ゴールデンバットを拝見。
昭和の頃、地方から上京して歌手を目指した女性の人生を、地下アイドルが追想するという作品だが、描き方が変わっている。実際に“憂井おびる”と名乗る地下アイドルが歌ったり踊ったりして再構築もしてゆくのである。破綻あり落胆あり、たった1度だけだが事務所に所属して大盛りカレーライスをぱくつくCMに出たこともある。そんな人生だから察しはつこう。イタイ人には痛い作品かも知れぬ。が、自分はもう入ってゆけない世界になった。故に評価は控えさせて頂く。
満足度★★★★
月が2つ見える人集まれ! ネット上にこんな内容のフレーズが踊った。半信半疑で決められた日時・場所に三々五々集まった面々。それぞれがそれぞれの事情を抱えつつ、定かならぬが、見えない糸で繋がれたかのようにぽつり、ぽつり、と各々を騙ってゆく。何か裏がある、と疑う者が現れる。新興宗教の教祖狙いの者が現れる等々幻視者に対する「真っ当」や作為が対置されつつ物語は展開してゆくのだが、問題は所謂現実家なる者達の主張することもまた我々の暮らす現実の不確かさの一環を為しているのではないか? ということなのである。その有様が、丁度炙り出しの映し出すいくらかぼんやりした不確かさの怖さとして寓意の形をとって表されている。(若干追記2017.11.28 )
ネタバレBOX
とどのつまり、アイデンティファイできない人々の孤独が偽のアイデンティティーを作り出す為の工夫。それが、今作の描いた怖さだろう。
満足度★★★★
しっかりした脚本に、演奏舞台らしい真面目で謙虚な取り組み。作品にマッチした演奏と美術、初参加の役者さんが、未だちょっと内面の深みからのレベルには、という点を除き、演技、演出も良い。殊にラストは衝撃である。(追記後送)
満足度★★★★★
舞台手前の部分がフラット。但し中央に向かって凸型にせり出しており、奥に向かってゆくに従って階段で高くなった部分、踊り場になった部分などがある。全体としては、中央にあるゴシック様式の門を中心に完全なシンメトリーだ。窓のような部分、建築物上部などには、豪奢を添える草花が這う。
女性キャストだけで演じているミュージカル劇団だが、ナルシシズムや脚本の甘えを排除して、物語の必然性をキチンと追及しようとしているシナリオの、突っ込みを入れられない訳ではないが、念も良く分かる点が良い。即ち許せる範囲内での非徹底性からは、女性らしさも滲むのだ。歌、踊りの技術の高さ、恋に身を焦がす宿命を作品に託す姿勢にも好感を持った。無論、舞台美術のセンスも良いものであるし、衣装も豪華で見栄えがする。演出も絶えず緊張感のある舞台を作り出してグー。(追記後送)
満足度★★★★★
つか作品の上演で観客を満足させることは難しい。
ネタバレBOX
スピード、テンションの高さ、そして作品の本質である差別を掴み、被差別性に屈折しながらも人としての矜りの為に、人生の難題にぶつかってゆく痛みや苦闘を、はにかみを持って過不足なく演じるのが並大抵のことではないからである。
今作、この難題に見事に応えた。銀四朗役が、大体、上記のキャラである。が、今作、この構造が2段階になっている所が、傑作の傑作たる所以だろう。小夏をも含めるジエンダー思考で行けば、一部3段階とも取れるのだ。
何れにしろ、安次の銀四朗に対する態度、そして位置が、差別される者から差別的扱いを受けつつ、掛かるが故に崇拝するというマゾヒスティックな逆転にまで達していることが、今作の構造上の強さである。無論、ズべ公扱いされる小夏が、人間の女性というより時に物として扱われている点からも、このことを指摘することは可能である。
と同時に女性に対するこのような男の態度が、一種の甘えであることも見逃せない。原作者のつかは、無論この辺りのことも分かった上で書いている訳だし、彼の心の底にある温かさやはにかみ、その柔らかな人間性を充分に作品から受け取るから、誰も文句は付けないのだ。その辺りの事情もStraydogが理解して今作を創っていることが、良く伝わる舞台であった。銀四朗役、小夏役、安次役の演技の良さは無論のことだが、監督役が階段落ち本番の号令を掛けるシーンでは、顔が締まって男の顔をしているのがとても良い。また、ポスト安次を狙った大部屋役者の演技も良かったほか、殺陣のスピード感や技術、体のキレなども良い点が印象に残った。演出的には、殺陣に始まり殺陣に終わる構成で、ファーストシーンとラストの殺陣で配役が若干変わっている点などがニクイ。音響・照明の効果などもグー。
満足度★★★★★
基本的に科白は無い。擬音や擬態を表現するオノマトペは、無論用いられているが。それも頗る効果的に。(必見。花5つ星)第一回追記2017.11.22 02:10
ネタバレBOX
身振り手振りのみならず、表情や仕草、ダンサブルな身体表現と必要最低限のインフォメーション、効果音や雰囲気作りの為の音響、楽曲などと我々の想像力で作品は紡がれてゆく。
観客がイマジネーションを最大限に、而も適確に羽ばたかせるには、大変緻密で的を射た舞台表現が為されねばならないが、Alokは、見事にそれを成し遂げてみせる。日頃の鍛錬と努力、そして感性を磨き知性を磨きありとあらゆるもの・ことを観察するのみならず、他人の仕草や物事に対する対応の仕方などから、所作やそこで生きて働く情動を学び取る姿勢がなければ、こういった表現はできない。
だが、こういった訓練をキチンとこなし、それに形が与えられると、舞台上の表現と観客の想像力が紡ぎ出す物語は科白劇を凌ぐこともあるのである。
今作で描かれているストーリーは、普通の鼠とオートマタと呼ばれる自動機械人形とが共存する世界の話だ。錬金術師の持つ能力によって魂を吹き込まれたオートマタは、愛し合ったり、子供を持つことさえ可能だ。だが、そんなオートマタと普通の鼠が共存する世界にも貧富の差があり、豊かな者はオートマタを差別した。そんな豊かな鼠の中にカギヌワが居た。彼女の財力は大したものであったが、子が無いのが彼女の最大の悩みでありコンプレックスの根源でもあった。彼女は召使たちに命じて町中から男を連れてこさせ、子作りに励んだが成功しなかった。そんな彼女が目を付けたのが、貧しいが幸せなオートマタの家族であった。彼女は召使たちに命じて、この家族の父を襲わせ拉致する。抗う父を従わせる為、戒めを解かぬまま、その眼前に彼の妻子迄拉致し・殺すと脅迫。結果、家族を守る為に抵抗することを諦めた父を自分の寝所へ連れ込み行為に及んだ。彼女は妊娠し、子を産んだ。だが、カギヌワは父をその後も監禁し続けた。生まれた子は、彼女がどんなに尽くしてもなつかなかった。食べ物でさえ、拒否されることが多かった。だが、偶々嫌々ながらも手にした林檎を持ったまま彷徨い歩く子は、あろうことか父の監禁されている場所を見付けてしまい、父とは分からぬまま、弱り切った男に何となく惹きつけられて持っていた林檎を与えた。
その後、懐かぬ子にどうしても相手になって欲しいカギヌワは食べ物を与えても食べようとしないどころか手に取ることすらしなかった子が林檎に手を伸ばして取ったことに感銘を受けた。然し我が子が手に取った林檎を食べもしないで歩いてゆくのを不審に思って後をつけてゆく。すると子は、その父が閉じ込められている場所へ出掛けて行って林檎を与えた。父は、その林檎を2つに割り、半分を子供に与え、一緒に食べる。カギヌワは子の現場を見て、修羅を燃やした。自分には決して見せたことの無い子供のそのような様子を見て、強く父を妬んだのである。父を拉致した時同様、カギヌワはまたしても錬金術師に金を与え、遂に父の魂を抜いてしまった。魂を抜かれた父はロボトミー手術を受けた者のようにすっかりインセンティブを失くし廃人と化してしまう。その抜け殻を彼の家に遺棄させたカギヌワだったが、抗議する子供と争っているうちに子に首を絞められ絶命してしまう。子は人を殺したショックから林檎を一緒に食べた男が返された家へ、男が自ら子の首に掛けてくれた形見のような意味を持つペンダントを付けたまま訪ねるが。ペンダントを見た、妻と腹違いの姉が驚きながらも家族であることを示すそのペンダントを返そうとする子を、自分達の家族と認めた。一度は妻に渡された件のペンダントは、母自らの手で再度子の首に掛けられた。それでもまた返すのを今度は姉が子の首に掛けてやる。この直後、魂を抜かれた父が立ちあがり、手を広げて歩いてゆく。
満足度★★★★
久しぶりの発条ロールシアター公演、拝見だ。
ネタバレBOX
以前はよく、閉めてしまったタイニイアリスで上演していた劇団なので自分も観に行っていたのだ。今回は番外公演と銘打ち杉並車庫前のビルのB1にあるアトラクターズスタジオでの公演である。タイトルも穴があって地下のイメージだし、移転後のタイニイアリスも地下にあった、アトラクターズスタジオも地下だ。妙な符号があるのは偶然だろうか?
何れにせよ、何となくアングラの流れも持っている劇団の公演であるから、不条理演劇的表現が挿入されているシーンもあり、既に初老の方々には懐かしいシーンと言えようし、若い方々には新鮮に映るだろう。
ただ、自分に若干気になったのは、まあ、舞台とは「嘘」の世界だという演ずる側と観る側の約束事があって成り立っている以上、そういう書割の中で組まれた仮想現実内の約束事は守らねばならないのではないか? という点であった。作。演の方に伺ったら、自分が齟齬を感じたシーンはイメージとして作っているということであったが、それが観客にキチンと伝わらないとそうは見えない。運送屋さん(鈴木さん役)に溜息でもつかせて「こんなに疲れる再配では夢と現実の境目すら・・・」と眠らせるシーンを瞬間的に儲けるとか、あくびをしている所に、配達先のコノシロさんにピンスポを当てて「あんなに疲れていちゃ白日夢でも見そう」のような科白を吐かせるとか、兎に角エッジを立てる必要があるように思う。
面白いのは実父であるコノシロが、実の娘である新子に対してシンコサンと呼んでいる点である。この言い方に離婚していないが、女房から半分だけ愛想をつかされている、実はナイーブなコノシロの性格が見えてくる。
物語の隠れた中心である鯵ヶ沢に纏わる穴掘りが、徳川の埋蔵金に関連ずけられ、コノシロの書いた嘘メモを真実かも知れないと半信半疑ながら、アプローチを掛けてくるスズキも現実的な人間の欲を示していて興味深い。
反抗期の新子も、そんなにラディカルな反抗は見せないが、如何にも女子高生らしい、感覚が表現されていてグー。
大家が現れるタイミングが、今作を喜劇として纏めている点でも楽しめる。アトラクターズスタジオの使い方にも驚いた。此処までこのスタジオで表現できるとは! という驚きであったが、それには、無論、舞台美術の工夫も大きく関与している。
タイトルが持つ複数の意味についてはくどくど述べないが、自分は少なくともトリプルミーニングだとは思う。
満足度★★★★★
鯨は起きていないと死んでしまうから、
ネタバレBOX
右脳と左脳を半分づつ使って生涯、起きている。そんな鯨のどちらの脳が起きている時が現実で、どちらの脳が寝ている時が夢なのか? その境界領域が在るのか無いのか、鯨ならぬ我々ヒトには類推するしかないのではないか? その半生を鯨への共感と共に意識的に歩んできた筆者が、沖縄名護、宮城鮎川、レンバダ島ラマレラ、和歌山太地を総括する作品。無論、沖縄では、普天間から辺野古への200年耐久の「米軍基地移設」という名の二重植民地化固定策動に嫌も応もなく関わらざるを得ない沖縄民衆の複雑な利害や思い、日本政府による新たな琉球処分問題などが、それと理解できる形でキチンと提示されると同時に、先に挙げたような生命体としての鯨の生存様態とその高い知的能力に関しての人間の勝手な解釈などの曖昧性を利用した、地球は誰のものか? に関する問いを孕んで物語は展開する。
鯨の話と並行して辺野古に海に生息していたとされる3体のジュゴンを含めての話では、地球環境破壊のメルクマールとして、またマーメイドのモデルとされるその知られざる生態に関わる夢として、更にはあらゆる生命の母、海の象徴とし、海の男に現れるニライカナイからの使いとして、夢と現のたおやかな繋ぎ手としての女性も描かれている。
そのことと、命を的に漁る漁師と鯨の戦いと漁価、浜に集まる女たち、そしてこれら総ての要素によって構成される持続可能な社会体制が提示され、その危機が描かれると同時に、終末時計を観客が自分の想像の中に設定するなら、目前に迫った終末をも同時に見ることができる。その上で、今作は、ディストピアを如何に生き延びるか? その方向を示して幕を閉じる。坂手氏渾身の作、必見!
満足度★★★★★
ちょっと変わったレイアウトである。
ネタバレBOX
板を客席がLを90°左旋回した形で囲んでいるのだ。一段高くなった中央には、正面と上手側にソファが設えられ、どちらからも使い勝手の良い位置にテーブルが据えられている。この応接間の奥には欄間に透かし彫りを施した上に障子にも対角線上に矢張り透かし彫りを施した優雅な拵え。無論、障子の透かし彫り、意匠は異なる。応接間の左右に延びた奥の間へ通じる障子の手前には、地面の高さにフラットな空間がある。また、応接間へ通じるアプローチは、劇場入り口へ斜めに伸びて赤く彩られた通路を際立たせている。
さて、このかなり豪華な家屋の設定は何を意味するのだろう? 一瞬タイトルに戻ってみよう。チェーホフのもじりであることは明らかなこのタイトルの下、この豪勢な屋敷の意味する物は、政治家の家である。それなりのエリートという訳だ。(言っておくが今作で描かれている政治家は、現在、日本を牛耳っている下司共とは一線を画している)
その上で、政治家一家の用いる言葉、或いは言葉を用いた会話・対話とその家に嫁いだ庶民感覚を持った嫁との言語のコノタシオンの相違によるぎくしゃく、ギャップによる現実解釈の相違に至る意味深長を巧みに描いて、チェーホフの世相観察に迫るものがある。
以上のことから当然に、政治家とその秘書との間に展開する権謀術数、スキャンダルを利用しての画策は当然のこととして、それが事件化するか否かの瀬戸際で、家族それぞれ、また使用人たちの態度に、リアリティーが感じられる所に今作の作家の才能を見ることができる。休止などせずに突っ走って貰いたい。
満足度★★★★★
チュウニ病という言葉がどこからどのように出て来たのか、自分は良く知らない。
ネタバレBOX
その定義も知らない。だが、今作がそのチュウニ病と言う単語のコンセプトによって創られているのであれば、それは草莽と近かろう。現代日本では絶滅した精神である。結果、世の中は下司ばかりになり、下司が大手を振って歩いている。これも思考する頭脳と恥を知る心を失い、金と金に繋がる効率だけを求めてひた走り、より根本的で大切なもの・ことを切り捨てて恥じない厚顔無恥と無思考の為せる業だ。
そんなアホなポピュリズムとエポケーの時代に物申し、正鵠を射ている為にこそ、排斥の憂き目に遭っているのが、チュウニ病と名指される精神活動なのではないか? だとすれば、そのような精神活動はより活発にして誇るべきであり、断じて照れたり、自嘲して見せるべきもの・ことでもない。
但し、より高き者は、憐みをも持つべきではある。あらゆる生物に於いて、各個体はその能力に差を持つ、優れた者は、生得的能力によって他を凌ぎやすいのである。但し、例えば先天的に有利な者であっても、努力を怠るとか、他のそれほど先天的能力に恵まれない者が努力し続けることによって生得的に勝る者を追い抜くことが起こるし、起こり得ることを実際に目の当たりにしてきた者は多かろう。それが現実の世の中である。
今作が描いているのは、実際の世の中で理不尽な死を遂げた者が、その理不尽を糺そうと、己を常に陰に置きながら、現実社会で起きる様々な理不尽を少しでも減らし、何時の日か、人々が理不尽な思いをしないでも済むような世界へ向けて、一つ一つの理不尽を清算してゆくことである。表現形態は結構擬古典的でちょっとゴシックロマン的な調子を感じる人もいるかも知れないが、寧ろ、ギリシャ・ローマ的、キリスト教神秘主義的な要素が多い。例えば、ミッションのコードネームの付け方にしてもラビリンスは、無論ミノタウルスやアリアドネの糸を想起させるし、フェニックスとは、ポイニクスを指しギリシャにもその名を知られたエチオピア生まれの霊鳥、更に666の数字はキリスト教神秘主義で聖なる数とされている。神が6日で世界を創造したこと、その約数、1・2・3は足しても掛けても6になること、逆に2で割り3で割ると物事の基本単位である1が生まれること、引くと、∞を回帰する零という有とは別次元の概念を生むことなどから聖なる数とされたのである。オーメンで主人公の誕生日が6月6日6時とされるのも、サタントリスメジストはこの時に生まれるとされるからである。
まあ、若い人々は、ゲームやアニメでこういったギリシャ・ローマ由来、或いはキリスト教由来の知識を援用したキャラ作りやコンセプトから、ある程度、今作のそれらをイメージできようし、我々のような年代は、ギリシャ・ローマからキリスト教、ペルシャ、ケルト神話、アニミズム研究を含む民俗学、クルアーンなどは読んでいて当たり前なので簡単に類推できよう。お勧めである。
満足度★★★★
火葬場には、野々村家親族、北見家親族が、係りの者に案内されてやってくる。霊前で各々が手を合わせた後、捌けると何やらお遍路さんのような扮装の初老の男2人が登場、上手奥に見事に咲いた桜を眺めて桜談義に花を咲かせている。(追記後送)
ネタバレBOX
あれこれ話すうちに、三途の川を渡る渡し賃の六文に触れることで、彼らが既に亡くなっていることが決定的になる。つまり、これから火葬に付される当人たちなのである。火加減が自分達に与える苦痛に関しても話をしていたりと笑わせながら物語は進んでゆくのだが、片や脳梗塞で亡くなった地元高校野球部の監督、片や娘と行きつけのビデオ屋の店長だけが来ている髭のおっさん。親族の集まり方が対照的な2人の火葬だが、監督の母は認知症をわずらっった為か、この2人の霊が見え、話をすることもできる。
監督は、育てた生徒たちが初めて甲子園の土を踏み、1回戦で敗れたものの、終盤、5点差を1点差迄追い上げ、次の機会に希望を残した。髭のおっさんは腹上死、親子ほど年の離れた彼女との恋の果てであった。娘は、この恋人に嫉妬、霊と交信できるお婆さんの計らいで火葬場に現れた恋人に冷たい仕打ちをするが・・・。
満足度★★★★
カラッとした作りになっている。花四つ星。{明日(13日・月)が楽だが、終演後若干の追記あり}
ネタバレBOX
ウッディーシアター中目黒というのは、ちょっと変わった舞台構造になっているのだが、正面舞台の左側、歌舞伎で言えば花道の根本辺りにあるスッポンの辺り迄がL字を時計回りに90度回転させたような作りになっている。ちょっと型破りなのは、場転の度に、このL字の短辺を用いて演技をし、その間に正面の家具、丁度等を入れ替えて舞台転換をしている点だ。時間はごく短い。その間に、地元スーパーAAA(スリーA)事務室から喫茶店、或いは、小池家などへ見事に場転が行われ、散々動き回っているハズの出演者もいるだろうに、息が上がっていないことである。(これらの早業は、この劇団の隠れた特色で案外隠れファンが居るかもしれないが)
前置きはこれくらいにしておこう。世の中には、不思議なことがたくさんあるものだが、そのうちの一つに超古代文明期に、当時の人間の技とは思えない技術を用いた様々な建築物が作られていたり、機械・機器などの製造物が出土したりしていることについての謎である。といった具合に最初の暗転の際、スッポン部分に以上のような具体例が写真などで映写されるのだ。登場するエイリアンは1人。数十年前に不時着したUFO乗組員唯一の生き残りである。
筋に関して:AAAは、大手スーパーが、近所の駅近に大型スーパーが進出してきた為、本店ともう1つの支店の黒字とは対照的に既に赤字続きである。この赤字を1か月以内に克服する具体的なヴィジョンを1か月以内に提示できない限り、この店舗は閉めざるを得ない。父である社長に呼ばれた店長はこんなにシビアな状態を告げられ、宣告された。何としても起死回生の一手を打たなければならない。それも1か月以内でだ。店長はすぐさま、主任たちに非常呼集を掛け、会議を開く。その会議で出された最も有力な案は、枢要なスタッフだけでなく、関わりのある就業者全員から、意見を募ろうというものであった。その合理的な提案に、中々賢い店長は応じた。様々な案が出されるがどれも決定打とはなり得ていない。その中で、若いスタッフが意見を出した。その案とは、このスーパーのダメ社員、小池さんが作ったメンチカツを販売することであった。大型スーパーにはなく、惣菜コーナーを設ける為の大がかりな店舗改築やスタッフ増員、コーナー設置等々の問題も大きくないこの提案に反対する主任も居たのだが、兎に角、他に名案がない以上、チャレンジしてみようという話になり、小池さんがその任を負うことになった。然し乍ら、彼はその受け身な性格を女房に嫌われた挙句出てゆかれ、今、娘にも愛想を尽かされてただ独り、悶々としていたばかりではなく、地球人をサンプルとして持ち帰り、研究資料にしようとしている宇宙人と彼らの星に行く契約をしていた。もっと悪いことに、娘は街のごろつきにひょんなことから丸め込まれヤサグレてあわや風俗に売られる危険を孕んでいた。偶々、娘の同級生が、ごろつきの舎弟だったのだが、そして彼女を兄貴分に紹介することになってしまっていたのだが、彼女を命懸けで庇った。散々焼きを入れられても自分の命を張って彼女を守ったお蔭で、未だ売られずに済んでいた。
ここから先は、本日、楽日の公演をご覧頂きたい。楽しめる作品である。
12月9日マチネに伺ったのだが、強風の為、テントが使えず、演者達は、観客の安全を優先、
苦渋の決断を下した。悔しかっただろう。それで、その後の公演が上手く開催できるか否か
危ぶんでいたのだが、こりっちのコメントを見ると、どうやら大丈夫だったようで安心した。
代わりに演じられたのが「ズタボロ一代記」これは、観客はテント外で、拓馬が、丁度、テントと観客との境界領域で演じた芝居であった。あの状況の中で、皆良く耐え、頑張った。褒めて遣わす!
なお、今回、拝見した作品は、予定作ではない為、敢えて星評価はしない。ただ、スタッフ、出演者たちに、改めて「ありがとう」の言葉を送る。
ところで、今までおぼんろを拝見してきた経験から、この劇団の作品は、お勧めである。
満足度★★★★
謂わずと知れたシェイクスピアが、トロイ戦争を扱った大作だ。これだけの出演者をキチンと纏め上げること自体が大変な作業だが、流石に明治大学シェイクスピアプロジェクト、良く纏めている。
ネタバレBOX
出演者は全員、現役の学生さんだから、老け役などは、演ずるのが難しいという点はあるにせよ、皆良く役どころを考えて演じており、清々しい感じが観ている観客にも伝わって良い雰囲気で観劇できる。演出、衣装、舞台美術、照明、音響それら総てが一つになって舞台を盛り上げてゆく。主役二人の純愛が、裏切りに変わる展開や、圧倒的な力の前にただ独り生き抜いてゆかねばならぬ女性の選択をジェンダー的視点から眺めてみるのも面白かろう。また、狂言回しや話の腰を折り、茶化す召し使いたちの言動が、シェイクスピアの抱えていた苦い現実認識を影のようにつかず離れずに伝えてくる点も、これはシェイクスピアの手柄であろうが脚本術として素晴らしい。
更に、ホメーロスの描いた「イーリアス」での記述と今作のヘクトール対アキレウスの戦いの模様が全く異なる点にも注意を向けたい。今作で、ヘクトールは、倫理的にも非常に気高いトロイ方の英雄として描かれているが、アキレウスは極めて強いが激情的で人格も劣り、欲望に翻弄される俗物であり、同時に一種の卑怯者として描かれている。ここにシェイクスピアの、現実世界に対するアイロニーが込められているように感じるのは自分だけだろうか? 最後のシーンでも嘆きが聴かれるが、今作のうちに何度も聞かれるこの嘆きこそ、トロイの悲劇を通じて描かれた、世の中の強者(即ち人々の欲望に掉さす狡猾と力)支配に対する真っ当な人間の魂が呻くように呟くアイロニーではなかったか?
クレシダの豹変を如何に解釈するか? という点と最後に挙げた点2点を良く表現している。
満足度★★★
うーむ。人間というこの厄介な生き物の掘り下げがイマイチか?
ネタバレBOX
然しながら序盤、結構、治験の見返りに報酬を受けていたりなど、実際にあることも、散見。
その中で笑わせてはくれる。肩の凝らない喜劇に仕上がった。
満足度★★★★★
必見! 花5つ☆。もう流石というしかない。いつもスパイラルムーンの芝居の素晴らしさには感心させられるのだが、常打ち小屋でない為、多くの苦労があったハズであるにも関わらず、脚本の良さを実に深く読み込んで細かい点にまで配慮の行き届いた演出は流石である。
キャスティングも良い。何より、こういう演目を選んでくる所に鑑識眼の確かさを感じる。久しぶりに上品な日本語の対話を楽しんだ。(追記2017.11.12)
ネタバレBOX
森本 薫22歳時の作品、1934年作だ。約60分と尺は短いが、実に濃密でスリリング、而も品のある作品である。伏線の敷き方が尋常ではない。高学歴女子の常として、炊事、洗濯、掃除等が苦手という理屈が通る現代とは異なり、大正ロマンティシズムやリベラリズムの残滓が残るとはいえ、まだまだ、女子は結婚して、子供を産み育てるのが当たり前とされていた時代、理化学研究所に入ろうとしていた研究者肌のあさ子、24歳(当時のことだからかずえだろう。現在なら23歳である)にもなって、結婚よりは、研究! に情熱を燃やすあさ子の縁談を考えてやらなければと思っている母、真紀。あさ子の幼馴染の文学青年、収。そして、あさ子の友人の兄で医者の弘。これが、前提である。
さて、あさ子は、天真爛漫、だが恋愛を考えない訳ではない証拠に、理研への就職を母の反対で諦めて以降、娘の嗜みとして覚えておかねばならぬ裁縫、ピアノなどの他できれば華道、茶道といった習い事に精を出さねばいならないのに、人形を作ってその人形に着せる着物ばかり縫っている。おまけに袂を縫わせれば、袖口迄縫ってしまうというような、可愛らしい失敗をする。それを咎められると、ちょっと気の利いた返答をすかさず切り替えしてくるので、中々一般常識と捉えられていることも押し付けることができない。
そんなあさ子に好意を持っている収は、どうしても好意を行動に変えることができない受け身の青年である。而も潰しの利かない文学青年だ。そんな収の心を読み取って、真紀は、彼に尋ねる。他の人を彼女に娶せて良いか否かを。収は、この時点でも行動に移すことができなかった。真紀は、十程年嵩だが、中々の好青年である弘とあさ子を娶せることにした。
結果、弘が訪ねてくる。あさ子と真紀が席を外している隙に弘と収の間で、あさ子を娶るのがどちらかについての談義が交わされるのだが、この静かだが、緊迫そのものの対話が凄い。人間存在の総てと誇りを掛けて話された内容については、紳士協定として守ることを互いに誓うのだが、この道程が、実に見事で品のある日本語でその本質であるギリギリの折衝を包んでいる為に、紳士協定であることが納得されるという形で観客に伝わるのだ。更に結婚の話が纏まった後、あさ子の揺れる娘心が表現されている点も見逃せない。
満足度★★★
幼くして亡くなった娘の1周忌を翌日に控えて、親族や縁の深い人々が、思い出の場所に集った。かつてあった山小屋は火事で焼失していたが、その焼け跡で。(追記後送)
ネタバレBOX
肝は、亡くなった子の母と父の、子に対する距離感の相違からくる態度、対応の齟齬による行き違いである。
満足度★★★★
弁護士、会計士、司法書士、行政書士など所謂士業にありがちなちょっと上品な所で纏めてはいるものの、実際にこれら士業の扱う案件は様々。(追記後送)
ネタバレBOX
弁護士などの中には暴力団の顧問弁護士もいるから、彼らのやっていることは、如何に法の抜け穴を利用するかくらいなことであり、それで自家用飛行機なども所有していたのだから随分なものである。ところで、今作の主役は行政書士、それもLGBTのG、つまりゲイの行政書士である。ゲイということもあり、カミングアウトはしていなかったのだが、いい年をして結婚もせず、子供も居ないことから、事務所のリストラ候補筆頭クラスに上がっていた。同じ事務所の司法書士資格を持つ女性から、このことを指摘され現在受けている案件を外注扱いにしてもらい独立して共同の事務所を開こう、という話に乗って独立してからの顛末が今作の内容だ。士業としての模範的な出来ではある。行儀が良いのである。
満足度★★★★★
大きなパテーションが正面奥に1枚、若干の間を空けて左右のパテーションは片仮名のハの字になるような感じで設えられている。内容的にはロードムービーならぬロードシアターだ。ちょっと変わったタイトルだが、このタイトルの不思議な感覚が中盤までずっとシュールな作り方として機能してゆく。(追記後送)
満足度★★★★★
中盤から終盤にかけての展開で心理学者、動物学者、旅行評論家などのコメンテーターが様々な角度からのアプローチが興味深い。(追記後送)