ビー・ヒア・ナウ Be Here Now
文化庁・日本劇団協議会
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2014/07/10 (木) ~ 2014/07/21 (月)公演終了
満足度★★★★
親友に励まされているような気にさせる演劇
観終わった直後、まるで親友に励まされているかのような
勇気が沸いてきた。
ここで言う親友とは、いつも一緒に遊んだり、馬鹿話を
したりするだけの間柄ではない。仲間の
ためを思い、時には耳が痛くなるような苦言を言ってくれる友、
周囲のほとんどが敵だとしても身方になってくれる友の事だ。
思い描いた通りの人生を送る事ができる人間なんて
ほんの僅かだ。大半の人間が、精一杯努力をしても
夢叶わず、目標とは別の人生を歩まざるを得ない。
そんな情けない今の自分を、後悔が残る過去の人生を、
親友が肯定してくれ励ましてくれているかのような
温かさをこの舞台から感じた。
この物語の登場人物達は全て、いい歳をした大人で
ある。それでいて、みんな人生を相当こじらせている。
主人公はキタガワ(杉浦一輝)とトモちゃん(津村知与支)。
最近コーチングのインストラクターを辞め
無職の引き篭もりになったキタガワ。幼い時から小説家になる夢を
抱きながら、堕落した毎日を送り一向にまともな作品が
書けないトモちゃん。2人は幼馴染の腐れ縁。
ある日、キタガワのもとに差出人不明の1通の手紙が届く。
そこにはただ「お前を誘拐した」とだけ書かれてあった。
全く何の事だか分からない彼。
この手紙が届いてから、彼の周りに怪しい人物達が
現れる。宇宙の全能の神と交信できるという
チャネラーのドロンジョ(七味まゆ味)とその部下の
ボヤッキー(小沢道成)、日本に革命を起こすという大それた
計画を持っているがやる事全てが頓珍漢な
デスラー総統(渡辺芳博)とその部下(塚本翔大)、
成り上がりを目指す正体不明のビジネスマン・柄谷
(三上陽永)とその部下のワンダ(木村美月)。
全員、人生もつれにもつれている。
彼らは私利私欲のため、キタガワがインストラクター
時代に偶然発見した、麻薬のように人間を奮い立たせる言葉を
狙っていた。トモちゃんもその言葉に関わりが
あるらしい。
キタガワから誘拐の捜査願いを受けた警視庁の
刑事・ナミキ(小野川晶)とその部下・茜雲
(森田ひかり)も一筋縄ではいかない人間だった。
面白いと思ったのは、脇役4組全てが、人生がこんがらがり
過ぎた上司が強烈なボケ役となり、その部下がツッコミ役と
なっている点だ。それは
あたかも症状が悪化し超重病患者と化した上司を、
重病の部下が不器用にも介抱しているかのようにも見える。
茜雲は時よりボケ役にもなっているが。
各々のやりとりが凄く笑える。
主人公2人といえば、当初は
キタガワがボケ役かな?と思ったのだが、
どっこい徐々にトモちゃんにも問題が表れ始める。
2人ともボケ役でかつツッコミ役。
5組それぞれのやりとりに愛を感じずにはいられなかった。
ドロンジョ、デスラー、柄谷らによる言葉の争奪戦と
そこに巻き込まれ困惑する主人公2人とに
大笑いしつつ、その言葉が生まれるきっかけとなった
2人の過去に話は遡っていく。
その言葉は、2人の友情や嫉妬、夢や絶望、喜びや
悲しみ等、様々な感情が入り混じり誕生した言葉だった。
その言葉が生み出された過程や、そこに込められた
強烈なエネルギーと叶わなかった夢への労わりに、
拙者は親友に励まされているかのような勇気を感じた。
この感情を他の大勢の観客も味わったに違いない。
果たしてその言葉とは何なのか?
2人とその言葉にまつわる過去とは?
誘拐の目的とは?
この舞台、24年ぶりの再演だという。もちろん
今の時代に対応するように書き直されている。
24年前に初演を観たという深作健太氏が今回の演出家だ。
当時高校生だった彼は自信が持てず、自分が存在する
境遇や環境に「今ここにいていいのだろうか?」と
不安を抱いていたのだそうだ。この舞台を見て彼は胸に
熱いものを感じたという。
四半世紀の時を経て、昔感じた熱い思いで、当時の自分と同じ
憂いを持った現代人に光の差す方向を提示したいと
今回の再演を決意した。
彼の熱意は、深作氏と同年代やそれ以上の人達はもちろん、
初演上演後に生まれた若い人達まで、様々な観客の心を激しく
揺さぶったと確信する。
「BE HERE NOW」直訳すれば「いま、ここにいる事」。
今、劇場でこの作品を観た多くの観客が、24年前に深作氏が
体験したような熱いものを感じ、ここにいる事を感謝したに違いない。
それは時を越え、この先何年経とうとも、観る者の心の中に
残り続け、またいつの日か再び観劇したいと思うだろう。
まるで、かけがえのない親友がいつまでも心の中で生き続けるかの
ように。
名作の余韻に浸りながら、過去を現在をそして未来を
肯定しながら熱く強く生きていこうと思ったのは
拙者だけではあるまい。
朗読劇 私の頭の中の消しゴム 6th letter
ドリームプラス株式会社
天王洲 銀河劇場(東京都)
2014/05/31 (土) ~ 2014/06/08 (日)公演終了
満足度★★★★★
一人の人間の過去も今も未来も愛せますか?
「あなたは一人の人間の全てを愛せますか?今だけじゃない。
あなたが知らない過去も、未来も」。
物語が進むにつれて、この問いが杭のように胸の中に
突き刺さってきた。
主人公の浩介(松田凌)と薫(小島藤子)の
各々が書いた日記や手紙を読みながらストーリーは
進行していく。朗読劇と銘打っているが、2人は
かなり舞台上を動く、暴れる、走る、そして共に歩み、
抱きしめ合う。
しゃべりはガサツだが、根は真面目、常に孤独で
暗い過去を背負い希望を持たず日々淡々と建築現場で
働く浩介。
彼が働く会社の社長令嬢で、アパレル会社に勤務、
同性の友達といつもつるみ、向上心が強い薫。
性格も境遇も何もかもが正反対の2人が偶然に出会い、
すったもんだの末に、恋に落ち、結婚する。
順調に結婚生活をスタートさせた2人。全てが
うまくいき、薔薇色の未来が約束されていた。
しかし、薫は若年性アルツハイマー病に侵される。
脳が徐々に萎縮するとともに、長年積み重ねてきた
膨大な記憶も次第に失っていく。浩介と出会った頃の
事も、彼と過ごした幸福な日々も、そして彼の
名前すらも・・・。やがて、浩介を認識できなくなり、
元カレの名で呼んでしまう。症状が進むにつれ、
幼児と化す彼女になす術が無い浩介。
だが、それでも浩介は歯をくいしばり薫を受け止める。
浩介はまさに冒頭の問いを、終わる事なく
突きつけられているようで観る者は息ができなくなる。
お互いを尊敬し、力を合わせ幸せを築いていた
2人を観ただけに、2人を襲う不幸に観る者の
胸が激しく痛む。
浩介と愛を育み仕事に燃える20代後半の薫、
記憶を無くし浩介を元カレの名で呼んでしまい
浩介が知らない20代前半に戻った薫、
言葉使いも行動も全てが幼女に戻った薫、
全てを恐ろしいほどのリアリティを持って
演じ切った19歳の小島藤子の演技力に、
心を激しく動かされ言葉が出なかった。
そんな薫の現在と過去を全て抱きしめ、
決して未来を見失わない浩介を演じた
松田凌も凄かった。
鳴り止まぬカーテンコールの中、小島藤子は
微笑みながら、目にうっすらと
涙を浮かべていた。お客の反応が嬉しかったと
同時に、薫をやりきった充実感があったのだろう。
松田も満足した表情だった。2人の全身全霊の
演技に観客も高揚感を抑えられなかったに違いない。
スズナリで、中野の処女がイクッ
月刊「根本宗子」
ザ・スズナリ(東京都)
2014/05/23 (金) ~ 2014/05/25 (日)公演終了
満足度★★★★★
ねもしゅう、下北沢で正義を叫ぶってよ
「私が絶対正しいのよ!」「明らかにお前らが間違ってる」と
心の中で叫びつつも、つい周囲の「空気」に押され、
自分の気持ちを曲げて作り笑顔で皆に従う。空気を乱さないため、
皆との調和を保つため、「いや私の方こそ間違ってるかも」
「俺のワガママかな」と自分を騙す事で、いつしか
その嘘を受け入れてしまう。この感覚、身に覚えのある人は
多いはずだ。
この物語の主人公・じゅん(根本宗子)もそのような人間の一人。
自らの意見をグッと飲み込んで笑顔で周りとの調和を図る事、
それが彼女の正義なのだ。
観客に「身近にいる」又は「私そのもの」と思わせる存在の彼女。
物語が進んでいく中で明らかになる不幸な過去が
このような性格ならしめたと考えると益々感情移入したくなる。
22歳の彼女が勤めるメイド喫茶の更衣室(事務室と休憩室も
兼ねている)がこの物語の舞台だ。
可愛らしい衣装の数々と愛くるしい
ぬいぐるみたちが彩るいかにも女性が集まる部屋らしい
見た目の華やかさとは裏腹に、ストーリーは笑いを交えつつも、
人間関係のドロドロとした薄汚い側面を描き出していく。
じゅん以外の登場人物は6名。
常に金欠気味、苦労人で責任感が
強い27歳のメイド長・もなか(大竹沙絵子)。
天真爛漫、建前が嫌いで思ったことはズバズバ言う
19歳のイブ(尾崎桃子)。
笑顔が可愛い人気NO1メイドの23歳のまゆり(あやか)。
自称約35歳、中途半端なお節介をしたがる
事務員の福田(梨木智香)。
関西弁でギャグを飛ばす男オーナーの横瀬(野田慈伸)
見るからにオタク、まゆり推しの常連客・ドミニク(市川大貴)。
出てくる登場人物たち全員が、等身大だから
親近感が沸くと同時に、現実で味わう「良い人そうで美人・
イケメンだけど、個性が強くて関わるとちょっとうざいかも」
という感じも合わせ持っている。
この個性的な面々の意見対立を解消し、面倒を見て、
必死に皆の調和を図ろうとするじゅんのけな気な姿は
同情を誘う。
物語の前半は、脚本家+演出家・根本宗子の他の追随を許さない
最大の武器とも言える、「こんな会話よく聞く」「私達の会話
そっくり」と観客の誰しもが太鼓判を押したくなる
リアリティ満載の女子トークと、登場人物たちの噛みあわないが
ゆえに笑いを誘うやりとりに、テンポよく話が進む。
ところが、ある日更衣室内でじゅんの財布が消えてしまう。
疑心暗鬼になる彼女たち。彼女たちのやりとりに凄くリアリティが
あるだけに、観る者も切迫感を感じずにはいられない。
「自らの不注意で落としたのかも」と
険悪な雰囲気を何とか解消しようと努めるじゅんの
思いも虚しく、事態は更に悪化。各々が普段溜め込んできた
トゲトゲしたどす黒い本音をぶつけ合うようになる。
真相が判明した後の展開は、どんでん返しにつぐどんでん返しの
連続。悪があたかも正義になり、正義があたかも悪になる。
「悲しい事は塗り替えられていく」という台詞が出てくるが、
まさに悪が、正義が、取り替えられる衣服のように
次々と変わっていく。
この予期せぬ変遷も誰かが予め意図したものでは!?と思えて
きて恐怖を感じる。
この展開に観客は息もできないほど彼女たちに目が釘付けになる。
ついに、あの大人しかったじゅんの感情が爆発する。
今回のお芝居は再演である。前回、根本氏はまゆり役だった。
今回じゅんをやるにあたって「たまには主人公も良いかな」と
思って配役したそうだが、拙者は他にも理由が
あるように感じた。それは、根本氏の性格がじゅんに一番近い
からではないかと。根本氏の分身がじゅんだと考えると、
本人が演じた方が説得力が増す。
根本氏はチラシの中で「私の正義とみんなの正義は違う」
「その場に溶け込むのが日常生活で一番難しい」と語っている。
「波風立てずに周囲にあわせ同化する事」が正義と考える根本氏が、
その正義を果たそうとしても、周りにその胸中を全くくんで
もらえず苦労した経験があるからこそ、このお芝居は作られた
のだろうと想像する。
だから、感情が爆発した後の自らの感情の赴くままに
行動するじゅんの姿を見た観客は爽快感を感じたり、
心を激しく揺さぶられたりするのだ。
正義とは衝動だ。自分を認めてもらいたい、自分が正しいと
証明したい、自分の欲望を叶えたい等の衝動。だが、その衝動の
ほとんどは他人に問答無用で押し潰される。ならば
我慢せず、衝動に身を任せ、中央突破する熱情や爽快感。
観客含めて誰もできないからこそ、やってのけたじゅんに
拍手喝采を贈りたくなったり、泣きたくなったりするのだ。
ここで事件の真相を語らないのは、再々演を期待するが
ゆえである。今後の劇団「根本宗子」からますます目が
離せない。
グローブ・ジャングル
虚構の劇団
座・高円寺1(東京都)
2014/04/04 (金) ~ 2014/04/13 (日)公演終了
満足度★★★★★
ネットという名のゴミ山を越えて行け
「ネットは人類がどれだけ最低になれるかの実験の場だ」
この台詞が強烈に印象に残るこの演劇。
濡れ衣を着せられ、ネットで祭りの対照となり、
人生をズタボロに引き裂かれた
七海(小野川晶)は炎上の口火を切った人間に
復讐する事を思い立ち、ネット上を血眼で探した結果
沢村(オレノグラフィティ)という人物を突き止め、
少ない手掛かりを頼りに、彼を追いロンドンに降り立つ。
復讐が成就した暁には自殺すると決めていた。
そこで彼女は、意識の有無に関わらず絶望し自殺願望の
ある人にしか見えない幽霊・住田(小沢道成)、
一見凄く明るいが実はネットでの
暗い過去を持ち人生再挑戦をかけこの地に
やってきた唯(根本宗子)、昔どこの公園でも
あった遊具・グローブジャングルの営業をしていた
長谷川(渡辺芳博)、住田の生前のブログを見て
彼をソウルメイトだと思い込み日本から
尋ねてきた中学生・千春(木村美月)と出会う。
唯と長谷川には住田が見えるが、千春には見えない。
長谷川の絶望はグローブジャングルが子供には
危険だと訴える世間の声に押され、問答無用で
次々に撤去されたからだ。
沢村は、自らが主宰する劇団の団員たちから三行半を
突きつけられ居場所が無くなり、ロンドンに
逃げて来た。七海を祭りの生贄にしたのは、団員たち
との関係の憂さ晴らしのためであった。
演劇を捨てるつもりだった彼だが
旧友の北野(三上陽永)のたっての願いで、芝居を
演出する事になる。芝居を利用して出世しようという
北野の野望も知らずに。沢村のもとに、ネットで
正義を振り回す千葉(杉浦一輝)、沢村に
恋心を告白したが彼に受け入れてもらえなかった
麻美(森田ひかり)が合流。
何とその芝居に七海たちも出る事になった。
が、唯は日本での暗い過去が原因で世間体を
気にする北野から出演を拒否されてしまう。
沢村にも住田は見えた。
(北野、千葉、麻美には見えない)
稽古が進んでいく中で、七海と沢村は、お互いの
因縁を知る事になる。
果たして七海は鬼と化し、復讐を果たすのか?
沢村は運命にどう立ち向かっていくのか?
登場人物の間柄は、住田を合わせ鏡にした
好対照を成している。
被害者の七海と加害者の沢村、明白な自殺願望を持つ
七海と無意識下の唯、絶望している七海と
していない千春、恋心を抱く麻美と抱かない沢村、
世間に評価されたい北野と世間から突き放された
沢村と長谷川・唯、
昔ネットで正義をかざしていた沢村と現在進行形の
千葉、そして七海と麻美も決定的な
場面で好対照を成す。最後は沢村・七海と長谷川。
悪ふざけした写真を自慢げに投稿する者、
そんな馬鹿者を見付け執拗に追及し個人情報や
写真をさらし自らの正義に酔いしれる者、
上から目線で些細な事にクレームをつける者、
嘘をでっち上げ拡散する者、
自分の意見を持たずただ世間に流される者・・。
ネット上の最低と化した人間たちの言動が今では
あまりにも身近すぎて、観客は誰しも切実さと
生々しさを感じたに違いない。観客自身が
己は最低人間か、または傍観者という加害者か、
はたまた被害者か、考えざるを得ない程に。
最低と化した人間の情報は、ネットを通じて
グローブジャングルのように世界中をグルグル回り、
どこまでもその人間を追いかける。
それゆえに、最低人間になるか否かの七海の宿命に
似た切羽詰った決断の場面に、観客は手に汗握る。
冒頭の台詞に加え、拙者は
「ネットは様々な絶望を見させてくれると同時に
体験させてくれる場だ」と思っている。
例えるとネットはスモーキーマウンテンのようなものだ。
途上国にある悪臭や有害物質が漂うゴミの
山・スモーキーマウンテン。
そこで暮す子供の大半は短い一生をそこで終える。
家族も周囲の人間も貧乏から抜け出せず絶望しここに
留まらざるを得ないからだ。
ネットにも至る所に絶望があり、酷い臭いが漂う。たまに
幸運が転がっているが、見つけられるのは稀だ。
その臭いをかぎ続けると人は死に至る。
今まさにネットの死の臭いに七海や沢村らは飲み込まれ
かけている。今はその心配がない千春の将来の姿は
七海や沢村かもしれないと思わされ、胸がざわめく。
生きていくには、そこから逃げるしかない。どんなに
絶望がグルグルと地球を回って追いかけてきても。
ここではないどこかへ。絶望の丘を越えて人を信じ、
愛し、許しながら。過去ではない未来へ。今までの
自分ではない新しい自分を探しに。
スモーキーマウンテンを抜け出した数少ない子供の
中には苦難の末、希望を掴み取った子もいると
いう。その一歩を踏み出す姿に人々は心動かされる。
七海や沢村たちも歩み出す事が出来るのか?
登場人物たちが下した決断に、観客は今の時代を
生きる勇気を分け与えてもらったと感じるはずだ。
(終わり)
夢も希望もなく。
月刊「根本宗子」
駅前劇場(東京都)
2014/01/10 (金) ~ 2014/01/19 (日)公演終了
満足度★★★★★
女子たちに明日はない?
この舞台、強引だが一言で表すと「だめんずに
振り回された女性たちへの応援歌」だと思った。
テレビ番組「マツコ&有吉怒り新党」風に言えば、
原作・演出をやってのけた根本宗子氏は、この舞台で
「新3大・だめんずにてんてこ舞いする女性を描かせたら
ピカイチな作家」の1人になったと言っても過言では
ない。ちなみに、他の2人は西原理恵子と倉田真由美。
根本氏の実体験が反映されているのかいないのか
定かではない。チラシには「私の想像を絶するような
悪い人にも人生で数人会いました」と彼女のコメントが
書かれていた。その数人の中にだめんずがいて、
この舞台の肥やしになってるんじゃないかと強く想像
してしまうほど、リアリティを感じた。
拙者が根本氏の作品を好きな理由は凄く「リアリティ」を
感じるからだ。先に述べただめんずの描写、そして
何と言っても、リアリティ溢れる女性たちの台詞。
40年近く生きてきて、いまだに女心の何1つ
分かっていない拙者だが、ファストフード店で聞こえてくる
10代から30代程の女子同士の会話が、舞台の上でそのまま
再現されているような感覚にさせてくれる。
ほんの些細な話題でも途切れる事のない女子トーク。
会話が噛みあっていなくても延々と続き、喜びや怒りや泣きや
笑いが起きて共感し合っている不思議なおしゃべり。おじさんで
さえも「こんな会話よく聞く」と納得してしまう。その台詞の
1つ1つに今の若い女性の感性やら習慣やらも表されて
いるのだと信じさせられる。現実的過ぎると逆に見る層が
限られ視聴率がとれないので型にはまった台詞しか
聞こえてこないテレビドラマには絶対に出せない味だ。
この舞台は、現在と10年前のお話が同時に進んでいく
面白い仕掛けだ。
主人公・ちひろは10年前(福永マリカ)は女優を目指す
20歳の劇団員だった。オーディションの最終選考まで
残るほどの才能の持ち主。恋人で作家の卵である優一
(水澤賢人)と同居している。が、女優としての才能を
優一に妬まれた事から、彼への愛情を貫くため、幼馴染の
橋本絵津子(根本宗子)の制止も聞かず夢を諦めてしまう。
絵津子は優一のだめんずさを見抜き、ちひろは幸せに
なれないと確信していたのだ。
それから時が経ち、現在。いまだに夢に固執しているが
努力を全くしていない優一(郷本直也)。
彼のためにOLになり生活費を稼いでいるが、
焦燥感を募らせるちひろ(大竹沙絵子)。
いつか彼が幸せにしてくれると思いながらここまで
きたが、一向にその気配はない。
まさに彼女たちの今や未来に「夢も希望もな」い。
いつしか2人の心の間には大きな溝が出来ていた。
この優一という男、絵に書いたようなだめんずだ。
自分勝手で彼女の事は全く考えず、困った事があると
必ずちひろが助けてくれると思っている。自らの
怠慢を責められると論理破綻している言い訳ばかり。
自分のために尽くしてくれる彼女の行為を「重い」と
言ってのけてしまう。だめんずだという自覚が全くない。
10年という歳月は彼のだめんず度をパワーアップさせた
だけだった。残念ながら、現実社会でも、いるなあ
こういう男。
拙者自身もだめんずだが、自覚があるだけ優一よりは
ましだ。そう信じたい。
こういうの五十歩百歩というのかもしれない。
つくづく女性は強いと感心させられる。好きな人の
ためなら夢さえも捨てられる。男性ならそうはいかない。
その強さがちひろにとって仇となってしまった。
優一のだめんず度が上がるたびに、彼女が捨てた夢や
失ったものの大きさに観客は気付かされ、
切なさが増幅する。
こうストーリーを淡々と書いただけでは救いようがないが、
至るところに笑いが散りばめられている。根本氏の笑いは、
受けを狙うために仕掛けられた笑いだけでなく、「こういうの
あるある、こういう人いるいる」と思わせてくれる笑いが
非常に多い。笑いにもリアリティが満載なのだ。
誇張し過ぎ、という部分ももちろんあるけど。
果たして、ちひろと優一には大逆転の幸せな結末が
待っているのか?
「応援歌」って書いてあったからハッピーエンドだろ?と
突っ込まれたあなた。それは見てのお楽しみ。西原作品の
ように、暗闇の中で傷口に更に塩を塗って、さあ前に進め!っ
ていう応援歌もありますぞ。ただ、前に進んだからこそ
暗闇のその先に、その隣に、光が見えてくるのかもしれない。
今まで見た事もない光が。
客席の反応を見て、やはり共感できたからか、ほとんどの
女性のお客さんは満足した顔をしていた。男性のお客さん
にも好評のようだ。ただ、その中にはだめんずなのに
その自覚がない人も混じっているかもしれない。
そう想像すると、また心の内でクスクス笑えるのであった。
エゴ・サーチ
虚構の劇団
HEP HALL(大阪府)
2013/10/24 (木) ~ 2013/10/27 (日)公演終了
満足度★★★★
ネットの中のもう一人の私
「エゴ・サーチ」とは「インターネット上で
自分の本名やハンドルネーム等を検索する事」である。
他人からの評価を気にするのが人の常、誰しも
エゴ・サーチをやった経験があるはずだ。
試しに拙者の本名をエゴ・サーチしてみた。拙者
自身のFBが紹介されるだけ。同姓同名の人物も
ヒットしない。珍しい名前らしい。悪い評判が無く
安心した反面、良い話も無いので面白くない。
影薄いなあ、と少し落ち込む。
この物語は、一言で言うと「ネットという仮想世界と
現実の世界とが混沌と入り混じった中、善意と悪意に
翻弄される人々を描いたミステリー」だ。
主人公・ケンジは、30前の小説家の卵。
彼が書いた読者の魂の奥底にビシッと響く熱く美しい
短い文章が女性編集者の目に留まる。彼の才能にほれ込んだ
彼女はケンジに小説を書いてみないか、と声をかける。
彼には漠然とだが書きたいものがあったので、
彼女の依頼を引き受ける事にしたのだが、筆はなかなか前に
進まない。
小説は、一人の女性が沖縄の離島に降り立ちキジムナーと
呼ばれる妖精と出会う、という導入部でストップしていた。
ある日、女性編集者からネット上でケンジのブログを
見つけたと聞き、エゴ・サーチして見てみたが
彼自身それを書いた覚えが全くない。
同姓同名の人物が書いているのかと思いきや、作者の
プロフィールを見ると、ケンジと生年月日、
出身地、経歴に至るまで全てが同じであった。
ブログには、昨日ケンジがハリーポッターのDVDを
観たと書かれていたが、実際彼は全く観ていない。
日々の細かい内容は、彼のあずかり知らぬ事ばかり。
誰かのイタズラか?だとしたら何の目的で?
彼はこのブログの作者を探り出そうと決意する。
物語には他にも、「ネットであなたの夢を叶えます」と
謡う怪しいベンチャー企業の経営者、その宣伝文句に魅かれ
ネットでの成り上がりを目指すフォークデュオ、ネット上に
恥ずかしい写真を拡散させられた苦い経験を持つOL、
塩○瞬のように出会った女性を手当たり次第口説きまくる
イケメン等が登場する。
それぞれが、我々観客と同じようにネットで見せる自分と
現実世界で見せる自分の二面性、会う人ごとに違う自分を
演じ分ける多面性に苦しんでいる。
物語が進むにつれ、一見何の関係もないこの身に
覚えのないブログと小説の中の女性とキジムナーとが、
そして全然面識すらなかった各登場人物達が、
複雑にもつれた糸が解けるかのように繋がっていく。
そこで、ケンジに隠された驚くべき過去が明らかに
なるのであった。
果たしてこのブログは、誰が何の目的で作ったのか?
ブログと小説の中の女性達との関係は?
ケンジの隠された過去とは?
拙者は当初、ケンジに悪意がある人物が彼になりすまして
ブログを書いているのでは、と推理した。
ツイッターで有名人になりすました偽者が、ある事
無い事を呟き、本人のイメージダウンを画策したという話を
何度となく聞いたからだ。、
ネット上を跋扈している自意識が肥大化し、被害妄想の塊の
ような連中が、ケンジの何気ない普通の言動に勝手に
傷付き、怒り、一方的に報復しようという秘密の企て
なのではないのか。
逆に、ケンジには隠された悪の顔があり、その被害者が
彼を陥れるために仕掛けた罠なのではないのか。
拙者は色々と先行きを予測してみたが、
この物語はそんな陰気な展開にはならない。
観客が考える展開を、演出と脚本を担当した鴻上尚史さんは
軽く飛び越え、物語はもっと奥深く遥か彼方に進展する。
言うまでもないがネットはあくまでも道具。邪気のある者が
使えば凶器になるが、懇情のある者が使えば、良い方に
無限大の可能性が広がる。
ネットには、時代や場所を越えて人と人とを結び付ける力が
ある。あの人に自分が伝えられなかった思いを、
自らの本当の気持ちを、時空を越えて届ける事が出来る。
その思いは、時として人の心を激しく動かし、人生をも
変えてしまう。
この物語のラストは、ネットの持つそのような大きな
可能性によって、それぞれの登場人物達が、
これから生きていく道を見つけ、新たなる一歩を
歩む勇気を振り絞っていく。そんな彼らの姿に観客は
心を鷲づかみにされる。
同時に、仮想社会と現実が複雑に絡み合い真実が
見えづらい今の時勢の中で、ネットがあろうと無かろうと、
いつの時代、いかなる場所でも人間が生きていく上で
大切なものを気付かせてくれる。
昨今自意識過剰な人達が大騒ぎしているネットを舞台に
した物語で、これほど清々しく心揺さぶられるとは、良い
意味で予想を遥かに裏切られた作品に出会えた事に幸運を
感じずにはいられないのであった。
深呼吸する惑星
サードステージ
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2011/12/28 (水) ~ 2011/12/31 (土)公演終了
満足度★★★★
自分の「ものさし」を持たない若者達に贈りたい演劇
先日とあるテレビ番組で、新成人の悩みや質問に、人生経験
豊富なコメンテーター達が答えるという企画をやっていた。
最高学府T大生のA君は「将来自分が何をやりたいのか
分からない」と言う。
自分の行動や将来への指針となる確固とした
「ものさし」を持っている若者なら20歳にもなれば、
例え世の中が不安定でも、将来自分が歩むべき道を
決める事が出来るだろう。
が、A君のように「ものさし」を持っていない
若者も多いように見受けられる。
いや若者に限らず、いい歳した大人のくせに確固たる
「ものさし」を持たず、人の意見や世の中の流れの変化に
一喜一憂し、就職や結婚等の人生の大きな問題の前で
右往左往する人もかなりいる。恥ずかしながら
拙者もそんな大人の一人。「ものさし」の重要さに
遅れ馳せながら気付いた。
「ものさし」作りは若ければ若いほど良い。
なぜなら歳をとってそれを持っていないと、人生の大きな
問題に対し不安も対処する労力も大きくなってしまうから。
その「ものさし」作りに大いに力を貸してくれるのが
劇作家の鴻上尚史さんであり、彼の最新作が
「深呼吸する惑星」というお芝居だ。
このお芝居も「ものさし」作りには非常に役に立つ。
拙者独自の分析だが、鴻上さんの作品の魅力は、
現在という時代とそこに生きる人々の心の中を俯瞰でとらえ、
社会と人々の心の中を蝕む問題を「笑い」をもって
浮かび上がらせ、激しさと厳しさを合わせ持つ「優しさ」で
その問題の解決に繋がるヒントを提示してくれる。
あくまでもヒントまで。それが鴻上さんの優しさ。
答えを観客に考えさせてくれる事で、より観客の
想像力を刺激してくれる。それが「ものさし」作りの
大きな力となる。このお芝居もこのような魅力満載の
作品となっている。
場面はお葬式から始る。故人の死因は自殺。作家志望の
故人は生前ブログを書いていて、参列者から
「死後そのブログはどうなるのだろう」という疑問がわく。
そのブログには故人が書いた小説がいくつか掲載されており、
参列者は死の直前に書かれた作品に目が留まる。
物語は葬式から、故人の最後の作品へと場面が移る。
その小説の舞台は、地球から遠く離れた惑星。登場人物は
その惑星に住む人々と、その惑星を支配する地球人達。
設定はSFだが、観客は直ぐにそれが今の日本の現状を
置き換えたものだと気付く。役立たずの民主党政権、
外交問題、差別、偏見、そして放射能・・。
鴻上さんは、現在の日本が抱えている問題を
観客に笑いをもって問いかけている。
それらは故人が生前不安に思っていた事である。しかし、
それらが自殺の原因ではない。
物語が進むにつれ、登場人物の中に故人を投影した者が
いるのに気付く。その人物の言動から、この
小説は不特定多数の人ではなく、ある特定の人物達に
宛てられたものだと分かってくる。そして何と
その特定人物達とは、故人の自殺の原因を作った者達だと
分かるである。という事は、小説の中に、その者達を
投影した人物も登場しているのである。その者達は
完全な悪人ではない。どんな人も直面してしまう
悩みや苦しみに勝てなかった普通の人間なのだ。
その小説からは故人がその者達に言えなかった言葉を
何とかして届けたいという思いが痛いほど伝わってくる。
何年経ってもいい、いつかその者達にこれを
読んでもらいたい。そして、読んだ後こうしてもらいたい、
と。まさに遺書だ。
この小説を読んで、その者達が何を思い、何を行うのか?!
それがこのお芝居の最大の問いなのだ。その者達とは、
つまり今という時代を生きている私達そのものを投影しているのだ。
その者達を投影した登場人物達は、答えを出しているが、
それはあくまでも答えの一つの例で、ヒントにしか過ぎない。
答えは何通りとある。
現実では、このように答えが非常に難しい問題がいつ自分の
身に襲い掛かってくるか分からない。親類や知人・専門家に
助けを求めたとして、表面的な事は解決できても、深い部分・
心理的な部分まで解決してくれる可能性はかなり低い。
人の意見を聞き力を借りたとしても、最後は自分だけで
問題の本質を解決しなければならない。そのためには
「ものさし」が必要だ。小説の登場人物を自分に置き換えて、
そもそも自殺される原因を作らないという確固たる「ものさし」、
それとは正反対に、悩みや苦しみに負けた事を一生背負い続ける
「ものさし」もあっていいと思う。「ものさし」は人の数だけある。
その「ものさし」を最終的に作り上げるのは、親でも友でも
先生でもマスコミでもネットでもなく、自分ただ
一人だけなのだ、という大きなヒントを鴻上さんはこの作品でも
掲示してくれたのである。