満足度★★★★★
第2部開始は13分後、渡辺作品に出演した女優の三田 和代、銀粉 蝶、女優兼劇作家、桑原 裕子の3人を檀上に、演劇論、俳優術、総合芸術である演劇に於ける演出家、脚本、役者の関係等々活発で示唆に富んだ対話が為されると同時に、当に当事者ならではの発想、視座、経験から生まれる発言からは、ハッとさせられるような深い知見がいくつも発見できる頗る有意義な催しであった。
また、渡辺の若い頃、鶴屋南北賞を受賞した桑原の若い頃の演劇との向き合い方についても、本物の才能を持つ者達の共通項が見て取れるなど、様々な収穫があり、1,2部合わせても僅か数時間の催しとは思えない程の収穫があったことは、観客として極めて喜ばしいことであった。
満足度★★★★★
第一部「劇作の力-渡辺えりに聞く」:渡辺 えりの劇作家協会会長就任と彼女の主宰する劇団オフィス3○○(現在名)の40周年記念を祝し丸尾 聡氏がインタビュアーを務めて、劇団の歴史をその秘話と共に語る。劇団がこの40年間に上演してきた総ての作品のフライヤーの写真を背景に1作、1作について渡辺がその思い出や、裏話を語るという形式で基本的な流れが作られ、撮影も入っていないことから、オフレコ話も存分に出て極めて楽しめるイベントになった。当然、話は伯仲し、予定の時間を越えてしまったが、貴重な話に観客の誰一人不満を漏らすこともなく第1部を終了。
満足度★★★
頭は身体の一部である。(伸び代に期待して☆をつけた)
ネタバレBOX
即ち、身体の健康が頭の働きを保障するのであってその逆ではない。かつての自分がそうであったように若者は時として、この点をなおざりにしがちである。若いということは多くの場合、その人の一生で最も健やかで活力に満ちている時期であり、世間知に疎い若者が経験豊かな大人達に対抗するには、理論武装以外にないのであるから、これもまた仕方の無いことかも知れないが、演劇に関わる者は、これをなおざりにしてはならない。
今作でも、身体についての問いが内包されているのであるが、この問いが問う内実とは実際何なのかを知るには、個々の役者それそれが、己の身体を己自身で問い詰め、形象化する努力が不可欠である。演出家は、このように形象化された役者達の身体を脚本の要求するものを参考にしつつ整序し、照明や音響効果を最大限に活かしながら相互の関係を美や作品の訴えかけるもの・ことに集約してゆくことが必要になる。
然し、今回拝見した限りでは、未だ作品のコンセプトを煮詰め切れておらず、それ故に言語表象自体が曖昧で作品として具体化する為には練り直しが必要と見受けられた。今後更に進化し続けてゆく為には己の内に他者性を確保すること、即ち己を対象化し得る視座を持つことが必要である。プロの表現者たらんと欲すれば、自己を三人称で語ることができることが条件となるからである。と同時に常に己の内面に耳を傾け、その発するもの・ことを取り込むと共に、世界の種々相にも自らの精神を開いていて欲しい。
今作にも描かれていたが、入管法の抱える諸問題(移民や難民、諸外国人殊に有色人種に対する差別とアメリカ人に対する諂いを含めて、日本人の他人種に対する偏向問題も、そして偏向から来る差別に対する是正も必要なことは言うまでもない。今作では、この問題に対する“問い”がキチンと投げ掛けられていたことは評価に値する。無論、ジェンダーを含めてである。作・演出は同じ方がやっているが、他人の意見をキチンと聞く態度は、今後伸びる為にとても大切なことだ。常に謙虚に、そして理性的に自他を見つめ更に成長して頂きたい。
満足度★★★★★
カクトニべシミル!!(華5つ☆)
兎に角、登場する人物たちの粒がデカい。チンケ極まる現代日本人の己の身の周り数メートルの想像力とアリバイ作りに汲々とする世界などアット言う間に吹き飛ばすことができる力を持ちながら、限りなく優しく同時に人として生き抜く為に己の命を的に掛けて生きる姿の何という輝きだろうか!?(追記第一弾 8.4)
ネタバレBOX
アナクロ狂犬グループと自分が評価してきた新選組後日譚という体裁を取っているが、今作日本近代とは何だったかを問う内容になっている。殊に、勝、西郷、龍馬、新門辰五郎、その娘・芳、辰五郎の腹心丑松、勤王の志士を匿う京芸嬉・菊松、人斬りと懼れられた以蔵、大奥を牛耳る天璋院と静寛院宮、勝の密命を担って西郷との会談のお膳立てを受けた山岡 鉄舟、新選組リーダーとしての人間性を見せる近藤 勇に対し、鬼と恐れられた一面合理的な土方、新選組三番隊トップだった斎藤 一、そして土方と共に五稜郭で戦いその最後にも彼と同様官軍と戦い生き残った島田 魁を始めとする面々、が荒れに荒れた幕末の京都を舞台とし丁度干支が一巡りする12年後との交錯の中で激動を人間らしく生きる登場人物達の生き様、死に様を活写して見事である。殊に勝 海舟や西郷 隆盛、坂本 龍馬や山岡 鉄舟ら現代にも名を残す偉人ばかりでなく、女の意地を女性らしいやり方で貫くお芳が、勝の頼みで京都から合戦の途中で逃げ帰り幕府軍総崩れとなる大きな原因を作った慶喜の助命嘆願の為に天璋院及び静寛院宮2人に出身である江戸庶民の言葉で啖呵を切るシーン、同じく菊松が土方 歳三との言い争いで見せた覚悟の見事さ等々、女性陣の活躍も男性陣のそれと同等の重みで創られている点が作品全体を現代的な我々の生に繋げても居る。
満足度★★★★★
日本と台湾の劇団の共同企画公演という珍しい組み合わせだ。(追記後送)
ネタバレBOX
舞台は、台北のしょぼいマンションの1室。引っ越して来た直後のように段ボールだの、様々な塵などが部屋中に散らばっている。弟がそれらを片付けている所へ、日本から兄がやってくる。この部屋で倒れ、孤独死していた父の葬儀で出会って以来である。弟はマッサージ師。ひょんなことで兄のマッサージをし、以来恋仲になっていたが、長年生き別れになって居た為、兄弟であることを知らずにそのような関係になった可能性が大である。因みにこの関係ができるまで、兄はヘテロとして生きてきて、妻子もあるのだが、偶然弟とできてしまってから、目覚めてしまったのである。弟はゲイであった。
この2人にこのマンションオーナーの代理人、トランスジェンダーのサルサが絡んで物語は展開する。この展開だけで察しの良い人には3人の関係が見えるだろう。
満足度★★★★★
村では豊穣と富と引き換えに在る家系の幼子を山神に捧げる風習があった。(ネタバレ追記後送。踊りもアクションもダンスの振り付けもグー)
ネタバレBOX
だが、親も人の子、如何にしきたりとはいえ我が子が可愛くない親は無い。ある代で子を守る為、村の掟に逆らった者があった。だが、村人たちはこの一家を許すはずもなく、子を浚い、乳飲み子を抱えて逃げた母、兄をも殺し家に火をつけ焼き払った。戦って家族を逃そうとした父も多勢に無勢、倒れてしまった。
時が流れ、ここは香港の一角にある人形店。ここで売られている人形は皆人間そっくり、本物の人間がこれらの人形に恋してしまうほどの見事な出来のものばかりである。だが、これらの人形の数は少なく、不良品として商いの対象として扱われない1体を除くと4体のみが現在店に置かれている総てである。当然頗る高い。だが、人形たちには心もあり、思考もあるのに、どういう訳か記憶が曖昧で自分達が何処から来て、今この店に居るのかはどの人形にも分からない。
ところで、この人形たちの記憶障害には訳があった。
満足度★★★★★
台風の中を押して出掛けても損の無い作品であるどころか、得をした気持ちになって帰ることが出来よう。(必見華5つ☆)裏バージョン追加2018.7.28
ネタバレBOX
シリア内戦を、経験する中で、其処に我々と同じように暮らし、生き、喜び、哀しむ人々が、矢張り居るという当たり前のことを当たり前のこととして評価する目を持ち、共に明日を見たいと望む隣人として武器を持たぬ弱い人々の傍らに立ち、彼らの日常とそれらを恐怖のどん底に落とした内戦の実態を世界中の同胞に伝え、悲惨を1日も早く終わらせる“夢”を少しでも現実化すべく、命を懸け現地情報を送り届けようと健闘していた日本人フリージャーナリストが反政府勢力に捕縛された。例によって自己責任バッシングが巻き起こった。現在も彼は拘束されたままだ。実は、今作のモデルは知り合いである。だから、固唾を呑んで拝見していた。多くのことが、他のフリーのジャーナリストから訊いた話と符号し、リアリティーが増々高まる中で観劇させて頂いた。モデルになった男は、実に優しい極めて使命感の強い勇気のある男である。実際、本当に報じられねばならないような現場に行くのはフリージャーナリストである。それは、大手メディアに属するジャーナリストは今作に描かれたような事情を抱えると同時に他にも組織から現地派遣を指せないような力が働くからである。
一方、今作の素晴らしい点は、それこそ、貧しさからネットカフェ難民化しかねないほど貧しい若者の実態を、現代日本の嘘と詭弁及び人間性無視の企業論理と国策を細かくはあげつらわず非力の象徴として提示、訳の分からない力によって解体され単一の細胞の総体として己の存在領域と世界との接線をトータライズして峻別し、以て外界と内を峻別する機会を失ったザインとして自己規定する若者の境界域の曖昧さから世界認識への広がりの可能性を導き出し、それを解釈の違いとしてジャーナリストが世界により深く関与する共通項に纏め上げた筆者の力と想像力である。こんな言い方が分かり難い方は、是非、作品を観て欲しい。
以下 追加(裏バージョン)
2つの対象に対する、自己責任云々。対象の1つはフリーのジャーナリスト。もう一つは、貧しい若者だ。丁度イラク戦争という愚挙が敢行された2003年以降、アメリカの愚挙に諸手を上げて賛成、軍隊をイラクに派遣した小泉らの愚行は、それまで日本人に対して絶対的な信頼を寄せてきた中東の雰囲気を大きく変えた。その結果、イラクの子供を中心に人道支援をしていた女性、イラク戦に疑問を感じた若者、そしてフリーのカメラマンらが現地で人質に取られた。彼らを救出する為に税金を使うのか? と焚きつけられた日本人の多くが、国策によって流されたプロパガンダに乗っかって自己責任という名のバッシングを繰り返した。何とかの一つ覚えで叫び出したこの時がきっかけだったのだろう。以後、現在でもこの言葉と、日本人個々の真っ当な倫理が欠如した態度をカムフラージュする便利なアイテムとしてこの単語が重用されている。要は、食物連鎖最上位に位置する人間という概念を持たず、その責任を自覚することも無いまま、即ち人間性という概念を自分達の力では決して造り上げることもできなければ、保守もしてこなかった剽窃家日本人の本性が見苦しいまでに繰り返されたことを思い出す方も多かろう。自己責任バッシングの酷かったこと。この現象を傍目からみれば、自分の頭を使って物を考える習慣を持つ人々から如何に奇妙に見えるかは想像に難くないのだが、殆どの日本人に分からない。何故なら自分自身の置かれ育った環境を相対化して見る目を持たないからだ。このことは、思考の範囲と限界を明確に定めてしまう。即ち自分の育ってきた状況と自己存在の関わりを自然なものとして己の根拠にしてしまうという極めて幼稚な過ちを犯すのである。無論、総ての意識的存在にとって己が体験して来た“自己という存在と世界との関係”は極めて自然なものとして初期の自己形成の中心となる。然し思春期をキチンと生き、己を深く穿った者には、この段階から抜け出ていないことは極めてプリミティブであるのも事実だ。今作で自己責任を追及される側の代表として描かれるフリージャーナリストと貧しい若者が、深く自分を穿つことによって、自己という存在を成り立たせているものが、如何に幽けきものであるかを発見した後、己の境と世界の接線に於ける境界領域の曖昧さに気付き、互いの解釈は異なるものの世界と己の相互嵌入を通して通じ合っているのは、双方がこの第1次自己同一性の自然発生性を対象化している所からくる。少なくとも現代日本で大人である資格の一つが、このイニシエーションを己の力で乗り越えて来たか否かに掛かっているということこそ、真っ当な己の世界に対する責任なのである。だから、例え、このレベルに達していない人を見つけたとして、他人がとやかく言うべき事柄ではなく、やんわり諭すか、乗り越えるヒントを与え、実践の場を用意してやるくらいが関の山であってバッシングするなど、己の恥と知るべきなのである。
が、このように考え得る暇も与えないのが日本社会の特性である。つまり自分が無いのだ。他人の眼ばかり気に掛けアリバイ作りに汲々とするあまり、肝心肝要なことをなおざりにし、恬として恥じない恥知らず。これが日本人の正体である。何と非人間的な人種であろうか?
満足度★★★★
かなりアイロニカルな作品だ。
ネタバレBOX
初めから最後まで最も冷静に事態の成り行きを見つめ続けているのは、檻の中で暮らすクズ子だし、クズ子がクズであるのは、無能の為ではないことは明らかである。彼女がクズとして己を認識し、且つ最底辺から世の中を見ているのは単に彼女が国家という近代以降の幻想にケツを捲り反逆しているからに過ぎない。一方、エリートとされる者らは、国家幻想に踊らされている事にも気付かぬ愚物である。先ずはこの前提から入らないとおかしな話になってしまうであろう。
物語が展開するのは、かつて刑務所だった建物を現医院長が改装させ、今では精神病院として用いている建物の中である。この建物は現在ドドイツ軍とカルタ軍の戦闘が行われている最前線に位置しているので、年中、銃砲撃や戦闘機・爆撃機の飛翔音、爆弾の炸裂する音等が聞こえてくる。
近代戦であるから、戦争の大義が問われる。戦争の発端にもこの論理は当然働くが、人口に膾炙しているのとは異なる事実がこの戦争にはあった模様だ。今作は、この事件を巡る因縁話でもあるが、無論総ての戦争に通じる部分も多い。各キャラクターの名は、その役割を象徴するものが多いのも今作の特徴だ。クズ子以外で冷静な視点を保っているのが、シンクである。彼女は、この戦争の真の発端となったと言われる大虐殺の唯一の生き残りとして描かれる。
物語は、ドドイツ国の捕虜が、収容施設不足でこの精神病院に収容されたことから、急展開し、有為転変があるのだが、要は、戦争を遂行する軍人の論理と。感受性が鋭かったり精神の受忍限度を超えるような体験をして通常の精神の働きを逸してしまった者達の論理との対決である。どちらの論理が正しいとされるかは観てのお楽しみだが、精神病院から解放された後、将軍となったレッドが休戦協定を結んだにも拘わらず、1年後には、戦争遂行勢力の力が強まり、結局、レッドは、また病院に戻ってくるというラストに集約されている。このラストでどちらが正解かは、お分かりだろう。そしてヒトという生き物の愚かさも。
満足度★★★★★
1923年9月1日11時58分、関東大震災が日本を襲った。
ネタバレBOX
その日は風が強く、而も昼食の準備などで火を用いていた家庭も多かった為、地震による災害のみならず、燃え広がる大火災によって被害が拡大したことは知られる通りである。この震災及び大火災のパニックの中で、デマが飛び交い、軍、警察までがこれを信じ行動を起こすと共に後ポダムの暗号名を持ちCIAエージェントとして暗躍した正力松太郎(当時は内務官僚、特高などを動かした)らが出した指令により、多くの朝鮮人、中国人らが虐殺の憂き目を見た。(後日、これが過ちだと気付いた正力は、訂正した指令を出すが、既に広まったデマの猛威を払拭することは適わず虐殺は震災後数日に亘って実行された、この混乱に乗じて労働運動に関わった者らも政治的に殺害されている)殺害に加わった者達に軍人、警察官らが居たことは無論であるが、組織された自警団のメンバーら一般市民も数多く関与していた。この事実を揉み消そうとする輩は、今も大勢存在するし、当時から、事実を矮小化し、抹消、改竄、隠蔽しようという動きはあった。
今作は、加藤 直樹氏の原作を手に、虐殺事件があった場所を訪ない、現在と往時とを繋ぎ掘り下げ連結する試みである。日本という「国」が、近代以降歩んできた道の検証作業であると同時に、日本及び日本人が持つ傾向についての、虐殺された方々への追悼の行脚を通しての掘り起し作業でもある。今作によって明らかにされる日本及び日本人の持つ傾向は、当に現在我々が日々経験しつつあることに他ならないという事実が、ひしひしと迫ってくる作品であるが、でああるが故に、この手の作品を避ける傾向が見受けられるのも事実である。戦前を生きた方々の多くが、かつて歩いた道と現代がそっくりだとの警告を何度も発している通りなのだということを実感させてくれる必見の作品である。このような作品を、今、この国で上演するこの劇団の勇気と真摯な姿勢を改めて称賛したい。
満足度★★★★★
お見事!(華5つ☆)
ネタバレBOX
新宿眼科画廊をこういう具合に使った劇団を初めて観た。この小屋での公演は都合、20回以上観ているのだが、この使い方は新鮮。小屋出入り口部分は、スタッフがライティングや音響スペースとして用い奥半分程が劇空間だ。突き当りと左側壁に沿って天井から半分透けるような布が垂れ下がったり、天上に向けて一端を持ち上げられて緩やかなカーブを描いていたり、これらは、各登場人物の住まいや部屋を表しており、最もスタッフエリアに近い所は、小説家の家、ここには布に簾が2枚取り付けられており、床上には茣蓙が敷かれている。茣蓙の周りには、ウィスキーなどの瓶。その先は、母の部屋、季節の花の鉢植えなどがたくさん置いてある。その奥コーナー部分が直治の部屋で書物が山積みにされている。その隣客席側に直進した場所が姉の部屋、花やノートに小机が見える。
開演前から終演までずっと木枯らしが吹きすさぶ音が流れ続けている、これは今作の描く直治の心に吹くdépaysementの嵐の音だろう。同時に小説家に恋し、彼の子を孕む姉の覚悟し、生き抜いてゆく世間の人情を表してもいよう。
ところで、ピッタリ150分の作品の中で姉の話す科白は大変な量なのだが、如何に若いとはいえ、これだけの科白を1カ月ほどの練習で頭に入れているのには驚嘆した。基本的に皆滑舌も良く、しっかり原作を自分に身体化している。スタッフを含め今作に関わっている総ての人が、丁寧に作品を読み込み真正面から作劇していることが伝わってくる舞台である。今後にも期待したい。
ところで、入り口で太宰を読んだことがあるか否かについてのアンケートが実施されているのだが、読んだことの無い人が2.5倍以上居たのには驚くと同時に大きなショックを受けた。若い人達の読書離れがこれほどとは!
満足度★★★★
作中に登場する枢要な人物の多くが口減らしの為に、親に売られた(弥太郎)であったり、鬼、もしくは鬼と人の間に出来た子(仁王丸、半兵衛)だったりと被差別的キャラクターであるのが良い。(華4つ☆)
ネタバレBOX
被差別民は当に時代の大衆の鏡であるから、それも単に硝子の裏に金属(錫や銀)を張って作る底の浅い鏡ではなく、水鏡のように底に不可視の闇や、地獄を抱える鏡である点で、物語の深みを増し、ありきたりの勧善懲悪や陳腐な正義のヒーローものに落ちていない点が良い。
新選組の描き方も、沖田がえらく残虐だったり、時代の読めないと考えられがちな新選組局長、近藤勇が、時代を秤に掛けていたりと、少しは知的な狡さを持つ大将として描かれている点も興味深い。それに引き替え、実際五稜郭で果てた土方歳三の一貫性を純情、剛毅、明快な人物として描いている点も頗る興味深い。酒呑童子の子という設定の半兵衛に美形の女優を充てその悲劇を美的に昇華しているキャスティング、演出もグー。殺陣も格好良かった。
エンタメとして楽しめると同時に差別を巡るこちらの人と彼の地の者との対比で観ると頗る興味深い観方ができる。それは、ゴダールの「Here and There」にも通じる視点となり得よう。
満足度★★★★
開演前、ずっとジャニスの熱唱が聞こえてくる。
ネタバレBOX
オープニングでは、ボリュームを上げたジャニスの歌声が響く中、劇場舞台よりひと回り小さい平台のセンターに座った男が身の上話を話しかける、ジャニスのラストアルバム、Pearlでは、彼女が歌い終わった後、哄笑するシーンが入ったもの(Mercedes Benz)があるが、あの笑いは、狂気に溶け込んでゆく彼女の姿そのものであったろう。開演時はTrust Meが掛かっていた。彼女の死に様、一所懸命に愛を求めた生き様を思い出す時、そう考えさせるほど、曲が作品にマッチしていた。途中、1度だけ掛かるサティーも当時異端扱いされパリの場末の酒場でピアノを弾いていたサティーの乾いた孤独とアンニュイそして絶望の淵にある自己嘲弄をも表していたのではないか? これも掛かった瞬間、背筋に震えが走った。思えばジャニスもサティーも辛い人生であったろう。
タイトルはdépaysementから採っているようだ。この言葉は、フランス語で気分転換などの意にも用いられるが、原義としては難民などになって異なった環境・習慣などの中に身を置いた際に否応なく体験する居心地の悪さ、違和感、戸惑いなどを意味する言葉である。今作で描かれている内容を思えば、原義に近いタイトリングと解釈して良かろう。英語にもdepayseには“なじまない”、“居心地が悪い”などの意味がある。劇団サイドの説明ではウィキの説明が用いられているようだが、内容にはそぐわない。
照明と音楽の用い方が見事である。多重人格性障害(解離性同一性障害)を患った妹を中心とした物語だが、自殺を図った妹の面倒は兄が見、精神科に入院させている。兄妹の実家は祖父から続く医者の家で九州の地元では名家と考えてよい。但し父は酒乱で酔えば母に暴力を揮っていた。兄も酒乱である。そのDVが原因で妻・娘の逃亡先すら知らない。物語の内容は、以上の情報から推理して欲しい。総じて演出の優れた舞台と言えよう。
満足度★★★★
“だ”を拝見。ダンパチ16進のダイジェスト版と言った所か。下北を歩いているとやっていたので拝見。無料公演だったので、30分程で終了したものの、肩の凝りがほぐれるような面白い公演であった。
満足度★★★★
三筆が活躍した平安初期は、橘氏と藤原氏の最終決戦の時代でもあった。
ネタバレBOX
桓武天皇は既に老い、弟の怨霊に悩まされて病の床にあり、相続問題が持ち上がっていた。どんな独裁制にも言えることだが、頂点に立つ者の資格を血に求める場合、その権力継承基盤の正当性順位は、正室の長男に負わせることが多い。貴族の出世競争に於いても、この頂点からの親疎によるものが大である。同等の近さであれば、あとは権謀術数に長けた即ち政治力に勝る者が権力者として機能する。藤原氏が摂関政治というシステムを作り、幼い頃から天皇を補佐するという形で実権を握っていた事実は、誰でも知る所だ。今作では、この権力闘争に藤原側、橘側各々の女性が関わって肉親の愛憎問題と歴史の生々流転との無常が紡がれる訳だが、為政者の徳によって治世の質が決まると考えられていた当時の世相を示す為に、仮面を被った群衆が登場する。ギリシャ劇で言えばコロスに似たような役割だろうか。だが、この部分が非常に弱い。仮面も韓国の「タルノルム」で用いられるような、泥臭く、如何にも民衆の苦悩や苦境を表したものにすれば良いのに、平板で何らインパクトの無い物を用いているし、演じられる動作などにも重みが無く、表現として浅すぎる。
また、空海の経文もオープニングで用いられるものは、フレーズを繰り返すだけの単調なものだ。経文は数多くあるハズ。実際に有難い経を唱えているのかも知れないが、演劇的効果を考えこういう点にも注意を払いたい。
板上は、上手、下手とも側面から各々巾の異なる緞帳を床まで下げて3層に、其の奥には板全体を横切るように赤い平台を階段状に2段重ねてある。更に奥の壁には、連なる山並みが描かれている。この舞台美術を適宜、スモークや照明で効果的に用いていて、照明が見事である。
満足度★★★★
タイトルセンスの良さに先ず惹かれた。(華4つ☆)Bチームを拝見
ネタバレBOX
日本の文化は“恥の文化”だとの指摘は随分前からあったが、最近では死んでしまった概念だとの指摘もある。だが、根底はそう易々と変わるものではない。だから、日本の女性は、欧米系の男にモテるのだろう。控え目に見られるからである。
一方女性の本質は変わらないから、実際には理想の伴侶を求めて、今作で描かれるようなバトルが日々繰り広げられている。但し上記のような文化的規制が、彼女らの表現をたおやかにみせているのだ。では、恥の文化とは何か? 監視されることを前提に、見られる自分を演じる文化である。従ってダーザインとしての自己が、己の行為・選択に対して決定的な倫理的責任を負い、担ってゆくことが根底にない。何故ならそれは社会から見えない部分であり、一神教的な神に対する人間という主体も形成されて居ないのだから担いようがないと考えるからである。観られる自分を社会の目を基準に考える以上、そこで出来上がる自分は、そう在るよう世間から期待された自分であるより他に無いのだ。登場人物各々の主張は、従って総てダーザインの深みからは出てこない。アルアル、イルイル感覚で鑑賞できるのはその所為である。
無論、エンタメとして、歌と踊りのバランスも良く、楽しめる舞台であることは事実だ。半円形を積み重ねトップに踊り場をあしらった造作が下手側に2つ、上手側に2か所、各々の位置を前後にずらして作られ、その狭間・劇場壁側を大きな平台形式で繋ぎ、天上からは白布を円筒状に巻いた柱が4本垂れ下がっている。歌詞が、この柱に映写されるなどの仕組みも作られており、黄金から赤、黄、白等々様々な衣装も映える。無論、各々の衣装は、登場する女性の性格を代弁するような色調である。更にイベントが、特別であることを示すかのように踊り場へ向かう板上にはレッドカーペットが敷かれているという念の入れ様だ。
内容は、観てのお楽しみ。楽しめることは請け合いである。
満足度★★
舞台上はフラット。但し、劇場客席側の側壁から1.5m程の壁が下手、上手其々から迫り出していて、左右は側壁から1.2mほどの所に天井から床上30㎝辺りまでポールが延びている。正面奥はこれが床まで伸びている。他は完全にフラットだが、箱馬が置かれている程度だ。
ネタバレBOX
デッキブラシ3本を用いて床を叩き、箱馬に腰かけた人間がこれを叩いてリズムを刻む中、ダンスが踊られるが、リズム感は悪いし、踊りは下手だし、オープニングでいきなりげんなりさせられ、ギャグもレベルが低いものばかりで、到底ウィットレベルに達していない。科白回しも間の取り方がなっていないから、ホントに滑りまくっているし、雑音にしか聞こえないレベルでデッキブラシや箱馬を打つ音が聞こえる為、総てが破壊されてゆく。こんなにつまらない「夏の夜の夢」は初めて観た。
満足度★★★★
タイトルに含まれる白波は、無論、泥棒の意味での白浪である。黙阿弥の得意とした「白浪五人男」「三人吉三」などの白浪物を思い出す方も多かろう。「濡れ手に泡のこの百両・・・」と啖呵を切るお嬢吉三の名場面など、悪漢とはいえ、粋で鯔背な風情を感じさせる。
ネタバレBOX
舞台は、台形を少し変形させた5角形、下手側カーテンの奥はベランダ、手前上手側出捌け袖が玄関に繋がる。部屋中央に座卓と球形に近い形のソファー。下手奥のコーナーには机と椅子。 上手奥の壁際には、大小の書棚が設えられており、正面奥中央にも出捌け口がある。
冒頭、娘と父との電話の場面。娘が辞表を提出し会社を辞めて仕事探しをしているシーンから物語は始まるが、裁判官の父親は、何の相談もなくいきなり仕事を辞めた娘の行動は早計と判断、ちょっと険悪な空気が流れる。
暫くすると、ドアホンが鳴り「宅配便配達です」との声、扉を娘が明けると配達人が土足のまま上がり込み、ナイフを取り出すと娘を脅して縛り上げた。動機の分からない娘は、泥棒だと思い、財布や机の引き出しに入っていた金をやるから「出ていってくれ」と頼むが、犯人は、そんなことに興味は無いと言いつつも通帳やキャッシュカード、暗唱番号などを聞き出そうともする。だが、通帳の在り処を教えても犯人は、そんなことに興味は無い、と言い始め彼女の個人的なデータに興味を示したり、彼女に促されて 自分の生い立ちや人生を話したりしてゆくのだが、それで明らかになったのが彼がこんなことをしでかしたのは、実は派遣でこき使われては捨て去られる半生を通じて人生の意味を削ぎ取られてしまったことへの鬱憤ばらしからであった。その為、犯行の目的は、犯罪を働くことより、自分が働き始めて以降蒙らされてきた不条理を他者に理解して貰うことだと考えられる。娘との電話を介して話をしなければならないとやって来た父が、犯人を説得、かなり上手くこの件を収束させることができるかに見えたものの、アイデンティファイできていない犯人は、自分が少なくとも住居不法侵入をし、娘らを脅迫したことによって自らを犯罪者と規定、アイデンティファイしようとする。裁く側の人間達は回避しようとした争いに再び巻き込まれることになる。父はまたナイフを持った犯人を柔道技で投げナイフを使わせないことには成功するが、体が大きく遥かに若い犯人に首を絞められ8階角部屋のベランダにもつれ込む。大きな音がして父はベランダから落とされた、と観客に思わせるが、犯人は殺人という決定的な罪は冒さず去ってゆく。
犯人が結局、何も盗まず、ネットで予告していた殺人も行わず、初期の目的である己の抱え込まされた不条理を訴えることには何とか成功して終わる点が、今作の救いであろう。
満足度★★★★★
「かつて女神だった私へ」(追記7.16:06:40)
ネタバレBOX
2人芝居の年と銘打って為された公演の再演である。ネパール各地に現在もクマリは存在するが、今作で描かれるのは首都カトマンズの生き神“クマリ”だ。周知のとおりネパールは、世界で唯一国教をヒンドゥーと定めているが、クマリは仏教徒から選ばれる。イスラエル建国以前のエルサレムのように、各宗教、各宗派の融和がこのような形で実践されているということなのかも知れない。
今作で描かれるのは3歳でカトマンズのクマリに就任しその後9年クマリとして生きた少女の物語である。初演時と異なるのは椅子の背に金で塗られた装飾のものが用いられている点、クマリの化粧、肌の色がより現地の人に近くなっている点、後ろ壁に様々な形、色の布が貼り付けられ、恰も国政の動きや、人の心の移り変わりを表してでもいるかのようである点などである。衣装も少し手を加えた。
脚本・演出レベルでは、初演よりストーリーテリングにし理解しやすくした点が挙げられる。この点で秀逸だったのが、クマリになる最終試験の最後に幼女が歌を歌うシーンである、初演では現地語の歌詞を1番のラスト迄歌い切ったのだが、今回は、3歳の幼女が両親から離され、クマリとして生きる覚悟と懼れ身悶えるような切なさに歌声は小さくなって途切れることで、見事に幼女の抱えた世界の重さと深さ、それに耐えようとする健気な不安を表象している。奥村千里さんの演出も演技した小松崎めぐみさんの歌唱も素晴らしい。
ところで自分の知識も少し増したから、この辺りがゾミアの一地域に当たるかも知れないという発想も湧いた。このように考えると、ネパール各地にクマリが存在し、その就任後の扱いが大いに異なることの歴史的、地理的、文化史的、民俗学的等々の説明にはなるかも知れない。調べてみると人々の生活の中には、未だ呪術(黒魔術も白魔術も)が信じられているということも聴く。実際呪術師が居るとのことだ。このような文化的土壌の上にこの話が成り立っているとすると、クマリとネパール政府の調査官との論戦でクマリの用いる論理に普遍的であると同時にどこか超越的、神的要素が在るように感じるのは、不思議なことではないのではないか?
深い思想を表現しなければならない作品なので、役者の息がぴったり合わないと難しい作品だ。その点で、2本に出演する中川朝子さんの負担は大変なものだったろうが、再々演の時には、今回のように2作交互でやるならば、2作品とも、役者同士の息がキッチリ会うまで練習を重ねるか、1本ずつ上演することが望ましく思われる。
満足度★★★★★
”鬼啖”必見の舞台だ。(華5つ☆)
ネタバレBOX
初演もこの会場であったが、洞窟のレイアウトが横になった。縄暖簾が増え、天上から床まで垂れている。上手、下手のみ幅の狭いものが、中段、手前と2段になっており、中央の物が一番奥に丁度、客席側の縄暖簾の間を埋める具合に設えられている。上手のものは、中央と手間を繋ぐ部分がある。これらの縄暖簾は、戒めの縄との因縁をも示し、また、様々な布によって編まれた色合いは、人の心の微妙な綾をも示唆しているかのようである。床にはオオサンショウウオのような敷き物、縁には小石が散らしてある。また、上手縄暖簾の下には岩塊をイメージした造作、その奥にもやや小ぶりの岩塊がある。戯曲家・奥村さんの作品は、下敷きにしている作品があることが多いようだが今作も例外ではない。「日本霊異記」中巻三十三からということである。但し、作品は、近代を経、現代を生きる当に我々の意識そのものをヴィヴィッドに描いているものであり、完全に現代の作品である。
下手縄暖簾を押し開くように若い尼僧(木村美佐さん)が入ってくる。鬼と恐れられこの洞窟に囚われている者(中川朝子さん)を折伏に来たのだ。若いに似合わず落ち着き、有徳、而も中々に優れた頭脳の持ち主と見える。村人の頼みでやってきたのではあるが、基本的に精神の自由を保つだけの知性と判断力を併せ持った女性(にょしょう)である。彼女の賢さと鬼女の賢さとの壮絶な論戦がみものだ。この弁証法的論理対決は、尼僧の生まれ育ちの良さから無意識に抑圧していた倫理観、即ち社会生活の中で世間的価値観に縛られ、自分では封印していた魂の深い秘密とパセティックで非常識な本性を徐々に明らかにしてゆく。この論理展開の見事さを、キチンと身体化してみせた2人の女優の演技の迫真性がいやがうえにも舞台を盛り上げる。
満足度★★
タイトルは、カミーユ・クローデルの作品「分別盛り」から取れれているという。
ネタバレBOX
カミーユは、ロダンの弟子で、詩人ポール・クローデルの姉、ロダンの内縁の妻との三角関係に悩み終には精神を病んで後半生を精神病院で過ごした悲劇の天才彫刻家だ。“分別盛り”は彼女の悲惨な生を象徴するような作品だが、今作、残念ながらこのタイトルに遠く及ばない。オープニングの演出は抜群で期待したのだが、その後の展開は、演劇をどう捉えているのか? 疑問を呈する他ないレベルのものであった。科白は、間を考えているとは思えないし、がなり立てるばかりでは、何も伝わってこない。喧しいだけである。而も、数人以上の人間が同時に異なる科白をがなり立てるシーンも多いから、ストーリーの断片が、無意味な騒音として起こっては消えてゆくだけなのだ。無論、ストーリーが無い訳ではないのだが、構成に確たる中心も戦略・戦術もなく、唯羅列されているだけなので、センチメンタルな戯言が、個々の出演者の現実存在であるエパーヴとしてしか機能しない。結果、ドラマ生じさせ構成する必然性も、それが成立し得ない必然性を描く戦略も無いことが露呈してしまった。各々が楽器を持って演奏する場面などでは、音大出かな? と思わせるような演奏をするのだが、それらが一切有機的に関連していないものだから、演劇作品としては成立していない。先にも述べたように、そのような作品を創るに当たってのアイロニカルな背理の構築も無ければ戦略・戦術も見えないので演劇をどう捉えているのか? という疑問が出てきてしまうのだ。