明日の朝、いつものように 公演情報 LUCKUP「明日の朝、いつものように」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    まさしく"長すぎた春"物語。
    コロナ禍から5年ほど経ったカップル。出会った頃はコロナ禍で巣ごもりの生活を余儀なくさせられたが、それも今は昔のこと。コロナ禍の前と後における男女の意識を描いているが、どんな状況下であろうと大して変わらない普遍性ある恋愛観が見て取れる。公演は倦怠期のような男女の心に、ちょっとした隙間風が吹いたら、大事になり取り返しがつかないことになる。それどころか、関係はアッという間に崩壊する。その過程を淡々と描きつつ、何の変哲もない日常に潜む不安や不信を鮮やかに浮かび上がらせる。
    (上演時間70分) 【Bチ-ム】

    ネタバレBOX

    舞台美術は、日常生活そのままの背景を造形する。大括りに3か所の異なる場所(場面)をイメージさせる。中央にカウンター、上手側にダイニングを思わせるテーブルと椅子、下手側はカップルの部屋_2人掛のソファが置かれている。人(居場所)と距離感という物理的なことだけではなく、この空間処理に男・女の心象風景を描き込む。

    主人公の男・小久保ケンジ(オオダイラ隆生サン)と女・山崎ユウキ(高橋明日香サン)は、並んで座るという近距離。上手にあるのはユウキの妹夫婦・峰岸光太郎、カオリの家のダイニング、他人ではないが当事者でもないという中距離。そして第三者との語らいの場として外の飲食店を表すカウンターという長距離を演出している。人には快適な距離感のようなものがあり、カップルであっても心が通じ合わなくなると、1人がひじ掛けに座る もしくは立ったまま話しかける。微妙な立ち位置や振る舞いで表現する。そこに一緒に居る相手(男or女)のことを理解しているか否か、疑問符を突き付ける。
    演技は、ぼそっとしたさり気ない会話から、不快感顕わになり大声になっていく様を上手く演じている。演出、演技は実に自然体だ。

    物語はコロナ禍で知り合った男女が5年経ち、最近(2年ほどセックスレス)は精神的な繋がりだけ。ユウキは待つことが出来ず、あなたを求めたが…。ユウキはケンジの態度にイライラを募らせ、何故そうなのか自分の内にある欲に翻弄される。そんなユウキの心の隙に入り込む店の同僚・木田テツ。一方、ケンジは従姉・工藤ユタカのちょっとした悪戯心で知り合った女性・志村シオと親しくなっていく。それぞれが持っている思いや秘密が、だんだん大きく膨らむ。不安を孕んで漂う四角関係は、悲劇的な結末へ転がり出す。甘美な関係だけでは満足できず、濃密な性への気配が漂い始める。
    劇中では、女性の恋愛は心と身体すべてを投げ打つような危険な匂い。性はより深い精神の交合へ向かうためのステップで、そこに入り込んだら精神と欲望の迷路が広がっている。若い男女にとって精神と肉体は連動するのが当たり前、この公演では、更に精神と肉体の乖離を問うといった別の投げ掛けが…。

    公演が面白く共感しやすいのは、「性」に対する描き方が、女と男によって異なること。例えば、セックスレスを言い出した女性側は、生理的・機能的側面は語られず、あくまで精神(抽象)的なこと。一方、言われた男性側は、ユウキの妹の夫を通して語られる。妻の妊娠期における性処理(妻は消極的ながら風俗通いを了?)やバイアグラといった性機能に係る具体的な描きをし、後は観客の想像に委ねる。このバランス感覚が好いのだ。
    もう1つは、「性」的なことを社会問題と絡めず、人間に男と女がある以上 永遠に無くならないテーマ。「性」の喜びは美しいものだが、それだけに「性」の悲しみは、より一層それが際立つのかもしれない(LGBTも承知)。
    日常生活…男女で営まれる「性」の普遍性を独創性をもって描いているところに新鮮味と共感を覚えるのではないだろうか。
    ちなみに、ラストシーンは救いであろうか。別れたままの暗転で放り投げてもよかった気もした。しかし、5年前の出会った頃の回想は、出会いと別れ、そして新しい彼女との出発を意味するのであろう。その点では後味を良くした。
    次回公演を楽しみにしております。

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    2021/07/21 20:04

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