tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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クリキンディの教室

クリキンディの教室

電動夏子安置システム

駅前劇場(東京都)

2022/03/02 (水) ~ 2022/03/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

やはりこの作風が電動夏子、なのかな。それとも近年この感じに? 面白い。そして色々穴もある。しかし楽しい。突っ込み入れたくなるがそれも含めて。
後日突っ込ませて頂く。

ネタバレBOX

何年か前に初観劇した、見た感じではアラフォー(今回の印象)中心の劇団。その後は機会がなく昨年の「ベンジャミンの教室」を久々に、配信で観た。今作はその別バージョンと言える作品。前作は税務署の外郭的活動グループの啓発活動を外枠に、その活動に参加する各人の個人的な動機や事情がエゴイスティックに炸裂する荒唐無稽なお話。小学校での出張サービスがその各人の「発表」の場だが、ハプニング続き、一方その裏側でも事態が動き、諸々が絡みあって最後に何となくベターな結末を迎える。
今回は小学校教員がSDG'sの教材というか授業企画を話し合う職員室で、桃太郎を題材に教化プログラムを作ろうとするが、個々人の意見が取り入れられて歪な代物になって行く。その過程で各人の個人事情が吐露され、その場にいなくなった教員への疑惑も持ち上がり、解決されて漸く「本題」に戻り、歪な怪獣のような教材の台本が演じられて幕となる。SDG'sに取り組むことの虚しさ滑稽さを暗にくすぐっているように解釈できるのだが、どうなのだろう。普通に小学生に「あんたら馬鹿でしょ」と突っ込まれて文句の言えない「桃太郎」教材は、それに見合う各人の特殊な個人事情、突進型や曲解型といった極端な性格の描写が要求され、それをやってるのが電動夏子と認識するが、戯曲の「謎解き」の中身は「根は悪くない人達」である事の証明に割かれ、ハッピーエンドに着地する。自分の好みを言えば、もっと毒を残して行っていい。回収し切れない毒を。
蜃気楼を抱け!

蜃気楼を抱け!

アトリエ・センターフォワード

OFF OFFシアター(東京都)

2022/03/03 (木) ~ 2022/03/10 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

なぜか分からないが、親近感が湧く。主宰のキャラのせいだろうか、何だろうか。芝居も面白く観た。100パーを振り切るかに思えた前半から、後半若干停滞も感じたが、好感の持てる舞台であった。
難点と感じた事から挙げると、選曲がいまいち。あと、幼馴染の二人が他の二人の仲間との思い出を語る、しんみりさせる場面の筆運びが・・もう少し。
だが現在の半ばリアルな社会観を逆手に、金を得る当然の権利を行使する居直り、詐欺をやる決意の悪びれの無さ、私には痛烈な皮肉で社会批評である。近年若い書き手にも多い「お利口」「良い子」な規範意識とは異なり、金、金で突き進む。義理人情も出てくるが、良識や遵法意識の要素は排している。という事は全編が痛快なわけで。

薔薇と海賊

薔薇と海賊

アン・ラト(unrato)

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2022/03/04 (金) ~ 2022/03/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

三島由紀夫戯曲を観る貴重な機会(これでやっと4作目か)。引き込まれて観たが、最終的な着地はどこに?主宰・演出はこの戯曲をどう読んだのか、関心は何にあったのかが見えなかった、というのが舞台の印象。後日詳述。

ネタバレBOX

大河内直子ならではの役者陣で、今回臨んだのは三島由紀夫の異色作、と言って良いと思う。三島のナイーブな内面を筆に乗せたような世界で、三島が志向し理想として追い求める「純潔」を、俗物性の対比で結晶化させようとした作品とも見える。
であるために、この物語の中で完全に「浮いた」存在である主人公楓(女性童話作家)と八歳の魂を持つ三十歳の青年という「性欲を介しない」二人を、現実離れした不毛な関係として「否」を突きつけるのか、人が理想を追い求める心を思い出させここに改めて提起するのか、難しい選択に迫られる。
作者自身は大真面目に、二人の純潔の関係を讃える意図で書いたようである。それは最後に青年の勇気の源である短剣(楓の童話に登場するヒーローの少年が持つ)を「敵」の手から取り戻すために、作家を慕って奉仕する老女と老人の「幽霊」を登場させ、敵の目をくらまして童話のように「正義が勝つ」世界の具現に貢献する、という場面に表われている。
だが、この場面は「この一瞬の美で全てが満たされる」場面とならなければならない。時間は無惨に経過し、一瞬の美は時間によって色褪せる。時間に浸食されない「美」を二人の間に想像ができないのだ。(舞台処理によってそういう演出は出来るのかもしれないがこの舞台は違った。)
本舞台のラストでは、「正義が勝った」末、結ばれた二人の周りで童話の登場人物らが舞い踊るが、その時間の「その先」を我々は想像している。そして終幕寸前、演出は舞台前面に素早く紗幕を下ろし、華やいだ世界が凍り付き、モノクロに色褪せた恐ろしげな室内を一瞬だけ見せ、暗転する(終幕)。
つまり、二人の理想の関係は「死んだ」に等しいものであり、印刷された本の中でしか存在できず、現実に置き換えたが最後、時間経過によって腐ってしまう。それは「常識人」である我々観客の感覚でもある。
だが、開幕以来執拗に説明されてきた二人の純潔性、俗物の鼻をあかす二人の世間離れした特質にこそ、作者は勝利を与えたかったのではないか、という感触が終演後も残っている。
三島由紀夫の見果てぬ夢を「夢だった」と宣告するための舞台だったのか、これは?という考えがよぎる。
プルーフ/証明

プルーフ/証明

DULL-COLORED POP

王子小劇場(東京都)

2022/03/02 (水) ~ 2022/03/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

後で調べると本作はDULL-COLORで何度となく上演されている。2009年初演?では、今公演Bバージョン中田氏が出演(パンフに「オーディション以外にもこちらからオファーした人もいた」とあるのはこの人か..)。以前、風琴工房で詩森氏翻訳による本作を観ていて、今回2度目だ。その時は台詞に付いて行けない箇所があったのと、脚本の落とし所が若干気に食わなかった微かな記憶が..。Aバージョンの「プルーフ」を観ていてその原因が奈辺にあったかを思い出し、そして芝居は満足できるものだった。
当パンの谷氏挨拶によればA~Cバージョンは「演出」が異なり、Bはガラステーブルのみの抽象空間、Cはリアル空間、Aは木製チェアと台と枯葉、とある。その線で言えば風琴のバージョンは洒落た抽象空間で演じられた「高踏遊民の話」とでも。さて今回の舞台は・・。

数学者だった父とその娘の物語。他には娘の姉と、父の助手である青年が登場する。青年は父の生前一度娘と会っているが、今回対面し、改めて彼女を思う気持ちを芽生えさせている。父の才能を遺伝的に受け継いでいる娘は、精神の病をも受け継いでいるのではないかと恐れている。父の遺した膨大なノートを調べに自宅を訪れた青年に、彼女は徒労だと言う、「得るものは一つもない、私も見たから」と。父の死を聴いた姉も遠方から戻って来て、彼女にニューヨークに来ないかと勧めている。邸を売り払い、忌まわしい土地を離れるべきだと言う。姉は妹の父譲りの「異常」な性質を肉親として知っていて、医者に診てもらうのが最良だと考えている。まずこの姉との間に、娘は断絶を覚えている。さらに青年との間にも。娘の中では、数学の才能において助手の男との間に内的な葛藤がある。葬儀の夜、彼女は青年との間で悶着を起こすが、彼への疑惑が百八十度逆の答えとして返って来る。彼女は泣く。後日彼女は男の恋心に答え、その後ある「秘密」を男に告げる。家に籠っていた晩年の父が何か貴重な数学的着想を残していないかと期待に膨らんだ青年に、父の机の引き出しの鍵を渡してそこに入っているノートを取り出せと言う。姉もいるリビングに、暫くして男が血相を変えて飛び込んで来る。凄い発見がそこには書かれていると言う。彼女は、実はそれは自分が書いたものだと言う。父を看病する期間、合間を縫って数学的閃きを綴ったノートだと。姉はこれを妹の虚栄心の表れ、又は数学の道を諦めない往生際の悪さ、姉に同道してニューヨークに行かない口実、といった意味に取り、最初から疑惑の目をギラギラと向ける。一方青年は、年端も行かない女の子だった頃を知っており、今もまだ女学生の年齢である彼女が、数学の才能を持ち合わせている事などあり得ないと考えている。自らは天才的閃きを持たなくとも、天才の業績の評価眼は持っていると自負する彼は、尊敬する亡き師の全盛期に匹敵する数学的発見がここには書かれてあり、君にはとても出来ない事だと告げる。
後日談は省くが、ここにはその数学的な発見が一体何であるかは一切書かれていない。以前観た「PLOOF」に対する不満はそこにあった事をぼんやりと思い出す。だがこの物語のテーマは、真実はどこにあるか、ではなく、実証しえない物を巡る人間の態度のあり方について、である。言わば「信頼」に関する寓話。
ただし、「芝居」は要求する。役者が具現する数学者らしい振る舞い、若き日に開花した頭脳との折り合いに失敗し精神を破壊した者らしい姿、またその内的生活の姿、そして数学に取りつかれそこに美を見出す至福を知る者だけが持ち得る、共感の表出である。これに迫るのは役者の仕事であって、この脚本の舞台に満足できるか否かがそこにある、そういう種類の作品に思える。Aバージョンを演じた役者諸氏に、敬意を表する。

夜叉ヶ池

夜叉ヶ池

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2022/01/22 (土) ~ 2022/03/05 (土)公演終了

実演鑑賞

ふじのくに21→22最後を飾るのは宮城聰演出、棚川寛子音楽のこの演目。泉鏡花の著名な作品だから以前読んだアレ、と思って見始めたが、小説「高野聖」と勘違い。「その口になってた」のでやや落胆であった(勝手にしろという話だが)。

長の別れを惜しみつつの観劇(また訪れるとは思うが..)。さすがと言える出来ではあり、あっと言わせる演出、小気味よい場面、溜飲を下げる場面とポイントを稼いでいる。だが「厳しいな」と感ずる部分もあった。

第一はこれ、マスクの着用。ステージと客席の距離からすれば通常はマスク無しで問題ないはず(厳密には、発声により微小飛沫が生じれば2m離れてようが飛んでは行くのだが)。「表現」の点からすると、マスクをつけても声はよく届くものの、障害は半端でない。言葉は正直聞き取りづらく、それ以上に表情が見えないのは決定的だ。本当は見てほしいんだけど・・と目が言っているのが悲しい。
以前も書いたが地方における対コロナの許容ラインは恐らく都会よりシビアに違いない。だが感染リスク・ゼロ信仰を乗り越える事なしに日本の今後は無い、という事を考え合わせつつ、また客席はディスタンス無しに入れている事も考え合わせれば、別の判断は十分にあり得る。
感染防止の最大の武器は換気で、これによってマスク縛りを乗り越える事を考えてほしい。観客・市民と話合いを持つことができないのかとも思う。
たきいみき演じる池の白雪姫だけは、艶やかなマスクを外す時間がある。だが、チラ見せでも相貌が見える事が「貴重」という価値観は妙なものだ。マスク無しで一しきり動きを演じた後、台詞のある場面に戻り、思わず喋ろうとして従者に止められ、「そうじゃった」という無言のやり取り、マスクをつけ直して台詞を言う、というくだりが笑いを取っていたが、私は笑えなかった。演劇人の「敗北」に見えてしまうのである。

第二は、最終場面からコールに行く所。私は宮城氏はどうかしてしまったのかと思ってしまった。
純潔な二人の男女が最後に非業の死を遂げ、舞台中央で折り重なるが、紗幕の向こうにスポットで二人を照らす中、フェードアウトせずに舞台前部分に白い明りを入れて、二名以外の役者が登場し拍手となった。だが一旦そうした後、役者がはけると明りが落ちて、元の暗がりが出来、奥の光だけうっすらと照っている。つまり、コールを挟んで本当のラストは次に来る、という雰囲気になる。当然二人を照らす明りがついに落ちて終幕、となるだろうと思っていると、またコール用のまぶしい明りが入り、「同じように」役者が袖から、2コールを呼ばれたような顔で出てくるのだ。え?と思う。まだスポットは二人を照らしている。「頼むから終わらせてくれ」と思い、もう一度待つ。ところがやはり消えない。
拍手をする観客の側から言えば、最初に役者がコールに応じて登場した後は、拍手をしていた手は当然止めず、「本当の終幕」を待っている。ところが役者が満面の笑みで出てくるものだから、ああ、と思って拍手をしてしまう。それで引っ張って引っ張って、結局4コールぐらいやった後、二人を照らしたライトが消える。
演出としては紗幕の向こうを時間の止まった「絵」のようなものにしたかったのだろうが、私には「絵」に見えなかった訳である。絵画化するにはもう一つ何かが欲しく、それが無くちゃ認めないぞ、というつもりはないのだが、動き出しそうな感じがするものだから、そういう形は早く闇に溶かして欲しいと思ったのだな。恐らく「形」の問題だろう。

新平和

新平和

烏丸ストロークロック

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/03/03 (木) ~ 2022/03/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

広島発、作演出をストロークロックの柳沼氏に委託した合同公演の格好だが、一言でその特徴を言うならローカルな、リージョナルな、である点。チエ子という老人が介助担当の青年を伴って平和公園を散策しながら、生い立ちから戦争、原爆、戦後を丁寧に回想し再現していく構成。原爆投下、被爆者の存在、非核三原則といった従来全国区のイシューであったものが今、地方の生活圏域から、郷土史的視線から、光を当てられる時代なのだと思わされた。風化の現実を感じる反面、この舞台の目線が持つ強度は、人が想像し得る「時と場所」がある事に拠り、「具体」が持つ底力に釘付けになる。それでいて「抽象」即ち歴史を俯瞰する視野が確保され、安易に物語に回収させず物語を超えて迫って来るものがある。

甘い傷

甘い傷

一般社団法人横浜若葉町計画

WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)

2022/03/03 (木) ~ 2022/03/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

5年前龍昇企画で上演された作品で配役も重なっている(7人の内3人)。とは言うものの演出西沢栄治、今回出なかった俳優に外波山文明、藤井びん、様変わりと言える。
コロナの間に様々な描き手が白壁に絵を描き込んだ若葉町wharfの企画公演として、参与の龍昇が持ち込んだと思しい本作には横浜縁りの中山朋文(ヨコハマヤタロウに出てた人ネ)やTOKYOハンバーグ舞台で目に馴染みの小林大輔、若い役は若いのが演じ、オールメイルで女役二人も本域で演じ、しっとりと趣きある芝居であった。個人的にハマったので星5つ。

RENT

RENT

桐朋学園芸術短期大学演劇専攻

俳優座劇場(東京都)

2022/02/27 (日) ~ 2022/02/28 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

桐朋学園学生による「RENT」。在学二年の卒業公演でこの大作にどれほど迫れるのか・・客席に座りながら、早くも本作の名曲、名場面の現前を待ちかねる私。
17:30整理券配付開始、番号を呼んで列を作り、順次入場というテント芝居で見かける手順をロビーで行ない、キャストの家族知人や学生ら観客の熱がロビーから会場に満ちている。
18:30開演。バンドマンの入場、声が飛ぶ。楽器のチェック、そしてキャストの入場。ライブの流儀で観客も出迎え、開幕は申し分ない。
終わってみれば、未熟さは多々あれど見事に「RENT」を見せられていた。

ネタバレBOX

個人的なツボは、一幕後半のモーリーンによる長尺パフォーマンス(映像で観るオリジナルRENTのは文化の違いか、楽しめないのが憾み)。
どうしてもオリジナルを追いかけて先走る。一幕終り、テーブルが横一列に並ぶのを待つ。作者ジョナサン・ラーソンが火を吐くようにボヘミアン的自由の希求を謳うLa Vie Bohemeの序奏に鳥肌が立つ。開幕と同じく二幕の始まりも出演者のカジュアルな登場、キャストが一列に並んで歌うSeasons of loveから始まる後半のドラマは若者たちの苦難の季節。ヘテロのカップル、ロジャーとミミは純粋を求める若者ならではの屈折に加え、ミミの病気と薬物依存による衰弱という背負いきれない重荷がのしかかる。レズのジョアンヌは美貌のモーリーンの奔放さを受け入れられず始終こじれ、互いを孤独にする。「人に与える事」しか知らなかったゲイのエンジェルは病状が悪化し、コリンズの長い看病に関わらずついに逝く。友を失った彼らは追悼の歌をブルージーに歌うのだが、悲しみにあってもまだ明るさがある。エンジェルは天国で一切の悔いなく存在していると確信させる、という事だろう。本当の意味で彼らに暗い影を落とすのは、彼らのたまり場である元レコーディングスタジオをRENTし、自由を生きる仲間を映画に撮る主人公マークが夢ついえて現実に妥協し、不本意な職に就くという、現実への「敗北」を象徴する部分。理想を捨てた瞬間だ。
タイトルのRENTには、舞台となる賃借する部屋の意を超えて、夢を追う者の宿命=貧乏ゆえ家賃不払いが常態化していてもそれは自由に生きる権利の前では些末である、という含みがある。街のホームレス排斥に反対の声を上げる行動(モーリーンのパフォーマンスはその集会で披露されたもの)にも通じる。舞台ではコロス的に歌を支えたり呼応する他、ホームレスや寄る辺ない者として時折登場し、街の風景を作るが、これが中々効いている。
マークは一度は引き受けたレポーターの仕事を止める。最後のエピソードは離反したカップル、ロジャーとミミの再会。ホームレス化し倒れていたミミをモーリーンとジョアンヌが運んで来る。冷え切った体を横たえた台でロジャーはミミに語りかけ、離れている間ずっと作っていたと言う彼女への歌を歌う。息を吹き返したミミは天国(夢)での出来事、エンジェルが現れ、ロジャーの元に戻って彼の歌を聴いて上げてと言われた事を話す。
全力で演じ、歌う彼らのスピリッツが伝染し、涙涙の観劇となった。音を外したり、群唱ではハモりパートが弱く主旋律ばかり聞こえたり、と見ながらの不満は多々あっても、音程を感情に優先させる箇所が全くなく、人物を「演じ」続けていたのは好感。「RENT」の世界を丸のみさせてもらった。
桐朋のミュージカルを担当する信太美奈氏は約20年前同じ肩書で拝見したが、まだ続けておられたとは。学生と同じ目線で舞台作りを指導・演出する様がパンフの挨拶にも滲み出ていた。
Speak low, No tail (tale).

Speak low, No tail (tale).

燐光群

新宿シアタートップス(東京都)

2022/02/18 (金) ~ 2022/02/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

幅広い燐光群の作品でもカテゴライズしにくい異色な系譜の中で光っているのが10年以上前、沢野ただし(作品及び本人)に題材を取った『放埓の人・・(長いタイトル)』、これに近い空気を期待して足を運んだ。通ずるものあり(自分の中では)。
戯曲は作家である小沼氏に発注したと言い、観劇後に見たパンフには三作がクレジットされており、あれらは別作品であったと知る。もっとも小沼氏の文章には、坂手氏に渡した戯曲以外にも過去発表した散文や何かまでコラージュされていて驚いたと書いてある。
異なるエピソードが交わらずに並行するが一つの作品として納得させる坂手氏の腕は健在。生起する現象はシンプルだが、多くの要素がひしめき、擦れ合って熱を発している。

ネタバレBOX

一つ不満を挙げるなら、JAZZ喫茶に流れる音楽が数曲にとどまり、次はどんな曲が・・という期待が途中から無くなってしまった事。正確には、終盤でいきなり新曲を流して「伏兵現る」と客を喜ばせてくれるかも・・という期待はちょっとだけあった。
リアルな場面を作るなら、無尽蔵と言って良いJAZZ音楽なれば、日時が変われば同じ曲が流れている方が「珍しい」訳で、この舞台では常連客の顔ぶれと場面の性質で曲が決められていて、場面描写の小道具としてでなく劇伴に用いられたというのが、不満の中身である。
が、劇中に紹介される「ミニマルミュージック」が、実は反映された(とパンフにあった)劇構成に即して、数曲が繰り返される効果をとったというのが実際なのだろう。
ミニマルミュージックの要は「繰り返し」。ご興味の向きはスティーブ・ライヒをぜひ。
不思議の国のアリス

不思議の国のアリス

文化庁・日本劇団協議会

ザ・スズナリ(東京都)

2022/02/23 (水) ~ 2022/02/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

流山児委託劇団協公演ちゅう事で、あとCHAiroiPLIN「FRIEND」を痛恨見逃したリベンジ的な意味で、拝見。そう言やスズキ拓郎氏演出の舞台は久々で、氏のエンゲキの「過剰さ」が苦手な回があった事を思い出すが、真逆に絶賛する向きも必ずいて、感性の違いを如実にあぶり出す所が興味深かった事も思い出した。
恐らく「過剰」の理由は、舞踊作品の場合であれば物語の抽象化によって大胆に「抄訳」されるのに対し(上演時間も短くなる)、拓郎氏の欲するエンゲキでは、戯曲に即して進むところへ舞踊の要素が追加盛りとなるため、ボリューミーになってしまう。舞台上の意味的な重複が生じている感じというか。。
ちなみに冒頭は戯曲のト書きにある作者の哲学的な文言がリフレインされる、おかしげなムーブが秀逸で期待感は最大値に。
だが別役実の多登場人物の戯曲(初期作品)を、クロスオーバーなアレンジで通すのは一筋縄では行かない。別役戯曲を「借りた」舞台にはなっても、戯曲そのものの魅力が表現されていたかどうか。。
声から特徴ある丸山厚人は、以前くちびるの会だったかに出演した(共演に確か橘花梨が居たような)時初めて観て、なかなかのインパクト、はまり役(アングラ系?)を与えればいい仕事しまっせな風情だったが今回はどうだったか。装置演出諸々、アイデア豊富で気張っているのに、それぞれが今一つ「活きない」後手に回った印象を残像に残して行くという塩梅で(それがため声量のある丸山氏が悪目立ち?)、ただただ役者たちは走り回り動きをこなし、沈没せずにどうにか航海し終えたという所。
ラストに向かっては紅日女史が長く登場して本領発揮、色彩の統一感が漸く生まれ、「終わりよければ」と相成る。だが肝心の物語の方はいまいち伝わって来なかった。「核が見えない」というのが言い当てているだろうか。

拓郎氏的には、安部公房「友達」の後の別役初期作。不条理劇の土壌を用意したとも見える安部公房の「友達」を、別役氏はかつて詳細に分析して「不条理劇が目指されているのにそうなっていない」(意訳)との批判を展開したが、社会の不条理を映した「友達」(ストーリーがある)と、別役戯曲の構造自体が持つ「不条理」とは次元が違い、要は難しい。・・正確に言えば、私が望む別役戯曲の理想形にするには、難しい。

【2月27日まで上演中】夜を治める者《ナイトドミナント》

【2月27日まで上演中】夜を治める者《ナイトドミナント》

お布団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/02/11 (金) ~ 2022/02/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

このユニットにもやっと初お目見え。予想していたより「演劇」の形をしていた。抽象性との接続は舞台装置、音響、テキスト映写等により風通し良く確保され、俳優の「普通の演技」がそれと対照的に感じさせるが、言葉の正確な伝達を優先しているためか。アート志向や静かな演劇が、台詞を「聞こえなくても良い」くらいの自然主義でやり勝ちなのとは一線を画し、好感が持てる。即ち、議論の前提である明快な自論の提示があり、言葉によるレスポンスが歓迎されている態度が伝わってくる。
対象に関心があって行う意見の交換は、異論を全く拒否しないどころか喜んで受け入れるのに対し、自分が正しかったり優れている事を示したい欲求のために対象を利用し、成果を誇示する一方通行のコミュニケーション(演劇で言えば小難しく批評しづらい作品を作り込んで悦に入ると言った感じ?)では、当然議論は好まれない。
民主主義という制度が利益誘導のための代表を送り込む制度だと理解されている「公共精神の薄い」日本では、「優れた結論を導くプロセス」という最も大事な機能の価値が顧慮されないのと、意味的に通じるものがある。
さて舞台に対する応答は、また改めて。

オペラ『あん』

オペラ『あん』

オペラシアターこんにゃく座

俳優座劇場(東京都)

2022/02/10 (木) ~ 2022/02/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

約一年、待ちわびた舞台。
樹木希林主演の映画を観、ドリアン助川の原作小説を読んで珍しく周囲に勧めたりなんぞしていた作品が、意外にもこんにゃく座のオペラになる。想像もつかないが寺嶋氏に作曲を委託、上村氏を演出に招いた事から本気度が伝わってくる。完全2チーム制、「どら組」の最終日を押えていたがついにその日が来た。
「どら焼き~ いかがで・す・か。」、やる気の無い男の売り声。同じ呼び声のメロディを歌うコロスの中学生らによる、しょぼい店の紹介で笑わせてから、物語の中心人物・徳江さんは早くもやって来る、アルバイト募集の紙をその手に持って。「あまり美味しくないという噂も聞いた」と言って自作のあんを置いて行くがこれが絶品、やさぐれ店長は「このあんこで借金に縛られた生活から抜け出せる!どら焼き屋から解放される!」と夢見顔。「焼きそこない」の皮をもらいに時々訪れる中学生のワカナも味見してびっくり。「でもあのおばあさん、指が少し曲がっていたな。」「気にすることないよ。」「そうだあんこだけ作ってもらおう!」
軽快なこの序盤からこみあげてくる。人生に躓いた店長の千太郎と、母一人の片親家庭の苦労を背負うワカナに、訪問者・吉井徳江を受け止める素地を微かに見出す。二人の何気ないやり取りが静かに、ふつふつと物語を歌い始めるのだ。
創立50周年第2弾の「ドン・キホーテ」(2021)にも、湧き起る憤りがあったが、本作では怒りの向けどころのない内腑を抉る「事実」から、自らの人生の答えをまるで奇跡の賜物のように見出した徳江という存在との、二人の出会いの悦びが歌い上げられる。もちろん徳江の「奇跡」が輝くのは果てしなく長く深い絶望があったからなのだが。そして今尚差別の残る社会への憤りと、無力でちっぽけな自身へのやるせなさに嗚咽する千太郎に自分を重ねている。
詩が好きで国語の先生になるのを夢見つづけていた徳江さんならではの人生賛歌は、ハンセン病(隔離政策)という受苦から生まれ、全ての人間の生に桜の花のように降り注ぐ。明確なイメージを伝える演出、台詞、音楽であったが、今回はもう一つの組(春組)の千秋楽も観るという贅沢をさせてもらった。比較しての感想もいずれ。

ネタバレBOX

50周年記念第三弾、作品への暖かい眼差しと高揚が漏れ出る各人のコメント(主宰萩京子、作曲寺嶋陸也、作者ドリアン助川)の中で、萩京子がこんにゃく座のオペラが持つ「台詞を旋律をつけて言うことのおかしさ(違和感)」はずっと課題である、との趣旨の言葉があった。事実、その台詞、メロディーいらなくね?と思った事は過去数知れず。そして作品中、素の台詞を言わせる部分があったりもする。決して確立された芸術ではなく、未だ模索中との吐露に大いに納得した。
今作は初めて「庶民」にスポットを当てた作品なのだそうだ。寓意性の高い作品と異なり、リアリズムに裏付けられた抒情、心象風景といった要素が大きいことは理解できる。そして、ここから「どら組」と「春組」の比較の話になるが、
私が最初に観たどら組(千太郎=高野うるお、ワカナ=高岡由希、徳江=梅村博美)にはリアリズムの風が吹いていた。高野うるおは役者としての性質もありそうだが、押し出しの無い歌、台詞の表現が、苦節を舐めた半生を背負う風情にぴったりであった。梅村は老女を演じるに相応しい風貌と声でリアルに人物像が見えてくる。言わば通常の芝居で配役をしたらこうかな、という範疇に収まっている事が、この場合味方をしている。徳江の人生に千太郎が触れたその接点からリアルに、自然に湧き上がるものを、高岡の多感な感受性で受け止める関係が舞台で成立している。寺島氏の楽曲は、そうしたリアルの土台に乗っかって、台詞を言うように、楽曲の抒情性をむしろ抑制して歌われているのである。これは比較によって明確に感じられたことだったが、ストレートプレイに限りなく寄せた歌芝居のカタチは、萩京子の言う「台詞を旋律で言うこと」の新たな挑戦の成果と受け止めたのだった。
対する春組の千秋楽。老女の徳江(青木美佐子)が若すぎる(声も)、という憾みは、前日観たどら組との比較によるのだとしても、違いは明白だ。島田大翼のやさぐれ具合はポイントを締めて笑いも起こすが、失意の前半生がさほどダメージになっていない、少し元気な千太郎。一方飯野薫のワカナはやや控えめなキャラが原作に近いが、印象は薄くなった。従って、物語を推し進めるのは楽曲。コロスが元気に強力なハーモニーで場面を締めるが、その分だけ従来のこんにゃく座オペラの雰囲気になり、どら組のようなリアリズムの風とはそこが決定的に違う。春組がよく表現できていた場面もあり、脚本と音楽により終盤に至っては物語に十分浸れたので、どちらが劣っているという事は言えない。だが、芝居が持つ蠱惑的な魅力が「リアル」にあることを改めて思わされる。自分が新鮮に、深い感動をもって味わったのはどら組だったがその理由を以上述べてみた。
転校生

転校生

青年団若手自主企画vo.89 山中企画

アトリエ春風舎(東京都)

2022/02/18 (金) ~ 2022/02/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

かねて話題の「転校生」を初観劇。もっとも女生徒の人数が圧縮され、男優3名程が女生徒役に加勢している。
学校の教室は「静かな演劇」とすこぶる親和的だと改めて実感。男優の起用は後で邪魔にならないかと序盤に懸念が過ぎったが、うまくロールをこなし、戯曲の良さがほんのり滲んで来た(平田作品にある独特の匂い(少し苦手)がこの舞台には何故か感じられなかった)。

ネタバレBOX

今回の出演者数をみると初演版だろうか、2007年SPACでの飴屋法水演出版では21人。その後本広克行氏がやったのも同じだから21人バージョンがその時出来たのだろうか。飴屋氏の実質舞台製作の復帰作になったこの上演の成功は考えてみれば「ブルーシート」での独自な劇作りの下地となったのかも知らん。
冒険者たち~JOURNEY TO THE WEST~【大和公演、厚木公演中止】

冒険者たち~JOURNEY TO THE WEST~【大和公演、厚木公演中止】

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2022/02/08 (火) ~ 2022/02/16 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ちょうど一と月前に観る予定の芝居(ロッキーホラーショー)がコロナ陽性者のため中止に。。同じKAATでやる「冒険者たち」のチケットをふと見て「まさか痛恨のダブり?」と焦り、あ、一方が中止でラッキー、と安堵したが、こっちは一か月後の上演であった(1/15×→2/15)。
そんな事で待ち焦がれた公演であったが、感想は微妙。神奈川県下の公共劇場を巡演するという恐らく一度もやっていないKAAT新芸術監督長塚氏ならではの企画で、お話はガンバの、でなく「西遊記」のそれ。ポイントは神奈川との縁が作らせた舞台である点で、達者な役者の八面六臂で愉快な芝居ではあったが・・。

ネタバレBOX

西遊記の一行が何故か「現代の神奈川」に流れ着いた設定で綴られる県下の各所を巡るロードムービーならぬ旅芝居で、奇想天外この上なしであるが・・本音の感想は巡演が終ってからゆっくり書いてみよう。

・・・と公演終了を待ったがだいぶ忘れてしまった。神奈川県の殆ど任意に選んだ「名所」「名物」にスポットを当て、エピソードを語る「旅」の芝居で、要は「神奈川」に寄り添った中身であり公演であるのだが、なぜ神奈川か、なぜ県単位か、引いてはなぜ「そこ」なのかの説明はない。「こんなのに説明なんて要るか?」と言われればそれまでだが・・。地域には歴史の影が生活に何等かの影響を与え、特有の「問題」を抱えるもので、地域を描くとは本来そういったものだが、その奥行がないとどうなるか。「現在」という一瞬を切り取った断面の、その中のたまたま選ばれたポイントを、写メで撮っただけの描写になる。旅客の「人生」に深く影響を及ぼす要素として「地域」が機能する訳でもなく、ただこんにちは、さようなら、後に何も残らない浮薄な観光旅行をなぞっただけの話。実も蓋も無い言い方だが、要はそういうものである。これはちょうど、日本で五輪が開催になる、やった!というのと同じで、西遊記の一行が神奈川に立ち寄ったってよ。やったぁ。そんな感じ。
子どもはこれ、喜ぶのかな~、大人が自分の中に見出す「子ども性」ではあるかも知れない。が、私にはこれ、「幼稚」にしか見えない。子どもってのは、幼稚性から脱却しようとしてる存在なんじゃないの?
まあそんなむず痒い感覚にしばしば見舞われる舞台であった。外から目線で神奈川県民を「慰撫」してる感じも覚えた。ただ、ピンポイントなスポットに少なからぬ所縁を持つ人にとっては嬉しいものなのかも。
中島鉄砲火薬店

中島鉄砲火薬店

文化庁・日本劇団協議会

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2022/01/20 (木) ~ 2022/01/27 (木)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

劇団協の育成事業公演で新国立劇場とは恐らく初めてだが、価格帯が高めなのはそのため?
(公益事業に公共劇場が貸すのに何故高くなる・・日本の「公共」は今や有名無実、高速代、電車賃は高くなって当然な先進国などあるだろうか?笑うしかない。)
それはともかく。
以前より目にしていた作演出、御笠ノ忠次改め。プロフィールを見ると思いの外若い御仁。演目は自身の10年近く前に上演した時代物で新撰組の残党の一人がひっそりと一庶民の人生を送る浜松の家とその庭に、因縁ある他の残党共や謎の人物らが出入りする。開花前後の動乱の中での斬った張ったのノリと、平和な日常の空気とが交錯する所が「笑」を織り込める設定となっているが、笑のための押し出す演技は得意でも、引いた部分でリアルが醸されないので(脚本のせいか演出かは判らないが)所詮荒唐無稽な部類だろうと見てしまう。後はポイントでの笑いで持たせ、終局で見えてくるストーリーに比重がかかって来るが、主人公の「生」に対する無頓着にも見えるこだわりに、一本筋が通って見えてくるのは見事。脚本の力と思われた。が、不要な要素も多く、対コスト(値段はともかく時間)的にはさほど得る所がなく思えたのは映像鑑賞ゆえかも知れない。

女歌舞伎 さんせう太夫~母恋い地獄めぐり~

女歌舞伎 さんせう太夫~母恋い地獄めぐり~

Project Nyx

ザ・スズナリ(東京都)

2022/02/06 (日) ~ 2022/02/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

このかん色々と観劇チャンスを逃し、久々の舞台鑑賞は下北沢でのこちらを選んだ。冒頭の津軽三味線を思わせる導入に萌えたのもつかの間、衣裳と言い発声と言い現代的(衣裳は和風にわざわざビジュアル系な要素をしこたま仕込んでいる)、演技も唐十郎芝居なら叫びの中に詩情が漂っても来ようがもう少し細やかな演技を見せて呉れぬものか、と少しばかり「選択」を後悔し始めたのであったが、よくは知らなかった話(通してみてああそんなだったと思い当った程度)が国を跨ぎ星霜を重ねる壮大な物語である事が予感された半ばあたりからぐいぐい物語の力に引き込まれて行った。
髙橋竹山の彷徨の物語を思い出す。英国ならオリバーツイスト、仏作品では巌窟王、長い苦節の時を経て日の光を見るという人生の時間感覚は、この時代には一層「物語」の中以外に見出しにくい事を感じ、拍手の手も強くなった。

いらないものだけ手に入る

いらないものだけ手に入る

兵庫県立ピッコロ劇団

ピッコロシアター (兵庫県)

2021/10/09 (土) ~ 2021/10/14 (木)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

ピッコロ劇団は「かさぶた式部考」か「常陸坊海尊」のどちらかを東京で観たのが唯一で、今回配信情報をたまたま目にした。土田英生による気になるタイトルの作品(演出も)という事で拝見した。ロミジュリのモチーフを借りつつ、地球外に作られたコロニーのとある喫茶店を舞台に「民族対立」の帰趨を描く。遠くに地球が見える。地球では35年戦争というのがあって(ナウシカの「火の七日間」みたいな?)、それ以前の歴史はかなりあやふやという設定で、その後生まれた民族の一つである「コチ」と「マナヒラ」が今地球では戦争中。コロニーにも二つの民族の末裔が居るが、民族主義の静かな高まりがある。
西暦○○年、といったワードは出て来ない。「今や本物のオレンジジュースは地球でも飲めないらしい」という会話、舞台奥に時折浮かび、コロニーからそこそこ近い事を教える地球の映像、天井の高い喫茶店の壁の上の方になぜか洋風のバルコニーがあって、地球上を焼き尽くした35年戦争以前(有史以前という響きに近い)、シェーク、スフィアーとか言う人の書いた「ロミとジュリの物語」という作品をモチーフに喫茶店が設計されているらしい等と説明する古代文学研究家、そのバルコニーに貼られた「カフェ内は中立の場所です」という注意書きなどのヒントにより、とある未来のこの場所の相貌が現われてくる。
地球ではコチとマナヒラが戦争状態にあっても、コロニーでは物理的な戦争の要因(利益を取り合う関係)はないが、劣勢の反動か、コロニーの「コチ系」の一部によるナショナリズムの高まりがある。喫茶店で開かれるコチ史の勉強会にも、その素養のあるメンバーにより不穏が持ち込まれ、無用な対立と憎悪にメンバーが巻き込まれそうになる。だが、不可逆な流れかに見えた過激化は、先導者が暴力容認の構えを見せたあたりでメンバーの離反に合い、やがて地球での戦争終結がダメ押しとなって過激分子は目標を完全に失う。
悪い流れを「止められた」ストーリーにはホッとする。しかし何気なく高まって何気なく終息した彼らの「風邪」は、私たちの国では肺炎にまでこじらせ、治る気配が見えない。
しかし終わってみれば、この芝居の物語を貫通するのは一つの恋愛の顛末であった事に気づく。成就しない恋愛の、一つの形であるが、示唆的。この芝居では男の「結果を得たら冷めてしまう」性質を、恋愛の終結の要因としているが、民族紛争に盛り上がる者たちの風景と無縁でなく見える。本人らの一途な思いは家同士の紛争を障害としながら成就へ向かって果敢に前進するも、行き違いと勘違いで両人命を落とすロミジュリ。障害が炎を燃やす恋のその障害がなくなったら、という段階まで描いた本作のラストはほんのりとは言えやはり悲しい。「ロミジュリ」への遠回しのオマージュとなっている。

ガラテアの審判

ガラテアの審判

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2022/01/20 (木) ~ 2022/01/26 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

コロナのお陰にて(?)観劇のチャンスが。
幾分懸念は鮨詰めの客席だった所、実に余裕たっぷりの客席で贅沢に観劇。
feblaboらしい演目である。かつ、役柄を担うには若い俳優ら、というのもfeblaboであった。
偉そうな事を言えば(毎度の事だが)、若い彼らの溌剌さは目くらましでもあり、リアルを突き詰めると綻びが見え隠れするストーリーである所を若さが補っていた、と言えるか。
SFはその設定(極力矛盾が見えない事)が生命線になると考えているが、本作は叙述の形の取り方がうまい。時代はAI技術がシンギュラリティ(進歩の末に人間の知能を超える時点)を愈々迎えたらしい時代と設定、一見人間との差異が認められないAIロボット・ジャックが起こしたある過失事故を「裁く」法廷劇となっている。裁判を進めて行くためのロールである弁護士、検事、判事がそれぞれ、ジャックの存在に対するスタンスを異にするため初期より議論が始まっている。哲学論争に先行を許し、後から事実検証が観客の目に小出しに開陳される手法により、SFの弱点である設定の綻びは「新事実」と「論争」でうまくかわされていく。だがやはり、設定の如何によって受け止めが変わる。真面目に受け止めたい自分としては、もし架空の世界を楽しむ事が主眼であるならそのように割り切るための「リアルの程度」を、出来れば早い時点で示されたし、という感じであった。

裁判の進行というストーリーと並行してこのドラマには一つのテーマが据えられている。それが人間を人間たらしめているもの(定義)を超えた「新たな人間」(AI)を、人間の仲間として迎え入れざるを得ない時、我々はどうするか、という問いだ。
しかしこの問いが成立するには、幾つもの前提を敷く必要がある。果してこの戯曲が発しているかに見える問いは、真剣な問いなのか・・。少し厳しいなと正直思いながらの観劇であったわけである。

ただ、場面的には「劇的」要素が鋭く立っている箇所があり、うまくすれば深い哲学的問いに繋がる印象的な場面になったと思える。銃撃によって身体を失ったジャックが奇跡的に頭脳チップと小さな箱状の「体」の接続が成功した事で外界と会話ができるようになったその状態は視覚的なインパクトが強烈だ。着想に秀でた才があり、このテーマにこだわってくれるのなら精度を増した新作を期待したい。

ネタバレBOX

無粋と言われようが・・不足に感じた内容を書けばこういう事だ。
人間の自意識がどこから生まれたか、という問いも未知の領域だが、「生命」の定義である再生産力(自己模写力?)を有する身体=細胞体が、何十億年もの前にその始原を持つことは何かを示唆していそうだ。つまり生命維持と再生産のためのボディがその動きを多様化させていくに従って知能程度が複雑化・高度化して来たのが生命の歴史だ。生命体にとって「私」とは身体そのもの、という前提が私の中にある。そう考えるとジャックが人間の体を手に入れるには、死んだ人間の体を借りたのか(あるいはクローン?)、といった設定によって見方が変わってくるがまあそこは一応人間の肉体を持ったと理解しよう(そんな時代は来ないと思うし来たとしてもAIのシンギュラリティより遥か遠い未来だと思う)。
神経系統や感覚機能全てを備えた人間の身体に接続された頭脳チップが、どのように「自己」を形成するか、であるが、身体自身が絶えず運動し波動を脳に伝えている、恐らくそこから「自分自身」を認識し人間的な自己意識を持つのだろうと想像する。芝居の中でチップだけになったジャックが、箱に閉じ込められた人間のようだったのは少々がっかりであった。身体の死を経験した頭脳が、以前と同じ「人格」を持ち得るのか・・。「人間とは何か」を問うドラマであるが、AIを人格として尊重し、新たな時代の扉を開く、という感動的な結論が既にあっての物語では、「人間」を定義づけるものへの接近は難しかったというのが実感だ。
裁判の終局、検事は極刑(チップをバラバラにする)を求刑(ジャックは飼い主から虐待を受けていたが、主人が恨みを持つ隣家の子である少女を前にしてある衝動に動かされた、と自供している)。一方弁護人は、意思能力に疑いありとして無罪を主張(少女を殺した直前数日間、会話が途切れる症状が出、ハッキングによる外部コントロール状態があった可能性が疑われた)。そして判決日。判事が言い渡した判決は「被告人を15年間の懲役に処す」であった。つまり判事は被告を「人間並み」に遇したわけである。
ジャックが元々持っていた身体が老いる有機体だったのか、何百年も生きる代物だったかも説明されていないが、命が有限であるか否かも、「人間」を考える上では抜かせない。
ミネオラ・ツインズ【1月25日~28日公演中止】

ミネオラ・ツインズ【1月25日~28日公演中止】

シス・カンパニー

スパイラルホール(東京都)

2022/01/07 (金) ~ 2022/01/31 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

藤田俊太郎演出舞台を観るチャンスが「やっと来た」とチケット購入。最初のチャンスは一昨年春の「VIOLET」だったがコロナで流れ、次なる「NINE」は配信で鑑賞できたが相見えた実感には遠かった。今回は間近でミュージカルや大舞台でない小劇場演劇を藤田演出で観れるてのも興味をそそる所。
一言で印象を言えば、ワイルドな演出だった。ワイルディッシュな、というのではなく、作りそのものがザラっとした感触で、一見不親切でぶっきらぼうに見えるが、何らかの合理性には則っているような、という感じ。第一には戯曲の作りに依るのだろうが、見た目も大きい。両面客席に挟まれた演技スペースは台状で、俳優は両サイドの段を上がって登場するが、この台の表面が見た目に場末のダンスホールの床面みたく美しくなく、これは「狙いか?」、とも思うが「汚し」というには作為的な美がない(大舞台に慣れてると床表面の肌触りまで客席から見える事に注意が及ばないのかも?と思ったり)。また台の上部には、そう高くない天井に接する感じで両側から見える映写板が据えられ、場面のタイトル、年代等を表示するのだが(同じ文字の裏と表が二列並んで見えるので表裏が透けているらしい)、意図的なのかよく分からない場末感を「舞台上に」でなく「舞台そのものとして」作っているので変な感じを覚える。どこから持ってきたんだろう?海外経験のあるという藤田氏が見て来たイメージそのままを反映しているのかも・・?(こんな文字数使う程の事っちゃないが。。)
もしや少しだけ遅れて見始めた事で、会話の意味が耳になじまない間にそんな所に目が行ってしまったのかも。
ただ、ドラマを追う内に、戦後アメリカ史をある特異な角度で縦走するワイルドさに馴染んでくる。例えるのも変だが「イージーライダー」に登場する彼らを今思い出した(内容は全然違うが)。まあ舞台全体が放つ何か「異文化」的なものの正体を見ようとしたがいまいちうまく行かず。また考えてみる。

夏の砂の上

夏の砂の上

玉田企画

北千住BUoY(東京都)

2022/01/13 (木) ~ 2022/01/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

主宰が自作以外を演出した舞台。パンフにはこの作品への玉田氏の思い入れが綴られており、十年程前に読んだとある。もしや?私が初めてのこまばアゴラ劇場で、初めて松田正隆作品に触れた舞台を見たのでは、と調べてみた。が、作者と劇場そして平田オリザ演出で検索してヒットするのは2003年「夏の砂の上」のみ。劇団を四つ程度しか知らなかった昔、でも平田オリザの名は知っていただろう。覚えているのは日本家屋の一部屋、畳を踏む音も聞こえそうな張り詰めた静けさの中で、心情が行き交う舞台に少なからず圧倒されたこと。淋し気な夫と、やがて別居中の妻が現われ徐々に「別の男」の影が見えて来る・・3人位の芝居だと記憶していたのだが、本作の出演者は8名。2003年上演には占部房子や内田淳子、金替康博、松井周の名前もある。その後芝居をうんと見るようになった頃、既視感のあった占部房子、松井周のこれが初見だった仄かな記憶は、上書きされたものだろうか・・。(人間の記憶はデータそのものは全て脳に保存され、取り出せないだけだと聞いた事がある。)
本題。端っこが省略された日本家屋の一室と廊下、向かいの部屋の障子戸、等が低い天井の劇場内にしっかり作られ、お膳立ては整っている。男が入って来る。まずまずだ。一人だけ名前を挙げれば用松亮、やはり笑える。・・一人でぼんやり暮らす男、別居中の妻が現われ、長く夫婦だった者同士らしい低いトーンの会話。その中で二人の関係性、近過去の事、うっすら浮かぶ妻と親密な人物の影、といった事が見えて来る。その後の一場の展開は次の通り。突然妹(男の)が十代の娘を連れて訪ねて来て、少しの間預かってくれと言う。博多で店を出すよう勧められたのでその準備で大変という説明にすかさず男は「男か」と見抜くが、今度は本当だと主張する妹と男の押し問答の末、「夫婦に頼み込んだ」つもりの妹は去って行く。妹を追って男が玄関に行った間、黙って座っていた妻が娘に話しかけ、一しきり談話。どころが娘がてっきり同居する人と認識した相手はおもむろに立ち上がり、「じゃ」と帰って行く。唖然と見送る娘。男が戻ってくると、残された二人の図。・・男は仕事の事(整理解雇か倒産か)や妻の事もあってくさっているがどこか諦めの風情があり、娘の方は母の男が変わるたびに引っ張りまわされる運命を半ばあきらめている風情、妙ちくりんなコンビが残り、暗転という文句の付けようのない出だしである。
その後男の元同僚らが久しく顔を合せた宴席からの帰り、男の先輩(用松)、後輩(妻と怪しい)らが騒々しくなだれ込んで来る。そこで娘と顔を合せる場面の妙。その席では後輩が男に難癖をつけ一悶着(男がしっかりしないから妻を不幸にしている、それが俺は許せない・・というポドテキストがむくむくと想像される..が今は推測の範囲)。先輩は明朝から仕事らしく眠くなっており、向かい部屋の布団で大いびき。
後日、今度は娘がバイト先の男を休憩時間に招き入れている。おずおずと上がり込む男が、達観した娘の不思議ちゃんに振り回されるつつも惹かれているらしい図。
また後日、先輩が急死し、お通夜に出ようとする場面、最後の人物が頭と腕、足に包帯を巻いた状態で登場。例の「怪しい仲」の男の妻である。男の妻と自分の夫の関係は疑いのない事実だと告げる。そこへ喪服を取りに元妻がやって来て、対面。ここに娘とバイト男が噛んでいる(ハローワークで夕方まで不在のはずが急遽の訃報で戻ってきた格好)、男がバイト男に「責任を取れるのか」と迫る場面に女の訪問があり、女の話を聴く場面に同席させられているが、妻の訪問で対決場面になりようやく放免される、という「男=バイト男」の図が挿入される事で、女の悲壮な告白が他人事のように見え笑える場面になる。さて妻と女の対面では女は精一杯、猛烈に食ってかかるが、どこか冷めている男。女は敗北感を噛みしめて帰って行く。
その後は収まる所に収まる場面の後、ここで終わっても良い場面、男と娘の心が説明のつかない何かで結ばれ、通い合っている図が残像となり暗転。だが芝居は娘が去る場面で閉じられる。妹の再訪問で一気に現実に引き戻される。店はうまく行かなかったが、また目標が出来たと言う。今度は海外である。二人が去った後、娘が戻ってきて、たぶんそこには行かないと思う、と言う。
一人男が思いにふける図で芝居は終わるが、最初の場面から「生活」そのものは変わらない男の中に、何が残るか、が核である。観客ともども、「どう終わるか」。もっとはっきりと、男の思いが見える芝居の作りもあり得るだろうが、私には見えてこなかったので色々と想像を逞しくした。それを語るのが感想の中心になるのが本当だろうが、それはしない事にする。

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