風吹く街の短篇集 第四章 公演情報 グッドディスタンス「風吹く街の短篇集 第四章」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    二作品を鑑賞(「人という、間」「自画像」)。残り一作は配信期間21日までに観るか否か迷い中。
    先に観た「自画像」は、女優松岡洋子の個人史を辿る一人芝居であるが、実は多くを期待せず観たせいか期待以上の出来、というか説得力であった。特別に波乱万丈という訳ではない(女優人生という部分では多少特殊な要素はあるが)一人の現代人の人生が、文体・語りの妙で「本人との適度な距離感」で立ち上がり、愛おしく感じられて来る。生い立ち部分で紹介される時代の風俗に思わずにんまり、同世代ゆえの親近感もあったが、松岡女史が今のタイミングで自分史をこういう場で舞台化するという「生」へのある種の姿勢(達観? 勇気?..何だろう)が相俟って、ユニークな舞台になっていた。(語られた具体名のある演劇ユニットや演劇人の名は、ネットにも出て来ない貴重な証言・・Corichが大小あらゆる公演を網羅しているのはデータ的にも得難いがサービス開始は2000年代半ば(確か)、演劇博物館にも残らない演劇公演・作品は正に「時間の芸術」として人の記憶にのみ残り記録からは消えて行くものである事を思う。)

    「人という、間」・・風の短編集第二章で上演の「隣のおっちゃん。と、」と同じ男女二人芝居。女の薩川(張ち切れパンダ)が今回も出演し、男は前回が有薗氏、今回は和田氏。戯曲のテイストが同じなので見ると同じ作演出者であった。
    前作と今作いずれも、本来対話する必然性のない男女(知らない間柄ではないが)が「やむなく」向き合わされるシチュエーションで、言葉を交わす内に心の交わりが生まれ、何かを共有するが、結局はそれぞれ別の人生へと戻って行くという展開。前回は隣同士、今回は亡くなった女性の妹と、元夫。さらなる共通点は男の方が強引にわがままに話を進め、薩川演じる(多分実年齢の)女性は距離をとり、何なら反発さえ覚えるが、男のふとした言葉の中にある真情を感じ取り、少しだけ自分を開く。女の言う事を男は大概理解せず、男の事情も女にはよく判らず、結局「理解し合う関係」には到達しないが、それでも男女の交わり(必ずしも性行為を意味しない)がこの世界には生起しているノダ、というメッセージは受け取れる。
    このお話は妻の死以来「勃たなくなった」事に悩む男が、デリヘル嬢をやってる元義理の妹に女子高の制服を着て来させる所から始まるが、男は恐らく、新たな人生を始めるため、妻以外の女性へ向かおうとする発想を変え、元義妹と対面する(妻の側に近づく)ことで「男」としての再生を目論んだ、が、暗転後「うまく行かなかった」事が判る。妹はそんな男に心を許して自分の話をするが、男はそこで本当の悩みが「勃たないこと」だと薩川に語る。自分は悲劇の主人公であり憐れみを受ける権利があると義妹に迫るクソな側面を見せて薩川に去られるが、彼が勃たない事実の中に、今も妻の事を引きずっている含意があって救いとなっている。

    上記2作を並べて比べるも何だが、味気ない現実に小さなファンタジーを見せる(演劇の王道とも云へる)「人という、間」より、自身を語った「自画像」が充実した内容に思えたのは何故だろうと考える。真実味というものがそれほど枯渇した社会に生きている、その感覚ゆえだろうか。
    本当の自分、を自ら定めるのは難しい。私など一生かかってもその境地には辿り着けそうにない。自ら選択し、決定し、行動した者が、自らの軌跡を(自分でない者を見るように)描写できるのだろう。ただし、恥部を持たずに送れた(それを描写せずに済む)人生とは、「自画像」のそれは異なり、ある意味で赤裸々な人生の開陳がある。
    終着点の知れない人生の現地点で紡がれる言葉は、(少々大袈裟に言えば)存在を賭してこの世に真実味を投じ入れたに等しく、その分だけ世の空気は清涼になったに違いないのであり、濁った空気がこの社会の上層に垂れこめている事との対照など、語るも愚であるが一応言葉にしておく。

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    2021/02/21 00:43

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