実演鑑賞
満足度★★★★★
華5つ☆、タイゼツベシミル!! 全容は敢えて書いていない。実見して素晴らしさを確認して欲しい。
ネタバレBOX
物語が主として展開する板は高めの平台を置いた奥に作られており、下手壁手前にTVや障害1級の末っ子・啓太の遊び道具やリモコン等が置かれている。板中ほどにはソファ、上手の壁前には本などが入った棚他、その客席側に部屋に通じる入口がありここが出捌けにも用いられる。ホリゾント手前は他の部屋へ通じる通路になっており、ここがもう1か所の出捌けである。この部屋は劇団牛後(ウシコウ)座長・伊原文雄の部屋でもあり、劇団の練習場でもあるばかりでなく家族全員の共有スペースでもある。
物語は、タイトルに凝縮されているように憧憬に纏わるものであり、座長の亡き妻の最後に関わるものでもある。因みに亡き妻の位牌は別の部屋にあるので出入りする者達が劇中何度も手を合わせにいったりする。
オープニングシーンは文雄がTV番組見ていた処へ啓太が入って来て「消さないでね」と何度も繰り返す父の気持ちを知ってか知らずか‟アンパンマン“の画面に切り替えるシーンで始まる。座長役は剣持さんで実に上手い俳優さんなのでご存じの方も多かろう。啓太役は河津未来さん、初めてお目にかかる役者さんだが上手い。このシーンでアンパンマンのTV映像では首を挿げ替えるシーンが出ていたのを啓太が真似てお父さんの首を挿げ替えようとするが「それは出来ないよ」と言われるとアンパンマンのほっぺを千切るシーンを啓太はお父さんにするのだ。お父さんは、脂汗を拭って啓太のほっぺに「おいしい脂汗ですよ」と笑いつつなすりつける。この間啓太は無論ご機嫌だ。キーッと倍音を発し機嫌の良いことを示している。
脚本も素晴らしいが、役者陣の演技が凄い。その脚本を身体に溶け込ませてでもいるかのように時に沁み出させまた溢れさせるのみならず、状況によっては箍を外す。或いは関係に距離を置く。最初に述べたようにこの空間自体が極めて親密な人間関係を結ぶ場であり、登場人物総てが家族・劇団員・及びその何れかの配偶者等関りの深い者ばかりである。このような濃い人間関係では問題は厄介になり易い。それはそうだろう。蒸発するとかでもしない限り深い縁は中々断ち切れるものではないからだ。今作は、そのような逃げ場のない人間関係の中で起こる諸問題の幾つかを、それを抱え込んで対立する大人同士は兎も角、育つ中での位置、例えば長男、長女である、次女や三女である等で同一問題であっても状況との出会い方は全く異なる。またその時置かれた状況次第でも事情は大きく変わるし、年齢によっても受け止め方は全く違う。同じことに同じ場所で出会っても出会い方は全く違うのが普通である。そしてこのような事情が時にはトラウマとして機能してしまうこともある。そればかりではない。社会の中ではそういった個人的事情は一切顧慮されないのは普通のことである。このような状況で多くのヒトが生き、誰の助けを求めることもできずに消えて行く。これが掃いて捨てる程もある一般的人生という形であろう。
然し乍ら、濃い人間関係であれば、上記のような状態であっても、それらを的確に腑分けし、判断する者が存在するケースがある。だからこそ、より微妙な問題として気付いた者も気付かれた者も互いに口には出さず、そのことがかえって問題をこじらせる場合もある。そのような各登場人物の心理の綾迄が見事に観客に伝わってくるような優れた演技を役者陣はしている。これはもう、演技というより当に役を生きている実例と言いたい。脚本家が演出も兼ねているが、脚本、演出、演技は以上で紹介して如く素晴らしい。無論、舞台美術、照明、音響何れも今作同様いい出来である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
タイゼツベシミル!! 華5つ☆。条理を全うしたが故に不条理と化した物語。不条理劇の快作・傑作、白眉。初演から19年の歳月を掛け、即興、試行錯誤を重ね改稿を重ね纏められた今作。脚本の素晴らしさは出版社に出版させたい程の出来である。
ネタバレBOX
舞台美術は随分工夫の行き届いている点で驚かされる。というのもこの狭いスペースでよくぞこれだけの意味をその舞台美術だけで具現しているか! について驚嘆させられる程のものだからである。例えば舞台手前の上手には遺失物管理所入口と書かれ、看板下部に右下がりの矢印を添えた地下という文字が読み取れるが、舞台正面に見えるのはその地下にある遺失物保管所であり、地下へ通じる階段は、案内板の据えられたコーナーの対角線上に設置されている。これは単にスペースが狭い故の工夫というより寧ろエッシャーの絵のように不思議な空間を現わしていると解した方がしっくりくる。また、看板のちょっと奥には手前の椅子がより高い、高さの異なる丸椅子が置かれているが、何故高低差があるのか? これは観てのお楽しみだ。無論、この他に出捌けの際に袖となるよう然るべき位置に衝立も立てられている。下手側壁近くには衝立がほぼ‟」“状に置かれその向こうに小さな呼び出しベルを載せた、ベルのサイズに不似合いな大きな台が置かれている。件の階段は、この奥の側壁から延びてこの地下保管室へ通じている訳だ。舞台中央には黒幕に遺失物の沢山入った像が映った保管棚が極端に誇張された遠近法を用いて表現されており、如何にも遺失物管理室という奥行きのある雰囲気を濃厚に漂わせる。ホリゾント部分にも黒い暗幕が掛かっているが、これもそれだけに終わらない仕掛けだ。
さて、物語の本題に入ろう。演劇の常道として最初の何分かのシーンで作品の本質を示すシーンが入っているのも近年の小劇場演劇としては珍しく新鮮である。極めて本質的でありながら、言葉遊びの現象学的展開、乃至は遊戯としての人間性の本質、或いは探偵モノの質疑応答と解しても良さそうな知的遊戯とも解せる対話群が嫌が上にも興味をそそる。ここを尋ねてきた男と保管室管理人との質疑応答のシーンであるが、この問答で今作の主題が余すところなく提示されているのだ。(その内容詳細に就いては観劇して欲しいが存在 être(一例を挙げればSartreのL'Être et le Néantに於けるêtre )に関わる根源的な疑義についての問答である。この問答は一般の方々には珍妙に映るかも知れないが極めて論理的で緻密な論を、記憶を喪失しているとされる保管室管理人が展開するので、哲学に興味のある人々はわくわくするに違いない。
もっとも哲学などと構えるまでも無く、誰しも1度は抱えたに違いない以下の自問、ヒトは何処から来て何処へ行くのか? 人間とは何か? という問いに答えを出せぬと諦めた大多数の人々にあからさまに関わる大問題の根底が論議されていることは、このオープニングを観ただけで直ぐに分かる。擽りも随所に的確に置かれていることは、この台詞群が多様な解釈を許す点にも表れていよう。演出、演技(主人公の記憶喪失を患う男を始め、ボランティアとして男を手伝う若い娘、刃物を預けた女、最初に現れ害虫扱いされる男、この地域の名家の子息でエリート、磁石を預けた女、古物商、そして今作で唯一ある種の客観性を提示する男。これらの人物がどのように絡み、どのような人間関係にあるのか? そしてそうなる経緯は? を観劇中に探ることで一種のサスペンスとして楽しむことさえ可能であろう。余談ではあるが、物と語り合うことのできる記憶喪失の男は、登場するエリートの父であるが作品に直接登場することは無い。但し記憶喪失した彼が職を得たのはこの名士の命を救い、その恩返しをしたいと名士が彼に職を世話したということは物語中で示される。更に蛇足ではあるが、これらの登場人物1人1人のうち誰一人欠けてもこの劇の滋味は落ちるだろう。各々の役者が良い演技を自然体でしている証拠である。照明や音響も秀逸。
因みに後半の公演日は少し間が空き10.11~10.14まで。
実演鑑賞
満足度★★★★
板状、基本的には素舞台。滑車付きの障子数枚を場面、場面で移動。衝立、間仕切り、袖、或いは裏に書かれた文字、写真を用いて必要に応じたインフォメーション掲示板として用いる。この辺りの演出はグー。然し脚本は劇作家の勉強不足が出てしまった。演技は悪くない。
ネタバレBOX
基本的に内容は敗戦後のどさくさから東京タワーが建設された(1958)頃迄。場面によって主人公らの従軍時代が回想シーンとして描かれる。面白いのが、今作で奇妙な仕事をやる登場人物2人の仕事に纏わる最初のシーンで彼らの仕事が新聞広告に載り、その内容が障子裏に書かれた文字として表現されている点だ。曰く‟命販賣致し〼“。売るは旧字でますは〼で示されているのが実に良い。
自分が勉強不足と指摘したのは、戦中、戦後の描写が余りに表層的と見えたからだ。オープニング早々の模様は障子に張られた写真を移動させつつ見せる内容で所謂『玉音放送』の一端も流されるが敗戦直後の都市部の飢えは極めて深刻で餓死者も多く出た。戦中の方が未だマシなくらいであった。その訳は、戦中は曲がりなりにも配給制度が機能していたせいで極めて粗末とはいえ一般庶民も糊口を凌ぐことができたからであるが、敗戦後はこれも崩れ、敗戦で価値の殆ど無くなった日本通過はハイパーインフレを起した為、生き残る為に人々の多くは家宝を農家に売り食物を得るというようなことがザラであり、庶民は生き残る為に何でもやった。敗戦後長い間、ラジオ・TVドラマの台詞にも「叩けば埃の出る体」という台詞が頻出していた。こんな状況の中で多くはヤクザが仕切る闇市が隆盛をきたし、利権を争う争闘も多発した。因みに特攻帰りの青年らが新興勢力としてこれらのシノギを巡りヤクザともことを構えた。背景には軍が特攻の恐怖を紛らわせる為にシャブを用いていた点も見逃せない。特攻生き残りの若者が抱えていた憤懣やるかたない心情の苛烈と体験して来た亡き戦友たちへの複雑な念、生き残っちまった自らを制御仕切れない「祖国の様変わり」に対する劣情と悔しさの爆発を想像してみて欲しい。
余談ではあるがシャブは敗戦後も合法的に薬局で売られていた。薬品名をヒロポンという。敗戦後も長くこのようにシャブが合法化されていた理由は、国策としてシャブが用いられていたことが中毒者を産み簡単に禁止できなかった、という理由以外には考えられまい? こういった状況をそれとなく挟んで事態の深刻さをもっと皆に分かるようにすべきだったと考える。
実演鑑賞
満足度★★★★★
激奨 タイゼツベシミル!! 華5つ☆(追記後送)
ネタバレBOX
劇団B♭旗揚げ公演。そもそものタイトルからして矛盾しているような不思議なタイトル、無論このタイトル自体に仕掛けがある。物語の舞台は、鹿児島よりは遥かに沖縄本島に近い鹿児島県徳之島。無論周りは海の、島である。であるのに何故、海のない“島”というタイトルなのか?
物語の謎解きはここから始まるだろう。理由は、今作を観れば直ぐ納得するが、この物語は2つの時が綯交ぜになっている。一つは第二次大戦末期の沖縄戦、一つは現在に通じる時代だが、上演の形としては今作30年前に書かれた作品である。而も全く古びていない。それどころか益々大戦中の沖縄の状況に現在の方が近づいている。無論、細かい点で2024年に上演する為の変更はあっただろうが、本質的に差異が無いという実にあからさまな沖縄の置かれている状況があることに気付かない訳にはゆかない。
というのも先に挙げたように今作は大戦中と現在がクロスオーバーする。このタイトルの特異性に気付くか或いは序盤から、演じられているのは現代なのに軍機の飛翔音がしたり、場面、場面で照明の異変に気付くならばしょっぱなから或いは極めて早い段階でこの物語の輻輳性に気付くことができるが、この点を見落としたり聞き逃したりすると物語の輻輳性が掴めず、作品の持つ本質性にも凄さにも気付くことができない。当然、仕掛けられた謎解きが終わって大団円を迎える時の感動の質も重さも全く異なるものになってしまう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
脚本、演出、演技どれも優れていると感じたが、矢張り役者の間の取り方が上手い。
ネタバレBOX
一筋縄ではいかぬ作品とみた。台詞構成がユニークで背景にあるもの・ことの単に現代に留まらぬ深さ、複雑性を想起させるからである。作家が英国籍ということである意味得心が行った点もある。オープニング最初の台詞も極めて特徴的である。(実際どんな台詞で始まるかは観劇して確かめて欲しいが)。物語は様々な挿話を構成して一編の戯曲としているが、その各々の挿話のみならず、各々の台詞の中でもその要旨を挫くような、脱臼と迄はいかない微妙な頓挫が仕込まれているのだ。それは恰も現代社会そのものがブルシットででもあるかの如き頓挫である。原作者・サイモンスティーブンスは英国の生まれだからブレクジットとも関係があるかも知れない。(ここでブレクジットを用いているのは、何もEU離脱のみを指さない。イギリスが伝統的に大陸ヨーロッパに対してきた歴史的態度である)翻訳も一筋縄ではいかぬ大変な苦労を要したであろうことは容易に推測できるが、良い訳に仕上がり、演出・演技は無論のこと流石老舗だけあって舞台美術から照明・音響、裏方さんを含め素晴らしい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル! 華5つ☆ 演劇の醍醐味を楽しんで欲しい。(追記後送)
ネタバレBOX
リジョロの25周年記念公演第2弾は、Burrou.隠れ場所や穴を意味するタイトルの作品である。長い間観たいと思っていた劇団だが今回が初見。今作のベースにあるのは夢野久作の「ドグラ・マグラ」とある時期迄の唐 十郎の舞台だろう。演出等にも唐系の特質が見えるのは状況劇場で看板女優を担った時期を持つふじわら けいさんが、リジョロ団長・金光 仁三氏の師でもあるからだと思われる。無論、上記の影響を受け、ベースにしてはいても物語自体は独自で壮大な展開を見せオリジナリティー溢れる快作である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
「誰も知らない」という映画は御存じだろうか? 切り口は全く違うものの今作を拝見しながらこの映画のことを思い出していた。(追記後送)
ネタバレBOX
板上は奥に2F 部分を設け下手階段は板地部分から下手に延びた階段を上がり踊り場で右上に延びた階段。上手階段はそのまま2Fへ上がれる。2Fを支えるようにホリゾント側及びその手前に壁を設けこの壁と壁の間が通路になっている。
オープニングで登場するのは明天前は結界でも張るような仕草を見せる男、素早く部屋の出入口、窓等を封印するかのようにテーピングすると直ぐ去る。物語り自体はゲームに登場するキャラクター・主役級、背景の名もなきキャラを構成し台詞ぽ無いキャラ・モブ等。後者の内ハシクレと呼ばれる者だけが主役級と対話可能であるが、他の者には彼ら2人の対話はテュゥルルルルという具合にしか聞こえないので一般モブは2人との対話も不可能なら対話内容を理解することも不可能である。
ところでどうやらこの物語の舞台はゲームとしてずっと機能していないらしい。ゲーム内の物語と外界と通じるゲーム機との間に出来した齟齬や様々なバグが絡まり合う中でゲームと現実が時に一体化してしまう世界での、とある状況を映し出している。根本的に不安定なので決して安息という状態を基礎とはし得ない。そんな社会に追い込まれた者(最弱者)の余りに痛ましい生涯を描いた物語なのだ。というのも主役級が待つヒーローは永遠に登場しない為、物語が始まることは在り得なかったのだ。この状態に閉じ込められたキャラ達は総て一応給料や社会保障等は出ているものの為すべきことが何一つ無いまま無為に過ごしているのである。永遠と見紛う退屈の中で。
実演鑑賞
満足度★★★★★
アーサー・ミラー原作の作品である。板上はフラットの素舞台。ホリゾントはスクリーンになっており物語の場面に応じた絵画が映し出される。時代設定や場所はハッキリしないものの、イギリスの統治下にあった宗教性の強いアメリカという地域の或る地方の物語と解釈できそうだ。中心になる登場人物の要に地域で人気の高い農夫・ジョンとその妻・エリザベス。そしてジョンと不倫関係にあった元召使・アビゲイル。魔女裁判に至り、遂には刑死者迄出すというシリアス物だ。漠然ととある場所で起こった昔話というより寧ろ正しく現在の世界情勢とそのまま重なるような内容として観ることが出来、長い尺を一切感じさせないお勧め作品である。ミラーの慧眼も大したものだが、演劇ユニット、King’s Menを組む若い2人の表現者がこういった作品を選んでチャレンジしていることを高く評価したい。演出もこのユニットの篁エリさん・平澤トモユキ氏が共同で取り組み役者としても出演している。(追記後送)
ネタバレBOX
オープニング早々、子供たちと若い娘(牧師サミュエルの姪・アビゲイル)がこの地方(セイレム)の森で踊りを踊ったり何やらさざめきあって遊んでいるような場面、と急に一人の最年少と思われる少女(地主パットナムの娘・ルース)が倒れ込み動かなくなる。踊っていた少女たちの内の幾人かは、服を脱ぎ裸を晒す(舞台上では下着になることで裸を表現している)
ところでこの少女たちの様子を見ていた者がいた。この地域の牧師・サミュエルである。彼はハーバード卒を鼻にかけて偉ぶるような人物ではあるがこの地域に赴任して未だ浅く敵も多い。彼の管轄下にあるこの地域では、彼を嫌い敵対する住民が多く、この不可解な事件を魔女と結び付け彼を攻撃する材料として用いることが在り得ると考える彼は恐れ警戒していた。そこで子供たちと何をしており、どうしてルースが倒れ動けなくなったのかについてアビゲイルを難詰する。流石に牧師だけあってその追求は鋭いが、アビゲイルのしたたかさは、これを上回りかつて自分が召使として7か月働いていたが馘首にされた農夫・ジョンの妻・エリザベスが彼女を奴隷として扱いたがり非人間的で冷たいなどという話に切り替えると共に事件の肝心な部分を見抜くような懸念を述べていたサミュエルの問いから逃れることに成功。逆にエリザベスの評判を傷つけ、自らの評判を上げる種を撒くことに成功する一歩を踏み出した。
実演鑑賞
満足度★★★★★
フライヤーからはチャラけた芝居との印象を受けていたのだが、極めてまともなストレートプレイである。
ネタバレBOX
舞台美術も如何にも明治から大正にかけてのし上がった炭鉱成金の屋敷に相応しい調度が並び、なり上がり者の定見の無さを象徴している。例えばリモージュ焼きと思われる磁器の向こう側に洋画、その隣奥に信楽焼きと思われる陶器、その更に奥には、朝顔型の蓄音機、更に奥に家長の後妻である可奈子の居室があり、ベッドには天蓋から映画・クレオパトラの寝台に掛かっている幕のような、西アフリカで用いられる蚊帳のような天蓋部分に円形釣り具を付けそれに細かい目の布をあしらったような物が取り付けられており、ベッドの奥は布で仕切られ袖のように機能するが、劇中この袖は大変重要な役割を果たす。上手奥には中国や李氏朝鮮時代に多く作られたような形の一輪挿しの花瓶、ホリゾント中央には両開きの襖。その手前は畳敷きで平台で一段上げてある。更に客席側は洋間になっており洋式の椅子、ソファを始め中央に使用人を呼ぶ為のベルが載ったラウンドテーブルが真ん中に置かれている他洋間から和室に上がるのには上手に階段が設けられているものの、これも洋式。おまけに和室には木製屏風が上手・下手それぞれに置かれているという塩梅。まあ、日本は和洋中朝折衷文化が基本で我々は慣れ切っているので恐らく外国人が感じる程の奇異感は持たぬ者が殆どと思われるが。物語が展開する舞台美術は台詞だけでは表せない意味をも時に象徴しているので一応指摘しておく。
さて本筋について少し書いておこう。家長の名は伊藤 正久、長男・慎二(実は養子、甥)次男・兼次(正久の実子、使用人・ふゆが実母である)その他実勢は無いものの華族出身の比佐子(東京帝国大学学生慎二の婚約者)、そして先に挙げた可奈子(後妻に収まるまでは慎二の紹介でこの家の女中をしており、その後正久の妾となっていた)
ジェンダーレベルで見ると男性VS女性では女性の完全勝利である。というのも正久は女遊びに長けた積りの金持ちだが、女性達の心理を見抜くことに掛けては少年のようにプリミティブな思考しか持っていないのに対して、可奈子は慎二とはずっと恋仲であり後妻と決まって妾宅からこの家に移ってきた後もずっと隙をみて同衾しており、バレていない。また、正久の見立てでは古風な倫理観に縛られその倫理からは外れないと判断された比佐子は慎二が何をしているかを偶然知って後、その秘密を教えた頭は悪く無いものの同世代の悪童仲間どころか友人も持たない為精神的には幼稚な金次を唆し、褒美に同衾を約して兄銃撃事件を惹起する。而も事件で死んだのは金次の方で慎二は生き残ったのだが、貞淑だとか婚約の約束だとかを守るフリをして婚約解消は敢えて否定した。
このような状態の中、ラスト部分で可奈子は妊娠を告げる。(無論、どちらの子かは分からない)。この後事件の後片付けが終わったあとの展開がどうなるのか? 当然慎二と比佐子は結婚し子供も生まれよう、そうなると遺産相続争いが起きるに決まっている。女性陣で唯一昔風の倫理に生きているのはふゆのみであり、彼女は3人の女性の中で最も年上だから遺産象族争いが起きる頃にはリタイアしているか、亡くなっているかであろう。こんな続編を期待させる面白い作品であった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
一言に不条理劇と謂うが、その意味する処をどれだけの人が理解しているであろうか?
(追記後送)
ネタバレBOX
演劇ファンを前に口幅ったいが、演劇は最も時代とその状況を反映する表現形式である。今作の原作は故別役 実氏、1967年の作だったと思う。冒頭こんなことを書くのは、今作が日本の不条理劇を代表する別役 実という劇作家の作品を基に創られていることと大いに関係がある。一言に不条理劇と謂うが、その意味する処をどれだけの人が理解しているであろうか? 先に挙げたように演劇は時代とその状況を本質的に極めて素早く而も的確に表現する総合芸術である。而も芝居という形式が要請する縛りの多い表現形式なのである。
以上のような条件から、それでも作品を創り上演する為には、極めて鋭く要を得た状況把握と膨大なデータの的確な分析、これらを素材として再構築し物語として紡ぐことのできる才能が必須である。
ところで、不条理劇が創られるのは、或いは創られて来た時代とは、どんな時代であったか? を若干再考してみよう。今作の原作は、現在別役実戯曲集に収められているものとは、内容に相違がある。今回、有機座公演では初演時の台本をベースとして用いたという。自分はこの双方を見比べた訳では無いので異同の詳細は分からないが、初演時の台本の方がより尖がり、先鋭的であった分だけ分かり難いかも知れないと想像した。実際、今回自分が書いていることは、この分かり難さを少しでも解消したいと思ったからである。
物語の舞台は国際航路の波止場。舞台美術は至ってシンプルで、板奥の天井からは万国旗が垂れ下がり、その手前中央よりやや上手に棺桶のような形のベンチ、その反対側・下手には、定番の電柱ならぬ電灯。板手前観客席に近い下手に救助用浮き、上手には繋留用の杭。大切なことは、物語が展開するのが国際航路の港だという点だ。
人種や国籍、肌の色や目の色、髪の毛の色、話す言葉の違い、衣装や文化、食べ物や仕草の違い等々様々な違いや、その時代、場所の違い等によってこれらの差異が様々な意味の違い、否意味する処の違いに重大な差を齎し時に取り返しのつかない事態を引き起こすことにもなる。
そして不条理劇の創造された時代にあった社会状況とは、多くの人々が判断の根拠を失い、自分達が属す社会も、己自身の普遍的価値観も信じることが出来なくなった時代では無かったか? 敢えてしょっぱな過去形で書いたが、無論現在もそれは刻々と更に深く不可視にされて進化・深化し続けている。
実演鑑賞
満足度★★★★★
板上は奥に平台を置き素舞台。それだけアクションの多い舞台である。物語は一見勧善懲悪物の体を為すようにもとれようが、総て表現された作品は、それを受容する者達の解釈次第でその消長が決まる。従って表面的には開演前にずっと流れている音楽の歌詞のように勧善懲悪とみえようとも解釈次第で実に深い、また極めて象徴的な意味を持つ作品に変貌するのだ。今作は、その実例と観た。兎に角、エネルギーが凄い。一見バカバカしいことに此処迄一所懸命に向き合い、打ち込む姿勢の底に何があるのか? 観劇中に何度も自問しつつ拝見して居た結果は追記で報告する。
実演鑑賞
満足度★★★★
う~~~~む。
ネタバレBOX
Fluctuat nec mergiturはラテン語で、揺蕩えど沈まずという意味だ。パリの標語である。今作、一応パリを日本に移築するというコンセプトの基に建てられたマンション住人たちの話なのでフライヤーにもこの標語が記されているということだ。
ただ、如何にも日本人のフランス被れらしくフランス語の間違いが多々ある。例えば友人などと別れる際、フランス人はau revoirを用い、決してadieuは用いない。後者は基本的に二度と会わない、会えない場合にのみ用いるからであるが、今作ではau revoirを用いるべき処でadieuが頻繁に用いられたのは実に嘆かわしい。またマンションの名前にLe appartement・・・という言い方をしているが、仏語は母音の衝突を嫌う為、正しい表記はL’ appartement となり定冠詞leのeが落ちる。こんな初歩的なミスがたくさんあるばかりでなく、台詞に‟パリのシャンパンは云々“というのがあって、これをパリで飲むシャンパンと解せば問題は無いのだが前後の関係からパリ産のとも取れる。後者の場合はフランスの法によって罰せられる。何となればシャンパンと名乗ることができるのはシャンパーニュ産のものだけだからである。日本でもスパークリングワインと呼ばれて製法が同じでも恰も異なる種類の酒と勘違いすることもできる呼称はこの法に縛られているからである。フランスを移入するという設定で而もパリで長く過ごしたという設定の人物が、こんなレベルで間違っていたのでは話にならない。
1か所だけ感心したのは終盤に掛かる辺りでシャンソンの歌える店にマンション住人らが出掛けるシーンがあるが、この時歌を披露する店の歌い手の歌が、シャンソンの心根を表現して見事である。この歌1曲だけで星の数を1つ増やした。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル! 華5つ☆
SNSやユーチューバー、既に廃れたかに見えるブロガー等を含めてネット環境を利用しての発信、受容の拡大再生産は破竹の勢いだ。これに乗じて若い世代が稼いだなどという話も拡散されている。この物語はこんな時代の表層と表層の炎上や、既存メディアの報じる炎上を原因とする著名人の自殺等の社会現象の底にある生の生活を実に奇想天外且つショッキングな内容によって掘り下げ、現代資本主義の多くが実際には実践しているショックドクトリン下(ナオミ・クラインが指摘)の社会の暗部を照らし出したと捉えられる極めて深い作品。お勧めである。(追記後送)
実演鑑賞
満足度★★★★
Aチームを拝見、作品は2本、何れもオスカー・ワイルドの原作である。1本目は「小夜鳴鳥と赤い薔薇」2本目が「幸福の王子」。上演形態は朗読劇の体裁を採る。舞台美術は共有。板奥に天井から床まで届く布を下げ、布に等間隔の幅を設けた光の点を配して天井から床まで届く仕掛けだ。無論、同時に袖の役割も果たす。その手前観客席寄りの板中央辺りに丸椅子が等間隔に4脚並んでいるのは、登場人物各々が座る為である。板の最前部には下手、上手何れもシンメトリックに太い蝋燭が奥に2本、手前に2本重なるように置かれているが、奥の蝋燭は背が高く、手前の物は低い。これらの蝋燭の中間辺りに花で拵えた花壇状の造作。
ネタバレBOX
作品内容については皆さんご存じだろうから触れない。ただ、ちょっと気になったのはオスカー・ワイルドの生没年と思われるリーフレットの表記についてである。ワイルドが生まれたのは確か1854年、亡くなったのは1900年だったと記憶しているがリーフレットでは全く違った表記になっている。
何れにせよワイルドの生きた時代、多くの文学者が(詩人・作家等)ダンディズムを標榜していて、ブリテン出身の貴族でさえある時期迄フランスかイタリアに留学して大陸の文化を身につけなければ箔が付かないとされていたのに、仏文で発表した作品で態と間違えて書いてあるなどと生意気な口をきき反感を買っていたアイルランド出身のワイルドの歪みを感じるのは自分だけではあるまい。今回上演された2作はこのような「田舎者」としてのワイルドが一方で背伸びをしてダンディーを気取っていた反動とみることもできるような気がする。そのような作家の内面的な葛藤があったとしてその葛藤迄表現されていたかと自問してみたが、それは為されていなかったと判断した。
実演鑑賞
満足度★★★
VUoYは元銭湯だったので奥に浴槽が残っているのだが、今作ではそれを隠すようにパネルが張られ見えなくなっている。その分、やや抽象度が高くなっている。下手側はちょっとした建物のように立体的な倉庫様の物が作られている。何れも白っぽい。照明は終始昏め。
ネタバレBOX
公演は最初に京都で、次に東京で、最後に豊岡で行われるが演ずる場所によって内容は若干異なる物になるという。かなり実験的な作品ではある。而も相当にペダンチックで通常演劇創作に関わる者が意識する演ずる当事者にとっての脚本の個的読み込み、脚本全体を見渡して相関関係を把握した上での自らの演じ方、観客から見た作品の見え方の何れもがペダントリーに毒されているように思われる。この原因のⅠつにLiminal Spaceの概念を持ち込み、階段・ロビーなどある場所と他の場所を繋ぐスペースに着目し、過渡的な場所が無人になったときに感じる独特の感覚を強調。そこに既視感等日常の中の不可思議感覚を見て取っているのである。だが、それが万人に共通であるか否かを検証済とは思えない。
というのも作品は幼稚園児に教える大人3名(存在1、2、3と表記されている内2人が♂、1人が♀)の奇抜な登場シーンを経、存在達がその教示内容を審議するシーンから始まるが背景にはかつて放映された教育番組で流された音楽がラジカセで流れる。この間、脈絡と無関係にボールが飛んできたりする。ユニークなのは、耳慣れないスクリプトドクターなるスタッフが創作に関与していることである。スクリプトドクターの役割は表現作品、殊に映画や演劇の場合は、演じられる場所や時期、関わる役者や演出家、協賛企業などの関係を調整して差別表現や利害関係等で作品の主張とは関わりない社会問題化を避けることにある。
ところで今作の初期想定は幼稚園児相手の教育議論であるから子供目線は上記で説明して来た今作の傾向に対置されるべき唯一最大の要素として必要欠くべからざるものだと小生は考えるのであるが、今作ではその視座が欠けている。大人と子供の差は子供たちは自らの欲求と想像力を基本的に追求しその為に生きているのに対し、大人たちは目的を遂行する為に利害調整を必要とすると考え、その結果として金と権力、社会的位置をも有すると考える。この生き様の差は決して埋められない。従って今作のようなシチュエイションで作劇するのであれば、創作過程に子供との生の対峙が必須となる。子供電話相談室のように子供からの生の声に相対し、相対した子供たちからの視座や疑問、異議を大人の視座と対比させなければなるまい。この点が欠落していることが今作の弱点と観た。終盤存在1,2,3の悪態は、米追従しか出来ないこの情けない「国」の阿保らしさを批判的に語るかのような内容になってくるものの、悪態を吐く際の日本語のボキャブラリーは何とも貧弱である。海外でちゃんと地元の人々に溶け込み話をしたり一緒になって遊んだりを何年かして過ごせば自ずと悪態表現の余りの多様性に気付く。日本でも人口に膾炙しているサノヴァヴィッチやヴィッチ、イエローキャブ、コン、アン等々は加えても良いのではないか? 何より実際に創作過程で子供の生の反応を取り込んで創作することが望まれる。そうしなければ観客から観た面白さの評価は低いままであろう。難易度は極めて高いものの「ピタゴラスイッチ」のようなセンスでこの間(あわい)を繋げることができたら爆発的な面白さになろう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
余りに上演回数の多い舞台故粗筋は書かない。それにしても演ずるのが難しい舞台の代表でもあるような舞台である。登場人物は総て女優A,B,C,Dで表記されていることからも、清水邦夫の今作に対する態度が明確に分かる作品でもある。(追記後送)
ネタバレBOX
今回、今作を拝見するのは凡そ20回目くらいにはなろうか、これまで拝見してきた他劇団の上演では、永遠のプロンプター役の2人の掛け合いの場面、殊に「斬られの仙太」のシーンや花形女優が若手女優の頭部を殴打してからの独白部分にスポットが当てられる演出が多かったように思われれるが、演奏舞台の今作の解釈では寧ろ、チェーホフの様々な作品のそこかしこに表現されている人生の侘しさに清水のチェーホフ読み込みの深さ、共感を観、表現しているように思う。演奏舞台という劇団の独自性を見ることができよう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
板上には古いアパートの一室が再現されている。センターよりやや上手にはこの部屋の入口ドアが斜めに設えられ、出るとホリゾント方面は筒抜けで役者の動きが丸見えになる。この空間を遮るように部屋の下手奥辺りに本棚に入れられた故人の書籍、アルバム、雑多な品々が見える。(本日楽日、追記9.2 4:12)
ネタバレBOX
物語はこの部屋で半年ほど前に亡くなって、つい最近発見された部屋の住人・タカセ マサヨシの遺品整理に甥のケンタと友人が遺品整理に訪れたある日の話だ。遺体は発見時既に白骨化しており、余程苦しんで亡くなったとみえ吐血したと思われる血に塗れた手で壁のあちこちに手形が付き、敷かれた布団の上で遺体から溶けるように流れ出た体液が床に染みを拵えていた。既に業者が入って部屋の除染や室内塵の撤去などは為されていたが、この作業中に唯一の親族である甥の居所が分かり大家が連絡を取ってケンタと友人が後片付けに来ていた訳である。
ところでケンタも友人もリッチではない。そこで遺品の中で売れそうな物はなるべく高くオークションで売ってせめてレンタカーの費用程度は捻出したいと本棚に詰まった様々な品々を検品しているうちにカセットテープを発見した。遺言が録音されている可能性があることから再生してみることになり、大家が捨てずに持っていたプレーヤーを借りて再生してみることになった。
するとそこには想像もしなかった内容が記録されていた。然しマサヨシの歌謡曲好きからかテープは片面4分程しか収録されない代物で、而も亡くなる前に体調を崩していた伯父の咳が録音を邪魔して居る為聞き取れた内容は半分程度、A面、B面合わせても肝心の部分は未録音のまま切れた。その内容は実に深刻なものであり、伯父はその任務を果たさねばならなかったことを悔いその任務の内実を明かそうとしていたのだ。その肝心要の部分が録音されていないのである。カセットプレーヤーを貸してくれた大家も古いラジカセが中々上手く作動しなかったこともあって部屋に来て何とかラジカセを作動させることに成功したばかりであったから成り行き上片付けに来た2人と共に居り、皆が皆何が録音されているのか何とか聞きたいと考えていた。然し埒が明かず大家は階下の自分の居室に戻った。友人は何か飲む物等を買いに部屋を出た。ケンタが独りで居た処へ若い夫婦が隣に引っ越して来たと挨拶に来て菓子折を置いていった。何気に開けてみると入っていたのはカセットテープ、それも皆が聴きたがった遺言のパート3であった。早速聴いてみるとそこには恐るべき事実が録音されていた。
その事実とは、叔父が自衛隊員であったことと関係していた。既に人々の記憶からも半ば忘れかけられていた日本最大の犠牲者を出したとされる航空機事故として処理された事件に自衛隊員らが動員され、証拠隠滅の為に証拠となりそうな総ての物証を焼き払った任務に纏わる告発であった。事件からはワンジェネレーション以上の時が経ってはいたが、未だに関わった自衛隊員達の不可解な死や自死が多発していたことも伯父の同僚の自死を巡って訪ねて来た妹の話、霊となった伯父が語った自らの死因からも明らかになり事件がずっと生き永らえて関係者に重く圧し掛かっている実態が露わになる。
話は前後するがこのテープ内容に被さるようにパート3のテープが入った菓子折を持って来た若夫婦が伯父を追いかけまわしていた理由が分かってくる。若夫婦、実はこの事件で墜落時には未だ生きていた被災者であり、他にも多くの被災者に助かる可能性があったことから、また片付けを手伝ってくれている友人の叔母が菓子折若夫婦の妻であることからの因縁で既に冥界の人となりながらマサヨシの霊は、若夫婦の霊たちに追われていたのである。
ラスト直前、改めて伯父はケンタにテープは処分するよう忠告し、命に気を付けるよう告げる。2人が総ての片付けを終えて大家に挨拶しアパートを出た直後、人身事故が起こった音が聞こえる。答えは読者にも直ぐ想像できよう。
そして世の中は何事も無かったように回ってゆく。一番怖ろしいことは、何事も無かったかの如く総てが隠蔽され人々は知らんぷりを決め込んでただ粛々とちまちました人生を送り続けるという事実だ。この事実は、ほら君の斜め横の薄暗がりで薄笑いを浮かべている。
実演鑑賞
満足度★★★★
可成りトートロジカルな論法で組み立てられた脚本なので分別し難いが面白いことは面白い。その理由は、当にこの手法で書かれることで分かり難さが適度に刺激になっているという点だ。
ネタバレBOX
物語は鳥取県の境港を舞台に展開する。登場するのは流しのスナックをやっているねむ、と金魚。実は霊能者で組織事務局に属した過去を持つ妖怪ハンターのねむ。その弟子筋らしき金魚。先ずは腹ごしらえをしようと名物の蟹料理屋へ赴く。
片や引っ込み思案で目立たぬように生きていた彼女を変貌させ新たな世界に導いてくれた大切な親友を亡くした蛍、失意の彼女に愛を告げた霧は共にこの地を旅しに来た。目的は名産の蟹。蛍には最も大切な人が亡くなってしまうという宿命観がありこれがトラウマである。
ところが、どういう訳か2組とも目指した店は臨時休業、仕方なく街を彷徨うと屋台のおでん屋があった。このおでん屋の女将も元妖怪ハンター、流石水木しげるさんの故郷というよりこじつけが多すぎるキライはある。まあ、物語全体の作りがトートロジカルであることはしょっぱなに書いた通りなので作家の特性ということで諦める他あるまい。ベースにあるのは開演前にホリゾントのスクリーンに延々と映し出されるSNS映像で没個性的表現で似たような内容が延々と続き創造性が最も要求される表現というジャンルでこれほど没個性的な映像を延々と流すことのできる神経に甚だ滅入っていたし、根底にあるであろう強い承認欲求や集団ナルシシズム及び上げた傾向とは真逆の没個性的表現に満足して居るらしいことの矛盾に平気であるように見えることの気色悪さに唖然とさせられていたのだが、このような矛盾を敢えて作り出すことによって実生活中には存在しない苦悩やトラウマを化工産物として拵えている可能性や実際に在り得るジェンダー差による女性の被害に対する恐怖も考えた。
何れにせよ、続く物語は悪意は感じないものの、極めて広範囲に及ぶ妖気を発しポテンシャルの高さは弩級の妖怪が、この地に現れ人を喰らっているという状況が起こっているということであった。この妖気に引き付けられるかのように現れたテディベアを抱えた現役妖怪ハンターはねむの元相棒。喰われたのはおでん屋の女将をしていた元妖怪ハンター、下手人は出生に絡み強いトラウマを持った女であった。
このメインストリームに絡むのが蛍と彼氏の恋、蛍の一途な恋は、またしても裏切られる。共に旅する霧は既に鬼界のヒトとなっていたのである。トラウマを共通項として、これもありきたりと言えばありきたりだが、普遍的と言い換えることもできる心の深い傷による苦悩と純粋な愛であるが報われぬ恋の悲劇は、主役と脇役で確かに描かれているからだ。
実演鑑賞
満足度★★★★
開演前にはシャンソンの名曲が流れ、板上センターには上部をブルーシートで覆われた直方体が鎮座している。この下手には紐が張られ洗濯物が干されている。こんな舞台美術を背景にオープニングではムード演歌を歌う歌手が登場、前説を務めつつなだらかに導入。華4つ☆ だが解釈次第だ。
ネタバレBOX
歌手退場と同時に直方体の片端を持ち上げる者が居る。中から現れたのは1人の初老の男。設定は川岸、この直方体はこの男の段ボールハウスである。人1人が横になって寝るサイズちょっきりなのは、不法占拠に当たるから地元の市役所職員から大目に見て貰える範囲で遠慮がちに設置されている訳で住人の性格を表わしている。
ところで、今作のタイトルには恐らく仕掛けがある。東南アジア等で料理用に用いるバナナに掛けた意味とサンスクリット語のニルヴァーナに掛けた意味とのWミーニングである。この点に気付けば案外すっきり解釈できるのではないか? 料理用バナナの話は台詞に出て来るし、実際にバナナを食べるシーンも出てくるがこちらは普通に果物屋で売られているバナナで、肩透かしを食わせるのも作家のジョークと捉えられよう。一方のニルヴァーナは涅槃の意である。即ち、悟りの境地を指し、同時に生命の火が吹き消されたということでもあるから空でもあろう。西洋流の概念では自由の究極の形をイメージできるかも知れない。何れにせよ我らは生、老、病、死からは逃れ得ない。而も世の中は様々な柵でできている。運、不運は己の生まれる時も、場所も自ら選ぶことすらできないことから初めっから決定されていると言えないことはない。このような不公平にも関わらず取り敢えずの生活は総てが平等という建前で始まっているのが我々が暮らす社会の在り様である。このギャップ自体を生きる人々の安らぎが何処にどのような形で存在し得るのか? そんな深刻な問い掛けすら感じとることも可能な作品ではあるが、このような受け取り方をしなければ一体何が描かれているのか? 正体を掴み難い不思議感覚で観ることのできる作品でもある。更に深読みすればこのように観る側の自由が保持されている点に今作の狙いがあるのかも知れない。
実演鑑賞
満足度★★★
レイヤーが成立する為には先ず存在しなければ。時代の表層だけ観てその趨勢に乗っかった論理を用いている気がする。
ネタバレBOX
板上はこの小屋としては少し珍しいレイアウトを採っている。劇場入口側にL字を鏡文字にし時計回りに90度回転させて短辺を据え成り行きで長辺になる両部分を客席とし、劇場入口から板上迄は階段で繋ぐ。板長辺の対面に長辺下手から順に中、大、小の順に矩形の枠が据えられている。長辺上手には最も低くサイズは大きい矩形が倒れた状態で据えられている。この矩形各々が、凡そ各登場人物の棲むエリアということになるが、下手から3番目の矩形には黒色系の紗のようなカーテンが三つの面に付けられている。出捌けは客席変形L字のコーナーの対角辺りに1か所。尚天井からは様々なオブジェが吊るされており各矩形の各々の桟や矩形の奥にある壁、壁際に設けられた簡易衛門掛けには衣装等が掛けられていたり、様々なオブジェが貼り付けられていたりするが色調はほぼ暖色系。
物語が何を意味するのか? 論理的に追うのは可成り難しそうだ。というのも脚本家によれば男女二元論の持つ加害性について三部作を書いたとのことであるが,作家の言う男女二元論が実際何を意味しているのかが、今作では全く触れられておらず、今回演ずるのが総て女性によってである以上例えばジェンダー論で考えるなら女性に対する男性による加害性ということが考えられるものの、実際に演じられる舞台では、女優達は一応自称‟僕“だったり‟私”だったりしつつ幾つかのグループに分かれて同時に台詞を発し、而もその台詞自体若い日本の現代女性が使う類の言葉なので正確な日本語とは程遠いうえ出演者全員が異なる台詞を同時に発音するから観客の殆どは何がどのように語られて居るのか総てを正確に聞き取り判断することが出来ない。最初からそのような混沌を作り出すことが目的であるならそれはそれで興味深いものの或る二元論の間に発生する対立の加害性を問題化しているのであれば、二元論を構成する各々の存在論がアプリオリに示されている必要があるにも関わらず、その点に関して一切表現されていないと感じたのは今作の上演形態そのものが全体の聞き取りを不可能にしているせいなのか或いは三部作の第二部ということで一部で既に表現されているからなのかは不明だが、少なくとも終演後に初めて見た当パンによれば男女二元論の加害性が問題だと捉えているのであろうから、問題の発生する源である♂、♀の存在論は必然的に示されねばならない。これが欠落しているから自らの健康状態を即ち肉体を根拠率に発言する他無いキャラが登場するのである。このキャラは存在論という今作の主張の根拠となり得る共通項を持たせる為に絶対必要な根拠律であるにも関わらずこの視座が欠落している為に総てが瓦解し焦点の定まらぬいい加減な作品なったと思われる。結果このような脚本と演出自体がその主張と矛盾し、結果破壊すべき二元論そのモノに対する論理的批判自体が成立し得ないのではないか? 既に述べたようにそもそも男女二元論とだけ言って実際その二元論を具体的に示している訳でも無く、ハッキリ象徴化している訳でも無いから、個々の主張そのものが、何ら共通項を持たぬ論点に向けて唯わあわあ騒ぎ立てているという形にしかならない。
作家の言によれば、これらの位相を表現する為に三つのレイヤーを設定しそのレイヤー間の差異と発語される台詞の差異とでそれらを差異化しているというが、その為にはそれら総ての台詞が総ての観客に一旦総て理解されその上で選択されねばなるまい。然し乍ら先に述べたように殆どの観客にそんな芸当ができるとは思えない作りなので言っていることとやっていることとは矛盾する他はあるまい。この点が決定的に問題であると捉えた。