満足度★★★★
昨夜7月19日19時と20日14時に亘ったピースリーディング、演出、役者陣そしてゲストの方々も恐らくみなさん睡眠時間を削っての出演、本当にご苦労様でした。
ネタバレBOX
かく言う観客の自分も昨日は3時間45分、本日は4時間半の睡眠で駆けつけた次第。それだけ、危機感の共有された舞台でありました。(因みに心肺停止の臨死体験をして以降、20年近く自分の睡眠時間は現在、平均で7時間程に増えています。その前は4時間程度でしたが。)
何れにせよ、忙しい方々が予定を繰り上げ、或いは繰り下げて同日、同時刻に集まってトークに参加してくれたこと自体が、劇作家協会理事長を長く勤めてきた坂手氏、そして演劇のひいては文化の力であることにも言及しておきたく思います。無論、芸能の中には、面白いけれど直ぐに消えてゆく作品もあれば、数百年、幾千年に亘って継がれてゆく芸能もあります。最低でも数百年に亘って継がれてきたものが、普遍性を持つと評されるに値するのでしょう。ですが、その手の作品は、文学に於いても、口承に於いても多々残存してきました。
ところで、昨夜よりゲストのトーク時間を多く取れた本日の公演では、様々なゲストの状況へのアプローチから観客の多くが、示唆や勇気を貰ったのではないでしょうか。そしてそのようなゲストを一堂に会することができたことこそ、この公演の中心になっている演劇の力というものなのでしょう。
稽古に時間的制約があったと思われ、若干噛むことがあったので、☆は4つ。
満足度★★★★
開演の大分前から、プロ歌手にエレクトーンかシンセの伴奏付で、歌謡ショーのようなものが演じられているが、今作との関係がイマイチしっくりこなかったり、声はいいのだが、選曲とリズムが合っていなかったりで却って興ざめをしてしまった。
ネタバレBOX
おまけに、フライヤーには書いてあるものの、劇場の指定席座席表と公演関係者の付けたS席だのA席だのB席だのが異なり、受付にも劇場の座席表の所にも表示が無い為、観客は、主催の座席割り当てのコンセプトがハッキリ掴めず、混乱をきたすもととなっていた。もう少し頭を使ったらどうだろう! 別紙で、どの部分がA、B、Sと劇場座席表の横にでも貼り付けておけば、気の利いた観客はそれを頼りに正しい席に座るのだ。スタッフはそれでも目が悪いとかで自分の席を発見できない観客だけに対応すればよいのである。
こんな要領の悪さで観劇前にインセンティブが大分削がれてしまったのは残念だ。扱われている事件は、光クラブ事件。東京大学文科Ⅰ類主席の主人公が代表となって興した闇金を巡る事件である。戦後直ぐの時期だから、東大も今ほどおちゃらけたイメージではない。東京帝国大学のイメージの方が圧倒的に強かったハズである。その頃の帝大と言えば、現在のフランスでENAなどに相当する超エリート校であり、末は博士か大臣かが、ジョークではなく通用した。それほど権威があったのである。因みにENAなどの卒業生の初任給は、通常の大卒の5倍程度である。
話が脇に逸れた。光クラブ事件は余りにも有名だし、三島も「青の時代」で扱っているからご存じの方の多かろう。従って事件についての詳しい説明は省く。書いておくべきは、主人公、山崎が今作で太宰 治と会い、決定的な言葉「人間失格」を投げかけられていることである。無論、これは太宰の傑作小説のタイトルであり、そのことも科白で言われているのだが、山崎の辞世の句”貸借法すべて青酸カリ自殺”に現れた幼いシニシズムをこそ憐みたい。落とそうと思い定めた女には、そっぽを向かれるどころか破滅させられ、太宰には本質を見抜かれた上に先立たれることで、最早、追いつき追い越す目標を抱くことさえ不可能にされた負け犬の愚かな末路は余りに悲しい!
満足度★★★
タイトルから察するに当然、シナリオの方向性、観客への斟酌、そして普遍性へ向かう道筋が想定されるが、
ネタバレBOX
このうち実現されているのは、シナリオの方向性くらいだろう、だがこれも片肺飛行ではある。確かに扱っている問題、苛めや自己中など世界中に蔓延し、而も解決が難しい問題を扱っているので作劇化自体にかなりの困難が予想されるのだが、であれば、主題をもっと絞った方が良いのではあるまいか?
劇的なもの・ことのベースになる如何ともし難い必然性が土台部分に無いことが原因で、科白で説明する部分が目立ち、宿命や運命として必然的にそうなるという演劇の基本が抜け落ちてしまった。作家は透徹した視線でもの・ことを観る必要があろう。そうしなければ、今作で描こうとした人間関係の拠ってくる地盤が見えてこない。状況の如何様にもし難い必然性を前提にすることで、ドラマツルギーが生きるということを分かっていないと見た。それかあらぬか、表現の人称も一人称表現の稚拙なものが多い。作家は肝に銘ずべきである。他者に対して発表する作品は、少なくとも三人称をベースに組み立てられているということを。結果的に一人称を用いる場合でも、それは三人称経由の一人称、二人称であるということを。少なくとも一流の作家はこの程度の芸当はこなしている。
満足度★★★★
いつもながらの中々凝ったセットだが、終盤、もっと驚く。この仕掛けには感心した。基本的に大人の狡さ、卑怯を嫌った若者達の、それでも生きていれば嫌も応もなく大人の年齢になってしまうことへのアンヴィヴァレンツや、そうなってしまうことの是非に対し、ちょっとしたピカレスク・ロマンの手法を用いたケツマクリ。若書きの粗さや、背伸びが見られなくもないが、ふつふつと湧き出るエネルギーと突っ走る勢いには爽快感さえ感じる。
花四つ☆
ネタバレBOX
実際多くの子供達が思って居るハズだし、思ってきたハズだ。何を? って大人は矛盾だらけの馬鹿だということをだ。3~4歳にもなれば、この程度の判断はつく。だが、いつ頃何が原因でそう考えていた子供達の多くが自分の正当な意見や行為、そして権利を捨てて世間に埋没してきたのか? 金か? 必要なら稼げばよいではないか? 金だけが目当てなら何をやっても食ってゆくこと位はできよう。恋か? 互いに年を取らず、いつまでも若く美しく健康ならば、それも良かろう。然し、それにも限りがある。では、地位や名声か? そんなもの、健康を損ねてしまえばそれまでのこと。また、大きく儲ける為には仕組みを先ず作らなければならない。今作では、実はそれが図られていた訳である。人々のメンタルを操り状況を動かして、動いた金を喰う訳である。現在、資本主義のやっていることもこれであろう。本当の金持ち達は、長者番付けに載るような馬鹿なことはしない。ケイマン諸島やカリブ諸島を経由してどれだけの金が洗浄されているか、考えてみるが良いのだ。皮肉にも、大人を嫌って単純な子供のような反応をした者達は狡猾の餌食とまでは言わないまでも、単に右往左往させられ、更に社会的リスクを背負わされたにも拘わらず、それら総てを企んだ連中だけが、高笑いをしつつ、おいしい汁を吸っているのだ。現在のこの「国」の為政者ような完全に破綻した支配層を持つ社会に於いては、このように冷静に企まれた悪だけが、不善を撃つことができるのかも知れない。
満足度★★★★
20年に亘って続けた公演も今回が最後、との触れ込みで始まった今作。デストピア状況が描かれる。デストピアについては、余り多くの方に馴染みが無い概念かも知れない。要するにユートピアの反対概念である。今作では、総ての動植物(無論、人間を含む)が一冊の本になってしまう、という奇病の流行った小国の話として描かれている。花四つ☆
ネタバレBOX
こんな未来の無い状況なら必然的に起こってくるニヒリズムという深刻な問題は、スルーされているが。この物語の訴えるデストピア状況、即ち「原因不明の病」の大流行によってあらゆる生命が危機に晒されている中で、尚、ヒトはヒトらしく生きることができるのか? という本質的な問いに対する答えとして,ノブレスオブリージュが提示されていることの重大な意味を減ずる訳のものではない。斯様に受け取れる作品であった。タイトルセンスも人を引き付けるに足るものである。難を言えば、序破急のうち、序破の部分をもう少し、大人っぽく刈り込んでも良いかも知れぬ。
為政者の勤めの中心を果たすのが魔女の家系だが、それをサポートする軍部が体制護持に走る姿は、現実に軍の機能を表象しているだけに実に興味深い。
前説にも、センスの良さが認められる。この前説だけで、大きな拍手が起こったほどだが、何が起こるかは、観てのお楽しみ。
20年も続いて来た劇団が、今作をもって終演とするということだが、様々な事情があるにせよ、早目の復帰を願ってやまない。
満足度★★★★★
流石! 話の持って行き方が素晴らしい! 島に暮らす人々の温かさ、素朴な人情の持つ力を描いて見事である。(花5つ☆)
ネタバレBOX
メインストリームは、12歳で重大犯罪を犯して施設に10年間もの間送り込まれ、そこで人格改造を行われた若者、保(現在22歳)が保護司(中村)に連れられて来島、役所の紹介者(平良)を通じて郵便局長が預かることになる。因みに保の個人史に関しては保護司、平良、保自身の誰も語らなかった。然し、真面目に仕事をやり、礼儀正しい保の態度がぎこちなくとも島人達は彼を受け入れようとしていた。だが、人にも仕事にも慣れて来たハズなのに、保は決して笑わない。島人達の温かさは恰もそれが自分達のせいででもあるかのように気遣うのだが。矢張り、彼は笑わないのだ。そこで、事情を紹介者の平良に訊ねてみることにした。保の事件の実相を聞いた面々は、保に対する判断・対応を個々で決断してゆくことになる。(島で保を預かる際、責任者となった局長は好意的である。局長不在の際、万屋件喫茶を兼ねる店を任されているしっかり者のアルバイト、珠代は否定的だが、本人に気取られるようなことはなく、この万屋に入り浸りの寂しがり屋、吾郎には、おしゃべりで空気が読めないので、このことは秘密にしてある。)
ところで、この島で民宿を営む玉城夫婦は、バイト(政男)が相談も無く九州へ出てミュージシャンとして売り出そうと島を抜け出してしまった結果、唯でさえ唯一の売り、島一周遊覧コースが船の故障でへたっている上、稼ぎ時の夏季に民宿が回らないと大騒ぎしていた。そんな折も折。団体客の予約が入った。困り果てた玉城夫妻は「保を仕事に寄こしてくれないか」と相談しにきた。局長のOKも出、保も否定しなかったのでこの件は決まったのだが、間もなく保は仕事を放り出して逃げ帰ってきた。何でも「来客の誰もが、彼の顔をじろじろ眺める」というのである。保自身が最も事件のことを気に病んでいたのである。
さて、ここにサブストリームが巧みに絡んでくる。オープニング早々、局長が海辺で暇さえあれば石投げをやっている話が伏線として出ていて、その折、コーラ瓶を拾って持ち帰った。中に何か入っていたからである。それは12歳の少女が10年前に瓶に詰めて流した手紙であった。手紙には彼女の名前、住所と解けずに悩んでいる連立方程式問題が記されていた。玉城が解いた回答と万屋スタッフの写真“良かったら遊びにいらっしゃい”との招待のメッセージを、記してあった住所に出した。暫くすると局長宛に便りが届いた。成長し短大を卒業後、就職、現在は結婚していると最近の消息を伝える彼女からの返信であった。
返信が届いて暫くすると島に中年の女性(松原)が訪れた。彼女は瓶の手紙少女の母であった。届いた手紙は、実は彼女が認めたものだった。娘は中学受験に失敗、自殺を遂げていた。教師をしていた母が、一番身近に居た12歳の娘の発したSOSに気付くことができなかった。彼女はそれを恥じて教師を辞め、離婚した。だが、島からの温かい返信に対して嘘を吐いたことが申し訳なく詫びに来たのであった。
そんな母に局長は、娘と同い年で重大事件を起こし、まともに学校へも通えなかった保に夏の特別授業を頼む。母は、娘を失くした原因を根底から覆す為、保に教えることを選ぶ。実の親からも人間として向き合うことをしてもらえなかった保は、生まれて初めて、人の情けを知り、本音を漏らそうとするが、その場に現れた保護司中村に、本当の自分と事実を晒すことを拒否される。
因みにタイトルの「おんわたし」は、他人から受けた恩を隣りの人に渡す(返す)こと。この島の道徳法である。今作の随所にその例が見受けられるが、終盤、松原と保の真剣勝負で、この概念がいかんなく発揮され、成就する様は類ない。見事である。
満足度★★★★
9年前に起きた大量死傷・刺殺事件にインスパイアされて綴られた今作。
ネタバレBOX
人間関係を築く力を失ってしまった現代の決して少なくは無い人々の孤独・孤立と、寂しさを抱えて苦悩する人間との差異を正確に見極めて描く秀作。果たして我々は寂しいのか? 或いはそれすら感じられない程孤立し、漂流していることにも気付かぬほど関係を欠いた存在なのか? ものと人の境界を問い掛ける作品でもある。深読みをすれば、関係を欠いた人間はそも人間という範疇に括ることができるのか? という問題迄提起さえしていると解釈することも可能だろう。
物語は、高校卒業12年後の結婚式場の待合場所で展開する。新婚カップルは高校の同級生同士。高校時代は唯のクラスメイトだったのだが、3年前に偶然出会ったことから交際に発展、結婚に至ったという経緯だ。新婦には高校時代4人の友人が居ていつもつるんでいたのだが、内1人が高3で亡くなっていた。比奈という名であった。引っ込み思案の子で、それが嵩じて人付き合いがまともにできず、ネット上で繋がる誰とも知らぬ人々とチャットで連絡を取り合う時だけ活き活きしていた。そんな彼女に懸想していたのが、この度結婚することになった新郎の雅也である。雅也の孤独も孤立の深さから、他人との正常な関係を築くには至らぬものであり、その意味で人間的な人格形成は疎外されていた。雅也は、こんな状態から比奈に恋心に似た何かを本能的に感じたというのが正確な所であろう。何れにせよ、ストーカー紛いの行為に及んでいたのだが、その深い孤立から、恋に恋するというレベルの相手へのアプローチのノウハウも分からず、ぶきっちょにもストーカー紛いの行為に及んでいた訳だ。
ところで仲良し5人組で既に結婚したのは、涼子1人。問題は、涼子の夫がDVを揮うことであるが、涼子は、子供の頃から皆の引き立て役。内心皆から一段低く見られることに悔しい思いは抱きながらも納得せざるを得ない、と諦めかけていた。然し無論のことながら、その心の奥底では悔しくてならなかった。そんな彼女を対等の人間として扱ってくれた初めての人こそ、彼女の夫であった。暴力を揮うことはあっても、見下されるより対等の存在として自分に対してくれる夫を決して憎む気にはなれないのであった。確かにDVは良くない。それは当たり前のことである。然し、内心軽蔑しながら、友人面する欺瞞は果たして正しいか? を問うならば、どちらの関係が人間に幸せを齎すかはかなり難しい問題であろう。新婦、亜季を除く2人(親分肌の千絵、研究者を目指すセリ)は独身のままである。
高校時代の夢が実現しているか否かは語られないものの、2人を含め皆性格が変化したとは感じられない再会であった。これら結婚式関係者以外の登場人物が1人いる。亡くなった比奈の姉、成美である。彼女も集まった他の人々の殆ども、比奈の死についての真相は知らない。ただ、比奈が無差別殺人を犯そうとしていた人物の犯行を止める為に、約束していた8月12日の涼子の誕生パーティーをドタキャンした時、厳しくそれを追求し、参加しないなら、今後、皆が比奈を無視し続けることを突き付け、何で誕生会を欠席するのかについて詰問した千絵の詰問の状況について、皆で一緒に行動していれば比奈が亡くなることはなかったと口裏合わせしているのは、如何にも在りそうな共犯関係であり、実際に罪を犯している訳ではないものの、その事実が各人に問い掛ける道徳的問いに悩む姿は必然であろう。同時に、比奈の姉が12年間、妹の死について「犯人」と思しき人物を追い掛け回し、かなりの手応えを得、状況分析から確信するに至った妹の死の容疑者が、3年前偶然に出会ったことになっている新婦との出会いの真相も示唆されている点、比奈が亡くなる場面の再現シーンなどから見えることは、殺人犯より重い病を患っているのは、寧ろ孤立する孤独者なのではないか? という重大な疑義である。この疑義については作品をご覧あれ。
客席が舞台を挟むサンドイッチ構造になっており鰻の寝床のように長辺の比率が著しく大きいので、客席によっては、役者の演技している表情が見えない。(例えばオープニング直後の女子たちが全員集まって件の話をする時などだ)本筋に関わるシーンなので無理に椅子に掛けず立ったままでの会話にしても良いのではないか? 自然な雰囲気を出すのなら小さな1本脚の丸テーブルを用意してドリンクセットでも載せておけば良い。こうしておけば、役者が顔をあちこち動かしても不自然にはなるまい。科白の順番で、どの観客にも観易い配置を取れば良いのである。それから、役柄によっては、高校卒業後自分の語った夢を実現したか否かが、ハッキリ見えた方が効果的な役柄もあろう。こういった所に注文を付ける演出をしてゆくと、更に深い作品に仕上がるのではなかろうか?
満足度★★★★
いつもながら奇抜な演出が、(一応誰でも見る所に。タイトルに対しての個人的見解として、この劇団が”遊びをせむとや生まれけむ”の精神を失くさない限り、自分はあなた方の明日を信じますぞ!!)
ネタバレBOX
格別。何せ開演何十分も前から、女優が「小屋の扉を開けて下さい」って大声張り上げてんだから。結果、客は誰一人小屋に入れる訳でなく、階段に立って開演を待っているのである。二日間で八公演とトンデモナイ回数の公演をこなすのだ! が、その開演前にこの騒ぎなのである。初めロビーに入る為の扉も閉じられていたのだが、それも開演10分前きあ15分位前に漸く開くと、今度は内扉が開かない。女優は相変わらず一所懸命に頼み込んでいる。業を煮やした演出が、女優にサジェスチョンを与える。曰く女優としての武器を使え、と。女優は着衣を脱ごうとするが、衆人環視の前で嫁入り前の娘がすることでなし、今まで押していたのだから、引きでやって見ろとの指示。女優は「マッチ売りの小女」を演じ目出度くドアを開けることに成功するのだが、ドアを締め切っていたのは、解散を決めたばかりの弱小劇団メンバーたちであった。解散は決めたものの、演劇に対する未練ばかりで、新しいが、夢も希望もインセンティブも湧かない新世界へ飛び込むことができずに劇場ジャックをやっていたのである。小劇場演劇をやっている人間なら誰しもが抱える重く深刻な悩みを中心に、劇場を乗っ取られた劇団が、仕込みに掛かるべく設えられた木目も露わな平台を据えた正面舞台では、これから演じる作品の舞台稽古、通常、照明・音響スタッフが籠るブースでは、解散劇団の嘆き節、そしてロビーにもなるホワイエでは、スタッフなどの動きを演ずる芝居が同時進行する。3か所で同時に、異なる芝居が演じられているので、観客は無論、動いて自分の気に入った芝居を観ることができるし、適当な位置に腰かけて体の向きを変えたり首を捻ったりしながら、それぞれの劇を観ることも可能だ。こんな具合に三者の芝居が入れ子細工を構成しつつ舞台は進行するが、終盤、劇場ジャック劇団と、これから、ジャックされた小屋で演ずる劇団との間に争闘が起こり、遂には弱小劇団がケチョンケチョンにやられてしまう。だが、その惨めな敗北の最中、起死回生の弱小劇団への共感と滅びゆく者達への惜しみない共感が相俟って歌が生まれ、両劇団参加のミュージカルが生まれたかのような展開になるのがクライマックス。この直後に観客は立ってロビーに移動してくださいの掛け声でロビー移動。観客が出払うと内扉が閉められ、終演ですの挨拶! これを楽しめる観客だけが、遊び心を満たして帰還することができる。んだっちゃ!! にゃん。
満足度★★★★★
亡くなった深津 篤史のシナリオだが、燐光群の坂手 洋二が演出。燐光群も良く使うザ・スズナリでの上演である。
ネタバレBOX
劇団と小屋との関係を今更とやかく言っても仏に説法の方もいらっしゃるだろうが、芝居内容と演出には、それぞれ劇団の癖というか好みというか、特性が現れ、その特性を活かせる小屋をどうしても多用することになる。小屋と劇団の相性というものがあるのである。無論、集客力の差、舞台と裏周りとの連携や使い勝手、照明や音響の効果を最大限発揮させる為の器材の充実、交通などの利便性等々。総合芸術としての演劇が要求する要素は多岐に亘り、而も質の高さを求められる。更に小屋の持つ雰囲気や、町全体の雰囲気が、芸能文化を盛り上げてくれるようなら猶更嬉しいのである。
ところで、今作のような、大阪港湾部の荒み、心理的にも荒寥感の漂う街区のガード下を見つめ得る部屋の、恐らくは出口なしの部屋。そこには水槽に閉じ込められた真っ赤な金魚が、閉じ込められていることを知ってか知らずか遊泳している。最初、1匹だったものが、5匹に増え、更に十数匹になって1匹消える、など。数に変化がある。互いにアイドルの名で呼び合う男女の物語であるが、先ず、感じるのが何が描かれているのか分からない、という素朴な感想だろう。無論、演出もその辺りの事情が分かっているから、通常の舞台表現と朗読を組み合わせた回を何度か設けていると考えられる。
ところで、今作、阪神淡路大震災後に書かれた物語である。作者の深津は、地震の時、京都の下宿に居て自分だけ被害を免れ、芦屋の実家が全壊、家族は無事だったものの仮設に移らざるを得ず、自分だけ難を逃れたことに後ろめたさを感じていたという。
それかあらぬか、今作は非常に個人的な体験をコアに擁した作品ということができよう。同時にこの個人的作品は、その難解によって観る者の解釈を待っている作品でもある。即ち、作家は何を描く為に今作を書き上げたのか? 辺りが先ず最初に探究すべき対象ということになろうか。次に劇中何度も登場する”幽霊電車”とは何か? である。更に増減する金魚は何意味し、その水槽に関する登場人物たちの会話は何を示唆しているのかである。また、ガード下に蹲る革靴を履いた人物(生きているのか、遺体であるか、男か女かも判然としない存在は、何を表しているのか?)も極めて興味をそそられる対象であろう。その他、登場人物の居る部屋が、何を象徴しているのか考えると頗る面白い。例えば冥界という解釈も在り得よう。
無論、あらゆる作品は、作品として提示され、作家から独立はしているという立場があるのは事実であり、そのような立場にも無論根拠がある。然しながら今作に於いては、作家の抱えていたという後ろめたさの内実について想像を巡らせることが、作品解釈の大きな糸口になるのではないか、と考えられる。
また、今作の演出で極めて特徴的なことは、舞台の観客側に据え付けられた大きな板。これで観客の視野が否応なく限定される。更に舞台が、途中から急な勾配を持って下げられ、奈落まで急坂を構成していることである。奈落迄落ちているのである。如何にも坂手演出ではないか!?
満足度★★★★
いかにも大阪!
ネタバレBOX
物語は、新自由主義の尖兵のような企業で起こる本社幹部と地方支社との諸関係と他企業乗っ取りや買収の影で行われている闇の取引、社員間の熾烈な競争、会社幹部対労働者の対立抗争とスパイ等が絡む争闘についてであるが、これらの関係の裏に男女の肉体関係や性的変態趣味を絡ませている所に大阪の劇団らしさが在りそうだ。
舞台を中央に設え、舞台を挟むサンドイッチ型に客席が配置されている。舞台中央には線路が描かれ、基本的にはフラット。必要に応じて椅子が用いられる。途中、労働歌として川上 音二郎らの「おっぺけけ節」が歌われるのが面白い。この場面、どういう訳か無声映画の傑作「メトロポリス」の反乱場面を思い起こさせた。自由民権運動に連座した壮士たちが、川上らのムーブメントの源流だから当然と言えば当然だが、治安維持法より性質の悪い共謀罪施行前夜にこの歌は小気味よい。何れにせよ、企業というものが人間を消耗品として扱い、その中で壊され、羅針盤を欠いた航海者のように都会というコンクリートジャングルを彷徨い歩く、パースペクティブを欠いた民衆の姿が、滑稽にアイロニカルに描かれていてグー。鉄道自殺が何度も出てくるが、飛び散った人体の形容が生々しい。
満足度★★★★★
今回、Sky Runnerを拝見し、改めて演劇は役者の身体能力なのだと感じることしきりであった。(追記後送である。)結果をご覧になりたい方は、ネタバレを読んでも読まなくても、劇場に足を運ぶベシ!
ネタバレBOX
話はスラムの子供が、全世界憧れの的、スカイランナーになって羽ばたくという軸で展開される。謂わば少年の純粋な夢だ! そして、この夢こそ、この劇団が抱え、走っている原動力だろう。でなければ、何故、これほど苦しい稽古に耐え、時には怪我を圧してまで舞台に立つのか!?
その答えが、ここにある。本日、千秋楽、是非、観て欲しい舞台である。
スラム育ちのジン。ライセンスを取る為のIDも無ければ、身元保証人も無い。才能だけはずば抜け、自ら認める通り。飛行機乗りとしては天才である。然も埋もれた。埋もれるということがどういうことか? それを彼は日々の生活の中で体感してゆく。マブダチは薬とギャンブルに溺れ、仲間達もジン以外は塵のような存在に堕した。今の彼は唯、真面目だけが取り柄の、優しい奴で、仕事場の上司からは正社員として雇うとのオファーが掛かっているが、それもスラムの塵の中から使えそうな物を選別して回収するだけの、スカイランナーに比べれば余りにも地味な仕事である。それで彼は諦めかけていた。何を? って、スカイランナーになる夢を! だ。だが、この仕事をしている中で偶然、農場経営者の妻となっていた幼馴染と出会う。彼女は、陳と名乗るジンにかつて光り輝いていたジンの思い出を重ね、農薬散布に使うセスナの操縦を依頼するのだが、ジンがセスナに乗って飛行している時、スカイランナーのタイトル保持者と出会い、バトルを経験する。余りに激しいバトルでジンの乗っていたセスナのエンジンは焼き切れてしまうが、チャンピオンはジンの才能に着目、同時に農業用のセスナを最高度のマシンに仕立て上げたメカニシアンにも着目した。こんな経緯があって、チャンピオンの会社が主催のパーティーに招かれたジン、メカニシアン、トレーナーに飛び上がるほど嬉しいプレゼントが用意されていた。スカイランナーライセンスへのステップである。ジンはこれを受け、目出度くスカイライナーとなるが。物語はことほど左様に上手くは行かない。
満足度★★★★
舞台中央に四角く大きな穴。上手、下手には地下鉄の夜間工事などで良く見掛る衝立上に穴の縁を囲んだ防護柵。舞台では四辺総てではなく直交する2辺を囲って、あとは出捌けがし易いようにカットされており、上手客席側に梯子、下手壁側にも仕掛けが拵えられている他、防護柵の上辺辺りから危険を示すテープが上方へ向かって伸びている。
2020年の東京オリンピック直前の競技予定地という設定だが、工事は全然進んでおらず、その原因こそ、この物語のテーマの一つなのだ。(追記後送)
満足度★★★★★
無論、五つ星、それも花○五つ☆である!
ネタバレBOX
当パンを見ると“土蜘蛛”とはまつろわぬ民に対する蔑称であったそうだが、この呼称は彼らが穴倉や洞窟に住んでいたからだという。物語は、舞台美術が示すように二つの層の嵌入によって進行する。片やトンネル工事のタコ部屋の土工夫、片や私娼窟で女郎として働く女たちである。何れの身分も蛸や蜘蛛に擬えられ、為政者のみならず、一般大衆迄が彼らを差別していたことが重要である。
興味深いのは、この二層構造が時には女郎屋、時にはトンネル工事の現場になる一階部分とあくまで女郎屋のそれも女将の部屋である二階に峻別して用いられていることである。これは何を意味するか? 自分の解釈だが、二階は権威による支配、一階は力による支配なのではないか? ということである。無論、権威の威力は暴力に転化するのだが、それは階層の隔たることであって、直接権威者が、暴力行為を受けた人々の被害に対して責任を負う必要が無い、と了解されているということでもあろう。
このことの、大衆サイドからの責任追及の頓挫は、時間軸のズレとしても表現されている。即ち女郎屋の女将が、人間らしさを唯一残していた、マブを待つ心が支配する20年後と、トンネル工事が行われていて、若かりし頃の女郎であった女将に懸想する反乱組のリーダーの止まった時間の対比である。無論、物理的時間はそれなりに流れているのだが、この二人の時間の首根っこは止まり、片や権威として無意味な時間を過ごす女将、片や叛旗を翻すリーダーとして生きることに賭けた時を過ごすマブという、あからさまな人間的時間の矛盾を通して赤裸々なメンタリティーが描かれている。しょっぱなから最後まで、光の見えない作品なのだが、緊張の途切れることは片時もない。日本人の奴隷根性を嫌というほど見せつけてくれる舞台であると同時に、であるからこそ、日本的反逆への示唆をも秘める作品と言えよう。共謀罪発現迄1週間を切った。覚悟せよ! とマッポウと為政者が笑っている。
満足度★★★
日本で活動する所謂「アーティスト」は、政治と無縁なポーズを取りたがる。
ネタバレBOX
表現する以上、そんなことはあり得ない。孤高の表現者であるにせよ、それは狂気と接しているのであり、それ以外ではない。何故なら狂気とは純粋な錯誤であり、それを決めるのは己ではなく社会であるからだ。つまり狂気は社会的判断の結果である。
何故、こんなことを書くかというと、当パンに再演に当たってのエクスキューズが書いてあり、其処に節度を越えたことに対する詫びが書いてあるのだが、今頃言っても何ほどの意味があろうか? 共謀罪施行迄、既に5日を切った。こんな時期に言い立てること自体にどれほどの意味があるのか? 自分には甚だ疑問である。遅くとも自民党が大勝した前回の国政選挙までに言っておくべきことだろう。この辺りの政治認識のズレが、これらの作品群を子供向けの物にしている。個々の表現のレベルが低い訳ではない。謂われていることが的外れな訳でもない。唯、そこには戦って来た者のみが持つ苦味や具体的闘争を経たくすみが無いのである。その点でお子ちゃま向けという感じの遠い作品という印象を持った。表現としてそれなりの質を保持しているだけに残念である。
満足度★★★★
日本の近代作家・詩人4人の5作品をオムニバス形式の朗読+身体表現で構成した部分に、間奏感覚で挿入されたダンスと歌唱のコラボレーションが織りなすエンターテインメントと言って良いだろう。
ネタバレBOX
朗読+身体表現では(科白なし)に演じられる作品と(科白あり)で演じられる作品に別れ、多様性を目指した構造になっている。
因みに作家名と作品名は以下の通り。
1.「野ばら」小川 未明:国境に接する地点を警備する大きな国とそれより少し小さい国の、若い兵士と老兵の、勤務初期から戦争勃発直後までの人間関係を描いた、有名な作品だが、それぞれの守るモニュメントの中間に咲く野薔薇が、若い兵士の死を暗示して切ない。
2.「失敗園」太宰 治:妻が栽培している野菜たちの呟きを通じて、愚かな戦争に突入していった「軍エリート」や為政者の愚を、またその結果としての敗戦後の、戦中よりも酷い飢えを太宰らしいアイロニカルな視点で綴った掌編。
3.「蜘蛛の糸」芥川 龍之介:説明はいらないと思うが、念のため。大泥棒で殺人なども犯したカンタタは、生前たった一度だけだが無体な殺生をせず、蜘蛛を助けたことがあった。釈迦は、これに免じて地獄に落ちたカンタタに一筋の蜘蛛の糸を垂らす。銀色に輝く細い糸が血の池のカンタタの所迄降りてきたのを幸い、彼は地獄脱出を試みる。然し道のりは遠くさしものカンタタも疲れて休み、その際、下を見ると亡者どもが蜘蛛の糸をよじ登ってくるのが見えた。カンタタは思わず、彼らを拒否する言葉を吐く。するとカンタタの摑まっていた直ぐ上の所で糸が切れ、カンタタは落ちていった。
4.「よだかの星」宮沢 賢治:この作品も余りに有名な作品だから、説明の要はあるまいが、念のため。よだかは、その容姿が醜いと鳥仲間から常に苛められ、からかわれている。名前はよだかなのだが、鷹の仲間ではなくカワセミやハチドリの仲間である。だが、名前に鷹という単語が入っている為、鷹に改名を迫られ明後日の朝までに改名していない時には殺害すると脅されてしまう。悩んだよだかも始めはいつものように羽ばたきながら羽虫を捉えて食べていたが、カブトムシを飲み込んだ時、自分が生きてゆく為に他の命を奪っていることに気付き、他の命を奪って生き続けている一つの命である自分が、鷹に殺されそうになってこれだけ怯え、苦しんでいることに気付いて虫を食べることを止め、どこか遠くへ行ってしまいたい、と願い太陽や諸星に宙へ連れて行って欲しいと願を掛けるのだが、悉く拒絶されてしまった。もう意識も殆ど無くなり地上に激突して息絶えるかと思われた瞬間、彼は最後の飛翔に賭けた。真っ直ぐに上昇し、体が凍って、唯、その息ばかりが炎のように熱く吐き出される中、よだかは上も下も自分が飛んでいるのか否かも分からなくなったが、その涯に遂に自分の体が青白く燃え、カシオペア座の横に輝いているのを発見する。
今作で、よだかを演じたのは、女優の松谷 なみ。作品の持っているヴィジョンをキチンと見定め、そのヴィジョンを身体化した舞台を見せた。見事である。
5.「虔十公園林」宮沢 賢治:虔十と称され、子供たちからも良くからかわれて、少し足りないと評価されていたのが、虔十である。アメニモマケズのコンセプトを人間化したような人物と言ったら分かり易いだろう。虔十の家の土地で学校に接し、唯芝が生えていた遊休地があったのだが、虔十はある時、ここに杉を植えたいと言い出した。今迄一度も願い事をしたことの無かった虔十が、生まれて初めて望んだことだというので、父は杉の苗を買ってこの土地に植えることを許可したが、表層部は兎も角、少し深い所は粘土層で杉など育つハズが無いと周りの者は彼を馬鹿にし続けた。殊にこの土地の直ぐ横に畑を持ち農業以外にも人に言えないようなことで金を稼いでいる平二は、虔十を虚仮にして何のかんのと難癖をつけてくる。終には周りに人が居ないのを確かめ、虔十をこっぴどく殴る。神が怒って祟りを為したか、その後平二はチフスに罹って死ぬが、虔十もその十日ばかり後に亡くなってしまった。ところで、この杉林、虔十が律儀に整然と植林していたので、子供たちが大勢遊びに来ては、列を為した杉の間にできた道に固有の名前をつけ、隊列を組んでは行進するなどの遊びに使っていた。虔十没後、20年、アメリカに留学して博士号を取った人物が故郷に戻って、鉄道が通り、様々な施設などもできて様変わりしてしまった街に、尚一切変わらず子供達の遊び場となっている虔十の杉林を見、同道していた校長に虔十の名を冠したモニュメントを建て、この土地をずっと守り続けてはどうかと提案、それが実現することになるという話だ。あの時代、現代のエコロジーを先取りし、先の見えない人々に馬鹿にされた人物が実は天才であったかも知れないことを示唆することによって、下らない学力評価を見直す視点をも提示していると同時に、大衆に認められるには余りに早く新たな価値を創造してしまった天才の孤独と生を浮き彫りにしている点も見逃せない。
J-Theaterは、ベテランが若手になにくれとなくフォローをしつつ育ててゆく傾向を持っているが、今回もその面は変わらない。欲を言えば、ダンス場面でタップやフラメンコ等難易度の高いものも入れ、若いメンバーの更なるスキルアップも目指して欲しい。
満足度★★★★
ジャンヌの生きた時代から600年の年を経て、尚ジャンヌは世界中で伝説と化した存在だろう。(後程若干の追記予定)花四つ☆
ネタバレBOX
13歳で神の声を聴いた彼女は、僅か19歳でその生涯を閉じた。それも異端審問の末火刑に処せられたのである。だが、彼女の起こしたとされる奇跡によって、またイギリスに負け続けていたフランスが遂には勝利して終わった百年戦争の立役者として、時代の複雑な利害関係と王族・貴族の権謀術数に、教会の権威主義や、ジャンヌの右腕として活躍したものの、ジャンヌ亡き後は、黒魔術に走り領内の子供達を誘拐しては黒ミサの供物としたとされる名将・名君の名を恣にしたジル・ド・レーの謎に満ちた生涯も含め、彼女の周りには様々な謎と不可解が存する。無論、様々な証言にも、当時の利害得失が反映されており、その解釈も一筋縄ではゆかない。だが、これらの複雑な要素を通してもジャンヌの人気が衰えないのは、矢張り、何処かに彼女に与したくなる本質的な“もの・こと”があるからだろう。その本質を今作は、神という名に於いて示された絶対的倫理に向き合う、不完全な存在としての人間の倫理の相克そのものをその短い生涯に於いて生き抜いた少女に託して描いた。そしてこのような見方こそ、この600年の間、我らヒトが彼女の生き方に見てきたことではあるまいか? 即ち弱く不完全なヒトという生き物が、絶対善に向き合う時に抱かざるを得ない恐れや畏怖と己の身体に加えられる痛みや拷問、極刑で殺されることへの恐怖という代償を払いながら人倫の楔として打ち込んだ巨きく、深く、重い問い。人は愛を担い切ることができるか? 己を蔑み、石礫を食らわし、唾を吐きかけ、裏切り、己の親、愛する者達を奪ったとしてもなお、それらの加害者を憎まず、愛によって接することができるか? 裏切られて尚その裏切り者を信じ、己が嘘を吐かずに接することができるか? 等々の極めて厳しい倫理である。そして、このような倫理を確立できなければ、ヒトは互いの不信の果てに自らの種を滅ぼすであろう。
満足度★★★★★
当パンに書かれた主宰挨拶を読んで、ン! と思ったのだが、この予感は当たっていた。
ネタバレBOX
序盤若い者達が溜まるシャアハウスのだらだらした感じが、これでもか、という感じで続いたのだが、これも謂わばフェイクである。それはそうだろう、フェイクニュースだけを扱って本が何冊も出されている時代だ。何も詐欺は“おれおれ”ばかりではない。
今作の眼目は、このシェアハウスの物語の中に、作品展開としては新入りの女が、それまで自然発生的な流れにあった皆の人間関係の在り様をコーディネイトし始めることによって、イニシアチブを獲り、結果彼女のお気に入り以外の男を排除することによって、必然的に残った男を誰がものにするか、という女同士の戦いに発展する点にあるのだが、それ以外にピザの宅配という要素を持ち込んだり、出演者の稽古後の様子を収めたフィルムを流したり、と様々なファクターを舞台に持ち込むことで、舞台をメタ化、そのメタ化された舞台から逆照射する形で「現実」を浮き上がらせて見せる点にある。無論、ピザ宅配だって実に自然に演じられた演技であるかも知れず、現実というかファクターと芝居との境界が曖昧化されることによって、フェイクの時代に、ファクターの見えにくくなっている現実をこそ、浮かび上がらせて見せる、実にアイロニカルな批評性に富んだ舞台という見方もできる。今後、増々楽しみなコラボである。
満足度★★★★
隠れラテンの血が騒いでしまった。踊り手4人の、手・腕の精妙な動きに、大地に叩きつけるようなステップとフリルのついたスカートを巧みに使い、激しく躍動する身体を華麗に舞わせる動き、音楽は基本的にフラメンコギターと手拍子、歌唱というのも良い。
オープニングは4者協同のダンスで始まり、次に各々のソロ、休憩を挟んで残り2人のソロと最後の4者揃い踏みという構成も安定感がある。
今回は「どの踊り手もカスタネットを用いなかったが、扇を用いた踊り手が1人、扇を開く度に聞こえるシャーっと空気を切り裂くような音が緊張感を与えて新鮮であった。
フランスで暮らしてい時にジタンの祭りで娘達が踊っているのを見たことがあるが、ジタンの娘達の天性のリズム感の良さ、踊りの上手さを思い出した。
満足度★★★
番外だからという訳でも無かろうが、阿部 晴明の末裔が作った妖怪関連萬会社、怪社にトンデモナイ依頼が舞い込んだ。阿部憧れのマドンナの実家は、代々、妖怪を操れる三つの玉を管理して来たのだが、玉を守る為に張っていた結界は父の死後、その力を持つ者が絶え、遂には盗まれるに至った。3つの玉が揃えば、妖怪を好きなように操れるという評判は、権力の中枢を支配しようと画策する者、独裁を目指す者達の格好の的になりかねない危険を孕む。(追記後送)
満足度★★★★★
海に纏わる高校を卒業したこともあって、海の自由人・海賊モノは大好きである。今作、海賊の中の英雄を描く王道に則り、まつろわぬ者の代表の一人としてジョリー・ロジャーを描いているのだが、それだけに単に頭脳明晰、沈着冷静なリーダーとしてのみならず、度量の広い、義に篤い、何より精神の自由な好漢として、日の沈まぬ国との異名を取ったイギリスに対抗している点も評価したい。(追記後送)
ネタバレBOX
というのも世界史の汚点としてその政治的マキャベリズムの悪辣を刻み続けて来、現代世界にその傷跡を深く刻んで、現代の世界レベルの自爆攻撃を生む原因を創ったイギリスの、悪辣非道をも見せつけてグーなのだ。日本の盲獣共に告げておくならば、現在、そのイギリスを継承しているのはアメリカであり、そのアメリカの鼻面を押さえ、時に操っているのはイスラエルであることをも付け加えておこう。まあ、深読みは此処までにしておく。