐ・・そのために自分らも存在する・・。ありきたりなメッセージさえ新鮮に感じさせるのはこの戯曲世界の「本当」の力であるのに違いない。今という時代を思う。
風吹く街の短篇集 第四章
グッドディスタンス
OFF OFFシアター(東京都)
2021/02/03 (水) ~ 2021/02/07 (日)公演終了
満足度★★★★
二作品を鑑賞(「人という、間」「自画像」)。残り一作は配信期間21日までに観るか否か迷い中。
先に観た「自画像」は、女優松岡洋子の個人史を辿る一人芝居であるが、実は多くを期待せず観たせいか期待以上の出来、というか説得力であった。特別に波乱万丈という訳ではない(女優人生という部分では多少特殊な要素はあるが)一人の現代人の人生が、文体・語りの妙で「本人との適度な距離感」で立ち上がり、愛おしく感じられて来る。生い立ち部分で紹介される時代の風俗に思わずにんまり、同世代ゆえの親近感もあったが、松岡女史が今のタイミングで自分史をこういう場で舞台化するという「生」へのある種の姿勢(達観? 勇気?..何だろう)が相俟って、ユニークな舞台になっていた。(語られた具体名のある演劇ユニットや演劇人の名は、ネットにも出て来ない貴重な証言・・Corichが大小あらゆる公演を網羅しているのはデータ的にも得難いがサービス開始は2000年代半ば(確か)、演劇博物館にも残らない演劇公演・作品は正に「時間の芸術」として人の記憶にのみ残り記録からは消えて行くものである事を思う。)
「人という、間」・・風の短編集第二章で上演の「隣のおっちゃん。と、」と同じ男女二人芝居。女の薩川(張ち切れパンダ)が今回も出演し、男は前回が有薗氏、今回は和田氏。戯曲のテイストが同じなので見ると同じ作演出者であった。
前作と今作いずれも、本来対話する必然性のない男女(知らない間柄ではないが)が「やむなく」向き合わされるシチュエーションで、言葉を交わす内に心の交わりが生まれ、何かを共有するが、結局はそれぞれ別の人生へと戻って行くという展開。前回は隣同士、今回は亡くなった女性の妹と、元夫。さらなる共通点は男の方が強引にわがままに話を進め、薩川演じる(多分実年齢の)女性は距離をとり、何なら反発さえ覚えるが、男のふとした言葉の中にある真情を感じ取り、少しだけ自分を開く。女の言う事を男は大概理解せず、男の事情も女にはよく判らず、結局「理解し合う関係」には到達しないが、それでも男女の交わり(必ずしも性行為を意味しない)がこの世界には生起しているノダ、というメッセージは受け取れる。
このお話は妻の死以来「勃たなくなった」事に悩む男が、デリヘル嬢をやってる元義理の妹に女子高の制服を着て来させる所から始まるが、男は恐らく、新たな人生を始めるため、妻以外の女性へ向かおうとする発想を変え、元義妹と対面する(妻の側に近づく)ことで「男」としての再生を目論んだ、が、暗転後「うまく行かなかった」事が判る。妹はそんな男に心を許して自分の話をするが、男はそこで本当の悩みが「勃たないこと」だと薩川に語る。自分は悲劇の主人公であり憐れみを受ける権利があると義妹に迫るクソな側面を見せて薩川に去られるが、彼が勃たない事実の中に、今も妻の事を引きずっている含意があって救いとなっている。
上記2作を並べて比べるも何だが、味気ない現実に小さなファンタジーを見せる(演劇の王道とも云へる)「人という、間」より、自身を語った「自画像」が充実した内容に思えたのは何故だろうと考える。真実味というものがそれほど枯渇した社会に生きている、その感覚ゆえだろうか。
本当の自分、を自ら定めるのは難しい。私など一生かかってもその境地には辿り着けそうにない。自ら選択し、決定し、行動した者が、自らの軌跡を(自分でない者を見るように)描写できるのだろう。ただし、恥部を持たずに送れた(それを描写せずに済む)人生とは、「自画像」のそれは異なり、ある意味で赤裸々な人生の開陳がある。
終着点の知れない人生の現地点で紡がれる言葉は、(少々大袈裟に言えば)存在を賭してこの世に真実味を投じ入れたに等しく、その分だけ世の空気は清涼になったに違いないのであり、濁った空気がこの社会の上層に垂れこめている事との対照など、語るも愚であるが一応言葉にしておく。
グスコーブドリの伝記
しんゆりシアター
川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)
2021/02/06 (土) ~ 2021/02/07 (日)公演終了
満足度★★★★
川崎北部を拠点に活動する劇団わが町はふじたあさや氏の主導で年一回公演を行なう。公の事業としては(雇用関係はないが)一応劇団員(市民)を持つ珍しい形態で息長くやっている劇団だ。
観るのは今回3度目位か。元々少ないステージ数を減らし、諦めていたが配信があったお陰で観る事ができた。
市民参加という要素は出演者の力量問題が生じるが、演者のエネルギーを舞台上に昇華できる舞台と、役者としての力量が要求される舞台とがあるとすれば、今回は後者であった感。が、宮沢賢治の紹介に当たるリーディングと演目の芝居をうまく織り込んで、グスコーの物語が味わえる舞台になっていた(脇役に2名客演を入れて「補強」はしていたが)。
演目はふじたあさや氏がかつて作った音楽劇の原曲を用い、新たな歌を入れて舞台化したもののようだ。こんにゃく座のような台詞に沿った旋律の響きで、古い方の作曲者・岡田和夫は中々著名な方のよう。
堕ち潮
TRASHMASTERS
座・高円寺1(東京都)
2021/02/04 (木) ~ 2021/02/14 (日)公演終了
満足度★★★★★
二部構成3時間超えの長尺TRASHを久々に堪能。作者の地元・大分の「保守」一家のバブル期、その約二十年後を描く。尻がムズ痒くなる中津留節(日常会話が単一テーマ一色に染まり感情全開)も相変わらずだが、強靭なドラマ構築はそれらを凌駕した。
全編を通した大分方言の土着感が、以前見た初期作品「奇行遊戯」(の前半)もそうであったが舞台のリアリティを底支えしている(方言を操る役者が「嘘のなさ」を担保している)。役者の生硬な演技態にも関わらず「あるある感」があってついほくそ笑むのは、「見てきた者」しか描けないディテイルにリアリティが流れているから。
地方の有力者(と言えるだろう)の家屋が座高円寺1のステージ一杯に設えられ、そこに集う親類縁者一同が織りなす風景が、その関係(家系図)を正確に掴めずとも「ニッポンの家族」の図としてリアルに浮かび上がって来る案配な訳である。
韓国現代戯曲ドラマリーディングX
日韓演劇交流センター
座・高円寺1(東京都)
2021/01/27 (水) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
「椅子は悪くない」(2002年/ソン・ウッキョン作/上野紀子訳/鄭義信演出)、「加害者研究 -付録:謝罪文作成ガイド」(2017年/ク・ジャヘ作/洪明花訳/西尾香織演出)の2演目を鑑賞。
「椅子」は早々と売切れだったが鄭演出だからだろうか。雑貨屋に置かれた木製の椅子を一目見て釘づけになった男の話で、売り物ではなかったこの椅子を手に入れようとする男と、雑貨屋の店主、売りたがらない店主の息子(椅子を作った)、男の財布を握る妻が登場人物。実は舞台は稽古場でこの芝居のオチを探してスクラップ&ビルトを繰り返すというのが劇の概要で、最後に相応しいラストを見出す。物の価値とは何か、についての考察が意外に深い。演出、役者もこなれてうまくまとまっていた。
「加害者・・」は戯曲を見ても中々に難解で(ヴィトゲンシュタインの哲学書のような?)、演出を西尾女史に依頼したのが分かる。加害性についての考察ながら過激な内容を含み現代的。だが、時系列で書かれない散文なテキストの「割り振り」に苦慮した模様。
その後アフタートーク、シンポジウムと進み、シンポジウムは日韓演劇交流を俯瞰しつつ両国の現状報告が興味深かった。
最も見たかった「激情万里」(1991年/キム・ミョンゴン作/石川樹里訳/南慎介演出)を逃したのは残念。1990年前後の韓国映画は金明坤と安聖基(アンソンギ)が両頭という感じで、「西便制」等忘れようもないが(氏が脚本も担当していた)、この頃から既に舞台の戯曲を幾つも書いて上演していた等全く知らなかった。
この事業は当初の約束通り日韓交互開催(日本作品→韓国/韓国作品→日本)10回で20年、来年の韓国開催で1クールを終えるとの事だが、今後も何らかの形で継続される事を願う。シンポジウムが興味深かったのでまた後日報告したい。
墓場なき死者
オフィスコットーネ
駅前劇場(東京都)
2021/01/31 (日) ~ 2021/02/11 (木)公演終了
満足度★★★★★
珍しいサルトルのしかもあまり知られていない(自分も不知であった)戯曲と、俳優陣につられて観劇。今の日本のある種の暗闇に光を注ぐ作品をよく見つけた。ピッタリだ、と思った。
物理的な困難にとどまらず不穏な音を響かせてるコロナの浸食と政府の愚策・無策は、社会と人とを無音で傷つけてくる。為政者自身が傷を負う事から逃れ、民同士を傷つけ合わせている。
暗鬱な状況を明るいフィクションで慰撫する事も演劇には出来るだろう。が、人間の精神が蝕まれていくこの言いようのない暗鬱には、闇をさらに深掘りする事でしか慰されない部分があるとも感じる。
もっとも、読み取りに不備があった。フランス人同士の攻防とは気づかず、僻地で忠誠心の薄れた敗北目前のドイツ兵と見ていた(無言の見張り兵がレジスタンスの「説得の時間」部屋に残ったのも、仏語が解らないからかと..)。後に合点の行った箇所が多々あるが、仏人民兵とレジスタンスつまり同国人の闘争だと早く察知していたら、芝居の緊迫感は別物に感じたかも・・(哲学的問いの試験場として観た可能性も)とも想像する。
だがどちらにせよ人間が一秒一秒と刻む時間に随伴して離れることのない行動とその根拠を与えるための思考が、本質的には血を流す闘いそのものに等しいことをこの戯曲の台詞は思わせる。自己省察と自他の心理への鋭利な斬り込みが、人間の思想と行動ひいては存在の空疎さに肉薄して痛ましいが、何故かそこに自分は救いを見る。全てを失ったと気付いた瞬間にしか訪れない、ある何か(希望?)が、人間に残された真の救い・・といったような。。
ザ・空気 ver. 3
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/01/08 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★★
「ザ・空気」第一弾の風景が戻った。放送局内のある会議室、ロビー等に使い回される空間はアルミと白いボードの清潔感ある建築部材で簡素に設えられ、絵のキャンバスのように舞台上の芝居をクリアに縁どって見せる。その中で実力ある役者がドラマ世界を立ち上げる。
喜劇の語りで進む芝居。報道現場の通念を一応尊重しつつ軽くいなしつつの日常を象っていくタッチが喜劇調なだけに飲み込みやすく、言うまでもない永井氏の喜劇の作劇の巧さで事態の推移がはっきり見える。そして事態は討論番組出演者の発熱によるコロナ疑惑をもとに「降板かリモート参加か」の条件争い、そこからさらに進んで放送コードへの接近と目が離せない。面白いことこの上ないが、それ以上に「よう言うてくれたわい」と心で手を合わせる台詞。
思えば彼らは皆自分を代弁する者。英雄気取りをしたがり、保身に走りたがり、能天気にふるまって失敗し後始末も愚か、無能の自分に嫌気がさし、出世のチャンスには心踊るが心暗くもなり、魂を売った記憶は埋もれて「蓋をする」技だけは上達するが「本当」らしく生きてるつもりの日常は根から蝕まれている・・。
だが人は敗北するが終わりではないと、第一作でも(別の言葉で)語られたメッセージが残った。人間的に考え抜かなければ書けない戯曲である。
眠れない夜なんてない
青年団
吉祥寺シアター(東京都)
2021/01/15 (金) ~ 2021/02/01 (月)公演終了
満足度★★★★
たまたま時を昭和天皇崩御後に設定し直して改稿中、コロナとなり「自粛」というキーワードが重なったとの事。だが当初の設定のまま「これはあの頃書かれた戯曲」として上演するのも有りだった気がする。時代設定変更が徹底できてないのか、どことは指定できないがどこか部分的にそぐわなさがあった。(そのため時代設定そのものの意味があまり感じられない。)
1989年が日本での(まあ海外でもだが)エポックメイキングな年だったとしても、風景がピタッと来ないのは作家の「この時代を描きたい」という欲求・執念が足らないのでは、と思ったり。
本国を離れたマレーシアの日本人向け別荘では、天皇云々の話題がどの程度「身につまされる」ものだろうか。「本土事情などどこ吹く風」が標準である方が、戦後日本人的であるし、「どこ吹く風」であるならもっとそちらに振り切って帰属国への無責任ぶりを暴走させた方が日本人(論)的ではなかろうか・・と思う所も。。
先進国と発展途上国という当時の国同士の関係が「ソウル市民」に重なるようにも思うが、平田氏がありきたりを嫌うのか、成金根性を具現したような人物はいなかった。
だが代わりにナイーブでむしろ今の日本人の(慎ましさというより卑下した)物腰に傾いている感があったのは「今の日本人」が演じているからか、それとも私が今の気分を投影したものか。
そんな具合で、平田氏の宣言通り「伝えたいもの」は何も感じなかったが、「表現したいもの」は理解でき(人物の人物らしさ、滑稽さ、引いては人間の滑稽さ)、楽しめた。
アフタートークでは平田氏が質問に答えて「歌を入れるのは(それが無いと)終われないから」「そろそろかな、という感じで入れる」という身もふたもない回答。
へえ・・・「終われない」と感じる感覚はあるんだ、と言質を取った気分。
「劇的」なんぞ要らぬとうそぶく平田氏もまんざら冷酷な心の持ち主でもなく、実は最後くらいは幾許かでも「劇的」にしたいと願う好々爺であったのだなあ(はっきり皮肉を言ってるがまあご愛敬)。
いや、「歌で劇的を演出したい訳ではなく、台詞を止める機能を活用しているだけ」と天界にあると言う演劇法廷できっと平田氏は弁解してみせるだろうがもう逃さんぞ(まあご愛敬)。
少女都市からの呼び声
劇団唐組
駅前劇場(東京都)
2021/01/20 (水) ~ 2021/01/24 (日)公演終了
満足度★★★★
公演を知ったのは公演中日の事であったが、唐組初?の劇場公演(駅前)にして僅か5日間という「らしくない」公演はやはり見ておきたく、千秋楽当日キャンセル待ちで滑り込んだ。
「少女都市」は20年以上前の新宿梁山泊公演と、数年前唐ゼミ又は梁山泊で観ていたが、今回はコロナ対応で圧縮したのか「あれ?こんな短かったっけ?」休憩無し1時間半弱で終わった。
「普通に見れた」芝居であったが、恐らく多くの観客の期待する解放感(屋台崩しがその頂点)「町に接している」緊張感が無い中での上演という「チャレンジ」は、コロナ禍下のイレギュラーなのか今後への一歩なのか・・(当然私は前者であって欲しいが)。
評としては、劇場向け芝居の「細やかさ」が、野外の醍醐味(雑駁さ)を埋め合わせたかは微妙である(観劇料をやや安に設定した所に劇団の自意識がしのばれる)。が、劇団の健在を確認できたのは嬉しい。
他には、出演数も少なめ。コロス的俳優4,5名は見たところ新顔であった。
今回は特徴ある風貌の大鶴美仁音が主役を務めた。天然ぽさが武器だが細やかな陰影を持つ表現者への脱皮のこれが一歩となるだろうか。
風の祝祭
アートグループ青涯
アートスペース溝の口(神奈川県)
2020/12/12 (土) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
満足度★★★★
(書き直した)
前回の青涯旗揚げ公演に書いた投稿をみると、探り探り予断を交えて文字数が膨らんでるが舞台の方は至ってシンプル、むしろ淡泊。今回についても同じ印象の範疇で、以下は「青涯」評改訂という趣。
能の動き、面の装着、独白・・前回と同じ美術・脇谷紘氏の世界観。劇はこの美術の世界観を軸に据え、どう肉付けし、構築するかであるな、と、自分の目は見ようとしている。
前回の評では「演劇=言葉」の領域に踏み込もうというベクトルが見えた、と書いたが、発声(とくに一方の出演者の声が終始そうなのだが)への印象だったらしい。
能の世界観への憧憬のようなものが自分にはあり、そこからはみ出すものを「挑戦」と理解したが、そのはみ出すもの=違和感の主は、やはり発声にあるように今回も感じた訳である。
ただし発する言葉は創作されたものであり、能のドラマ性とは質感も違う訳なのだけれど、あるいはそのテキストに対しても、その「声」はちょっと選択ミスではないかと感じたかも知れない。
能も面をつけて台詞を言うが、能の台詞の声は「歌」に等しく、ストレートプレイや詩劇の発語にあるリアルな感情表現はその声にはない。「演劇=言葉」に寄っている、という印象は、「面を付けているにも関わらず」の印象なのだが、もっと言うとリアルな俳優の身体を「演じられる者(役)」のために供する通常の演劇と、面を付ける、あるいは人形を使う劇との違いは、(そのものではないという意味で)フィクションを形作る演劇においては、後者がより「偽物」を表明している事で、逆説的に、観る者の油断を縫うようにして「役」の心という劇薬を観客に飲ませ得る形式となる、という点にあるように思う。つまり面を付けるという通過儀礼によって、そこには世界の見た目ではない本質を暴露する資格を得た者として立ち上がる。その者の発する「声」はリアルな人間の声ではなく異形(奇妙、不思議とでも)の声でなくてはならないのではないか、と考える。
(人形劇で言えば、手操りのひとみ座はアニメ声が活用され、アニメ的世界=フィクション=現実ではあり得ない世界が立ち上がる。そこで「人間のドラマ」が展開する。)
SPAC(元クナウカ)の演者・話者分離の手法は、表現の原点、本質と思える所があり、伝統回帰というより、伝統芸能の中にたまたまそれがあった。「憑依」の表現形態は、話者が演者を操るという関係性において雄弁さを持つ。
能書きが長くなったが、いずれにしても阿彌の上演をちゃんと見ていない自分には、青涯の二人が阿彌を「継承」しようというのか、「新たな展開」を試みようとするものか、判別できないのはもどかしい。
能は死者を弔う劇なので「現在」という時間はほぼ止まっている。その時間が「現在」において進み始めることなく時間的「静」の世界を維持する。だがある種の「声」はそこから時間が動き出そうとする気配を作る。いわば肉感的になってしまう。
要は語られるテキストが、強い発声を演者に要求し、劇的時間を舞台上に作ろうとさせるのだろう。テキストの全てを覚えていないが、時間経過とともに物語が進む要素と、世界を俯瞰して描写する要素とが混在したもののようであった。
空間的「静」の観点では、「声を張って聴かせる」瞬間は全パフォーマンス中の数パーセントで良いと個人的には思う。
先を聞きたいと思わせるテキストを如何に書くか、という単純にそういう問題なのかも知れない。言葉そのものに語らせる質のパフォーマンスを目指すのが、このユニットの方向性であるとすれば、もしそうなのだとすれば、様々なテキストを渉猟し、言葉の紡ぎ手たちの胸を借りて舞台世界を主体的に構築するという事もあって良いのではないか。
(二人が目指そうとするものと全く真逆で興醒めを催させるかも知れぬが、素朴な感想だ。)
いずれにしても様々な試みを期待したい。・・という事でこたびの2×2公演を体験しての感想を少し。
小さなスペース故、感染症対策として考えられた2名という観客数であるのか、どうかは判らない。「観る」という行為に伴う覚悟が求められる、というのはある。たとえば感染防止を考慮しても椅子3脚は置いても文句は言われないのではないかと思う。そうした場合3対2で上演側が一人でも少なければ(普通そうであるように)観客優位である。だがスタッフもおらず二人だけのパフォーマンスを二人で観ると、これは何が出るか判らないお化け屋敷に入ると同じで客側が弱い。客一人だけの回では又どぎまぎ感ひとしおだろう。
そして照明は演者が持つライトのみ、これが消えると暗い。そして演者との距離、衣擦れの音も聞こえ、暗転中の移動、準備の音なども全て含めて、刺激的な時間であったことは確かであり、2名以下の人間のために演じられる1時間弱のパフォーマンスは厳粛に進められる。このあり方に、何等かの思想が込められているのかは判らないが、過去味わった狭小空間での演劇の中でも、演者と観客が殆ど交錯気味に接近しているものはなく、奇妙な感触だが初めて故にうまく捉えられない。
演劇を観る行為そのものの中に、今蔓延する「非接触」を是とする(接触を悪とする)空気に背反する要素がある。それが濃いものと薄いもの、あるいは「空気への恭順さ」をアピールする場所に迷いこんで息苦しさの方を味わう事も少なくないが、多くの演劇に関わる人たちがその演劇人本来の「目指し方」を貫く姿には、暑いまなざしを向けたくなる。青涯にも敬意を表する。
正義の人びと
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2021/01/22 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
カミュ作の知らなかった戯曲を味わう。帝政ロシア時代の革命主義者らの話だが、ある独特さを感じた。戯曲は成立していたが、自然行き着くと思っていた方へは流れない。そう感じた自分はどういう「現代」に生きているのか、を思わず考えた。
舞台としては俳優座の「新劇」演技を目の当たりにする(多々引っ掛かりがある)。土岐研一のダイナミックな装置が劇的感興を高めるも、まだ俳優はそこに生き切れてない感じ。戯曲紹介としては十分であるし勘所は押さえていたと言えるのだろうと思う。
戯曲についてはもう少し温めて後日。
東京原子核クラブ
アイオーン / ぴあ / オフィス・マキノ
本多劇場(東京都)
2021/01/10 (日) ~ 2021/01/17 (日)公演終了
満足度★★★★
配信で視聴。以前マキノノゾミ作品を知りたく古書店にあった戯曲(ハヤカワ演劇文庫)から想像した舞台風景とは随分違った。喜劇調(俳優の力量が左右する)で成立する作品との印象をもった。プロデュース公演だが座組は良く、既知だった平体まひろが奮闘、この役どころのピュアさがドラマを締めていた。(後でみると著名俳優陣が結構出演。)
歴史人物を取り上げた劇の一つであるが、物理学とは閃きの学問であること(芸術に通じる)、それを手にするのはごく限られた人間であること、国策、殊に戦争と無縁でないこと、しかし科学の進歩は人間の営為であること・・庶民が住まう下宿の人間模様の中に「物理学」という題材を置いた構図が良い。大学野球に情熱を燃やす若者、体制にまつろわぬ演劇人、ピアノ弾き等々のエピソードが群像劇に仕立てており、その風景の中に忍び入る戦争の描写も過不足なくである。
ただ「科学」というテーマが、恐らく原爆を視界に入れた形で語られる劇としては、語り尽くせない感は残る。朝永振一郎(をモデルにした主人公)には原子核の世界が実世界で実証された原爆投下に「興奮を覚えた」との台詞を作者は(同僚にも)言わせている。だが、現実の悲劇とは裏腹な告白が、「科学の罪悪」を意識しつつ為されたとしても、バランスがとり切れない。重い告白になるべき所、これは役者にとっては難しかった。
ベクター
ハツビロコウ
シアター711(東京都)
2021/01/20 (水) ~ 2021/01/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ハツビロコウ、鐘下作品の回。戦時、囚人(戦犯被告)らが特赦と引き換えに詳細知らされず課されたレイテ島での任務とは・・。ステージ全面ビニールシートで数%熱度が減衰するも、ハツビロコウの舞台であった。未知な伝染病への恐怖、即ち人間の原初的な反射作用を見せつけられる。その意味でタイムリーな作品。恐怖は飼いならす必要がある。
「空 踵の下の」
KARAS
KARAS APPARATUS(東京都)
2021/01/14 (木) ~ 2021/01/17 (日)公演終了
満足度★★★★
日程が半減した影響だろうが、客席はほぼ埋まっていたのに驚いた。「緊急事態」がなんぼじゃと天邪鬼に出向いた自分はガランとしたアパラタス(会場)を確信していたのだった。
佐藤利穂子のソロであったが、照明を勅使川原氏がライブでオペしているように見える瞬間が何度かあり、update dance初日の「探り」の雰囲気を微かに感じた所である。で、原作の無いダンスの創作を二人が何をよすがに、あるいは起点に据えてスタートしたかは判らないし、ある種の時代の空気であったり、まあそのあたりだろうな、と推量しながら鑑賞したが、見えて来るのは佐藤利穂子の身体(舞踊機械としての)の機能・性能・癖、動きの法則性であったりする。身体言語の体系を見ようとする目になる。身体言語を使った表現する「対象」を見ようとはするが、結局は身体言語の文法を見つけようとしている自分がいる。あるいは「美」を見出そうとしていたかも知れぬ。だが見えてくるのは固有の身体のありよう、という事だったか。
カラスでは舞踊と、音楽(音)の両輪になる。装置はなく照明も複雑でないので最も雄弁に観客に手を伸ばしてくるのは身体(踊り)と音楽だ。今回冒頭と最後に味わいのあるピアノ曲を置き、その間に合唱曲がエンドレスに繰り返されるものだった。アフターの解説ではロシアの歌曲との事だが、グレゴリオのようにアカペラで聖歌の響きがある。これは昨年の『銀河鉄道の夜』(見そびれた舞台!)に用いられた曲であり、勅使川原氏はカンパネルラとジョバンニの「繋がり」の在り方をモチーフとしたかったと述べたが、音を気にする自分としては、同じ曲がループされるように巧く繋いだのは良いとして、これが一つの曲として聞かれる限界があり、今回はその時間を超えていた(私にとっては)。ループは地獄、又は狂気をイメージさせる。勅使川原氏がそれを狙った事は考えられず、だとすれば、そのように感覚する私のような客を想定しなかったというより佐藤女史の舞踊の着地を待ったという事なのだろう(タイミングでピアノ曲がフェードインし、合唱曲がフェードアウトする)。
私がループの狂気を感じ始めた後半は、私が踊り手の動きからストーリー性でなく広い意味でのリフレイン、停滞を感じたのかも知れない。このMで踊るのは中々大変ではないか。1時間弱、踊り続ける体力は想像外だが、瞬間瞬間0.1秒単位で推移する「現象」が持つエネルギーは、恐らく感じ取っている。これに言語を与える事に終演後の勅使川原氏のトークがなったかどうかは別として、今のこの状況(コロナそのものではなくコロナに不随するもの、と私は読み取った)に耐える日々の中で、光明を見出そうというエールは心にしみた。
『コントロールオフィサー』+『百メートル』二本立て公演
青年団
アトリエ春風舎(東京都)
2020/12/31 (木) ~ 2021/01/10 (日)公演終了
満足度★★★
これは平田オリザの戯曲・舞台である、と感じる所以は、青年団俳優の存在もそうだが、無音楽、説明台詞無し、間、などがある。決して「理に適った」間合いとも思わないのだが、平田戯曲の世界、文学で言う所の文体である。そう、要は説明台詞が回避されているので、短編ではどうしてもリアルを担保する「説明」は追っつかない。「コントロール・・」など突っ込みどころ満載である(突っ込ませるコントの要素も、あると言えばある)。新作「百メートル」ともに30分程度。
「コントロール・・」では、「こんな時期だし」「ああそうか」等とコロナを反映した台詞もあり、配役も半分入れ替わって10人から8人と幾分変化はあるが、見た印象は初演の時と殆ど変わらずである。
オリンピック選考を兼ねた水泳大会の直後にドーピング検査をやる。採尿のために水を飲みながら選手は横に並んで雑談するが、各選手の後ろには担当のスタッフが緑のジャケットに巨大な蝶ネクタイを締めて立ち(まるで漫才師)、「重要な任務」を担う厳粛さを演じている。「勝利」だけが全ての選手らが横に並ばされている状況、その他、諸々リアリティ的には奇妙であるが、コントロールオフィサーと称する緑のスタッフの無言の演技がそこはかとおかしい(時々「今笑ったでしょ」と突っ込まれ表情を固める島田桃依、注意事項を暗誦できず隣から手帳を借りる永井秀樹など)。
まあでも日常切り取り型でローペース、盛り上がり禁止、無音楽の30分では「演劇濃度」が薄いのは当然、も一つの演目「百メートル」に期待したが、脱力度は前に同じくであった。
前者のエッセンスは、中堅選手が気負わない若手に五輪出場権も恋人も持ち去られる「勝負の世界の無慈悲さ」、だとすれば、出場権のかかる陸上競技前の控室が舞台の後者は、「勝つために手段を択ばず」か。いずれもネガティブな切り取り方であり、スポーツが美化される五輪礼賛に水を差す演劇、ではある。
石橋けいのあたしに触らないで!
城山羊の会
小劇場B1(東京都)
2020/12/17 (木) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
年の瀬の予定から漏れ、配信で観た一つ(もう一つは印象「ケストナー」)。活動休止した城山羊の会が再開宣言せず<石橋けいの>などとあるので番外公演的なものかと思いきや、まるまる城山羊の世界であった。
配信は別撮り(無観客上演で撮影)との事で、生舞台とは別物になるかも、とは山内氏のコメント。元々映像の人というのも納得で、戯曲も映像要素があるのかもだが、明確に映像プランあっての撮影をやった模様で、とにかく世界に入りやすく見やすく痒い所に手が届く。エンドロールを見ると映像担当にムーチョ村松の名があった。
観たばかりの青年団公演で笑わせていた島田桃依が、オープニングどアップで語る。旦那が国家公務員の女性(石橋けい)と「お付き合いさせて頂いている」島田は、その後もしばしば語る。奇態なというか、身も蓋もない人間模様が、極点に達すると、正面を向いた島田の顔をカメラが捉え、語りで緩和する。が、破綻度=エロ度は増して行く。何気にやり過ごして来た「問題のタネ」をドラマは表面化しようとする。
映像版で照明を変えたのか、映像だからそう見えるのか、青く暗い明かりが妄想世界と現実との境界を溶かし、両者のブリッジが自然だ。(そう吐露する台詞もあるが)「現実味のない」コロナ以降の時間、それもセレブ層に元々棲息していた退廃が露出した「いい気味」な時間を味わった。
エーリヒ・ケストナー〜消された名前〜
劇団印象-indian elephant-
駅前劇場(東京都)
2020/12/09 (水) ~ 2020/12/13 (日)公演終了
満足度★★★★★
駅前劇場には行けず配信を鑑賞。芸術作品には作り手の力だけでない「降りて来るもの」(’芸術の神とでも)の力を得て生み出されたと思えるものがあるが、本作は戯曲+配役にそれを感じさせる秀作であった。
児童文学者エーリッヒ・ケストナーの人物像と、物語上の位置づけが良い。やがてナチスが台頭するドイツの闇の時代を彼らの目線を通して描写して行く。開幕を担うのがケストナーの寄宿舎時代の友人ハンス・オットー。同じカフェにいて彼をケストナーと勘違いしたジャーナリスト志望の女子中学生ロッテが彼に熱烈にアピールするシーンから物語は始まる。ハンスは自分が俳優である事を語り、従って私は君が思っている人ではない、と説明する(演劇への愛、俳優業への夢と情熱、俳優と物書きと俳優の違い、でも広く見れば同じ世界に住む人間である事、などのニュアンスが凝縮された簡潔なやり取り)。落胆したロッテにハンスは「君にケストナーを紹介する」、これからクラスメイト3人で同窓会をやるのだという。ここに映画志望だが普通の会社勤めのもう一人の友人が登場、あけすけな彼はケストナーに憧れてるらしいロッテの前であいつが如何に女にだらしない男かを話す。怒り心頭のロッテの前に、そのケストナーが登場。「今見た踊りが凄かった」と話す。新聞に劇評も書く彼の守備範囲での話だが、その話につられたあけすけな友人は(マンネリな日々に刺激を求めてる風)見に行って来る!と去り、やがて「俺は恋に落ちた」と言って戻って来るのだが、その踊り子というのが後の女流映画監督リーフェンシュタール(名画でありナチスドイツに協力した映画と評される「国民の祭典」の監督)で、クラスメイト二人に恋の俄か指南を受けて挑むも撃沈、彼女は「ケストナー」に会いに来たのだった。そして町でパンを売る俳優志望の少年の登場。以上で人物はほぼ出そろい、歳月を重ねてその変化が描かれて行く。(後一名はケストナーの「エミール」や「飛ぶ教室」に挿画を提供したユダヤ人画家。)
個々の人生の変節は省くが、私にとっての特筆は、最終場でのやり取りだ。ドイツの敗勢が決定的になった1945年5月、国家の庇護下で映画を撮っていた映画人らがベルリンから遠く離れたドイツ領オーストリアでのロケを認めさせ避難して来る。そのホテルに後を追ってリーフェンシュタールが駆けつけるのだが、彼女が登用し映画界入りをしたなんちゃって映画監督(あけすけ男)にも、同じく映画界入りしナチス党員にもなった元パン屋にも冷たく対応される。そこにケストナーが現われ、彼女は彼に助けを乞う。他の著名人や文化人芸術家が亡命する中、ケストナーはドイツに残る事を選んだ人としても知られる。だがその中で彼は(表向き、と言っておく)ナチスに協力もした。リーフェンシュタールはその事をもって相手も自分も同罪だと言う。これに対し、ケストナーは自分が如何に相手と違うか、それを説明しようと言葉を絞り出す瞬間が、この作品の肝である。(時間切れにつき、後刻に)
老いは煙の森を駆ける
女の子には内緒
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/12/28 (月) ~ 2021/01/06 (水)公演終了
満足度★★★
さすらい姉妹も出没しない2020年末はこれが見納めになった。
ちょっとした勘違い、2年程前のあの秀作を書いた女子、と思っていたが今回初であった(どうりで全く様子が違った)。
柳生二千翔という書き手の名はよく目にしていたが、初観劇の印象は、大きく言えば近年の「独白」を主とする若手劇作家による戯曲の範疇(他の作品はどうか判らないが)。アゴラ界隈では綾門優希や、昨年岸田賞受賞した市原佐都子。この路線に道を敷いた地点(役者各々がてんでに発語する=ダイアローグではない)と親和性のあるイェリネク、最近見出された松原俊太郎は、言葉を殴り書きしたような戯曲で、舞台化には「演出」が要になる。
今作は、パンフのあらすじが復讐劇を匂わせていたのに対し、幕が開くと全編登場人物3人各々が順次登場して聴かせる長い独白であった(一役登場3場程だったか)。独白すなわちその時点での心情や思考の吐露であるから、ストーリーの進展スピードは静止に近い。とは言っても、各人「何か」を演じようとしており、「声の出演」が登場して「何か」が進んでいる感じはある。
物語・・太古から山に住む「獣」という謎の生き物が、「はじめて人を殺す」。人々は獣を恐れて山を下ったが、殺された者(リシリ)の親である漁師シラスは山を登る.。そして20年後、シラスは未だ獣を見つけられない・・以上がパンフに書かれた「あらすじ」だ。神話的世界が提示され、人間の時間的・物理的有限性と対照的な悠久の時間が、芝居のテンポで目指されているようではある。ただ「初めて人を殺した獣」が何かを暗喩していそうでそれが何かは掴めなかった。獣(高山玲子)とシラス(洪雄大)は交わる事なく、ナキアミ(渡邊まな実)がどう関係するかは不明。抽象性の高い詩文学的・哲学的なテキストは、テキストの中で辛うじて劇を締め括っていた。
問題は、テキストの世界と視覚化されたステージとの落差。特に女性二人の発声や動きが、作品の抽象性になじまず即物的に身体性を主張している。テキストと、発語する身体とのもっと適切な区別・整理の仕方があったのではないか。
半神
うつつのしかく
シアター風姿花伝(東京都)
2020/12/25 (金) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★
風姿花伝の舞台に黒(濃緑?)を基調とした物の配置を見て、バランスが良いなと思う。演出(主宰)は美大卒だったと思い出した。冒頭、期待感を高めるムーブがあり(照明も見事)、「半神」上演のためのオーディション風景から、物語に入って行く。30代~アラフォーが中心だろうか、身体性を要求する作品/演出にレスポンスできる役者達のようだ。
さて、「半神」の世界はやはり面白かった。体の一部が繋がった姉妹。知能は高いが醜い姉は、知能が低く美しい妹と違って可愛がられず、妹の世話を引き受けて日々を送っていたが、ある日医師から二人の内一人しか生き残れない時期を迎えたと告げられる。手術を受けるにあたり、父母は「どちらを生かすか」に悩んだ末・・。
生き残ったのは容姿と性格の愛らしかった妹、だが脳みその中は頭脳明晰だが容姿と性格が醜かった姉であり、姉が妹の身体を占領した格好。この後の展開は説明不能、ただ姉の人格的な変化があり、最後にある種の統合がもたらされ、一応のハッピーエンディングに到達する(喜ばしいそれだったか悲しげなそれだったか忘れた)。
さてこれから苦言に入る。この舞台、ある程度のクオリティを遂げていたと思うのだが、ある決定的な誤算(私に対しては)をしていた故にかなり渋い評価となってしまった。
問題は「内輪ウケ」を多用し過ぎであった事。求心力を確認するように、あるいは求心力が「ある」と既成事実化するため、一定の実力ある演出家の舞台、又は実力ある役者が使う場合に許される事はあるだろう。「ちょっとこれ笑っちゃうよな(俳優自身として)」と、素の笑いを挿入する技は、突発的な事態に機転を利かせた振舞いに「素」が混じるか、そう見えるように完璧に演じるか、多くの場合「その人自身」が人の耳目を集めるような人気役者がやる類だろう。何か勘違いしているのか、それとも演出の指示なのか(多分そうだろうと推測)、「素」の空気を挿入して観客を「味方にする」(事を強要する)技を結構やって来るんである。
この「技」?を初めて観たのは20年前、石橋蓮司と柄本明がやった「ゴドー」であったが、確か序盤あたり、相手の出方を見て間合いを図るのに「待ち」が生じるその瞬間に「あれ?来ないの?」的な疑問の目を相手に向け、相手はその意味を探り察知するかどうかする、そんな具合にして「素」の瞬間が生まれる。柄本明も石橋蓮司も銀幕かテレビの向こうの人であった自分には、殆ど何の感興もなかったが、会場はクスクスと笑っていた。彼らでさえその程度である(この間合いは舞台に「テキトー」を持ち込みたい志向の柄本氏が仕掛けたのだろうと今は推測)。今回の出演者は多少は認められた円熟役者なのだろうけれど、広く言えば「無名」と言って誤りでない役者達の舞台で多用され、ある一線を超えると、申し訳ないがもうこれは興ざめの嵐なのである。
野田秀樹もこういうの好きそうだ。NODAMAPでの技を、野田カンパニーのレギュラーであった若手女流演出はやろうとしてるな~と見ていたが、「作り方」は巧くてもドラマにとって必須ではない。「それ無し」で魅せる舞台を作れないから反則技を使うのか?恐らくそういう訳ではないだろうに勿体ない事である。
一箇所「おっ」と思ったのは、野田氏の引用だろうか、稽古風景を模した場面(「半神」を劇中劇に置く形にしている)で役者に「批評性が無いぞ!」とダメ出しが飛び、「批評性とは自分を見るもう一人の自分がいるという事」と説明されるシーンがある。
役者が「役」の人格と「素(自分)」の人格を行き来できる事は有批評性の証明である。これは「息苦しい」「わざとらしい」、従って「嘘っぽい」無防備な演劇に対するアンチという意味では、有効な面があると思う(新劇・アングラの2領域へのアンチで演劇界の路を開いた野田氏や平田オリザの小演劇の立ち位置をよく表す)。
だが「笑い」をもらうための多用はその意味を超えた過剰=不要であって「不要」は削いだ方が良いと思う。笑っていた客はコアな客か、「既成事実化」された空気を信じた、又は乗っかった客か、判らないが、どちらも「内輪」な現象であるのは(石橋と柄本も同様)変わりない。ドラマ上の笑いでない素の笑いは、本来禁じ手、ドーピングだ。ちょっとしつこいか。
リーディング公演『作者を探す六人の登場人物』
彩の国さいたま芸術劇場
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール(埼玉県)
2020/12/25 (金) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
2004年黒テント公演で作者名と作品概要のみ知ってより(公演は観ていない)一度も機会を得ず、ようやく観れた。彩の国さいたま芸術劇場の稽古場公演には二度来てホールは初めて。緩やかな傾斜の中劇場(芸劇イーストを少し横に広げた位だろうか)。
ネクストシアターらしい若者の演劇であった(発声といい演技といい)。台本を持ちながらも皆活発に動き、若いだけに台詞も入るのだろう、台本を見る瞬間は殆どない。という事で中々臨場感のあるリーディング(と呼ぶのさえ違和感)を堪能した。
ある稽古場に「作者を探す者たち」が登場する。安部公房「友達」に似た不条理劇のテイスト(ある男の部屋に家族連れがやって来て為し崩しに占拠してしまう)。別役実「あの子はだあれ、だれでしょね」も見知らぬ一人の女が家族に入り込み一人ずつ殺して行く恐ろしげな話であったが、本作も「占領」はしないが不穏な空気がある。自らを「登場人物」と言って憚らない家族によって、「作りもの」である演劇製作が「本物」(登場人物そのもの)である彼らの存在が醸す説得力や話のリアリティに飲まれて行く。メタ・シアターの構造、演劇批評、この奇想天外な戯曲が1921年に書かれていたとは...。
演じ分けという点では、若手の演技の幅のせいか人物の関係が分かりにくい部分があったが、稽古の制約や戯曲のハードルを思えば健闘かも知れない。小川絵梨子演出とは今回限りだろうか(是非とも縁を大事に)。