実演鑑賞
満足度★★★★★
劇場には何かが居る。
ネタバレBOX
アクシデントや天候不順で出演者が劇場へ来れない。そんなシチュエイションの中で三々五々集まったあれやこれやの人々。無論予定していた出演者も居るには居るが香盤表を埋めるには余りにも少ない。然し穴はアケラレナイ! 観客が入るか否かも定かではない。然し穴はアケラレナイ!
この土砂降り、凄まじい雷鳴の中で多くの交通機関がストップ、停電や事故、おまけに電話迄通じないのだ。が、素人も含め雨宿りの坊さんや食品配達をバイトでやっているラッパー、電気工事士等々が怪我や下手をすれば死をも覚悟せねばならぬ酷い状況の中でも入口を閉ざすことをせぬ劇場に逃げ込んで来た。これらの人迄巻き込んで送る妙に楽しく爽やかなショータイム。
折々妙に哲学的で深い台詞が入り、それが夢と現実の、死と生の境界領域に位置する劇場空間で機能する。未だ国家幻想だの、法だのというチマチマした縛りに対する抵抗感も慣れも無い時代と空間に。
これはヒトが未だ原人だった頃からの長い歴史の中で培ってきたアナーキーで自由な生き方を改めて刻印する儀式だ。自分達の想像力及び創造力と実践で勝ち取ってきた、勝ち取ってゆく姿こそが、今当に晒され共有される。自立と相互補完への息吹が新たな時代を感じさせるのは、そのショーで羽を付けた衣装を用いるシーンがあることやあの世とこの世を繋ぐ木魚や大徳寺リンのような仏具の利用、ハーモニカ、テープ音源、歌唱、ダンス、・タップダンスにシャンソン、シャンソンもどき等と共演する演目にも表れていようし、移動できるハンガー5つを利用したショーアップの巧みに、電力不足による照明・音響の二択等の困難を創意工夫で乗り切ってゆく清々しさや全体としての爽やかさに繋がって何とも言えない。
実演鑑賞
満足度★★★★★
タイゼツ、ベシミル。換気休憩10分を挟んで約2時間半の大作だが、一瞬たりとも目を離せない傑作。終演後の役者陣個々の挨拶がコロナ対策の為出来ないので開演前に赤備え姿の武者たちの撮影OK、早めに行くべし。(華5つ☆、追記後送)
ネタバレBOX
島原・天草の乱は御存知の通り1637年の年貢挑発の頃に勃発し数カ月の長きに亘り廃城になっていた原城に立て籠もり江戸幕府を震撼させた日本最大のキリシタン・農民による一揆である。神の子として総領に担がれたのが天草四朗時貞(16歳)だ。実は今作でも描かれている通り25年前の1621年に追放された宣教師・マルコスによって「25年後に神の子が現れ人々を救うだろう」と予言されていたのも歴史的事実だ。マルコスは故国に帰ったが、歴史的には乱の起こった島原の旧領主(有馬家は有名なキリシタン大名晴信を出した家系であり)・天草(を領した小西家も同様小西行長を出している)、領民にもキリシタンが多かった。因みに乱の起こった当時の島原領主は松倉勝家。今作で描かれているように飢饉の続く中、厳しい年貢の取り立て、領民への仮借なき拷問等の悪政によって知られる。天草の乱当時の領主は寺沢家で島原同様の圧政が行われたことで知られる。また今作で指摘されている如く石高の過剰申告によって唯でさえキツイ年貢がより過剰に徴収されていたのは、関ヶ原以降のかつての豊臣方大名の反乱を恐れた徳川幕府が大名の力を削ぐ為に採った政策であった。今作に登場する三代目将軍・家光の為政者としての賢さも呼び出した九州の大名たちにかつての裏切りや反目等々を一々念押ししたり、知っておるぞ、と匂わせる数々の台詞によってその政治哲学の神髄を巧みに描いていると同時に、政治とは他人を支配するテクニックと考え一種のゲーム感覚で冷酷な施策も平然と為す冷酷をも見せつける。その意を汲んで実際に幕閣の総大将として島原・天草の乱終息に途中から動くのが松平信綱、3回も幕府軍を蹴散らし神の子の噂を天草四朗に被せ総大将として担いだのがかつて信繁に仕えた森宗意軒であり、一揆軍がこれほど強かったのは、かつてこの地(島原・天草を領した有馬や小西の配下が身分を農民に落とされはしても戦国時代に戦った元武士だったという史実に負う所が大きい。こういった状況の中で天草四朗が秀吉の孫にあたるとの噂が流れたようである。今作はそのような噂をも物語の主筋に取り込む。更に大阪夏の陣で家康を追い詰め赤備えで有名な猛将真田幸村(信繁)の孫、源次郎幸村が四朗の大切な友。物語作者としての山田右衛門作が表現する者として今作の物語を紡いだことになっており、ラストで彼が物語を紡ぐ姿が描かれた後サスが入る演出は秀逸。
実演鑑賞
満足度★★★★
舞台はホリゾント中央に出吐けを設け、両端を手前に引いて150度くらいの角度をつけた壁に連なる側壁とぶっちがえになって上手・下手の袖から延びる短い壁の間を若干開けて上手側・下手側の出吐けとするがこの壁面は折り紙を内側に織り込んで層をつけたような意匠に形作られ中ほどにドアを設けたもので出吐け通路は3つ、出入り口は5つという面白い作りだ。基本的に板上はフラットであり、箱馬を物語の展開に合わせて設置・撤去する。音響や映像は非常に良い装置を使っており、各々の担当者たちの操作レベルも高いので脚本・舞台美術と並び大人の技量を見せてくれる。
ネタバレBOX
シブゲキの上演作品は大人が担当する脚本、照明、音響、舞台美術は優れているが役者はアイドル的な若手が多い為演技レヴェルがイマイチ、落ちがちだ。無論力量のある役者が肝要なパートに入っているから要所要所はキチンと締めているが、楽日の最終公演1回を残す段階になって、オープニングでヒロインが吐く台詞の~千という所で膳に近い発音をさせているようでは演出に問題ありと指摘する他無い。また中盤の群衆シーンで場面を横切る女学生3人程の歩行シーンでその歩き方は変に無機質で初期AIでもなく役柄はヤマタが経営する学園の生徒とみられる所から普通の人間の歩行をすれば良いのに役作りも何も考えずに唯動いているというのが明らかであった。観客は不自然に役者が動けば直ぐ勘付く。キチンとダメダシをしておくべきである。殊に役者経験が浅く演技の何たるかを理解していない者と演技をキチンとこなす役者が同時に登場するシーンでは猶更演出は気を入れてダメダシをすべきだろう。箱馬の設置・撤去シーンが結構多いのだが、1回だけ偉く目障りに感じたシーンがあった。中盤の終わりに近い辺りだったと思う。こういった点にも注意して欲しい。
とはいえシンギュラリティ―の危機を目前に控えた時代を背景として働く国際IT防護機関と資本家を利用し体制転覆を図る革命グループ、天才プログラマーとして手腕を発揮し亡くなったヒロインの母、唯一の形見として残したペンダントの秘密、資本家父子の相克に多角的な恋の在り様が絡み、更にAIと人間との因縁と戦闘、それを抑える為の唯一の方法としての対話等。適度に錯綜した物語は楽しめた。通常シンギュラリティ―が起こればディストピアに行きつく物語になることが多かろうが、争いを対話によって収めるという発想は実際に行われている対テロ戦争の失敗を逆照射していて面白い。
実演鑑賞
満足度★★★★★
この小屋の板はちょっと変わっていて正面と正面下手側に客席方向に突き出すような小さな板が延びているが、今回用いられるのは正面の板部分のみである。下手側側面、上手側側面はシンメトリーになっており壁面には鉄格子の嵌められた窓。ホリゾントのほぼ中央に大きな窓枠があり窓枠の奥にスペースが設けられている。その上手に出吐け、側壁と正面壁との間にも出吐けが一カ所ずつ設けられている。総ての壁の表面の凡そ下半分程は厚くパテが塗られたような様相を呈するが、これは塵が堆く積み上がった吹き溜まりのような印象を与える。即ち劇空間そのものが、この精神病棟が様々な人々の嘆きや念の集合によって形成された時空を場として形成していることを示唆していると考えられる。三つの壁以外はフラットなスペースだが、必要に応じて多くの箱馬が様々に必要な物に化す。(追記終了)
ネタバレBOX
役者の衣装は、塵の王が黒、他は総て白系である。この色の区別から塵の王とはサタンの仲間との印象も与えるがそうではない。寧ろ人々が希い果たされなかった無念の念の集積が存在と化したものである。
物語が展開するのは、先に挙げたようにある精神病棟である。その病院の経営姿勢を本音と建て前、時に揶揄によってエンタメ化しつつ分かる者にはその内実が手に取るように分かる形で表現して見せる。展開の組み立て方が頗る上手く、役者陣の演技も力演である。
患者への虐待や薬漬け、措置入院時の拉致同然の暴虐といった非人道的な扱いをする収容施設の存在する日本の実態は時々ニュースでも報じられるから知識を持つ方も居るだろう。無論、日本にも解放病棟や患者に芸術的表現をさせることによって病の軽減を図る病院も存在するが、今作では未だ先験的な試みではあるもののヨーロッパで実践され始めている徹底的に民主的に話し合い病を軽減するオープンダイアローグ形式の治療法やミコのように己の存在感覚そのものを喪失しているようなケースでは存在し生きている己を五感等の感覚を通して刺激(具体的には掌に氷を載せる、料理の臭いを嗅がせ食欲を刺激する等)蘇生し活発化させることによって精神疾患を克服しようとする方法を対置して見せる。(ミコは実際には発狂していた訳ではなく措置入院で強制的に収容されていたが、幼い子供と引き裂かれていた、そのことが彼女の自殺指向を発症させたのである。そして塵の王を形成する念の一部が彼女の息子のものであった為、彼女は朧気に塵の王を認識できた。劇中母子の出会うシーンは圧巻である。)またヨーロッパの一部の地域では、患者を地域に帰し、医師・看護士が患者の居る家に出掛けて診療する件についても言及される。これらは総て患者を人間的に扱う姿勢であることを対置している訳だ。
商業演劇でもあるから、エンタメ要素を盛り込み擽りを入れてある。{(医師・サリィが医院オーナーの女であり、バイトでSMクラブの女王をしていること、そのオーナーも精神科医であるが、カルテ自体はハチャメチャだ。そのハチャメチャぶりは観劇して確認すべし)看護士が多重人格(煩悩の数と同じ108重人格、所謂ホームレスの年老いた女性が元ミュージカル俳優で歌踊を披露するなど)
日欧の差が上に挙げたように対比されているのは、日本の総ての施政方針に現れている体質に対するアンチテーゼと観ることが出来る。同じように収容される場所としての監獄、入管の収容施設等々での虐待、殺人も本質的な人権無視で一般である。この本質的相違を我々日本人個々が深く考える必要があろう。演劇のみならず総てのアートはこのように問題提起をすることもできるし、それが使命の一つでさえあるのだ。
実演鑑賞
満足度★★★
役者は全員女性。メイコ役、深子役の演技が気に入った。
ネタバレBOX
板は中央に階段を設えた二段組。上段の上手・下手には途中に屈曲部を持つ大きな衝立が目を惹く。ホリゾント中央の衝立の間と上手・下手に袖を設えて出吐けを3カ所設けてあり丁度客席からみて3角形の出捌けがあるのは観易く合理的だ。因みに下手の衝立には格子状の図形が描かれて抽象的・幾何学的な思考や生活態度のメイコを象徴し、上手の衝立には暖色系の色を多く用いた抽象画のような文様のようなものが描かれていてこちらは深子や若い女性達の変容するメンタリティーを象徴していると思われる。板上段に1つ(青)、下段に下手から(槐)、(イエロー)、(黄緑)の箱馬が置かれている。これも若い女性達の感性と対応していると思われるがこの関連は余り明確に関連付けて用いられたとは思えなかったのがちと残念だ。脚本・演出は同じ方がなさっているようだが全体として一本調子に推移した感がある。もっとそれぞれのキャラクターに社会性(例えば経済的格差や親の社会的位置からくる生育環境差のような下部構造を通じて生じる上部構造格差迄読み込むことによって必然的に見えてくる格差を含む)を作家が見据えないと何時迄も表層しか描けまい。せめて中層、下層迄キチンと分析できた上で表層を描けなければどうしても本質的な対立項は生まれない。その結果の同質性はドラマツルギーを生み出し難いからだ。
評価すべき点は2人の登場人物メイコと嫉妬深子は共に仇名で本名で呼ばれることは無いという仕掛けを拵え、ラスト部分以外には仇名でしか呼ばれなかったメイコと深子が互いに本名で呼び合うことでアイデンティファイし合うという所迄描いたこと。ところで深子が最も嫉妬していたのは、一見不愛想でありながら物事の本質を誰より良く弁えており、それをベースに的確な人間関係を築くだけの世間知を持つ転校生(役名は観てのお楽しみだ)に対してである。謂わば外部の目を持つ人間に対してだった。序盤から海へ行きたがる深子の‟深“という文字には生命の誕生に対しての遠い記憶、女性と海(潮の満ち干)との親近性、胎児の育つ環境である羊水の成分が海水に近いこと等々様々な意味も直ぐに惹起されよう。然し深子の場合には、それを外部から眺める視座が無かった。この欠如こそ彼女が転校生に対して最も大きなコンプレックスを持った原因であったろう。深子が矢張り終盤以外には体操着で登場するのもトレーニング中を意味しているのではないか? つまり一人前では無いということだ。だがこれだけでは弱いような気がする。この辺りで階層差を描き込むと更に面白い作品になったのではないか?
実演鑑賞
満足度★★★★
実践の大切を訴える作品。
ネタバレBOX
演技レベルではまだまだ作為が目立つ者が多く中盤迄学芸会のような演技が続くので参った。が、描かれている通り子ども食堂に集う子供たちは、母子家庭、離婚した父子家庭で父は出張が多い為父不在の折は祖父母の家に住み乍ら兄が8歳の妹の面倒を見る日常を強いられている等実際に起きている事例がベースになっており、新聞の社会面でも報じられることが増えたこともあって大体の様子は聞き及んでいる方も多かろう。だがこのような困難を背負う子供達に具体的な支援策を講じ、実施する大人の数は決して多くはあるまい。そうしたくても出来ない大人も多かろう。マジョリティーの相当部分の人々が生きることに必死な階層に落ち込む傾向が続いているからである。こういった事情から今作で描かれているように子供という社会的弱者に皺寄せが来る。
この劇団の作品は初めて拝見したが、今挙げたような問題に気付き、具体的に助け船を出す必要を感じ、実践して行ける人々の念を今作で訴えていると感じる。その真摯な姿勢が、多くは貧困に起因する困難な問題群が、日常生活に食い込んでくる様をキチンと認識させ今作を描き上演させたのであろう。中盤から閉まってきた。この優しさと演劇的実践に敬意を表し☆4つ。
実演鑑賞
満足度★★★★★
物語は小さな設計事務所の日常を描く。事務所は代表の上村を含めて4名と小規模だ。(秀作)
ネタバレBOX
但し通常の劇作品と異なり大工の棟梁を除き一場だけは通常の演劇と同じように1つの役を1人が演じるが今作は2場以降社員4名各々を2人の役者が演じる。片や本音、片や建前である。このような仕掛けで作品をメタ化しているのだが、発想が面白いではないか! 1場だけ1人1役(建前)を演じ、2場では全く同じシーンに本音を演じる役者が噛んで来るので建前と本音のギャップが面白い。3場以降は2場のようなちょっと長めの間は採らず、間髪を入れずに建前のいうことに本音が被さって来るのも小気味が良い。全体に極めてバランスのとれた秀作である。
毎朝行われる朝礼の4つの目がグー。1:鳥の目、2:虫の目、3:魚の目、4:蝙蝠の目の4つだ。その内容は先ず読者各々が考えてみて欲しい。その上で作品を観、見比べてみるのも一興である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
さて今回は、今作のタイトルをどのように読むか? から始めよう。作家の念が込められたタイトルであることは歴然としているだろうからである。読みは「シアトルのフクシマ・サケ カッコカダイカッコトジル」と読む。つまり(仮)は変更の可能性があるかも知れないので付いている訳では無く正式なタイトルの一部なのである。その理由が何か? については作品を実際に観てお確かめ頂きたい。(華5つ☆)ベシミル! 追記後送
ネタバレBOX
2011年、3月11日に起きた大震災及び津波襲来により可能性が指摘されていた全電源喪失を惹起し福島第1原発が水素爆発に至った事実は覚えていよう。被災地の人々は、地震・大津波・放射性核種被害の3重苦によって或は命を奪われ、住む場所を失い、仕事を失くしてしまった。今作はおよそその3年半後の10月、当時の首相が「アンダーコントロール」と言ってこの物語の1年前に東京オリンピック招致を決めた翌年、大被害を被った福島浜通りにあって「陸鯨」という銘酒を作っていた斉藤酒造、中通りに在り「鬼蔵」という銘酒を作っていた菅野酒造の人々の夢枕に斉藤酒造の杜氏をしていた長男の双子の娘で父と共に津波で命を落とした未来が立ち「シアトルへ行け」と告げることから始まる。舞台には、巨大な醸造用タンクが2基そそり立っているのが目に付く。
実演鑑賞
満足度★★★★
ホリゾントには大きなホワイトボード、特殊相対性理論の有名な帰結即ちE=mc²他様々な数式、幾何学図形等が描かれている。(Aチームを拝見)
ネタバレBOX
板ほぼ中央にはヘキサ(=6)角形の白く若干厚みのあるシート状の物が置かれているが、これは世界から遠ざけられたシャム双生児姉妹(シュラとマリア)が隔離されている灯台の基底床やフロアを暗示していよう。またタイトルも仮名読みすれば多重化した意味を読み取ることができる。シャム双生児と聞けば我々の世代は、ベトちゃん、ドクちゃんを直ぐ思い浮かべるが、今作は萩尾望都、野田秀樹が原作や脚本に関わっているらしい。何れにせよ、シュラとマリアには2人に1つの心臓しかない為、10歳の誕生日を迎える頃には心臓が耐えきれなくなり、2人共に命を失う可能性が高いと考えられて居た為、極めて難易度の高いオペを行ってどちらか1人を救うか、2人共諦めるか或は人工心臓を1人に付けるか等の選択肢は考えられようが、シャム双生児の場合、身体のどの部位がくっついているかで実際のオペの内容は全く変わってくるから、今作では2人の体に心臓が1つしかないという設定だけに絞って話を分かり易くしている。その分、次元と学校の授業で用いる1時限目、2時限目・・・、を用いて次元の意味をずらしつつ、音声表現では同音異議となるよう仕組まれている。更に2人を奇跡的に救えるという幻想に一定の共感を喚起する為にマリアの処女受胎(キリスト教に於ける大切な「奇跡」の1つ)に被る話を挿入したり南半球と北半球で水流の渦が逆に巻く物理現象を利用して2人をその境界線で分割すればオペは成功するハズとの幻影を撒いたりもし乍ら厳しい現実を詩的に昇華している、何れにせよ登場するキャラクターも神話的世界の住人、人間、異形の者の三巴であるから、この三者を弁証法的にアウフヘーベンしてみせたということになろうか。
実演鑑賞
満足度★★★★
演劇初心者には、舞台を観る時の勉強になりそうな作品だ。(華4つ☆)
ネタバレBOX
所謂バックステージものを地でいった作品。座長が曲者で年中脚本を変えたり、設定を変えたりするものだから劇団中が大騒ぎするのが常なのだが、そこはそれ舞台監督が中々しっかり者で何とか纏めてきた。然し今回ばかりはそうはいかない。急な高熱の為ダウンしてしまったからだ。そこで急遽代役を立て、本日はその代役の木下が舞台監督を務めるが。
今回用いられる演劇空間は通常の板の上だけでは無い。シアターサンモールの舞台寄りの客席部分全部が(通路の舞台寄り客席総て)舞台空間として設えられているのだ。ホリゾントの壁面はスクリーンとして用いられるが、幕を用いワンタッチで隠すことができる。舞台美術は大きな階段、モップの刺さったモップ洗い器、人工植裁といった所。そして客席側の椅子の背を利用して載せられた黒い平台を台形の短辺として長辺の左に照明操作盤と右に音響操作盤を前にしたそれぞれのスタッフ。やや上手側の中段辺りの椅子にダンスの振付師が座っている。観客は通路の後ろの客席からこれら全体を観る。
座長が来る前にオープニング、ダンスシーン、場当たり等が行われているが、例によって緊急の変更が行われた為に舞台美術のバラシから何から。音響、照明の変更、脚本・演技・演目の変更等で大わらわである。因みに件の座長は昭和式のやり方で劇団を引っ張ろうとするものの創立以来残っている役者は、1名のみという惨憺たる有様。然し座長は座長らしく演劇好きなら誰でも追及してやまない演劇の本質を求めて戦っており、場当たりに現れてからのダメダシにも中々鋭い指摘があって劇団を力づくで引っ張ってゆこうとする。実際演劇好きなら劇作家、演出家、舞台監督、役者、照明、大道具・小道具、制作スタッフやプロンプター等の裏方総てと、観客迄含めて追及して止まないモノ、即ち演劇の本質を求めて皆普段から自らに磨きを掛ける。役者達は数多くの戦闘シーンでも更に動き体捌きを良いものにしようと奮闘し、ダンサーも今より更に美しくしっかりした表現にする為に自らと戦っており、皿回しのような曲芸も更なる磨きを掛けて見所にしようと懸命で、とエンターテインメントを演ずる為のコミカルでドライな要素をも取り入れ、ガチ勝負で懸命な有様をも同時進行で描きつつ、同時に現実と虚構が相互陥入するような舞台を創ろうと奮闘する姿を描く。無論、観る側とて気を抜けない。
ラストは、これら総てを実現する為に用いられた策が提示されるオチ迄付く創りで、舞台に纏わる総ての人々を巻き込んだ。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル、脚本が抜群。役者さん熱演!(華5つ☆)追記2021.12.22
ネタバレBOX
原作はアメリカのバーナード・スレイド、今作では途中10分の休憩を挟んで2部構成。下手手前の壁際に三面鏡付の化粧台、その上手やや上部にダブルベッド、ベッド頭部には作り付けのテーブル、電話機等が置かれており、その奥ホリゾントにはドア、この中間にクローゼット。部屋の奥中央辺りから上手に掛けて窓、その向こうはベランダ。上手側面にもドアが在りその奥はバス・洗面所。このドアのある壁面客席側には暖炉が切ってあり暖炉奥に家具。
18歳で初産を経験し高校を中退したドリスはその後更に2人の子宝に恵まれたが、偶然レストランの端の席に座っていた男と運命の出会いともいえるような会い方をしてしまった。ちょっと不思議な出会い方であったのは、端の席に座っていた者同士の出会い方というシチュエイション自体が少し突飛なことでも想像できよう。ところでこの運命の出会いの相手男性も既婚者であった。2人は逢ったその日の内に同衾した。男の名をジョージという。会計士である。アメリカの中流に属する階層の1つだが、男の時計は3時間25分も進んでいる。正確な時刻に修正するのは会計士という職業柄全く苦にならない。口癖は「数字は嘘を吐かない」である。ところでジョージは当初、小さな嘘をいくつも吐いていた。妻がこの浮気に気付くことを警戒していた為である。ドリスにとってジョージという名も本名か否か同衾時には不明になる。というのも妻の名を当初誤魔化していたからである。数字には強いが、どういう訳か妻の直感を信じるという非科学的なげんを担いだりもするちょっとナイーブな矛盾を持ち合わせた男だ。一方のドリスはイタリア系、カソリック系の高校に通っていた。卒業生の半分はシスターになるという高校である。出産、子育ての為高校は中退したものの、未知の世界に対する好奇心や探求のインセンティブは高く中々のしっかり者である。2人は毎年同じ時期の週末、同じ場所で逢うようになる。
少しだけ今作の背景を説明すると物語が展開するのはカリフォルニアのコテージの一室、時期は1950年代初頭からの四半世紀だ。(この土地柄の設定も開放的で自由なカリフォルニア州の在り様をキチンと織り込んでいる)アメリカはピルグリム・ファーザーズが英国教やローマンカソリックと対立していた歴史もある国であり、未だに宗教が人々の思考に大きな力を持つ国で、而も多民族国家なので白人対有色人種との差別・被差別問題のみならず、白人同士でもカソリック系はJFKが大統領になる前迄は差別されていた。(というのもケネディー家はカソリック教徒の多いアイルランド系)またドリスはイタリア系(イタリアもカソリック系の国だ)なので白人系とはいえ様々な事情を抱えていたに違いない。
前半ではジョージが会計士で社会的には所謂中流層であり数字には強いので時計の針が3時間25分も進んでいる(この件は、後半の大切な伏線の1つ)のを瞬時に正しい時刻に訂正することが極めて容易にできること、そんなに数字に強いのに、変にゲンを担ぐ傾向があることや妻に密会を悟られることを恐れる点などは前述の通りだ。一方ドリスの魅力には直ぐ反応してしまう身体傾向等ちょっと軽めのギャグや恋人同士によくある小さないざこざ、ドリスが高校を卒業したことなどが埋め込まれるが、後半では高校どころか大学に入学したドリスがイッピ―のような左派系知識人に変容しファシストに急変してしまったジョージと大喧嘩を始めることに成った時、その変化の原因が長男の戦死にあったという衝撃的な事実の吐露で哀惜の念に駆られ人間的な赦しへ通じてゆく点、終盤結婚を申し込んできたジョージの申し出を拒否せざるを得なかったドリスに妻が亡くなった話をする段と共にその人にとって人生最大の事件が生身に杭を打ち込むような衝撃で描かれ、ジョージの経験する家族の死に対してドリスには新たな生命の誕生が描かれる。何とドリスの出産には医師が間に合わず新生児を取り上げたのはジョージなのだが、この時主導権を握っていたのは無論ドリスであり、ジェンダーギャップで悩まされている女性による逆転という点が興味深い。
観ている者を圧倒する場面やハラハラドキドキさせる展開に対し(例えば、ドリスが急に陣痛に襲われて破水の最中に掛かってくる電話等)生きる事の靭さと逞しさをユーモアさえ交えて対比、人生の諸相を実に見事に描いた作品である、
また、今作で極めて興味深いのは、会う度に互いの連れ合いに関してこの1年で一番良かった点と悪かった点について話し、各々の連れ合いには1度も会ったことが無いにも拘らず恰も自分の親友ででもあるかのような親近感と人間的な感情を持つに至っていることだ。これが終盤の何とも言えな深い情緒と2人の生きて来た人生の厚み深みをしみじみ実感させる描写をする際、実に大きく説得力のある布石として機能してくる。無論、最後の最後にオチ迄つける作家のサービス精神もアメリカらしい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
まずタイトルがひらがな表記になっていることに注目! 無論、複数の意味を喚起させる為えある。どんなに少なくとも3つは思い浮かべることが出来よう。3パートに分かれるが全体として無論関連ずけることがえきる。(追記後送・ベシミル5つ☆)
実演鑑賞
満足度★★★★
チェーホフの「三人姉妹」を観るのは何度目だろうか?
ネタバレBOX
数回は観ているが、そしてチェーホフ作品に通底音のように流れる没落しつつある階級の昏い展望と、それでも働いて生きてゆこうとの決意が見せる仄かな希望を描くチェーホフの筆にどこか救われる思いがし、彼の天才性を素直に喜べたものだったが、ほぼリタイア状態になって、じっくり世界を眺めてみると現在我々が抱えている状況の余りの破綻と対処すべき政治の機能不全、全体計画の杜撰(国連の各部局はそれなりにマトモなことを言っている場合が多いが)各国政治は利害・打算・阿諛追従・権力欲によってズタズタだ。その結果が科学的根拠と共に我らの救い難い未来を殆ど確実に示唆している。この明澄性の央の絶望こそ我らの時代の絶望であり、我等自身の絶望だ。改めてチェーホフが天才を以て示した絶望ですら我等が日々抱える絶望のあからさまな姿には及ばないと感じた次第である。
役者さんの役柄では我等の絶望に最も近いのが、ドクトルの絶望だろうか。医者として登場している彼は、チェーホフの影と捉えることもできるからである。
実演鑑賞
満足度★★★★★
表面上シェイクスピアの作品とは殆ど合致しない作品内容になっているが、それはエリザベス朝の英国演劇が数百年の時と遥かな距離を越えて丁度洋菓子のミルフィユのようにこの差異の中に織り込まれているからであるかのようである。(追記後送)
ネタバレBOX
即ちこの時空の隔たりの間にある急激な変容とその激しさの中を正しく今生きる渋谷と謂う街の浮動・浮遊性や混乱の中だからこそ、皺寄せを喰らう社会的弱者として被災した少女地獄の様を、回り灯籠の絵のように淡く儚く浮かび上がらせたもの・ことが、今作の姿であろう。即ち人間精神の解体とヴァーチャルな再生技術集合体として顕現させた現代人の必然的に希釈された「アイデンティティ―」が空無化の一途を辿る道程のみならず男女各々3名ずつのロミオとジュリエットに仮託され、それが表すのは過去・現在・未来と謂った一連の意味ある連想ではなく、最早何処にも希望が無いという虚無空間に佇む我等人間の抱える絶望の生み出した幻でしか無い点にこそ、今作の主張がある。
実演鑑賞
満足度★★★★★
表現する者が第1に為すべきこと。それは問題提起である。演劇に於いてもアーティストとして演劇に向き合う者なら、この点を疎そかにすべきではない。今作は、そのような立場から書かれ上演された作品と観て良かろう。この勇気ある上演に拍手を送る。
ネタバレBOX
ユトリロ、モジリアニ、ローランサン、シャガール、キスリングをはじめとするエコール・ド・パリを代表する日本人画家・レオナルド藤田27歳の渡仏から第2次世界大戦終結後までを描く。嗣治の父は陸軍軍医総監になった軍医であるが、本物のアーティストを目指す者らしく国籍も定型も拒否し常に時代と場所の特性を観察吸収し以て己独自の作品世界を構築しようと懸命に生きる嗣治は日本人であることも捨てた。間髪を入れずアーティストとしての抱負を述べる嗣治に対し父の嗣章は「お前は何人か」と鋭い問いを発する。父は、それは一般の人々とは全く異なる世界を生きることだと知っているからであり、大きな仕事を為す者は良くも悪くも社会の代表者となることの意味を知っているからである。然し嗣治の意思は固く、表現することに総てを賭け制作した作品を通して永遠と戦うことを希求する。これは一般人が想像するような甘ったれた世界では無い。全き孤独を知悉しつつ、己の全存在を賭けて、世界を観察解析し、作品に仕上げる為の技術を磨き且つ作品として屹立させることに他ならないからだ。それを実現する為に払う代償は決して小さなものではない。己の孤立と孤高を時の齎す鑢でしかと磨き屹立した物として観る者の眼前に対置することだからである。一般人には、このような人生を選んだ人間の心持ちは理解できない。無論、理解しようともしない。一般人の見るのは単に作家の評判、気にするのは自分の周りの人間が下す己の評判に過ぎない。而もそのような評判の結果は作家に重大な脅威とも名声ともなり得る。殊に日本の同調圧力を原理とする圧迫は、その中心に天皇制に実に良く似た責任回避という名の空虚を置くので日本の一般人が「扇動された」(実際には周囲の目と官憲を恐れて嘘八百を選んだに過ぎないが)時の実際の圧迫とその後それが流行遅れとなった時に主体責任を完全に無視する徹底性に於いて天皇制とその象徴する空虚を根拠とする「論理」は並ぶべき規範を他国には見ないのではないか? 天皇が日本独自の云々と言い張る人々は少なくともそのように考えていると思われる。因みに朝日新聞の住は、帝大時代下町のセツルメントの中心スタッフとして活動していた。ということは東京帝国大学のマルクス主義者学生だったということだと、日本近現代史を多少齧っている者なら誰でも類推する所だ。多門が左翼的な発想を根底に秘めているのも少なくとも左派のイデオロギー、人間観を根底に置いていることは明らかである。これらの開明的思想を知る人物達が、乗り込んでくる占領軍がどのような施策を採るか事前にあれこれ考えるのは必然である。関連資料を燃やそうとする発想もある意味で自然であり、それは己の関与が日本軍政に関わりが深ければ深いほどリアルに考えざるを得ない。この期に及んで敵前逃亡する為には多くの困難が存するし、ましてかつて左翼知識人としてリーダーシップを発揮した住が、己のできる範囲で社会的責任を全うしようとする(絵描きの中から戦犯を出さない)のは当然である。無論、多門の言っていることは現代の我々から見て最も民主的で理想的な意見ではある。然し多門は小物で社会的責任を負うべき責務は住に比べて遥かに少ないのも事実だからこそ、理想的なことが未だ言えた、ということも見逃せない。第1の弟子である山田は戦死してしまったが、大日本帝国臣民から日本国国民になった無責任極まる人々から戦犯容疑者とみられ始めた嗣治は、その重圧からの妄想の中で死んだ兵士達から襲われる己の姿を幻視する。ヘルメットを被っているから顔は良く見えないが銃剣を付けた歩兵銃で襲ってくる彼らに応戦していて倒してしまった兵士からヘルメットが落ちた。その時、嗣治が見た兵の顔は、山田であった。この痛哭!
先にも述べた通りアーティストとしての嗣治に対し父の嗣章は「お前は何人か」と鋭い問いを発していた。この一言が意味した所は、実際日本でレオナルド藤田の作品評価を手の平を返す程大きく左右した。然し、その時期が過ぎ去ると嗣治の作品は、その作品の持つ普遍性と普遍的美即ち永遠性によって再び多くのファンを獲得して現在に至っている。
以上に挙げた総てが、今作が我々に提起した問題群である。この事実を良く噛みしめて反芻したい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
タイゼツベシミル。華5つ。脚本、演技、演出、照明、音響、舞台美術等もグー。おっと、うっかり。今作を観て殆どの人が気付かないであろう、伏線について書き残した分を書き足した。
ネタバレBOX
舞台は作家兼教師の佐伯洋次とその妻直子の住いを中心に展開する。描かれるのは九州の或る地方、季節は日暮の鳴く晩夏から晩秋に掛けてである。因みに2人の住いは大家・瀬戸山夫妻の隣に位置し普段から何くれとなく大家の世話になっており、家賃の滞納も可成りある決してリッチとは言えない所帯だが直子の少女のように柔らかな感性と明るく在ろうとする姿勢、夫の浮気を知りつつ耐えているその愛の深さは描き方を一歩間違えば、怪談になってしまいそうなほどの深みを感じさせるのは、全体として極めて淡々と描かれる今作のトーンに直子の鋭く的確な感性と頭脳が明敏に反応し楔を打ち込むからである。洋次の浮気に彼女が気付くのも、後任の担当編集者・吉岡が洋次を「先生」と呼ぶのに対し先任の多田久子は「佐伯さん」と苗字で呼んでいたからである、更に掛かり付けの医師から洋次が倒れた直子の養生している隣室で医師から「余命3カ月」を告げられた後、非常に早い時期に自らの死期を悟って尚極力冷静を保つ直子の、その姿勢は多田とできていることに気付いて尚、洋次を念い尽くす姿の痛々しさとして描かれていることで観る者の臓腑を抉る。
因みに今作の小道具で赤い蓋が用いられているが、それが何の蓋なのか分からないという挿話として描かれているが、無論、直子が公園で出会った小さな女の子が持っていた赤い水筒の蓋である。この挿話の大切な点は、女の子が水筒の蓋を使って既に空になった水筒から直子におままごとのように飲み物を注ぎ飲ませてくれた話に繋がっている。直子は殆ど無意識にその時の蓋を持ち帰ってしまったに違いない。その蓋が廊下に落ちていたのをこの日も立ち寄っていた大家の瀬戸山剛史が廊下で見つけたが、劇中では何の蓋だか分からないことになっている。然し乍ら、無意識にせよ、直子は幼い女の子が大切にしている水筒の蓋を持ち帰ってしまった点が重要なのである。直子の持つ少女のような純粋性は、幼女の持つ純粋性には敵わないことが示されているからである。直子は結婚している大人の女性であることがこのことで決定的に示されており、その大人の女である自分が病の為、愛してやまない夫の性の対象としては不適格者として自覚されていることをも示唆している。即ち病の所為で相手をしてやれない自らの不甲斐なさを背負っているのである。これが浮気を許さざるを得ない直子の夫への愛と自分が夫に対して持つ愛の深さと同等には応えて貰えぬことに対するアンヴィヴァレンツと悔しさとして描かれている為に極めて重要なサブスクリプトなのである。
一方、洋次も無論、妻に死期を悟られまいと優しく介護し気も使って接してはいるが、妻が彼を愛する程のひたむきさは感じられない。その有様は転勤が決まった多田が転任前の最後の仕事として洋次の原稿を受け取りに来た時、死の直前の唯一の夫との近場への旅行を断念させられた直子が湯呑を落としたシーンで表現される。即ち洋次に零れた茶を乱暴な物言いで「拭け」と命じられ抵抗する姿に凝縮されている場面だ。彼が直子の深い愛を悟るのは彼女を失って初めてであるという事実の持つ痛ましさが描かれる終盤の男女の認識差の齎す越えようの無い距離が人間存在のギャップの深淵を覗かせて観客に応える。
実演鑑賞
満足度★★★★★
小野小町と深草の少将の百夜通いについては三島が「卒塔婆小町」で描いているし上演回数もそれなりに多いので舞台を観ている方も多かろう。今作も下敷きにしているのは、この百夜通いに纏わる夢幻能なので当然のことながらシテ(実方)、ワキ(謡子)、ツレ(黒塚・僧侶)として設定されており、二部構成になっているのも単に尺が休憩を入れて160分という長尺だからというだけでは無く能の前場、後場に対応していることに留意すべきだろう。あやめ十八番の作品は日本の古典文学の素養を基礎にした作品が多いこと、今作でも和歌等が多用されていることでもこの事情は納得できよう。(ベシミル 華5つ☆ 追記後送)
実演鑑賞
満足度★★★★★
物語が展開するのは、施設のある場所から直ぐの展望台である。この展望台からは太陽の塔が見える。(シリアスだが、見るベシ。追記後送華5つ☆)
ネタバレBOX
即ち千里ニュータウンの傍にある殆ど人の寄りつかない一角に据えられた展望台だ。この山を下ると川が流れており山からの湧き水や季節によっては雪解け水なども川の源流になっていそうな可成り辺鄙な場所である。従って街に出るには車が必要だ。施設では重度の知的障碍者を預かる。現在、預かっている入所者は11名、受け入れ側は園長を含め3名。IQ測定不可(35以下)の入所者も含め、知的障害の重い者は、下の世話迄せねばならぬケース・手洗いを汚すケース等もあり、更に言語障害を伴うケースが多々ある為、コミュニケーションがままならないことも多い。またこのコミュニケーションの不完全性に起因する情報伝達不十分や隔離・外出禁止等によって収容者のストレスが蓄積され結果的に情動を抑えられなくなる為に特異な行動をとることが在る為、3名のケアスタッフではハッキリ言って人出不足であるが、実際の労働がきつく決して労賃にも恵まれている訳では無いので就労したがる者が多くないのも事実である。以上の条件のうち殊に手の掛かる事情から日本の公的な施設は受け入れたがらない実情が在る為、実際にこの人達の面倒を看ているのは私立の施設であることが圧倒的に多いのが実態だ。(読者も御存知の通り、日本の公は、基本的にアリバイ作りしかしない。殊に国家上級を含む所謂公務員は地位が上がれば上がるほど碌な者が居ないのが実情である。これに引き換え同じ公務員でも極めて優秀でありながら敢えて出世を選ばず、下位の公務員として地域や弱者の側に立ち非常に人間的に活動している方々もいらっしゃる)。今作の創作で最も大きいのが、弱者の側に立とうとしつつ、実際には優生保護思想を喧伝する為に行動するエリート公務員というキャラクターを創造した事である。このキャラの創造こそ、今作がこの問題を演劇として提起し得た最大の要因だと考える。一言で言えば、実際のエリート官僚とは違って話ができるということだ。では何故筆者がそのように考えるのかを以下で説明しておこう。{自分が今迄に出会ってきた実際の外務・文科・厚労・通産のエリート官僚等は総て腐りきっていたし、弱者に寄り添おうとする者等一人も居なかった。(エリートとされる公僕の対応は例外なく木で鼻を括ったような答弁に終始して話をはぐらかし詭弁を弄する他、対話が成立せぬよう図る事である。
実演鑑賞
満足度★★★★
舞台手前にはあちこちに塵の山、中央やや上手に舞台へ上がる段が1つ、上には茣蓙が掛けられている。舞台と客席の間、矢張り塵のような塊が上手下手の天井から1つずつ吊り下げられている。
さて、板上。ホリゾント手前に衝立のように立ち上がる壁、その奥は袖になり上手に透明なビニールが貼られてバイオリン弾きが時折登場する。通常の演奏というより現代音楽的に不協和音をアレンジしたクラシックのような音楽を演奏しているのは、この空間が破壊の瀬戸際にあるからである。ビニールの更に上手には姿見サイズの大きな金色の額縁がある。壁下手には青いビニールハウス。住人は今作の主人公である。風呂に入れないから、物凄く臭う。
壁から観客席へ延びる板上には下手に様々な書籍が塵の山となって散乱(産卵)し、上手にもやはり塵が若干と簡素な椅子としても用い得るガラクタが在る。
物語は、可成り意外な展開を見せる。所謂ホームレスが主人公なのだが、このホームレス。実は天才と称された劇作家、元大学講師も務めたインテリである。その彼が何故このように零落の憂き目を見て居るか? その顛末が描かれたのが、今作である。(華4つ星、解釈は観た個々人がすればよい、時間が取れれば追記する)
ネタバレBOX
主人公は、その才能故体制側に多くの敵を作ると同時に大学での教え子、作家志望の新聞記者をはじめとして熱烈な信奉者にも恵まれていた。従って彼の住むこの塵溜めのような空間も数々の政治的愚策や自由への圧迫、自分の頭を用いて考え抜かれた思考を持つ者達への有象無象の圧力から人間存在を解き放つ劇的空間として設定され機能している。その原動力は無論限りない想像力である。そしてそのimaginationを身体化することによって具現化する劇場としてこの場が捉えられているが故に死守せねばならぬのである。当然の事ながら立ち退き要求に応じることはできない。
一方、資本主義体制の「王」である資本家や彼らとタッグを組む「政治家」、「マスゴミ」上層部、高級官僚及び最高裁判所裁判官等利害を一にする者達は、己が利潤追求の為に例えば3S政策等を用いて人々から自由な時を簒奪するのみならず恰も人々は楽しんでいるかのように思わされながら自発的な思考を停止させられ洗脳されてゆく数々の手管を用いて思考停止へ追い込む。これら「巧妙」とも言えないプロパガンダによって多くの人々が自省の習慣を無化され、思考の表層化・無化に甘んじることとなった。
人々の持つ最大の武器である自由で合理的且つ深く実践的でイマジネーションに富んだ思考を無化し表層化することに成功した資本は次の手に打って出た。資本の唯一無二の目的・利潤追求である。その一つの現れこそ、現在この界隈で唯一の場所となったこの自由劇場空間破壊であった。このイマジネーションの宝庫を金のなる木に変えようというのである。
ところで何故解放を叫ぶ者達は、敗北せねばならぬかである。現象的には現場監督の「未だ人が居ます」という制止にも拘わらず大型クレーンに取り付けられた巨大な鉄球が彼らを襲撃したからという単なる物理法則によって弾き飛ばされ、残存していた構築物が破砕された彼らの身体に圧し掛かったからという事象に過ぎないが、人間が人間に対して行った行為として、ことはそれほど単純ではあり得ない。現場で作業に携わる者達も解放区を主張して殺された者達も単に資本(即ち資本主義社会で高位を占める資本家≒王侯貴族や所謂エスタブリッシュメント等人間社会というヒエラルキー上位者)占有階層からみれば、ヒエラルキー下位を構成する人間総ては「モノ」に過ぎないからである。今更優生保護思想を喧伝するまでもなく、彼らのイデオロギーは「進化論」の曲解を根拠とする。無論、エスタブリッシュメント達は直接他人の死に関わるような愚行には関与しない。そんなことをするのは彼らの支配を受ける人間達に任せておけばよいのである。
映像鑑賞
満足度★★★★
舞台は大道具のみ。小道具を用いる場合は総て動作で表現される。ホリゾント中央と上下壁面の壁に1カ所づつ出吐け。総ての壁の下方は煉瓦積みになっている。小道具のグラスやカップが壊れる音、武器の剣が用いられる場合は抜かれる音、銃の場合は発射音、カフェへの出入りは鈴の音等総て音響で表現される。朗読劇の形式である。BGMに掛かる音楽のセンスが良い。
ネタバレBOX
「Black confession」2021.10.15 法政Ⅰ劇
我々を取り巻く総ての状況が何者かによってコントロールされ、その専制者の意図の下に政治・経済・メディアは統制されている。一方、合理的で緻密、論理的で正確な理論と綿密な観察によって検証された事実だけを根拠に組み立てられた科学によって世界に対処する技術を持った科学者、医者等は、詭弁に踊らされる民衆には理解できないことが多いことを利用して古い伝説や俗論に残る魔術を扱う者とされ不測の事態や重大事件が起こると、その原因とされ殺されるなどの被害を蒙ってきた。
今作は、この不条理の犠牲となった被害者を虚偽を用いて言いくるめ犯人自らの手足として使役して来た真犯人を暴く迄の物語である。当然の事ながらこの真犯人の犠牲者は1人や2人ではない。共謀していた政治家も実は真犯人に利用されただけの間抜けと見做される程にずる賢く悪辣極まる人物である。こんな真犯人に10年に及ぶ長期間育てられた少女は洗脳されてはいたが、その洗脳の頚城の重圧の下で矛盾を抱えたまま、自己肯定する術を身に着ける。現代日本の嘘八百の現状を生きなければならない若者達の不安を描いた作品と観た。