HATTORI半蔵Ⅳ
SPIRAL CHARIOTS
六行会ホール(東京都)
2021/06/30 (水) ~ 2021/07/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
チラシには「幕末の半蔵見参‼ 日本史オマージュストーリー!」という文字が並ぶ。この六行会ホールは品川区の財団設立。品川区立図書館が隣接しているが、その書架に「幕末♢明治の偉人たち」というパンフが置かれ、偶然にもこの公演に登場する人物が紹介されていた。そんな所縁の地で上演された公演の見所は、キャストの身体能力を駆使した演技(特に殺陣)、それを観(魅)せる舞台技術であろう。
キャストの熱と力の入った演技、スタッフの手際よい対応、そのサービス精神が公演全体を好印象にしている。
(上演時間2時間40分 途中休憩10分含む)
ネタバレBOX
舞台美術は段差を設け、中央に襖、左右対称に障子戸がある。絵柄は薄墨色の浮雲で、そこにプロジェクションマッピングでシーンに応じて背景を効果的に映し出す。また目つぶし照明、レーザービームなどの技術を駆使する。一方、音響も和/洋の楽器(尺八・三味線、ピアノ等)をこれまたシーンに応じて使い分けし、時にSEも交えて独特な音響効果を発揮する。この舞台技術が長尺の物語を飽きさせずに支えている。
また、殺陣と集団剣舞という観せ方の違い、和装の華やかで優雅なビジュアル、その観(魅)せる演出サービスの好感度も高い。
梗概…和の国“ジパング”、鎖国を続ける幕末時代。新たな時代=開国を目指す「飛竜革命開国軍」と幕府を存続=鎖国を守ろうとする「鎖国の虎・新選組」の争い。その争いに忍術が使われていたところから物語は始まる。代々幕府の要(老中)職に就きながら、訳あって今では市井の髪結い床(屋)になって平穏に暮らす服部半蔵親子。が、「開国軍」の中に忍術使いがいたことから争いの渦中へ。忍術は「印」を唱え敵の動きを操り、「解」を唱え術を解く。この時にレーザービームで「印」の結界を表し「解」で壊す(消滅)という視覚効果。同時にガラスが割れるような効果音で臨場感を表す。照明と音響の相乗効果ある舞台技術はなかなか迫力があった。物語は、同じ一族でありながら敵味方になった男(ハンバ)女(ツタエ)の宿命を、といった内容である。
劇中の台詞・・人生は「楽しく適当に生きるのが楽」VS「言われるまま、何も考えないのが楽」と言い合う将軍と側近の戯言。こんな無責任な為政者のもとでは安心・安全な暮らしは出来ない。さて、11代将軍ヨシノブは、公言の儀において、適任者がいれば誰が将軍職を担ってもよいと。一見、民主主義の発議のように思えるが、そこにはある思惑が…。同時に粛清⇒恐怖政治というどこかで聞いたようなシーンを放り込む。何となく現代を揶揄しているような…。
「楽市家」での洋食、タロット占い、スロットマシーンという遊び心満載のシーン。同時に物語における重要な位置、「開国軍」「新選組」の双方にとっての情報取集の場でもあるという物語性を引き出す。さらに開国後の”文明開化”の象徴としての未来像を描く。もっとも観劇している今(現代)だから解ることでもあるが。
公演全体の印象としては、前半の緩い笑いで引き込み、後半は物語性とスピード感ある展開で一気に観せる、といった硬軟あるもの。
そういえば、2人(ハンバとツタエ)の行く末はどうなったのであろうか?
次回公演も楽しみにしております。
別役実短篇集 わたしはあなたを待っていました
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2021/06/25 (金) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
別役実短編集全4作品通し(上演時間4時間 途中休憩1回15分)
【Aプログラム】
「いかけしごむ」「眠っちゃいけない子守歌」
【Bプログラム】
「舞え舞えかたつむり」「この道はいつか来た道」
この4作品のセレクションが絶妙で、【Aプログラム2作品】と【Bプログラム2作品】とでは作風が少し異なり、それぞれの特徴をうまく捉えた演出だ。もちろん ほの暗い小空間に電信柱や街灯といった別役作品の象徴といった舞台美術(除く「舞え舞えかたつむり」)。
別役作品=(日本の)不条理劇と言われているが、それは政治や経済といった社会的なことに求めるのではなく、あくまで人間そのものが持っているというか、端的に言えば人間の存在そのもの(内なる感情)であろう。誰もが感じる孤独・不安・空虚、苛立等の鬱積した感情、それらの感情を演劇という表現形式に取り込んだ、まさしく”人生劇場”そのものを観せる。時代背景に左右されず、人が抱くであろう感情、その不変のような舞台表現が観客自身の経験や体験なりと共感・共鳴し、ある種の説得(納得)性を突き付ける。別役作品の不条理と言わしめる、そんな代名詞に相応しいのが【Aプログラム】。
一方、【Bプログラム】は異色作。特に「舞え舞えかたつむり」は、チラシに「<犯罪症候群>に向き合う別役実独自路線のルーツ」とある。そして4作品中、唯一のテキレジを行っており、案外ストレートに楽しめる作品になっている。次に「この道はいつか来た道」_人生の終末期に関わらず、人生劇場を謳歌しているような劇風。が、やはり人生の哀歓を漂わすラストは胸に迫るものがある。
(台詞にない)言葉の先を想像し読み解くなど、見巧者のようなことは出来ないし、かと言って言葉の裏に潜む気持を感じられなければ風情も面白味もない。別役作品は面倒くさいが、そこがまた奥深く面白いところ。本公演、別役作品の案内企画と考えれば成功だろう。
ネタバレBOX
人に言わせれば、薄暗い劇空間、静寂した中に役者がそっと現れ佇み、言葉が紡がれ、時間が動き、抒情が立ち上がる。コロナ禍で劇場に足を運べない日々が続き、ライブに焦がれる演劇ファンにとっては、この別役劇らしいオープニングは、愛してやまない“演劇世界”の幕開けなのだと。
「いかけしごむ」
この先はないという路地裏。上手側に占い師テーブルと運命鑑定の行灯等、何故か黒電話(受話器)が吊るされている。下手側には街灯、ベンチ、その横に「ここには座らないで下さい」の張札が立っている。
女が1人現れ、構わずベンチに座る。その後 男が現れ女とのチグハグな対話が始まる。女は次々と男の状況等を言い当て、男を不安と混乱に陥れる。平行線を辿る会話は珍妙でコミカル。何が本当で何が嘘かも分からないままミステリアスな対話が連なる。そのうち男が持っていた袋の中身に言及してくる。男曰く、イカで消しゴムを製造できることを発明し、そのため秘密結社・ブルガリア暗殺団に命を狙われていると。そんな事実があるのか、女がリアリズム=現実(もしくはリアリズム≠現実どっち)と向き合うが…。ラスト、女の独白は自分自身の身の上話。
さて、黒電話は「命の電話」で、何事か相談した結果、女によれば「死ね」という回答だったらしい。そこに姿・形のない世間が突如として表れ、無関心と無責任といった冷たい風が吹く。会話劇に状況が入り込み、物語が立体的になり広がっていくかのようだ。
「眠っちゃいけない子守歌」
絨毯にテーブル、会い向かいに椅子が置かれ、上手側に腰高棚、下手側に食器棚。真ん中に室内灯が吊るされている。
1人暮らしの老人が住んでいる所へ、福祉の会から派遣された「話し相手」の男。老人は自分が何者なのか、漂流するような会話はどこに辿り着くのか。かみ合わない会話は、チェコスロバキア人とエチオピア人の会話のような、単なる道具としての”言葉”では通じ合えない。老人の求めてくる理由・理屈に男は辟易し、戸惑い、それがいつの間にか受容と共感へ変化していく。徐々に老人の記憶の底に眠っていた出来事が掘り起こされてジグソーパズルが完成するかのよう。まさに言葉の裏にある魔術に導かれた軌(奇)跡。小さな家の模型、幼き日 母との別離、その日は雪が降っており寂寥感が漂うシーンは暖色照明が溶暗していく。見事な余韻だ。
「舞え舞えかたつむり」
中央に緋毛氈、そこに雛段飾りが置かれている。五人囃子の一体がない。段飾りと女優陣の衣装が華やか。残忍な内容とは対照的な演出だ。
この話は昭和27年に起きた猟奇事件を基にしている。そして登場人物は9人を数える。
日常会話が噛み合わないところに人間関係の変化を表し、いつの間にか別の世界へ紛れ込ませる。捜査官の客観的な事実経過説明。異常(バラバラ)死体が発見され捜査の結果、被害者は行方不明の警官だったことが分る。そして捜査官が被害者の妻を訪れるところから芝居は動く。捜査官の説明、それを犯人と思われる妻は関係ない話ではぐらかす。この劇は犯人を追い詰めるサスペンス劇ではない。この妻の(異常)心理が浮き彫りになる心情が主題。何故殺害したのか、どうして死体をバラバラに切断したのか。妻の「風鈴の音」「分からない」は既に感情の外。
テキレジしているから何とも言えないが、生きている人間の生きた会話やモノローグではなく、擬人化させた雛人形が発する口語的なモノローグ、それが妻の深層心理を代弁する。何となく意識的に様式化されたようでもあり、客観的とも思える表現に若干の違和感を覚える。生きた人間の生きた会話の中から異常心理が炙り出されるほうがリアリティがあると思われるのだが…。しかし、分かり易さという点では秀逸、楽しめる。
「この道はいつか来た道」
舞台美術…女が下手側にあったポリゴミ容器を上手側に移動させる。そして男が現れ2人で座り話し込む。その横に街灯。ほとんどを下手側で演じているが、まるで世の片隅で淡々と生きてきた人生を連想させる。
ダンボールを引きずった中年の女性、茣蓙を丸めて縛って背負った初老の男性。2人の身なり、様子からホームレスらしい。延々と繰り返される取り止めのない会話、しかしラスト近くなって話は思わぬ方向へ。2人はホスピスを抜け出してきた末期癌患者だった。そして2人は偶然知り合い、愛し合い結婚するという演技を繰り返している。つまり「いつか来た道」。
ラストシーン、背中合わせになって死を迎えようとする2人。お互いの痛みを確かめ合うことは出来ないが凍死するのは確実であろう。寒く冷たい死の実感がそこはかとなく漂う。が、何故か自分はあくまで明るく楽しく人生を生きる、といった前向きな姿に思えてしまう不思議な余韻。
4作品を俯瞰するように眺めると、やはり人生の喜怒哀楽が…。ライブは心の洗濯(日)。
次回公演も楽しみにしています。
山姥の息子
水中散歩
シアター風姿花伝(東京都)
2021/06/23 (水) ~ 2021/06/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
山姥の息子という怪異な設定、それを人間の日常生活に紛れ込ませ仄々と描いた(妖)怪作。物語は妖・異界、自然界と向き合った問い掛けという、ある意味 啓蒙的な意図があったのかもしれないが、自分には感じ取れなかった。
山姥の息子を通して民間伝承を蒐集するという内容であるが、柳田國男の「遠野物語」「妖怪談義」の世界観の類型ではなく、人間社会 いや家族との関りという身近な世界観に収まる。
(上演時間1時間35分)
ネタバレBOX
舞台美術は、上手側にシルクロード音楽演奏家の大平清氏の生演奏スペース(敷物)。楽器はサズ、ウード、レバナ等(と思う)といった伝統楽器。演奏は雰囲気を醸し出し、かつ印象的で素晴らしかった。下手側は木組みを積上げ山をイメージさせたオブジェ、中央に同じように木組みした椅子が数個置かれ、やや上の後景はたたみ込んだ色布、それが映像照明と相まって険しい山稜を映し出す。舞台セットは趣があって良かった。また山オブジェの上り下りは躍動感があり、動的効果を見せた。
冒頭、暗転した中での叫び声、そして倒れている人のシーンから始まる。このシーンが中盤以降に繋がるわけだが、前・後半で物語が歪に変容していく。もっとも冒頭のおどろおどろした雰囲気は始めだけ。前半は、いつの間にか山姥の息子は静間家(代々語り部)の居候となり、当家の長男の伝承蒐集に協力していく。この山奥の村に纏わる100話を集めることを父から言い渡され、渋々作業に取り掛かるが…。後半は、冒頭倒れていた人はこの村の元猟師・冠野多作(丸尾聡サン)で、山姥の息子に殺された。そして怨霊となって息子(弟)に付きまとう悪意に満ちた展開へ。この丸尾サンの悪意と飄々さその表現の違いが実に上手い。
さて、怪異な世界の対極として科学(医学)的な場面を挿入してくる。嫌なことは記憶の底に封じ込めているが、何らかの拍子に思い出してしまう。静間家の祖母も山(この地では大我山)でどろどろに溶けた死骸を見つけショックを受けていた。また山姥の息子(弟)も同様に記憶の忘却。嫌な記憶を医学的に除去、克服してしまうという荒療治も提示される。物語の世界観からすれば、合理的な対処と思えるようなことでも、何故か人智を超えた現象(出来事)の前では傲慢に思えてしまうところが不思議だ。
ところで山姥の息子がどうして人里へ現れ、人間社会に紛れ込もうとしていたのか。山姥は山で人間に出会い喰らい殺してしまう。そのため息子と別れるという説明であったが、一方、山姥の息子が猟師を殺し、怨霊となった猟師の悪意を受けるというのは、なかなか理解し難い。劇中何度か、山で異界のものと遭遇した時は、お互い生きるために真剣に向き合うもの、という台詞があっただけに。物語の設定は面白いと思うが、冒頭の怪しげな雰囲気、緊張感はいつの間にか家族再生の緩いホームドラマへ転じていくようだ。雰囲気の一貫性、物語内の緊密な関連性がもう少し観られたら…。例えば、伝承エピソードを物語に絡める等(相撲シーンが何度かあったが、金太郎が山姥に育てられたと言う伝承)のように。
最後に、自然(人間以外の動植物含む)との共存といった暗喩があったのか否か、作者の思いの欠片さえ見出せなかったのは残念(自分の感性の問題か?)。
次回公演も楽しみにしています。
テンペスト ~はじめて海を泳ぐには~
ブリティッシュ・カウンシル/公益財団法人としま未来文化財団/豊島区
あうるすぽっと(東京都)
2021/06/01 (火) ~ 2021/06/06 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
主催「ブリティッシュ・カウンシル/公益財団法人としま未来文化財団/豊島区」としてみた観点(2回目)。
本公演は、障害のある演出家と俳優たちによって作り上げられる舞台、シェイクスピア最後の戯曲である「テンペスト」上演までの稽古を劇中劇とする。いわゆるバックステージものである。障碍者の表現の可能性を模索するような試み。さらに国籍による文化や言葉の違い、その多様な”ちがい”を橋渡しする意欲作。
公演を支援しているのが「あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)」(主催:ブリティッシュ・カウンシル/公益財団法人としま未来文化財団/豊島区)だ。活動支援は、「親しみやすい良質の舞台公演から、実験的な作品や国際共同制作まで、様々な公演事業を開催してきた。また区立劇場として地域に向けた参加型ワークショップやアウトリーチを実施するほか、芸術文化活動を支える人材を対象にした講座なども継続して実施してきた」といった趣旨によるもの。そして「豊島区が掲げる国際アート・カルチャー都市構想をふまえ、多くの劇場が集積する『演劇の街・池袋』の拠点として機能し、芸術文化を通して多様な人々が集い交流する『みんなの劇場』として、活力に満ちた豊かな地域社会の実現を目指す」としている。まさしく、さまざまな「ちがい」の観点から架橋になるような企画であった。
(上演時間1時間45分)
ネタバレBOX
自分とは異なる他者との向き合いを通して、公演「テンペスト」を構成していく。その過程を通じて演劇の面白さ、と同時に劇中劇のキャストとして成長していく人々の姿を生き活きと描き出す。演劇という共通点、しかしそこに携わる人々の「ちがい」が さも対極にあると思い込んでいる事を気付かせる。無謀な試みの公演だなと思いながら観に行ったが、当初の思いとは別に、驚きも戸惑いも、気づきも発見も曝け出し、みんなでシェアするような舞台であった。
公演は、英国の障害者アートムーブメントの先駆的存在であるジェニー・シーレイを総合演出に迎え、日本・英国・バングラデシュの3か国から障碍のある演出家、キャストが参加する。シェイクスピアの「テンペスト」上演までの劇中劇。さらに新型コロナウイルス感染症の影響に見舞われた世界の有り様も反映させたオリジナル作品として再構築している。
日本の演出は、大橋ひろえ女史と岡康史氏の2名。キャストには、日本人4名、英国人3名、バングラデシュ人2名の障碍のあるアーティスト、そして聴覚障害のある母親に育てられたコーダ(CODA: Children of Deaf Adults)の女優・吉冨さくら女史。文化や言葉、障害の違いを超えて作り上げる新たな「テンペスト」、その試みと意義には共感するが…。
やはり、稽古を通して物語「テンペスト」が構築されていく過程が観たかった。その点だけが残念だ。次回公演も楽しみにしている。
『テンペスト~はじめて海を泳ぐには~』
あうるすぽっと
あうるすぽっと(東京都)
2021/06/01 (火) ~ 2021/06/06 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
国籍、文化、言葉そして障碍も違うアーティスト達が、シェイクスピアの戯曲「テンペスト」を大胆に構成して描くパフォーマンス劇。新型コロナウィルス感染症のパンデミック状況における国際共同制作の試み。
公演には3つの観点がある、と思う。第1は国境を越えた障碍者による上演、第2にコロナ禍(他疫病や自然災害等も含む)にあって、それがテンペスト=嵐を乗り越えるという比喩、第3に嵐そのものが人生で、人間誰しもその中で生きている。嵐の大小の違いはあるが、それでも障碍者であろうと健常者であろうと関係なく生きること。
障碍者による公演、その上演までの努力・困難等は想像に難くないし、意義なりもそれなりに理解できる。しかし公演を観せるということは、役者が障碍者、健常者に関係なく観客に分かるようにようにすべき。タイトルが「テンペスト」であり、その上演であることは周知のこと。そしてホワイエには舞台装置の模型が置かれ、その横に説明板がある。さらに場内でも舞台装置等に関する説明が流れる。だから上演までには稽古-劇中劇であるということは分かる。
しかし「テンペスト」という物語(粗筋)の説明がないことから、観客はこの物語を知っているという前提で始まる。物語を知っている人と初めて「テンペスト」という劇を観る人とでは、題材になっている戯曲に対する面白さ醍醐味を味わう上で差がある。
公演の謳い文句の一節には「『テンペスト』では、障碍のあるアーティスト達が国を超え集う伝え合うことの難しさとだからこそ得る喜びを見つけ、未来へ続く景色に到達するために」とある。この戯曲を初めてみる観客のためには、稽古という劇中劇であっても、「テンペスト」という物語そのものを構築(構成)していく必要があると思うが…。だからこそラストのカーテンコールのシーンが活きてくる。
(上演時間1時間45分)
ネタバレBOX
舞台美術は、グレーの床、中央に「テンペスト」舞台模型。その後ろに2枚のスクリーンが並び吊るされている。上手・下手側にそれぞれ3枚の可動式衝立があり、仕様(鈴鐘付や硝子張り等)が異なっている。その衝立の前に色違いの椅子が3脚づつ置かれている。
人それぞれの外見・内面が違うように、舞台装置も同じものは使用せず、素材・形状・色等に違いという意味合いを持たせている。2枚のスクリーンは、英国とバングラデシュとZoom(映像)で結び、それぞれの国における役割を果たす。
「テンペスト」は、シェイクスピア最後の戯曲と言われている。その粗筋は、弟アントーニオの策略により、地位を奪われ、娘ミランダとともに孤島に流されたミラノ大公プロスペローの復讐。歳月を経て秘術を身に付けた彼は、魔法の力で嵐を起こす。彼を陥れたアントーニオとナポリ王アロンゾー、王子ファーディナンドを乗せた船は難破し、孤島へ。そこでミランダとファーディナンドは恋に落ち、プロスペローは妖精エアリエルと怪物キャリバンを操って公国を取り戻す。といった内容だ。しかし公演では、恋物語が中心で、何となく「ロミオとジュリエット」(仇敵の息子と娘)といった恋愛劇の印象だ。これが大胆な翻案(構成)をした「テンペスト」なのであろうか。
この舞台は、「テンペスト」を上演するための稽古場。そこに日本・英国・バングラデシュの3 か国の障碍の異なる俳優が集まる。が、新型コロナウイルスの影響により、海外キャスト・スタッフの来日が不可能になる。そこでオンラインで海外と日本の稽古場を繋ぎ、様々な障碍やバックグラウンドを持つ出演者たちは、それぞれに異なる表現方法で『テンペスト』を創造していく。演劇は稽古から本番まで全ての段階で人と関わることで成り立っている。それが当たり前だと思っていたが、コロナ禍では そう簡単な事ではなくなった。その意味で新たな公演の在り方を模索する上で意義があったと思う。
さて、この舞台-障碍者の芝居で欠かせないのが、舞台のアクセシビリティを担うコーダ・吉冨さくらサンの存在。手話で演じる場面をボイスオーバーし、口語で演じている場面は手話でシーンに介在していく。演じることが表現で、ケアによって他者と共感できれば、そこに感動が生まれる。
また、公演に関わった人々にすれば、それぞれの母国語を通訳していくという作業が必要。コミュニケーションを図るためには丁寧な対応が必要になっている。こうまでして上演することは…を考えたとき、劇中劇としての稽古シーンこそが、単なる舞台リハーサルを観せるだけではなく、この舞台に携わった人々の共助が見えてくるようだ。公演を通して、お互いのサポートと相互理解、それこそ人が持っている温かい心遣いが垣間見えてくる。
次回公演も楽しみにしております。
JACROW#30『鋼の糸』
JACROW
駅前劇場(東京都)
2021/05/26 (水) ~ 2021/06/01 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
昭和・バブル期(1980年代半ば)から平成(2019年頃)にかけての約35年間のビジネス史を、ある合併企業内の出世競争を通して描いた骨太作品。合併するまでのダイナミックな過程はサラッと流し、拮抗していたライバル会社で働いていた人々との出世競争(勢力争い)、及び現代の労働環境の変化、時代状況や社会事情に翻弄されるサラリーマンの悲喜交々を描く。もっとも悲哀がほうが前面に出ていたが。
何となく自分が働いていた(現在も進行形だが)時期に重なるので、懐古的な気分で観劇。ただ、合併後の組織内という観点が、物語の世界観を小さくしているような気がした。
ちなみに「鋼の糸」とは、実に含蓄あるタイトル。観劇しないとその意図が解らない。
(上演時間2時間 途中休憩なし)
ネタバレBOX
舞台セットは、正面に回転式の木扉のようなものが並び、その奥に通(透)し通路らしきもの。上手・下手側にそれぞれ長テーブルとOA椅子が数脚あるのみ。場面転換に応じて動かし、それによって情景や状況を立体的に構築していく。作り込まない造作によって素早い変化が可能になり、物語のテンポも安定しており心地良い。
梗概…千葉製鉄と富士鋼管というライバル会社がグローバル化に対応するため合併する。同規模の企業であれば、合併後の役員を含めたポスト争いは苛烈であろう。企業体質が違えば色々な面で不整合が生じる。組織内の不協和音は人間関係から生じていることを浮き彫りにする。学閥・派閥(ここでは大学ラグビー部の先輩後輩)等を絡め抜き差しならぬ状況を丁寧に描く。人事の思惑がサラリーマン人生に大きな影響を及ぼす。80年代は残業(サービスも含め)は当たり前、過労死という見出し新聞もよく見た。物語は営業部門を中心に描いているため、過剰接待・カラ出張等、世相を反映した出来事を巧みに取り入れる。
しかし、時代を経て長時間勤務の見直し、それに伴いコンプラやワンオーワンミーティングといった台詞が出ることによって、政府主導の”働き方改革“をイメージさせる状況へ。時代状況の変化は、労働環境(働き方)の変化に繋がり、昔(少なくともバブル期)流の働き方は通用しなくなる。そして人の意識(終身雇用)も変化し起業家する動きも見える。しかし企業の利潤追求は変わらず、目標・計画達成には残業せず業績を上げること。一層の効率至上と成果主義の両方を求める。物語は、中間管理職ポスト=その立場が人を形成するかのようで、上司の命令・部下の具申の板挟みで苦悩する姿を滑稽に描き出す。少しホッとさせるのは、上司・部下の間で部下の手柄は上司のもの、上司の不始末は部下へ押し付け というシーンはなく、全て上司が責任を負うという潔さがあったこと。
物語は、組織内の観点で描いているため、端的に言えば出世を目指す男たちの物語になっている。だから計略、嫉妬、世辞、卑屈、憎悪が渦巻き、そして不倫も…。しかし、内部の出世競争とは別に顧客(外部・第三者)観点で描くことで、もう少しダイナミックな展開ができたと思う。組織内における人間関係や出世競争に焦点を絞ったほうが、濃密に描けるかもしれないが、内輪話に終始するのではないか。せっかく社内ではSWOT(スウォット)分析を行うこと、さらに業務提携や資本提携といった台詞で顧客との関わりを持てるシーンを提供しているだけに残念だった。
もう1つ、登場人物の出世競争は男性が中心。確かに女優陣は3人と少ないが、男の出世競争の中で翻弄されながらも、それでも今の時代を反映するような活躍の場(辛うじて起業家を選択)があってもよかった。働き方改革は女性活躍推進と密接に関わるのだから。
ラストシーン…サラリーマンとは? という問いに「笑えないピエロ」と答える。ほんとうに笑えない喜劇であった。
次回公演も楽しみにしております。
『GK最強リーグ戦2021』
演劇制作体V-NET
TACCS1179(東京都)
2021/05/26 (水) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
大和企画「胸に月を抱いて」、猿組「猿組式 西遊記~火焰山の辺りの話~」の2作品を観劇。
今回のテーマは「旅」。
さて、両作品とも手堅くまとめており楽しめた。しかし、何となく既知感がありガチンコ演劇バトルとしては、正直インパクトが弱い。「観客の投票によりどちらが面白かったか勝敗を決める」という謳い文句からすれば、もっと未知の広がりがありアッと驚く芝居のほうが…。それだけ質の高みを望んでしまう、「観客参加型の演劇イベント『GK最強リーグ戦』」なのだ。
(上演時間2時間:各45分+途中休憩兼換気)
ネタバレBOX
舞台は箱馬4つという簡素なもの。その自由空間をどのように活用し、テーマ「旅」を表現するか。それが見所の1つ。
●大和企画「胸に月を抱いて」
病院ベットで目覚めた恋人が、自分は松井須磨子だと名乗り、慕っている島村抱月を探していると言う。今から100年ほど前、大正期の有名脚本家と看板女優の名である。他人の体に憑依し、魂が彷徨する物語は何度か観たことがある。さて、困った彼氏・佐々木渡は彼女を連れて街に出る。渋谷の父なる占い師の言葉を信じて東京・台場の某所で上原康なるハイパー・メディア・クリエイターに出会う。彼女は、その人こそが島村抱月だと断言する。上原の才能の行き詰まり、世間の評価を気にする等の苦悩を吐露する。それは大正期の島村抱月の酷評続きの苦悩そのもの。時を超越し再会した魂の共鳴を、抱月の脚色・須磨子の歌(劇中歌「カチューシャの唄」)で知られる小説「復活」(トルストイ作)の1節で披歴する。この代表作のシーンが観せ場だと思うが、自分が観た回はここでちょっとしたミスを…勿体なかった。
想いを遂げた2人の魂が昇華し、現実の恋人同士に戻る帰結は、何となく観た覚えが…。
●猿組「猿組式 西遊記~火焰山の辺りの話~」
西遊記における「火焔山」の話。ちなみに西遊記そのものが旅物語。
三蔵法師一行は火焔山にさしかかった。この山の炎は、羅刹女が持っている芭蕉扇であおげば消えるという話を悟空が聞きだしてきた。羅刹女は牛魔王の女房で、紅孩児の母親である。実は紅孩児は人の犠牲(火焔山の炎)で生き延びている。かくして三蔵法師一行と牛魔王、羅刹女の芭蕉扇をめぐる死闘が始まった。ラスト、紅孩児の命に係る疑問も回収(生死簿=閻魔帳の書き換え)し大団円へ…。
こちらは死闘場面におけるアクションが観せ場であろう。広いスペースを存分に活用し小道具(武器)を器用に使いこなす。衣装や得物はそれらしく凝らしており好かった。物語を牽引しているのは、猿組・主宰で孫悟空役の東野裕 氏である。顔付きや仕草(膝を少し曲げ外八の字歩き)など、細やかな演技が印象的である。
どちらも「旅」イメージは持てたが、両作品とも こじんまりとして行儀が良いもの。当日パンフにも書かれているが、「巴戦方式による最強を決める戦い。競い合ってよりよい作品創りを目指す。これこそGK最大の見所ではないだろうか」とある。何も奇をてらう必要はないが…。
次回公演も楽しみにしております。
獣唄2021-改訂版
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2021/05/25 (火) ~ 2021/06/07 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
劇団桟敷童子らしい舞台美術と演出、そこに描かれる人間模様は実に悲しく儚い。が、一方で逞しい生命力を思わせる、その人間賛歌に身魂が震(奮)える。
初演(2019年12月)は観ていないため、どこを改訂したのかは分からない。
ところで、公演の当日パンフには「『獣唄』の再演をやると決めたのは去年の1回目の緊急事態宣言中である。(中略)得体の知れない何かが僕を搔き立てた。何故かしら『獣唄』をやらなければならないと思ったのである」と書かれている。
何となくだが、その理由が分かったような気がした。
(上演時間2時間 途中休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術は、木枝の両端を紐で結わえ縄梯子状にしたものが複雑にそして幾重にも絡み舞台全体を覆っている。緞帳代わりに木々が立ち横たわる。それは急峻な山肌、山道を表し山奥の寒村を出現させる。中央は九州にある村の広場といったところ。そして登場人物は、この村の人々と外の者(種苗業者:東亜満開堂)に大別できる。
梗概…時代は昭和13年~15年頃というから、日中戦争から第二次世界大戦へかけて軍靴が高らかに響いてくる。そんな時代を背景に、山奥の(仙獄)村にいる唯一の珍花採取人(通称:ハナト)・梁瀬繁蔵(村井國夫)と3人の娘(長女トキワ-板垣桃子、次女ミヨノ-増田薫、三女シノジ-大手忍)、その親子の愛憎、そして相克を描く。また村の掟や因習(現代的には男女差別だ)が時代閉塞と相まって重苦しくのしかかる。
父・繁蔵と娘たちの愛憎は、母が生活のため山に珍しい花(蘭)を求めに行ったが、悪天候のため落命。にも拘わらず父は花採取に没頭し娘たちの生活を顧みない。女は山に入れないという掟を破ったがゆえに墓さえ建てられない。しかし、何時しか娘たちも珍しい花採取に心奪われ、父を恨みながらも弟子入りする。足が悪い次女は花採取人にはなれず村の男の慰み者に、長女と三女は次第に花採取人としてライバル意識が芽生え、父・姉妹の間で相克が。
生活のため珍しい花(蘭)を採取するが、それは高く険しい崖に咲いている。命がけであるが、いつの間にか花の採取に明け暮れていく。一方、時代はますます軍事色が濃くなり、徴兵制はもちろん花禁止令…食料農作物以外の作物の栽培は禁止。そして不急作物とされた花を育てることへの統制。いつの間にか娘たちとの情を繋ぎ、なによりも生きるため逼迫した状況の中、かつて死の狭間で見た獣唄に命を救われたという繁蔵は、再び獣唄を探しに山へ向かう。獣唄-絶望の果てに咲く花、を見つけるために…。
戦時下を背景に個々の心情変化や感情の通い合いを描き、さらに不穏な空気感を漂わせる。社会状況(村人と東亜満開堂の社員との諍い、召集による働き手不足、令状が来ない心理的圧迫等)と先の親子関係を重層的に紡ぎ合わせ、物語を叙事詩的に展開していく。ラスト、大吹雪の中 命を賭して獣唄を採りに向かった繁蔵の前に三体の獣唄…それは繁蔵の亡くなった娘達の姿を借りて現れ、生きろと叫ぶ。クライマックス、舞台が船甲板のように大揺れ、それが自分の感情の揺れとシンクロし感動に酔いしれる。そこに感情的なカタルシスが生まれる。
桟敷童子らしい演出、薄暗い中に白い紙吹雪、そこに青白い照明を照射し幻想的な風景を出現させる。奥深い山、閉鎖的な村、その土臭さにあっても何故か純粋に美しく気高さを感じさせる。音響は、重低で寒風吹き荒ぶ効果音、同時に切なく物悲しい、それでいて優しく包み込むようなピアノの旋律。実に見事な印象、余韻付けであった。
この時期(コロナ禍)に上演したいという思い、分かるような気がした。
次回公演も楽しみにしております。
引き結び
ViStar PRODUCE
テアトルBONBON(東京都)
2021/05/19 (水) ~ 2021/05/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
現在・過去を往還し、さらに未来まで時間軸をのばし人との繋がりをもたせた公演。その描き方は理屈というよりは感性で表現した そんな印象だ。タイトル「引き結び~紬ぎ結ぶは時間の糸~」にあるように時を隔て繋がりを観せようとするが、ご都合的なところもあり、ストーリー展開を追うといった観方をしていると逆に混乱し解り難くなる。前説でも言っていたが、肩の力を抜いてゆったりとした気持で、そう大らかに構えることだ。
(上演時間1時間35分)【紬チーム 千穐楽】
ネタバレBOX
舞台セットは、中央が割けた大木(ヒマラヤスギだったら出来すぎか 花言葉=あなたのために生きる)を中心に上手・下手に変形段差を設けたスペース。さらに下手客席側に喫茶店。重要な小道具として固定電話が置かれている。後景(書き割り)はローマ数字、アラビア数字が書かれた幕があり、そこに後々、渦巻映像を映し時間という表現しにくい概念(または現在・過去の往還を歪化)を表わす。
梗概…照美真也がかつての恋人・水橋桜の不慮の死を阻止しようと、現在(2001年)から過去(1974年)へタイム"トラベル"する。現在の真也には別れた妻との間に1人娘・藤田心桜がいる。過去を変えることによって現在に影響-娘は存在しないというタイムパラドックスは避けたい。物語の設定は、もじゃ神の神力なのか天才発明家・真也によるタイムマシンの発明によるものか、それとも彼の幻想なのか判然としない。さらに、現在と過去を何度も往還させるためストーリー展開が煩雑になるのが難点。またサイドストーリーとして、自分が父親から受けた虐待のトラウマで、自分に子育てが出来るかといった苦悩も放り込むからよけいに面倒だ。
真也は自分の死期が近いことから、心残りである 桜との思いを繋ぐことに腐心した。であればタイム”スリップ”は1度だけで、そこの物語に厚みを持たせたほうが分かり易い。物語の全体を貫く”繋ぐ思い”は、たとえ愛しい人が亡くなっても、その人との楽しい思い出があれば生きていける、に表現される。結果的に過去は変えられないのだろうが、それでもラスト 真也と桜は27年ぶりに来世で邂逅する。27年という歳月によって2人の外見は変わってはいるが、それでも認識できるところに、時間の糸を感じる。
現在と過去を往還するたびに1役2人が現れ、テンポの良さと相まってどちらの世界観なのか分かり難くする。役者が熱演しているだけに残念。さらに もじゃ神と原田真理子(星宏美サン)の登場が笑いとともに更に不思議な世界観へ誘う。真理子は言う、将来 息子へ影響する? ということは真也の娘・心桜と関係してくるのだろうか、という想像もできる。この件、アメリカのSF映画「ターミネーター」を連想する。未来・現在・過去、そして再び未来といった連関は紬そのもの。仮に時間は過去・現在・未来と続くのであれば、人の数だけ時間軸=人生があるということ。実に人の機微に触れる公演であった。
次回公演も楽しみにしております。
超ではない能力
24/7lavo
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2021/05/13 (木) ~ 2021/05/17 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
物語は最後まで分からない、と言うか分からせない。何となくある映画のラストシーンを思い出すのだが…。「超ではない能力」、その設定は凝らしており楽しめたが、自分的にはもっと深堀してほしいところがあり少し残念だ。
(上演時間65分)
ネタバレBOX
場内(客席)は、三方に二列づつ設えており、前列はフェイスシールドの着用あり。コーナーに縁台のようなものが置かれ、ラストに近いシーンで使用される。超ではない能力を持った男女6人が集まって、それぞれの能力を披歴するところから物語は始まる。この微妙な「超能力で悩んでいる人」のオフ会そのものが、ラストシーンを考えるとフェイクのような描き方なのだが…。さて”超”能力は、サイコキネシス、テレキニシス、テレパシー、透視、予知、テレポーションの6つ。能力の披歴と同時に悩みも打ち明ける。また自分が置かれている諸々の状況も吐露する。この1人ひとりの紹介的な場面は定番、しかし、どんな能力を秘めているのか明かさない訳にはいかない。ここが1つの見せ場であろう。
超ではない能力を持つことの悩みをもう少し掘り下げてほしかった。人と違う能力、端的に言えば特殊な能力をもった人を認めた場合、周りの人の反応はどうだろうか。奇異な目で見る、その挙句 偏見・疎外、虐めの対象にされる。劇中でその悩みを打ち明ける。世間は特殊(信じられない)な能力に不寛容であるかもしれない。
このオフ会を通じて同じ悩みを共有し、世間に少しでも知ってもらう、理解してもらう行動(経済的な面も含め)としてYouTube配信を行う。自分の能力を多少過大に見せるため、ある細工をするが見破られネット炎上する。本人にしてみれば些細な事であり、寛容さを求めるような気持もあっただろう。しかし信用を失えば一気に見向きもされないのも現代だ。インターネットという玉石混淆の情報が飛び交う中で、真に必要な情報等を得るのは当たり前だ。この(不)寛容という問題を人の生き様に照らし合わせて描いてほしかったところ。せっかくの問題提起をしておきながらスルーして勿体なかった。
旗揚げ公演であるためか、やはり演技が少し かたい ような気がする。総じて若いキャストで、何となく演技をしてますといった感じで自然体ではない。もっと伸び伸びと演じてほしい。一生懸命に演じている、そこには好感が持てるだけに残念。
物語のクライマックスは自殺しようとしている女子高生を、超ではない能力で何とか助けようと…。
さて、この集会の呼びかけ人・東山崇は、脚本家志望(現在はバイト)という設定である。オフ会解散後、誰もいなくなった場内でパソコンを1人打つ姿は、この物語そのものがこの人物が書いた劇中劇のような気(悦に入った表情)がするのだが。映画「蒲田行進曲」では大階段落ち後、カチンコを鳴らし監督の「カット!」の声で、現実へ。同じようにパソコンキーを打ち終え画面を閉じた「パタン」という音が…そう想像したら何ともシュールな公演ではなかろうか。
次回公演も楽しみにしております。
夜から夜まで
劇団競泳水着
駅前劇場(東京都)
2021/05/12 (水) ~ 2021/05/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
表層的には身近にもありそうな恋愛劇。といっても優柔不断で曖昧な関係で満足している、もしくは進展を望んでいない男女の不器用な恋物語といった方がピッタリとくるか。この公演、恋愛話が淡々と展開していくだけのようだが、不思議と観入ってしまう魅力がある。
一方、どことなくコロナ禍を意識した描写があり、これも世相を反映させているのであろうか?物語は男女の感情や社会状況について、それぞれの憤懣やる方ない思いをしっかり伝えたいというメッセージが込められているかも。「劇団競泳水着、5年ぶりの本公演」…面白かった!
(上演時間2時間 途中休憩なし)
ネタバレBOX
舞台美術はシンプルで、その意味では男女の関係性の変化を際立たせる観せ方になっており、理に適っている。舞台を一段高くし、中央に横長椅子、上手側に円形カウンターテーブル、下手側に丸椅子が2つ。段差を設け、その上下の動作によって場面(情景)の変化を観せる。
梗概(説明から)…曖昧な関係(セフレ状態)を続ける祐平と咲。咲は、結婚3年目の友人・朋子から不倫していることを打ち明けられる。朋子の不倫相手・陸と知り合った咲は、陸に惹かれていくが、必死にその気持ちを抑える。やがて朋子は陸との不倫を終わらせる。それを知った咲は、祐平との関係を解消し陸と付き合う。一方、咲に去られた祐平は、元恋人やデリヘルで出逢った女性らと関係を結ぼうとするが、空回りを繰り返す。ある日、祐平、咲、朋子の三人は、延期となっていた知人の結婚パーティーで顔を合わせることになったのだが……。
どこかシャイで不器用な20歳半ば~30歳代半ばの男女、彼ら彼女らのどこか虚ろで鬱屈した思いが愛の決定打に欠け、真の”愛”を求めて彷徨している。そんな雰囲気が漂う少し切ない青春群像劇は、遥か昔の自分を見るようで甘酸っぱい気持にさせる。たびたび出てくる「東京は広い」という台詞は、多くの人が住んでいる割には、自分の心を満たしてくれる人との出会いが少ない。
コロナ禍の状況下にあっては、なおさら会って話をする機会が減っていることを表している。インターネットを通じた会話は、現代風とも思えるが、東京という大都会の中でのある種の”孤独”をも思わせる。何となくタイトル「夜から夜まで」に寂寥感を覚えてしまうのもそのためであろうか。
コロナ禍は、先に記した憤懣やる方ない思いを吐露する場面において、わざわざマスクを着けて叫ぶ。そこに本音を叫ばずにはいられない苛立ちが見える。かと言って暗く重い展開ではなく、どちらかと言えばカラッと乾いた雰囲気である。そこが淡々とした日常を思わせる。
もどかしい恋愛事情にコロナ禍という閉塞感を重ね合わせた物語(展開)は、観客を今状況に上手く取り込んだ会心作といえるだろう。
次回公演も楽しみにしております。
「母 MATKA」【5/17公演中止】
オフィスコットーネ
吉祥寺シアター(東京都)
2021/05/13 (木) ~ 2021/05/20 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
原作はチェコのカレル・チャペック、それを文学座の稲葉賀恵女史が演出した本公演は、大変観応えがあった。原作は1938年に書かれたらしいが、現代でも普遍的と思えるし説得力ある会話劇。もちろん原作の良さはあるが、それを演劇的に観せる巧みさ、その観点から言えば脚本・演出・演技そして舞台美術・技術のどれもが素晴らしかった!
内容は、女と男という性別はもちろんであるが、母としての思いをしっかり描き込んだという印象である。それは特別なことではなくごく当たり前な感情であるが、社会というか状況が異常(非国民的扱い)へと煽るような…。家族の会話を通して、根底にある不条理を浮かび上がらせる重厚な公演。
(上演時間2時間 途中休憩なし)
ネタバレBOX
舞台は亡き夫の書斎。中央に両袖机、上手側にはミニテーブルが置かれている。また上部から銃やフェンシング剣が吊り下げられている。下手側には本が積まれ、上手側と対を成すように本が吊り下げられている。小物としての当時のラジオ、蓄音機、複葉機模型、チェス等がある。これらは物語の中ですべて使用され無駄がない。後方はカーテン(紗幕)で、後々重要な演出効果を果たす。
下手側に亡き夫の軍服姿の肖像画があり、本人(大谷亮介サン)が額縁の中でポーズを撮っている。そして妻(増子倭文江サン)だけになると、額を跨いで出てきて、互いに思いを語り始める。この跨ぐ行為によって来世と現世の違いを表すが、物語の展開上あまり重要ではない。何しろ末息子を除く男(父親、夫、息子4人)は全て亡くなっているが、何の違和感もなく幽霊となってたびたび現れ議論(男の立場は議論であるが、母の思いは会話)する。ここに演出上の奇知を感じる。
梗概…母には5人の息子がいた。長男は戦地に赴き医学(黄熱病)研究に、次男は飛行機乗りとして技術開発に、そして双子の三男と四男は体制側・革命側に別れ戦うことになり、各人が名誉、社会的な立場、信念を貫き死んでいく。末息子は夢見がちで、他の兄弟とは違っていた。国では内戦が激しくなり、またラジオからは隣国からの侵略防衛するため国民に戦争参加を呼びかけるアナウンスが続く。隣国の敵も間近に迫る中、母はトニ(田中亨サン)だけは戦争に行かせまいと必死に守ろうとするが・・・。
さてラストは、観客の考え方次第で異なるだろう。
男は祖国、名誉、医学・科学発達、自由・平等といった信念など、何らかの大義のために死ぬ、そのことに悔いはないという。しかし、母は子を産み育てという感情の中で生きている。そう考えれば、この公演―表層的には、戦時下という状況において、男性の志向は国家などの抽象的な論理的概念、女性の思考は家族などの具体的な感情的概念といった性差の違いを観せているが、根底は「反戦」「生きる」とは? を考えさせる人間ドラマと言える。
さて、妻は夫が立派な軍人であることを誇りに思っているが、現実には戦死してしまい葛藤を抱える。その葛藤の表れが、逃避しても「それでもあなたを愛したわ」という台詞。女性の繊細な感情の機微が見てとれる。また息子(長男)についての語らいでは、なぜ自分の息子が危険な地域で黄熱病に苦しむ人々を救うために死ななければならなかったのか? 長男は「医者の義務」だと言うが、母親は「でも、おまえの義務なのか」と問い返す。一方父は、優秀な者が、先頭に立つべきだと言い、息子を褒める。ここに悲しいまでのすれ違いがある。母親にとっては自分の家族が一番大事なのだ。異なる前提からは、異なる結論が導かれる。男たちも、好きこのんで死んでいったわけではない。(幽霊の)父からは、「もっと生きていたかった」という言葉がこの作品により深みをあたえている。
原作の深みをより演劇的に観(魅)せているのが、演出等の素晴らしさ。まず小道具でフェンシング剣や銃が吊り下げられており、時々にそれを振りかざしたりするが、同じように吊り下げられた本は一度も触らない。そこに「武」と「知」の対比をみる。単純ではないが男(父と息子)と女(母)という本作の会話の食い違いを象徴しているようだ。またカーテンに遠近投影を用いた人影は、家族以外の第三者(群衆)もしくは社会という距離あるものを表現し、物語をより家族内の会話劇として際立たせている。同時に人影に銃声や号砲といった音響効果を巧みに併せることで緊迫感をもたらす。
しかし、重厚な作品であるにも関わらず、常に緊張感を強いるだけではなく、ときどきクスッという笑いというか”間”の妙を入れるあたりは実に上手い。もちろんその間合いの上手さは役者の演技力であることは間違いない。安定した演技力に裏付けされた緩急自在の感情表現は見事だ。コロナ禍にあって、このような公演を観ることができて本当に良かった。
次回公演を楽しみにしております。
お月さまの悪戯
劇団CANプロ
中板橋 新生館スタジオ(東京都)
2021/04/23 (金) ~ 2021/04/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
設定や展開には工夫を凝らし、興味を持たせようと努めていたが、何となく予定調和でインパクトが弱い。たしかに観劇後は優しく心地よい気分になる。しかし、観念ではなく、もう少し感情が全(前)面に溢れてもよかったと思う。
(上演時間1時間20分)
ネタバレBOX
物語は養護施設で育った女性を中心に、4月に起きたある「奇跡」について描かれる。舞台は茨城県土浦市にある ごはん処「こじま」の2階。ここに養護施設で育った渡辺希望と青木恵子が住んでいる。養護施設で働いていたこの店の女将・小島里香が施設退所年齢になった2人を自宅に住まわせ10年近くが経っている。希望は文通をしており、その相手が藤田奈緒という自分と同世代の女性。そして近々会うことになっていたが…。
2019年4月上旬から5月初旬の約1か月弱の物語(カレンダー有)。今時のコミュニケーション手段として”文通”は少し古いように感じたが、そこがこの物語の肝。時間を遡行させるような展開であり、後々、文通相手との因果律がみえてくる。概観として、背景にある養護施設育ち、そこでの境遇と今現在の生活環境への連続性というか影響が見えてこない。かろうじて施設育ちの自分(希望)が幸せな結婚生活を営めるのか、彼氏からのプロポーズを素直に喜べないといった悩みが見えること。一方、同じ施設育ちの恵子は窃盗癖があり、それが施設の時から直らないという性癖を時間の流れに取り込んでいる。さらに性癖を克服しようと…。彼女たちと2人を温かく見守る女将、そして謎の文通相手・奈緒、この女性4人の会話は、途中から結末が分かってしまい、パラレルワールド的な展開が透けて見えてしまう。設定と展開に工夫を凝らし、親・子の問題(養護施設-ネグレクト、女将の思い-不妊治療等の台詞)に迫ろうとしている。が、表面上-言葉だけで物語全体からその思いが伝わらない。そこにこの公演への もどかしさを感じた。
気になったのが演技。何となく演じていますといった不自然さ。特に顔(表情)の変化はワザとらしい。
タイトル「お月さまの悪戯」は、4月の”ピンクムーン”がある奇跡を起こすという意らしいが、もう少し時間軸を長くし「親から捨てられた子」「不妊治療しても子宝に恵まれない親」という両観点から語るのではなく、どちらかに重きを置いたほうが物語としては分かり易かった。
次回公演を楽しみにしております。
ドップラー
KOKOO
シアター風姿花伝(東京都)
2021/04/20 (火) ~ 2021/04/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
変幻自在、サプライズ満載なストーリー。お伽噺「浦島太郎」、寓話「ウサギとカメ」、神話「パンドラの箱」、アポロ(有人月面着陸)計画等、色々な物語を想起させつつ、破綻と成立の境界を行ったり来たりする危うさ。それがなんとも不思議な魅力を放つ。一級のエンターテイメント作品とまではいかないが、それでも新たな旋風を巻き起こすような予感?がする。
上演時間2時間(途中休憩10分)
ネタバレBOX
上手側に階段を設え、舞台上にあるのはドラム式洗濯機1台のみ。あとは小道具としての弁当箱。大きく空間を確保するのはキャストが走り回る、そのスペースを確保することと同時に、壮大な宇宙空間の演出を意図しているのであろうか。キャストは総じて若く、大声、走り回るといった演技が印象的だ。
物語は、お伽噺、寓話、神話、さらには世界的な関心事など虚実綯交ぜにし、それぞれのモチーフを断片的に繋ぎ、さらにコント的な場面を挿入し笑いを誘う。一見 無関係なシーンが次々と放り込まれハチャメチャな感じがする。縦横無尽に展開する物語はどう回収し収斂していくのか疑問が残る。にも拘わらず いつの間にか一本の線(本筋)の上にいる。過去と現在もしくは未来という時間の流れ、そこに人間の性格や生き様を上手く絡め、表層的には破綻しそうな話が重なっていく。何故か重層的に展開しているような錯覚に陥る。その訳が分からないマジックワールド的なものが魅力かもしれない。
題名「ドップラー」は「遅れて共鳴が来る」ということらしい。それを2人の青年(1人は足も生き方も早く、もう1人は鈍く不器用な人生を歩んでいる)の生き方に象徴させる。人生、早いか遅いか(何をもって比較するかは曖昧)の競争ではないといった教訓的なことを、お伽噺や寓話等に準えて描く。
が、実は本来担うべき人間が、何らかのアクシデントで全うできなく足踏みしている間に、周回遅れで追いついてきた人間が取って代わる。いや そうせざるを得ないという状況に追い込まれる。注目され後に引けない国家的なプロジェクト-宇宙計画。しかし、そこには不整備なロケットへの搭乗という秘密が隠されている。遅れてきた人が衆人環視の中で搭乗せざるを得ない状況に追い込まれる。周りの英雄視扱いとは逆に自己犠牲へ、いつの間にか周りの思惑に踊らされる不条理。物語は、決してジグソーパズルのようにピースがキッチリ収まらないが、そこが伸び代と言える。粗削りだが勢いのある公演、自分は好きである。
次回公演も楽しみにしております。
6団体プロデュース『1つの部屋のいくつかの生活』#3
オフィス上の空
吉祥寺シアター(東京都)
2021/04/09 (金) ~ 2021/04/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
同じ舞台美術で6団体が競演する企画。
【青組】観劇。
前半:Pityman
後半:こわっぱちゃん家
上演時間2時間-各1時間、途中休憩10分)
ネタバレBOX
共通セットは、舞台中央に踊り場のある2階への階段と2階部ドア、舞台上手・下手側にあるドア。中央階段の階下(1階)にはソファ。舞台の色彩は、階段上部(中央)が黄(緑)、上手側が赤、下手側が青という3色、組み分けの意味があるのだろうか?
Pityman 「そんなこと話してる場合じゃない」
同じソファをめぐってオムニバス風に引っ越し業者、思いを語る若者、別れそうな夫婦と3つのエピソード。これらのエピソードを包み込むような物語が、今のコロナ禍における演劇公演そのもののあり様を描く。
公演を観に来た男が、劇場入り口の検温で引っ掛かり中に入れない。そこで先の3話が次々と展開していく。時間を経てまた検温をするが、それでも劇場関係者は何らかの理由を付けて中へ入らせない。一方、劇はソファが外に出せないをコミカルに描いていく。この入る出せないといった、真逆のような行為を「劇中劇」仕立てとして面白可笑しく観せる。シンプルな舞台セットにも関わらず、奇知に富み世相をしっかり皮肉る世界観は秀逸だ。
こわっぱちゃん家 「Picnicへのご案内」
どちらかと言えば王道的な観せ方(作品)。子供叱るな来た道だもの年寄り笑うな行く道だもの、といった言葉を思い浮かべる。若者が楽しく過ごす近未来のシェアハウス、しかし いつか各人に訪れる"ピクニック"とは? 20歳代の若者男女4人が元気いっぱい楽しそうに暮らしている。しかし若者に見えるのは外見だけ、実際は後期高齢者が入所している老人ホーム。
ある日、シェアハウスの管理人が1人の住人にピクニツクへの招待状(手紙)を持参する。そこから状況、雰囲気が一変する。今まで同じ空間・時間を過ごしてきた仲間、その仲間との別れ、それは世代に関係なく一抹の寂しさが残る。このシェアハウスでのピクニックは別の意味合いのある別れが…。まさしく近未来のシュールな物語。
2団体ごとの競演といったスタイルだが、特徴を挙げるとすれば Pitymanは脚本の独創性、こわっぱちゃん家 は演出の奇抜さといった違いを思わせる。同じ舞台セットでこれだけ違う物語を紡げる、やはり演劇の幅広さ奥深さを感じることができる好企画。次回公演(企画)も楽しみにしております。
引き結び
ViStar PRODUCE
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2021/04/21 (水) ~ 2021/04/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
公演は「紬」と「結」の2チーム。自分は「結」(大千穐楽)を観劇したが、終演後の挨拶で主宰・星宏美さんが落涙、それにつられて自分も涙腺が緩む。
さて芝居は、コロナ禍の状況を物語に重ねるような、そこにこの公演(演劇に対する思い)の真骨頂をみる。
(上演時間1時間50分)
ネタバレBOX
舞台セットはシンプルで、下手側に机とパソコンが置かれているのみ。正面には色とりどりの三角形をした羽目(硝子?)板のような造作。舞台がシンプルゆえに、逆に人物描写の深掘りが求められる。
梗概…物語は某劇団の公演中の受付。そこに現れたのが星乃美桜(星宏美)。入団希望者としてやってきた美桜は、劇団主宰者・佐藤慶大や主演女優兼制作の北郷春(中山ヤスカ)の養成所時代の恩師の娘。一方、父の星乃真咲は、娘が弱視というハンディを負っていることから、女優になるのは難しいと反対する。しかし、美桜の決意の固さと彼女の母親で元女優の故・星乃いぶきの事を思う劇団員達の理解や協力もあって劇団員として舞台に上がることになるが…。
美桜は弱視で、その世界(視野)は5円玉の穴から見るようなものだと表現している。先がボヤけ見難さは、まさにコロナ禍における先行き不透明で不安な状況そのもの。美桜がどう生き世間とどう関わっていくのか、別の観方をすれば、コロナ禍においてこの状態とどう向き合い、その状況と関わっていくのか。まさに今の状況に通じる重要なテーマが横たわる。その危うい状況を誰かのせいにするわけではなく、何かを成し遂げるためには自分で障害(物語では弱視を障がいと表現)を乗り越えようと努力する。
「演劇」は、稽古から本番まですべて人との関りで進んでいく。それが当たり前だと思うが、状況は一変する。今は劇場での実演、ライブ配信、アーカイブ配信など色々な手段を通して観客と関わる。本公演も上演するまでには相当な困難(感極まって星さんの涙)があったと思われるが、それでも舞台という芸術の必要性を訴える、そんな気概を思わせる内容であった。舞台は毎回異なる、その公演を行う者、それを観ようとする者、まさに一期一会、それこそがタイトルの”引き結び”ではなかろうか。
次回公演も楽しみにしております。
INDESINENCE
LUCKUP
赤坂RED/THEATER(東京都)
2021/03/24 (水) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
サスペンスミステリーの王道のような公演。その進行・展開は女子大生が探偵役、それもシャーロック・ホームズとワトソンのような関係で担い、謎解きに挑む。物語は作り込んだ舞台セット、そこに集まった人々の性格・立場や挙動を説明しつつ、観客自身も推理し謎解きしていく面白さへ誘う。
(上演時間1時間50分)
ネタバレBOX
舞台は五弁(イツビラ)重工株式会社の常務の別荘。左右対称に2階への階段があり、2階も廊下があり繋がっている。階下はリビングルームで豪華な調度品、中央に応接セットが置かれている。この1階から左右どちらかの階段を上り回廊のように戻ってくることができる。2階での会話は、遺産相続人にしてみれば他の者を見下す または卑下するような物言いであり、探偵役(女子大生)からすれば、屋敷内の出来事を俯瞰し推理する、そんな位置取りになる。
梗概…常務・金森重鐘(登場しない)が亡くなった。彼は、遺産相続に関する遺言を、山奥の湖畔に立つ別荘「緋桜館」で公開するとして、自分の家族をそこに集めるように指示を出していた。遺産相続の条件は、権利を有する7人(妻や娘や孫、妾の子など)が全会一致で相続人を選ぶこと。しかし話し合いは難航を極めた。外は雨が降り土砂崩れにより、街へと出る唯一の道が塞がれ、車も使用出来ない。湖は霧に包まれ、小舟で助けを求めに出るのも不可能になる。備蓄はあったが、閉じ込められた人々は次第に疑心暗鬼になっていく。そして偶然?、この山奥で道に迷った女子大生が別荘で天候の回復を待つことに…。
女子大生2人がシャーロック・ホームズとワトソン役に扮し、それとなく事件(遺産相続)に関わっていく。冒頭からの人物紹介は、身内の中での立場、個々人の性格等を丁寧に行う。これは推理劇としての定番であり、その後の展開を観客にも推理させ興味をもたせる。人物及び現場の観察を徹底的に行い 得た手掛かり-物的証拠に関する科学的知見、過去犯罪事例の知識など-を分析し、事件現場で何が起きたかを推測する。観客も喜びそうな"アブダクション"を使う。この観せ方は上手い。
推理劇としてはあまり複雑にせず、どちらかと言えば何故この地-別荘で遺産相続の話し合いをさせたのか。確かに途中までは相続人の間における陰湿・陰謀など虚々実々の駆け引きが観えたが、そのうち、この地における埋蔵(金)という壮大な話題に取って代わる。金などの相続財産よりも土地という埋蔵(莫大)財産へ私欲が蠢く。まさに人間の欲望は尽きない。が、物語は故人の(過去)想いと土地伝説・伝承? を絡め、集められた遺族の人間模様に話の重点が移行し話の内容や雰囲気が変容していく。そして大団円という結末へ、少し拍子抜けといった感もある。もちろん遺産相続に係る絵図を描いたのは別者というオチもあるが…。
次回公演も楽しみにしております。
方丈の海
方丈の海2021プロジェクト
座・高円寺1(東京都)
2021/03/12 (金) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
2011年3月11日の東日本大震災、その出来事を10年後の2021年3月に東京・高円寺で上演する。故石川裕人が黙示録的に描いた遺作、10年ひと昔前と言われるが、決して忘れてはならないと思わせる。被災地域に住んでいないため、日常的には何ら(直接)暮らしに影響を受けることもなく、ともすれば忘れてしまいがち。かと言って毎日意識するといったことは難しい、いや出来ないといったほうが正直だ。日々の暮らしに影響を及ぼす被災地の人々との意識のギャップは埋められない。それでも地続き、記憶にとどめ”何かを”といった思いを巡らせる。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
舞台セットは、この港町にある映画館がやや上手側にあり、下手側は奇妙なオブジェと出入口。
舞台は東北の港町。⼩さな⼊り江に漁港があり、半農半漁のこの町に200⼈くらいが住んでいた。しかし、あの⼤津波で町は全滅し、1館あった映画館(岡⽥劇場)だけが残った。館主の岡⽥英⼀は津波で⽣き残ったが目を傷めてしまった。岡⽥家族(⽗・⺟・1人息⼦)はバラックと化した映画館で今も暮らしている。そこに同居する震災で⽣き残った漁師の兄妹。
東⽇本⼤震災から 10 年。ひっそりと暮らすこの家族のもとに、遺骨を探す三陸の男、半⿂⼈カイコーを連れた興⾏師、地上げを企む不動産屋と秘書、謎の⽼婆、記憶をなくした伝説のサーファー、精霊(コロス)などが現れる。穏やかな日常を切り裂くように持ち上がった土地買収問題。なぜこの地を買い上げようとしているのか…。
たびたび現れる精霊(コロス)は、東日本大震災で亡くなった人々(亡霊)かと思って観ていたが、アフタートークで、生きていた先祖を表現していると。時代を経ても地続き、そこでの(先祖も含め)暮らしを表現しているらしい。震災があろうがなかろうが生活の場であり、なかなかこの地を離れることが出来ない。事実あった出来事を、特異・特徴ある人々を登場させ、敢えて現実的(リアル)にせず喧噪的に紡ぐ。ノンフィクションでありながら、何故か賑々しい人々によってフィクションの様相をみせる。その演出の柔軟性に驚かされる。しかし、底流には醒めた視点で「時間を記録」し「人々の記憶に留める」ような強靭さがあるのだ。
東日本大震災の黙示録的な本作は、時間を超越しドキュメンタリー要素を垣間見せる、”力作”。舞台終盤、第三暁丸が微かな希望をのせて 10 年ぶりに船出する、は明日への希望と活力を意味する。
次回公演も楽しみにしております。
先の綻び
劇団水中ランナー
サンモールスタジオ(東京都)
2021/02/17 (水) ~ 2021/02/23 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
犯罪被害者または加害者の観点から描いた物語は観たことがあるし、稀に両方の観点(立場)から描いたものもあった。この公演は単純に被害者・加害者という観せ方ではなく、犯罪の行為そのものに対する憤り、しかし直接的に感情をぶつける相手がいないことへの苛立ちが悲哀となって迫ってくる。
空洞のような家族の空気感と心象を見事に切り取り繊細に描いた秀作。観応え十分!
(上演時間1時間40分)
ネタバレBOX
舞台セットは、郊外にある小山家のリビング。そこは家族団欒の場所であり、家庭の雰囲気を表すのに最適な空間。物語は小山家の人々の日常生活を淡々と描くが、何かが変である。当日パンフに「とある郊外の一軒家、ある男性がもたらした、今そこにある少し不思議な共同生活」とある。ある男とは小山家の長男・信太である。先に書いてしまうが、この男は既に亡くなっている。が、たびたび登場して物語を傍観しながらも牽引する不思議な存在である。家族_兄弟姉妹と言っても性格が違うように、家族内での役割のようなものをそれぞれ担っている。信太亡き後、家族内の揉め事はなかなか収まらないことから、長男として調整役というか緩衝的役割を果たしていたようだ。それを回想的に描くことによって、幸福だった家族に突然襲いかかった不幸への落差として観せる。
なぜこの男が亡くなったのか、その原因、亡くなって気付く人柄を通して、犯罪の理不尽さを浮き彫りにしていく。暴漢に襲われていた女性を助けるため、自分が犠牲になってしまった。物語に犯人は登場せず、助けた女性のほうが現れる。犯罪(ここでは被害者視点)は被害者本人だけではなく、家族や周りの人々に影響を与える。切々と語られる思い出、その滋味溢れる描き方がこの物語を強く印象付ける。
事件から数年経過しているが、いまだに取材を続けている記者(後にその理由が分かる)、その人物を通しても被害者家族が語られる。信太にしても助けられた女性にしても被害者という立場であるが、小山家の人々にとっては微妙な感情を抱く。一方 助けられた女性も心苦しい思いを抱き続けるという不幸。割り切れない気持ち、その思いの捌け口が見い出せない光景として描く。しかし時が少しづつ心をほぐし、ラストには救いの光がさすような心温まる、そして後味の良い公演としている。
パンフには「思い出と共に訪問してくる人々。繰り返しながらも変化していく」とも書かれている。ゆれる心、流される情、微妙に変化していく気持を実に繊細に演じる役者陣。照明は、水面に波紋を広げるような紋様で、表現し難い内面を効果的に表しており見事。
次回公演も楽しみにしております。
カミキレ
藤原たまえプロデュース
小劇場B1(東京都)
2021/02/14 (日) ~ 2021/02/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
初日観劇。
藤原たまえプロデュースの公演は、何作か観ているが、いつも不思議に思う。普通の日常を淡々と描いており、劇的なうねりはあまり多くない(←失礼だったかな)。しかし多くの人が観にきている。
そこ(公演)には人の優しさ温かさようなものをそっと掬い上げる、そんな魅力に溢れているからではなかろうか。
本作も多くの人々が何らかの理由で使用するであろう「カミキレ」を題材に滋味ある(一部ミュージカル風?)作品に仕上がっている。自分は好きである。
最近、他で【18禁】公演を観劇したが、本公演、自分が観た回は【18未満】の子供も観劇していた。それだけ親しみやすいもの。
(上演時間1時間15分)