こどもとつくる舞台『花をそだてるように、ほんとうをそだてています。』
ひとごと。
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/03/24 (水) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
(体調による)睡魔が万遍なく襲っていたが、何やら楽しげな場面が展開。台詞を発する声はビンビン聞こえるのに意味を脳が解析せず、勿体無い感を残して帰路についた。(こんな無味乾燥な感想、感想とは言えないが..)
岬のマヨイガ
特定非営利活動法人 いわてアートサポートセンター
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2021/03/17 (水) ~ 2021/03/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
作と演出は別だったっけ、と思ったが同じ人(詩森ろば)であった。観ながら自分の中ではちぐはぐさが気になった。キャスティングはプロデューサー側の意向、そこで演出が頼れる縁故のある役者を配した、と、縁故役者を活かす想像の方が作者としては先行してしまう、結果バランスが崩れた・・等とまた余計な想像が膨らんだ。
全体に台詞が凡庸に留まり、予測を上手く裏切る劇作家の仕事が、舞台上では生かされないという印象で、演出の問題か演技の問題か、と考える。竹下景子がフランス家庭劇で求められるコメディエンヌ風な構えで「役」に深く入らない演技態であるのが最も気になった一つ。震災の影を背負う三人の女(地元の独り身のお婆=キワ、暴力夫から逃げて来た妻=結、東北の親戚に引き取られに行く途中で震災に合った少女=ひより)のマヨイガと名付けられた家と村での心許ない共同生活が、お婆が交信できる事による異界との交流を溶媒として、新たに生きる力を得て行く。このプロセスが持つドラマ性に心を寄せつつも、現実を生き直す「溶媒」としてのファンタジーが、舞台上で写実的に登場してしまう。「存在するが存在しない」という二重性の中に人の精神の力となり得る「物語=ファンタジー」は機能する、とは私の思いであるが、その線で言えばこの異界の存在をどう舞台上に存在させるかが今作の要であった。
冒頭の舞台上でセットしたスライド機による影絵は、竹下女史が孫らに「どんどはれ」で終る東北の昔話を語る背景に使われ、ぐっと期待感の高まる出だしだったが、この小道具的演出は後半、実在の「衣裳(詩森ろば)を着た」河童等の妖怪や、沢則行の(とは後で知った)人形によるダイナミックな戦いの場面といった「実写」が主となり、これが残念感を増す。
鈴木光介氏の生演奏は寸暇もなく殆ど舞台を支えていたという印象だが、唯一河童のテーマ曲だけは高揚をもたらさず、男衆が扮する6、7匹の河童が婆に呼ばれて会食する場面は「異界の時空」との境界を破った意外性がなく「現実の時間」に飲まれて相当きつかった(衣裳をまとった男としか見えない)。河童の歌は3回も歌われ、「河童さんとの食事は楽しかった」と言いながら「かっぱかっぱ~♪」とフレーズを繰り返し「え、歌っすか」と思わずツッコミたくなる(歌は舞台上の象徴的表現でしょ?)。もっと現実的、というと変だが河童が「歌」というものを本当に持っているとしたらどんな歌か、というオファーがもし演出から出されれば鈴木氏ならもっと違う物を提供したはず、と思う。テントンカントン伴奏を河童自身が付けて(鳴り物は持ってないからカラオケ機なんか持参して?)歌ってたと女共は記憶に刻んだの?こういう雑さが私には我慢ならぬ。河童とどのような「交流」があったのかも、舞台上にどう表現するかは難題だったと思うが、クリアしたと言えなかった。
後半展開する異界絡みのメインストーリーは、岬の村にかつて災害と荒廃をもたらした妖怪が、今再び忍び寄っているらしい事をお婆が(東北の主要各河川を担当する河童たちに頼んで)突き止め、東北の妖怪らに応援を募り、決戦の時を迎える、というもの。これは冒頭の昔話と連動しており、岬の「第四の洞穴」に封印された妖怪である白蛇と、これと昔戦って敗れた事で配下となった何とか言う男の精の二者が、敵役になる。
これが象徴するのは災害であり、それによる人の心の荒廃、絶望。三人の女は戦いの前に一度花巻を訪れるのだが、戻ると岬の村は一変していた。疑心暗鬼が支配し、ひよりと親友になった少女も心を閉ざしてしまう。白蛇らの暗躍とお婆は見て取り、到着した妖怪も各所に散るが、「現実」の生活で女三人が別行動となった所へ敵は襲いかかる。結末は「敵の弱点は目」と知ったひより、結が健気に戦い、勝利する。
身を寄せ合って暮らす三人は、花巻から戻って豹変した村を見て驚き、自分らを暖かく迎え入れた村の「現実」を初めて意識する。両親を亡くし孫を亡くした村人らが互いを励まし合い、日々を明るく乗り越える光景が序盤に描写されるが、結とひよりが偽名を騙って公の監視を逃れるのをお婆が助けた縁は、やがて妻を探して訪れた「悪相の男」を村人が(それと頼まれず)体よく追い払った事を契機に「村との縁」に広まっていたが、助けられる身から人を助ける主体へと転換するのが、三人、とくにひよりと結にとっての「戦い」となっている。村人らが抱えているだろう「喪失」によるPTSDは想像するしかなく説明困難なものに違いないが、震災という体験共有が舞台を観る前提となる。白蛇の象徴するものが何であるのか、具体的には判らないが(その一つは無味乾燥な防潮壁建設にあったりするだろうか)。。
そしてこの舞台は東北を回る。作者がこの事を意識し、アトラクションと明るさのある舞台を指向した事が推察されたが、(本人の意図ではなくとも)戯曲の不足を趣向で埋めた印象は自分には強く残ってしまった。
日本人のへそ
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
念願叶った井上ひさし処女戯曲の観劇。ごりごりとした感触、注げるものを全て注ぎ込んだかのような・・である故に場面の作りに精巧さの濃淡があるが、掌を加えない(己に)容赦をしない作家魂。この手触りは井上戯曲ではこれまで味わった事のないものであった。
第二幕冒頭より展開するは、井上コント(てんぷくトリオ)のフレームを折り重ね束ねたような、同性愛モチーフの精巧な産物、その勢いを減じる事なく(題名が示唆する)井上流ナンセンスを織り交ぜた日本人論が開陳され、手綱を徐々に締め上げるような筆致で終幕へ一気に突き進んだ。
第一幕は説明の省略技法=歌の多用により、吃音者の治療プログラムとしての劇(劇中劇)の開始以降ノリよく場面展開する。「参加者」の一人である東北出身の女性(小池栄子)の半生を「サンプル」とした劇だが、学もなく世間知らずの十代少女が東京に出、苦界に身を堕して行く主な舞台はストリップ劇場、その描写のディテイルは井上氏にしか書けないフィールドだろう。(戯曲を書こうとする者の多くが自分の体験をベースに書く(事により処女作の脱稿に至る)と言われる。文豪井上ひさしも例外でなかった。。) 惜しむらくは、作品が対面している(事が判る)時代、すなわち冷戦下にあって経済成長を遂げた日本特有の政治的版図、右翼と左翼の対立の表れ方が風刺の対象になっているが、現代に置き換え・読み替え可能とは言えここには宇野誠一郎氏の楽曲が伴走し、時代の制約から脱しきれない。
ただ、第一幕の語り手である(吃音研究者であり治療プログラムを主催する)先生(山西淳)をはじめ、役者はエピソード説明のため奔走し、小池以外は皆多くの役に扮して八面六臂、このエネルギーが時代感覚の落差を相殺して余る程である。ナンセンスコント風二幕と併せ、この劇は作家の筆に俳優が疲労困憊の域にまで酷使される様を見る劇、とも言える。
もちろん最後に訪れるのは「役割を演じきった」アスリートへの称賛のみでなく、戯曲の背面から立ち上る思想、作者の眼差しのようなもの。「見て来た」者だけが語れる人間と社会の「現実」、それを直視し批判でなく包摂しようとする精神、言ってしまえば人間愛。どのような人間の中にも生への願望、欲求、情熱、そして体温があり、打算に走ろうが妄信に迷い込もうが、そこに確かに「人間」という存在を見る眼差し、のようなものだろうか・・。他にありようなくそのようにしてある人間、を井上氏は描写する。それは人間の限界でもあるが、この眼差しは私達に、これ以外になり得ない自分、これ以上に気高くはなれない自分に今なり得ているかを問い掛ける。
吉祥寺ダンスリライト vol.2
公益財団法人武蔵野文化事業団 吉祥寺シアター
吉祥寺シアター(東京都)
2021/03/20 (土) ~ 2021/03/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
横文字の耳慣れない企画であるが参加グループの名前に食指が動き、特に観たかった妖精大図鑑の出るAプログラムを観劇。
トークによれば吉祥寺シアターが主催する「リライト」の狙いは若者の作品披露機会の提供、さらに第2弾となる今回は総合プロデューサー北尾亘の振付作品を公募の若手ダンサーが踊る演目を加え、振付師との作品製作の機会(ダンスカンパニー所属しない/できないダンサーには貴重)も提供の由。A・B各プログラム3演目の一つとしてA・B2チームが踊った。この作品が最も舞踊らしい舞踊作品。数名の若者が溌剌と登場、動体の緩急と姿態の毅然とした美しさ、アンサンブルの充実、コミカルさシュールさが止まらないという感じで。幾つかの相(場面)の移り変りもダイナミックで質の高い舞台であった。
続く2演目は、企画側がオファーした若手、浜田純平と妖精大図鑑。
前者は舞踊の既成概念(自体も更新されてるが)拡張を担う部類、意表をつく展開のある変ダンス、というか出し物。一人で作るためか主観の強さが良くも悪くも横溢、妙に長い場面(ここそんな長くなくてよくね?みたいな)があったりだがそれも含めて予測を裏切り続けたパフォーマンス。
休憩を挟んだ後者はより演劇的で、ストーリーがあり、その「語り」に身体表現、踊りが組み込まれる。ノリよくギャグありコメディ色強めだが、出演者(女4人男1人)個々の、またグループでの舞踊力がストーリー叙述の中に実に効果的なだけでなく、「<ダンス>を探す旅」がのっけに迷い込んだスーパーという世界が具象世界から迷走の中で抽象世界へ、シュールから芸術に昇華する瞬間を垣間見せる(計算による主産物でなく「面白い」を追求した結果の副産物に見える)。
休暇込みで各演目30~40分のそこそこ長い充実した公演。ゲスト岩淵貞太と大図鑑3名とのトークにて、ショーケースとしては持ち時間が長いのは劇場的に今後単独公演を見据えた企画だという。
共生
さんらん
アトリエ第Q藝術(東京都)
2021/03/17 (水) ~ 2021/03/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
第Q藝術は二度目。以前は客席少数でフラットな印象だったが、今回は割と競り上がった階段客席の、中央通路にも座席が追加され満席、見下ろすように眺めた。(75分という小品だから組めた客席だろうか。繰り言になるがコロナ以降の感覚、以前に戻る事はあるのだろうか・・。)
このスペースは狭いのだと開演後に気づく。中程度のホールでは標準だろう声の張りが序盤耳につき、ある場面で高温の張り上げ声が耳を刺したのはきつかった。殊更な「元気」は芝居の薄さを埋める手段(と言ってしまうには声量は演劇の常套、否演劇の機能ですらあるが)かと雑念が頭を巡った。
が、作劇家尾崎氏の豊かさ(を思わせるうまさ)を賞味する時間、俳優の演技と声量のモンダイを超えて訴えるものがあった。
象に魅せられた現代の女性活動家が、同様に象と所縁ある人生を送った父親(70年代)と祖父(40年代=戦争の時代)の逸話を紹介し、回想式に再現されるという芝居。象は一人の女性が舞いで表現し、ファンタジックな作り。しんみりしがちな話だからか溌剌と元気よく、が基調。悲劇性の強い戦時の動物園の動物たちの帰芻、現代の女性(語り手)の領分であるアフリカでの動物保護活動(死と隣り合わせの密猟者との戦い)を描きながら、中心は父親が取り組んだ百貨店屋上の子象の処置を巡る、一世と三世とを繋ぐハートフルなお話。
この二世の逸話にも依るが三世代に亘るこの物語をいつか前作並に書き込んだフルバージョンが観たい。(いやこれが全てですと言われるかも、だが。)
忘れる滝の家
ムニ
アトリエ春風舎(東京都)
2021/03/11 (木) ~ 2021/03/20 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
青年団若手自主企画らしいムニ/宮﨑企画の「静かな演劇」。同じアトリエ春風舎で観た前作との共通点は・・ストーリーより空気感、省略された台詞、謎解きに頭脳が駆使される、静けさ、舞台の周囲が闇に溶ける(春風舎の特徴?)。中で、ムニの最大の特徴は、複数エピソードが舞台上でニアミスで行き交う演出だ。
前作は3~4組の会話と行動が近い時空で交錯したが、今作は2つの異なる時空(40年離れているとか)のわりと書き込まれたエピソードがやはりニアミスしながら進み、接点も持つ。
始めに難点を言えば、ストーリーは緻密でなくイメージを伝える詩的世界に近いが、世界観はストーリーを介して伝えるしかなく、やはりストーリー説明の省略具合がネックになる。2つのエピソード(過去、及び現在or未来)を繋ぐ一人の男が、「同一人物」として登場しているのかどうか迷走する(名前は同じだが同一性が希薄)。さほど関連がないと見切るまで、芝居中に「徒労感」に落ち込まないよう「謎」が提示され続け観客もある程度騙され続けはするのだが、脳のどこかでは気づいている。しかし・・不親切に置かれて行く点が最終的には辛うじて「像」を結び(仄めかし)、消え去りそうな像を2つの世界の対照の含意が繋ぎとめる糊となり、ギリギリ成立したと思った。不思議な間合いや、役者の意味深な風情が「徒労」に帰する予感は幾度も訪れたが、それは回避されたという事である。
以下は一観客の気まま勝手な(舞踊を解釈するのに近い)受け止め。
役者は何かそこに無いものを見ている。彼らを規定している現実に対面しながらそこにないものを憧憬し、求め、寄る辺とする風情において共通するように見える。今やセピア色とインプットされた過去シーンは、世代の移り変わりと継承の哀愁を描く小津安の世界で、母は過去を眼差し、それを語って娘の未来への恐れを融かす。娘の友人とはらしい会話でホッとさせられ、登場しない「叔母さん」の事が会話によく出てきて昭和な世界である。方や現代or未来シーンはパンフには40年後とあるが40年でなければならない物理的事情はなさそうだ。こちらは冷たい青系の色で記憶されているが、現代風カップルの会話から男が突如訪問を受けた友人の誘いで山に行くあたりから謎めいた展開となり、2つの世界に共通する存在(役名・役者が同じ・・だがどう見ても別個の存在)との遭遇から(背景が山という事もあって)無色透明、従って山の深い土色になる。ここでは現代世が過去と出会いながら、自然的なものと出会い直す未来を見通そうとしている何者かの意志(作者ではない?)を感じ始める。筋そのものは作者の中では通っているかも知れないが観客の目に映る範囲では破綻又は叙述足らず。だが、我々の世界への「予感」を持つには十分な欠片が散りばめられていて、個々の話題について何か喋りたくなる。後味良し。
ゴーストノート/西には悪い魔女がいる
第27班
「劇」小劇場(東京都)
2021/03/10 (水) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「ゴーストノート」を観劇。
深谷晃成の名をよく見るので何者か確認を、とネットを見れば音楽が深く絡んだ舞台といった紹介があり、一つ逃してその次の「潜狂」を三鷹まで観に行ったのが一昨年の事、密かに拳を握った。
先日の演出家コンクールの演目の一つがそれであったが、音楽がリアルに近い形で組み込まれた舞台(ドラマ上の必然がありかつ演奏もできる)はそれだけで贅沢であるのに加え、楽曲がドラマを彩る効果を持つならさらに贅沢だ。
本作は「潜狂」を思い出させる展開で、音楽活動と友人を巻き込んだ金銭トラブルが共通していたが、ある意味で音楽は若者の「進路」「夢」を象徴し、金銭問題は若者を貧困に追いやって憚らない(臆面もなく恥ずかしげもなく)上層同士の身贔屓を許した社会を想起させるアイテムであり、普遍性がある。もっとも人物らは「問題」化を拒み、ストイックに、どこまでもスピリッツの文脈でものを語る。事態を観客が徐々に掴むミステリーの構造だが、人物自身も、最も変わりそうにない存在が変化を見せ、現代貧困物語はスピリッツにおいて灯をともす。不覚にも泣いた。役者が「いそうな」人物にハマっているのもオイしい。
ウィーンの森の物語
東京演劇アンサンブル
東京芸術劇場アトリエウエスト(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ヨハン・シュトラウスの楽曲名から取ったと思しい(原題が同じかどうか知らないので)本作は当時好評を博したとか。作者ホルヴァートは小説も書いたが本業は「上演」が収入に繋がる劇作家。作家としての苦節は処女作1920年より1937年頃まで(38年没)、第一次大戦後~ナチス台頭という混迷の時代に重なり、活動の拠点も転々としている。1931年上演された本作は「民衆劇」と言われ世相が色濃く反映しているという(以上ネット情報より)。
同時代の人々にどんな風に迎え入れられた作品なのだろう・・という関心をもって劇場に赴いた。
作品とは離れるが、残念なこと。終盤肝心かなめの場面で、客席から携帯の音が鳴り、恨めし気に客を睨んだのは久々であった。最初芝居の効果音?と思った位の音量だったが「いや違う」と気づき、最前列のご婦人が暫くしてバッグに手を入れているのが見えたが、また暫くして(終演を待たず)他の一人と退場していた。(て事は、自分が退席するためのアラームだった・・?怒!)
この件を述べた理由は以下の通り。迷惑音のお陰で男の台詞一つ(数行あったと思う)が飛んだ(自分の注意を台詞に集中させられなかった=鉄の心臓を持てなかった)。
芝居には展開の分かれ目となる台詞があるが、とりわけ動きや声で判る感情表現やBGMを伴わない、言語情報(台詞)のみで状況を知らせる場面がその分かれ目になる場合もある。その瞬間舞台にはピンと緊張の糸が張られ、耳がダンボになるあの感じ。東京演劇アンサンブルの元来の演技というのがまた「(感情より)台詞を伝える」部類、もっとも今作では中山一朗を客演に迎え「饒舌な感情表現」が舞台に熱を与えていたが、「引き」の瞬間に「伝統」が発揮されていたかも知れぬ。具体的には、さんざん不実を重ねたアルフレートという男が、事が大詰めに来た時に妻もいる場で少しでも悔悛の情をみせるのか、居直るのか、含みを持たせるのか・・微妙なニュアンス(の変化?)を読み取ろうとしていたその台詞が頭に入らず、その後の場の空気も見失った。台本を入手してぜひ確認したい。
実は「分かれ目」でもなく、ただ前と変わらぬ不実な台詞を繰り返しただけかも知れぬ。が、抗議の眼差しを凌駕するニヒリズムを周囲に浴びせたか、それとも矮小な人物を露呈したか・・芝居的にはもう一段この人物の実像に踏み込ませる証言が欲しい部分であり、ある場合それが終幕の空気を左右しそうだ。(空白部分に想像が広がってるパターンかも知れぬが..。) ただ私の目に終幕はやはり物足りなくちぐはぐに感じたのは事実。
そんなこんなではあるが自分なりの読みでの感想を幾つか。
スタッフで楽しみな名前が並んでいたが、最も目立った形で芝居を規定していたのは、翌日観た「ヘッダ・ガーブレル」と同じ稲村朋子の衣裳。アンサンブルの前作に続き遊戯的で、メルヘン劇の書割の衣類版とでも。メークも人形のようで「森の物語」のファンタジックな装いの内に、酷薄な人間模様を描写する構えのよう。
美術(池田ともあき)は、宙に浮いた緑色の風船(長い糸が垂れている)を多数配して「森」を表現し、人がこれを木と見立てて動く事でそう見える。舞台奥には顔が出せる程の垣根が左右に置かれ、退出ルート。場面は色々に転換するが、奥に長い四角の舞台はほぼ平面のみ、照明変化と登場人物で場転と判る。
音楽の国広和毅がエレキギターを使ったいつもながら「前に出ない」効果音な音楽で耳に留まらない。
「森」はウィーンの町の比喩のようで、森は(夏の夜の夢ではないが)この世ならぬ存在に翻弄される場所であり、若く純粋で一本気な主人公マリアンネの人生の前に立ちはだかる様々な障害(取り巻く人間)は、森の仕業か、人間の本質か・・比喩を介在しての問いはありそうである。というのもその面々というのが、彼女目線で描写するなら、まず実父・魔術王(興行師らしい)=母を死に追いやり、女を道具と見て省みない(父がマリアンネとの婚約を勝ち取った相手は富豪の御曹司)。その結婚相手オスカー=誠実そうだが柔で富者の地位に安住し、愛を語りながらも人物の重みがなく何やら表面的(と描きたかったと推察)。そのオスカーからマリアンヌを奪った自由人アルフレート=これが「クズ」の典型(今日風にはダメ男、ヒモ)で稼がず責任取らず子供を厄介払いし最後には枷から逃れたく離縁へ誘導する。赤子を預けられたアルフレートの母及びその母(祖母)=母は息子に甘く意志薄弱・優柔不断、祖母は孫のアルフレートを可愛がらず孫ほ方はそれへの報復を平然とやってのけるという関係、預けられた赤子(ひ孫に当る)も祖母は迷惑がりあやそうともせず故意に風の当たる場所に置いて風邪を引かせ死なせてしまう。
「赤子の死」は終盤の重い展開だが、それが知られる前、つまり赤子を引き取りに行く前、同行する男3人が「ある程度の変化」を遂げる。最大の変化は父、娘の「可愛い孫」(を可愛がる祖父像?)にのぼせ、明るい老後への淡い夢を見る。同行するのがアルフレートとオスカーだが二人の反目を解消しようと働きかける別の男の仲介で、マリアンネも含めて「新たな関係」へと踏み出す風が吹いたかに見える(もっともオスカーは「ずっと君を愛し続ける」と言った約束を繰り返すが、二人の関係を阻害する子供は不要だと言う)。
以上、マリアンネには敵だらけとも見え、演出者がパンフに書いた通り彼女の最後の台詞「もう、無理」をラストにスポットを当てて繰り返させ、現代の若者を取り巻く困難に重ねようという意図は分からなくはない。
ただ、劇では婚約式でのオスカーは身分違いのマリアンネを愛している、と見える。人形風のメイクでは容姿の美醜は判らないが、少なくとも親が決めたコースがマリアンネに「みじめに見えた」事は確かだろう。自由に振舞うアルフレートに一目惚れしたマリアンネが、真に「彼」との相性の良さを感じたのかは疑問ながら、彼女自身はそう信じ、彼と結ばれることを選んだ「行動の人」という事になる。ただ、アルフレートのような男はよく居て、年輩の女性との「復縁」を巡るエピソードが後半あったりと人好きのするタイプ、マリアンネに「愛」を見分ける目があったかはともかく、結局当ては外れた。一方アルフレートと祖母、母との関係は(父の存在が見えない事とも合わせ)彼の人格形成に不可分に感じられる。
・・何が言いたいかと言えば、一連の絡み合った人間模様の中のマリアンネもピースの一つであって、全体で一つのウィーンの森の風景を形作っている。一人マリアンネを一人称として見、自分を重ねて現代の「もううんざり」感を代弁してほしいとは私は思わなかった。彼女自身も失敗を刻み、その報いを受けただけという解釈が残ってしまう。
健気に前向きにやって来た彼女が唯一「当初からの望み」を捨てなかったそれは「アルフレートとの子供」であった。夫不在でも彼女の支えとなり得たのに、父の支持も獲得していざ迎えに行ったら、伏兵現れ、無慈悲な祖母に命を奪われていたという展開がどう収まりたいか。祖母の言動は感覚上(孫が可愛くない祖母はいるか)また倫理上(虐待・殺人は罪になる)現代日本には重ねにくい。せめて祖母がそのようにした必然性が腑に落ちれば、マリアンネの過酷な運命を歯噛みしつつも受け止めた事だろう。
ただその場合も「もう、無理」のリフレインのラストは不要ではなかったかな、と。人々が台詞を吐きながらの去りで、たまたま最後の台詞であるかのようにマリアンネがボソッと言う「もう無理」、照明もそのあたりで暗転が落ち切った位だがここであっさり潔く終わるのが私的には最善。メッセージはこれでした、と言わなくて良いというのが理由。
さらに付記。(長いっ)
前世紀初頭のヨーロッパは産業革命が行き着いた時代の恩恵を享受し、文明の爛熟期でもあって(格差もきっと大きくあった)後発国ドイツ、オーストリア等は芝居当時この時期を迎えていたのやも。日本も大正からエロ・グロとあり戦後に成長期を迎えて爛熟、即ち「余剰」が可能にする権利意識の拡張、世代間対立(価値観の違いという形をとる)。ウィーンという都会で時代を先取る問題を描き取った事がこの作品が拍手で迎えられた背景なのではないか。モダンな芝居だったのだ(勝手に結論)。
ではあの祖母は何者であったか。これも想像を膨らませれば、脳内資料検索で一つ引っ掛かったのはアリス・ミラーというドイツ語圏の心理学者で、彼女が住む社会(という事はドイツになるか)には子供の教育の悪しき伝統(傾向)があり、それが近代には識者の論証というお墨付きまで加わっているが、こいつが人生の問題を生み出す根源だという。それは子供に対する躾の必要、非寛容、遊びや笑いや悪戯や我が儘(赤子が泣くのもその走りだと解釈する)の否定、妥協なき懲罰などだ。そう言えば昔ビレ・アウグストという監督の映画にそういう親の恐怖支配から友人の助けで脱出するというのがあった。あの祖母像は、かの国では「割とよく見かけるババア」なのかも。
総評。仙石きくえという若い主役の等身大にも見える存在の仕方、繊細な演技(というかやはり存在の仕方)は芳醇さを持ち込んだ。なべて役者は達者に見えたがそれだけに惜しい後味。
ヘッダ・ガーブレル
一般社団法人 壁なき演劇センター
シアター風姿花伝(東京都)
2021/03/10 (水) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
イプセンの長編作のタイトルを冠した公演、主催者は舞踊の人と知りつつも、演劇(ドラマ叙述)の片鱗でも見られるかと期待したが、終始途切れなく真正の舞踊であった。
舞台全体が映写幕となる舞台奥上段ギリまで攻めた開帳場(斜面)で、モノクロ映像が断続的に流れ(裸体に字を書いたり正体の知れないものを食べたり)、ヘッダ役らしい三東女史とコロス的若手ダンサーによる舞踊も「相の変遷」があって、ドラマの時間経過が辿られてると見えなくない所はあるが、やはりストーリー叙述とは異質の「内面の発露」たる舞踊そのもの。ドラマトゥルク某とあるが難解であった。
つまり演劇の観客としてはタイトルは「ヘッダ・ガーブレル」でなくても成立する出し物であり、タイトルに期待した身には肩透かしという事になるが(このあたり作り手はどう考えるのだろう)、逆に身体芸術としての快楽があったか否か、という観点で言えば、三東氏の身体能力は見られるものの、情緒の瞬間的爆発、あるいは身体美が発露する快楽といった瞬間には出会えず。
淋しいのは娯楽的=笑いの要素の無さ。悲劇の中にあっても人間はその合わせ鏡に滑稽さを擁するもので、遊びのある踊りとは(素人意見かも知れぬが)豊かなものに思う。
客席の多くは舞踊界隈の人と思しく、やはりそういう出し物であったのかな、と。
熱海殺人事件
うさぎストライプ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/03/10 (水) ~ 2021/03/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
開幕するなり舞台の悪条件が目についたが、どうにか「熱海」を面白く味わった。今回もまた、以前観たアマチュア劇団の「熱海」を凌駕する舞台ではなかった。台詞はよく聞こえ(一部音楽にかき消された甘噛み台詞が2,3あった程度)、冷静な頭で戯曲の全容を見せてもらったという感じだが、戯曲に期待される舞台になったか否かと言えば少し勝手が違った。元より現実には成立しない破天荒な台詞、また伝兵衛と熊谷の芝居上の棲み分け(役割の明確化)が難しい戯曲で、芝居というものは「成立」しなければならないのだとすれば、成立に至らずなのではないか、とも。ただ、4名の役者が見せ場をこなし、精度の高い演技を目指しつつ「熱海」を構築しようとした目標があったとすれば敬意を表したい。その成果か、作者が残した珠玉の決め台詞は澄んだ声を通して力強く耳に届いた。
特別チャリティー企画「谷賢一さんと読む!『福島三部作』」
『本読み会』
オンライン視聴(東京都)
2021/03/07 (日) ~ 2021/03/13 (土)公演終了
映像鑑賞
中々充実した時間だった。「本読み会」という戯曲を読む会を開催している団体(サークル?)が作者谷賢一氏を招き、3・11福島原発事故10周年に合わせてチャリティ目的で配信をやったもの。配信期限残す所1日であるのを見つけ、鑑賞した。定点画像だが音の拾いは良くしっかり聴こえた。司会、司会補、谷氏の3名が前テーブル、読み手がサイドのテーブル2列に座っているのが見え、画像の枠外にも人がいそう。1、2、3幕と人を入れ替えて読み進めるという、普段の「読む会」らしい風景を中継。一幕通して読むとブレイクを取り、戯曲を読んだ感触から疑問や意見を出し合い、作者にも投げる。完成度を求めるのでない「読み」は台詞を通して戯曲世界が立体化して行くのを味わい、時に白熱したり脱力したり予期せぬ面白い瞬間が生起するのも「読み」の場の醍醐味。
自分は芸劇でこの演目を観ているので台詞を聞きながら殆ど忘却していた芝居を思い出し、チェルノブイリ事故当時を背景にした福島のドラマを反芻するように味わった。
谷氏の口から執筆の背景や台詞や場面に込めた意味が、後半徐々に熱を帯びて語られていたが、できればもっと早く知って2度視聴したかった。
無料配信、カンパ制(チャリティ目的なので)。
昭和虞美人草
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2021/03/09 (火) ~ 2021/03/23 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
マキノノゾミの新作公演、と記憶をまさぐってみたら、思い出した。昔、MOP(だったと思う、違ったかな)とかいう京都でのマキノ氏の拠点劇団の最終公演(に近い公演)を観た。懐かしい。
名は知られているがそれだけに大衆好みとの予想通り、ウェルメイドチックな、社会派でも笑いの涙にまぶした「メッセージ性あってうまいけど甘い」舞台であった。
(殊に戦争を扱ったにしては「思いがあれば正義は勝つ」的なメッセージに集約させた、ちょっと文句の言いたくなる舞台を私はここで目にしていた。)
他のマキノ作品ではSPAC「高き彼物」(古館寛治演出)が絶品、先日の「東京原子核クラブ」も楽しめた。「高き彼物」は性的マイノリティを扱い、役者を選びそうな戯曲だが、「先生」の変人性が写実的風景の中に収まって「主張」らしい要素がなく、じんわりと、やがて高まる感動に導かれた。見ると著名なマキノ戯曲の殆どが外部への書き下しであるので、執筆方法に違いがあるのだろうか、等想像してしまった。
現代能楽集など話題作を逃し、(先のMOPのを除いて)「新作」を逃していたので、現在まだ無敗の文学座アトリエ公演となれば一も二もなくである。
ただし予約は「支援会」会員で最初埋まったとか。「今、席を作っている所、来週あたり出す予定」と週末に聞き、日曜夜にwebフォームを覗くと残一席、速攻で予約した。(この客席が奇妙不可解、後に記述。)
この芝居、音楽評論雑誌の事務所というピンポイントな風変わりな場所を舞台に選び、1970年代の楽曲(主にロック)が頻回に流れ、プログレやアメリカンニューシネマの話題に夢中になるシーン等、個人的には懐かしさに小踊りする代物であったせいで、随分肩入れした見方になったに違いないが、翻案された「虞美人草」(読んでないが)は漱石の時代にもあっただろう「恋愛と人生」のモチーフが見えてくるにつけ、ドラマの深みへと誘われる。作者がパンフにも吐露していた原作中無性に良かったシーンの台詞が、本舞台でも光っている。明治から遠くなりぬ現代に、こうした感動に出逢う幸福を噛みしめた。
舞台全体の印象としては全開コメディではないがそこはかと喜劇要素の漂うマキノ戯曲をシリアスとの絶妙な塩梅で仕上げるのは高いハードル、文学座の俳優層でも中々大変そう(特にラストへ向かうあたり)。ネタバレになるが「突撃」は「玉砕」とせず「そう言いながらも・・」と含みを持たせるのが絶対正解に思うのだが。。
俳優は文学座でも若い世代が中心だったろうか。殆どがお初の方々で、目に(耳に・・声を)した事のあるのは二三名ほど。中で平体まひろ氏は、昨年7月中津留氏の配信「パンデミック・パニック」で初お目見えしてより、秋に座高円寺「フランドル農学校の豚」、冬「東京原子核クラブ」(配信で)、今回で四度目で最若手にしてはよく目にした(今割と売れっ子のようだ)。ただ今回のは同じマキノノゾミ作の「東京・・」の役を引き摺ったかと思われる顔演技があるのが少し気になった。が特徴的な風貌は見る側が何かをそこに投影したくなるようで、強みだ。
若手演出家コンクール2020最終審査会
一般社団法人 日本演出者協会
「劇」小劇場(東京都)
2021/03/02 (火) ~ 2021/03/07 (日)公演終了
満足度★★★★
本コンクールの初観劇は昨年、念願叶ったのは「配信」のお陰。つまりコロナに見舞われて丸一年が過ぎた。
思えば昨年二月の末頃には、大手の公演中止が出始め、三月一杯は上演を決めた公演と中止した公演と二分したが、すでにこの時点で、劇場でのコロナ対策は(バラつきはあるものの)今見ても遜色なく講じられていた事は覚えておきたい。
(それに引き換え政府がこの一年でやった事は・・感染対策の核である検査・医療体制の整備のための制度改変はやらず、感染者数に一喜一憂、分母の検査数は問わず「日本方式?が優れていた」だの結果論で寝言を吐いていた。民間の自主対応任せで全体状況が何も変わらない無策な国の足下を見てか、東京都の対応も以前に増してひどくなってるらしい。何のために国のブレーンを高給で雇ってるのか再考した方が良い。)
閑話休題。本コンクール、昨年のはぶっちゃけ最悪と言えた(忍耐を要する画質・音声)。急きょ無観客対応で設えたのだろう、当時の他の配信と比べても中々な質であったが、それに比べりゃ今回は普通に芝居を楽しめた。
さてまず審査のほう、審査員8名による投票がバラけにバラけたのが面白い。4演目どれ一つ系統の似通った舞台はなく、脚本でなく演出をみるコンペだからあり得るケースかも知れないが、これに優劣をつけるのは厳密な意味で難しい。演劇の多様性、どういう要素を演劇として高く評価するのか、第一線の演劇人も全く異なるという事実が痛快。ある種の感動である。
ちなみに私の観たのは初日からの上演順での4演目(2ステージ目は見ず)。これに1~4の点数を付けると、
三上陽永(ぽこぽこクラブ)「見てないで降りてこいよ」=4
今井尋也(シルクロード能楽会)「「道成寺」疫病譚」=3
國吉咲貴(くによし組)「おもんぱかるアルパカ」=2
伏木啓「The Other Side-Mar.2021」=1
答え合わせ・・どの審査員とも重なってない!(ちょっと嬉しい..が数学的には、、採点パターンは24もあった。審査員8名、成る程..)。
以下作品評。
三上氏は自劇団で劇作者として本格活動の由。話もよく出来ているが、本作の特徴は生ギター・生歌が劇に深く絡んでいる事。冒頭とラストに挟まれた本編(回想)では、ティーネイジャーの3人(男2女1)の出会いと成長、音楽への夢と紆余曲折の顛末がテンポよく語られるが、一人の際立った個性(障害?)とそれを補い合う自然発生的な関係が、登場人物3人のみで描写され完結できているのはひとえに「生音」が無理なく物語にハマっている効果だろう。戯曲ありきの人選か、役者あっての戯曲か、興味あり。
今井氏のシルクロード能楽会の同演目は、TPAMでも上演されたらしく、パフォーマンス・アートの範疇だがコンクールの最終候補に残るものとしては異色だろう。内容は端的に、大真面目な「能」の世界である。一しきりやった後、幕間で演者(主宰者か)が素の感じで客席に喋るのには驚くが、本編は能。ただし自分的には元の「道成寺」をしっかり踏まえてないので(独特な発声の台詞=謡いを聞いてもストーリーを追えないので)翻案のポイントなど分かりやしないが、囃子方の豊富さにはさすがに気づく。女性の演じ手も登場して表現としての広がりがあった。
くによし組は見そびれていた一つで今回ほぼ初になるが、若手女子のユニット、無理矢理分類すれば、<なかないで、毒きのこちゃん><ひとりぼっちのみんな><だるめしあん>といった毒あり文学少女の脳内世界(かなり無責任な分類)の範疇だろうか(「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」の妹のイメージ・・若手女子は皆同じに見えると白状しよう。もっとも、<なかないで>主宰は女子でないとの噂も・・)。
駄洒落のようなタイトルから書き始めたとも疑える内容で、冒頭の奇妙な場面を出した後、そこに至る経過を紹介するという話の展開。戯曲の着想の中に演出的な要素があり、人物3名のキャラ(内面も)設定も現代的。ただ荒唐無稽のシュールさと、徐々に露呈する人物の(又は関係の)「痛さ」=リアルがうまくマッチングせず、無理筋感が残ってしまったように思う。
唯一非東京出身者(愛知)の伏木氏の舞台は、舞踊を軸に、対話劇の場面など多彩に織り込んで一つにしたものだったが、パフォーマンスと併走するキーボード(ピアノ音)演奏が、解釈幅を広げたい所、狭める単色の響きが(瞬間的にはドラマ性を持ち込むが)「もっと見てみよう」という呼び水にならず、多彩な場面が我々をどこに連れて行くのか(何を発見する事になるのか)という期待感が早々に萎えてしまう。出演の女性二人の衣裳が自分としてはまず残念感。元々踊り手だからか?台詞が素人っぽくても許せるが妙に「演技」をしていてそれが薄っぺらく感じる。しかし出演者の力量というよりは、配置された各シーンの関連や全体が果たして出演者の理解できるものだったか・・観る側も最終的に一つの構築物を見たという感慨には至らなかった(配信で見た限りであるが)。
オパンポン★ナイト〜ほほえむうれひ〜
オパンポン創造社
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/03/05 (金) ~ 2021/03/07 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
Corichで受賞した「さようなら」を池袋で観た関西のユニット。短編でも「らしさ」は変わらずだが、アゴラ劇場で間近な距離で見ると俳優の挙動と台詞がクリア。精度は鑑賞に堪え、中々な人間洞察の「深み」に誘う要素あり、わが意を得たり。(後日記すつもり)
→律儀にも12日後の追記(忘れてた)。
第一話、第二話、第三話それぞれに美味なる瞬間がある。第一話は導入の会話が如何にも関西(我々非関西人のイメージ)で笑わせる。話そのものは、ナンセンスでしつこい会話が何週かした後、そこが職場内での劣等生が回される部署(=死刑執行)だと分かり、なぜテンション高めでバカバカしい会話(口論?)に興じているのかが、遅れて登場した新人に説明する形で明かされ、人情要素をくるんでブラックに終わる「整った短編」。他人の死の現場で、「悪気のない」彼らにどこまで不謹慎を「合法的に」やれるか、というあたりだろうか。
第二話は五輪出場候補でもある著名アスリートのスキャンダルを、当人がネタとしてゴシップ雑誌社に持ち込んだ不倫相手の若い女子と、応対した若いスタッフと編集長の三者の会話劇。国民的スターを擁護する立場、雑誌の使命(商売)として事実を報道すべきとする立場が、状況の変化によって二転三転する、それによってそれぞれの損得勘定、倫理観から人情までが露見して行くコメディの典型的な展開を圧縮したような短編。
さて第三話。これが実に味わい深い、と言葉にしてしまうと味わいが殺がれる気がする。この話にのみ出演の怪優・殿村ゆたか扮する老人が、長テーブルを挟んで甥と対峙し、終始話をしては一人高笑いをしている。正面奥の出入り口からはシェフや関係者が登退場するが、甥はずっと不機嫌で、台詞の上では、テーブルに乗った大皿の「生きた蝉」について「なぜ蝉なのか」という文句を言っているのだが、後半でそれが老人の「最後の食事」でありそこは死刑囚が最後の時を過ごす刑務所のどこか、であると判る。蝉は、「今まで一度も食べた事がない物」との老人のリクエストに対するシェフの「計らい」であり、そこも突っ込み所も満載であるが、判った時は既に芝居も半ば、「ギギ」と時折声を出す蝉には観客の目にもなじみ、やがて「食べた事がある」という関係者の驚嘆の証言、「一つ頂いて良いですか」とよばれたかと思えば、さらに現れたもう一人が蝉食った話を盛り上げ、老人はこれぞ最後に相応しい食事である事に疑いを入れないだろうとばかり甥を見やり、悠然と蝉に手を伸ばす。この短い謎解きストーリーの中で作者は「今」を意識した台詞を老人に言わせる。死を前にし、しかも複数もの人間を殺たらしい男が悔悛の情を吐露する代わりにこう吐く「自分がやりたい事をやればいい」(剣呑な台詞、そこを意識しながらの発語)。まだ十分に精力の有り余っていそうな老人は、自分に「後悔はない」と言い、「何でもやってみなければ分からない」と甥に引導を渡す。「蝉なんて誰も食べない」(だから最後の食事に相応しくない)とクソ真面目に言い続けていた甥も、観客も老人の奇態の説得力に黙る。このあたりまでに何度か「蝉を食べる」シーンが繰り返されるのだが、手に取って頭からガブリ、とやると顔をしかめて「く~~っ」とやるのがお笑いのキメよろしく皆一様、味付けも火も通さず生で持ってきた趣旨を「土の香りが口に広がります」としたシェフの説明の立体化(同様にお笑いの手)。今や刑務員と判明した男たちに付添われた老人が刑場へ向かった後、甥は蝉に手を伸ばす・・。
自由とは何であるか、を考えさせられる。自由とは何であり、何ゆえそれは尊重される(べき)なのか。決まりきった生活様式に収まり、周りと同じ食べ物や流行りを追いかける「生活」のために保障されるべき自由なのか・・芸術が果たすべき使命、というと大仰だが、それはあらゆる可能性への自由を用意し、想像力を広げ、引いては現システムに必然的に排除される者を包摂する可能性を探る働きでもあるのに違いない。「感染数の抑制」を唯一の価値とする現在にオルタナティブを選び取る想像力を手にする事、換言すれば自分のやりたい事を追求する事は「善である」、なぜならそれは「自由」だから、と老人は言ったように私には聞こえた。
5S~5つの小作品~
ENBUゼミナール
「劇」小劇場(東京都)
2021/02/26 (金) ~ 2021/02/28 (日)公演終了
満足度★★★★
配信で鑑賞。横山短編戯曲がMONO公演に提供したのや以前劇場で売っていた短編集のも含め5編。役者の誕生に立ち会う緊張感と共に横山戯曲を味わった。配信のおかげで「手ごろに」味わえるのはラッキー。
ドレッサー【2月26日(金)は公演中止/兵庫公演中止】
加藤健一事務所
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2021/02/26 (金) ~ 2021/02/28 (日)公演終了
満足度★★★★
芸劇プレイハウスとは言え僅か3日の公演が1日減り、さらに時短に対応できなかったとかで2ステージのみの公演となる。しかも間引き客席。旅一座の座長の狼狽と最早一枚岩でない一座の苦悩が、現実の演劇界にシンクロする。カーテンコールに並んだ姿は役人物とは違う人格ながら等身大にも見え、上演をやり切った事に祝福を送る拍手が鳴り響く会場に同期して、痛くなる程手を叩いた。
台詞に込められた洞察の含蓄、演劇人の盛衰のリアルな残酷さを通して人生の儚さと尊さを滲ませる。
ジレンマジレンマ
ワンツーワークス
赤坂RED/THEATER(東京都)
2021/03/04 (木) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
満足度★★★★★
初めて満足度5を付けた(確か..と思う)。原発事故後の福島の三つの「真相追求」の場で構成され、今や殆ど語られる事のないこの公共的な(であるべき)問題に触れられている。本作は現実のほんの断片だが、背後に横たわる福島のリアルへの推察へと導く契機となるのに十分な言及があった(これしきで言い尽くせたとは到底思えないがそれでも)。
2ステージ目だが白チームは初日(と書いたが1ステージ目だった。両チーム共通の役者も初日)。多分その事もあり最前列で感知する俳優の熱は届きすぎる程の量であったが暑苦しさがなく、これまで観ていたこの劇団の「作為と自然さ」の塩梅とはやや違った塩梅を感じたのも新鮮であった。(うまく説明できないが..芝居にとってナイスな事である)
断片/ペール・ギュント
劇場創造アカデミー
座・高円寺1(東京都)
2021/02/21 (日) ~ 2021/02/23 (火)公演終了
満足度★★★★
演劇人育成プログラム「劇場創造アカデミー」の修了公演というと随分前、『大いなる平和』三部作(の第3部)を観て以来のことで、二作目。アカデミーの中身も内情も全く知らないので、演目に惹かれて観るには観るが、新たな門出をする俳優たちの晴れ姿にも幾分惹かれている。もっとも「劇場創造・・」なる存在の正体もよく判らない。パンフに紹介された講師陣は所謂「演劇」での第一線の面々多数で、けっこう厚い(新国立劇場研修所には及ばないが)。座・高円寺の態様もそうだが「劇場創造」という名称からして一捻りだ。座・高円寺の指定管理者がNPO法人「劇場創造ネットワーク」と言い、ここの初代理事長、及び劇場の館長を斎藤憐がやった(この劇作家は経営手腕も秀でていたらしい)。斎藤憐亡き今は館長に広告・コンサル畑の人、NPO法人代表はマキノノゾミ。「芸術監督」の方は当初より佐藤信で、館長が変ってから氏の方が劇場の顔的存在になっている。(斎藤憐もメンバーだった)出身である所の劇団黒テントてぇのがテントや独自な地方オルグで「劇場を作る」存在であったというので、演劇=思想の実践、ようは晦渋な印象である(私が観た佐藤信作品:近年の黒テント「絶対飛行機」「亡国のダンサー」、演出舞台は座高円寺プログラムで幾つか)。
という事を踏まえつつ、また一応「俳優養成所」(的な場)の成果発表である事も踏まえつつ作品を鑑賞。演出は独特でも内容は『ペール・ギュント』であった。『断片/・・』等と命名し直さなくても『ペール・ギュント』で良いじゃん。と。(「断片」化する主体、つまり研修生の個的な何かが反映されているだろうと勝手に予想したのだが割と普通(物語叙述)であった。)そもそもこの作品がペールギュントという超変わった人の「生涯」ではあっても各エピソードは断片と言えそうであるし。
まあそれはともかく・・舞台を観ながら思いを強くしたのは、コロナ禍という現状では、舞台上のどんな営為も現実との対比が意識されてしまう事である。優れた舞台と思える舞台には実世界との接触点がある。しかしコロナ禍下においては演劇をやってる事自体が「現状へのアゲンストな接触」を含む。
「ペールギュント」という一人の人間の人生(濃密で波乱万丈なそれとして描写された)を俯瞰する物語には、人間がどんな人生もその人独自の、交換不能(従って価値換算不能)なものであるメッセージ、究極人の運命は人自身で引き受けるしかないものであるメッセージがそこはかと漂う。「自由」という語に集約されるその「人生」のありようが、現在の息苦しさとの対照として意識された。
舞台の方は数少ない俳優(4人の研修生の内俳優3人と、卒業生が加わって10名程で役をこなし、なおかつペールギュントは場面ごとに俳優が入れ替わる。若い俳優ら(年齢幅はややある模様)は動きの負荷の中で、自然らしい躍動をもって物語を支えていた。
帰還不能点【3/13・14@AI・HALL】
劇団チョコレートケーキ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/02/19 (金) ~ 2021/02/28 (日)公演終了
満足度★★★★★
個人的に注目な俳優ぞろい、しかも紅一点に黒沢あすか(初お目見え)という思わせぶりな布陣に惹かれて観劇。無論今作のテーマも注目なのであるが、戦争を巡る議論の本丸とも言える「開戦に至る経緯」、古川氏なら骨太に書いてくれるだろうと、期待しつつも幻滅を覚悟で、よっしゃと足を運んだ。
すこぶる評判が良いので、逆に怪訝に思う。というのも、史実とその問題点に触れながら人間ドラマとしての着地ができた優れた舞台であったから。自分と世間の感覚はずれている、と思っているので「なぜ受け入れられたのか」と考え始めてしまう。
劇チョコは「あの記憶の記録」の2013年以来、だいぶ見落としたと思っていたら、ほぼ全て観ていた。振り返れば「エレジー」を例外としてどれも大きな歴史的事象を題材にした舞台。戦後囚われの身となったナチス親衛隊が罪と向き合う「親愛なるわが総統」、南京大虐殺の実行責任者として処刑された松井石根の罪の認識に迫る「無畏」、いずれも第三者的人物との対話から「罪」の焦点となる部分に迫るという、優れた「内省」の軌跡を描く劇であったが、今回は「総力戦研究所」(劇では開戦前1941年に若手エリートが集められ戦争遂行の実現性が検討されたという)の所員が戦後、亡くなった仲間を悼むために久々に集ったという設定で、それぞれの思いが交わる群像劇となっていた。
酒宴の中で「研究所」時代を回顧し、雑談の中で「問題」に触れて行く手法は、直接の利害関係人のいない日常感覚を観客も共有しながら話題に入って行く効果を持つ。
そうする中で、わずか10年前に開戦か否かを決するプロセスに(結果は同じであったにせよ)「関わった」事実の軽重が、各人各様にあるというあたりが見えてくる。
彼らは亡き仲間の追悼のために集まったのであったが、前半は「研究所」でみた風景の再現に興じ、日中戦争期間の軍と政府の「決定」の是非が話題になる。そして誰一人、開戦が勝利を導くとは考えなかったと言う。だが後半、会場となった料理店を営みホストをする亡き仲間の夫人を通して、生前の故人の事、そして集った者同士の近況、つまり戦後の時間枠へと意識が向かう。
劇の相をガラリと変えるのは、夫人とその「伴侶」となった故人との出会いとその後のエピソードの回想からだ。またどことなく伏線となっていた、故人と辛うじて連絡が取れていたという一人の広島体験の証言も・・。具体的な「死」の場面が、日本の指導者が導いた戦争による犠牲を想起させ、戦後の生の全てを償いのために捧げたらしい故人の姿から、焦点は戦後責任、即ち現在の自分たちの態度にシフトする。彼ら総力戦研究所(そのものが描かれているかは判らないが)の元所員が、政府の政策遂行者に対し何を為し得たのに何を為し得なかったか、歴史のifへの想像力が動員されていく。
現在、日本の過去の侵略的要素を含む事実が「不利」と認識され、現在の日本にとって不利であるゆえにそれを認める事を避けるべきだ、との合意がある。日本が侵略をしていない、とする認識は事実ではなく、虚偽事実が独り歩きしているが、これを選択する人は「日本に不利なことを言いつのって日本の不利を確定し、自らに利を誘導しようとするコスイ策謀だ」とする陰謀論で「敵」を見出して喜ぶ類。敵というものにしがみつきたい層が相当程度存在すること自体この社会の不健全さを表すが、あの戦争で他国民を殺戮した数には及ばないまでも百万単位の自国民の死者を出した事の方を問題にするなら、「学ぶ」べき事はもっとある。
「しっかり考える」という態度を持ちたいものだがこの作品は情熱をもって「あるべきこと」へ向かおうとした戦後間もない日本人の姿を映してもいた。
(歴史的には1980年代までの日本での戦争責任論は為政者の国民に対する責任を言い、他国への侵略行為の責任が議論されるのは後の事になる。)
鮮かな朝
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
青年劇場スタジオ結(YUI) (東京都)
2021/02/10 (水) ~ 2021/02/21 (日)公演終了
満足度★★★★
青年劇場と言えば新作上演が中心という印象だが、ここ数年演出大谷氏を迎えての“日本戯曲発掘”シリーズ(勝手な命名)が上質な舞台を実現している。(正確には不定期の「小劇場企画」が既存戯曲をアトリエで上演するシリーズのよう。)
だが今回は「古典」ではなく劇団レパの再演(1996年初演)、シナリオライター森脇京子の数少ない舞台戯曲の一つという。「時代が近いこと」が逆に時代的な不具合を来すケースがよくあるが、奇しくも作者がパンフで「当時と今とでは、様々な側面で状況が違っている(ので承諾を迷った)」と記している。全くの白紙で開演を待つ。
開演後暫く経ち、従軍慰安婦を扱ったドラマだと判る。「鮮やかな朝」というタイトルの意味に気づいたのは中盤の事(不覚..)。
終始暗めの照明の中に、半ば現実半ばファンタジーな世界が浮かぶ。中央に四隅を上から吊った四角い布が敷かれ、布の上下と、照明変化で場面が変化する。
登場人物は5人の女と1人の男、だが男は女が見る幻影として僅かに登場するのみで、これは女性の物語である。不要な役がなく無駄な場面がなく、最後に皆が愛おしく思える優れた戯曲である。
布の上にしか現れない艶やかな衣裳の娘(アイコ)は亡霊で、彼女と会話を交わす同じ衣裳の娘(ノブコ)は、時代が下るにつれ次第にボロをまとい老女となる。二人には仲間(確かヨシコ)がおり、子を孕んで失踪した。いずれも日本女子の下の名だが、「私たちの国」という台詞で、彼女らが異国人であり、朝鮮から徴集された所謂戦時性奴隷制の犠牲者であると察する。
暗転で二人が消えると、一世代下に当たる女子高生3人が溌剌と登場し、現実の場所としてそこが現われる。中で、向こうに見えるうらぶれた集落にも触れられ、朝鮮人部落か、もしくは「闇売春」をやる場所を仄めかす(そこにノブコが住み、あるいはアイコがそこで死んだ)。3人組の一人・里子が実はヨシコの娘でありその出自を後年知る事となるが、彼女を中心に据えながら、歳月を経て他の二人(孝子・弘美)共々変化を遂げて行く足跡が、最小限の場面と台詞で描出される。この筆捌きにより、1時間余の小品はヘビーな題材に触れたと言える濃密な劇世界を立ち上がらせていた。