明日の朝、いつものように
LUCKUP
萬劇場(東京都)
2021/07/16 (金) ~ 2021/07/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
まさしく"長すぎた春"物語。
コロナ禍から5年ほど経ったカップル。出会った頃はコロナ禍で巣ごもりの生活を余儀なくさせられたが、それも今は昔のこと。コロナ禍の前と後における男女の意識を描いているが、どんな状況下であろうと大して変わらない普遍性ある恋愛観が見て取れる。公演は倦怠期のような男女の心に、ちょっとした隙間風が吹いたら、大事になり取り返しがつかないことになる。それどころか、関係はアッという間に崩壊する。その過程を淡々と描きつつ、何の変哲もない日常に潜む不安や不信を鮮やかに浮かび上がらせる。
(上演時間70分) 【Bチ-ム】
ネタバレBOX
舞台美術は、日常生活そのままの背景を造形する。大括りに3か所の異なる場所(場面)をイメージさせる。中央にカウンター、上手側にダイニングを思わせるテーブルと椅子、下手側はカップルの部屋_2人掛のソファが置かれている。人(居場所)と距離感という物理的なことだけではなく、この空間処理に男・女の心象風景を描き込む。
主人公の男・小久保ケンジ(オオダイラ隆生サン)と女・山崎ユウキ(高橋明日香サン)は、並んで座るという近距離。上手にあるのはユウキの妹夫婦・峰岸光太郎、カオリの家のダイニング、他人ではないが当事者でもないという中距離。そして第三者との語らいの場として外の飲食店を表すカウンターという長距離を演出している。人には快適な距離感のようなものがあり、カップルであっても心が通じ合わなくなると、1人がひじ掛けに座る もしくは立ったまま話しかける。微妙な立ち位置や振る舞いで表現する。そこに一緒に居る相手(男or女)のことを理解しているか否か、疑問符を突き付ける。
演技は、ぼそっとしたさり気ない会話から、不快感顕わになり大声になっていく様を上手く演じている。演出、演技は実に自然体だ。
物語はコロナ禍で知り合った男女が5年経ち、最近(2年ほどセックスレス)は精神的な繋がりだけ。ユウキは待つことが出来ず、あなたを求めたが…。ユウキはケンジの態度にイライラを募らせ、何故そうなのか自分の内にある欲に翻弄される。そんなユウキの心の隙に入り込む店の同僚・木田テツ。一方、ケンジは従姉・工藤ユタカのちょっとした悪戯心で知り合った女性・志村シオと親しくなっていく。それぞれが持っている思いや秘密が、だんだん大きく膨らむ。不安を孕んで漂う四角関係は、悲劇的な結末へ転がり出す。甘美な関係だけでは満足できず、濃密な性への気配が漂い始める。
劇中では、女性の恋愛は心と身体すべてを投げ打つような危険な匂い。性はより深い精神の交合へ向かうためのステップで、そこに入り込んだら精神と欲望の迷路が広がっている。若い男女にとって精神と肉体は連動するのが当たり前、この公演では、更に精神と肉体の乖離を問うといった別の投げ掛けが…。
公演が面白く共感しやすいのは、「性」に対する描き方が、女と男によって異なること。例えば、セックスレスを言い出した女性側は、生理的・機能的側面は語られず、あくまで精神(抽象)的なこと。一方、言われた男性側は、ユウキの妹の夫を通して語られる。妻の妊娠期における性処理(妻は消極的ながら風俗通いを了?)やバイアグラといった性機能に係る具体的な描きをし、後は観客の想像に委ねる。このバランス感覚が好いのだ。
もう1つは、「性」的なことを社会問題と絡めず、人間に男と女がある以上 永遠に無くならないテーマ。「性」の喜びは美しいものだが、それだけに「性」の悲しみは、より一層それが際立つのかもしれない(LGBTも承知)。
日常生活…男女で営まれる「性」の普遍性を独創性をもって描いているところに新鮮味と共感を覚えるのではないだろうか。
ちなみに、ラストシーンは救いであろうか。別れたままの暗転で放り投げてもよかった気もした。しかし、5年前の出会った頃の回想は、出会いと別れ、そして新しい彼女との出発を意味するのであろう。その点では後味を良くした。
次回公演を楽しみにしております。
ルンバ!ルンバ!ルンバ!
ローリングあざらし撲殺
シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)
2021/07/15 (木) ~ 2021/07/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
コロナ禍で伝えたいことは解るが、演出が今一つ。色々なモノを観せ(描き)たいという思いが強いようで、逆に真に伝えたい事が暈けてしまった印象だ。
コロナ禍を背景に、人々(特に若者)の生き様を絡め、観せ方として、奇抜な設定(踊らなければ死ぬ)で興味を惹こうとしている。しかし、どれもが中途半端でインパクトが弱い。もう少し(場面を)省略・整理出来ていれば、面白かったかも知れない。特に前半の話は冗長で、演出は稚拙だ。後半はまとまりが出て来ただけに勿体なかった。テーマは明確なのだから、それをどう描くか、しっかり構成出来ていれば…(それが難しのだが)。
観た回の観客は10人(コロナ感染拡大防止対策のため席間隔あり)と少なく、さらに休憩時に3人が帰ってしまうという残念な状況。
(上演時間2時間10分 途中休憩10分)
2021.7.24追記
ネタバレBOX
素舞台、正面はスクリーン。時々に映像を映すが、それはTV等の媒体を通して施政方針を述べる為政者をイメージさせる。またフェーズ1、2・・としコンセプトと言うかサブタイトルを映し出すが、出来れば演出力で物語を繋いでほしい。せっかく「ルンバ!ルンバ!ルンバ!」といった奇妙だがインパクトあるタイトルにしたのであれば、適当?に踊るのではなく、ルンバ ダンスを見せてほしかった。
物語は、踊ると死んでしまうという奇病(感染症)が広がり、政府(映像:グレートウォールナー)が、踊らないルールを打ち出す。他方、踊らないと死んでしまうという特異な体質を持った人々を登場させ、政府方針に異を唱える集団(ダンス解放戦線)といった対立軸を見せる。何となく新型コロナを連想させるくだり。そこにスケバンだった女性やノンポリ男など、我関せずの人々を登場させ、混沌とした社会・世相を描く。当初そのような人物、集団が緩い関わりで存在していたが、次第に政府対解放戦線の抗争へ収斂。ルールの是非を選択させる。この過程をいろいろな場面を挿入しながら展開していくが、一つ一つのエピソードが長い。その結果、冗長となり観客の集中力、関心を繋ぎ留めておくことが難しい。
例えば、防護服を着用し消毒等の感染対策を行うイメージシーンは、登場人物が でんぐり返し等のいくつのもパフォーマンス(それもスローモーション)を繰り返す。アップテンポからスローテンポ、その逆など自由自在と言えるのか疑問に思える演出。
物語には、いくつか興味深い場面が登場する。
⚪奇病は、社会的地位や生活水準が低く虐げられている人々に感染しやすい。
⚪スケバン(暴走族)は青春期の発散行為としては楽しめたが、いつまでもやっていられない。
⚪政府(グレート・ウォールナー)に心酔し、その真似事をしているうちに、(自己陶酔し)自己を失くす。
⚪ノンポリでいたが、政府または解放戦線のどちらにも影響され、自分自身(信念)を見失う。
何となく分かったようなシーンが描かれるが、断片的であり観客の感性に負うところが大きい。脈略が有るのか無いのか不思議な感覚に陥る。
たぶん、スケバン(先輩:桂川明日哥サン)の考え方・生き方に主題(ブレがない)があるのだろうが、そこを描き切れていないのが残念。
後半には、カラフルリバティ(映像:グレート・ウォールナーと同一人物)が登場し、踊りを認め対立だけの方針を転換する。グレート・ウォールナーを慕っていた者は目標を失い放心状態。また自由と引き換え=「豚」として毎日決められた作業をする(思考停止、自立放棄)といった生き方を選択するのか。その問題提起が恐ろしい。
が、ラストはハッピーハッピーと唱え、手に手を取り合う姿は何だろう。訳が分からん。
ジゼルと粋な子供たち
劇団昴
Pit昴/サイスタジオ大山第1(東京都)
2021/07/15 (木) ~ 2021/07/18 (日)公演終了
実演鑑賞
勉強会(=⭐評価なし)としては優等生公演。無料!!
作=フランソワ・カンポ、訳=和田誠一
自然な演出、そして役者の演技力は観てとれた。しかし、物語(フランス戯曲)は時代感覚にフィットしてこない(国と言うか文化や時代が関係しているかも)。もう少し何らかの刺激(毒薬とか良薬等)があって、空気感というか雰囲気や時間が共感出来るような”味”があれば…。
内容は典型的な不倫をドタバタに扱ったもの。以前、「不倫は文化だ」と言った芸能人がいたが、今でも不倫はTVワイドショーや週刊誌でスキャンダラスに伝える。メディアの露悪的な演出と知りつつも、つい興味本位で醜聞を見聞きしてしまうのと同様か。
舞台はフランス、その不倫劇はあまりにあっけらかんとしたコメディであり、”刺激”が少ない。当たり前だが、現実感からはほど遠く、あぁ面白かった!で終わってしまい残念(それでも良いのだが、何というかピリッとしたものが欲しい)。
コロナ禍にあって、ライブ公演はそれだけでも嬉しいものだが、だからこそ一層の満足感を求めたくなる。時代(状況)とともに変化を求め、「苦味」や「皮肉」も混じえ、単なる茶番で終わらせず、現代的な物語へ脚色(勉強会の域を逸脱しない?)出来ると思うのだが…。
(上演時間2時間10分 途中休憩10分)
ネタバレBOX
舞台美術は、この部屋に住む女性・ジゼル(新井志啓サン)のリビング、中央に横長ソファ、テーブル、上手側にサイドテーブル、上手側にハンガーや電話が置かれている。セットは高級感あるものを過不足なく並べ、丁寧な場景作りをしている。場所はパリ、シャトー通り?にこの高級アパートはある。
梗概…未亡人ジゼルが住むアパートに愛人ジョルジュが突然やって来る。彼は大きなカバンを持ちジゼルに「私たちは旅に発つ、そしてここが目的地だ」と宣言する。ジョルジュは離婚しジゼルと再婚する決意をした。しかしその日、玄関の呼び鈴が鳴るたびに彼の息子、娘、妻、さらには息子の同棲相手、妻の母まで訪ねて来る。誰も知らないはずの愛人宅へ、次々にジョルジュを訪ねてくる。
ブールヴァール劇の典型的なエピソードである三角関係の縺れに、息子と娘が奇妙に絡んでくる。この風俗喜劇は、観客を楽しませることを第一目的とし、納得ある物語性は希薄。ドタバタとしたドラマが展開し、解決が安易な点はメロドラマと似ている。が、機知と色気に富む洗練された台詞などで楽しませてくれる。ただ中流階級のモラルを皮肉りはするが、正面切っての批判はせず、気軽に楽しむ娯楽劇。フランスのコメディらしい洒落たラストシーンで、上品な笑いと香りに溢れる。但しフランスらしさが、日本のそれと同じかは疑問だ。
物語は、現実感からは程遠く、両親が離婚しようとしているにも関わらず、子供は自分たちのことを我先に話し出す。兄のジャン=ピエール(18歳)はアジア系の女性と同棲をするための資金を欲す、妹のクリスチーヌ(16歳)は、ここぞとばかりに性放蕩を告白する。子供たちは自宅の電話を盗聴・録音し、父と愛人・ジゼルの艶話を面白がって聞いていた。子供の年齢や立場からすると両親の離婚はやむを得ないと割り切ったとしても、愛人宅まで来て父親に金を強請る、という滑稽さはやはり違和感を持つ。ここでは子供たちの(救世主的)存在が肝であり、その人物像はドライな感覚とウエットな感情が同居しているといったところ。しかし、この人物像が物語の滑稽さに溶け込まず、単に身勝手なだけに思えてしまう。
フランスと日本という国の違いのせいか、または世代・時代感覚(間隔)なのか、あまりに表層的な物語という印象。勉強会という意味では、先に書いた演出や演技は確かで、他の演目を観てみたいと思わせる。
次回公演(勉強会も)楽しみにしております。
風吹く街の短篇集 第五章
グッドディスタンス
小劇場B1(東京都)
2021/07/14 (水) ~ 2021/07/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「朝、私は寝るよ」…珠玉作。
不倫している男と女のチグハグな言葉、あえて真面目な会話をしたくない微妙な心理が透けて見える。舞台となる(彼女の)部屋をそっと覗き、上品?な痴話喧嘩を楽しんで観ている気分。しかし、まぁ男と女の立場というか身勝手さが露骨に表れ、それが何故か共感し会場内にクスッという失笑が漏れる。
男が取り繕う自分よがりの必死な姿、それを眺める女の醒めた表情、その対比が絶妙だ。そもそも男は何の話があって彼女の部屋に来たのか、といったところは寝ているような。
公演の魅力は、脚本(設定はありふれているが台詞が面白い)の力、演出の巧みさ、そしてそれらを体現する役者の演技力が素晴らしい。男(綱島郷太郎サン)の身勝手、情けなさといった二面性、女(今泉舞サン)のチャーミングで魅惑、そして哀愁漂う二面性、その表現力が公演を支えている。
(上演時間55分)
ネタバレBOX
説明にあったほぼ素舞台ではなく(スルーする)、しっかりセットがある。客席はL字型、両側から見やすいような配置で女の部屋…ベット、テーブル、TV、扇風機等が置かれ、奥にカーテンが掛けられた窓。
その彼女の部屋にビニール袋(たこ焼きパック)を提げた男が来る。もちろん女の不倫相手である。私服であるから休日であろう。
本題の会話劇に入るまでの導入が巧みだ。女はTVでオリンピック陸上競技を見ているようだ(画面が見えない位置の席)。男に走るのが早かったかを聞き、それを証明して見せろとせがむ。狭い室内で証明することが難しいため、男は前言を撤回し遅いと言い出す。男は面倒になるとコロコロ意思・態度を変えるが、女はしつこく理由を追求する。冒頭で男と女の性格をそれとなく分からせる。
不倫している男女、そして男の妻が意識不明の重体。その原因は夫の浮気で自殺未遂か不慮の交通事故か。原因如何で男の気持の在りようが違う。浮気が原因だと一生負い目(不倫=罪の意識)を持ち続けなければならないが、事故なら自分のせいではない、という責任から逃れられる。女は男の妻を尾行しており、その原因を知っている。好きな男の妻がどんな女か知りたいという気持、その健(勝)気さと行動力に女の可愛げが見える。と同時に女の怖さも垣間見える。一方、男はその結果を知りたいと土下座(そのわりには、居眠り)、その身勝手さが浮き彫りになる。心裏の駆け引き、会話がどこに辿り着くのか、その漂流するさまをワクワク ニヤニヤしながら見守る楽しさ。不倫している男と女の不幸は蜜の味のようだ。
男は困ると、キスし押し倒す行動に出るという、ありがちな展開_だからベットがあるのだが、このベットは別の意味_ラストシーンのためにも重要だ。女は、先ほどまで男に意味ありげな態度をとっていたが、男が部屋を去ると急に寂寥というか憂愁ある表情になる。そして残った たこ焼きを頬張る姿が愛おしい。照明はその心象を表すような茜色いや朝だから曙色であろうか。実に巧みな演出効果。
珍しい設定ではないが、男女のそれぞれが置かれた立場、その裏に隠された心理状態が微妙に揺れ動く様が、けっして感情移入する訳ではないが、不思議と共感してしまう。それだけ洗練された言葉の応酬劇ということ。コロナ禍を引き合いに出すわけではないが、ほんと「グットディスタンス」な2人芝居だ。
次回公演も楽しみにしております。
二等兵物語
★☆北区AKT STAGE
北とぴあ つつじホール(東京都)
2021/07/08 (木) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
面白い!
何故 こんなハチャメチャなシーンがと思うところもあるが、これがしっかり伏線になっている。頭も体も硬くなってきた自分には、即理解という訳にはいかない。まずは観たままを素直に受け入れ楽しんだ。
何故「二等兵物語」をこの時期に_コロナ禍にあって少人数での公演がトレンドと思われる中で、北区AKT史上最多となる客演陣を迎えて上演するか。これには東日本大震災の今でも消えない傷跡が関係しているらしい。当日パンフに代表・時津真人氏は、その傷跡と戦争の傷跡がリンクしているようでと書いており、夏の公演に選んでいる。その意味では、とても意義深いものを感じる。
従軍慰安婦・チュンジャ役の鈴木万里絵サン(A)の演技がほめられているが、自分が観た白濱貴子サン(B)も良かった。ということはどちらの回を観ても楽しめるということ(劇団関係者や、PRでもないデス)。白濱サンの演技は2回(卒業公演「売春捜査官」「逢瀬川(ダンスのみ)」)観ているが、ダンスが得意というだけあって集団パフォーマンスでもキレキレに踊っていた。ところで他の女優陣はモンペ姿であったが、彼女は現代(ワイドかガウチョパンツ)ファッションのまま物語に入り込む。時は昭和20年 満州という設定から違和感を覚えるが、これにも理由がある。
何故か、物語に映画「八甲田山」(当日パンフの裏面に「FOOTNOTE」が小さい字でびっしり書かれ読み難い)が挿入される。これにも理由がある。小さい文字で書かれた最後の2行が深い。
観劇中、先に書いた“何故や理由”が脳内で連発する。しかし自分の枯れてきた感性、硬化してきた思考をフル回転させるが、観ている時に理由付けなど出来ようもなく、理屈抜きに楽しんだ。観劇後、内容を振り返えり そういうことかと得心する、そんな楽しみも出来る1公演で2度美味しい二等兵ならぬ大将(賞)級の物語。
卑小と思いつつも、白濱サンの演技_凜としているが、もう少し媚というか潤が観れたら、なお良いかな~と勝手な思い入れ。
(上演時間2時間) 2021.7.12追記【Bチーム】
ネタバレBOX
素舞台。♪アカシアの径
つかこうへい作らしい、揶揄・批判等をしっかり散りばめ、物語に幅と深みをつける。冒頭のトラベルガイドのシーンで主人公の二等兵(つかてつおサン)が現れる。戦後30年ほど過ぎているこの冒頭シーンが、劇中に登場する映画「八甲田山」のラストシーンに繋がる。そもそも「八甲田山」は日ロ戦争を想定した軍事演習を描いているため、本公演とは時代背景が異なる。しかし戦争という最悪の不条理と死んでも愛をという思いを重ねる。
昭和20年満州 軍事教練のような場面。小隊長(草野剛サン)が二等兵(正直屋、花奴、教育長、福祉、高之坊、そして間男)たちに悪口雑言を浴びせている。例えば、八百屋を営んでいる正直屋に対し、人殺しが商売できるのか。教師をやっていた教育長に対し人殺しが子供に教えられるのか等々。それに対し二等兵たちは”戦争”だから、異常時だから仕方がない。戦時下にあっては理性、ましてや正義などあろうはずもない。すべて”戦争”が悪いのだと言い張る。その戦争に勝つためには病気、特に性病などに罹ってはならない。そのために従軍慰安婦がいるのだ。人格崩壊の必要性や慰安婦の必要性などを歪に説明していく。面白可笑しくデフォルメしているが、底には狂気を孕んでいる。
主人公・二等兵と従軍慰安婦の場面。1回の安らぎの時間は40分。兵は何もせずに、慰安婦の肩を揉んだり、自分の身の上話を始める。しかし残り10分になったところで欲情し、突然襲い掛かる。あと5分、2分と計3回も…。慰安婦の呆れ悪態を聞き流し、結婚しようと口説きにかかる。2人に情愛が芽生えるが、状況が許すはずもなく兵は銃殺。その直後に敗戦の知らせと玉音放送が流れる。2人が庇い合うシーンが見せ場の1つであろうが、自分は兵の身の上話も印象深い。青森県の貧農出身、八男坊で生きて帰っても田畑はなく生きていけない。むしろ家族にとって自分が戦死してくれたほうが恩給?が貰えるからよい。他の二等兵たちも同じような境遇にあることは容易に想像がつく。
さて二等兵(小隊長も含む)たちの服装は薄汚れた当時のもの。一方、慰安婦は現代ファッションのまま。これは、二等兵にとって慰安婦はあくまでミューズであり、同質化させない演出であろう。
戦後の「スナック満州」場面。戦後の荒廃した状況、占領下におけるGHQへの媚び諂いといったシーンを挿入するが、これはスナックでの寸劇。つまり劇中劇である。元二等兵たちの前で、元小隊長が恥も外聞もかなぐり捨て土下座するような内容である。一見、不自然な場面に思えるが、戦後の何と大らかで平和な、そして状況が変われば、権威・権力等は取るに足りない薄っぺらなものと思わせる。戦時中との対照場面として強調している。何でも”戦争”のせいにしてきた、コンプレックスを抱えた人たちの笑うに笑えない悲哀と似非ヒューマニズムが透けて見える。
元小隊長と慰安婦だった女が寄り添う所へ、主人公二等兵が現れる幻の邂逅場面。元慰安婦の告白…自分は朝鮮人と言っていたが、実は日本人であると。朝鮮人ということにすれば、威張り襲う等という差別的意識や行為がし易いといった心理を鋭く指摘する。また度々出てくる「八甲田山」のシーンは、神田大尉が徳島大尉を慕うといった同性愛(つかこうへい氏 らしい少数=弱い立場)を描き、弱者(貧農等)視点をそっと観せる。同時に神田大尉=銃殺された二等兵、徳島大尉が従軍慰安婦であり、賽の河原で会ったのだと…。狂界であった満州平原、それでも2人にとって思い出の場所で待つのだ。ラストは感動だ。
最後に、良い芝居なのに何故⭐5ではないのか。
実は、自分が観た回で通路を隔てた隣席人の携帯が鳴り、見所と思われるシーンの台詞が聞き取れなかった。周りの人達の顰め面は言うまでもない。この御仁、急いでいたのか、居たたまれなかったのか、終演後、脱兎の如く会場を去った。開演前の場内アナウンスで携帯の電源は切らずにマナーモードで可。またコロナ対策のため列ごとの退場を呼び掛けていたが、終演後にアナウンスしているから徹底できていない。公演は、制作面も含め観客に満足してもらうもの、と思っている。今回の隣り合わせは不運。
改めて言うが、芝居は面白い。場面ごとに観れば面白可笑しいが、全体を通して観ると恐怖と感動の隣り合わせ。こちらは大歓迎だ。
次回公演も楽しみにしている。
春の終わり〈青年座・那須凜主演!シアター風姿花伝 劇作家支援公演〉
ENGISYA THEATER COMPANY
シアター風姿花伝(東京都)
2021/07/06 (火) ~ 2021/07/12 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
舞台には、 美しく佇んでいる婦人たちが描かれ、そこに抒情的な説明文が添えられている。そんな絵(人物)画を鑑賞してきた気分である。つまり描かれた婦人たちは立ち上がり動いてこない=長い人生が見えてこないのである。自分の感性が渇いてしまったのかもしれないが、期待したほどではなかった。
物語は現在(70歳)と約50年前(20歳代)を往還し、外見的な老若の違いを見せる。確かに若い女優が素のままの姿で溌溂と老女を演じ、外見的には円背姿勢、ゆっくり、ハッキリ話す口調など、高齢者の特徴を表していた。また若い時代を挿入することで演技の違いを際立たせる。いや逆に、実年齢に近いこともあり、若い時代の方が生き生きと本来の演技を観せてしまう。良し悪しは別にして”演技の力”は観ることが出来た。しかし演じている彼女(老女)たちの人生は置き去りにされ、表面的な物語だけ。これは演技の問題だけではなく、脚本・演出が「女の一生」の過程と終末期を描き切れていないことが原因だろう。
ENGISYA THEATER COMPANYは、「何もない空間に 命の風景を創る」をテーマに役者育成に取り組み公演を重ねているという。演技で言えば、外見的なことだけではなく、「女の一生」その死生観の内面を演じ切らなければ、真の「春の終わりに」ならないのではないか?素のままでも、この先を想像し(それも膨らませ)て老女にならなければ、と思うのだが…。
(上演時間2時間25分 休憩10分含む)【Aチーム】
ネタバレBOX
舞台美術は、中央にブランコ、それとベンチが2つ。前半のみ箱馬がある。色はすべて白であり、どんな人生にも染め(照らし)上げられるようだ。ベンチは、それを動かすことによって時々の状況や情景を描き出す。舞台技術ー照明は単(淡)色をスポットに照射、音響はキャストが自ら歌(「星の流れに」「木綿のハンカチーフ」等の昭和歌謡)い、物語に人生を吹き込むような演出だ。演技は老人時と若い時では立ち居振る舞い、そのテンポの軽快さで観(魅)せる。もちろん衣装も着替える。小道具等は無しでパントマイムで補う。
梗概…小説家しのぶ(那須凜サン)、その友人たちが住む「老女たちのシェアハウス」の物語。しのぶ の独白「死、というものがとうとう私の身に迫ってきている。物書きとしても、一人の人間としても当然そのことについて考えざるを得ない。・・・命の春の終わりをどう締めくくればよいのだろう?もうあまり時間は残されてはいない。」と。人生は自分だけのもの、最期 どう自分の死を見つめ後始末をつけるか、その小説を書きたい。
基本的には現在から過去を回想し、物語は現在・過去を往還するように人生を表現する。併せて自分の孫娘や同居している友人の娘、孫娘との関りを、ある問題・心配事を絡めて描くことで起伏を入れる。
シェアハウスの6人(少なくとも、しのぶ・優子・藤子の3人だけ)の性格や人生の歩みをもう少し具体的に描き、人生の哀歓が見えると良かった。優子は早い段階で病死(以降は霊のような存在で俯瞰)しており、子供を現さず孫が登場する。時間の経過は見え感じることは出来ず、逆に20代と現在(70歳)の間に時間の分断が生じている。
物語が動いて見えないのは、次のようなことではないかと思う。
第1に、シェアハウスに居る6人の老女(優子<古藤ロレナ サン>は早い段階で鬼籍)の20代から70歳に至る過程がほとんど省略されていることから、人生の歩みを描写しきれていない。かろうじて藤子(岩永ゆいサン)が独身を貫き舞台女優として生きてきたこと。唯一の男優・周 役(松田周サン)との恋愛事情を絡ませたことぐらいしか印象にない。後の3人(静佳〈諸藤優里サン〉が愛人、咲〈大竹華サン〉が元国連職員、春子<大地葵サン>が看護師)は、ほとんど台詞で説明。
第2に現在は、孫(例外は春子と娘・玲奈のみ親子)との関りを主にしているため、直接子供の存在を飛び越え、時の経過とともにあるべき家族関係が描けていない。人との関り、その中で生きてきた証ーー喜怒哀楽といった情感を削ぎ落したよう。それゆえ「生きる」もしくは「生きてきた」が希薄で、逞しさのような生活臭がない(第1と同趣旨かも)。美しく纏った人生、抒情的そして感傷的な印象が前面に出ていた公演。
次回公演を楽しみにしております。
銀の骨
やみ・あがりシアター
王子スタジオ1(東京都)
2021/07/02 (金) ~ 2021/07/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
物語のベースは小説「銀の匙」(中勘助)、構成はシュニッツラーの戯曲「輪舞」に工夫を凝らし精緻な構造を成しているようだ。
この公演は実験公演・オーダーメイド#2となっており、いくつかの約束事を設けている。その中に上演時間60分程度というのがある。ところが、本公演は70分で目安時間を超えており、終演後の挨拶で脚本・演出の笠浦静花女史が律義にも謝っていた(誰も気にしていないと思う)。たかが10分であるが、案外重要なことでもある。例えば〇△演劇コンクールのような賞レースでは、時間制限を設けている場合がある(芝居に優劣と言うか順位はどうかと思う時もあるが、事実「コンクール」等はある)。
また実験公演は第3弾も考えているとの案内もあった。
さて、最近「別役実短編集」(基本2人芝居)を観たが、いつの日か、「やみ・あがりシアター実験公演オーダーメイド作品集」(1人芝居)なる企画をしてほしいものである。第1弾「アン」は未見であるが、高評価(未見のため他者評価を信用 無責任か?)のようであり、少なくとも本公演を観る限り、企画に値すると思うのだが…。
コロナ禍ということもあるが、観客12名という贅沢な観劇空間で至福の70分。堪能した!
ネタバレBOX
小説「銀の匙」は、「私」という1人称で書かれているが、この芝居は私(1人称)、友人(2人称)、客である彼・彼女(3人称)を1人で演じる。相手役は登場しないが、さも相手が喋っていることへの返事や反芻といった言葉(台詞)で実在感を表現する。また実験公演の約束事である人形や紙芝居を用いて状況や情景を描き出す。これら全てを1人で行うから、その演技力、演出力は並大抵ではない。その点、久保磨介サンの演技は良かった。
舞台セットは、複数の裸電球(点滅による心象効果)、四角に切出した石垣のようなカウンターというシンプルなもの。会場出入口にドアチャイムを取り付け、物語の区切りにメリハリを付ける。
舞台はアクセサリーショップ、私(接客担当)と友人(=人形 制作担当)の2人で経営しており、オーダメイドで受注制作している。構成は輪舞のように小話(5話)が次々連関し、それをプロローグとエピローグで観せ始め 締め括る。会話劇が中心となる5話(景)からなり、最初(プロローグ的)に出てきた女性客と最後の依頼・男性客の邂逅によって「輪舞」が完成する構成。また話(景)の間には、その小話に纏わる洒落たオチを入れる。公演全体を饅頭に例えれば、5つの話が餡、プロローグとエピローグが皮で優しく包んでいるようだ。この皮が少し厚(長)めのような気もしたが…。ちなみに紙芝居で5話の(サブ)タイトルとオーダーアクセサリーが紹介されるという分かり易さ(第1話「銀の骨<ペンダント>」 第2話「あわただしいスプーン」←間違っているかも 第3話「外れない指輪」 第4話「小説の腕輪」 第5話「傷ついた指輪」)。
エピローグ...私は店を去り、その後、友人(擬人化した人形)の独白が始まる。友人の長い人生が語られ、命の限りがみえてくる。一方、私は吸血鬼(ここでも「銀」が関係してくる)という設定であるから基本的には不死である。友人関係でいる限り、年を取らない不自然さを悟らせないため去ったのだと。しかし私(吸血鬼)こそが真に不在で、友人の幻想・妄想の類ではないかと、自分は思って観ていた。「銀の匙」の回想をさらに変化・深化させた芝居であると思う(深読みか?)。
最後に、命に限りがあるからこそ、人との関わりは大切なのだと…。そうそう「関係」の話がこの公演のオーダーでしたね。
次回公演も楽しみにしております。
花のもとにて春死なん
ピープルシアター
シアターX(東京都)
2021/06/30 (水) ~ 2021/07/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
現代社会の断面を切り取った問題作にして衝撃作。老人問題は、“人生100年時代”どころか「生きろ」ではなく「遺棄老」といった扱いである。
戦後のベビーブームに生をうけ、増えた人口のままに数々の流行と需要を作り、高度成長期、バブルとその崩壊を経て良し悪しはあっても日本経済を支えてきた。一方で「一億総中流」といった意識、過当競争、過剰設備を残したこの世代が年老いた今、日本人の戦慄の未来、いや現在を描く。初演が1985年、なんという時代の先取りか(脚本の一部書き直し、配役は全員新規メンバー、演出も新たにしていると)。
また、相手の気持や立場を考える、人間はひとりで生きているわけではないーこんなもっともらしい、そして きれいごとを言う典型的な日本人への自業自得(自立しない、他人任せ)ではないのかといった逆説的な問題意識も突き付けているようだ。
日本の今、そして狂気の老後問題を感じたければ、この作品を観たまえ!と言いたくなる(年齢がそう言わせる)。
物語のラストは、観客の受け止め方が異なるかもしれない。何もあそこまで描き切らずとも、観客に委ねてもと言った感想があるかも…。事実、自分も観劇直後はそんな思いもあったが、帰宅する頃にはあそこまで描くことで、より老人問題が鮮明に出来る。敢えて踏み込んだ領域とも言える。観応え十分。
(上演時間2時間 途中休憩なし)
ネタバレBOX
舞台は「こころの里 桜の杜むつみ苑」。低い段差、中央奥は演壇のような高さ。所々に萎れた草というシンプルなもの。中央上部に桜が見えるが、当初 桜の木という心象風景と思っていたが、それはこの老人ホームの飾り物。つまり偽りの桜。老人ホームにいる人々の何も「無い」という心象を表している。劇中「老人は夢、希望、欲を持ってはならない」と。ただ静かに時を過ぎるのを待つだけ。生き甲斐を持つことは許されない。死への旅路の準備期間なのだ。かと言って準備することは何もない。が突如、日本国に姥捨山法が施行され、救いのないラストシーンへ…。
冒頭、老人姿勢から直立しタンゴを踊るシーンから始まる。生き生きと踊る姿、しかし間もなく「静かに!」という看護師の一喝で沈鬱な状態へ逆戻り。物語はホームに入所している老人たち1人ひとりの生き様なりを切々、淡々と描く。戦災孤児、口減らしのために身売り、同性愛者(少数=弱者視点か)等の人生を次々に展開していく。同時に老人に見(看)られる健忘、妄想、せん妄、痴呆、排尿障害といった症状を非生産的に描き出す。
子供叱るないつか来た道、年寄笑うないつか行く道 といった言葉は空しいだけ。
この姥捨山法は、単なる老人排除(殺害)に止まらず、老人問題の根本を考えず安易な方法で解決しようとする。つまり現役世代の大人たちは思考停止、傍観し不作為を決め込む。そして実行部隊は子供(14~16歳くらい)に任せるという無責任さ。さらに法の但書きには、年収2億円以上あれば適用外という富裕層優遇措置、まさに現在の貧富格差への揶揄・批判。
登場人物は個性豊かな老人たちで、役者は猜疑、相愛、嫉妬のような感情を表しつつ、踊ることで生きているを体現している。その精神・肉体の表現力は素晴らしい。中でも、自分を絞殺してくれと頼む姉婆(前田真里衣サン)、それを何か(月の不思議な力)に憑りつかれたように実行するメリー老(片平光彦サン)の謂わば嘱託殺人(自殺ほう助?)の場面は圧巻。この場面で歌われる曲(あざみの歌)、哀愁溢れ実に印象的だ。
日本で“月”が登場する話は紫式部の「竹取物語」が筆頭に挙げられるだろう。周知の通り、竹取物語の末尾に登場するのが不老不死の薬である。月と不老不死は月が欠けていって死に、また満ちて生き返るため ごく自然に再生の象徴とされている。その月を敢えて用いることで老人問題(社会批判と死生観の両方)への鋭い切り込み材料にしている。見事な公演であった。
次回公演も楽しみにしております。
HATTORI半蔵Ⅳ
SPIRAL CHARIOTS
六行会ホール(東京都)
2021/06/30 (水) ~ 2021/07/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
チラシには「幕末の半蔵見参‼ 日本史オマージュストーリー!」という文字が並ぶ。この六行会ホールは品川区の財団設立。品川区立図書館が隣接しているが、その書架に「幕末♢明治の偉人たち」というパンフが置かれ、偶然にもこの公演に登場する人物が紹介されていた。そんな所縁の地で上演された公演の見所は、キャストの身体能力を駆使した演技(特に殺陣)、それを観(魅)せる舞台技術であろう。
キャストの熱と力の入った演技、スタッフの手際よい対応、そのサービス精神が公演全体を好印象にしている。
(上演時間2時間40分 途中休憩10分含む)
ネタバレBOX
舞台美術は段差を設け、中央に襖、左右対称に障子戸がある。絵柄は薄墨色の浮雲で、そこにプロジェクションマッピングでシーンに応じて背景を効果的に映し出す。また目つぶし照明、レーザービームなどの技術を駆使する。一方、音響も和/洋の楽器(尺八・三味線、ピアノ等)をこれまたシーンに応じて使い分けし、時にSEも交えて独特な音響効果を発揮する。この舞台技術が長尺の物語を飽きさせずに支えている。
また、殺陣と集団剣舞という観せ方の違い、和装の華やかで優雅なビジュアル、その観(魅)せる演出サービスの好感度も高い。
梗概…和の国“ジパング”、鎖国を続ける幕末時代。新たな時代=開国を目指す「飛竜革命開国軍」と幕府を存続=鎖国を守ろうとする「鎖国の虎・新選組」の争い。その争いに忍術が使われていたところから物語は始まる。代々幕府の要(老中)職に就きながら、訳あって今では市井の髪結い床(屋)になって平穏に暮らす服部半蔵親子。が、「開国軍」の中に忍術使いがいたことから争いの渦中へ。忍術は「印」を唱え敵の動きを操り、「解」を唱え術を解く。この時にレーザービームで「印」の結界を表し「解」で壊す(消滅)という視覚効果。同時にガラスが割れるような効果音で臨場感を表す。照明と音響の相乗効果ある舞台技術はなかなか迫力があった。物語は、同じ一族でありながら敵味方になった男(ハンバ)女(ツタエ)の宿命を、といった内容である。
劇中の台詞・・人生は「楽しく適当に生きるのが楽」VS「言われるまま、何も考えないのが楽」と言い合う将軍と側近の戯言。こんな無責任な為政者のもとでは安心・安全な暮らしは出来ない。さて、11代将軍ヨシノブは、公言の儀において、適任者がいれば誰が将軍職を担ってもよいと。一見、民主主義の発議のように思えるが、そこにはある思惑が…。同時に粛清⇒恐怖政治というどこかで聞いたようなシーンを放り込む。何となく現代を揶揄しているような…。
「楽市家」での洋食、タロット占い、スロットマシーンという遊び心満載のシーン。同時に物語における重要な位置、「開国軍」「新選組」の双方にとっての情報取集の場でもあるという物語性を引き出す。さらに開国後の”文明開化”の象徴としての未来像を描く。もっとも観劇している今(現代)だから解ることでもあるが。
公演全体の印象としては、前半の緩い笑いで引き込み、後半は物語性とスピード感ある展開で一気に観せる、といった硬軟あるもの。
そういえば、2人(ハンバとツタエ)の行く末はどうなったのであろうか?
次回公演も楽しみにしております。
別役実短篇集 わたしはあなたを待っていました
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2021/06/25 (金) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
別役実短編集全4作品通し(上演時間4時間 途中休憩1回15分)
【Aプログラム】
「いかけしごむ」「眠っちゃいけない子守歌」
【Bプログラム】
「舞え舞えかたつむり」「この道はいつか来た道」
この4作品のセレクションが絶妙で、【Aプログラム2作品】と【Bプログラム2作品】とでは作風が少し異なり、それぞれの特徴をうまく捉えた演出だ。もちろん ほの暗い小空間に電信柱や街灯といった別役作品の象徴といった舞台美術(除く「舞え舞えかたつむり」)。
別役作品=(日本の)不条理劇と言われているが、それは政治や経済といった社会的なことに求めるのではなく、あくまで人間そのものが持っているというか、端的に言えば人間の存在そのもの(内なる感情)であろう。誰もが感じる孤独・不安・空虚、苛立等の鬱積した感情、それらの感情を演劇という表現形式に取り込んだ、まさしく”人生劇場”そのものを観せる。時代背景に左右されず、人が抱くであろう感情、その不変のような舞台表現が観客自身の経験や体験なりと共感・共鳴し、ある種の説得(納得)性を突き付ける。別役作品の不条理と言わしめる、そんな代名詞に相応しいのが【Aプログラム】。
一方、【Bプログラム】は異色作。特に「舞え舞えかたつむり」は、チラシに「<犯罪症候群>に向き合う別役実独自路線のルーツ」とある。そして4作品中、唯一のテキレジを行っており、案外ストレートに楽しめる作品になっている。次に「この道はいつか来た道」_人生の終末期に関わらず、人生劇場を謳歌しているような劇風。が、やはり人生の哀歓を漂わすラストは胸に迫るものがある。
(台詞にない)言葉の先を想像し読み解くなど、見巧者のようなことは出来ないし、かと言って言葉の裏に潜む気持を感じられなければ風情も面白味もない。別役作品は面倒くさいが、そこがまた奥深く面白いところ。本公演、別役作品の案内企画と考えれば成功だろう。
ネタバレBOX
人に言わせれば、薄暗い劇空間、静寂した中に役者がそっと現れ佇み、言葉が紡がれ、時間が動き、抒情が立ち上がる。コロナ禍で劇場に足を運べない日々が続き、ライブに焦がれる演劇ファンにとっては、この別役劇らしいオープニングは、愛してやまない“演劇世界”の幕開けなのだと。
「いかけしごむ」
この先はないという路地裏。上手側に占い師テーブルと運命鑑定の行灯等、何故か黒電話(受話器)が吊るされている。下手側には街灯、ベンチ、その横に「ここには座らないで下さい」の張札が立っている。
女が1人現れ、構わずベンチに座る。その後 男が現れ女とのチグハグな対話が始まる。女は次々と男の状況等を言い当て、男を不安と混乱に陥れる。平行線を辿る会話は珍妙でコミカル。何が本当で何が嘘かも分からないままミステリアスな対話が連なる。そのうち男が持っていた袋の中身に言及してくる。男曰く、イカで消しゴムを製造できることを発明し、そのため秘密結社・ブルガリア暗殺団に命を狙われていると。そんな事実があるのか、女がリアリズム=現実(もしくはリアリズム≠現実どっち)と向き合うが…。ラスト、女の独白は自分自身の身の上話。
さて、黒電話は「命の電話」で、何事か相談した結果、女によれば「死ね」という回答だったらしい。そこに姿・形のない世間が突如として表れ、無関心と無責任といった冷たい風が吹く。会話劇に状況が入り込み、物語が立体的になり広がっていくかのようだ。
「眠っちゃいけない子守歌」
絨毯にテーブル、会い向かいに椅子が置かれ、上手側に腰高棚、下手側に食器棚。真ん中に室内灯が吊るされている。
1人暮らしの老人が住んでいる所へ、福祉の会から派遣された「話し相手」の男。老人は自分が何者なのか、漂流するような会話はどこに辿り着くのか。かみ合わない会話は、チェコスロバキア人とエチオピア人の会話のような、単なる道具としての”言葉”では通じ合えない。老人の求めてくる理由・理屈に男は辟易し、戸惑い、それがいつの間にか受容と共感へ変化していく。徐々に老人の記憶の底に眠っていた出来事が掘り起こされてジグソーパズルが完成するかのよう。まさに言葉の裏にある魔術に導かれた軌(奇)跡。小さな家の模型、幼き日 母との別離、その日は雪が降っており寂寥感が漂うシーンは暖色照明が溶暗していく。見事な余韻だ。
「舞え舞えかたつむり」
中央に緋毛氈、そこに雛段飾りが置かれている。五人囃子の一体がない。段飾りと女優陣の衣装が華やか。残忍な内容とは対照的な演出だ。
この話は昭和27年に起きた猟奇事件を基にしている。そして登場人物は9人を数える。
日常会話が噛み合わないところに人間関係の変化を表し、いつの間にか別の世界へ紛れ込ませる。捜査官の客観的な事実経過説明。異常(バラバラ)死体が発見され捜査の結果、被害者は行方不明の警官だったことが分る。そして捜査官が被害者の妻を訪れるところから芝居は動く。捜査官の説明、それを犯人と思われる妻は関係ない話ではぐらかす。この劇は犯人を追い詰めるサスペンス劇ではない。この妻の(異常)心理が浮き彫りになる心情が主題。何故殺害したのか、どうして死体をバラバラに切断したのか。妻の「風鈴の音」「分からない」は既に感情の外。
テキレジしているから何とも言えないが、生きている人間の生きた会話やモノローグではなく、擬人化させた雛人形が発する口語的なモノローグ、それが妻の深層心理を代弁する。何となく意識的に様式化されたようでもあり、客観的とも思える表現に若干の違和感を覚える。生きた人間の生きた会話の中から異常心理が炙り出されるほうがリアリティがあると思われるのだが…。しかし、分かり易さという点では秀逸、楽しめる。
「この道はいつか来た道」
舞台美術…女が下手側にあったポリゴミ容器を上手側に移動させる。そして男が現れ2人で座り話し込む。その横に街灯。ほとんどを下手側で演じているが、まるで世の片隅で淡々と生きてきた人生を連想させる。
ダンボールを引きずった中年の女性、茣蓙を丸めて縛って背負った初老の男性。2人の身なり、様子からホームレスらしい。延々と繰り返される取り止めのない会話、しかしラスト近くなって話は思わぬ方向へ。2人はホスピスを抜け出してきた末期癌患者だった。そして2人は偶然知り合い、愛し合い結婚するという演技を繰り返している。つまり「いつか来た道」。
ラストシーン、背中合わせになって死を迎えようとする2人。お互いの痛みを確かめ合うことは出来ないが凍死するのは確実であろう。寒く冷たい死の実感がそこはかとなく漂う。が、何故か自分はあくまで明るく楽しく人生を生きる、といった前向きな姿に思えてしまう不思議な余韻。
4作品を俯瞰するように眺めると、やはり人生の喜怒哀楽が…。ライブは心の洗濯(日)。
次回公演も楽しみにしています。
山姥の息子
水中散歩
シアター風姿花伝(東京都)
2021/06/23 (水) ~ 2021/06/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
山姥の息子という怪異な設定、それを人間の日常生活に紛れ込ませ仄々と描いた(妖)怪作。物語は妖・異界、自然界と向き合った問い掛けという、ある意味 啓蒙的な意図があったのかもしれないが、自分には感じ取れなかった。
山姥の息子を通して民間伝承を蒐集するという内容であるが、柳田國男の「遠野物語」「妖怪談義」の世界観の類型ではなく、人間社会 いや家族との関りという身近な世界観に収まる。
(上演時間1時間35分)
ネタバレBOX
舞台美術は、上手側にシルクロード音楽演奏家の大平清氏の生演奏スペース(敷物)。楽器はサズ、ウード、レバナ等(と思う)といった伝統楽器。演奏は雰囲気を醸し出し、かつ印象的で素晴らしかった。下手側は木組みを積上げ山をイメージさせたオブジェ、中央に同じように木組みした椅子が数個置かれ、やや上の後景はたたみ込んだ色布、それが映像照明と相まって険しい山稜を映し出す。舞台セットは趣があって良かった。また山オブジェの上り下りは躍動感があり、動的効果を見せた。
冒頭、暗転した中での叫び声、そして倒れている人のシーンから始まる。このシーンが中盤以降に繋がるわけだが、前・後半で物語が歪に変容していく。もっとも冒頭のおどろおどろした雰囲気は始めだけ。前半は、いつの間にか山姥の息子は静間家(代々語り部)の居候となり、当家の長男の伝承蒐集に協力していく。この山奥の村に纏わる100話を集めることを父から言い渡され、渋々作業に取り掛かるが…。後半は、冒頭倒れていた人はこの村の元猟師・冠野多作(丸尾聡サン)で、山姥の息子に殺された。そして怨霊となって息子(弟)に付きまとう悪意に満ちた展開へ。この丸尾サンの悪意と飄々さその表現の違いが実に上手い。
さて、怪異な世界の対極として科学(医学)的な場面を挿入してくる。嫌なことは記憶の底に封じ込めているが、何らかの拍子に思い出してしまう。静間家の祖母も山(この地では大我山)でどろどろに溶けた死骸を見つけショックを受けていた。また山姥の息子(弟)も同様に記憶の忘却。嫌な記憶を医学的に除去、克服してしまうという荒療治も提示される。物語の世界観からすれば、合理的な対処と思えるようなことでも、何故か人智を超えた現象(出来事)の前では傲慢に思えてしまうところが不思議だ。
ところで山姥の息子がどうして人里へ現れ、人間社会に紛れ込もうとしていたのか。山姥は山で人間に出会い喰らい殺してしまう。そのため息子と別れるという説明であったが、一方、山姥の息子が猟師を殺し、怨霊となった猟師の悪意を受けるというのは、なかなか理解し難い。劇中何度か、山で異界のものと遭遇した時は、お互い生きるために真剣に向き合うもの、という台詞があっただけに。物語の設定は面白いと思うが、冒頭の怪しげな雰囲気、緊張感はいつの間にか家族再生の緩いホームドラマへ転じていくようだ。雰囲気の一貫性、物語内の緊密な関連性がもう少し観られたら…。例えば、伝承エピソードを物語に絡める等(相撲シーンが何度かあったが、金太郎が山姥に育てられたと言う伝承)のように。
最後に、自然(人間以外の動植物含む)との共存といった暗喩があったのか否か、作者の思いの欠片さえ見出せなかったのは残念(自分の感性の問題か?)。
次回公演も楽しみにしています。
テンペスト ~はじめて海を泳ぐには~
ブリティッシュ・カウンシル/公益財団法人としま未来文化財団/豊島区
あうるすぽっと(東京都)
2021/06/01 (火) ~ 2021/06/06 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
主催「ブリティッシュ・カウンシル/公益財団法人としま未来文化財団/豊島区」としてみた観点(2回目)。
本公演は、障害のある演出家と俳優たちによって作り上げられる舞台、シェイクスピア最後の戯曲である「テンペスト」上演までの稽古を劇中劇とする。いわゆるバックステージものである。障碍者の表現の可能性を模索するような試み。さらに国籍による文化や言葉の違い、その多様な”ちがい”を橋渡しする意欲作。
公演を支援しているのが「あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)」(主催:ブリティッシュ・カウンシル/公益財団法人としま未来文化財団/豊島区)だ。活動支援は、「親しみやすい良質の舞台公演から、実験的な作品や国際共同制作まで、様々な公演事業を開催してきた。また区立劇場として地域に向けた参加型ワークショップやアウトリーチを実施するほか、芸術文化活動を支える人材を対象にした講座なども継続して実施してきた」といった趣旨によるもの。そして「豊島区が掲げる国際アート・カルチャー都市構想をふまえ、多くの劇場が集積する『演劇の街・池袋』の拠点として機能し、芸術文化を通して多様な人々が集い交流する『みんなの劇場』として、活力に満ちた豊かな地域社会の実現を目指す」としている。まさしく、さまざまな「ちがい」の観点から架橋になるような企画であった。
(上演時間1時間45分)
ネタバレBOX
自分とは異なる他者との向き合いを通して、公演「テンペスト」を構成していく。その過程を通じて演劇の面白さ、と同時に劇中劇のキャストとして成長していく人々の姿を生き活きと描き出す。演劇という共通点、しかしそこに携わる人々の「ちがい」が さも対極にあると思い込んでいる事を気付かせる。無謀な試みの公演だなと思いながら観に行ったが、当初の思いとは別に、驚きも戸惑いも、気づきも発見も曝け出し、みんなでシェアするような舞台であった。
公演は、英国の障害者アートムーブメントの先駆的存在であるジェニー・シーレイを総合演出に迎え、日本・英国・バングラデシュの3か国から障碍のある演出家、キャストが参加する。シェイクスピアの「テンペスト」上演までの劇中劇。さらに新型コロナウイルス感染症の影響に見舞われた世界の有り様も反映させたオリジナル作品として再構築している。
日本の演出は、大橋ひろえ女史と岡康史氏の2名。キャストには、日本人4名、英国人3名、バングラデシュ人2名の障碍のあるアーティスト、そして聴覚障害のある母親に育てられたコーダ(CODA: Children of Deaf Adults)の女優・吉冨さくら女史。文化や言葉、障害の違いを超えて作り上げる新たな「テンペスト」、その試みと意義には共感するが…。
やはり、稽古を通して物語「テンペスト」が構築されていく過程が観たかった。その点だけが残念だ。次回公演も楽しみにしている。
『テンペスト~はじめて海を泳ぐには~』
あうるすぽっと
あうるすぽっと(東京都)
2021/06/01 (火) ~ 2021/06/06 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
国籍、文化、言葉そして障碍も違うアーティスト達が、シェイクスピアの戯曲「テンペスト」を大胆に構成して描くパフォーマンス劇。新型コロナウィルス感染症のパンデミック状況における国際共同制作の試み。
公演には3つの観点がある、と思う。第1は国境を越えた障碍者による上演、第2にコロナ禍(他疫病や自然災害等も含む)にあって、それがテンペスト=嵐を乗り越えるという比喩、第3に嵐そのものが人生で、人間誰しもその中で生きている。嵐の大小の違いはあるが、それでも障碍者であろうと健常者であろうと関係なく生きること。
障碍者による公演、その上演までの努力・困難等は想像に難くないし、意義なりもそれなりに理解できる。しかし公演を観せるということは、役者が障碍者、健常者に関係なく観客に分かるようにようにすべき。タイトルが「テンペスト」であり、その上演であることは周知のこと。そしてホワイエには舞台装置の模型が置かれ、その横に説明板がある。さらに場内でも舞台装置等に関する説明が流れる。だから上演までには稽古-劇中劇であるということは分かる。
しかし「テンペスト」という物語(粗筋)の説明がないことから、観客はこの物語を知っているという前提で始まる。物語を知っている人と初めて「テンペスト」という劇を観る人とでは、題材になっている戯曲に対する面白さ醍醐味を味わう上で差がある。
公演の謳い文句の一節には「『テンペスト』では、障碍のあるアーティスト達が国を超え集う伝え合うことの難しさとだからこそ得る喜びを見つけ、未来へ続く景色に到達するために」とある。この戯曲を初めてみる観客のためには、稽古という劇中劇であっても、「テンペスト」という物語そのものを構築(構成)していく必要があると思うが…。だからこそラストのカーテンコールのシーンが活きてくる。
(上演時間1時間45分)
ネタバレBOX
舞台美術は、グレーの床、中央に「テンペスト」舞台模型。その後ろに2枚のスクリーンが並び吊るされている。上手・下手側にそれぞれ3枚の可動式衝立があり、仕様(鈴鐘付や硝子張り等)が異なっている。その衝立の前に色違いの椅子が3脚づつ置かれている。
人それぞれの外見・内面が違うように、舞台装置も同じものは使用せず、素材・形状・色等に違いという意味合いを持たせている。2枚のスクリーンは、英国とバングラデシュとZoom(映像)で結び、それぞれの国における役割を果たす。
「テンペスト」は、シェイクスピア最後の戯曲と言われている。その粗筋は、弟アントーニオの策略により、地位を奪われ、娘ミランダとともに孤島に流されたミラノ大公プロスペローの復讐。歳月を経て秘術を身に付けた彼は、魔法の力で嵐を起こす。彼を陥れたアントーニオとナポリ王アロンゾー、王子ファーディナンドを乗せた船は難破し、孤島へ。そこでミランダとファーディナンドは恋に落ち、プロスペローは妖精エアリエルと怪物キャリバンを操って公国を取り戻す。といった内容だ。しかし公演では、恋物語が中心で、何となく「ロミオとジュリエット」(仇敵の息子と娘)といった恋愛劇の印象だ。これが大胆な翻案(構成)をした「テンペスト」なのであろうか。
この舞台は、「テンペスト」を上演するための稽古場。そこに日本・英国・バングラデシュの3 か国の障碍の異なる俳優が集まる。が、新型コロナウイルスの影響により、海外キャスト・スタッフの来日が不可能になる。そこでオンラインで海外と日本の稽古場を繋ぎ、様々な障碍やバックグラウンドを持つ出演者たちは、それぞれに異なる表現方法で『テンペスト』を創造していく。演劇は稽古から本番まで全ての段階で人と関わることで成り立っている。それが当たり前だと思っていたが、コロナ禍では そう簡単な事ではなくなった。その意味で新たな公演の在り方を模索する上で意義があったと思う。
さて、この舞台-障碍者の芝居で欠かせないのが、舞台のアクセシビリティを担うコーダ・吉冨さくらサンの存在。手話で演じる場面をボイスオーバーし、口語で演じている場面は手話でシーンに介在していく。演じることが表現で、ケアによって他者と共感できれば、そこに感動が生まれる。
また、公演に関わった人々にすれば、それぞれの母国語を通訳していくという作業が必要。コミュニケーションを図るためには丁寧な対応が必要になっている。こうまでして上演することは…を考えたとき、劇中劇としての稽古シーンこそが、単なる舞台リハーサルを観せるだけではなく、この舞台に携わった人々の共助が見えてくるようだ。公演を通して、お互いのサポートと相互理解、それこそ人が持っている温かい心遣いが垣間見えてくる。
次回公演も楽しみにしております。
JACROW#30『鋼の糸』
JACROW
駅前劇場(東京都)
2021/05/26 (水) ~ 2021/06/01 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
昭和・バブル期(1980年代半ば)から平成(2019年頃)にかけての約35年間のビジネス史を、ある合併企業内の出世競争を通して描いた骨太作品。合併するまでのダイナミックな過程はサラッと流し、拮抗していたライバル会社で働いていた人々との出世競争(勢力争い)、及び現代の労働環境の変化、時代状況や社会事情に翻弄されるサラリーマンの悲喜交々を描く。もっとも悲哀がほうが前面に出ていたが。
何となく自分が働いていた(現在も進行形だが)時期に重なるので、懐古的な気分で観劇。ただ、合併後の組織内という観点が、物語の世界観を小さくしているような気がした。
ちなみに「鋼の糸」とは、実に含蓄あるタイトル。観劇しないとその意図が解らない。
(上演時間2時間 途中休憩なし)
ネタバレBOX
舞台セットは、正面に回転式の木扉のようなものが並び、その奥に通(透)し通路らしきもの。上手・下手側にそれぞれ長テーブルとOA椅子が数脚あるのみ。場面転換に応じて動かし、それによって情景や状況を立体的に構築していく。作り込まない造作によって素早い変化が可能になり、物語のテンポも安定しており心地良い。
梗概…千葉製鉄と富士鋼管というライバル会社がグローバル化に対応するため合併する。同規模の企業であれば、合併後の役員を含めたポスト争いは苛烈であろう。企業体質が違えば色々な面で不整合が生じる。組織内の不協和音は人間関係から生じていることを浮き彫りにする。学閥・派閥(ここでは大学ラグビー部の先輩後輩)等を絡め抜き差しならぬ状況を丁寧に描く。人事の思惑がサラリーマン人生に大きな影響を及ぼす。80年代は残業(サービスも含め)は当たり前、過労死という見出し新聞もよく見た。物語は営業部門を中心に描いているため、過剰接待・カラ出張等、世相を反映した出来事を巧みに取り入れる。
しかし、時代を経て長時間勤務の見直し、それに伴いコンプラやワンオーワンミーティングといった台詞が出ることによって、政府主導の”働き方改革“をイメージさせる状況へ。時代状況の変化は、労働環境(働き方)の変化に繋がり、昔(少なくともバブル期)流の働き方は通用しなくなる。そして人の意識(終身雇用)も変化し起業家する動きも見える。しかし企業の利潤追求は変わらず、目標・計画達成には残業せず業績を上げること。一層の効率至上と成果主義の両方を求める。物語は、中間管理職ポスト=その立場が人を形成するかのようで、上司の命令・部下の具申の板挟みで苦悩する姿を滑稽に描き出す。少しホッとさせるのは、上司・部下の間で部下の手柄は上司のもの、上司の不始末は部下へ押し付け というシーンはなく、全て上司が責任を負うという潔さがあったこと。
物語は、組織内の観点で描いているため、端的に言えば出世を目指す男たちの物語になっている。だから計略、嫉妬、世辞、卑屈、憎悪が渦巻き、そして不倫も…。しかし、内部の出世競争とは別に顧客(外部・第三者)観点で描くことで、もう少しダイナミックな展開ができたと思う。組織内における人間関係や出世競争に焦点を絞ったほうが、濃密に描けるかもしれないが、内輪話に終始するのではないか。せっかく社内ではSWOT(スウォット)分析を行うこと、さらに業務提携や資本提携といった台詞で顧客との関わりを持てるシーンを提供しているだけに残念だった。
もう1つ、登場人物の出世競争は男性が中心。確かに女優陣は3人と少ないが、男の出世競争の中で翻弄されながらも、それでも今の時代を反映するような活躍の場(辛うじて起業家を選択)があってもよかった。働き方改革は女性活躍推進と密接に関わるのだから。
ラストシーン…サラリーマンとは? という問いに「笑えないピエロ」と答える。ほんとうに笑えない喜劇であった。
次回公演も楽しみにしております。
『GK最強リーグ戦2021』
演劇制作体V-NET
TACCS1179(東京都)
2021/05/26 (水) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
大和企画「胸に月を抱いて」、猿組「猿組式 西遊記~火焰山の辺りの話~」の2作品を観劇。
今回のテーマは「旅」。
さて、両作品とも手堅くまとめており楽しめた。しかし、何となく既知感がありガチンコ演劇バトルとしては、正直インパクトが弱い。「観客の投票によりどちらが面白かったか勝敗を決める」という謳い文句からすれば、もっと未知の広がりがありアッと驚く芝居のほうが…。それだけ質の高みを望んでしまう、「観客参加型の演劇イベント『GK最強リーグ戦』」なのだ。
(上演時間2時間:各45分+途中休憩兼換気)
ネタバレBOX
舞台は箱馬4つという簡素なもの。その自由空間をどのように活用し、テーマ「旅」を表現するか。それが見所の1つ。
●大和企画「胸に月を抱いて」
病院ベットで目覚めた恋人が、自分は松井須磨子だと名乗り、慕っている島村抱月を探していると言う。今から100年ほど前、大正期の有名脚本家と看板女優の名である。他人の体に憑依し、魂が彷徨する物語は何度か観たことがある。さて、困った彼氏・佐々木渡は彼女を連れて街に出る。渋谷の父なる占い師の言葉を信じて東京・台場の某所で上原康なるハイパー・メディア・クリエイターに出会う。彼女は、その人こそが島村抱月だと断言する。上原の才能の行き詰まり、世間の評価を気にする等の苦悩を吐露する。それは大正期の島村抱月の酷評続きの苦悩そのもの。時を超越し再会した魂の共鳴を、抱月の脚色・須磨子の歌(劇中歌「カチューシャの唄」)で知られる小説「復活」(トルストイ作)の1節で披歴する。この代表作のシーンが観せ場だと思うが、自分が観た回はここでちょっとしたミスを…勿体なかった。
想いを遂げた2人の魂が昇華し、現実の恋人同士に戻る帰結は、何となく観た覚えが…。
●猿組「猿組式 西遊記~火焰山の辺りの話~」
西遊記における「火焔山」の話。ちなみに西遊記そのものが旅物語。
三蔵法師一行は火焔山にさしかかった。この山の炎は、羅刹女が持っている芭蕉扇であおげば消えるという話を悟空が聞きだしてきた。羅刹女は牛魔王の女房で、紅孩児の母親である。実は紅孩児は人の犠牲(火焔山の炎)で生き延びている。かくして三蔵法師一行と牛魔王、羅刹女の芭蕉扇をめぐる死闘が始まった。ラスト、紅孩児の命に係る疑問も回収(生死簿=閻魔帳の書き換え)し大団円へ…。
こちらは死闘場面におけるアクションが観せ場であろう。広いスペースを存分に活用し小道具(武器)を器用に使いこなす。衣装や得物はそれらしく凝らしており好かった。物語を牽引しているのは、猿組・主宰で孫悟空役の東野裕 氏である。顔付きや仕草(膝を少し曲げ外八の字歩き)など、細やかな演技が印象的である。
どちらも「旅」イメージは持てたが、両作品とも こじんまりとして行儀が良いもの。当日パンフにも書かれているが、「巴戦方式による最強を決める戦い。競い合ってよりよい作品創りを目指す。これこそGK最大の見所ではないだろうか」とある。何も奇をてらう必要はないが…。
次回公演も楽しみにしております。
獣唄2021-改訂版
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2021/05/25 (火) ~ 2021/06/07 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
劇団桟敷童子らしい舞台美術と演出、そこに描かれる人間模様は実に悲しく儚い。が、一方で逞しい生命力を思わせる、その人間賛歌に身魂が震(奮)える。
初演(2019年12月)は観ていないため、どこを改訂したのかは分からない。
ところで、公演の当日パンフには「『獣唄』の再演をやると決めたのは去年の1回目の緊急事態宣言中である。(中略)得体の知れない何かが僕を搔き立てた。何故かしら『獣唄』をやらなければならないと思ったのである」と書かれている。
何となくだが、その理由が分かったような気がした。
(上演時間2時間 途中休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、木枝の両端を紐で結わえ縄梯子状にしたものが複雑にそして幾重にも絡み舞台全体を覆っている。緞帳代わりに木々が立ち横たわる。それは急峻な山肌、山道を表し山奥の寒村を出現させる。中央は九州にある村の広場といったところ。そして登場人物は、この村の人々と外の者(種苗業者:東亜満開堂)に大別できる。
梗概…時代は昭和13年~15年頃というから、日中戦争から第二次世界大戦へかけて軍靴が高らかに響いてくる。そんな時代を背景に、山奥の(仙獄)村にいる唯一の珍花採取人(通称:ハナト)・梁瀬繁蔵(村井國夫)と3人の娘(長女トキワ-板垣桃子、次女ミヨノ-増田薫、三女シノジ-大手忍)、その親子の愛憎、そして相克を描く。また村の掟や因習(現代的には男女差別だ)が時代閉塞と相まって重苦しくのしかかる。
父・繁蔵と娘たちの愛憎は、母が生活のため山に珍しい花(蘭)を求めに行ったが、悪天候のため落命。にも拘わらず父は花採取に没頭し娘たちの生活を顧みない。女は山に入れないという掟を破ったがゆえに墓さえ建てられない。しかし、何時しか娘たちも珍しい花採取に心奪われ、父を恨みながらも弟子入りする。足が悪い次女は花採取人にはなれず村の男の慰み者に、長女と三女は次第に花採取人としてライバル意識が芽生え、父・姉妹の間で相克が。
生活のため珍しい花(蘭)を採取するが、それは高く険しい崖に咲いている。命がけであるが、いつの間にか花の採取に明け暮れていく。一方、時代はますます軍事色が濃くなり、徴兵制はもちろん花禁止令…食料農作物以外の作物の栽培は禁止。そして不急作物とされた花を育てることへの統制。いつの間にか娘たちとの情を繋ぎ、なによりも生きるため逼迫した状況の中、かつて死の狭間で見た獣唄に命を救われたという繁蔵は、再び獣唄を探しに山へ向かう。獣唄-絶望の果てに咲く花、を見つけるために…。
戦時下を背景に個々の心情変化や感情の通い合いを描き、さらに不穏な空気感を漂わせる。社会状況(村人と東亜満開堂の社員との諍い、召集による働き手不足、令状が来ない心理的圧迫等)と先の親子関係を重層的に紡ぎ合わせ、物語を叙事詩的に展開していく。ラスト、大吹雪の中 命を賭して獣唄を採りに向かった繁蔵の前に三体の獣唄…それは繁蔵の亡くなった娘達の姿を借りて現れ、生きろと叫ぶ。クライマックス、舞台が船甲板のように大揺れ、それが自分の感情の揺れとシンクロし感動に酔いしれる。そこに感情的なカタルシスが生まれる。
桟敷童子らしい演出、薄暗い中に白い紙吹雪、そこに青白い照明を照射し幻想的な風景を出現させる。奥深い山、閉鎖的な村、その土臭さにあっても何故か純粋に美しく気高さを感じさせる。音響は、重低で寒風吹き荒ぶ効果音、同時に切なく物悲しい、それでいて優しく包み込むようなピアノの旋律。実に見事な印象、余韻付けであった。
この時期(コロナ禍)に上演したいという思い、分かるような気がした。
次回公演も楽しみにしております。
引き結び
ViStar PRODUCE
テアトルBONBON(東京都)
2021/05/19 (水) ~ 2021/05/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
現在・過去を往還し、さらに未来まで時間軸をのばし人との繋がりをもたせた公演。その描き方は理屈というよりは感性で表現した そんな印象だ。タイトル「引き結び~紬ぎ結ぶは時間の糸~」にあるように時を隔て繋がりを観せようとするが、ご都合的なところもあり、ストーリー展開を追うといった観方をしていると逆に混乱し解り難くなる。前説でも言っていたが、肩の力を抜いてゆったりとした気持で、そう大らかに構えることだ。
(上演時間1時間35分)【紬チーム 千穐楽】
ネタバレBOX
舞台セットは、中央が割けた大木(ヒマラヤスギだったら出来すぎか 花言葉=あなたのために生きる)を中心に上手・下手に変形段差を設けたスペース。さらに下手客席側に喫茶店。重要な小道具として固定電話が置かれている。後景(書き割り)はローマ数字、アラビア数字が書かれた幕があり、そこに後々、渦巻映像を映し時間という表現しにくい概念(または現在・過去の往還を歪化)を表わす。
梗概…照美真也がかつての恋人・水橋桜の不慮の死を阻止しようと、現在(2001年)から過去(1974年)へタイム"トラベル"する。現在の真也には別れた妻との間に1人娘・藤田心桜がいる。過去を変えることによって現在に影響-娘は存在しないというタイムパラドックスは避けたい。物語の設定は、もじゃ神の神力なのか天才発明家・真也によるタイムマシンの発明によるものか、それとも彼の幻想なのか判然としない。さらに、現在と過去を何度も往還させるためストーリー展開が煩雑になるのが難点。またサイドストーリーとして、自分が父親から受けた虐待のトラウマで、自分に子育てが出来るかといった苦悩も放り込むからよけいに面倒だ。
真也は自分の死期が近いことから、心残りである 桜との思いを繋ぐことに腐心した。であればタイム”スリップ”は1度だけで、そこの物語に厚みを持たせたほうが分かり易い。物語の全体を貫く”繋ぐ思い”は、たとえ愛しい人が亡くなっても、その人との楽しい思い出があれば生きていける、に表現される。結果的に過去は変えられないのだろうが、それでもラスト 真也と桜は27年ぶりに来世で邂逅する。27年という歳月によって2人の外見は変わってはいるが、それでも認識できるところに、時間の糸を感じる。
現在と過去を往還するたびに1役2人が現れ、テンポの良さと相まってどちらの世界観なのか分かり難くする。役者が熱演しているだけに残念。さらに もじゃ神と原田真理子(星宏美サン)の登場が笑いとともに更に不思議な世界観へ誘う。真理子は言う、将来 息子へ影響する? ということは真也の娘・心桜と関係してくるのだろうか、という想像もできる。この件、アメリカのSF映画「ターミネーター」を連想する。未来・現在・過去、そして再び未来といった連関は紬そのもの。仮に時間は過去・現在・未来と続くのであれば、人の数だけ時間軸=人生があるということ。実に人の機微に触れる公演であった。
次回公演も楽しみにしております。
超ではない能力
24/7lavo
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2021/05/13 (木) ~ 2021/05/17 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
物語は最後まで分からない、と言うか分からせない。何となくある映画のラストシーンを思い出すのだが…。「超ではない能力」、その設定は凝らしており楽しめたが、自分的にはもっと深堀してほしいところがあり少し残念だ。
(上演時間65分)
ネタバレBOX
場内(客席)は、三方に二列づつ設えており、前列はフェイスシールドの着用あり。コーナーに縁台のようなものが置かれ、ラストに近いシーンで使用される。超ではない能力を持った男女6人が集まって、それぞれの能力を披歴するところから物語は始まる。この微妙な「超能力で悩んでいる人」のオフ会そのものが、ラストシーンを考えるとフェイクのような描き方なのだが…。さて”超”能力は、サイコキネシス、テレキニシス、テレパシー、透視、予知、テレポーションの6つ。能力の披歴と同時に悩みも打ち明ける。また自分が置かれている諸々の状況も吐露する。この1人ひとりの紹介的な場面は定番、しかし、どんな能力を秘めているのか明かさない訳にはいかない。ここが1つの見せ場であろう。
超ではない能力を持つことの悩みをもう少し掘り下げてほしかった。人と違う能力、端的に言えば特殊な能力をもった人を認めた場合、周りの人の反応はどうだろうか。奇異な目で見る、その挙句 偏見・疎外、虐めの対象にされる。劇中でその悩みを打ち明ける。世間は特殊(信じられない)な能力に不寛容であるかもしれない。
このオフ会を通じて同じ悩みを共有し、世間に少しでも知ってもらう、理解してもらう行動(経済的な面も含め)としてYouTube配信を行う。自分の能力を多少過大に見せるため、ある細工をするが見破られネット炎上する。本人にしてみれば些細な事であり、寛容さを求めるような気持もあっただろう。しかし信用を失えば一気に見向きもされないのも現代だ。インターネットという玉石混淆の情報が飛び交う中で、真に必要な情報等を得るのは当たり前だ。この(不)寛容という問題を人の生き様に照らし合わせて描いてほしかったところ。せっかくの問題提起をしておきながらスルーして勿体なかった。
旗揚げ公演であるためか、やはり演技が少し かたい ような気がする。総じて若いキャストで、何となく演技をしてますといった感じで自然体ではない。もっと伸び伸びと演じてほしい。一生懸命に演じている、そこには好感が持てるだけに残念。
物語のクライマックスは自殺しようとしている女子高生を、超ではない能力で何とか助けようと…。
さて、この集会の呼びかけ人・東山崇は、脚本家志望(現在はバイト)という設定である。オフ会解散後、誰もいなくなった場内でパソコンを1人打つ姿は、この物語そのものがこの人物が書いた劇中劇のような気(悦に入った表情)がするのだが。映画「蒲田行進曲」では大階段落ち後、カチンコを鳴らし監督の「カット!」の声で、現実へ。同じようにパソコンキーを打ち終え画面を閉じた「パタン」という音が…そう想像したら何ともシュールな公演ではなかろうか。
次回公演も楽しみにしております。
夜から夜まで
劇団競泳水着
駅前劇場(東京都)
2021/05/12 (水) ~ 2021/05/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
表層的には身近にもありそうな恋愛劇。といっても優柔不断で曖昧な関係で満足している、もしくは進展を望んでいない男女の不器用な恋物語といった方がピッタリとくるか。この公演、恋愛話が淡々と展開していくだけのようだが、不思議と観入ってしまう魅力がある。
一方、どことなくコロナ禍を意識した描写があり、これも世相を反映させているのであろうか?物語は男女の感情や社会状況について、それぞれの憤懣やる方ない思いをしっかり伝えたいというメッセージが込められているかも。「劇団競泳水着、5年ぶりの本公演」…面白かった!
(上演時間2時間 途中休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術はシンプルで、その意味では男女の関係性の変化を際立たせる観せ方になっており、理に適っている。舞台を一段高くし、中央に横長椅子、上手側に円形カウンターテーブル、下手側に丸椅子が2つ。段差を設け、その上下の動作によって場面(情景)の変化を観せる。
梗概(説明から)…曖昧な関係(セフレ状態)を続ける祐平と咲。咲は、結婚3年目の友人・朋子から不倫していることを打ち明けられる。朋子の不倫相手・陸と知り合った咲は、陸に惹かれていくが、必死にその気持ちを抑える。やがて朋子は陸との不倫を終わらせる。それを知った咲は、祐平との関係を解消し陸と付き合う。一方、咲に去られた祐平は、元恋人やデリヘルで出逢った女性らと関係を結ぼうとするが、空回りを繰り返す。ある日、祐平、咲、朋子の三人は、延期となっていた知人の結婚パーティーで顔を合わせることになったのだが……。
どこかシャイで不器用な20歳半ば~30歳代半ばの男女、彼ら彼女らのどこか虚ろで鬱屈した思いが愛の決定打に欠け、真の”愛”を求めて彷徨している。そんな雰囲気が漂う少し切ない青春群像劇は、遥か昔の自分を見るようで甘酸っぱい気持にさせる。たびたび出てくる「東京は広い」という台詞は、多くの人が住んでいる割には、自分の心を満たしてくれる人との出会いが少ない。
コロナ禍の状況下にあっては、なおさら会って話をする機会が減っていることを表している。インターネットを通じた会話は、現代風とも思えるが、東京という大都会の中でのある種の”孤独”をも思わせる。何となくタイトル「夜から夜まで」に寂寥感を覚えてしまうのもそのためであろうか。
コロナ禍は、先に記した憤懣やる方ない思いを吐露する場面において、わざわざマスクを着けて叫ぶ。そこに本音を叫ばずにはいられない苛立ちが見える。かと言って暗く重い展開ではなく、どちらかと言えばカラッと乾いた雰囲気である。そこが淡々とした日常を思わせる。
もどかしい恋愛事情にコロナ禍という閉塞感を重ね合わせた物語(展開)は、観客を今状況に上手く取り込んだ会心作といえるだろう。
次回公演も楽しみにしております。
「母 MATKA」【5/17公演中止】
オフィスコットーネ
吉祥寺シアター(東京都)
2021/05/13 (木) ~ 2021/05/20 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
原作はチェコのカレル・チャペック、それを文学座の稲葉賀恵女史が演出した本公演は、大変観応えがあった。原作は1938年に書かれたらしいが、現代でも普遍的と思えるし説得力ある会話劇。もちろん原作の良さはあるが、それを演劇的に観せる巧みさ、その観点から言えば脚本・演出・演技そして舞台美術・技術のどれもが素晴らしかった!
内容は、女と男という性別はもちろんであるが、母としての思いをしっかり描き込んだという印象である。それは特別なことではなくごく当たり前な感情であるが、社会というか状況が異常(非国民的扱い)へと煽るような…。家族の会話を通して、根底にある不条理を浮かび上がらせる重厚な公演。
(上演時間2時間 途中休憩なし)
ネタバレBOX
舞台は亡き夫の書斎。中央に両袖机、上手側にはミニテーブルが置かれている。また上部から銃やフェンシング剣が吊り下げられている。下手側には本が積まれ、上手側と対を成すように本が吊り下げられている。小物としての当時のラジオ、蓄音機、複葉機模型、チェス等がある。これらは物語の中ですべて使用され無駄がない。後方はカーテン(紗幕)で、後々重要な演出効果を果たす。
下手側に亡き夫の軍服姿の肖像画があり、本人(大谷亮介サン)が額縁の中でポーズを撮っている。そして妻(増子倭文江サン)だけになると、額を跨いで出てきて、互いに思いを語り始める。この跨ぐ行為によって来世と現世の違いを表すが、物語の展開上あまり重要ではない。何しろ末息子を除く男(父親、夫、息子4人)は全て亡くなっているが、何の違和感もなく幽霊となってたびたび現れ議論(男の立場は議論であるが、母の思いは会話)する。ここに演出上の奇知を感じる。
梗概…母には5人の息子がいた。長男は戦地に赴き医学(黄熱病)研究に、次男は飛行機乗りとして技術開発に、そして双子の三男と四男は体制側・革命側に別れ戦うことになり、各人が名誉、社会的な立場、信念を貫き死んでいく。末息子は夢見がちで、他の兄弟とは違っていた。国では内戦が激しくなり、またラジオからは隣国からの侵略防衛するため国民に戦争参加を呼びかけるアナウンスが続く。隣国の敵も間近に迫る中、母はトニ(田中亨サン)だけは戦争に行かせまいと必死に守ろうとするが・・・。
さてラストは、観客の考え方次第で異なるだろう。
男は祖国、名誉、医学・科学発達、自由・平等といった信念など、何らかの大義のために死ぬ、そのことに悔いはないという。しかし、母は子を産み育てという感情の中で生きている。そう考えれば、この公演―表層的には、戦時下という状況において、男性の志向は国家などの抽象的な論理的概念、女性の思考は家族などの具体的な感情的概念といった性差の違いを観せているが、根底は「反戦」「生きる」とは? を考えさせる人間ドラマと言える。
さて、妻は夫が立派な軍人であることを誇りに思っているが、現実には戦死してしまい葛藤を抱える。その葛藤の表れが、逃避しても「それでもあなたを愛したわ」という台詞。女性の繊細な感情の機微が見てとれる。また息子(長男)についての語らいでは、なぜ自分の息子が危険な地域で黄熱病に苦しむ人々を救うために死ななければならなかったのか? 長男は「医者の義務」だと言うが、母親は「でも、おまえの義務なのか」と問い返す。一方父は、優秀な者が、先頭に立つべきだと言い、息子を褒める。ここに悲しいまでのすれ違いがある。母親にとっては自分の家族が一番大事なのだ。異なる前提からは、異なる結論が導かれる。男たちも、好きこのんで死んでいったわけではない。(幽霊の)父からは、「もっと生きていたかった」という言葉がこの作品により深みをあたえている。
原作の深みをより演劇的に観(魅)せているのが、演出等の素晴らしさ。まず小道具でフェンシング剣や銃が吊り下げられており、時々にそれを振りかざしたりするが、同じように吊り下げられた本は一度も触らない。そこに「武」と「知」の対比をみる。単純ではないが男(父と息子)と女(母)という本作の会話の食い違いを象徴しているようだ。またカーテンに遠近投影を用いた人影は、家族以外の第三者(群衆)もしくは社会という距離あるものを表現し、物語をより家族内の会話劇として際立たせている。同時に人影に銃声や号砲といった音響効果を巧みに併せることで緊迫感をもたらす。
しかし、重厚な作品であるにも関わらず、常に緊張感を強いるだけではなく、ときどきクスッという笑いというか”間”の妙を入れるあたりは実に上手い。もちろんその間合いの上手さは役者の演技力であることは間違いない。安定した演技力に裏付けされた緩急自在の感情表現は見事だ。コロナ禍にあって、このような公演を観ることができて本当に良かった。
次回公演を楽しみにしております。