仮面狂想曲
戯六遊
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2014/03/14 (金) ~ 2014/03/16 (日)公演終了
エンタメ サスペンスなら 上出来
「象徴」とは何なのか。
市役所に貼られたポスターは 365日、健全な男の子、女の子、青年、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんが笑顔である。
一つ、具体例を提示するとしたら、ポスターではないが、月刊『太陽』を挙げたい。あの、野球帽を被った笑顔の少年が、「あるべき日本男児」の「象徴」なのだろう。
こうした「伝統的象徴」と現代のメディアがタッグした姿こそ「ももいろクローバーZ」であり、両者に共通するのは健全性、禁欲、均質性、笑顔である。
「象徴」というのは、特定のコミュニティに所属していた、という経歴のみでも派生するのものだ。
ここは飲み会の席ー
「あなたの出身地は どこですか?」が参加者の話題だったとしよう。
もし、「沖縄県出身です」と、小太り男性が語れば、これ以降、彼こそが「沖縄」になる。
シークワーサーに塩を1mg入れるのが彼独自の「好み」であったとしても、それが「沖縄」だという解釈をされる。
国家を代表(=象徴)するのが「元首」だとすれば、この 飲み会は さながら一夜の首脳会議である。
しかし、「象徴」が「個人の脆弱さ」を越えられる概念には私は思えない。
1960年代公民権運動を完全に「象徴」せしめた人物として、南部キリスト教指導者会議 ( SCIC )指導者•キング牧師は存在する。
彼は宗教者なのにもかかわらず、数多くの黒人女性と関係を持ち、タブロイド紙からスキャンダルを狙われた身だ。
人種差別撤廃を掲げる学生非暴力調整委員会 (SNCC)は さらに深刻であった。黒人男性が次々から次に女性メンバーと関係を持つケースが続出し、社会問題化した。
「人種差別撤廃」が道徳なのかは難しいテーマだが、今日の社会からすれば キング牧師の「象徴」は100㌫ではなかったろう。
話を月刊『太陽』の野球帽少年に戻し、この画を「日本男児」と仮定した上、次の質問をしたい。
「普段、漫画を読みますか?」
「ベトナム戦争に ついて どう思いますか?」
「象徴」とは、必ず均質性がなければ機能せず、不健康な「漫画」でも「僕ハヨミマセン」だとしたら、少数の「お坊ちゃん」になってしまう。これだと同年代の「友達」はできない。
また、ポリティカルな考えには一切言及できないのが弱点である。
2009年夏季オリンピック招致総会の際、プレゼンターに登壇したのは優秀な少女だったが、日本(東京)は落選している。ああいった当たり障りのない「東洋的象徴」は時代錯誤だから、IOC委員には抵抗がある。2008年北京五輪開会式を「反面教師」にできなかった当時の招致委員会の責任は重い。
もちろん、実在する野球帽少年であれば、「個人の脆弱さ」を示す「粗」など いくらでも掘り起こすことが可能だろう。
「象徴」は「個人の脆弱さ」に敗北する。「個人」が「強固な象徴」を製造した本舞台とは反対に。
『仮面狂想曲』は エンターテイメントとしては快作である。
つまり、CX『古畑任三郎』のように、「相関図」と「手口」で物語をシンプルに、テンポよく誘導していく。
※ネタバレ箇所
伊藤公一の演技が、脚本を リアリティに変えた。
「狂気」だろう。
「不良」だろう。
おそらく、彼の演技が違えば「10年前の事件」にも 心理的スポットライトが注がれたはずであり、私は それを期待し観劇したわけだが、脚本からすると「正解」だ。
90分間という上演時間を、テンポよく進め、『古畑任三郎』クラスの推理ドラマを観させてくれた。
※続く
女三人のシベリア鉄道
劇団銅鑼
俳優座劇場(東京都)
2014/03/12 (水) ~ 2014/03/18 (火)公演終了
教育現場での上演を推薦する
『ミッドナイトインパリ』(2012 米アカデミー賞脚本賞受賞)を某映画情報サイトは「ラブ・コメディ」というジャンル区分で紹介している。
劇団銅羅『女三人のシベリア鉄道』(原作 森まゆみ著「女三人のシベリア鉄道」集英社文庫)が 同作へのオマージュであったので記すが、それは違う。
「洒落たファンタジー」であり、「20世紀の仏 人物教科書」だと私は解釈した。
ハリウッドを中心に映画のデジタル化が拡大中であるが、『ミッドナイトインパリ』は フィルム・パワーを発揮した名作だろう。
誰しも、あのパリ市街を歩く貴婦人、セーヌ川を流れるクルーザー、夜景のエッフェル塔を「味」のフィルムで鑑賞すれば、飛行機で出発するスケジュールを妄想したくなる。映画、また舞台というのは、下手な観光パンフレットより、はるかに「見知らぬ土地の魅力」を編集している。
なぜなら、そこに「偉人の足跡」が あるのだから。
『女三人のシベリア鉄道』は、歴史教科書のような「解説ツアー」だった。私も世界史は 興味のある分野だが、同舞台が教えたロシア史は「詰め込みすぎた」感がある。脚本は原作者・森まゆみ氏。文庫本の情報を羅列した旨は否定できない。
※ネタバレ箇所
フリーで活躍中のタチヤーナ・モクリェツォーク氏が、金髪ロシア人女性として「本国にいるかのような錯覚」を引く歯車だった。
他にも、体格が大きい谷田川さほ氏、鈴木瑞穂氏、山田昭一氏は やはり「ロシア人」だった。
金髪でなくとも、ブロンズでなくとも、カツラを被ることなく自然に外国人を演じられるのは、ヨーロッパ系の場合、ない。
特に、この男性二名は 大統領経験者と非常によく似た顔立ちであるから、1990年代、テレビ・ニュースを視聴していた観客は 愉快きわまりない。なぜ、演出の野沢美子氏が これを「いじらなかったか」のだろうか。
本公演は旅行ツアー会社への広告主だ。気がつけば、スーツケースを用意してしまう。
いや、すでに7日間近くのウラジオストクーパリ旅行日程を終え、観客はリラクゼーション・マッサージを受けたいほどの疲労蓄積だ。
スーツケースは片付けることにしよう。
これから…。
見上げたボーイズ
博品館劇場(東京都)
2014/03/12 (水) ~ 2014/03/16 (日)公演終了
脱 老人ホーム?
『見上げたボーイズ』にしては珍しく、多数の高齢者が客演する。
もちろん、演劇に年は関係ないと思うが、セリフといい、立ち回りといい、スピードといい、オリジナルキャストとの「格差」が目立った。
話の骨格はよい。
「老人ホーム」に入居することになった74歳の“演出家”と、介護職員として働く23歳の“彼女”、そして娘を心配し毎日来館する“義理の父親”との三角関係は爆笑必至だろう。
ただし、合間にタップダンス等の演出が挟まれるのだが、これはシチュエーション・コメディに専念した方が、物語の展開に集中しやすい環境だったのではないか。
また、介護職員を「ボランティア精神」に位置付け、入居者への虐待といった負の面を追うアプローチも皆無だった。おそらく身体機能低下、認知機能低下の軽微な高齢者が集う「老人ホーム」なのだろう。
しかし、ハートフル・コメディを目指すばかり、残念ながら論証的な「現場」ではなかった。
タイトル『これから』も、恋愛に限定したことだとすれば、高齢者への「偏見」と「差別」を助長しかねないと思う。
ここで、舞台となった「老人ホーム」を考えてみたい。
沖縄県から北海道まで老人ホームは建っているが、「即ゼロ」にすべきだ。
中京大学の武田邦彦教授は その著書で「子が親の世話をするのは自然界のなかで人間だけだ」と述べている。
身体機能、認知機能が衰えた高齢者を、国が約25兆円の税金を投入し、若い世代が 労働力をもってして その「ケア」をするというのは、少なくとも「自然の摂理」に反する。
もっとも、「子が親の世話をする」が道義的に崇高な「人間らしさ」だとすれば、カネで雇う「介護職員」は反倫理だろう。
讀賣新聞社主筆・渡辺恒雄氏のように、90歳近くであっても頭脳明晰の「現役」はいる。
老人ホームという施設で、日本経済を支えてきた高齢者が第三者との関係において「童謡」を歌ったり、初歩的なゲームを楽しむ姿は「尊厳を奪う光景」である。
若い世代が(道端の)(健常な)高齢者女性に対し、まるで少女のような話し方をしていると、私は「無礼」に感じる。
実は「尊厳ある老い方」こそ、世界一の長寿大国に求められる社会構造ではないか。
「高齢者介護」は、基本的に家庭内で完結されなければならないと考える。これは心理学的にも ある程度の説明は可能だ。
介護職員が「善いことをしている」と自認してしまえば、それは心理学的見地からいうと「モラル・ライセンシング」に移行する。
「モラル・ライセンシング」とは、「善いこと」をした分だけ、「悪いこと」をしたくなる性質をいう。ベストセラー『スタンフォードの自分を変える教室』(ケリー・マクゴニガル)が詳しい。
血縁者、恋愛、金銭見返り、または縁故を除く「依存関係」は必ず破綻する。たとえ雇用されていたとしても感覚が麻痺するはずだ。(ここでは介護職員と被介護者を指す)
「老人ホーム」=「介護福祉」はマクドナルドのように合理化されたシステムだが、思想背景としての「宗教」がなければ、それは破綻する運命にある。
本作『これから』は、そうした「破綻」がハートフル・コメディに隠されていたように思い、問題提起が ほぼ なかったのが残念だった。
ダンデ
企画団体シックスペース
戸野廣浩司記念劇場(東京都)
2014/03/12 (水) ~ 2014/03/16 (日)公演終了
「若者」を、タンポポの綿毛に載せて。
ヨーロッパには「仮面舞踏会」が開催されてきた歴史がある。
貴族たちが派手な仮面を身に、素顔を隠したまま踊り、そしてアルコール類を嗜むパーティだ。
オペラ『こうもり男爵』は そうした 男女が出逢う場を活用した「大人のドラマ」だろう。
仮面を身につけた紳士は、タキシードを着用している以外、全く変わらない「マネキン」だろうか。
そうではないだろう。
「声」が一人ひとり違う。
短髪白髪の紳士に、「あちらのテーブルのワインをお持ちしましょうか?」と訪ねたとしよう。
もし、その紳士が あの「声」で「白ワインを二、三本」「できるだけ白ワインで」と返事をしたら、それは間違いなく久米宏だろう。
要するに、ヨーロッパは「声の文化」なのである。
クラシック総合情報メディア『BRAVO!』によると、オペラの音域は最低でも6段階があるという。
「オペラに登場する歌手たちは、声の高さや質によって役を決定されます。男声は、高い方からテノール、バリトン、バス、女声はソプラノ、メゾ・ソプラノ、アルトに分けられます。これは単純に音域のみによる分け方で、この他に音色による分け方があります。レッジェーロ、リリコ、リリコ・スピント、ドラマティコなど、軽さ、強さで声質を表わし、登場人物の性格や年齢、役柄に最適な声質の歌手をあてます。」(「オペラの基礎知識」より)
私自身、昭和音楽大学でオペラ史に詳しい有田 栄 同大学教授の話を伺ったことがあるが、本当は さらなる複雑音域があり、「カストラート」と呼ばれる高音域を発声するため、昔は少年歌手が去勢されたらしい。
これが、ヨーロッパの「声」に対する こだわりである。
私は『ダンテ』原作は把握していない。だが、この「声」に対する信仰的な連帯は ヨーロッパ文化であった。
「ミサの時間」は、場所を離れた三人のSNSユーザーがタブレットに流れる「ユリ」の「声」を聴きながら、ヒップホップダンスをする行いだ。時は2018年だという。
※ネタバレ箇所
また、本作は「青春」ではなく、「大人」だが、いずれにせよ、クライマックスへ至る「ドラマ性」を より表現しえる手段は なかったか。アプローチすべきだ。
音響、照明を排する「颯爽とした会話空間」の試みは、未来の若者に映す「ポスト3.11」として理解できた。
役者陣が何というか、「群像」をニヒリズム的に演じており、時折「想い」は 伝えるのだが、それが「関係打開」へのキーとなっていることは 一種の示唆である。
さて、鍵穴はあくのだろうか。
流れゆく庭-あるいは方舟-
ワンツーワークス
赤坂RED/THEATER(東京都)
2014/03/06 (木) ~ 2014/03/12 (水)公演終了
3.11クライシス 「憂い」こそ最大の「備え」だ
「TUNAMI」は世界語である。
2008年秋、投資会社リーマンブラザーズが経営破綻したことに伴う世界同時株安を「100年に一度の金融TUNAMI」だったと弁明したのはFRB議長(当時)グリーン・スパン氏であった。
2012年公開映画『ソウル・サーファー』は鮫に片腕を喰いちぎられながらもプロ・サーファーとして再起する少女ベサニー・ハミルトンを描いた実話のヒューマンドラマ。その裏には国際人権団体『ワールドビジョン』へ注いだボランティア活動がある。
彼女が復興支援に降り立つ2004年スマトラ沖大地震被災地のニュース映像(実際)で「TUNAMI」がナレーションされている。
ワンツワークスの本舞台が一度だけ強調(台詞)していた「備えあれば憂いなし」を、私たちは飲料水、保存用クッキー、懐中電灯に結びつけてしまう。
ところが、その逆に、震災へ対する警戒心は すぐ忘却する。
繰り返してはならない。
2004年にも、2008年にも、経済金融と、海の向こうで発生した震災という違いはあるが、CNNキャスターが「TUNAMI」を伝えていたことを。
物理的な「備えあれば」、決して「憂いなし」とはならない。東日本大震災に国土が呑み込まれた3.11を「憂う」ことが、私たちにできる最大の「備え」である。
劇団員・関谷美香子氏によると初演時と比べ「半分、書き直した」脚本らしいが、おそらく この部分であったと思う。
『ワンツワークス』は日本唯一のドキュメンタリーシアターを紡ぐ劇団。なぜ「当事者へのインタビューを演劇という形式に則り再現するのか?」といえば、それは社会的要求だろう。
つまり、福島第一原子力発電所事故作業員を直視した『恐怖が始まる』や、200○年○市河川災害を描く『流れゆく庭ーあるいは方舟ー』がドキュメンタリーシアターなる形式を放棄したからといって、この劇団「らしさ」は変わらない。
赤坂レッドシアターに噴水が出現か。セットは市役所災害対策室だが、その一部には巨樹が建つ。
木の枝からは「ジョロジョロ」水が流れる。
終演後には関谷氏、山下有佳氏、武田竹美氏がアフタートークを行い、「キャラクターを どう つくるか」について その考えを披露した。
本番中、記者クラブ会員や公務員のデスクワークだった机に用意されていたのは500㎖ペットボトル・ウォーター。
洪水災害は「水の脅威」だろう。それなのにもかかわらず、人間にとって「水は生命」であり、健康を維持するために欠かすことのできないパートナーだ。
3本のペットボトルが物語っていた。
関谷氏は(初演時から)「6年間経ったから苦労した。当時は素の自分を出せたが、今回はそうはいかない。若さを失った」と述べた。
武田氏は「私は読売で、高田(奥村洋治氏)さんは地元紙。上司か部下か…でも同僚ではなく他社同士。そこに気をつけてと古城さんから言われた。記者クラブならではの関係性が難しかった」と、振り返った。
※続く
神なき国の騎士―あるいは、何がドン・キホーテにそうさせたのか?
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2014/03/03 (月) ~ 2014/03/16 (日)公演終了
ドン・キホーテが風車なき後に悟った「巨人」とは
本作『神なき国の騎士』はドン・キホーテが現代の横浜・桜木町に降り立つ。
彼は「組織」に抗し、「組織」に呑まれ、「組織」に操られ首相に就任する。
私は「能・狂言」世界は日本相撲協会以上の閉鎖社会だと思っている。
そもそも殿様の趣味から始まった芸能ジャンルだから、大衆文化の「歌舞伎」とは違い、かつては98㌫の民衆は これを観劇することすらできなかった。
文化庁は それを受け継ぐ「能・狂言」各種団体に対し補助金全廃しなければならない。
が、そこに身を置く野村萬斎だけは格別である。
『神なき国の騎士』において、「バカを演じるドン・キホーテ」を、「狂言の真髄」により証明してしまった気がする。
川村戯曲がこの国の官庁を皮肉っているように思えた。
気象庁は二週にわたり首都圏各地が「豪雪」に見舞われた事態を「異常気象」と発表したそうだ。
「地球温暖化が進み、異常気象が増えた」、こうした定説は正しいようだが、多くは関係省庁の予算獲得、責任回避の盾に利用されている。
しかし、「異常気象」は どの時代においても必ずあるものだ。
例えば、都心の「豪雪記録」に関しては1883年2月8日の46㌢が観測史上最高値。
たとえ、ある地域で「異常気象」が発生しなかったとしても、列島全域で発生しなかったという年は0だ。
気象庁を管轄するのは国交省である。
「豪雪」を受け、東名高速で2日間以上、立ち往生になった自動車ユーザーがいることを考慮すれば、それなりの責任はないか。
10㌢超積雪は都市インフラ上、過去の記録に比較しえないほどのインパクトか。
九州地方や四国地方ではなく、例年、積雪に見舞われる関東地方である。
もし、国交省の「責任回避」のため、その子分である気象庁が「異常気象」を利用したとしたら…。
それは国民に対する背信行為である。
現代舞踏や現代劇のエッセンスが
巧みに作用する。福島原発事故で置き去りにされた動物も描き、政治的メッセージ性の高い舞台だった。
人狼 ザ・ライブプレイングシアター #11:VILLAGE VI 春風の薫る村
セブンスキャッスル
サンモールスタジオ(東京都)
2014/03/04 (火) ~ 2014/03/12 (水)公演終了
頭が良くなる人狼ゲーム
『人狼ゲーム』は「脳トレ・ブーム」の2005年ごろに流行していれば、茂木健一郎氏あたりが解説本を発行していた ことだろう。
当然、今も その中毒性に取り憑かれた日本人は増殖中であり、これからも それは変わらない。
ただし、『人狼の王子様』やルミネザヨシモト『滑狼』(すべろう)など、派生版も多くなってきたものの、少なくとも前者は さほど評価を得ていない。
これは何を意味するのか。
『人狼ゲーム ライブプレイングシアター』を初回より監修する人物が、渋谷「ドイツゲームスペース@Siibuya」の運営にも携わる児玉健氏である。
5日14時〜公演は彼による10分程度の解説つき だった。
「高度な技といえますね」
「このアピールする力は中々、できること じゃない」
つまり、私が解説から何を分析したかというと、【「人狼ゲーム」は心理テク】である、ということだ。
たった2日間の出演にもかかわらず、「何度も稽古に来てくれた」キャストもいた。
もし、役者が13人揃い、パーティーゲームよろしく「人狼ゲーム」をプレイするだけなら、事前にルールを教えてしまえば それで稽古をする必要もない。
『人狼の王子様』が不興だったのも、「とりあえずイケメンを集めて、人気の『人狼ゲーム』をやろう!」という、パーティーゲーム感覚が理由ではないか。
こうした腰のいれ方の差が、舞台化本家『人狼 ザ ライブプレイングシアター』に他団体を追いつけなくさせている。
5日14時〜公演は「人狼チーム」2匹の勝利だった。
【内訳】
「人狼」
=ダンカン(池永英介)
=エスター(横山可奈子)
=メイソン(石井由多加)
「狂人」
=ソール(ウチクリ内倉)
今回は一日目に人間=デイジー(寺島絵里香)が「人間を絞り込もう」とする提案から始まった。
すると人狼=エスター、人間=キャシー(朝倉怜奈)、人間=ハイラム(澤田拓郎)の計3名が手を上げ、「能力者ではない普通の人間」を主張した。
「このなかに人狼3匹はいないだろう」は議論に参加する13人全員の共通認識であった。
※続く
絵空ノート
演劇ユニット「クロ・クロ」
テアトルBONBON(東京都)
2014/03/05 (水) ~ 2014/03/09 (日)公演終了
「歴史に向き合う」とは何なのか?
「歴史認識」って、とても大切なことだと思う。
例えば、ウクライナでも、ソ連(つまりロシア)から独立した1991年が「民主化」だったと考えるグループと、「祖国分断」だったと考えるグループが存在する。
「歴史」というのは百貨店のショーケースのように、ある種の自然科学的事実でしかない。
だが、同じ事実=「ウクライナ独立」で あったとしても、その「歴史認識」は、どこの地域に住んでいるか、どの民族か、どの階級か、等々のアイデンティティが決定する。
こうした「思想」が手紙を書く際のインクの役割だとすれば、やはり 語り主は主観的にならざるを得ない。
まさに「歴史は小説」なのだ。
私がキャスト陣を驚愕したのは、『そびえたつ俺たち』旗揚げ公演に出演していた方々(フジタタイセイ・ニシハラフミコ)が占めたからである。
「台詞間違い」を他のキャスト陣が連発するなか、意外といったら失礼かもしれないが、彼らは「影を全面に押す」大人びた演技だったと思う。
日本近代史、すなわち明治維新から終戦までを10倍スピードで再生する舞台も珍しい。日露戦争のみを切り取り、『坂の上の雲』(司馬遼太郎 原作)が連載されるわけだから、白鵬関のような懐の広いレンズで歴史を観察する脚本家もいなかった。
上演時間130分は長い。
その数字が、浮きだつ「軽さ」を隠蔽させた可能性も ある。
※ネタバレ箇所
「フィクション」だと作・演出の千頭和直輝は記すが、登場人物たちの「想い」に寄り添えば、あながち「クロ・クロ歴史認識」に異論を持つものは少ないだろう。
終戦後には10分間ライブが開催され、千頭和もギターを弾いた。マイクが機能不全のため、演奏家の歌詞は 聴こえなかったが、そうしたスタイリュッシュ型複合舞台(現代舞踊)を より志向するべきである。
虚像の礎
TRASHMASTERS
座・高円寺1(東京都)
2014/03/06 (木) ~ 2014/03/16 (日)公演終了
最後に残るのは「人」だ
自治体が「国際平和都市」「人権擁護」を掲げると違和感を持つのは私だけだろうか。
法制度からいっても、行政組織というのは「権力の一部」であり、抑止される側にたったメッセージを発表すること自体、その責任を自覚しない怠慢である。
仮に道州制が進展すれば、軍事・外交以外の権限は自治体に移譲され、各地域ブロックに「地方政府」が発足する。
「地方にカネを!」しか訴えない知事、市長、区長、町長、村長たちは、それ相応の「権力と責任」が生じる列島未来図を肝に命じるべきだ。
私が『虚像の礎』に共鳴したポイントは、「首長」や「住民」といった、現行の自治体用語に基づく政治ヒューマンドラマである。
これは、近い将来、「国民から住民」に帰属意識が細分化することを念頭に置いた上の解釈だと思う。「自治体権力」を呼び覚ますサイレンかもしれない。
中津留章仁氏によると、
「これまでは
いかに観客が長時間集中出来るか
その演劇用語を獲得してきたが、
恐らくこの作家は
今回は真逆の
観客が醒める、という行為を
好意的に受け取ることは出来ないか、
それを検証しようとしているような気がする。」
という。
確かに、序盤こそ「退屈な会話劇」だったが、終演後このような感想を抱いた観客は少数派だろう。「集中」どころか、受験勉強以来の限界点を突破させるラスト・シーンである。
『虚像の礎』のキーマンとして劇作家のアテナー(星野 卓誠)がおり、彼の
「君はストーリーを作りたいだけだ」
「想像してご覧よ」
なる台詞に「争い」を和解させる「ポリティカル・パワー」を見出す。
ただ、この劇作家が作・演出の中津留氏であることは疑いの余地がなかった。
もっとも、旧チェコスロバキア大統領を務めた劇作家・ハヴェル氏のように、知識人と呼ばれる人物が「ポリティカル・パワー」を発揮してきた人類史は ある。
それを承知した上で批判するが、何というか、中津留氏の「自惚れ」と紙一重に映ってしまった。
実は『虚像の礎』は都民芸術フェスティバル(主催_東京都・公益財団法人東京都歴史文化財団)の対象公演である。
杉並区からの後援も受け、通常の劇団公演とは違い、圧倒する「マン・パワー」だった。終演後には自治体関係者なのか、企業関係者なのか、東京都歴史文化財団職員なのか、約8人体制で一人ひとりに「紀州梅サンプル」が配布されていた。
この「公演助成」を中津留氏は逆手に取り、「『劇』の社会的価値」を劇中に問うた。
※ネタバレ箇所
劇作家が有する社会的貢献力を、本人アテナーへ聴く重鎮議員テミス(カゴシマ・ジロー)との議論を借り、劇団『トラッシュマスターズ』の公演そのものから暴いてしまったのである。
これには会場から爆笑が起こった。
彼らは 「繁栄とヒューマニズム」を どう一致させるか、そのテーマに挑む日々だ。
結局、『虚像の礎』でも完全なる回答は提示できず、再び「劇場空間から社会をえぐる」旅を継続する。
舞台ラズベリーボーイ
Smile Earth Project
俳優座劇場(東京都)
2014/02/28 (金) ~ 2014/03/09 (日)公演終了
「高校演劇」がブームになる日
高校演劇部・男子部員がアイドル化することなど、思いもよらない現象だろう。
たしかに巷に拡がる「演劇部」のイメージとは距離がある。
私は目黒パーシモンホールを運営する目黒芸術協会主催の「高校生演劇ワークショップ」発表会を例年、見学している。
このイベントは主に目黒区内に通う高校生を対象とし、稽古期間も3日に満たない即席だ。
トークショーによれば、男子参加者に限ると ほぼ「演劇部」らしい。
そこで、彼らの舞台を観て、親御さん達は「子どもたちの能力を生かしていない」とアンケート用紙に記すのだが、大変、不評なイベントである。
観客の30代女性は話す。
「男の子は真面目なタイプね…学校ではモテなさそう」
友人の30代女性も「あなたも言うわね」(笑)と一言、リアクションした。
これが世間の「演劇部・男子高校生」に対するイメージである。
ただ、こうした古い像へ一石を投じる演劇部も出現。
私が1月お正月明けに開催された「TOKYO ドラマフェスタ」(東京都私立中学高等学校演劇発表会」を観劇したところ、女子学生の「黄色い歓声」が響いていた。
それは最終演目、 獨協中学高等学校演劇部 吉川潤(高校1年生)作「ヘプタメロン - 七日物語」の作中であった。
「まるでアイドルのコンサート」(40代女性)
主演を務めたイケメン部員・◯に、女性高校生の熱い視線が注がれる。
あどけない中学一年生部員が台詞をいえば「かわいい〜」、高校生部員がズボンを脱ぐ際は「えぇー!」と歓喜した。
終演後、ただひとり手を振るイケメン部員・◯は「アイドル」だった。つまり、「高校演劇のアイドル化」である。
獨協演劇部は2011年公開映画『行け!男子高校演劇部』のモデルらしい。
私は大手事務所・テアトルカンパニー所属の子役が出る舞台だけが「プロ」ではないと思う。
もっとも、テアトル子役は礼儀正しく、今時の小学生にしては驚くほど大人と対話できる。
しかし、「高校演劇」には脚本、演出を生徒が担当する例もあり、何というか「主体共同性」が備わっている。
それが、まるでレアチーズのような「透きとおった青春」を、観客に味わせる秘訣だ。「感受性のプロ」だろう。
「高校演劇」という単語を聴くと、「教育委員会」の規制を感じ、つまらない、堅い、子供騙しのファンタジーだから観劇しない方もいると思う。
そういう疑念を払拭するプレ観劇が、「高校演劇部を舞台にした青春群像劇」を謳う『ラズベリーボーイ』なのだ。
※続く
大きなものを破壊命令(再演)
ニッポンの河川
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2014/03/01 (土) ~ 2014/03/09 (日)公演終了
発掘!四姉妹の「恥ずかしながら帰って参りました」
「ENBUゼミの演劇コースを担当されていたのが福原さんです。
2012年、福原演出の卒業公演を『笹塚ファクトリー』で拝見したのですが、たしか四つか五つの短篇集。
今回も、場面、場面をカメラレンズに収める“福原らしさ”が感じられました。」
(東日本大震災を契機とした舞台だが?_)「3.11は戦後、この国が築き上げてきた『価値観』をゼロ・フィールドにする威力。
二万近くの人名が失われ、南相馬市~釜石市にかけ街が消滅したのですから。
本来は、瓦礫と化す国土に、市民、文化人、企業人、政治家が書くグラウンド・デザインは百通りです。
それは、例えば関東大震災でいえば、『軍政大国』だったのでしょう。
当初、脱原発から『自然共生型社会』を目指すグラウンド・デザインも提示されていましたが、現在は どうやら『右傾化』に傾いているようですね。」
「『大きなものを破壊命令』は、一つひとつが名シーン。
ただ、観客が余韻に浸たろうとすると、出演者がボタンを『カチッ』と押し、照明や音響が移行するのです。
そして、『真剣演技』なのにもかかわらず…観客は笑ってしまう…。
夏祭の風情、女四姉妹の戦中劇は“ホンモノでした”。
それなのになぜか…。
うーん、『即興的テンポ』だからかな。」
舞台『サイコメトラーEIJI~時計仕掛けのリンゴ』
講談社
CBGKシブゲキ!!(東京都)
2014/02/26 (水) ~ 2014/03/02 (日)公演終了
Mr.ブレインの逆襲ですか…
原作は講談社・ヤングマガジン連載『サイコメトラー』。
テレビドラマ化し、視聴率を稼いだというから、すでに舞台化されていなかった方が不思議である。
キャラクターを紹介することなく、いきなり「事件」が発生したため、当初は原作ファンしか展開を追えなかった。
それが「漫画原作」また「アニメ原作」の難しい点だろう。
ただ、観劇後の感想からいえば、ミステリー・ファン全般に勧めたい舞台であった。
こうした「原作もの」には、アクション・シーンが付きものだが、逆に本舞台で これを譲り、心理戦とでもいうべき「緊迫した空間」を観客に与えた。
ジョージ・ルーカス『スターウォーズ』シリーズが世界的ヒットを果たした決め手は、この「心理戦」である。
日本の武士も、「○○国の○○と申す…」と“口上”を終えてから戦う伝統であった。
それは現在も相撲や柔道に受け継がれている、といっても過言ではない。
本作は「心理学者」がキーマンなわけだが、派手なアクション・シーンを削ったぶん、「人」対「人」の「心理戦」が魅力させたのだと思う。
続く
かもめ~21世紀になり全面化しつつある中二病は何によって癒されるのか、あるいはついに癒しえないのか、に関する一考察~
アロッタファジャイナ
ギャラリーLE DECO(東京都)
2014/02/26 (水) ~ 2014/03/02 (日)公演終了
“ディープ・アロマチック”なチェーホフがいた
(あのキスは)「お仕事だから…」。
ニーナ役の縄田 智子はファンに配慮していた。
アントン・チェーホフ代表戯曲『かもめ』を、『21世紀になり 全面化しつつある中二病は何によって癒やされるのか あるいはついに 癒えないのか についての 一考察』と長いタイトル名に解釈する、松江佳紀。
彼いわく本舞台に「日本の今」を抽出したらしい。
たしかにジーンズ・スタイルのメドヴェージェンコ(=宮本 行)も確認できたが、概ね、元の戯曲を筋通り上演したようだ。
しかし、このメドヴェージェンコには、もう一つの「日本の今」が あった。
それは「関西弁」。
ロシアの民族差を「方言」に例える手法は さほど革新的でもないが、おそらく彼はアメリカ村(大阪)を歩く若者の口調だ。
単に「関西弁」をディフォルメし、ロシアの地域差、民族差を強調するのではなく、「現代意識」を投入させる為だったのなら、それは それで「日本の今」だろう。
「僕は1ヶ月前からトレープレフでした」
そう語るのは、やはりトレープレフ役の塩 顕治。
抜群のスタイル、アニメ『世界名作劇場』少年主人公を思わせる、清廉とした顔…。プライベートでも、一途なようだ。
「元々、トレープレフに近かったからね」(松江)
終演後、10分間の休憩をへて開催された座談会で、ニーナ役・縄田と並んだ塩。
「ということは、愛し合ってるの?」(同)
作中、トレープレフとニーナは恋仲だ。序盤に一度だけ唇を交わす。
「いや、そういうことでは…」(塩、縄田)
松江の投げた変化球に、若手2人は赤面するほかなかった。
『アロッタファジャイナ』番外公演。
公演場所はギャラリーであった。その真ん中で、総勢6人のキャストが熱演する。
縄田は自身が演じたニーナ、それと“彼女”が複数の男性とキス・シーンを披露することで頭が一杯だった。もちろん、女優としてだ。
「キス・シーンの時、意識してますよ。ここは見られていて、ここは隠れて見えないんだと」
透明感のあるニーナは、愛らしく、魅力的だった。
マーシャ役の香元 雅妃、トリゴーリン役の石原 尚太が“強烈な独壇場”だから、それだけ彼女の白さは立つ。
“独壇場”に時間を取りすぎなければ、ニーナと共鳴できた可能性があり、残念で ならない。
ロミオとジュリエッタ
劇団ドガドガプラス
浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)
2014/02/22 (土) ~ 2014/02/28 (金)公演終了
“ゆうき 梨菜ちゃん かわいかった”です…
とことん『歴史の掟』に男女を沈めておきながら、それでも、「官能」に手をすがりつかさせる逆説…。
「官能」がもとで失脚したのに。
『ロミオとジュリエット』は、言わずと知れたシェイクスピア古典劇である。
先日、そのワードを聴いたような…。
2月、内幸町ホールで『柳家さん生独演会 落語版・笑の大学』という寄席が開催された。三谷幸喜 脚本『笑の大学』を落語化する試みであり、日本大学芸術学部先輩にあたる柳家さん生 師匠のアポイントが快諾され実現した公演という。
この『笑の大学』にも、『ロミオとジュリエット』というワードが重要な位置を占めた。
簡単に説明すれば、これは1940年代、浅草劇団の専属作家と検閲官が繰り広げる「表現の自由」のバトルだ。
作品紹介【昭和初期。あらゆる娯楽は規制され、演劇も検閲を受けなければ上演できないご時世に、厳格な検閲官サキサカと、喜劇作家ツバキが取調室で出会う・・・。】
その専属作家が検閲官に提出した台本こそ『ロミオとジュリエッタ』であった。ところが、検閲官が「日本人にしろ!」と書き直しを指示したことで……。
つまり、シェイクスピアを浅草寺に招いたのは、『ドガドガプラス』が最初ではなかったのだ。
さて、舞台を解説したく思う。
「どうしても声を出したい人は役者を呼んで!」
「手を叩いても結構です!」
このことを、『ドカドカプラス』劇団員が伝えていた。
「お祭り」である。
「掛け声」は歌舞伎座でも盛況だろう。
なぜ、役者が熱演中なのにもかかわらず、劇場に「掛け声」が響き渡っても問題ないか。
それは、歌舞伎という演目自体が、「死後の世界」=「非日常空間」=「お祭り」だからである。
『ドカドカプラス』と盟友関係にある『唐組』が花園神社で毎年公演を行うが、神社であるがゆえに「お祭りの一体感」という観劇環境が追加される。
本舞台『ロミオとジュリエッタ』が「お祭りの一体感」を生む環境は、レビューだったと思っている。
「堕落する官能」を、掃除機のように吸い取る「きらめき」である。
衣装が違う。動きが違う。熱気が違う。
「元踊り子だからできる、浅草演劇力」の本領だ。
※続く
ピノキオショー
CAPTAIN CHIMPANZEE
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2014/02/20 (木) ~ 2014/02/24 (月)公演終了
「アンドロイド役者」として認知されつつある「生沼 佑樹」
観劇初心者の男の子を「面白かった!」と言わせた総花的ストーリーです。
彼らは、サーカス小屋に改築した劇場で、回想を繰り返します。
でも、それだと、観劇初心者は「混乱する」だけ。オープニングが1ヶ月後の設定、つまり本編そのものが「回想」ですから、「二重の回想」というになります。
こうした「蜘蛛の糸」のように複雑な網を整理したのが、「キネマ演出」ですね。
「キネマ演出」とは どういうことを指すのか、と言いますと、回想シーンごとに字幕画面「◯◯のものがたり」を映写機で投影させる、彼らが使った手法です。無声映画の頃、「白黒映像」で俳優が語れば、次に字幕を投影しました。そうすることで、「なるほど、主人公の紳士はマドンナを罵っていたのだな!」という映画内容が伝わるわけです。
私は、オープニングを あの人質シーンから開始した方が、物語としてシンプルだったのではないか、と思っていますが…。
実を言いますと、『観たい!』に「ロボット・ピノキオは鉄腕アトムですね」と記載させて頂きました。(参考にされたかどうかは不明です)
これは、「人間らしさって何だろう?」を問う、両者に共通したメッセージが あったからです。
「天馬博士」らしき登場人物が いたことも、手塚治虫『鉄腕アトム』へのオマージュの念を感じました。この「天馬博士」とはアトムを製造した、いわば「生みの父」です。開発した科学者が「お茶の水博士」だと誤解してる方も多いようですが、むしろ「悲劇的生誕」が「人間らしさって、何だろう?」を含む重厚世界に繋がった、と考えたいところです。
そして、舞台『ピノキオショー』ですが、おそらく「原作はある」と思います。
それは、何を隠そう『鉄腕アトム』(アニメ版)一話、二話、三話なのです。
少し長いですが、公式の あらすじ を確認しましょう。
【21世紀の未来を舞台に、10万馬力のロボット少年・アトムが活躍するSFヒーローマンガです。
2003年4月7日、科学省長官・天馬博士は、交通事故で死んだひとり息子・飛雄(とびお)にそっくりのロボットを、科学省の総力を結集して作りあげました。
天馬博士はそのロボットを息子のように愛しましたが、やがて成長しないことに腹を立て、そのロボットをロボットサーカスに売り飛ばしてしまいます。
サーカスでアトムと名づけられたロボットは、そこで働かされていましたが、新しく科学省長官になったお茶の水博士の努力で、ロボットにも人権が認められるようになり、アトムはようやく自由の身となったのです。
アトムは、お茶の水博士によってつくられたロボットの両親といっしょに郊外の家で暮らし、お茶の水小学校へ通うことになりました。
けれどもひとたび事件が起これば、アトムはその10万馬力のパワーで、敢然と悪に立ち向かっていくのです】(手塚治虫 公式HP)
「原作」は言い過ぎた表現かもしれませんが、むしろロボットの平和開発を率いた先進国・日本として、『鉄腕アトム』へのオマージュの念を持つこと、その意義を子供たちに伝えることは率先されるべき活動です。
この舞台を観劇すれば、「人間とロボットの共生社会」を、今からワクワクしてしまう、そんな自分自身がいるはずです。
ところで、皆さんは「アンドロイド専属役者」を ご存知でしょうか。
それは、本舞台に出演した生沼 佑樹さん (劇団シャイボーイ)です。パンフレットで「一番好きなロボットは??」を「カンタムロボ」と答えた方ですね。
彼は、2013年6月AchiTHION『フライング北海道』に、“唯一のアンドロイド役”として出演。
端正な顔立ち、長身、色の白さが「アンドロイド」を彷彿させるようです。同じく長身180㎝阿部寛さん とはまた違ったタイプのイケメンですね。
『フライング北海道』を観劇した関係者がオファーしたとしか思えないのですが、さて真相のほどは…。
まとめに入りますね。
ピノキオと育ての親・松子の絆は、涙なしでは観ることはできませんでした。
「人間らしさって、何だろう?」。
その白昼夢を、サーカス小屋で見物できたように思います。
つまり、ピノキオの現代的価値を深め、さらなる解釈の余地を残した。そう指摘させて頂きましょう。
ヴェニスの商人
演劇集団若人
中板橋 新生館スタジオ(東京都)
2014/02/21 (金) ~ 2014/02/23 (日)公演終了
満足度★★★
あえて「CD化」を提案する
この『ヴェニスの商人』を新しい執事の視点から叱責してみたい。
会場「イプセンスタジオ」であるが、TBSテレビ『SASUKE』のアトラクションのごとく急勾配に傾いている構造だ。熱演するキャストが見え隠れしてしまう。
観客はシーソーのように頭を揺らさなければならず、予選出場者さながらの神経戦である。
こうした「劇場構造」も、30センチほどの厚みをもつ「板」を設置すれば、ほどなく解決したのではないか。
次に、「衣装」である。
女性はヨーロッパ上流階級だが、男性はウォール街を歩くサラリーマンだった。
これも、万が一、彼らが『ヴェニスの商人』を外資系企業に置き換たなら理解する(そうしたモチーフかと勘違いさせた)が、どうやら彼らは古典劇の忠実な部下であった。
男性キャストにおける「衣装」に、より作品世界へ投影できるような史実性が欲しかったわけだ。
しかし、「劇場構造」と「衣装」は新入り執事にしてみると「埃」である。
その空間に、どんな紳士淑女が住まわれているのか、それが問題だ。
私は この舞台は ぜひCD化すべきだと思っている。
何も、「演技が気に食わない」「セットが地味」だという皮肉を提示したいわけではない。
彼らは、シェイクスピアが発揮した「叙事詩」を、10歳の少年にも噛み砕ける速さで観客に伝えていた。もちろん、「全然理解できなかった」観客がいることも事実だが、イギリス大作家の台詞が放ってやまない「面白味」を、絶妙なペースとともに展開した その忠実な部下を、私は否定できない。
「シェイクスピアって、偉人だ!」を再確認する旅だ。(格式は かなり低い)
それはまるで、500年前の「炭酸水」が開封され鳴り響く「プシュッ」…。20代らしい爽やかな鐘音である。
見て見ぬ三日月
劇団ヨロタミ
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2014/02/19 (水) ~ 2014/02/23 (日)公演終了
自然現象周期(19年間)と非行少年を結び付ける数奇…
「少年法」を扱えば、重苦しくならざるをえない観客もいる。
役者が笑わせよう、ミュージカルを熱唱し盛り上げよう、とすればするほど、むしろ「少年法」の忘却を否定し、強調させる。
『劇団ヨロタミ』は、コメディも得意であるように感じるが、毎回、私たちが日常から遠ざけたい「社会事象」を解剖する劇団だ。しかも、決して政治劇の策略とは無関係のため、大衆小説のごとく吸収し易いジャンルである。
夜空に浮かぶ「月」は19年周期で回っているらしい。
3人の高校生がかかわる「事件」と、自然現象が数奇的に一致するストーリーは、こうした題材を描く舞台からすれば「全く新しい見方」であった。
彼らの自由な思考が、「少年法」に囚われない人間ドラマを構成したのだと思う。
私は、「台詞」に言わされている役者を多数、見受けた。
「台詞」という尻尾に振り回された柴犬である。
さすがに主演・金藤 洋司あたりは
迫真の演技だったが、『ヨロタミ』のような実力派に一人、二人でも そうした役者がいると、全体評価に影響しそうだ。
しかしながら、毎回、金藤は「心に闇を抱えた壮年」を理知的に演じる。三作連続であり、パッケージ化した、といっても過言はないだろう。
男子高校生を演じた姿は「老けていた」が、「闇を抱えている」のにもかかわらず、正義心とか、優しさも装備している。
このカオスは結局のところ、こう指摘できそうだ。
つまり、二項論に陥いることなく、「朝産まれた卵」=人間ドラマを手に納める養鶏場従業員のように、その「生温かさ」=センチメンタリズムを大切に扱った『ヨロタミ』の本質である。
燃ゆる
ノアノオモチャバコ
「劇」小劇場(東京都)
2014/02/15 (土) ~ 2014/02/23 (日)公演終了
注意 ケータイゲームで時間を潰す方がマシです
これほど不快な思いをするとは。
一応、招待という形であったが、入場を拒絶された。
結局、「メール担当との連絡ミス」が理由だったが、担当者は
「おかしいのはお前だろ!」と心中おっしゃりたい口調(敬語)だった。小馬鹿にされたのである。
「ですから、(この公演は、あなたの目的とは違う)『ノアノオモチャバコ』なんですよ」
その劇団の本公演を観に下北まで
やってきたのに…。悲しい。
しかし、「制作」と「役者」は別物であるという視点に立ち、ぜひ「舞台は見逃してならない」思いから説明すること5分間、やっと調査され、「連絡ミス」をお認めになった。
「だったらチケット購入すれば いいじゃんか!」
この意見も採用できない。
譲れない「筋論」が 存在する。
この一件はひとえに個人的な「人徳の欠如」に起因するため、話を移したい。
役者は「重苦しい空気」を醸し出していた。
「福島第一原発事故」は避けて通れないテーマだろう、と予期はしていたものの、そこに現れた世界はスタジオジブリ『もののけ姫』に共通するファンタジー空間である。
この劇団の新しい演劇様式は、(例えば)「会社組織」というリアリズムに則りながら、人間が裏にもつ「狂気」を身体表現で明らかにしてしまう斬新さ だ。
夕暮れを移す照明、緊迫感を優しく煽る音響、山村(工場、バス停)の閉鎖性をモチーフとする舞台セット…。
それに、岩のような ずっしりとした身体観をもった役者陣が、見事な「溶け込み」を果たしている。
スタジオジブリ宮崎駿が『もののけ姫』を描いても、どこか私たちの住む街とは違う、「外国」を感じる要因に似ている。
宮崎駿は「バブル景気に浮かれた日本人」に対する「怒り」がスタジオジブリを創設させた、と監督引退会見で語った。
その背後に讀賣新聞の影がちらつくが、「対経済社会」への通例批判が「ファンタジー」を製作する原動力となったのである。
この『燃ゆる』は、大企業が地場工場へ「業務提携」を強引に成立させる点や、工場責任者から従業員に対する「強要」など、「経済社会の負」が透ける。
ただ、登場人物の「狂気」を明らかにするならば、決して中途半端にせず、「結末」を提示する責務も あったのでは。(観覧舎『幻夜』のように、あえて解釈を任せる舞台はある)
パズル•ゲームのピースは与えるが、完成した図面を渡さないのは 間違っている。
いや、幕が降りる直前まで、観客は ひたすら待っていたのだ。
二度と この劇団を観る機会は ないだろう。
売春捜査官
劇団EOE
都内某所(東京都)
2014/02/17 (月) ~ 2014/02/17 (月)公演終了
この時代に求められる「1対1」の真剣勝負とは…
「ミスターXは誰なのか?」
『売春捜査官』(作・つかこうへい)は4名で構成する舞台ですが、2013年入団組の離脱により、『劇団EOE』役者陣は2名しかいませんでした。
そのため、史上初という劇団オーディションを開催し、客演に迎えたのが伊織さん です。
この陣容だと まだ 一人 足りないわけですが、「では、誰が出演するのだろう?」とファンの間は疑心暗鬼が拡がっていました。
『劇団EOE』主宰を務める真生氏が 万を辞して 御出演したファン感謝デーは、”養成所スタイル”を捨てる いわば「総力戦」です。
[本番前の宗教儀礼?]
「10分間、人が変わります」と観客へ説明した真生氏。
一体、何が行われる というのでしょうか。
会場中に流れる大音量のロック調BGM。
すると、出演者4名が「シュッシュッ…」と力強く、息を吐き出しました。
この動きは「モチベーション法」ですね。
『絶対エース』平澤氏は「意識を深める状態にします。決して、宗教団体では ありません!劇団です!」と語り、観客を笑わせました。
でも、「呼吸法で意識を深める方法」は、科学的に解説しますと血中酸素濃度を低くすることなのです。これを仏教用語で『瞑想状態』と呼びます。
私は、二人一組となって“大将”真生氏と向き合った際に18歳 佐々木氏 の顔から涙が零れ落ちる場面を見逃しませんでした。
『週刊EOE』(『劇団EOE』を追うメディアです)によると、この『売春捜査官』稽古中、佐々木氏は二度も“脱走”してしまったそうです。まるで『戸塚ヨットスクール』のような表現ですね(笑)
「お客様の前では辛い顔しちゃダメなんだよ」という鋼鉄の意見も あるでしょう。
「舞台至上主義」ですね。
その考えに対し、「いや、舞台裏を見せてもいいんだよ。製作する過程を お客様と共有したいんだよ」とする考え方が、『劇団EOE』=『週刊EOE』そのもの だといえます。
つまり、本番前の「モチベーション法」をファンに公開し、18歳少女(?)の美しい涙を 拝ませてくれること自体が「舞台裏を含めた、『演劇活動』」なのです。
現代に暮らす日本人であれば、体育会系ともいえる こうした「目と目を合わせる」ホットな関係に浸る機会がありません。なんだか羨ましい関係です。
[衣装、照明が 不足したから わかった!大物劇作家『つかこうへい』の構想力]
故・つかこうへい 氏。
彼は慶應学在学中に書いた『熱海殺人事件』でブレークします。
その当時、早稲田大学出身の劇作家・寺山修司氏が、今までの演劇文化を否定した『アングラ演劇』を立ち上げていました。
ところで、『ヘイトスピーチ』が2013年流行語トップ10に入ったことを ご存知でしょうか。
つかこうへい氏の『熱海殺人事件』は、土地の差別や、女性の苦悩を描くわけですが、「40年間経っても結局、変わらないんだな」という不都合な真実を気づかせてくれます。
今回のファン感謝デー公演、通常公演には ない特徴が…。
役者の衣装はおろか、照明も用意れていません。Tシャツにジャージ姿、劇場を照らすのは蛍光灯だけの空間は、文字通り『稽古場』に近い。
ここで、「照明って、劇場に備え付けられるんじゃないの?」という疑問がわきます。
たしかに、照明機材が完備されている劇場も ありますが、「レンタカー等で運び、設置(解体)作業をする」のが一般的な公演。
「1時間後に次の劇団が作業始めるから速やかな撤収を!」(真生氏」ー「ないない尽くし」でした。
しかし、演劇設備で逆風だったからこそ、「役者が放つ肉体エネルギー」「眼差し」「削ぎ落とされた役の本質性」を、観客側も体感できたのではないでしょうか。
「そこにいることが、『つか作品』を造った」のです。
[観客と歩む『劇団EOE』は変化の兆し]
開場中、キャストがふるまっていたのが“お鍋”“焼き鳥”でした。
極寒ですから温かい おもてなし料理は心に染みます。
佐々木氏から勧められたのにもかかわらず、前の方が「いいや」と断わった流れで「お腹いっぱいです」と社交辞令してしまったことを悔やんでます(笑)
『劇団EOE』ファン感謝デーに参加したのは“初”なので、この「振る舞い」が恒例か どうかは 知らない。
ただ、「ファンと歩んでいく」は随所に散りばめられている舞台でした。
そう感じたのが大山金太郎役・真生氏の 次の台詞です。
(伊織氏を)「客演に迎えるんじゃなかった!」
アドリブか台本か…。
今まですと「舞台に真剣に取り組む」姿が、試合中のスポーツ選手を思わせる特徴だったのですが、「舞台を おどける」、そうした柔軟性が発揮されたように感じます。
『劇団EOE』は「役者面会なし」を貫いています。(小劇場界の非常識ですね)
今回、兆しが見える“変化”とは、「舞台造りを通してファンと交流する」(『週刊EOE』も 役割)この劇団ならではの 触れ合い方です。
役者数わずか2名、主宰すら登場せざるをえなくなった『劇団EOE』。これから飛躍したい身としては現在、茨の道かもしれません。
ただ、客演・伊織氏の「内面から湧き上がった感情表現」は見事でしたね。「情熱社会派」としての未来を映し出しました。
今後も期待です。
小松政夫×石倉三郎 『激突!人間劇場』~哀愁の人生図鑑~
日本喜劇人協会
三越劇場(東京都)
2014/02/17 (月) ~ 2014/02/17 (月)公演終了
『横浜トヨペット』販売記録を塗り替えた!「小松政夫」と“無責任時代”
日本喜劇人協会第10代会長に就任するコメディアン・小松政夫。
同協会に参与として迎えた石倉三郎と「新作コント」を三連発 披露した後、30分のトークショーを行う。
そこで大御所コメディアンが口滑った“秘話”の数々とは…。
元クレイジーキャッツ・故植木等の付き人兼運転手となる前、『横浜トヨペット』のバリバリ販売員だったことを明らかにした。
「『横浜トヨペット』ひと月の新車販売台数の新記録だったんだって?」(石倉)
「『10』売れれば大したところを、新車で『27』以上販売した。中古車を入れるともっとかな」(小松)
「完全な歩合制でしたよ。8台目までは一律1万円。で、9台目からは3万円になる」(同)
当時小松の月給は70万円近くだった計算だ。(1960年代前半)しかも、たかだか『横浜トヨペット』新入社員の身分である。
新卒社会人の初任給が1万6000円という時代。
20歳前半の新入社員・小松が得た月給は同年代と比較し『約40倍』に膨らむ!
「熱海旅行へ行くと、“大勢連れてきてやった”んだよな。宴会に、芸者遊びやらさ…」
小松がブレークしたキッカケが日本テレビ『シャボン玉ホリデー』。
谷啓『ガチョーン』と茶の間を沸かせた一発ギャグが『知らない、知らない』だった。
小松によれば、新入社員時代のある日、『横浜トヨペット』上司である課長が業績について しつこく文句を続けたらしい。
様子を聴いていた部長(事務機器会社から引き抜いた恩人)がその課長を批判したところ、課長が小松のところへ来て『もう、知らない、知らない』と怒ったそうな。
植木等へ この新入社員時代エピソードを話した小松。
「面白い。テレビでやってみろ」(植木)
『シャボン玉ホリデー』生放送である。
あのギャグは「実話が基」だった。
公演について_
「試みです。次回はちゃんとしたものを やりますので」(小松)
アドリブ劇に近い、方向性の定まらなかったコント。
二発目では「疲れた。疲れた。体力の限界…」と『年齢』を隠せない小松の姿が あった。
パンツ一丁になり、女性用ドレスを着用する。
(当初、石倉が脱ぎ始めると笑い声も起こった)
往年の喜劇人に限界はない。
“小松正夫節”炸裂である。