1
ダウト 〜疑いについての寓話
風姿花伝プロデュース
腐敗と対峙しようとする「職務に忠実な」校長の目に映る世界と、「人間(自分を含めた)のあり方」を神の祝福と赦しの中に見出そうとする神父の願望を映じた世界。決して交わる事のない二人の視点を険しく対峙させ、観客に問いを投げていた。
話の中ではカトリックの学校に転任してきた新米教員(伊勢佳世)と、事を荒立てずに息子を卒業させたい「被害者生徒」の母(津田真澄)が、校長が貫こうとする道の前に障害として立ちはだかる。その事で益々校長の信念と行動力を作者は際立つよう描いているが、いよいよ訪れるこの校長(那須佐代子)と神父(亀田佳明)との息詰まる密室の会話の場面は見事。俳優という仕事に畏敬を覚えた時間であった。
さて結末では、校長の眼力は正しく神父は自ら学校を去る事となるが(といっても栄転としてだが)、しかしLGBTの概念さえなかった時代に、神父が取り得た行動が他にあったか、という素朴な思いも残る。同性愛者がありのままを受容される場所もカテゴリーもない時、「愛」の一つの形という隠れ蓑の中で密かに遂げようとした、神父にとっての「生(性)の証」が少年愛であったというのは、不幸なことである。
「隠された」(疚しい)行為である以上それは教育の場に相応しからぬものと厳格な校長が考え、それを見抜いた事は、教育上は奨励されこそすれ批判には当たらないのも一つの真実。しかし「隠す」行為へと追いやる社会、多数派の非寛容は問われないのか。
理想的でない社会では、この現実の中で大切な人を「守る」、という大義が結果的に不完全な社会を補強してしまう。このジレンマこそいつの時代も人間の葛藤の源だとも言える。
2
シビウ国際演劇祭2021 招聘作品『砂女』国内プレ公演
うずめ劇場
個人的思い入れの比重も高いが、安部公房「砂の女」をせんがわ劇場の小さな舞台上の簡素な装置で、自由に赤裸々に、ユーモア十分に、原作の魂を掴んで描き出し、躍動感満点であった。「劇団」としては人材十分と言えぬ少人数な集団ながら、時に突き抜けた作品を打ち出す、集団としてのユニークさに希少価値を見出している。
3
娼婦 奈津子
新宿梁山泊
趙博脚本の回の新宿梁山泊。奈津子を演じる蜂谷眞未の激烈な女優姿と、適材適所の脇役たち、そして役者が自前で演奏するバックバンドの底力で、得難い高揚を味わわせてもらった。健気に生きる女性に男は弱いという事でもあろうが、私の最も好きな映画のヒロインに重なる逆境とそれを超えて行く力強さには、ドラマの普遍的なメッセージがある。スズナリでは珍しくない奇跡の舞台、と敢えて書く。
4
灯に佇む
名取事務所
自分のトップ10に選ぶにしては小さな芝居だが、多くが詰まった良品。題材は丸山ワクチン。一診療所を舞台に、治療方針を巡って医師と患者、その親族、医師でも一代目と二代目(息子)の考え方の違いが生じ、誤解や対立のすったもんだである。
端的に言えば医療とは何のためか、誰のためにあるかの問いの答えを得て行くドラマ。意図せずして解決を手助けする外部の者(医療器具の営業)が語り部に据えられていたり、彼の口を通して医療用語についてマニアックに語らせる等、風を吹き込んで笑いも起こす。人と人のある意味で理想的な姿があり、吐かれる言葉は溜飲を下げる。だけではなく、良い芝居は正しいもの、美しいものを愛する心を思い出させる。
5
「汚れた手」Work-in-Progress
Nibroll
同じ横浜BankArtで2014年上演した飴屋氏の「グランギニョル未来」に匹敵するインパクトのある出し物(舞踊、照明・音響の総合的パフォーマンス)であった。劇場は入口を内部に据え直す等体裁を変え、飴屋氏の時の「借景」的な空気とは異なるが、白亜の空間を用いて、若い4人の踊り子とスタッフワークにより朝、昼、夜の情景を描き出していた。ゆったりと流れる時間は人間の思惑をよそに、流れ続けている・・人間外の存在への注意があまりに疎かで、それを取り戻すために自分に用意された時間のように感じ、そこに溶け込む自分が満更でなく思えた。
6
胎内
桜美林大学パフォーミングアーツ・レッスンズ<OPAL>
何度目かになる桜美林大学の鐘下辰男指導の演劇公演。今回は淵野辺駅そばのPRUNUS HALL(徳望館だとまた駅から遠い)。自作でない舞台は「三人姉妹」以来だが、今回は配役三人の「胎内」二時間半をやる。役者の負荷が大きい芝居だが、役者の体力、胆力を当て込んだ鐘下氏の見込み通り、学生らは頭脳と体を酷使した長距離走を全身を投げ打って走り切っていた。役を演じる力量の(若さゆえの)不足を補って余りある熱演に胸を掴まれる。開演前から水滴の垂れるいつもの鐘下Opal舞台だが、圧巻の美術、制作上の趣向も含め学生らの演劇愛に頭を垂れるばかり。
7
新作能 『長崎の聖母』『ヤコブの井戸』
銕仙会
両演目とも新鮮であったが、日本の現代史(原爆投下)を扱った『長崎の聖母』が、上位に押し上げた。座・高円寺は無論「能舞台」ではなく、ステージ奥の高みから女性がアリアを歌う演出等もあるが、これは「能」の範疇だ。
現代性を持って迫ってくる(現在劇となっている)、今上演する事における意味を持つと感じさせるのが演劇の醍醐味であるが、能という表現そのものにそのような感覚を得たのは初めてであった。
なお能の要素を取り入れた演劇や「現代能楽集」はここで言う「能」ではない。ちなみに現代能楽集を謳う錬肉工房が上演した「始皇帝」は能楽堂で上演され、形式も「能」であったが、題材が古く「今」に迫るものを見いだせなかった。
実は「演劇」に出会う前、能・狂言を観ていた時期があったが、例外なく不可抗力的に寝ていた。能を見て「寝なかった」のも初めて。
8
外の道
イキウメ
従来とは違うイキウメにぐっと来た。前川氏が明確に意図したのかどうかは不明だが、意志の力の「可能性」を不可思議な事象の存在(の可能性)を通して示す従来のイキウメのストーリーではなく、不可思議領域が解明されなくても前へ歩を踏み出す以外ない、二人の人間の出会いと決意がイキで恰好良かった。
新型コロナ禍の下で加速するある種のベクトルが、作品の中では凶兆のように不気味に響く「空鳴り」として、また主役二人以外の者らの無意志にたゆたう植物のような風情によって、描写されているように見える。主役の一人(女)が遭遇した「無」と、無から生まれた他者という存在を、もう一人(男)はやがて感知し始める。男の方はある手品師の奇術に「タネがない」事を見抜き、彼を追う事を契機に不可思議領域に接近していた。
二人はそれぞれ、抜き差しならない事態が近づく予兆を感じるものの、目で見た超常的な現象を誰かと共有することには困難を感じ、孤独に過ごしていたところ、高校の同級生同士だった二人が所縁のない町で偶然出会い、互いの話をする。世間話から、次第に「おかしな話」を始める男、ところが女も他者に話したい体験を抱えていて・・という話の運びであるが、大部分が会話で進む間、コロス然とそこここに佇む人々もそれぞれ役を持って演じ、また回想シーンに登場する。話が出尽くした時、二人は人々が気づいていない何ものかに向かって、対峙する以外にない事実を受け入れ、決意する。そうするのは使命を知った者の義務だからであり、ヒロイズムとはかけ離れたヘタレであっても、「人間」であり続けようとするから、に他ならない。「人間」である事を否定されて行くようなコロナ禍下の重苦しさを模した舞台での二人の姿は、現状に抗おうとしている者に刺さった事だろうが、舞台に登場する多数派のように、そうでない人々も多かったのではないかと思ったりもする。
9
フェイクスピア
NODA・MAP
駄洒落の止まらないオヤジの名調子に時折挟まれ、リフレインされる幾分収まりの悪い台詞(頭を上げろ!)と、同じく時折「原点」の如く舞い戻る謎めいたオープニング(数名の黒服によるムーブ)が、最終シーンで一気に謎解かれる。そこは「永遠+36年」前の御巣鷹山であった。
現在進行形のドラマでは白石加代子が50年間イタコ見習いをした末の最後のイタコ試験に臨もうとしている。口寄せを依頼しに来た人ら(橋爪功、高橋一生)とのコントのようなやり取りの中で、白石を差し置いて男らが憑依させてのがシェイクスピアの4大悲劇の登場人物であったりする。この本筋も紆余曲折、白石は巻き込まれ型の物語の主人公として動き回るが、サブリミナルのように、後に解かれる事となる裏筋の断片が挿入される。この裏筋に絡むのは、依頼人の一人(高橋)が大事にしている箱であり、それを渡そうとしている息子との交信を彼は望んでいるらしい、というあたりである。
この裏筋の元は、戯曲に現実の題材を用いる野田秀樹もここまで「解釈の幅」のない史実は組み込んだ事がないのでは、と思える事件。言ってしまえば大規模な航空機墜落事故だが、最後の場面は、芝居から抜け出して舞台の山中で再現される、事故に至る7分程の長い息詰まる場面だ。このシーンは私の脳裏に刻まれ、「事件」を思う時には恐らくこのイメージを補助線として想起する事になるだろうと思った。
野田秀樹の「本気」を初めて体感した。
10
聖なる日
劇団俳小
ここ数年秀作舞台を出している俳小の今回も気合の入った舞台。
芝居の中盤を過ぎて、オーストラリア産のこの戯曲が取り上げているのはアボリジニ(先住民)であると気付いた。白人の侵略の歴史を告発するドラマであったが、主要登場人物は入植者であり、娘と二人で暮らし、宿と食事を提供する女(月船さらら)の宿屋と庭が舞台、荒くれ者が宿を求め、娘を欲しがりもするが毅然として断る(自分は身を売るのは厭わない)場面も。そうして大事に育てた娘は実は森で拾ってきた娘であった。先住民と白人の面影があり、母は「侵略者との間の子だから捨てられたのだ」と信じようとしているが、大事な子どもを盗んだのかも知れないとどこかで恐れつつ、それを打ち消して娘を溺愛している。
出入りする人物の中で、伝道に渡ってきた牧師とその夫人がおり、二人の赤子が盗まれる事件が起きる。白人の支配的な振る舞いが、不吉な事件と関係しているらしい事が徐々に明らかになり、ついにアボリジニの少女が宿屋の娘に接触し、手を取り合おうと迫るに至り、娘の自立心に火を点けてしまう。最初に訪れた荒くれ者の3人組の逗留も長くなる中で、彼らの関係も見えて来る。もっとも凶暴に振舞う男は過去の怨恨からその子供である少年を同行させており、性処理をさせている事が判明するが、真相はもっと複雑らしい(この過去のいきさつは舞台では明らかにされない)。もう一人の同行者は理性的な男で、凶暴なリーダーから離れて仕事を得たいと考えている。それぞれの思惑による行動がある佳境を迎えた時、先住民による大規模な反乱が起きる。
舞台を特徴づけるのは「不穏」の通奏低音である。四方を闇に囲まれ、入植者のよすがは目前に居る生身の他者以外に存在しない。植民者の不安を追体験させられる舞台でもあったが、観劇の快楽でもある。不穏さがもたらすスリル、抗しがたい内なる暴力性、ぎりぎりの妥協や、最後に何を死守するかを迫られる崖縁を離れただけで得られる幸福感といった、得難い疑似体験が満載であった。