tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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「カレル・チャペック〜水の足音〜」

「カレル・チャペック〜水の足音〜」

劇団印象-indian elephant-

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2022/10/07 (金) ~ 2022/10/10 (月)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

「国家と芸術家」シリーズ三部作、の最終作。・・と書いたが(何処かでそう目にしたと思って探したが行き当たらず)、ケストナー、藤田嗣治、ジョージ・オーウェルの続き四作目。
劇場が狭かった前二作から芸劇へ。それに題材がカレル・チャペックという事で今回は劇場で観たい!と思っていたが結局、3度目の配信鑑賞となった。
配信についても、前二作に比べ映像が断然良く、見返す事なく一回の視聴で台詞が聞き取れ、前方席での観劇気分を味わえた。
だがもっと驚いたのは舞台の完成度、テキストの深さ、巧さ(執筆の神が味方したかのような..)である。
チャペックと言えば「山椒魚戦争」を書いた著名な作家の一人であるが、演劇への関心から知り直した人物でもある。劇場で観た彼の戯曲「R.U.R」(ハツビロコウ)「母」(コットーネ)はいずれも「戦争」に触れた品だったが、本作もチャペックが執筆に生きた第一次大戦と第二次大戦の戦間期が舞台となり、大戦後誕生した民主国家チェコがやがてナチスの台頭した大国ドイツに翻弄される軌跡と密にドラマが進む。
舞台はチャペックと兄ヨーゼフの家族=妻と幼い娘が住む家。若いチャペックがフラれたばかりの初恋の女性、彼女が交際する事になる新国家の大統領の息子、大統領本人、チャペック兄弟の親友、それにこの世ならぬ謎の女が訪れる。家族の葛藤と克服、逃れる事のできない国家と歴史の状況の中で精一杯生きる人間たちの人生が美しく刻まれていた。
配信では避けていた☆5を付けた。

物理的な圧力に晒された人々が、勝ち取った自由を手放さざるを得ない現実に直面する光景に、つい重ねてしまうのはわが国の事。日本は敗北を喫しつつあるが、これに関する報道は殆どなく、今どういう覚悟をせねばならないかを考える契機は希薄である。
カレルと周囲の人物たちは苦境に悶えながらそれを克服する精神、歩き方を手にし、生を全うしようとする。早晩朽ちて国もろとも凋落させるだろう効用のなくなったシステムを温存し、「改革」のポーズだけを取ってその場をやり過ごす(その実やり遂げようとしているのは売国的な政策)我が国の中枢を、「それ」としてありのままに見る事・・舞台がくれた勇気を、今以上にゲンジツを見る態度に向けるよう促されている気が個人的にしている。

みやこほたる

みやこほたる

劇団匂組

OFF OFFシアター(東京都)

2022/10/26 (水) ~ 2022/10/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「観たい」投稿をしたものの、観ない雲行きであった(雑誌掲載の戯曲を読む手もあるし)所、やはり松本氏演出に興味あり、またタイミングも合ったので久々に下北沢を訪れた。

二人がそれぞれ、一人称で語り続ける二人芝居である。題材は1999年に実際に起きた、お受験殺人事件とも呼ばれる(らしい)文京区幼女殺害事件。作者がいつか書きたかった題材という事であるが、これを接点のない二人のモノローグ芝居にした。一人(京子)はこの事件をルポにしようと取材を続け、書き上げたという設定、今一人は事件の犯人で、名をみつ子としている。取材者とその対象という両者の関係は、序盤の台詞で把握されるが、その後、京子は自らも「みつ子」と同じ文京区で二人の子どものお受験の当事者となっており、その体験談が大半を占める。作者が体験か取材で得たネタが盛り沢山で、ディテールの面白さがあり、決定的瞬間(
(事件の)を最後に自ら吐露させ、その彼女の人生と並走する取材者の語りで幕を閉じる所は、書き手としての巧さを感じさせる。
が、観劇しながら(例によって体調↓のため「受信」し損ねた台詞もあったとは思うが)、今何が語られているのか迷路にはまったような時間がかなりある。そこで観劇後、買ってあったテアトロ掲載の戯曲を読んでみた。
中々難しい戯曲で作者がもしこの題材にこだわるなら恐らく相当な書き直しを行なうのではないか。
二人の人物の内、一方のみつ子は実在した人物(をモデルにした人物)、他方の京子は架空なのか実際の文京区民がモデルなのか、まあ作者の創造した人物だとして、みつ子と時代的な接点があったのか(それを事後的に京子は辿っているのか)、それとも時代はズレていて、同じような文京区事情が続いているという事を表したいのか、が判らない。
紹介される同地区のお店の名前も、実在するものなのかどうなのか・・。ドキュメント性と、フィクション性の整理が為されていない。
そもそもの話だが、加害女性(みつ子)の二人の子どもを通して犯罪の背景である文京区での教育・進路状況と、同じような話をなぜ京子にさせるのかが判らず、京子が今みつ子の話をしているのか自分の話をしているのかも、判らなくなる。彼女がとうとうと語る「自分物語」が、舞台の中でどういう意味を持たされているのかが不明瞭。
エピソードの面白さが、全体の中に明確に位置づけられない事は如何にも勿体ない。
やはり何と言っても、事件に関する考察の部分で、子育てから解放され漸く手探りでルポ執筆を始めた京子が、この事件をどうとらえたのか、そこが必ずしも明瞭ではない。作者が感じている何かが、言葉に落とし切れていない。
この事件の核心は、加害女性の内面の病理と、社会との隔絶のあり方にあると思われるのだが、作者はどう考えたのか・・。犯罪(や事故)は一つの要因では発生せず幾つもの条件が重なって起きる。実際の事件を扱う場合は、ミステリー構造のドラマのように最後に「真相に辿り着く」ような物語にはできない。
この題材を扱う最適な構造として作者は二人のモノローグ芝居を着想した、と思うが、今語られている町の物語であったりママたちの描写が、ドラマの「軸」に対してどういう位置づけになるのか、をより明確にしてほしかった。が、そこを詰めて行く作業は、より考察を深め、意味的に同じ文章や台詞が整理されて行くという工程になって行く。現時点ではこれで取り敢えずのピリオドを打つしかなかったのだろう。

待ちぼうけの町

待ちぼうけの町

劇団俳優座

シアターX(東京都)

2022/09/02 (金) ~ 2022/09/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

コメントを忘れていた。だいぶ記憶が遠くなったが、思い出してみる。ある漁師町の居酒屋のママが主人公、記憶喪失の男がやって来る。遭難しかけて助かったと言い、顔を布で隠している。記憶はなくしているが、元漁師だったのか手作業が器用で男たちの役に立ち一目置かれている。やがて祭りの季節になり、神楽舞(のような踊り)の助っ人に動員された男は、要役を見事に踊りここでも喝采を浴びるが、そうした諸々と、彼が絵を描いている事から、居酒屋のママは震災で失った(と思っていた)夫の影を見る。リアルに考えれば夫であった男は顔を隠していようと体格や輪郭、そして声で判別できるはず、であるが、まあそうならない事情があるんだろうと仮定して見続けた。若者たちの間でも色恋沙汰で賑わしい。そして「夫」と確信するまでは、ママは自分に言い寄る些か俗物のきらいはあるが誠実さも見せる中年男に靡こうとしている。
最終的に謎の男とママは遠い地で結ばれるが、これが単なる(震災を風景として利用した)ラブストーリーでなく、全編にわたって震災の影が人間風景に過っている。ディテイルには突っ込みたくなった記憶があるが、爽快なラストが払拭した。

野外劇『嵐が丘』

野外劇『嵐が丘』

東京芸術祭

池袋西口公園野外劇場 グローバルリング シアター(東京都)

2022/10/17 (月) ~ 2022/10/26 (水)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

気づけば既に完売。当日に並ぶも当選せず、外周から眺めただけでは「観劇した」とは言えないが、観られない事が確定なので遠目に観た感想を。以前観たモノクロの映画「嵐が丘」の記憶と場面を照合しながら円形の中で演じられるステージを目を凝らして見たが、台詞が聴き取れず人物の判別も十分に行かないながら、ソロや集団のムーブと声の響きが情動を掻き立て、最終場面で片桐はいり演じる男(多分。青春の只中で懊悩したかつての己が登場するのを酒を喰らいながら眺めたり茶々を入れたりする)がステージに現れるやそのまま去って行く後ろ姿に、こみ上げて来るものがあった。これ以上特に書く事はないが、演劇が観客の想像によって完遂される芸術である事を痛感した体験であった。

Killer Queens!

Killer Queens!

劇団劇作家

TACCS1179(東京都)

2022/10/14 (金) ~ 2022/10/16 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

「劇団劇作家」クレジットでの久々の公演はモスクワカヌ作のリーディング。陽の目を見ない劇作に陽の光を、という団体趣旨に合致した数年前のリーディング企画(団員=劇作家たちの作品の中でも版権者のミュージカル化不許諾でお蔵入りした篠原久美子作「ゲド戦記」等が印象深かった)が思い出されるが、今回は一作のみの公演。配信をやっているというので拝見した。演出赤澤ムック、音楽伊藤靖浩とあったが何と、ほぼほぼミュージカルと言える「歌」に埋め尽くされた舞台で、台本を持ってのリーディングの域を遥かに超えて装置、衣裳、生演奏も本域である。テノール歌手・俳優の大田翔が黒一点。女たちには女優が扮するが皆歌う。とにかく音楽のボルテージが高い。
女性劇作家らしい台詞は男の慢心を突く。(配信今月末まで)

瞼の母

瞼の母

江戸糸あやつり人形 結城座

ザムザ阿佐谷(東京都)

2022/09/29 (木) ~ 2022/10/05 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前回「変身」に続き結城座を観劇。初観劇は「変身」の前年、襲名披露記念「十一夜 星の輝く空に」芸劇ウエスト公演だったが、やはり糸あやつりには小サイズで、しかも今回のザムザや「劇」小のような「見下ろせる」劇場が相応しい。
長谷川伸の最も著名な作品「瞼の母」を、流山児祥演出は母および主要女性役に伊藤弘子を配し、他の役に人形+人形師を配する形とした。冒頭、任侠物に似つかわしい演歌調の歌を伊藤に歌わせ、景気の良い始まり。
主人公・番場の忠太郎、彼が助ける半次郎とその母・妹、半次郎を追って来た二人の敵方子分が繰り広げる序盤のくだりの後、幼い頃行き別れた母の面影を追う道行が描かれる。「母かも知れない」と観客が期待する登場の仕方をする女性三役は伊藤が演じる。最初が路傍で商いをする老いた女、行き別れた息子がいたが、別人であった。そして大店「水熊」の前で、店から叩き出される女おとら。この女から、店の女主人おはまが、昔別れた息子の事を始終話していたが最近はとんと口から出なくなった、との証言を得る。水熊に仇する男の出現で番頭丁稚共々、神経をとがらせている所、忠太郎があっけらかんと訪ねて来たらしく表でひと悶着。執拗に粘るとの報告を受け、おはまは自ら口一つで追い返す算段で招き入れる・・。忠太郎の証言は記憶と合致していたが、息子が九歳の折に亡くなったと風の噂で耳にして以来、忠太郎の妹に当たるお登勢一人に愛情を注いできたおはまは事実を受け入れられず(また渡世人風情との付き合いがお登勢の将来に影を落とすとの気遣いもあり)、忠太郎をゆすりたかりの一人として追い払ってしまう。だが兄を想うお登勢の声に目が覚め、方々を探すが見つからず諦めて去る。その原っぱに身を潜めていた忠太郎は、母妹とは相見えず、瞼に焼き付いた母の面影を思いながら再び放浪に出る・・。
上演台本を書いたラサール石井の弁の通り、ほぼ原作をなぞって終幕を迎える。石井氏は歌の歌詞を書き入れている。これに朝比奈尚行(時々自動)が曲を付けているのだが、「瞼の母」を異化する要素がこの時々自動的アプローチ。ただし「任侠物」をやる大衆演劇の色彩を意識したのだろうと想像される曲調は、石井があまりいじれなかった原作が描く最後の「涙」には異化を施さず真情豊かなメロディーを投入してほしかった、というのが私の感想。演じ手の動きをつぶさに覚えていないが、終始奮闘の伊藤弘子がちょっと締まらないラストを閉じねばならなかったのも、処理としては気になった。王道で良いのではないか、と思った。

オルガ・トカルチュクの『宝物』

オルガ・トカルチュクの『宝物』

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2022/10/19 (水) ~ 2022/10/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ポーランドとの所縁を温めるシアターX独自の上演企画。
ノーベル文学賞受賞(2018年)の女性作家オルガ・トカルチュクの作品との事だが、アフターミーティング(シアターX主催公演では上演後会場との交流を行なう)で知った所では、この作品はかつて発表した小説(連作短編の一つらしい)ではあるが、本国で近年これをTVドラマ化するために脚本化したものをプロデューサー上田美佐子が入手、伊在住の井田邦明が演出した。
戦後間もないポーランドのある地方の一家の日常。が、主人公の娘クリシャが夢の中で自分に呼びかける男を探して旅に出る・・。占領から解放された人々の貧しさと酷薄な現実をベースに、寓話性を粉末でまぶした味わいがあり、短編小説らしさがある。ストーリー自体よりも、人々の生活風景と心象風景に、何か惹かれるものがあった。
美術が簡素ながら作品世界を過不足なく満たし、ピアノの生演奏は場面を象徴するクラシック曲を印象的に提示して、作品にマッチしていた。

ネタバレBOX

余談。ポーランドと言えば・・と自分との接点を探してみると、まず何と言っても映画。まず名作と言われるアンジェイ・ワイダ初期、抵抗三部作の一つ「地下水道」(モノクロ)は鉄板として、リアルタイムで観た「悪霊」に心酔。当時若手だったクシシュトフ・キエシロフスキの「殺人に関する短いフィルム」「トリコロール」三部作のどれか一つを公開当時に。そしてロマン・ポランスキー。本国で撮った「水の中のナイフ」「袋小路」等は割と最近になって観たが、わが映画鑑賞史的には「チャイナタウン」が断トツ。古い名作「尼僧ヨアンナ」は名のみで鑑賞の機会がない。小説では勅使川原三郎を通してブルーノ・シュルツを知った程度であった。私の中で大きかったのはある論考で、地勢的に大国の干渉や占領時代を経験したポーランドは朝鮮半島と共通するものがあり、底辺から物を見つめる目線が人間社会の本質の理解に影響し、それらは芸術作品に反映している、といった趣旨が記されていた。私のポーランド観のベースになった。
境遇が人格や思想を規定する、という事であるが、今ふと思い出したのは沖縄辺野古の座込み運動を揶揄した某氏(これはひどいというしかないが某氏の信奉者は意外に多いようで)。氏の言動には「下から見る目線」というものが全くない事に思い当たる。結果、偏狭と言うしかない思考の中で、論拠と言えるものは突き詰めれば「好き嫌い」しかない、という状態に無自覚になる(主張の根拠というものは究極「好き嫌い」の次元でしかないと思うが、論者ともなればそれなりに説明できる論拠を持とうとし、それが普遍性に近づく担保となる)。正邪より好き嫌いが優位に来た場合、「議論の無意味化」をもたらし、多様な意見の衝突の場は、いつしか同一意見を確認する場(少数意見の持主は少数派である事を忌避して沈黙する事になる)へと変質して行く。これはファシズムそのもので、日本はその完成形まで折り返し地点を超えたと私は思ってるが、権利意識の減退は若い世代になるほど加速している感がある。美徳のはき違えは身体感覚に刷り込まれ、改良には彼らの人生の長さをかけるしかない(私も親と時代から受けた洗脳を脱するためには長い時間が必要だった)。従って教育を変え、次世代に託す態度が必要だが、この教育の方向性も数十年かけて「権利より義務」「公権力への絶対視」「管理主義」へ一歩ずつ漸進して来た。押し返した試しがない(新しい教科書をつくる会編纂の歴史教科書の採択運動が地方自治体で起きたりもしたが、これは科学的知見の問題で自然な流れで採用例希少となっている)。
沖縄に対する本土人の差別意識が解消される契機は、国が沖縄に手を差し伸べ態度を改めること、以外には考えにくい(自ら認識を改めるなんて事は教育の現状では起こり得ない)。
話は飛躍しまくったが自分の中ではなぜだかさほど違和感がない。ご静読感謝。
いびしない愛

いびしない愛

ばぶれるりぐる

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/10/13 (木) ~ 2022/10/17 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

劇作家協会新人戯曲賞の最優秀賞を取った作品がようやく東京公演が実現。こまばアゴラのラインナップを見て秋を楽しみにしていた。それだけの事はあり、よしよしと劇場を後にした。

アイ・アム・ア・ストーリー

アイ・アム・ア・ストーリー

シベリア少女鉄道

シアター・アルファ東京(東京都)

2022/10/12 (水) ~ 2022/10/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

シベ少、と略して語る兄貴の「伝説的」過去作品解説を印象深く聴いたのは7年近く前の事。自分の知る演劇とは違う世界の事として聞いていたのだが、気になり始めた。元来好奇心は強いが行動に移るのは遅く、一年位置いて赤坂REDで観たのが伏線仕込み90分、回収15分という勢いの代物であった。独自に確立された世界観が提示されていて、印象的だったのが俳優たちの演技。真情を演じつつどこか見る者に突っ込ませる余地を与え、徐々に壊れて行く塩梅が舞台を成立させている事が、私の発見であった。話自体は伏線回収を全て把握できなかったが中々面白いと思った。
二回目の観劇機会は程なく訪れたが私的には残念な出来。数年が経ち、今回新しい劇場で三回目のシベ少観劇となった。

ネタバレBOX

会場のせいか、声量に些か心許なさがあり、特に後半音楽が必須となり、音量バランスの点で勿体なかった(致命的という事ではないが舞台のパワー的にはもっと欲しかった)。
狙いは明確に分かる舞台である。こういう事を考え続けている主宰の執念には呆れ、もとい、感心する。もっともこれは「演劇を使って」遊ぶ舞台と言える。そう言い切ってしまうのが正解な気がする。
舞台の進行の不自然さから意図は早々と見切れてしまうので、プロセスをどう面白くするか、狙った部分が明瞭に伝わるように工夫するか、といった部分が割と大事そうである。壮大な(荒唐無稽な)展開の中には「人間を描いた」側面もあるにはあるが、そこが大きな狙いだとすれば少し別のあり方が考えられるのかな、と思う。従ってこれはとことん「遊ぶ」ための舞台である、となる。

「物語」を少し紹介すると・・ある無医島に若い医師がやって来た(前に居た医師の後任として)。彼は人々に好かれ、彼に思いを寄せる女性もいる。椅子を持ち込んで待合室で休む婆さんもいる。これを取り巻く村の人々の人間模様の断片が、順次描かれる・・夫を亡くして毎日祠に祈っている女/人々が行き交う場を提供する居酒屋のママ/島興しをもたらす大人物を歓迎する人々/転向して来た女の子、彼女と睦まじくなる野生児的男の子/若い医師が元居た都会の医学会に身を置き彼を連れ戻しに来た女医/などなどまだ色々)。これらの場面が各々の短い展開を見せ、くるくると転換して行く。
当然、役者は役を兼任しているのだが(最初の温厚な医師をやった野口オリジナルがもう序盤から頭にハチマキの村の職人風に扮して笑いを取る)、やがて素早い展開の中で出オチしたり、衣裳替えが部分的だったり、息を切らして出てきたり、誰それがもうすぐ来る、と言われた役の者が「いや、誰それは何何の用で来れない」と言ったり、苦し紛れに「そうだ、何何」と用事を思い出したように退出したり、次第にあからさまに「役替わり」遊びの様相となる。そんな中、一人「母を亡くした息子」の役をやる青年が、序盤の登場以来、登場場面がなかなか訪れず、他の役をやるのでもなく(彼が一つの役しか与えられていないのか、タイミングが合わず他の役をゲットできなかったのか、あるいは振られている別の役の出番が訪れないだけなのかは、不明)、役替えが苛烈になるにつれ、居ても立ってもいられない様子で(彼がいないはずの場面に)出て来始める。
彼の鬱屈がついに高まり、ある役者が兼任する別の役が登場できず困っているタイミングに、ついに彼は役を「奪う」挙に出る。
予想される展開における観客の関心は、彼の登場に対し周囲がどう反応するか、だ。「一瞬の唖然」が答え。これにより彼が予め配役されていない役をやった、と推察できる。ただ、彼が不公平に扱われている、という事では無さそうである。いずれにせよその行動は「その時だけ助っ人に入った」という事ではなく、「役が奪われた」事になっているのがミソ。
味を占めた彼は次々に他の役を演じて行くが、他の役者たちも戦々恐々とし、「後私に残っているのはこの役だけ。これだけは死守する」といった塩梅。この「役略奪」の展開が加速し、「千と千尋」のカオナシみたく(恐らくパロってると思う)、衣裳のみならず役者も自分に吸収して巨体化する。残った者とこの巨体化した怪物との闘いとなり、一人また一人と敗北(巨体に同化)していく・・。

役者が役をもらう事、役者にとっての「役」とは何か、についての揶揄的な劇展開が頂点に至るのだが、これを現代の「役割」観、承認欲求と自意識の肥大化のメタファーと見るのも正しいと思う。が、そのテーマを掘り下げる芝居と思って見てしまうと、一つの事を繰り返し説明しているだけの単調な劇となってしまう。従ってこれは役者が役を与えられ、演じる形態としての「演劇」を茶化している劇、と見るのが正解だろう。もちろん、この芝居のフォーマットで役者がどれだけ弾けるか、を楽しむ劇でもあるが、私の好みとしては、「別の役に移れず困っている」素振りが、噛み砕きすぎ、親切すぎ、であり、興が殺がれる感がある。もっともそうしなければ判別できない数の役があり、意図が伝わらない時間が生じてしまう可能性もあったかも知れぬが、それでもシレっとやってしまうのがシベ少では?と、門外漢だが思ったりもする。
マニラ瑞穂記

マニラ瑞穂記

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2022/09/06 (火) ~ 2022/09/20 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

観劇後だいぶ日が経ったので記憶も朧気であるが、舞台の光景は比較的鮮明に刻まれている。面白い戯曲であるが、秋元作品中あまり話題にならず、データも少ない。
以前新国立劇場の上演を観たがもう八年前の事、栗山演出だったか・・彼っぽい舞台の使い方で、装置に目が行って役者の話が耳に入らなかった(話の筋が追えなかった)記憶がある。今回は文学座アトリエにて松本祐子演出という「マニラ」再観劇の有難い機会であった。
こういう話だったのか、と・・全く覚えていなかったが、女衒の秋岡伝次郎と女郎たち、領事と職員、軍人、植民地からの解放運動に協力する日本人らが見事に絡んで、日本人の「外地」との関わりを先行的に描いた作品は批評性に富んでいる。舞台は前半が領事館、後半は解放運動の拠点として伝次郎が出資した建造物(の残骸跡)、そして再び領事館に。「私」的事情と「公」の事情が糸で衣を織りなす如く絡み合い、刻々と世界の変化をもたらす。三好十郎を師とする作者の面目躍如たる戯曲であるが、まだ咀嚼し切れていない。舞台は面白く興味深く観たが、芝居がスポットを当てたこの時代の本質、対外関係における日本のあり方を、もっと汲み取らねばならぬ気がする。(これは個人的な感覚であるが。)

一度しか

一度しか

ほりぶん

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2022/09/29 (木) ~ 2022/10/10 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

この所定着している、出演シーン一言解説付き自己紹介を初めて見たのは、神保町花月プロデュース「予言者たち」だったか、もっと前だったか。。以後の「かたとき」、今回と3度以上見ているがこの自己紹介も磨きがかかり、今となってはこれはナイスなアイデアで毎回やる価値有りだ。
ほりぶん、ナカゴーは大いに笑えるが、やはり回を重ねて楽しみ方を会得した方が良い、と思う(というか、何処となく癖になった今、自分は会得したのだな、と思う・・当初はそうではなかったので)。
よくお笑い芸人が、目指す「笑い」の理想を、一度乗っかったら次、次と笑いが起き、会場が波打つ、等と言う。当初ナカゴーの笑いは、演劇の笑いではなくこの「お笑い」の笑いという気がしており、それが証拠にツボを突かれて波状攻撃で「笑わせられる」という側面が強かった。顎が疲れて、芝居が終るとハーと溜め息をついて帰路につく。もちろん作品は一様ではなく一緒くたに語れるものではないが。しかし生み出す笑いは独特である。
(お笑いでなく)芝居では、ドラマの高揚が目指され、笑いはこれを相乗的に高めたり、息抜きを与えたり、「潤い」がある。他方、芝居がその高揚の部分でなく底辺・下地の部分で、シニカルな空気を欲する場合には、乾いた笑いが有効。風刺や皮肉といった笑いに近く、ニヒリズムの世界を提示してそこに人間的な何かを描き出そうとする芝居で、乾いた笑い(を通したドライな人間観・世界観)が注入される。今書きながら想起しているのは大人計画の「キレイ」だ。
つい先日ぴあ演劇学校という催しで「松尾スズキ」の回を視聴し、大人計画の主宰の「お笑い観」を聴く機会があったが、ウェットな笑いとドライな笑いとあり、日本には前者が多いが、自分は後者の笑いが好きである、との事。例としてジョン・ベル―シ、モンティパイソンのジョン・クリーズ、俳優ではジム・キャリー。狂気を帯びた笑いの世界だそうだ(日本では、昔の喜劇人が凄かった、との弁)。
ほりぶんは間違いなく後者の方であるが、それは登場する人物らのキャラと切り離せず、また演じ手である川上友里、墨井鯨子らの形象力とも切り離せない。
三鷹市芸文のNEXT COLLECTIONに登場と知って意外に思ったが、「演劇」に枠を嵌めていない自由人は同センター・M氏の方か。
演劇か笑いかの話を始めてしまったが、過去私が見たほりぶんは1アイデアで突き進むといった印象であったのが、「かたとき」(紀伊國屋ホール)と言い、今回のと言い、交わる線が増え、脚本書きの貫禄を自分的には感じていたりする。

ネタバレBOX

詮無い事ではあるが、笑いと言えば観客の「笑う」行為については、何度か奇妙な笑い癖に遭遇し、批判的に書いた。今回はその「常連」とは別人であるが、私の隣とその隣に座った男女の笑いに迷惑させられた。思い出すとイラっとするので反芻したくないが、少し笑い方を紹介すれば・・
音としては少し高めから「ハハハ・・」と音節が続く笑い声であるが、その音程というのが、最初の「ハ」から二番目の「ハ」が二、三度高くなるヤツである。そのあとはその音が続き、最後の方でしぼむ。大体において「ハ」が6回以上はある。ひぐらしが丁度あの鳴き方だろうか・・。よくテレビのバラエティ番組で、出演者の言動の後に起きるスタッフの、あの「上から」笑いである。「自分は色々と物を知ってるし体験もしているが、こういうのは初めて(と言って良い)。意外なものに出くわして、ホラ、こんなに笑いがこみ上げている(俺を笑わせるなんて大したもんだ)。」そんな説明が付されて良い位の自己顕示な笑い。自己顕示の衝動だから、笑ってる(笑えてる)事に快感がある、それがために、本当の衝動による笑いと違って(セミが鳴き終えるまで止められないのと同じく)ハハハハと続けてしまうのだ。お陰でその後の台詞が聞き取れない。これを何回となく繰り返される。まず隣の女子は(よく顔は見なかったが)声からして十代か二十代と若い雰囲気、その向こうに中年男性、その向こうに同じ年恰好な「声」の女性、そちらの女性は本当におかしい時に3度ほど短く笑っていたが、雰囲気として二人が夫婦、手前が娘。この父と娘が、回数としては父が多かったが同形の笑いを何度もぶちかまして来るのだ。自分の声が台詞を妨害していても一向お構いなし、て事は、芝居の行方など気にしてなく、一点において生じたおかしな状況を「理解した」とアピールする笑いが、止まらないという感じなのである。アピールが勝り、あとの展開を見ようとする欲求は比較的小さいと理解できる。

・・と散々文句を書いたが、いや気持ちは痛い程判る。多くの人との共感を「噛み締める」だけでなくそれを「音」にして示したい衝動は、その根底に寂しさや悩みを抱えている事の証左でもある。父娘(勝手な想像による)は目の前に起きる事への理解を笑いとして発する事で、互いに「歩み寄ろう」としていたのかも知れぬ。
ただ・・それは他人を脇へ置いた「自分」中心な行為なのである。これに対してはやはり、「台詞聞こえない」と勇気をもって告げるべきだったと思い始めている。折角楽しんでる観劇に水を差すことはできない、と忍耐したが、「理解したアピール」は笑いではなく、それはアピールしなくていい事であり、アピールポイントを掴まえて細かく点数稼ごうとしてくて良いものなのであり、そして何より台詞を聞き取りたい人間が隣にいること、を理解してもらうこと。それは大事な事であった。芝居は理解できたし面白かったので良いけれど。(これは日記かっ)
ソハ、福ノ倚ルトコロ

ソハ、福ノ倚ルトコロ

演劇集団円

吉祥寺シアター(東京都)

2022/10/07 (金) ~ 2022/10/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

千秋楽に滑り込んだ。内藤裕子作品を一昨年漸く目にして今回三作目。大納得であった。今作は休憩込み二時間半、やや長尺だが、二幕劇の建付けが(といった事は良くは判っていないが)見事に時代物に合致し、井上ひさし戯曲が掠めた。要は一幕は「八犬伝」の内容も含めざっくりと、田植えの辛抱を以て物語の要素を仕込み、言わば些か忍ぶ時となるが、二幕で一気呵成に終幕まで雪崩れ込む。終章に至って稀代の戯作者曲亭馬琴の存在と、彼が生み出した長大な八犬伝を通して創造の営為への畏敬が沸沸とこみ上げて来た。作者は馬琴を最終的に支える事となった嫁・路に光を当て、最初その目線で綴って行くが、語り手を他の役が引き継ぎ、路の物語となる。観客は路を介して人物と歴史に触れる。

『地獄変』

『地獄変』

芸術家集団 式

シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)

2022/10/15 (土) ~ 2022/10/17 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

直前に観た他劇団の舞台も「芸(術)」に命を懸けた男の話で、そちらは実在した人物の話、こちらはフィクションだが、それぞれに鬼気迫る形象があり自分の中では呼応するものがあった。
山の手事情社を暫く観れておらず(恐らく5年、いやそれ以上)、という事もあって足を運んだ。やはり山の手出自のユニットらしく身体表現が山盛り。静と動と、目まぐるしいが、腑に落ちる所大である。客席への問いかけの形である種の「議論」を試みる。そこに創造者の挑戦を感じる。そのあたりは、後日。

ネタバレBOX

原作は大昔に読んだ記憶があるが、多分十代の頃の事で、文体は味わっても中身を理解したかどうか。小説を「格好良いもの」として読んでいた年頃だ。
だが筋立てはシンプルで、先般シアターXの主催公演でオペラ版の「地獄変」を観たばかり。こちらは面白く見始めたのだが視界を阻む前席の頭を避けてステージを見てやろうとの気力が徐々に萎え(疲労と睡魔で)、絵描きの娘が業火に焼かれる最終場面を見逃し、拍手で目覚めるという失態。これでは「観た」とは言えず感想共々封印したが、話の筋は今回のと微妙に異なるな、と思った。原作を見ないとどちらがどうとも言えないが、今この作品をどう読むか、には色んなスタンスがありそうだ。
今回の舞台、身体表現も含めて「形」へのこだわりを感じたが、表現の大元である所の「意味」が凝縮する程表現の質が増すとするなら、ラストが惜しく思った。赤布の幕を左右に渡してのパフォーマンスだが、(私の好みに過ぎぬと言われればそれまでだが)絵を描き続ける絵描きの手元には生きた対象が滲み、またそれらは命そのもののように消えて行く。塗り固めて赤に同化する、と理解しても良いかもであるが、最後は布の向こうの身体たち(即ち描かれた者たち)が狂い踊る(あるいは悶える)。これを「絵が描かれ続け、人は生まれて死に続ける」といった含意とすると、表現の形に対して意味の方が広過ぎる、と感じる。動きを加速して終わるのでなく、静謐の中に闇を感じたかった。絵描きの主観に寄った表現と考えると、そこにも永遠と同義の営みの残酷さがあり、狂騒とは異なるものになりそうであり、喜悦が込められるなら、対象の方は妖しげな動きにならないだろうか・・無責任な「ダメ出し」になっておるが、要旨は「意味的な狭まりがあると良かった」だ。
半ばにおいて議論が試みられていると書いた本論の方はまた後回しに。
YOKOHAMA 3 PIECES

YOKOHAMA 3 PIECES

theater 045 syndicate

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2022/10/13 (木) ~ 2022/10/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

地元神奈川の劇団が3作品持ち寄った公演だが、中々の充実度だった。
もっともKAAT大スタジオの広さを埋めるための工夫と力量の必要も実感。密度が薄くなる。客席がやや寂しいのもそれに輪を掛ける。オムニバスという事で可動な舞台装置に限定されると、「広さ」がいや増し、声も吸われる。
マイナス条件はともかく・・。まず、虹の素。横浜川崎でコンスタントに公演を打ち、青の素という若手公演も手掛けて「頑張っている」印象だが未見であった。実在する(した)生物に着目しドラマ化した舞台で、「なぜこの物語なのか」興味を惹かれる所だが、その「?」に答えるもう一つが欲しかった気がする(40分)。
二つ目がG9プロジェクト、横浜で活動30年になる劇団との事で名前は知っていたがこちらもほぼ初めて。作品は「12人の怒れる・・」を高校版に翻案した短編(登場人物も12人)。素行の悪い生徒の処分を決定する会議を見届ける。シンプルで判りやすい芝居を、演者・観客共々如何に面白がれるか、要はアンサンブルを見せる演目とも言える。キャストの演技アプローチの不揃いが、徐々に珍味の域、逆に面白くなるが、締める所ではもう一つ締めたかった(約30分)。
三番目が無論(?)私の目玉、theater045(約35分)。平塚直隆作品のナンセンス爆発の路線はその通りであったが、間抜けな男子高生のいじましい青春断章?が045がやるせいかハードボイルド色を帯び、作品にも合致していた。話が何やら妙な方向へ行き、伏線の台詞がラスト前でふいに輝き、「まさかあれをやるのでは」と確信した所(あれ、と言ってもあれを聴いた事はなかったのだが)、やっちまった時には腹が捩れた。その後に訪れる爽快感が忘れられぬ。(そういや昔斎藤晴彦という歌う俳優がいたなぁ)
名作ヨコハマヤタロウから注目の劇団だが今回は継続に値する企画を打ち出した(theater045がやる所に意味がある)。他団体も巻き込みつつ是非続けて欲しい。(そのためには毎回theater045が秀逸な一本を提供せねばであるが...ところでこの劇団名の略称は無いものか。)

ひとりでできるもん!

ひとりでできるもん!

うずめ劇場

シアター風姿花伝(東京都)

2022/10/12 (水) ~ 2022/10/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

うずめ主宰ペーター・ゲスナー氏の還暦と在住30年で一つお祭りを、という事で落語を題材にした舞台。前作に続き内田春菊絡みだが、今回は脚本の書き下ろし。下調べゼロ。うずめ劇場の今回の見世物は・・(ひとりでできるもん、の心は・・)?とわくわく開幕を待ったが、文句なしに嬉しい題材。春菊氏のエピソード創造力と、落語への愛情が窺える脚本に観ながら内心ウハウハであった。「一人でできる」のは落語のことである(言われなくたって書いてある)。

毎回終演後のパフォーマンス(女性落語家を中心に)とトークがあり、私の回は三遊亭律歌、小噺の後内田氏進行による対談。客席にいた某元アナウンサーが質問コーナーで振られていたが、彼女は「花柄八景」を生んだ公演企画(噺家縛りの新作上演)を企画した人。そんなこんなで落語三昧な贅沢な時間であった。

芝居の方は最近ペーター氏の演出に感じられる飾らなさと、役者本位、ポイントを押えたアイデア演出(限られた材料で最大効果、的な)が印象に残る。
多彩な客演者もさることながら、うずめ俳優三名(今回はゲスナー氏もガッツリ片言日本語で登場したが)の働きに胸が熱くなった。かなり個人的な思い入れが以前に増して増量しておるが、これも芝居の内、としておこう。

ネタバレBOX

落語女子大の授業風景が中盤の見せ場。講師役をオオタスセリ、荒牧大道らがやる。柳家喬太郎の「落語大学」は落語噺のあるあるネタをパロって茶化してというノリであったが、こちら芝居の方は徒弟制度と落語噺をフェミニズムで(鋭くやんわりと)斬る。古くは鈴鈴舎馬風なる噺家の「落語学校」を作ろうと師匠らを口説いて回る、というていで金語楼や一龍斎貞山等の物真似を披露する演目があるが、物真似はリスペクトの上に成り立つので茶化しはあっても風刺や批評はない。だが今回の芝居も女性目線での批判は、落語大学が出来ている架空の設定の中で発せられるので嫌味がない。
話自体は落語家に「なる!」と決めた主人公の女子が艱難を乗り越えて自分なりの噺家への道を見つけて行くという自己実現譚。この「艱難」の部分に作者は主人公女子が落語を聴いたり喋ったりすると登場人物の一人に入り込んでしまう、という「病気」?を仕込んだ。オチを言えば我に返る。この時既に彼女はある噺家に弟子入りし、他の弟子と共に日々修行に励んでいるが、周囲の心配の中、ある時彼女は師匠の落語会で前座を務める事に。女将さんはもし本番中でなっちゃったら、と心配するがゲスナー、もとい師匠は彼女に足りないのは成功体験かも知れない、施設で育った生い立ちが影響してるのかも、と実行を決める。そして本番当日、舞台中央に据えられた赤い高座に座り、既にあらましが話されていた「たらちね」を見事にやるのである。枕から本題へ。嫁がもらえるとなって喜び夫婦の場面の空想が長屋にだだ漏れの中、新婦が到着。幕の袖が開いて女将さんと師匠の「よしいいぞ」と固唾を飲んで見守るシーンの挿入後は、いよいよ新婦の「唯一の疵」である高貴な言葉使いとこれを受けて返す男とのやり取り。そこで彼女は妻役に入り込んでしまう。意を決した女将が舞台へ上がり、客との間をとりなしながら相手役になって会話を続け、オチへ辿り着く。これに至って彼女はガクッと気絶するのだが女将はそれを読んで肩で受け止めて愛敬笑い、と決める。ハラドキから辛うじて難を逃れるクライマックスは落語版バックヤード物と言える構図で、内田女史のこういう所に滲み出る落語愛に感じ入った次第。
大団円は、それ以来彼女にアレは訪れず、修行に勤しみ着実に高座も務めている。最後にはちょっとしたオチが夫婦の会話で話されたと思うのだが忘れてしまった。
車窓から、世界の

車窓から、世界の

iaku

新宿シアタートップス(東京都)

2022/10/01 (土) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アゴラで観た初演はiaku観劇何作目だったか、「面白い!」と思った記憶があったので、今回足を運ぶ事にした。リーディングという事で何か趣向を期待したが割と普通の読みであった。アゴラの舞台は長い閑散としたホームの美術が見事だった事を思い出し、想像の翼をもがれたように序盤はもどかしく感じたのだが、恐らく今回作者が甦らせたかっただろうテキストの後半のやり取りでは、ドラマに入り込んでいた。こういう話だったか、という感じ。シリアスである。関西地方のとある新駅。ト書きの解説に、住民の要請で出来た「要請駅」の失敗例で利用客が少ないとある。この駅のホームから、中二の女子3人が電車に飛び込んだ。二人は死に、一人は重体で病院の治療室にいる。雨が降るこの日、3人が小学生時代所属していたガールスカウト主催のお別れの会がある。喪服で登場した若い女性教員と私服の若い男。恋人らしい。そこへ同じく喪服を着た女性二人は一人がPTA副会長、一人がガールスカウトでスタッフとして働く女性。電車は事故で遅れており、行き先の同じ2組はいずれ会話を交わすが、屋根のないホームの端のベンチに茫然と佇む若い男を気にして、カップル男が駅員を呼びに行く。やがて現れる駅員、その後やって来る例の若い男と、登場人物は計6人。(舞台上にはト書き読みと合わせて7人が居る。)
若い男は漫画家志望で、実は三人と接点があり、彼は描いた漫画を三人に見せていたのだが、その内の一人が漫画のストーリーに自分と男の関係を重ね合わせているらしい事を察知し、空想を諦めさせるために描いた漫画の続きを見せた所、その翌日に事件が起きてしまったと告白する。そこから、自死の責任問題が一しきり話されもするが、事の責任のありかより、不分明でありながら厳粛な事実を残された者の側に何が問われたのか(と理解すべきなのか)に問いは変質して行く。
現在ネット上で顕著な、個人の行為に対して即断罪、締め上げに走る言論が根本的に見落としている物事の多面的な理解の余地を、この戯曲は示唆する・・とまとめるのは平板過ぎるか。だが時事イシューを巡るネット言論は深刻な病みを抱え、私はこれを参照したテレビラジオ放送、ましてや政治はあり得ん、というより質の低い言論に数が多いというだけで一目置いてしまう振る舞いの奇妙さを思う。

ガラスの動物園

ガラスの動物園

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2022/09/28 (水) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

戯曲に目を通して臨む、と決めていたが、自宅にあった文庫本が散逸。図書館各所も全貸出中、最後は新刊書店大手に二か所寄ったが置かれておらず、この公演のせい? 等と妙な推測をしてしまった。
代わりにネットに出ている「あらすじ」を読んだり、以前この作品の戯曲の性質について書かれた文章を思い出しても、いまいちどんな作品なのかピンと来ず、演劇界で著名すぎるこの作品が、とりあえず演劇史的には「現代の精神状況を表現した」(ゆえに同時代性を感じた多く人から支持を得たと思しい)ことが推察されるのみであった。
結果的にはこの演目の舞台を初めて目にして、合点した事は多々あった。

米国を中心とする「西側」諸国の爛熟、全世界的にも科学技術文化メディア等が急勾配で発展した。「戦後」という時代はやはり不可逆な、特殊なものだと言える。その起点で蠢動のような変化があり、国を問わず、芸術家はその変化を察知して作品を成した。「ガラス・・」が描く欠損家族、それを捨てた息子の罪(父がそうであった、とあるのでこれは原罪に近い)。この風景は、戦前ではなくやはり戦後という時代に発見された風景である気がする。何がそう思わせるのかはうまく言えないが(外面的な状況よりも内面に焦点化しているからでは、と取り敢えず考えてみる)、母も姉も、病的であるからこそ、美しく、いじましく、懐かしく、切ない・・。この感覚は、「回想」が可能ならしめるものである、と思う。

この作品の演劇史的な貢献は、回想という手法で(演劇に限らずだが)ドラマ構築の一つの定型を示したこと、ではないか。
回想する主体であるトムが、観客に語りかけるナレーターで、物語を描写する。横内謙介の秀作「ホテル・カリフォルニア」をわざわざ挙げるまでもなく、ストーリーテリングの主要なフォーマットであるが、「ガラス・・」がその原点と言えるのはその完成度ゆえ、なのかも。(今思い出したが戦前の作であるワイルダーの「わが町」もナレーションで回顧する語り口で、「発見」と言うのは大袈裟に違いないが、ただ語られる内容という点では、やはり大きな違いがありそうである。)
この作品で語られているもの(トムが敢えて語ろうとしたもの)は、そもそも何なのか。
刑罰に問われない「内面の罪」は、甘味さを伴う事があるがそれは回想という中においてである。己の加害性にシクシク胸が痛もうとも、(隣国の民族の「恨」のように)ある意味で生きる「原点」となり、いきいきと生きる「実感の源」になる。己を厳粛な思いに立ち返らせるもの、それが己がふと犯した罪の記憶であり、それは真の意味での「生きる価値」をそのままの形で自分に保証する。即ち「悔い改めて進む」道・・キリスト教の影がそこに落とされていると仮説する。
だが、身を貫いた「生きる」実感に応えて、その後の人生を生き直すケースは稀で、多くがそれまでの習い性、怠惰に流れるのが常。だがその事は埃に塗れた自分の中に再び輝きを見出そうとする時に、再び現われ、「怠惰であった己」の罪が、逆説的だが己を照らし、再び「別の道」が示される・・。

もっとも、今回上演された「ガラス・・」は、(戯曲の原形を推測しながら観劇したところでは)原作にあったノスタルジーの色彩を殺ぎ、ドライな後味にした、と見えた。イザベル・ユペール演じる母は「病気」の要素よりも、逞しさ(ラストに見せた落胆は、その喚き散らす様子が「絶望を断ち切る生命力」に見える)があり、トムの姉は原作ではいじいじと傷つきやすい引っ込み思案な所、現代の引き籠りのように救済回路を見出していて、それなりに自宅での生活を送れている・・。ガラス細工の動物への執着はさほど病的に見えない。ジムへの恋に破れた後、彼女は自分の世界で生き続けるのではないか。
この演出は、何となくの印象ではあるが、この作品の「感動」の形である所のノスタルジーを補強する典型的な(同情を誘う)弱者像を避け、境界を跨いで存在する「個性」が一つ屋根の下で同居する様、を示したかったのかも。これもうまく言えてないが、いじましい家族たちは、過去という墓に葬られず、今も生きているという臨場感を示したかったのかな・・という。
想像が飛躍し過ぎかも知れないが。

ネタバレBOX

余談だが・・当日になってチケット予約無効と気づき、劇場に連絡したところ、残席3つ有り、当日予約。その際、電話で席選択をしたが、中央最後方はやめ、やや後方下手端寄り2つの内、中央寄りを選んだ。だが、毎度の事定刻にどうにか滑り込み、席を探した所、数字で当たりを付けた近辺で一つ空いているのが最も端の席、番号が15とあり、私の席番は18。何かの間違いが生じたと踏んでそこに座ったが、少し前列の少し内側に小さく空いたエリアが見え、気になり始めた頃に「手品」が始まった。・・正しくは3列前の数席内側が私の席だったのだが、実は数字は端15とし、内側に1ずつ増えて行く配置であった。紛らわしい数字の振り方である。もう少しクリアに見えたかも知れないのに・・とも思ったが、体力的には固定した姿勢がきつかったので端席は有難かった、と思う事にした。
実際、俳優の表情はよく見えない距離であったが、身体の動きと舞台処理により舞台全体としては雄弁に物語が語られ、受け止める事はできた。
字幕を読みながらの観劇だが、この点では前方席より条件は良かったかも知れない。ただフランス語の抑揚というのは独特で発語に込められた微妙な感情は読みにくい。その点ではやはり表情を見たいというのはある。痛し痒し。
燐光のイルカたち

燐光のイルカたち

劇団青年座

ザ・ポケット(東京都)

2022/09/23 (金) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ピンク地底人3号の作品を一度観た気でいたがどうやら初であった。架空の世界(日本の近未来的な)とそこに暮らす人間を描いた作品で、骨太な印象である。舞台は場末の喫茶店を思わせるカウンターとテーブルのある店(若干広く物が少ないのが寂びれた地方や途上国のどこかを思わせる)。冒頭、風雨の中、店に入って来た若い男をカウンターの中の男が迎えて見合っているが、これが奇異な出会いである事を窺わせる。若い男は「カミ」の地域からやって来た。店の男は若い男の服装でそれを察知し、厳しい目で凝視しながら、庇護する意思を示す。監視塔はカミからこちら側を監視している。手続を踏めばカミからこちらに来る事はできるが、その逆はできない。カミの人間は裕福に暮らし、こちら側は貧困にあえいでいるが、両の経済力の差ではなく、こちら側が囲い込まれているためだ。こうした状況が序盤の短い台詞のやり取りで浮かび上がる。連想は一気に、イスラエルが建設した分離癖で囲まれたパレスチナに飛ぶ(パンフを読むと明確にその事に触れている)。圧倒的に非対称な状況を強いられている、にも関わらず「複雑な歴史的経緯」の一語で「どっちもどっち」と扱われるパレスチナの状況を、日本に仮設したドラマから何が見えて来るか・・。戯曲はそれを試みており、恒常的な「戦時状況」での日常がまことしやかに描かれる。絶望的な状況での分断された人間同士の共生の可能性、といったテーマは当然潜んでいるが、「問題提示→解決」が容易に訪れないパレスチナ人が獲得している(だろう)「日常」は口当たりの良い答えには辿り着かせない。だがシンプルな人間の感情はそこにある。芝居は結末を迎えるが、問いは浮遊する。

天の敵

天の敵

イキウメ

本多劇場(東京都)

2022/09/16 (金) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

2017年の初演から、自分には少々早い再演観劇であったが、超常・異常の世界に浸る娯楽作品に「現在」的視点を鋭く据える作者であるので、パンデミック前後での変化を見たく(配役の違いにも期待)観劇に赴いた。
初演の記憶はわりと鮮明。劇場が芸劇イーストから本多に移っても風景、そして物語にも大きな変化はない。が「見え方」が違う。どこまでもクリアな立体舞台を観た。

ネタバレBOX

まずはTVの料理番組(収録)場面から始まるが、まな板でごぼうを細切りし、フライパンに放り込み、バルサミコ酢を入れる。エアかと思いきや、やがてシャーと音が聞こえ、きんぴらの匂いが客席にも届く。招かれた料理人はこの物語の表の主人公H(名は複数ある)だが、手を動かすのは助手の女性、番組進行をするお喋りMCの質問にはHが答え、コミカルなやり取りの中にHの独自の哲学がちりばめられる。その言葉は簡潔だがMCの、引いては観客が共有する一般認識を覆していく。飽食への警鐘から肉食への疑念、更に「荒唐無稽」な領域へと話は進展するが、領域の境界がいつしか踏み越えられ、不可思議の物語に誘われる。
主人公の役をやる浜田信也が年齢的にも役に適し、荒唐無稽な「仮説」に演劇的リアリティを与える。だが彼と対峙する記者(安井順平)こそ観客が投影する人物で、重い問いを投げかける存在となる。二人の関係という基本構図に彩りを添える周囲の人物らのディテイルが美味しく、人間味ある人間らを鮮やかに象るが、時間を超越した視線を通す事により、人間の類型的な描写を可能にする(「あゆみ」の眼差しに似た、愛すべき人間の形象)。
余白が効いている。冒頭のTV番組での料理の時間、台詞が止まるが料理が進む。限界の長さ沈黙を試みているが、それによってリアルさが刻印される。際物な物語が、どういう身体から語られるのかは重要であった、と見終えてから思う。
台詞の無い若い二人が不思議な存在感を持つ。「現在」の料理教室でアシスタントをしていたりするが、料理番組収録に入る前、真の冒頭でテーブルメイキング等に無言で勤しむ所作が、鮮明な印象を残すのだが、それだけである。ただ、掘り起こされる「話」、世間には出せない事実を、二人は知っているのかいないのか、演出的には特に示唆をしないが、観客はどちらなのか、と「?」を無意識に抱え込む。この存在を置いた事は他の諸々と考え合わせ、演出力を実感させるもの。

総じて、猟奇さが強調された初演に比べれば、奥行きある人間描写により完成度の高い人間ドラマとして見る事のできた再演版であった。
ドードーが落下する

ドードーが落下する

劇団た組

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2022/09/21 (水) ~ 2022/10/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

作演出の近作を3つ観たのみだが、らしい世界観である。平原テツの役柄もあってバイバイの胸苦しい芝居を思い出す(金子氏の出演もあり)。

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