ドードーが落下する
劇団た組
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2022/09/21 (水) ~ 2022/10/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
作演出の近作を3つ観たのみだが、らしい世界観である。平原テツの役柄もあってバイバイの胸苦しい芝居を思い出す(金子氏の出演もあり)。
かもめ
ハツビロコウ
小劇場B1(東京都)
2022/09/20 (火) ~ 2022/09/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鐘下作品だけでなく古典・名作も手掛けるようになったハツビロコウの今作は「かもめ」。これまでイプセンや三好十郎等、硬軟で言えば「硬」に寄った印象ではあったのだが、(松田正隆作品をやった時はその印象を覆したが残念ながら未見)此度はチェーホフ。ところが開幕前、この希望の無い物語へ誘われようとしている間際に言い知れぬ不安が過ぎった。「与えられなかった」人間がそれゆえ希望を抱けず絶望に堕ちて行くという、身も蓋もない様を高みから愛でる作品(そうして辛うじて直視できる真実)を、己の事のように見せられる予感だ。冒頭の二人、甘く切なく甘味な恋の姿が「形」として(即ち本物と知れるように)描かれる。ハッとする。二人にとってのこの瞬間の「偽りの無さ」が、成る程全ての始まりであった。ハツビロコウの「かもめ」が始まった、と実感する。
かくして麻酔が効いた後の治療のように、ハツビロコウ版「かもめ」(今回はテキレジは少なめに思えた)の活写する酷薄な人間ドラマを、漏らさず味わい尽くす時間となった。
毎度ながら、どう手を入れたのか、と思う程に、戯曲の骨格がクリアに浮かび上がって来る。昨年川崎で観た秀逸な「かもめ」はまるで対照的、人物たちの滑稽な生き様を臆せずぶった切る喜劇的演出を極めた舞台であった。一方こちらはハツビロコウらしい「リアル」を掘り起こした言わば「悲劇」の舞台だが、人間の心の赤裸々なありようを透徹した時、そこに微かな救いが見える。「人間」という作品そのものの美が、チェーホフをして文字に起こさしめた。
最近読んだ「戯曲」に関する論考によると戯曲は大きく分けて「人や世界は変わり得る」と信じる思想に貫かれた戯曲と、「変り得ない」との世界観に基づく戯曲とがあると言い、前者=リアリズム演劇の典型としてイプセン以来の多くの演劇、後者にはギリシャ悲劇、そしてチェーホフが挙げられていた。
なるほど一つの穿った分析だが、困難を乗り越える物語の濃度を高めるのはその困難の大きさであり、現実の中にその困難というものはある。この現実の不条理により肉薄する事で、物語は使命の半分は終えている。より厳しい現実(の抉り方)が問題の所在をまずは明示したからだ。そう考えると、酷薄な現実の描写はたとえその事態の好転を記さなくとも、何らかの解決、和解の萌芽を観客は認めるも可能。チェーホフの長編作品にあるロシアの没落や時間の不可逆性への諦念は、人と世界の真実はこうだと突き放しているが観客は絶望して帰路につくわけではない。人生や社会について噛み締める。それはリアリズム演劇にないというものでもない。
全部あったかいものは
コトリ会議
こまばアゴラ劇場(東京都)
2022/09/14 (水) ~ 2022/09/21 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アゴラに来るコトリ会議を数年前の「カッコン」から見ているが(前公演「ポチ」は見ず)、久々の今回はちょっと新鮮。最近アゴラで立て続けに見ているトリコ・A、ニットキャップシアターも「おや?これがあの」と意外な作風であったが、こちらも脱力・不条理のテイストは堅持しつつリアルの側面がやはり出ていた。かつて作者がいた職場が舞台という事もあってだろうか・・。不可思議の要素と泥臭いリアルのバランスが私的には程よくなり、変キャラたちも破綻なく存在し、リアル領域では何つっても男女関係のもつれが笑え、<普通>にとどまらぬ関係性が楽しい。非正規のダメ男(主人公)を、正式に付き合ってる男よりも「好きだ」と表明する女(それで関係性を変える訳ではない)や、「やらせてくれない」女と付き合ってる男が男版ツンデレを発揮したり、やらせてもいない女が不貞の相手(やってないんだが)に別れを切り出し、実は最も気にしているのは夫(主人公)であるのに妙な距離を作ったり(これもツンデレの一種か)。その夫がどうやら「住んでるらしい」部屋=契約社員の控室が、劇の舞台となっており、この「場」に何となく居る男や、「出る」らしい女(幽霊?)も、やがて明かされる裏ストーリーの登場人物。もっともこの種明かしの話の部分は如何ようにもである。物語の一本の筋の上で、賑々しく立ち回る人物たちが面白い。
BREATH
キャラメルボックス俳優教室
新宿スターフィールド(東京都)
2022/09/14 (水) ~ 2022/09/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
キャラメルボックスっぽい、とかキャラメルボックス風、的、系といった形容はきっとあったと思う、というのも、こういうテンションでノリで演じてる若者の芝居を以前、中々の率で観たし若者に好まれるのも判る。
昔TVで見た(そんな時代もあった)同劇団の「サンタさんが何とか」とか言う芝居が、開演と同時にすぐさま甦った。舞台手前両脇で2人が電話している図、話が噛み合わない内に切れて片方が困り顔、だったり、発語のテンションだったり、総勢で見せる歌、そして踊りのタイプも「効率的に客を乗せる)。テンポを作る音楽(場の間ずっと鳴る)、無音、メロウな音楽の切り替えなど。(観客は終始音楽に気分を誘導されている。)
もっとも本作は数年前に書かれた作品。作者がパンフにネタ元や、自身の過去作からの借用設定等をあっけらかんと紹介していて、バックステージ物である本作で上演される芝居が、先の「サンタさん・・」である事も(確かに台詞練習の場面ではスクリーンのこちら側とあちら側がどうだと言った台詞を吐いていた。かつての公演のパンフにも劇作家はネタ元をウディアレンの某映画だとか、あっけらかんと書いたに違いない)。
転換のインターバルが短いのは数個のエピソードが並行している事によるが、それぞれの接点もある。2、3クール回ると表面上の対立や不具合の背景が少しずつ顕われて来る。最初はランダムな線たちだけであったのが、面の中の空隙となり、やがてはっきりとした穴となり、着実に埋められて行く。
で、思ったのは「キャラメルボックス」的舞台は数あれど本家の完成度には敵わない、という事である。
なお役者を陥落から掬っているのは台詞、台詞がそこへ至る不安定さを解消して役者を輝かせる。
夜の女たち【9月3日~8日公演中止】
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2022/09/03 (土) ~ 2022/09/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
溝口健二監督作品、ミュージカル(荻野清子作曲)、の二点でもって観劇に及んだ。☆5を付けたい衝動はある。ミュージカルとして堪能できた実感は残るが、その「ミュージカル」性について判断つかない、というか持て余す部分がある。いずれにせよ「夜の女たち」の世界を味わい、こみ上げて来るものがあった。そう、映画は未見であったので、自分の中の古きシネマの残滓を集めて投影したような感覚・・(例えば成瀬巳喜男の「浮雲」や川島雄三「洲崎パラダイス・赤信号」「風船」、小津監督の「東京暮色」等)。観劇後、あらためて映画「夜の女たち」を観ると、舞台は原作をほぼなぞっている。若干ニュアンスが異なる部分もあるが、僅かな差異は意味的には大きい。主人公は終盤商売仲間たちからボカスカやられるが、舞台では二度それがあってキツかった(一度であれば記号的な理解に止められるが二度やると生理的にも「持たない」と思われ、それを払拭する演技上の正当化なり展開が求められる)。ネガティブな要素はそこのみ。他は良い効果を持ったと思う。前半の貞淑な妻が夫に死なれ一粒種にも逝かれた後、身を寄せ体の関係もあった社長に実の妹を寝取られる(というより男を妹に寝取られる)に及ぶ。空白の時間を挟んで現れた主人公は夜の商売に身をやつしている。江口のり子の(歌はともかく)関西弁の演技は中々痺れるんであるが、秩序外に生きる人間の心の荒みと、肉親思い(実の妹には母親代り、死んだ夫の妹には姉代り)との両面性が(映画でも田中絹代が好演しているが)見せ所。彼女の己を支える(男への、社会への)復讐心を吐露する時、頭にスカーフを巻いた仲間の一人がすかさず「叛逆やね」と小声で言う。教育のない彼女らに、主人公が知恵を入れたか、「どこかにあるといふ」希望の別表現として「叛逆」を二度言う。これは映画には無かった。だが闘う構えを見せる事で、その対象である大きなもの、社会が照射され、ドラマの構図に到達する。
時分にとっての「目玉」であった荻野清子(音楽)は、今回の仕事でようやく蘇った。
(何度も書いてそうだが)黒テントの「メザスヒカリノ・・」では松本大洋の飄々とした、多彩な場面で構成される舞台を多彩な音楽で支え、松本ワールドを具現した名作となった。長らく名前を見ずに過ごしてある時ミュージカル界にその名前を見つけ、著名な脚本家による舞台を普段は踏み入れない高名なタレントや俳優の出る劇場に(彼女が音楽というので)足を運んだが、ガッカリ(芝居が超つまらなく、これにどう音楽をつけるの?という作曲家の声が聞こえそうな位で、劇中音楽の流れる箇所は僅かだった)。その後も一つ見ていて、こまつ座「十一ひきのネコ」の宇野誠一郎氏の楽曲をベースに新たな楽曲を一、二加えていたが、宇野氏のテイストと荻野氏のは異なり、同じ劇の中で両者が棲み分けている状態(私には荻野楽曲が流れる時間が心地よいが、激全体は宇野氏テイストなのでバランス的に難しいものがあった)。
今回のミュージカル楽曲は全体にジャジーで、特徴的な楽曲2つを多義的に頻度高く用いて効果的であり、劇的高揚を幾度も味わえた。
一つ、ラストではアウトローを自認した女たちの群唱が、転調を重ね、綾なすように声が折り重なるのだが、荻野女史は、最後にテーマのメロディに戻る前の混沌において、一つ音を探し出せなかったのではないか、と思った。「音程の向こう側」を表すにもその音が欲しいはず、、勝手な推測だが。
俳優については江口以外は事前に確認しておらず、舞台上で福田転球が判った以外は後で確認した。
☆4にした理由が判った。女の悲運の物語にいくら感情移入しようが、よく描かれていればいる程、男はその甘味な情感に浸れるのであり、そこには慎みを求められるような。。何となく、そんな感覚に見舞われる。
豚と真珠湾
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2022/09/09 (金) ~ 2022/09/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
沖縄語(八重山方言)を使った舞台で、これについては前方席で観られたのは(恐らく)良かった。(聴いて判らない単語が方言なのか、聞き取れなかった別の単語なのか、の違いが判別できるだけでも随分違う。)
敗戦直後から朝鮮戦争あたりまでを切り取った、石垣島の料理屋を舞台にした芝居。思い起こせば我が青年劇場初観劇の演目も斎藤憐の新作であったが、本作は(演出の力も大きそうだが)改めてこの劇作家の筆力を再認識する機会となった。
様々な「語られるべき」要素が人物の来歴とエピソードに織り込まれ、半紙を一枚一枚折り重ねて固めて柱が顕れるような具合に確かな世界が生まれていた。
演出面で幾つか目を瞠る箇所があり、この戯曲を現代の自分たちの目の前に差し出す事に成功している。
楽日前、土曜夜という事もあって(この劇団の観客的に)客席は淋しかったが役者諸氏の力は漲っていた。
青ひげ公の城
Project Nyx
ザ・スズナリ(東京都)
2022/09/08 (木) ~ 2022/09/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
震災の年に暗鬱を吹き飛ばすかのような、あるいは癒すような「小鷹狩鞠子」を観たのが初ProjectNyx、以来足が向かずにいたが申大樹演出に注目して「売春捜査官」、説教節への興味で「さんせう太夫」、と観て来て女優だらけの舞台へのハードルも下り、寺山修司の未見作品に注目し、都合4度目のNyx観劇。見世物小屋の復権とは寺山天井桟敷のものだったか・・演劇の祝祭性を煮詰めた一大エンタメをスズナリで所狭しと見せられ、魅せられた。何気に金守珍の演出は毎回マンネリ化せず見事であるが役者揃いとはこの事。披露される「芸」の数々を並べればネタバレになるが、それらが余剰にならず舞台を構成する要素となり、それぞれ群像を形成する。演劇的な快楽がある。
笑顔の砦
庭劇団ペニノ
吉祥寺シアター(東京都)
2022/09/10 (土) ~ 2022/09/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
前回のKAAT再演を観ての今回。期待通りバッチリ。不明だった部分もクリアに。細密度に瞠目。緒方晋がやっぱりなあ(感無量)。夜が明ける。笑いがある。
気づかいルーシー【8月3日~14日公演中止】
東京芸術劇場
パルテノン多摩・大ホール(東京都)
2022/09/10 (土) ~ 2022/09/10 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
初めてのパルテノン多摩訪問で、再々演にして漸く初お目見えの「ルーシー」を観劇(ちょっといい旅気分)。松尾スズキ原作、ノゾエ征爾脚色演出。ノゾエ氏は松尾氏と浅からぬ縁らしいが、舞台人の中では芝居で「うんこ」と言える人種、で括るも可だろうか。
都心でやるより子ども率(親子率)高めと見受け、地方公演の風景だなとワクワク。明らかに子どもに向かって前説するノゾエ氏が子どもモードになっている。
後方席からは俳優の判別が困難だがノゾエ氏と川上友里氏は声で判る。最初コロスのように立ち回る三人の内、舞踊的な動きは女性が引っ張っており、振付の人?等と一瞬思ったが川上氏であった。身体の切れもあるのだなと改めて。
終演後の「答え合わせ」では、おじいさん役に小野寺修二氏、馬役に大鶴佐助、王子役に栗原類、ルーシー役は岸井ゆきの、結構美味しい座組であった(調べりゃわかるつうの)。
「気づかい」がキーにはなっているが、話そのものは物質的にグロい。(登場人物の皮を剥ぐ、糞をポロポロと出す、馬の前と後ろで人格(馬格)が分かれる、等。)
ただ、話が大団円へと向かうあたりでナレーターの馬が、「気づかい」を奨励するような事を言う。シュールな話に真っ当らしいオチを付けなくても・・とは正直な思いであったが、私は子どもがどう受け取ったのかと、それを思いながら観ていた。「言っちゃいけないこと/やっちゃいけないこと」に次第に包囲されて行く社会(その最大の被害者は子ども)の中で、「何でも言っちゃっていいノダ」の世界に触れているかな??と。
評決 The Verdict
劇団昴
俳優座劇場(東京都)
2022/08/31 (水) ~ 2022/09/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
キンダースペース原田一樹氏の演出舞台はどうやら初めて。映画の印象が強いこの作品であったが、ほぼ映画と同じ流れを辿り(時系列に沿って進む完成されたサスペンスに手を加えるのは容易でなさそう)、イメージが固着した物語のディテールを新たに味わい直す楽しみがあった。
作品と演出とを総合して(どちらの比重が大きいかは判別できない)、物語のもつラディカルさが堅実な作りによって観客の前に差し出された、という手触りがあった。余計な細工をしない演出で若干淋しかったのは、裁判を決定づけた最後の証人と被告側(要は悪者=医療ミスを隠蔽した)弁護人とのやり取りが、映画ではカット、ズームアップによりドラマティックに編集されていたが、同じやり取りが舞台だと平面的になるため、スポットで強調、受け芝居の側が判りやすく動揺してみせる、などを観客なりに考えるがそれは無く、医療事故当時、問診票の改竄を執刀医に頼まれて従い、看護師を止めざるを得なかった無念を吐き出した劇的な証言も、淡々と処理される。ただ、明らかに偏った裁判指揮、証拠の不採用といった処理にも関わらず陪審員が要求額以上の賠償額を添えた有罪判決を静かに読み上げる神聖なクライマックスは、その前段の演出如何に関わらず訪れるのであるが。
真実とそれに拠って立つ公正さを希求する精神が、なぜ「ラディカル」と呼ばれるかは、それを許さない厳しい現実がある、という単純な事実を記すのみである。私達の目の前に恰好のサンプルがあり、かつて相対的穏やかな時代には(この映画も)ドラマの中の話であったもの。それがリアルに切実に臨場感をもって感じられるというのは、演劇界的には有難い事なのか・・。
老獣のおたけび
くちびるの会
こまばアゴラ劇場(東京都)
2022/09/03 (土) ~ 2022/09/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
昔雑遊あたりで観た切り、と思っていたら割と最近吉祥寺でも観ていたくちびるの会。どちらも中々イケる舞台だった感触のみ記憶に残ってい、期待値やや高で観劇。
役者力に頼んだ芝居、とは言え、不条理な設定がじわじわと効力を発し、花開いたと感じた。日本の不条理演劇の開祖別役実の作品に肖った訳ではなかろうが、、チョイスは正解。子供に好かれるキャラ、しかし害獣、の二面を備えた存在に頼んだ芝居、とも言えるか。
終始目に映っていたのは認知症老人という「困った存在」で、そのデフォルメされた表現としてのそれ。「困り」つつも理解に努め、「共生」を模索している所へ排除主義が介入してくる。安全を掲げ、遵法精神を発揮して(法の奴隷)、正義面して人の弱みを突く(コロナが増産した、否見える化した)何とか警察的な人間共を自分はつい重ねて見ていた。
ひいては、そうした大衆の反知性化を歓迎し「何もしない」政治で「やってる感」の演出だけに勤しむ、我が国の統治者たちに身を預けておる現状へのやるせなさも。(まァこれは個人的な、投影ではあるが..。)
父権的で一方的に価値観を押し付ける父、であれば結婚は双方の合意のみで成り立つ、父無視で良いではないか。実家を出て10年間近寄ってもいないのだし・・とはならない所は、現今の何でもありな風潮にはそぐわぬが、慣習は内律的なもの。どこか韓国ドラマを思い出させる(かの国では家父長制が強いがこの理不尽な代物と「付き合う」事を良しとしている所がある・・映画等の印象だが)。
役者力に頼んだ、と書いたが、とりわけN氏の設定を体になじませ「認知の揺らぎ」を無言で見せる演技に感服な一時間半であった。
カレーと村民
ニットキャップシアター
こまばアゴラ劇場(東京都)
2022/08/26 (金) ~ 2022/08/29 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
だいぶ前に一度だけ観た関西の劇団。その時の印象とは随分違う。先日のトリコ・Aに続き、作り込んだリアル美術の前で、こちらは時代物。日露戦争後の世相を描く。とある町の名主の屋敷の土間(町の人らも出入りするセミパブリック空間)にお出ますは、洋行帰りの次男、その許嫁、家督を継いだ長男と嫁(ごりょんさん)、老母。ご近所からは戦地還りの兄とその妹、息子を失った母、息子が復員する事になった夫婦。屋敷には出戻りの手伝い(孫を失った)、そして新しい女中。
(日清戦争と違って)戦死者も多かった日露戦争を終えた年。戦後賠償の額に庶民は注目している。「死に甲斐」を戦後賠償の額でせめて納得しようとした遺族が「賠償金ゼロ」の報に落胆し、やがて妥結した政府に対し撤回を求めて人々が立ち上がるという、史実の断片が切り取られている。提灯行列まで起こった「戦勝」だが、実際には人海戦術のロシア軍との際限ない営みにとりあえずピリオドを打ったに過ぎず、賠償を引き出せる内容でもなく、サハリン南部を取っただけでも御の字であったと、今は知られているが、考えてみれば戦争という賭け事の結果に相場など無いものを何がそうさせたのか。10年前の日清戦争で予期せず高額な賠償金を得たことにより「列強並み」へと持ち上げられた庶民の自意識の為せる業か。
資本主義化の進行と共に、「お金」「領土」獲得ゲームに熱狂する俗物性が露骨になって行く分岐点はこの日露戦争であったと言われる。西欧コンプレックスから明治維新の混乱を経て、国民国家経営の仕組みを整えて行く内部の努力が、対外的に通用したのが日清・日露の戦勝であり、二度目の「成功」はその規模から10倍の賠償金を取りざたさせたが、それが不本意な結果に終わったのだった。
作者はこの史実であまり語られない国民の犠牲(戦死)に焦点を当てたが、芝居の核は反戦にはない。ロシアによる「戦争」を扱う芝居の上演となったが、昨年中止された公演だからウクライナ侵攻を受けて書かれたものではない(改稿してれば別だが)。
作者は特徴的な人物として、知識があり進歩的だが芯の無い次男という存在を置いている。維新以来、付け焼き刃の文明化を走り来った日本の「知」の脆弱さの象徴と見え、その一方情緒的で打算的な庶民はそうとは知らずに歴史を前へと押し進める。
コーリングユー
快快
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2022/08/26 (金) ~ 2022/09/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
快快を一言で言えば「全く読めない」、製作と思考のプロセスが「想像がつかない」。こりっち的には第2回アワード第一位を岩井秀人作品をアレンジした舞台で受賞とのこと。
自分の初見は2018年アゴラにて、メンバー3名による奇妙なパフォーマンスにはトークゲストの岩井氏が「あれ何?」とガチ突っ込みして笑いが起きていた。その後KAATで多田淳之介の「再生」を岩井演出バージョンで上演、後藤剛範や元メンバー中林舞も加わり、私的には「再生」初体験で衝撃であったが、快快の正体は依然不明。
身体表現に傾倒したグループではあり、集団制作を行なう集団のようで一つのポリシー、才能がリードする製作でないため、構成メンバーによって変容すると思われる。今回の作品も海のものとも山のものとも、であったが、詩人・鈴木史郎康を扱うというので鋭い方向性はありそうと踏み、足を運んだ。
多彩な局面が飛び出てくる。休憩を舞台上で行なうが、客の姿は見えない体でやるので成立している。アゴラで観た時と同じ3名プラス上手側でキーボードと機材で音を出し続けている女子の4名で作る舞台はまるで子供の遊び時間のよう(即ち永遠)であるが、詩人から作り手が受けたもの、授かった何ものかをじんわりと伝えて来る。それは「現代」が、あるいは現代を生きる自分が、時間と共に失って行くもの、あるいは負わせられて行くものからの「解放」を示唆する。史郎康の言葉を言う天の声(雑音混じりのラジオから聞こえる女性の声)が、宇宙との交信のよう。・・人は人生を線で捉えるが、過去は一切なく、未来もなく、現在という点だけ。
延々と続く時間を象徴する舞台上の大きな三角形の上で、演者は移動したり止まって何かをやったりする。時にそこを下りて歩いたり、三角形の中にある水場(浮き輪が浮いている)や、電話ボックス。演者の衣裳も含め風景としてはリゾート地。電話ボックスの使い方が面白い。開幕してのっけに誰か(多分史郎康)に電話をかけ、今から舞台やるんだけど大体○○分位、受話器置いとくから聴いてて、途中眠くなったら寝てもいいし・・半前説的な台詞で始まる。で、電話ボックスだが、途中何度か演者が置かれた受話器を手にとって電話の向こうに話しかけるのだが、相手が実は認知症かのような仄かしがチラと過る。この仕込みによって、聴く者は、折節に読まれる言葉が「詩人の言葉」とも「痴呆老人の言葉」とも解し得ることとなる。すなわち、一詩人という存在を超えて行く。聖書にある預言者(神の言の媒介者)は詩人と同義と言われるが、権威が認める者だけが詩人であるとは限らない。
さり気ない工夫の数々、ディテイルに知とユーモアが潜み、相変わらず快快という集団の正体は判らぬが遊び時間を存分に堪能した。ラッキー。
コスモス/KOSMOS
サイマル演劇団+コニエレニ
シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)
2022/08/25 (木) ~ 2022/08/28 (日)公演終了
実演鑑賞
「狂人と尼僧」が秀逸だった同ユニットの今作は、テキストの解読が難しかった。(と言っても毎度難しいのであるが、、)
時計の秒針を鳴らしながらの上演という(お馴染みの)演出が、観る自分の胆力もあって催眠効果になったか・・。テキストを読んで観劇に臨むか、パンフに梗概が載っているとか、必要ではないのだろうか。
抽象性の高い舞台は観慣れてはいなくとも面白がれる自負だけはあったが、今回は自分はあと何がほしかったか、抽象舞台の成立の要素は何か、つらつら考える事になった。発語者の感情表現、的確な物言い、そこではないか。
テキストはこうした作品(サイマル演劇団の得意とする)の例に漏れず、モノローグが主であり、出演者同士の(役人物の)関係性を知らせる台詞情報は薄く、冒頭近くに最小限の説明が為された感はあるが、それで事足りるはずはなく、ドラマの発展の中で通常はそれらが明瞭に浮かび上がるものであるが、その説明には殆ど字を割いておらず、人物個々にしゃべらせたい事をひたすら喋らせているといったような・・。常連の葉月結子の突出感(おどろおどろしさ)は、ヒントの少ない舞台にあっては有難く、それは意味的な情報をもたらすというよりも、心情表現自体がもたらす快楽である。言語を嚙み砕き征服し、己のものとして吐き出す事が出来ているから、だと思う。台詞を追いかけている演技の段階(モノローグではそれが許されそうだが)では、あの声は出せない。役者的にはその声は役の中心からしか発せられない、という事であるならば、役をどう捉えるかも大きな課題で、テキストを提示する、という役割だけでは舞台として自立しないのだろう。役者の役割は大きい。「人のせい」にする訳ではないが、役の「心」が見える演者が一人増えれば、もっと立体的に見えたのかも・・等と想像を逞しくする。
舞台のビジュアルはよく、演出の手の内に自分がある感じがするし、言葉を発する役者の力量は否定しないのだが・・。
毛皮のヴィーナス
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2022/08/20 (土) ~ 2022/09/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
二人芝居。内容にも拠るが全編ダイアローグで成立する二人芝居を泳ぎ切るだけでアスリートに送る声援と同じ種類の拍手を送りたくなる。一人芝居にも感服するが、二人の方が不確定要素が混じり(いや厳密には一人芝居もそうなのかも知れぬが)、正しくライブ。取り組み甲斐のある題材を剛腕という印象の溝端淳平、ミューズの高岡早紀がポテンシャルぎりぎりを出し切る激しさで好演。戯曲はマゾッホ作品を脚本化した青年が(他に演出できる者がいないという理由で)演出をするオーディションに、遅れて入ってきた女優とのやり取りである。
劇中の戯曲の場面を演じる役者としての二人、素に戻ったときの二人、を行き来するが、「役を変わって」と言われて逆の役をやる場面もあって、人格としては一つなのだが、憑依する演技によって、素の自分(たち)にその影響を及ぼし、二人の関係性をも侵食して行く事で「今誰なのか」が必ずしも判別できなくなる様相。他者を演じることはそこに自分を見出す事でもあるが、この戯曲は眠れるマゾッホ性を見出していく二人という「変化」により、この戯曲総体としてマゾッホ文学=常識の解体(の危険性?)が図られている。ある性嗜好の発見・理解から人間の本質に迫るアプローチと言えるか。対等でなく主従の関係を求め、服従する事に快感を覚える背徳性(「服従するに値する」相手が現われなければ実現しないが)は、人権思想の否定に繋がりそうなタブーな世界観だが、どの時代にもタブー領域は先見性とも言える。(これと似た物として思い出すのは、「人間とは忘却によって辛うじて救われている」、と述べた思想家が居たが、これは「歴史を忘れてはならない」という正論に土砂を掛ける手強い論理である。)
この視点に即して、今舞台では戯曲が何を狙ったのか、というあたりが必ずしも見えて来なかったが、スリリングで楽しく、演技としては指定されている動き(例えば帰ろうとして帰らずに戻る等)を十二分に正当化し、臨場感ある流れを作る様は見ていて気持ちよく、ノリで行くタイプが高岡、計算しているのが溝端、という印象ではあった。
「貴婦人の来訪」で実力を見た五戸演出の、こちらも成功作となった。
銀河鉄道の夜
東京演劇アンサンブル
池袋西口公園野外劇場 グローバルリング シアター(東京都)
2022/08/26 (金) ~ 2022/08/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
池袋西口広場、以前はどんな場所だったっけ・・・変ってしまうと中々思い出せないが、かつてここは秋季開催の演劇祭FTトーキョーの会場になる事もあり、忘れもせぬインドネシアのグループが竹で組んだ巨大な「船」で行なった無言のパフォーマンス、その後、広場の奥側に作られた恒常的なステージ(今もある)に組んだ客席から、広場を縁の方まで広く使った豪州だったかの障害者と作るグループ(昼日中飄々としたパフォーマンスが微笑ましかった)、そして今年何年目かの「東京演劇祭」の初年、野外劇「三文オペラ」等等。
野外劇と言えば「夏」、のセオリーに則り、今回は東京演劇アンサンブルの往年のレパートリーが装い新たに出現した。
広場奥の常設ステージには盆に乗った岩場(客が乗る=銀河鉄道を表す)から、後部座席辺の円形の台まで一直線に道が延びる(高さは70cm位か)。広い空の下、会場自体が物語のスケール感に相応しい「装置」となっている。ジョバンニは学校からの帰り道、草の上に寝ていていつしか「銀河鉄道」に乗っている。ジョバンニの日常のこと、すなわち、カムパネルラやザネリ、父のこと、牛乳を取りに行く事などは道中、あるいはラスト、最小限の台詞で説明される。物語の大部分はカムパネルラと銀河の旅程で見る様々な不思議な場面だ。
「歴史の歴史を掘る」博士、鳥を採って押し葉にする鳥獲り、人間界からやって来た船舶事故で溺れた姉弟とその家庭教師のお話、赤く燃えるサソリの話・・。新演出としてはサソリが炎のように踊る踊りは以前見たのと振りが変わっていて、見ると振付に三東瑠璃の名前。そして出色は、スペーシックなイメージの映像が新たに加わって場面転換で流れる。これが何とnibrollの高橋氏によるもの。
一度は長い上演期間を経て終了したアンサンブルの「銀河」、今回はこの会場仕様の誂えという事かも知れないが、一度も洗った事のない寸胴に入ったソースが、新しい素材を加える事で常に新鮮に(作品の本質を変えず)蘇ることを改めて発見できた。
加担者
オフィスコットーネ
駅前劇場(東京都)
2022/08/26 (金) ~ 2022/09/05 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
昨年の「物理学者たち」で知った20世紀の劇作家ディレンマットの名を目にする機会が、今年6月新国立「貴婦人の来訪」、そして今作と(なぜか?)続く。
挑発的な、濃い戯曲で、科学者の倫理を問う今作と「物理学者たち」は共に寓意性が高いが、今作がよりグロテスクである。というのは、既に死んだ者が平然と’(時系列を無視して?)登場したりする事以外は「リアル」の範疇で、描き出されるのは(「物理学者たち」が不条理劇に近いのに対し)人間同士が日常の延長で関わる風景であったりする。
舞台となる「地下」の用途目的、状況(死体溶解装置が置かれている)自体が異常であり、(装置を作った)元科学者が日常を送る場であるという設定は、異常を意識する時間と、無意識化される時間とを作り出す。
現代の「異常さに慣れ切った」側面が凝縮されたとも言える場に高給と住処を宛がわれた彼は、最も観る者が感情移入する登場人物ではあるが、それが観る者の正常感覚を揺さぶる。
ドイツ語圏スイスのこの作家は上記「物理学者たち」で名声を手にし、本作の「大失敗」(Wikiより)で戯曲に手を出さなくなったとか。元々小説家、エッセイ作家でもある彼の戯曲は数は少ないがどれも20世紀的問題臭を強烈に放つ。ただ今作「加担者」は世紀を跨いで跋扈する「神から最も遠い」呪われた何かの影を突き出してくる。
話の展開は神経を石臼で挽くようだがどこか甘味で、人間(自分)への深い疑いと絶望を抱いたときに却って人間(自分)を愛おしくなるあの瞬間の記憶が掠める。
T Crossroad 短編戯曲祭<花鳥風月>夏
ティーファクトリー
雑遊(東京都)
2022/08/23 (火) ~ 2022/08/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
昨年初頭吉祥寺シアターで大々的に開催されていた短編戯曲祭は1プログラムだけ覗く事ができたが、多彩な戯曲と舞台はしっかりと作られており、コロナの1年を経て生み出した凝縮した何かに思えた(劇場の空気感も暗鬱な世情を投影して今と少し違ったのだろう)。さて、TFactoryのホームの感のある雑遊(ただし昔の地下劇場とは別物になってしまった)に場所を移し、春に1つ、今回の夏に1つ、足を運んたが、随分簡素になった。劇場の方は素舞台の黒い床に蓄光テープが貼られた粗末さは、以前せんがわ劇場で観た「厳しい」舞台が思い出された。照明でフォローできないのか、とか考えてしまった。中身が厳しいと舞台もみすぼらしく見えるのか、それとも使い方の問題か・・等。
戯曲が「悪い」とは言わないが、春はまだ川村氏の戯曲の一部粗読みを混ぜて3作あって1時間少々、しかし今回は20分程の抽象的な言葉が並んだ戯曲が2本、終演して時計を見たら45分だった。芝居は「長さ」ではないが一般論としては短ければ短いなりの内容だ。20分やそこらで言いたい事が「言い切れる」訳はなく。ダイアローグと違いモノローグは一人称で完結できる。近しい主体が対立でなく同意しつつ言葉を紡ぐのも同様。演劇では言葉の行方も観たいが人物の「反応」も見たい。私が観た回がそうだったのかも知れぬが、自分には物足りなかった。
若手劇作家志望を励ますスタンスででも見れば良いのか、どうなのか・・この短編集の位置づけが実はよく判っていなかった。コロナ禍下での演劇人の内的叫びを開陳するTFactory広場、な風に勝手に理解していたが、企画としても作品自体もヒントが少なすぎる。
春琴SHOW!!【公演期間変更】
劇団ドガドガプラス
浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)
2022/08/19 (金) ~ 2022/08/25 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
ドガドガ復活祭2本目も拝見。3時間近い舞台も飽きさせず台詞の調子も良く望月六郎の筆ぢからにはいつもながら感服する。音楽、歌もじつは本域で作られ場面に相応しい。
明治大正の文学を軸に荒唐無稽も交えて時代を描き、現代を透視する望月節が好むのは闇世界、演じ甲斐ある各種アウトロー、各種裏世界の女たちは日本映画全盛時代の活劇が常套とした世界で通じるものがある。
今作は女性が多数出演。タイトルロールの春琴、狂言回し=タイムボカンのドロンジョ(ボヤッキーとトンヅラを従える)、あともう一人をドガドガ三人娘(トップ3)が飾るが、この図が映えるのは他の出来る(跳べる)役者、歌える役者、踊れる役者、キャラで押せる役者等、適材適所により舞台総体で群像を描けているからで、そのあたりの塩梅もよくしたものだが一人一人が弾け切っておる。限りなく演劇に近いレビューとも言えるが、荒唐無稽で色物でB級に括ってしまえそうだがB級を侮る勿れと一言も添えたくなる。
そう言えばコロナ前はこの公演におっさんらが結構席を埋めていたが・・(かつてなら場末の映画館に出入りしていただろうような・・。)
今は昔、栄養映画館
みやのりのかい
OFF OFFシアター(東京都)
2022/08/12 (金) ~ 2022/08/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
知った名は小宮氏。「楽園」での一人芝居が強烈であったので氏の関わる公演は観たいという気持ちはある。んな事でシリアスと真逆らしい二人芝居に出掛けた。栄耀栄華もとい栄養映画の館にて、懐かしの映画の話題も織り込みつつ、来ない客を待つ二人の待ち時間を引き延ばしに延ばす劇。映画を撮った監督がスピーチの練習をしている所から始まるが、疎ましい助監督に無理難題を言ったりと撮影風景が忍ばれる二人のやり取り。その映画がこのたび賞を獲り、何やら所縁の映画館らしいその場所で祝賀会がある、という事なのだが、一つには「賞を獲る監督に見えない」。だからいつ「なーんちゃって」の種明かしがあるかと構えてしまう(もっとも冒頭から会話のテンポとパワーでそこは気にしなくなるのではあるが)。もう一つには「客が訪れる気がしない」。不ぞろいの椅子が数客だったり、祝賀会そのものが二人の妄想(又は一人の妄想にもう一人がつき合っている)と見えてしまい、その種明かしもいつ為されるのか、という目と耳になってしまう。とは言え「ローゼンクランツと・・」や「モジョミキ」のようにシャチこばらず見られる二人芝居、「ゴドー」に思い切り寄せても良し、ブラッシュアップするなり新ネタ開拓するでも、再び見える日が来ると素朴に嬉しい。