実演鑑賞
満足度★★★★
イプセンの長編作のタイトルを冠した公演、主催者は舞踊の人と知りつつも、演劇(ドラマ叙述)の片鱗でも見られるかと期待したが、終始途切れなく真正の舞踊であった。
舞台全体が映写幕となる舞台奥上段ギリまで攻めた開帳場(斜面)で、モノクロ映像が断続的に流れ(裸体に字を書いたり正体の知れないものを食べたり)、ヘッダ役らしい三東女史とコロス的若手ダンサーによる舞踊も「相の変遷」があって、ドラマの時間経過が辿られてると見えなくない所はあるが、やはりストーリー叙述とは異質の「内面の発露」たる舞踊そのもの。ドラマトゥルク某とあるが難解であった。
つまり演劇の観客としてはタイトルは「ヘッダ・ガーブレル」でなくても成立する出し物であり、タイトルに期待した身には肩透かしという事になるが(このあたり作り手はどう考えるのだろう)、逆に身体芸術としての快楽があったか否か、という観点で言えば、三東氏の身体能力は見られるものの、情緒の瞬間的爆発、あるいは身体美が発露する快楽といった瞬間には出会えず。
淋しいのは娯楽的=笑いの要素の無さ。悲劇の中にあっても人間はその合わせ鏡に滑稽さを擁するもので、遊びのある踊りとは(素人意見かも知れぬが)豊かなものに思う。
客席の多くは舞踊界隈の人と思しく、やはりそういう出し物であったのかな、と。