1
身毒丸
演劇実験室◎万有引力
天井に届こうかという城のような装置、何らかの規則性によって動く半裸であったり個性豊かな装いの人間たち、各パーツが各所に場を陣取る楽隊、中央の段に控える合唱隊。スケールに圧倒される。この見世物をみて刺激される欲望を何と呼ぶか・・。主人公身毒丸の、継母との「関係」の顛末を大々的に、最大級の音楽的形容で彩る、その壮大な「物語化」のプロセスに加わる快楽とは「大きな動きに絡めとられる」バーチャル体験なのだろうか。そう、日常では得られない「絡めとられ」の感覚。幼少時に見た悩ましく妖しい夢のような、つまり受動性を許されない現実をいっとき忘れる時間が、物語の本質だ。なんつって。
2
ダークマスター東京公演
庭劇団ペニノ
今やタニノクロウという分野が出来つつある(私の中で)。関西俳優・緒方晋の味と相まって得がたい観劇体験になった。
3
ザ・空気
ニ兎社
今まさに存在する放送業界の規制、政界からの圧力。これを業界側から描いたこの話題作の後も、石原燃作「白い花を隠す」(Pカンパニー)、中津留章仁作「断罪」(青年座)がそれぞれ、制作会社とその社員の家族、タレント事務所を舞台に書き下ろした。攻めてると言われるだろう分野だが、謀略の国アメリカでも告発映画は作られ、況や演劇界をや、翻って日本では映画がダメ、ならば演劇が健全な言論の砦(まあ影響力じたいが小さいが・・絶対観客数が違う)、いっそ告発モノというジャンルができても良い、どんどん出てきてほしい。
4
ピーピング・トム『ファーザー』
世田谷パブリックシアター
台詞のない、使う言語は「舞踊」である所の、物語仕立ての舞台。舞踊の動きが人間の心情(状態)を鮮烈に伝えてくる(それが物語を構成する)、小さな挙動が印象を刻む強烈さは、随一。
5
忘れる日本人
地点
意表をつくにも毎度ながら、程があると、ほくそ笑んでしまう地点の作。松原俊太郎作、どんな戯曲も一繋がりのテキストを分担して奇妙なテンポで喋る地点の手法に相応しい、言葉の羅列のような戯曲。わけの分からない共同作業をただ共同作業をやるという目的だけでやるという日本人独特の特質(つまりは、最初の目的を忘れたか最初から目的はさほど重要でないか)が、今回木船を抱える作業に観客を加担させるというコーナーで試行されていた。もっともこれは劇中では美談のようになる。観客を巻き込んだのだから「皆さんのお陰で問題解決しました!」てな事で収める訳だけれど、本当は・・?
6
天の敵
イキウメ
食と不老不死をテーマに、というまでは判るが、こんな奇想天外な話を(もし大半を作者が考えたのなら)よく紡いだものである。天晴れ、と唸るしかなく・・。起用された俳優も(劇団俳優ももちろん)繊細な演技で異様なこの世界を現前せしめた。前川戯曲ではbunkamura「プレイヤー」も秀逸だった。
7
三人姉妹
桜美林大学パフォーミングアーツ・レッスンズ<OPAL>
今年いくつも観ることのできた鐘下作品の逸品を削り、鐘下「演出」による学生たちの舞台に代表してもらった。(「ワンスアポンアタイムin京都Ⅲ」「あるいは友をつどいて」「ドグラマグラ」「ルート64」。)
8
心中天の網島-2017リクリエーション版-
ロームシアター京都
糸井氏の作品が10位に食い込むのは今回限りかも。歌、そして歌う役者の「艶技」、音楽の取り入れ方という方面での秀作は黒テント「浮かれるペリクァン」も佳作だったが及ばず。
9
この丗のような夢・全
水族館劇場
素人が出て、拙い役者も出て、それでも手作りで建て込んだ巨大なテント内の客席が(横壁に当たる足場も)埋め尽くされ、一夏のイベントの場と化す。ふんだんに水を使い、「芝居」の中で本来「管理」される生水が、まるで水の方が主役であるかのようにそこここに顔を出す。自然崇拝のテーマが仄めかされる。テキストと美術、構成がこれまで見た(といっても三度目)中では最も統合され、「自由」が謳われていた。乾杯。
10
ブリッジ~モツ宇宙へのいざない~
サンプル
KAATで6月本公演となった作品の試演版(work in progress)、こちらが私には俄然よかった。脇に音響係がおり、役者の合図で音楽が流れたり、Artschiyoda3331の廊下を行き交う人が見え、役者は壁の向こうに待機していてわらわらと入ってくる。芝居である所のモツ宇宙研究会?の集会の臨場感は半端なし。松井周の「変態」性は蛹(さなぎ)段階が美しく映えるのかな。