満足度★★★★
たまたま時を昭和天皇崩御後に設定し直して改稿中、コロナとなり「自粛」というキーワードが重なったとの事。だが当初の設定のまま「これはあの頃書かれた戯曲」として上演するのも有りだった気がする。時代設定変更が徹底できてないのか、どことは指定できないがどこか部分的にそぐわなさがあった。(そのため時代設定そのものの意味があまり感じられない。)
1989年が日本での(まあ海外でもだが)エポックメイキングな年だったとしても、風景がピタッと来ないのは作家の「この時代を描きたい」という欲求・執念が足らないのでは、と思ったり。
本国を離れたマレーシアの日本人向け別荘では、天皇云々の話題がどの程度「身につまされる」ものだろうか。「本土事情などどこ吹く風」が標準である方が、戦後日本人的であるし、「どこ吹く風」であるならもっとそちらに振り切って帰属国への無責任ぶりを暴走させた方が日本人(論)的ではなかろうか・・と思う所も。。
先進国と発展途上国という当時の国同士の関係が「ソウル市民」に重なるようにも思うが、平田氏がありきたりを嫌うのか、成金根性を具現したような人物はいなかった。
だが代わりにナイーブでむしろ今の日本人の(慎ましさというより卑下した)物腰に傾いている感があったのは「今の日本人」が演じているからか、それとも私が今の気分を投影したものか。
そんな具合で、平田氏の宣言通り「伝えたいもの」は何も感じなかったが、「表現したいもの」は理解でき(人物の人物らしさ、滑稽さ、引いては人間の滑稽さ)、楽しめた。
アフタートークでは平田氏が質問に答えて「歌を入れるのは(それが無いと)終われないから」「そろそろかな、という感じで入れる」という身もふたもない回答。
へえ・・・「終われない」と感じる感覚はあるんだ、と言質を取った気分。
「劇的」なんぞ要らぬとうそぶく平田氏もまんざら冷酷な心の持ち主でもなく、実は最後くらいは幾許かでも「劇的」にしたいと願う好々爺であったのだなあ(はっきり皮肉を言ってるがまあご愛敬)。
いや、「歌で劇的を演出したい訳ではなく、台詞を止める機能を活用しているだけ」と天界にあると言う演劇法廷できっと平田氏は弁解してみせるだろうがもう逃さんぞ(まあご愛敬)。