ほおずきの家
HOTSKY
座・高円寺1(東京都)
2023/01/11 (水) ~ 2023/01/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
前回HOtSKYの初観劇「ミカンの花の咲く頃」が、狭い劇場を物とせず(実際役者はひしめき、「はけ」の処理も相当無理をしていた)、感動のドラマであった。今回は打って変わって広い座・高円寺。このギャップも物とせず過不足ない舞台になっていた。
全体図の中で些か入って来ない部分もあったがトータルで良い舞台。役者の使い方、美術、演出面で時折骨っぽさを覗かせたが、今更にスタッフ陣を見れば、演出横内謙介(そうだったっけ)、そして美術に加藤ちか(久々だ)。
在日差別が一つのフックになっており、やや心配が過ぎったが(これ説明すると長くなるので割愛)、心配した方へ流れず、ある家族の物語として成立していた。(かつて「GO!」を書いた金城一紀はその冒頭でこれはあくまで恋愛についての物語だ、と書いた。)
役者・・店のママである母みょんふぁが、最初(似てるけど)みょんふぁに見えず、芯を持つ役柄を演じ切る。娘役の七味まゆみも彼女「らしさ」を封印し、寡黙な演技が光った(後半、母が娘を呼びとめ、今この町を訪ねて来ている夫の昔の映画仲間を招き、二人に夫が残したノートを見せる場面では「父」という存在が彼女を満たして行くのを一言も発さず演じていた)。
店でバイトするベトナム人留学生マイ役をやった扉座女優、その婚約者役で終盤登場する男と、その妹役が、「本物か」と思わせる風情。終盤を盛り立てる。序盤から登場するマイ役は訛りの強い日本語にベトナム語が混じったり英語が混じったり、何を言ってるのかは聞き取れないが「話者の真意」を要所で伝え、観客はちょうどそういう人を相手にしている日本人の体で参加させられる。「作り物」の(意図的で偽善に見えかねない)気配を、このリアルさが撥ね飛ばしている。
舞台上は中央にデンと店があり(上手側にカウンター、中央にテーブル、下手に販売店冷蔵庫、袖にトイレ)、店をはさむ上手側と下手側の高みは戸外を表わし、客席側に広がる海を眺め下す場所。下手には浜辺に下りる階段があり、上手は岩場になっていてよじ登る形。
冒頭から暫くは、この両サイドに若き日のみょんふぁの夫が死者として登場する。高みを超えた向こうに「知らない世界」への奥行を感じさせる。
だがここへ「現実の時間」が、中盤まず下手の高みで日傘をさして海を眺める娘(七味)の姿を置き、次に終盤、浜辺へ弔いの祭壇をやっこらと運ぶ、センチの欠片もない店の常連二人を見せる(墓を訪ねて来た昔の映画仲間に、みょんふぁが後になって「骨は彼の母と共にその海に撒いた」と言い、二十数年ぶりに盆の祭事を行なうらしい様子が芝居の終幕へ向かう雰囲気を作る)。
ここへやって来た二人の一方は太っちょキャラのタクシー運転手(友部康志)、これがもたらす笑いがギリ周囲の反応の内に収まる(店の常連たちの人間模様のリアリティが「受け皿」となる)。
もう一人は、七味に以前告白したという痩せぎすの男(犬飼淳治)。彼の素朴な一庶民の役柄が、この海辺の場面で一挙に前へ出る。十年前に振られた話をして、友部の全面的な応援を受けるといった微笑ましい場面から、おっかなびっくりな十年振りの再告白というおまけが付く。
留学生マイに惚れていたバイト青年が、そのマイに「相談」を受けていたもう一人の青年共々、最後に望み断たれる結末と言い、恋愛沙汰もドラマには欠かせぬ。
昔の映画仲間だったという男は、影の主人公である七味の父と現在(母と娘の)をつなぐ役ではあるのだが、過去についての言及にこの男がもう一つ噛む事で過去の像は陰影が増したのでは・・と思わなくなかった。
今年の初観劇。まずまずである。
アベベのベ 2
劇団チャリT企画
駅前劇場(東京都)
2022/11/30 (水) ~ 2022/12/04 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
初演の「アベベのベ」はチャリT観劇3本目あたりだったか、「チャリTらしい」軽妙な舞台が漸く観られたと喜んだ。突っ込み所は多々あれど、ではあるが。
今作も突っ込み所は満載であるが、この「お話」のフォーマット上に、コンビニというある意味熾烈な労働状況(そういう場所でこそ生じる断裂)や、選挙にまつわるあれこれ、宣教・オルグ的な場面、安倍銃殺事件も組み込んであけすけな台詞を言わせたりと、宴会のテーブルの如く乗っけている。ストーリーを追う視線にはリアリティ的にノイズ多々であるが、そういうものと割り切って個々の場面を楽しめる向きには中々面白い芝居と言えそうだ。
(私は映像という事もあってだろうが、初見では見続けるのがきつく、わざわざ作らなくていい対立を作ったり、あり得ない怠惰なバイトとか、レジへ行けと指示する相手の前に立ちはだかっているくせに肩をドンとやられてこの野郎と言っちゃう店長候補とか、タオルを投げそうになったが、二度、三度と断片的に眺めてみるとピンポイントで面白がらせてる場面が見えてきた。チャリTは割り切って見るべきだし、作る側も大そうなドラマを作ろうとせずチョコチョコと皮肉混じりな一言を言わせる芝居をどしどし作ってほしい。)
サヨウナラバ
玉造小劇店
ザ・スズナリ(東京都)
2022/02/15 (火) ~ 2022/02/20 (日)公演終了
実演鑑賞
これ、観に行ってるはずなのだがコメントを書いてない。ホントに観た?・・あらすじを見て、うむ。確かに観た。関西の大店の言葉遣い、所作、流儀に至る「それらしさ」が流麗に間合い良くそつなく再現され、筆致がよいというのか、作者が目で見てきたものを写しただけでは?と思ってしまう程。
問題はストーリーで、話が進むごとに気になる問題がもたげ、どうにかゴールには辿り着いたが解消し残しが多かったという朧げな記憶がある。
上方落語の中に時々顔を出す、「相手を慮る」台詞、抑揚・声色のねっとりした感触が、私は苦手なのだが、わかぎえふの名家や大店を舞台にした芝居には、よくある。財力や地位の力を背景に、親切に助言、援助の申し出、諭し、叱咤と、上からの物言い。その人物の「親切」をさり気なくアピールする、その姿を描くというなら判るが、書き手がそのように印象づけようとしている風に見える。率直に本心から言葉をかけただけ、という可能性はある、だがそうでない可能性もある、というのが人間の言葉だが、口にした言葉でもって説明した事になってる所がある。だがそれは、観客はそれを客観視する存在であるはずが、それを聴く相手(役)のように言葉を聞かされること、これが居心地の悪さの理由である。
その人間が「真剣」であるか否かは、別の方法で証明せねばならない。俳優業の構えにも表れそうだ。
オッペケペ
ドナルカ・パッカーン
萬劇場(東京都)
2022/12/27 (火) ~ 2022/12/31 (土)公演終了
実演鑑賞
休憩込みの3時間。福田善之作品を堪能したのはほぼ初めて。つい先頃上演した明後日の方向「長い墓標の列」は稽古見学(ワークインプログレス)のみで本番を観られず。もっと以前に観た俳小の「袴垂れはどこだ」(シライケイタ演出)は中盤から寝落ちして殆ど筋を覚えていない(♩袴垂れーは、ど、こ、だ、の旋律は覚えている)。「長い墓標」で中心人物を演じていた辻村氏は今回の「オッペケペ」で座長・城山の妻役を演じていた。「長い墓標」では男女完全入れ替えの配役で、女役二名のため男優は二名のみ。演出の黒澤氏は古典劇の男女比に問題を感じていたとの弁。
今作も女役は三役のみで他の十名が男であるが、主役の愛甲役を筆頭に壮士俳優役一名、元歌舞伎役者という男役三つに女優を当てた(内一人は女役を兼役)。その他の演出上の特徴というとパーカッションとコントラバスの生演奏、読売壮士という役に糸操り人形遣い、他の俳優も一体どう集めたのかと訝る程多様な所属・出自(浅倉氏の演じた準主役・城山役は当初西悟志氏に当てられていたとか)。装置は左右の端やや奥から階段を上って橋が渡され、高みからの芝居、下は中央に一段上がった広い四角の演技エリア、橋下にあたる奥は台から下りた床から向こうが役者の待機場所のよう(芝居の一座の話であるので丁度舞台袖から奥の感じ)。
一幕では四角のエリアに徐々に衣裳が散乱する。二幕はキャスター付衣裳掛けを活用して隠しに用いたり。それら相俟って作為的に舞台が進行するが何より圧を持って迫るのは台詞。戯曲に圧倒される。時代的には旧来の「運動」、あるいは政治性と不可分であった新劇の偽善?の皮を周到に剥がして行く作品と言え、かつて劇評家扇田昭彦氏が新劇の時代とアングラ時代の中間に位置する役割を担ったと書いていたのが思い出された。なる程言い得た洞察であったのだなと。(続きはまた。)
ゲラゲラのゲラによろしく
東京にこにこちゃん
駅前劇場(東京都)
2022/12/29 (木) ~ 2022/12/30 (金)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
年末に「笑える芝居を一本」と、目ぼしい公演の中から初見のこちらを選んでお邪魔する事に。配信で見たコンプソンズ舞台で見たてっぺい右利き、ナカゴー役者、青年団役者と心強い。笑いネタのオムニバスかと勝手に想像していたが全く違い、乾いたシュールな笑いともやや違い、冒頭から笑いを飛ばしながらも正統派なドラマが展開し始め、身を乗り出した。
正統派とは人物の変化を描く、解決したい(と観客が思う)問題と対峙する人間のドラマ。
ゲラ、と聴いて思い出すのは他でもない劇場で「変な所で笑う」ご仁の事であるが正に彼を取り上げたのかと訝る程に途中までは重なった。
それはともかく・・こういうドラマとなれば厳しく見てしまう。「惜しいっ」というのが終演時点の正直な感想。その理由は機会あれば。ともかくこまめに笑いを押し込みつつ、物語叙述が本気だか不真面目だか判らぬ内に進んで行く速度、というか叙述法が秀逸。笑った場面だけを思い出す。観て悔い無し。
イミグレ怪談【12月18日は実演を上映に変更】
岡崎藝術座
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2022/12/15 (木) ~ 2022/12/19 (月)公演終了
映像鑑賞
上演中止となった日に当った。代りに10月の沖縄公演の上映があると告げられ、一瞬迷ったが観ることに。近年観た二作が良かったので(と言ってもたまたま(神里という鯨が水面から頭を出しただけ)な感触は残るのだが・・語り手の到達感に観客としても共鳴できた気がした)、少からず期待する所あり、映像でどれ程伝わってくるかというのもありつつ、一時間強の上映を見た。結論的には「映像はやはり映像」。定点映像であるので着色無しのプレーンな記録として見られたが、起承転結のあるストーリーは(この劇団だから)当然なく、断片的な場面の背後関係を探り切れず、生で見てどうにか納得を持ち帰る内容であったのかは判定できない。ただ毎度ながらの「よく判らん」舞台であるのは同じである。
東京公演では三名の役者の他に身体パフォーマンスの方が競演する予定であったが見てみたかった。
作品の中で越境の旅をする岡崎藝術座は、今回はラオスへ向かう。三人の俳優のモノローグと動きがあり、後半三人が同じ場所(現実の場所でないかも)で黙ってラオチューを飲む。紅一点の女性は祖国に居る母か叔母かとテレビ電話で話す。松井周、大村わたるはそれぞれの語りと動きがあったが相互の関連は特にない。各ピースが何を媒介してどう結びつき、全体としてどういう図が描けたのかは掴めない。点を頼りに図を描くのは観客だとして、図を作るに足る点がなくては、という所だ。
新しい知や体験は実は手の届くところにある・・世界を見渡せば直前まで持っていた観念は補強される事もあるが大概崩される。その要素を持っている(はずである)。旅がスタンダードであり、変化が常態である感覚を、伝えたい衝動を岡崎藝術座の創作活動に想定している。
観客にとっては自分の「意に叶う」要素があってどうにか「新たな対象」との遭遇を受容する。薬は甘味をつけて飲むのが良い。
成長の過程では世界を広げていく新しさそれ自体が悦び。演劇の創造はこれを他者に提供する営為とも言える。岡崎藝術座の試みはひどく唐突な感を与えるが、鯨が顔を出す瞬間を期待して観客は足を運ぶ。
岡崎藝術座の名を知ったのは十年前。個人的に振り返ってみた。
その開催中に知った「FTトーキョー」という催しのラインナップに、「レッドと黒の膨張する半球体」というアート系への関心をそそるタイトルを見つけたが、惜しくも観劇叶わず、そのリベンジで観たのが一年余後の次作「隣人ジミーの不在」だった。これはハイアートが過ぎて折れた。チェルフィッチュの特権的肉体・山縣太一の存在感(醸される面白さ)から作品の意図を探るも、舞台上に出現する現象の総計じたいが僅かで(上演時間も短い)、「思わせぶり」を持続する限界がこの程度だった、と見えた。
出来のムラが激しいアーティストかも、と思い直したのは神里氏の出自を題材にしたテキストを出し始めてから。他団体による神里戯曲の上演では冒頭以外殆ど寝てしまったが、言葉は饒舌、「言いたい事は幾らでもある」書き手と再認識し、新作と前作のダブル上演で前作「サンボルハ」を観たかったが見られず、期待せず「イスラ!」をSTスポットで観たがやはり長いモノローグを基調にした舞台(物語性は観客の脳内構築に委ねられる)。
「ハズレを引いてる感」が続くが、まだ追いかける。「バルパライソ」が岸田賞を獲り、海外俳優による同作をドイツ文化会館で観たが、彼が現出したい世界が漸く舞台化されたかと思わせる良い時間であった。続く「ニオノウミにて」を面白く観る。奇想天外な舞台装置の上の現象は密度濃く詰まり、幾本ものテーマ軸を通し、作品のために発明されたと思しい楽器もあった。
上映会後のトーク(徳永京子進行で本来は他のゲストであった所、作者神里氏とのトークとなった)で氏曰く、「どうもモノローグで語ってしまう癖が自分にはあり、そうでないものを作ろうと最初は思ったが結局モノローグ主体になってしまった。自分の能力の問題かなと」。そうか脱しようとしたのか、と。演劇は対話だ、と語る演劇人もいる位であるが、このダイアローグという概念を神里作品の中に置いた時、「これは何である」と表現できるだろうか。松原俊太郎やイェリネクの「戯曲」と親和性のある地点の舞台も想起しながら「演劇とは何か」を考える。まあ面白きゃ良いという話ではあるが、つい考える。
サド侯爵夫人(第二幕)
SCOT
吉祥寺シアター(東京都)
2022/12/16 (金) ~ 2022/12/24 (土)公演終了
実演鑑賞
数年前初めてSCOTを観劇して今回二作目。SCOT東京公演は何処となく活動紹介的なイベントに思ってしまっていたが(今回も第二幕のみの上演だったり)、しかし鈴木忠志氏的には「第二幕のみ」は不完全を意味せず、二幕の面白さに着目したとの弁である。前回、殆ど眠る時間となった「北国の春」はトークで埋め合わせられたというよりお茶を濁された気がしたものだが、苦手と感じた団体も能うならば二度は見ようと思う自分であるので(平田オリザの言う観客のリテラシー)今回も寄り添って理解しようと努める。
正直な感想を言えば、地の底からの唸りのような発声、能のようなスローな動き(言葉に比重を持たせるためと思われる)、すなわち抑制的な演技は、自由とは対極の、狭い箱に押し込んだように感じられた。これはかつては「既存の概念を壊す」演劇の形態であったものが、その遺産に与って養分とした現代演劇では珍しいものではなくなり、敢えてそうする理由が見出しにくい、という事なのだろうか。
つい昨日SCOTの古い動画「トロイアの女」を観た。白石加代子の存在も大きいが舞台が躍動している。観客の目も熱く利賀の会場が舞台上の「作品」と観客だけで作る「劇場」となっているのが映像からも伝わって来る。出演者も多く、主役級と脇役、コロスが要所で密度の濃い場面を作る。動きの方は今より幾分大きく特徴的だが、発声は低く押さえつけた音にめらめらと火がちらつくような鬼気迫る感じ。ギリシャ悲劇であるが、場面の後ろで鳴る音楽、出で立ちと動きは脂の乗った時期の黒澤明の時代劇映画を思わせる。鈴木演出の特徴であるらしい音楽(歌謡曲)の意外なチョイスも効いていた。この舞台には鈴木氏の「トロイアの女」の物語世界への信頼と異化、現代批評が混在し、熱を帯びたものになっている。つまり物語への没入を否定してはいないと感じるのだ。
だが自分の観た近年のSCOT作品は批評が勝ち、物語への没入を鈴木氏自身が拒んでいるのではないか。
トークでは正にその事を「戯曲の持つ物語性の部分は嫌いだ」という言葉で表明していた。SCOTの現在は、主宰の意図とズレてか、あるいは意図通りか、変容したと考えると腑に落ちる所がある。(また何か思いついたら書いてみよ。)
老いた蛙は海を目指す
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2022/12/15 (木) ~ 2022/12/27 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
今回も出かけた。何時から毎回観る劇団になったかな・・。主宰の東氏曰く「同じことをずっとやっている」のは確かにそうだが、ある時期から根源的不安の時代を反映してか桟敷童子の円環から逸れて、幾分変化を辿り始めた、ように自分には見えた。前作「夏至の侍」はその意味では「従来の桟敷」であったが音無美紀子(ある意味新劇的)を軸にしたアンサンブルが圧巻であった。今回は個人的には嬉しい「どん底」に肖った作品であったが、どん底が持つシニシズムと、桟敷童子のドラマツルギーとは微妙な部分で合致しなかったような。期待の方向性が分散してしまったというか。
佐藤誓の存在は前作の音無に通じ、ナチュラルが持つ強さをもって支えていた。一方豪胆な役処の青山勝(役者姿は殆ど見ていなかった)が桟敷のアングラ要素にテコ入れしていたが、私の感性ではやはり「勢い」の桟敷の唯一弱点と言えるリアリズムの要素としての佐藤誓を核に据えた作りとするか(青山氏は偏屈な脇)、または佐藤氏を思いきり脇に押しやり(変人医師くらいにして)青山勝を軸とするか、どちらかではなかったかな、と思う。その中で、常に独自に完結した世界観を作っている大手忍・板垣桃子のコンビが今回は板垣女史単独で男子二人と治安維持法違反の嫌疑で追っ手を逃れて来た労働者三人組の一人となり、難しい役どころとなった。
私としては「変化」はリアリズムの方へ、と期待する所がある。その意味では板垣桃子の志向性はその逆を行く所があり、屋台崩し的ラストを飾る彼女の動きが(勿論それは演出なのだが)私の中ではハマらず、やや残念感が残ったものである。部分にこだわり過ぎかも知れぬが。。
ともかく今回の試みは「どん底」、それも恐らく黒澤明監督によるそれ(私の好物)が参照されていそう。芝居の冒頭から何だか山本あさみが怒りっぽいな、とか、貧乏長屋の住人のキャラ分けに余念がないと感じていたらこの古典のストーリーが顔を出した。これ自体は嬉しいものであったのだが。。
In C
Co.山田うん
スパイラルホール(東京都)
2022/12/28 (水) ~ 2022/12/29 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
今年のKAAT公演を見逃した本作が早くも再演と二日前に知り、早速出掛けた。山田うんは「モナカ」以来二度目。「In C」(イン・シー)とはテリー・ライリーという著名な作曲家の楽曲の名で、これをダンス作品とした。楽曲はミニマル・ミュージックの範疇で、思い出されるのはダンスカンパニーのローザスがスティーブライヒの楽曲に振りを付けた「ドラミング」。これは音楽のダイナミズムを舞踊付きで味わう作品、つまり楽曲が完全に前面に出ていたが、今回は(「In C」が楽曲名である事を観る時は知らなかった事もあるが)ダンスのオリジナル作品として観た。オノサトルがアレンジして現代的な音になっていた事と山田うんの斬新な身体表現が楽曲に従属した舞踊とは一線を画していたが、間断なく徐々に変化する音楽の圧は「踊り」(ダンサー)に大きな負荷をかけると同時にそこに充満して行くエネルギーがある。
舞台は遺跡の石のパーツのような白褐色の装置、そこに同系色の奇妙な衣裳をまとったダンサーが登場、皆一様にアトムの頭のように固めた光沢の黒髪。ソロ、ユニゾン、アンサンブルの動きが絶えず脳に刺激を送って来る。身体というよりその「形」と変化が何か人間とは別の風景や現象、または視覚を超えたニュアンスとあらゆるイメージにアクセスさせる。
若干照明を落とす場面では条件反射で瞼が下がり目を開け続けるのに苦慮したが・・。山田うんの発想力とダンサーたちの再現力に脱帽する。
モダンスイマーズ『しがらみ紋次郎 ~恋する荒野路編~』上映会 生アフレコ
モダンスイマーズ
ザ・スズナリ(東京都)
2022/12/27 (火) ~ 2022/12/29 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
モダンは入場料が安い事を忘れていた。この入場料で人形劇で、映像で・・と正直大きな期待はしていなかったのだが意外な完成度であった。併演されている人形劇団ココンの監修とは言え人形、背景、これをベースに展開するシナリオもよく出来ており、映像(編集)も堂に入ったもの。生アフレコがまた徐々に慣れて来て世界に引き入れた。
上手と下手に置かれたマイクの前で主たる人物が喋り、平場でも動いて喋るが、その姿は裏方。コロナ期突入し新領域の開拓という事で始めたものの人形作成、稽古、撮影、映像編集と製作には多大なエネルギーを消耗し、中々大変であったという。費やしただけの事はあり、1時間程度の作品だが随所で魅せる。音楽が国広氏。まことに芝居に合わせて音を作る人、感服。上演(上映)は二回のみ。
ぬるま湯のあとさき(12/26.27の公演中止)
ツケヤキバ
OFF OFFシアター(東京都)
2022/12/21 (水) ~ 2022/12/27 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
旗揚げ公演にお目にかかる事はそう多くないが、意に叶う所あらば応援したくなるのも人情。もっとも残念ながら長続きするユニットもそう多くない(演劇を続けて行ける事自体稀有で大変な事)。さてこの度はチラシに写る中心人物らしき男の風貌とユニット名の謎めきが(実力派な俳優、演出者の名が見えてもなお)高く、中味は全くの未知数で心の構え方が定まらぬ待ち時間を過ごした後幕が開いた。(劇場に着いたのも早かった。19:30開演だし。)
つけ焼き刃と卑下した訳ではなかろうが堂々たる旗揚げ公演だ。四人が喋り倒す濃い一時間半は「中年の痛い現実」を焙り出して傷口を引っ掻き合う摩擦熱の高い劇であった。役者が皆巧いが、「例の男」の特異な存在感が舞台でも謎めきを放って、少なからず独特な味を与える。役の本人性が高く、この素材を巧く使った芝居とも言えてしまえばしまえそうなニュアンスも若干漂う。勿論「劇」の充実した中味があった上での話だが終演しても残る未知数さが「今後」を待望させる(と同時に一発に終わる予感もなくはない)。ので、ぜひ第二弾、三弾と続けてほしい。
作者・深井邦彦の名はグッドディスタンスのレパートリーに登場する作者名として記憶に残るが、今回改めて調べてみると、元張ち切れパンダ劇団員であり自分はその最終出演作も観ていた(あの時のあれだったか・・)。俳優業も皆無ではないようだが退団後は劇作を続け、そうして現在に至る新人劇作家の一里塚を見た思いもある。
奇妙な果実
新宿梁山泊
シアター・アルファ東京(東京都)
2022/12/15 (木) ~ 2022/12/21 (水)公演終了
実演鑑賞
シンガーソングライター趙博が書いた作品の梁山泊公演が定番となり脚本も堂に入って来た。「百年 風の仲間たち」、その改良版、「丹下作善」(未見)、そしてコロナに入って「百年」の続編「音楽劇『風まかせ 人まかせ』」(スズナリ)、翌年「娼婦 奈津子」(スズナリ)、そして今年「奇妙な果実」(シアターアルファ東京)。元々歌詞のある曲の作り手であり、音楽ライブがそのロゴスの世界を肥大させて生まれた徒花といった作風であったのが、「風まかせ」ではコロナで危機に瀕したライブハウスのドラマを描き、「奈津子」では一人の女のドラマ(ここには在日は弁護士の出自として登場するのみ)、今作では歴史上の人物に焦点を当てたとある「ライブもやるバー」を舞台としたドラマ。バックバンドが劇伴に徹した「奈津子」が圧巻であったが、今作でのリアル場面としてのライブのリハーサル及び本番演奏は劇伴効果も存分に兼ねた。「奇妙な果実」とはビリーホリデイの歌のタイトルであった。マルコムXに絡めており、金喜老の半生に影を落とす。
恵比寿の新劇場は三度目となったが、上手、ステージ近くの席は初めて、演奏も含めてビンビン響いて来た。
カタブイ、1972
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2022/12/15 (木) ~ 2022/12/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
沖縄がテーマ、内藤裕子作、という事で観劇必須の舞台と楽しみにしていた。
一定のスケール感が欲しいだろう「沖縄」の芝居をB1ではどうだろうか、と訝りつつ足を運んだが、劇場は使いようだ。B1には狭いイメージしかなかったのだが、さとうきび畑に面した家屋の一角がステージに据えられ、空が感じられる。そして役者の目を通して、こちら側にどこまでも広い畑が感じられた。
沖縄の団体との共催で沖縄の俳優との5人芝居で密度の濃い競演舞台になった。沖縄訛りもこなし、おじいの家にその夜集った五人が三線を鳴らし踊り歌う場面は最後の唐船ドーイ(カチャーシーをやる定番曲)まで十分に見せる。(芝居の流れの中に「音楽」を成立させる事において一目置いていたのが第27班。)
他にも特筆すべき点がこの舞台にはあったが、結論としては内藤裕子作品として自分が(勝手に)期待していた所まではもう一つ届かずであった。そう感じた理由は何かを考え中である。
どっか行け!クソたいぎい我が人生
ぱぷりか
こまばアゴラ劇場(東京都)
2022/11/24 (木) ~ 2022/12/06 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
静かな演劇系の一つだろうと(見てないのに)認識していたが、今回初観劇にて、思っていたより中身が詰まっていると感じた(風景描写に終わる「静かな演劇」系作家も多いが)。
占部房子演じる母が、やや「迷惑がられ」なキャラで、愛すべきキャラでもあるがスピリチュアルに依存する(ゆえに)忙しない。娘や弟、その妻という親族が彼女の能動性に対する受け手となっているが、第三者的存在として母の職場のうんと若いバイト青年がいる。家庭の事情で苦労して育った変わり種で、繊細さと豪胆さを同居させたマイペース人間。母と職場で会話をし、近々誕生日だというその日、気さくなバイト青年は母とお出かけ(デート)に付き合い、その足で自宅に連れて来る。誕生日のケーキを持って来た弟夫婦と、娘が居る。全く物怖じしないバイト青年と、親族それぞれのキャラとの接触によるリアルな化学反応が良い。母はバイト青年に運気を宿す的な腕輪を贈るが、少しスピリチュアルに傾きかけている弟の妻も「私ももらっていい?」と欲しがり、母は一瞬止まるが気前よく差し出す。バイト青年が母に対し分け隔てなく、遠慮もなく、この日は母の存在も受け入れられた良き日。だがバイト青年と娘が出くわし、カメラマンを目指して東京に行くというバイト青年の話から、娘は自分の中に興味を芽吹かせる。バイト青年がカメラの学校の関係で単発の仕事があるので近々東京に行く、という話を聴いて娘は思わず「自分も行きたい」、と言う。その後母の不調が始まり、一悶着の末、どうにか東京行きは叶うが、「母には自分が必要」という観念に囚われていた娘がそれを一枚一枚剥ぎとる過程もそこに挟まり、劇の最後には母に自分の意思を伝えるに至る。
母は別れた夫が娘を奪いに来る、という強迫観念に常に囚われ、元夫の状況を探るよう弟に依頼してもいたが、終盤、元夫は数か月前に病院へ運ばれ亡くなっていた事を知る。夫が娘を奪いに来る・・被害妄想に駆られテンパり、風水やスピリッツの雑多な知識を自分流に解釈し、誕生日に娘からもらったルビーのピアス(冒頭、娘の愛情の証を母が受け止める心温まるシーンがある)をゴミ箱に捨ててしまう。そしてそれを「こうするしかないの」とわざわざ娘に告げる母(深層心理で娘を憎んでいるといった線はなく、娘との二人暮らしの継続だけを願いとする母の「苦渋の決断」として演じている)。娘を背中からハグする場面が何度かあるが、占部は精神状態の振れ幅の大きいこの人物を双極性障害や多重人格のようには演じず、愛=依存感情の多面的な表われ方として滑らかに演じ、存在感があった。ルビーのピアスをゴミ箱に捨てたと聞いた娘は母の行為を「症状」として受け止め切れず、娘の反応を見て「まだゴミ箱に入ってるから(大丈夫)」と告げるも娘は不満を露出させ、出て行く(娘にとってここが母との関係における許容限度である事が如実に判る場面を作っている)。
共依存の母娘の関係が断ち切られる大団円は、すっかり静かになった母親が東京から戻って来た娘を迎え入れ、彼女の吐くだろう言葉をとうに分かっているようにソファに座って正面を向いている。一筋の涙が見えたと思うと暗転。美しいラストである。
福名理穂・ぱぷりかを随分前に検索して確か中国地方だった記憶。それを思い出したのは広島っぽい方言で芝居が進む。この方言の味もいい。
ハッピーエンドではあったが、ディテイルが物を言う芝居である。弟は元々姉の持つ弱さを見て育ったのだろう、障害児の兄弟姉妹を持つ子どもを「きょうだい児」と呼ぶらしいが形象にその面差しがあり、心根の優しさと同時に、姉を良く知っているからこその用心深さもある。その優しさと、彼の妻がスピリチュアルにハマる素養のある人、という取り合わせがまた「ありそう」(生涯苦労を背負うタイプの人ってのがいる)。バイト青年はその飄々とした風情が現代の達観した若者のある種の典型にも見える。どの役も好演していたが、中心となる母の存在感がやはり大きかった。
一点、未回収というか疑問が残ったのは、終盤の母親は社会性をも疑いかねない状況になるが、バイト青年も居るスーパーには出勤している日常が、欠勤続きになっているといった説明はなく、状況は変わっていないという前提で良いのだろうと思いつつ観ていた。外で働く日常は自己が暴走しない歯止めになっているはずで、その部分が気になったと言えば気になった。
〜風刺コメディ オ・セヒョク特集〜
SORIFA そりふぁ
OFF OFFシアター(東京都)
2022/11/07 (月) ~ 2022/11/08 (火)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
みょんふぁ(洪明花)プロデュース(SORIFA)によるこの公演は折々に開催される韓国戯曲上演の行事とは趣きを異にして、みょんふぁ個人が入れ込んでいる若手韓国劇作家オ・セヒョクの短編を上演しようというもの。日韓演劇交流センター主催のリーディングで最近翻訳を担当する等の実績を見せていたが、今回は3作品全て翻訳し、三作品個々に演出を付け、俳優を揃えて三様のリーディング舞台を作り出した。なかなか見応えがあったが、同作家の長編を見たいと思った。
われらの狂気を生き延びる道を教えてください
コンプソンズ
浅草九劇(東京都)
2022/11/10 (木) ~ 2022/11/20 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
漸く二度目の観劇となったコンプソンズは、配信映像で鑑賞。例に違わず一度の鑑賞では把握できず、何度目かのトライでスッと芝居に入れた。途中で津村知与支が出てきた(そうだったんだ)。油彩の絵具がカンバス上で(水彩と違い)融合せず、絡み合うのに似て、人物やエピソード、キーワードが絡み合いながらも個別性を維持して意表をついてひょっと顔を出す。アイドル、というキーワードが他の雑多な物と一緒にプカプカ浮かんでいる中、ラストで一人がギターで歌い始め、中々な歌を聞かせたと思えば地下アイドルコスチュームを着た二人が振付を揃えてオンステージ。検索すると「アイドル」と出てきた。
その村田寛奈、さかたりさ両名に、津村、野田慈伸、東野良平(地蔵中毒)、てっぺい右利き(喋るだけで笑わせる。芸人らしい)を客演に迎え、劇団員4名を加えた布陣だが、破茶目茶に見える展開には一応の組み立てがあるようだが、合間に気持ち良く挟み込まれるちょっとした人間洞察や世相批判、皮肉の効いた台詞が良い。現実世界であるラーメン屋のシーンに突如挿入されるのが「死の手前」を行く男(東野)のシーンで、一対一となった時相手も「死」にまつわっていて対話が成立する、という法則があるが、東野がフリーな立ち位置で遊んでいるように見えなくもなく、全てにおいて「固めない」時間がスープを煮込むようにゆっくりと、煩く忙しなく進み、正体不明。だがそれでも成行きを見てしまうフックが各所に仕込まれている。今回も大作家の小説をもじったタイトルだが、未読であるし関連があるのかどうかは不明。役者らのキャラの立ち方が人物らしさに裏打ちされているので、笑いはその「らしさ」を見せる場面で起きる。これが演劇の醍醐味である。美味しいキャラを味わうためのストーリー、あるいは言いたい言葉を籠めた台詞を言わせるための展開、演劇に必要なものは飽きさせないアトラクションと後半の盛り上がりと「それっぽい結末」だけでいい・・等と試しに言ってみたくなる芝居。
ライダース・バラッド
円盤ライダー
πTOKYO(東京都)
2022/12/13 (火) ~ 2022/12/22 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
関戸氏と聴いても判らなかったが空宙空地(の主宰)で思い出したのがアゴラで観た多役を二人でこなす疾走ロードムービー。名古屋~関西が主な活動の場のようだが幅広く活動、短編集上演歴はコロナ前から。今回の円盤ライダーでは、常連男優(若くは劇団員)三名にゲスト女優をそれぞれ当てた二人芝居×三編であった。
軽めのジャブから入って二本目そして三つ目と、いつしか深みに引き込んでいる。時系列に進む台詞劇であるが、密度が高く、それぞれ展開の面白さ、台詞の含蓄を味わわせる。円盤ライダー特有の「男の集合体」の過熱ぶりは見られなかったが、逆に男の単体が「女」との対面によって皮を引きはがさ冷や水を浴びた姿もまた一興。
三人姉妹
アトリエ・センターフォワード
シアターX(東京都)
2022/12/07 (水) ~ 2022/12/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
今公演がいつも以上に目を引いた理由は(俳優陣もさる事ながら)「自作(新作)上演でない」事にもあった。公言する如くシアターXでの上演というのもそうであるが当日は(イメージで)うっかり下北に行く所だった。
「三人姉妹」、に副題が付されており、大胆な潤色を予想したが、「三人姉妹」であった。
ただしある種の方向付けがあり、恐らくテキレジも為されているが(ラストの台詞並びは明らかに原文と違う)、一役のみ男を女優がやっている事や、主人公風情の長身俳優が脇で存在感を持っていたり、何がどうだからどうとは言えないが冒頭のイリーナ、オーリガの喋りと立ち位置から人の動線に、演出者の「意図」が行き渡っているのを感じる。
目を引くのは美術で、Xの通常のステージを作る高さ数十センチの台を両側を繰り抜く形でオーリガの家を浮かび上がらせ、奥行きを作る。最奥の両脇が出はけ口。一段下がった両側が玄関に通じる廊下となり、間もなく登場する人物が早めに姿を見せる格好になる。
台上の演技エリア(家)には前半、奥と手前の間に高さ低めの仕切りパネルが左右に置かれ、狭い中央が通り口、奥での談笑と手前の秘めたる会話の図が出来たりする。
「三人姉妹」は清水邦夫の「楽屋」のせいか一度ならず観た気でいたが(戯曲も途中まで読んだ)、東京デスロックの抽象度の高い舞台(亡国の三人姉妹)を除き、ストーリーを分かりやすく味わったのは今年アゴラで上演されたサラダボール舞台(女優三人のみで全編演じられる)が初めて。一つの趣向であったが、今回のセンターフォワード版を振り返ると、役者によって形作られる一個の「人格を持つ固有の人物」らの群像劇として(言わば普通の演劇)味わい深い劇世界を作っていた事と同時に、何がどうと言い難いがリアルさの中に儚げな風がふっと頬に当たるような、不思議な感触があった。現代を感じさせる部分もある。明白に意図的と分かる演出として、ラストが特徴的で、三人の姉妹の会話に殆ど力みがなく、自然体の風景として提示され、静かな演劇風にピリオドが打たれる。三姉妹の女優(藤堂海、安藤瞳、北澤小枝子)が良い。家をかき回す兄嫁役のみょんふぁ、イリーナに思いを寄せる兵士(を止めて工場労働者になる)役の岡田篤哉、兄役の矢内文章、等々。凋落する人間と微かな希望を描く原作を、立体化するそれぞれの人物造形にも奥行がある。
口火
イサカライティング
アトリエ春風舎(東京都)
2022/12/08 (木) ~ 2022/12/12 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
こりっちデータで見る限りだが、個人ユニットを立ち上げたり役回り様々な経歴あり、中で舞台美術経験に目が止まる。照明家とのユニットというのも興味が湧くが、中味は全くの未知数。
アトリエ春風舎は美術が映える小屋で、何本か吊された裸電球、簡素な机と椅子、床に置かれたタワー模型、床から壁へ続く光沢タイルの川、と言った具合。だが、開演よりアンテナ立ち通しになるのは耳と前頭葉で、これは聴いたことのない台詞である。
平易な言葉で語られる、物事の本質を探る思考。冒頭、「道具」を巡っての思考が始まり、その思考過程で用いた語を応用しつつ他へ広げて行く。その会話が遊戯のように、それが相応しいとある研究室の一角で交わされる。心地よい。幾つかの関係(人は三人まで)の模様が順に描写され、時系列で展開が進む線もあるが、物事を「裏側」から言い当てるトーンは芝居を通じて流れている。
丁寧に思考し、言葉を探し、選び、世界に放つ物腰そのものに、ある種の癒し、救われる感覚を覚える。その事だけをもっても現今のメインストリームへの痛快なアンチとなっている(と自分は感じた)。
歌わせたい男たち【11月26日夜~12月3日公演中止】
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2022/11/18 (金) ~ 2022/12/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
以前戯曲を読み、ある団体の上演も観たが、(久々だったせいもあるだろうが)新しく発見した事が多く、解像度が高く奥行きがあり、かつ判りやすい舞台であった。