ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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松ぼっくりⅢ

松ぼっくりⅢ

植吉劇場

「劇」小劇場(東京都)

2013/05/09 (木) ~ 2013/05/13 (月)公演終了

満足度★★★★


 命の論理、命に向き合う者の倫理、この双方が原点だ、という姿勢に賛成だ。それにひきかえ、原発人災の結果を受けて尚そのことに気付かない原子力推進派の愚かなこと!!(追記5.11更なる追記5.17)

ネタバレBOX

 親方、松山 吉郎の妹、千代美は長野で無農薬林檎栽培を手掛けている木村 次朗に嫁いでいるが、珍しく1週間も植吉に居座っている。その折も折、次朗が、小枝を1本持って訪ねて来た。林檎の小枝である。蕾が良い具合に膨らんで良い林檎が収穫できそうである。それが伝えたくて、長野から17時間掛け、ヒッチハイクとランニングでやって来たのだ。何故、そんなに小枝1本を女房に見せたかったのか。 林檎は、一度、失敗すると次の年も実をつけることはない。これまで、千代美が、帰宅しても直ぐ戻らねばならなかったのは、無農薬で育てる林檎の木にたかる毛虫などを枝1本ずつ手でしごいて、駆除することに忙しかったからである。だが、何万匹という「害虫」を苦労して駆除しても、林檎は実をつけなかった。悩んでいた次朗は、ある発見をする。それは、自然のあるがままに、雑草や「害虫」の駆除もせず、樹木の本来持つ生命力を高めることによって、おいしく安全な林檎を作ることであった。その実践を始めて初の成果だったのである。無論、問題は、これのみに留まらなかった。次朗の畑の周りで農薬を用いて林檎栽培をしている農家からもクレームが入った。曰く「お宅で農薬を使わないからうちの畑に害虫が飛んでくる」というものであった。次朗は、その隣人を自分の畑と隣人の畑の境界へ連れて行き、虫達の動きを観察する。すると隣の畑から、次朗の畑へ虫が飛んでくるばかりで、次朗の畑に一旦入った虫が、隣に戻ることは無かったのである。隣人も気付いた。そして、自分の畑の林檎の木を総て伐採してしまった。「農薬を使った自分の畑の林檎が、次朗の畑の林檎に悪影響を与えてはならない」というのがその理由であった。次朗は、隣人のこの態度にいたく感銘を受け、枝と共にこの話をすることになった。本来、百姓という言葉は、百の命をまんべんなく育てることを意味する。その為には、駆除するのではなく共生することが大切なのだと次朗は悟ったのである。植吉も庭木を扱う職人として日々命と向かい合って生きる人間の一人である。次朗の話の真髄を即座に合点した。
 一方、植吉は、問題を抱えていた。先代から受け継いだ日本庭園を、父亡き後イギリスから戻ったオペラ歌手の娘夫妻が、壊すというのである。先代の思いや、自分達が込めた丹精と長い時間が蔑ろにされる決定であるため、植吉、職人らは、何度も施主説得を試みるが、イングリッシュガーデンに拘る娘は頑として言うことを聞かぬ。どうしても施主が折れないので、散々、庭の手入れをし、丹精を込めた自分達の手でケリをつけることを選んだ。これは特徴的なことである。即ちどうしても生命あるものの命を断たねばならなくなった時、それを実行するのが、その命に最も近い者だということである。ここには、命と命を賭けて向き合ってきた者のみが持つ責任の取り方が現れていると見ることができよう。
 蛇足になるが、イングリッシュガーデンと俗に言われている庭園概念の歴史は浅い。無論、フランスやローマのシンメトリックな庭園技法はずっと古いのだが、現在、日本で言われているイングリッシュガーデンのコンセプトは、たかだか18世紀以来である。ポープに批判されて、シンメトリックなそれまで流行りの流れが変わったのである。それに引き換え、日本庭園の歴史は、無論、古代中国、朝鮮半島を経て伝わって来た庭作りを源流に、東洋的宇宙観を背景に創られている。一例を上げておこう、借景という技法がある。これは、庭園に石一つ置くにしても、周囲の山々や海川、丘陵などとの関係に於いて庭作りをするということである。仮に、三角形の石を庭の何処かに置いてあるとすると、その延長線上に冨士山が見える、といった具合だ。親方が劇中で言っている、日本の庭は宇宙を表す、というのはこういう意味である。
ばたふらい

ばたふらい

ソラリネ。

ギャラリーLE DECO(東京都)

2013/05/07 (火) ~ 2013/05/12 (日)公演終了

満足度★★★★

普通って
 普通の女の子の普通の恋愛を極めて普通に描いている点が良い。因みに、普通のことを普通に演ずるということは、一般に考えられているほど容易なことでは無い。

ネタバレBOX

 スタニスラフスキー理論の中核にあるものが、transparence and effectである理由もそこにあるだろう。即ち俳優が、その全存在によって役柄を舞台上の身体に滲みださせる時、自ずから其処に“普通”の表現が成立するのである。このような“普通”が最高度の表現であるのは、言うをまたない。
 本作で、今日、かおり役を演じた永井 友加里は、ソラリネの代表を務めるが、その職責に充分見合う才能を見せた。殊に印象に残ったのが、3年間付き合った彼に別れを告げられるシーンで、自らのスカートの裾を掴み、何度も、掴んだ指で揉みしだくような切ない表現と、ラスト、閉店後のアルバイト先で、女性店長と二人きりの時、当たり前の会話の後に感極まって泣くシーンである。泣く姿に凝縮された、胸の詰るような、身悶えを、観客はここに感じる。
踏切があがるとき

踏切があがるとき

神奈川県演劇連盟

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2013/05/03 (金) ~ 2013/05/05 (日)公演終了

満足度★★★★★

いつもの「国家」犯罪
 鉄道の効果音がくぐもったような部分を含めて再現されていて驚かされる。シナリオが実に良い。国鉄が民営化される前後のことを描いた作品だが、この物語で描かれた国家犯罪は、無論ごく一部である。

ネタバレBOX

 実際、我が「国」の非民主性の酷さは、世界を旅してみればわかる。無論、パックツアーなどでは分かるまい。住む国の人々と日常的に接し、その国の人々と付き合い、生活をするという意味である。言葉? できて当然だろう。閑話休題:実際、この主人公、聡一の父修二のような目に遭った人々は、結構居る。完全な冤罪である。それもこれも、この国に民主主義が、根付いていないせいだ。実際、日本よりGNP,GDPが低い数々の国々に行ったり、生活したり、その地の人々と交わったりした経験から、我が国ほど、民衆が自分で自分の首を絞めている国は無いように思う。子供達の目に光が無いのは必然なのである。振り返ってみるがいい。バブルが崩壊して後、勝ち組、負け組と勝手なレッテル貼りをして得意顔していたのは、どこの誰だ? 自分の胸に手を当てて少し振り返ってみるがよい。この作品にも出てくるが1972年は、この国の民主勢力が決定的に衰退したメルクマールの時期に当たる。沖縄復帰の年でもある。新左翼と言われた左翼勢力がこの年を境に決定的に衰退して行った。それまで、価値とされてきた痩せたソクラテスはダサイ者・物の象徴とされ、太った豚として軽蔑の対象だったものが、価値になった。自分が、決定的に反旗を翻したのは、この時からだと思う。独りでも貫く覚悟を決めたのだ。この国の体制及び、それに追随する者は、俺の敵となった。無論、射程は、この国などというレベルに留まれない。この「国」は良く言って属国、実質、植民地であるから。真の敵は、宗主国であるアメリカである。今更言う迄もあるまい。ここが分かっていないと何時迄もこの「国」の在り様が見えないボンクラか、見えているから、大衆に見せまいとする「選良」と同等の下司になり下がるぞ。そういう問題なのだ。この作品でも描かれていたが、国労は、敵を見誤った。仮に正しく認識していたにしても、上手く行ったか否かは分からない。然し、正しく見ていれば、矢張り、現在が今我らの経験しているものとは異なっていたはずである。少なくとも、もう少し誇り高い連中の数が増えていただろう。ところで、君達は誇りを持っているか? 

ING版「戦場のピクニック」

ING版「戦場のピクニック」

劇団ING進行形

d-倉庫(東京都)

2013/05/05 (日) ~ 2013/05/06 (月)公演終了

満足度★★★★

多様な表現
 息子の戦うバトルフィールドへ父母がバイクでピクニックに来る。父は、かつて矢張り戦場にあり、敵の騎兵と戦った。また、若い頃には走る地下鉄から何度も飛び降りたことがあるのが、自慢である。息子は、前線に父母が来ては危険だと、帰るように頼むが、馬耳東風!。ご存じアラバールのスペイン内戦を扱った作品だ。

ネタバレBOX

 同一テキストを全部で15の劇団が、其々の方法で舞台化、自分は、その最後のパート13劇団目から15劇団目迄を拝見したわけだが、いや、驚いた。2次元のテキストが、3次元になるということは、これほど大きな差を生むのか、ということにである。実際、各々の劇団で出演する演者の数も異なれば、作品解釈も異なる。どの部分を強調するのか、各劇団の、今迄演じて来た方法論を、この作品に如何様に映すのか、予算や規模の範囲内で、ベストな表現は何か、というのを真剣に考えた結果だろう。どちらかと言えば、オーソドックスに創る者、アナーキーな迄に、不条理性を野生味に置き替えエネルギーを爆発させる者、エネルギーポテンシャルを保ったまま、溜めを使って抑え、その緊迫感を美しさに迄高めた者、それぞれが、其々の仕方で作品を構築した。面白い試みである。また、3作品の上演の順番も良く考えられていたと思える。3作品中最もソフィスティケイションされていたのは、最後に演じたING進行形だろう。ダンスの動きなども得意な集団だが、敢えて抑えを効かした演出で締まった舞台になった。衣装のセンスもこの演出に合うきりっとしたフィギュアであり、色であった。それにしても、これ程、多様な表現に結実する不条理劇の底知れぬ深さと広がりに改めて感心した。(因みに、このようなことは、ゴドーを演出した、外国の天才的演出家も言っていたし、今回、ゲネで総ての作品を観た演出家も、「不条理劇だから、ここ迄、印象の異なる作品化が出来た」という意味のことを言っていた。以上、二人の演出家に近い自分の感じ方を、自分流の表現で言ってみた。)
 今後も、今回のような企画をどんどんやってほしい。
斜い人 (はすいひと)

斜い人 (はすいひと)

ナイスコンプレックス

サンモールスタジオ(東京都)

2013/05/02 (木) ~ 2013/05/08 (水)公演終了

満足度★★★★

外国との比較も具体的に取り入れたら
 上演前、客席にはピッ、ピッ、ピッっという電子音が鳴り続けている。
 「銀河鉄道の夜」をベースに引用しながら捨て子問題を扱った作品だが、最近の作品なら乳幼児遺棄に関して「コインロッカーベイビーズ」を思い出さない人は居まい。

ネタバレBOX

 堕胎されるかも知れぬ危機感を孕み乍ら、原始海洋の成分に似た組成の羊水に漂う胎児の母との絆を、海鳴りにも波音にも似た心音を表す心電図の電子音に仮託して表現した。深読みすれば「ドグラマグラ」からの借用も感じる。
 長い間、作家があたためてきたテーマだとか。取材もしっかりしているのだろう。誰にも言えない悩みを抱えている女性からの相談に応える為に設置されたSOS救援電話を24時間体制で支えるスタッフの覚悟を語る言葉にはほろりとさせるものがあるし、相談の場面での科白は事実だけが持つ重みとリアリティーを獲得している。
 だが、この「国」の腐りきった政治、司法、報道、官僚、御用インテリ等々の人権無視、人命軽視の在り様を、いくら似て非なる状態や遅々たる歩みで示しても、批判の矛先と劇的効果は弱い物に留まろう。それは、この方法ではメタレベルの訴求力が弱いからである。寧ろ、折角、ドイツから、この制度を学んでいるのだから、ヨーロッパ諸国の遥かに進んだ人権意識や人命尊重とフランクなメンタリティーの具体的事例を、登場したジャーナリストに語らせても良かったのではないか、と考える。この方が、ジャーナリストが初代・公式捨て子であったにしても、記者のキャラクターにより深い陰影が加わるだろうし、ドラマツルギーの強度も上がるのではないだろうか? その上で、今回上演されたように、この「国」の不甲斐ない遣り口を延々と続けたら、アイロニーとして面白いのではあるまいか? 
 また、山田など特別切符を持つ役をもっと掘り下げる必要も感じる。作家は、真に宮澤 賢治を超える努力をして貰いたい。
 他方、理屈で諸状況に対応しない・できないタイプの人々が描かれていたことにも興味を覚えた。態度表明ができない人は、実際に居る。そのようなタイプを表す伏線として、「笑点」のお題の場面で、件の女性役を演じた女優は、一切、応えずに通した点も面白い。但し、この世で貧乏くじを引くのはこのような人々ではないか、という気がするのも事実である。色々な意味で考えさせられた。
SHOOTING PAIN

SHOOTING PAIN

コロブチカ

横浜美術館レクチャーホール(神奈川県)

2013/05/04 (土) ~ 2013/05/06 (月)公演終了

満足度★★★

作・演出が浅い
 精神病院の話である。発狂の背景にあったもの・ことの中に現在の問題を嵌め込み、一応の時代性を確保した。

ネタバレBOX

 例えば、苛め、大黒柱発狂後、社会保障の限度も切れて借金を背負い未来を喪失し妊娠した若妻に、実生活が破綻した夫が狂気と正気の境界線で向き合う話、実在しない子供を中心に生活する母、一旦、患者とされた者は正気であっても薬漬け、拘禁衣などによって自由を奪われ監禁生活を余儀なくされる話、ちょっと茶化し気味な躁鬱など深刻な問題を扱っているのだが、作・演出に難があるように思う。恐らく、この作・演出家は、深い哲学や精神医療に対する知見を持たないばかりか、役者のキャスティングも間違ってしまった。結果、身体と精神との相関に気付かないような者に、疾患を持つ役を振っている。精神疾患を患う者が、発作を起こす場合などは、心拍数や血圧上昇等々の著しい亢進が見られ、昂った精神と肉体のアンバランスがホルモン分泌などにも影響を与える結果、心は熱しているのに、殆ど無感動としか見えないような醒めた頭脳を持っているような気になっていると同時に、酷い偏頭痛に悩まされるなどということが同時進行したりしているはずである。そう言ったことに想像が及ばないようなキャストならば、少なくとも患者役をやらせるべきではない。豈主役を乎、である。
 薄っぺらな表面しか見ていないから、良い役者がいても活かしきれていないように思う。演出家は、演ずる身体について、この作品では狂気についても、また社会学や哲学についても、もっとしっかり勉強して欲しい。
 役者で良かったのは、真理子役の湯口 光穂、中園役の一色 洋平の身体能力は図抜けている。パプア役の菊沢 将憲も中々であった。小春役のコロは、もう少しいじましさを出しても良かったのではないか。
愛とその他

愛とその他

劇団東京乾電池

アトリエ乾電池(東京都)

2013/05/03 (金) ~ 2013/05/06 (月)公演終了

満足度★★★★★

頗る知的
 土の上には床があり 床の上には畳がある 畳の上にあるのが座布団
その上にあるのが らくと言う らくの上には何もないのでしょうか
どうぞ お敷きなさいと言われて らくの上に 座る 云々という歌詞が 開演前には流されていて、歌詞の内容は無論、これから始まる劇の内容を暗示している。

ネタバレBOX

 幕開けに女が1人登場する。電動式鉛筆削りと鉛筆、座布団を1枚持っている。女は、鉛筆を削り続けている。次の女が登場、互いに座布団の位置を調整し合う。この行為によって、通常演劇で用いられる“間”を時間軸に沿わずに寧ろ、空間軸に焦点を当てる方向に転移させている。3人目の女が登場、ノートを持っている。この家の主婦の妹である。彼女は、家計簿をつけ、野良猫の観察をし、面倒を看ている。3人は、最初空間に於ける“間”の問題に関わっているが、次に如何にも日本的なKY(空気を読め)的な情況を演じる。それが煮詰りそうになると、やがて1人が口を開き、会話が始まる。3人目に登場した女は、仕事が決まる迄の間、姉夫婦の家に厄介になっているのである。徐々に3人の関係が明らかになって行くが、彼女達は、幼馴染で妹が引っ越して以来会っていなかったので、あてど無い旅に出た{女1、女2(登場順)}序に立ち寄ったのであった。
 次々に女客が訪れる。隣家の女は、外国土産のチョコレートを持参、姉にお茶を勧められて飲んで行くことにする。その後、姉のアルバイト先のレジ仲間が3人やってくる。彼女達も茶を振る舞われ、井戸端会議を始めるが、いつしか話題は町内会紛糾問題に移って行く。町内会の勢力争いが嵩じて終には、対抗勢力同志がスパイを送り込む泥試合になっているのである。どちらにも属さないで来たレジ仲間ではあるが、近所づきあいの関係で、4人のうち2人が、会派の異なるグループに属すことになった。だが、レジ仲間の間では不問に付すことにする。ただ、町の空気としては、疑心暗鬼が渦巻いているのである。無論、ここでは、この井戸端会議を通して、日本という「国」が持つ、ムラ政治型の問題を炙り出している。
 順ぐりに深さを増してゆく蟻地獄のような舞台展開は、知的で諧謔に満ち面白い。場ハケも設定が見事。また、姉タカコを3人の女優が演じるのは、主婦の家庭に於けるSE性(System Engineer)を示しているととると面白い解釈が可能だろう。
 閑話休題 大きな芋虫が登場するシーンも不条理演劇を通って来た、劇団の歴史的、時代的状況を反映するとともに、箍外しをしつつ、それら不条理を笑うようで興味深い。或いは自嘲を込めた苦い笑いもあるかも知れないが。
 終盤、終にスパイ問題が嵩じて、女同志の喧嘩になるが、クッキーが出来上がったことで一件落着。この辺り、女性が絶えずDVなどの物理的暴力に怯えている情況の中での、力に対する弱者の対抗・判断を示唆し、落とし所を笑いと本質に於いて提示、リアルな生き様を示して痛烈である。

ひろさきのあゆみ~一人芝居版

ひろさきのあゆみ~一人芝居版

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2013/05/03 (金) ~ 2013/05/05 (日)公演終了

満足度★★★★

熱演
 初めの一歩の延長として人生の歩みがある、という発見を通して綴られる一人の女、あゆみの歩みと弘前という街の歩みを当然重ねてタイトルがつけられているのかと思いきや、独り芝居で其処までの延長性を求めることは、酷だったようだ。あゆみ誕生から死までの誰にでも起こる典型的なエピソードを“歩く”という行為の受け渡しに纏めて書かれていた本来の脚本を、独り芝居の無援と孤立という形で舞台化し、其処に母からの視点を照射することでメタレベルの表現に昇華した。

ネタバレBOX

 シナリオに幾つものバージョンがあり、其々、演出の視点も異なるのだが、原作では、複数の役者が、上手から下手へ歩くという行為を通して、バトンを次の演者に渡し、その演者があゆみの次のエピソードを紡いで行く、という方法を採ったらしい。だが、そのコンセプトを独り芝居で演じることには、矢張り無理があったように思う。その分、母の視点から照らし出されたあゆみの姿は痛烈である。「お母さん、私、頑張ったよね」と問うあゆみの科白は秀逸だ。然し、ドラマらしいドラマツルギーが成立するのは、この場面だけと言ってよいほど、地味な展開が延々と続くので気の短い観客には、飽きられる危険性もあることも承知しておく方が良いだろう。女優は、難しい表現を熱演し、好感が持てた。
グリーンミュージカル「LADYBIRD,LADYBIRD」

グリーンミュージカル「LADYBIRD,LADYBIRD」

アリー・エンターテイメント

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2013/05/02 (木) ~ 2013/05/06 (月)公演終了

満足度★★★★

Good
 よく出来ている。少女が出演者の大部分を占めるが、このようなキャストでここまで完成度が高いのは、立派である。少女達の柔らかい感性を活かしつつ、大人が、きちんとフォローし、演技の上でも脇を固めて過不足なくプロの舞台にしている。実際、キャスティング、少女達の歌や踊り、演技の上手さも、優れたシナリオ、演出に応えた内容であった。結果、死生という重いテーマを扱いながら、決して沈んだトーンにならず、本質的でありながら質の高い抒情性を易しい表現に織り込み、希望の火のともる温かで、爽やかな舞台になった。

ネタバレBOX

 主演のテントウ虫、アンを演じた加藤 梨里香は若干荒削りではあるが、これからが楽しみな才気を感じさせ、アゲハ蝶役の古谷 梨乃もキッチリ役をこなしていた。また、蜂を演じた4人の少女たちの愛くるしさも良い。
 この少女達の謂わば陽の世界に対置されるような形で蜘蛛を演じた女優が、また素晴らしい。夜、悪、地獄と悪いイメージばかりを背負わされた役柄であったが、彼女はこの役を、ビートの効いた踊りと歌で甘美な悪と耽美な夜に変え、地獄の恐怖を従順に変化せしめたのである。そのような華を若い頃のピーターのような妖しい洒脱で演じてみせたのだ。
 これらを演出した技術も素晴らしい。虫さんと呼ばれ、彼らの飼い主でもある人間が、実際には舞台上に登場しないのも良い演出だ。惜しむらくは、カブトムシは名前からはオスであるはずなのに、女優が演じ、その角がオスのものであったことだ。カブトムシのカッコよさを表すには、この方が適当だろうが、ちょっと気になった点ではある。
 更に細かい点に難が無い訳ではないが、これからが、楽しみな劇団であり、出演者、スタッフである。
からっぽの地球儀

からっぽの地球儀

9-States

OFF OFFシアター(東京都)

2013/05/01 (水) ~ 2013/05/05 (日)公演終了

満足度★★★★

フェアであること
 最高裁など上級審へ行けば行くほど、この「国」の判断は歪む。これは、本来、下級に当たるはずの日米地位協定が、運用上、日本国憲法の上位に位置しているからである。情報公開法も笊。被植民国家、日本はヤプーの住む国であるというマゾヒスティックな茶番を見る時、この作品の提示したフェアであるか否かは重い問い掛けになり得る。
 先輩弁護士、伊藤役の小池 首領の演技が特に気に入った。

ネタバレBOX

 同じ弁護士事務所に所属していた若手弁護士2人のうち、1人は自殺、1人は詐欺事件を起こした。この若手らは大学時代から旧知の間であるが、互いの相似性を表面的には嫌っている。然し、内心互いを認め合っているのである。詐欺をやった弁護士も、弁論の腕は中々のもので収入も多かった。然るに、彼は事務所を辞めたのみならず、3千万円以上を出資して1千万の詐欺事件を働く。逮捕され裁判に掛けられるが、「自分がやった」と白状したものの動機その他一切に黙秘を続けている。弁護を担当したのは、事務所の先輩弁護士であった。彼は事件の背景に何かあると睨み、被告を弁護するが、種々の捜査にも決定的な証拠は上がらず、事件は被告不利のまま結審を迎えるかい思えたが。
 ここで演劇的テクニックを用いたドンデン返しがある。無論、伏線は敷かれていた。裁判そのものの起こる場の主体が誰であるのか? 換言すれば誰かに“夢見られた”情況が裁判というものなのではないか? とか正義とは何か? などハッキリしているはずのもの・ことが、実は曖昧であることが、通奏低音のように提示され続けていたのである。サブプロットはとってつけたような内容も含み、不備を感じたが、これも夢のような雰囲気を表す為ととれないことは無い。とどのつまり、このどんでん返しで一挙に核心に迫った点は褒めておくべきだろう。
 
「ブサイクな彼女(1月11日)」「金魚と踏切(ユニットhop)」

「ブサイクな彼女(1月11日)」「金魚と踏切(ユニットhop)」

1月11日

6次元(東京都)

2013/04/29 (月) ~ 2013/04/29 (月)公演終了

満足度★★★★

ブサイクな彼女を拝見
 青天の霹靂とは当にこのこと。いくら不況とはいえ、これはないでしょ。という内容の話である。社員2人が、出社すると“ごめんなさい”の張り紙(?)と社長の失踪が明らかになった。
 こんな始まり方をする“ブサイクな彼女”リーディングを拝見。近いうちに舞台上演されるので、これ以上、内容については触れないでおくが、人情の細部に迄、配慮の行き届いた優れたシナリオを芸達者な役者陣が演じて見ごたえのあるリーディングであった。それにしても、大阪の劇団は、実力のある劇団が多いというのが、現在までの自分の認識である。殊に彼女役の山村 涼子が光った。
 大体、‘6次元’での公演と言うこと自体、センスの良さを伺わせるではないか。この店は、知る人ぞ知る、隠れ家である。一応、誤解しないよう言っておくと、一番近い東京での舞台上演は、駒場、アゴラ劇場で5月初旬“筋肉少女”というタイトルなので、詳細は、自分でチェックして欲しい。

人狼 ザ・ライブプレイングシアター

人狼 ザ・ライブプレイングシアター

セブンスキャッスル

上野ストアハウス(東京都)

2013/04/24 (水) ~ 2013/04/29 (月)公演終了

満足度★★★★

参加型ゲーム
 キャストは、基本的に毎回違う役回りになるので、科白はアドリブである。即ち、瞬時に、自分の語るべき言葉を、役柄によって守らなければならないルールに拘束され乍ら、選択を迫られる。一方、観客も、推理結果をはんていするシートを渡され、書き込むようになっているので、ゲームの参加者である。この、推理の緊張感が楽しい。
 感心させられたのは、役者たちのアドリブ脳の質である。基本的に非常に高いレベルにあるのだ。流石と言わなければなるまい。と同時に、この辺りが、アドリブの面白さなのだろうが、男女により、或いは、個々人の興味を持つジャンルや得意なジャンルの違いにより、表明される意見が、その人の極めて特殊且つ普遍的な社会的・文化的位置を晒してしまうのである。タイトな時間の中で、表現されるものの緊張感と共に、とても新鮮な発見であった。

suicide paradox

suicide paradox

拘束ピエロ

シアターブラッツ(東京都)

2013/04/27 (土) ~ 2013/04/29 (月)公演終了

満足度★★★

作家は、もっと世界に自分を開いて
 嫉妬やそれに纏わる所有を描くサスペンスということなのだろうが、テーマ自体に軽重の差が無い複数の要素が入っており、アウフヘーベンされていない点、場の転換がかなりあるにも関わらず、出捌けに関して工夫が無い点、関係性を自意識の中で組み上げている点等々で、物語として、第三者に見せる収束点を曖昧化してしまった。
 これらの諸条件が、結果的に、サスペンスそのものの、成立を困難にしている。即ち、伏線が伏線としての機能を果たさず、物語を拡散させる方向に働いてしまった。もっと、シナリオの段階で登場人物たちの声を作家は聞くべきである。ナルシシズムは、この場合、最大の敵だ。詩と同じで、劇に於いて、その登場人物は、具体的なものとして生きていなければならない。それは、シナリオレベルで、そうあらねばならぬのは、当然のことである。そうでなければ、役者がイメージを掴めまい。

カルブ・ル・アクラブ

カルブ・ル・アクラブ

箱庭コラァル

鈴ん小屋(東京都)

2013/04/27 (土) ~ 2013/04/27 (土)公演終了

満足度★★★

甘え
 独立し、アレンジされた三つの童話(赤ずきん、眠り姫、青髭)を、ヴァイオリンの生演奏、用意されたBGM、背景映像などと組み合わせたパフォーマンスだ。ヴァイオリンは、まずまず。だが、ソロコンサートで聴けるレベルではない。童話のアレンジ部分も、矛盾があったり、話の展開が、見えてしまうなど、まだまだ勉強が必要だ。更に、演者自身のポテンシャルが上がってくるまでに、開演からの時間が掛かり過ぎる。しょっぱなの朗読は、字面を唯、上手に読もうとしているだけであった。もっと、科白自体を練り、イマジネーションの発露が音声になるようなレベルで朗読に挑むべきであろう。
 また、かむシーンも多くみられた。練習不足が明らかである。何れにせよ、まだ、プロとしての認識が甘い。怪我をした話をしていたが、プロである以上、客の前で言うべきことではあるまい。

アベンジャーズ

アベンジャーズ

カプセル兵団

ワーサルシアター(東京都)

2013/04/25 (木) ~ 2013/04/29 (月)公演終了

満足度★★★★★

男ならでは
 映画の「アベンジャーズ」は観ていないのだが、映画との引っ掛けとか。何れにせよ、アメリカのヒーローも登場し、日本のヒーローとの丁々発止が、よく出来ている。また、日本のヒーローたちも、活躍した時代毎に、往年の、中年の、若いの、と三世代の様々なタイプに分かれ、その時代の価値観、メンタリティー、行動様式迄浮き上がらせる見事なものだ。エンターテインメント形式の文明批評と言えるかも知れない。

ネタバレBOX

 それぞれの役者が、時代の衣装を、雰囲気を見事に表現している点で役者陣の演技が光る。更にヒーローの宿命、その哀歓をもしみじみ滲ませての演技、シナリオ、演出であった。ラストでは、ロートルだと引退しかけていた往年のヒーローが、次元の裂け目を見、強大な敵の力を見て、血を滾らせ戦闘に赴く、という幕切れも見事である。基本的なスタンスがドライなので、逆に、繊細なペーソスなど、人情の機微が良く出ている。
 本編の後、伝説のヒーローと銘打って、日替わりゲストを招いてのイベントがある。こちらは、ゲストによって、内容、時間など大幅に変わる模様だ。
くおんの空

くおんの空

劇団グスタフ

シアターグスタフ(東京都)

2013/04/25 (木) ~ 2013/04/28 (日)公演終了

満足度★★★★

まじめな作り
 知覧特攻基地に満州から配属された朝倉少尉以下5名の搭乗機はオシャカ寸前、整備兵からも頗る評判が悪い。修理しようにもエンジン自体に相当ガタの来ている代物なのである。「一緒に散ろう」と誓った他の満州帰りも、機体の不良で合流できないまま、出撃の日を待っている状態である。人倫に篤く隊員からの信望もある少尉の計らいで、整備班も最大の努力はしてくれるのだが、いかんせん、整備がまともにできないような機体では、沖縄どころか、奄美までも飛べるかおづか危ぶまれるのである。更に、整備不良で帰還したとなれば、精神的ダメージも大きい。死を前にそんな精神の緊張と弛緩を繰り返さざるを得ない特攻隊員たちの唯一の慰めは、慰問に訪れる女学生たちの微笑みやほのかな恋である。(追記4.28)

ネタバレBOX

 衣装、髪型、敬礼の仕方、小道具に至るまで、キチンと調べ、リアリティーのあるものになっているが、休憩を挟んで前後半に分かれた舞台の前半は、余りに真面目に、史実に忠実に作り過ぎたきらいがある。現代の観客は、ワンタッチで、面白い物、変化の激しい物に移行するのが、普通の生活感覚だろう。だが、荷車を押しているシーンは、坂あり、悪路ありで大変な状況であるにしても、少し、単調に過ぎ、長く演じ過ぎた。演出で、何かハプニングを入れるような工夫が無いと、現代の特に若い世代には、魅力的な場面にならないのではないだろうか。演出の方に、現代の余りにも多様な世界観で苦労している若者達の感性を捉える努力をして頂きたい。所謂、サブカルも含めて、時代を見る必要があるように思う。
トモダチ

トモダチ

演劇ユニットハイブリッド

阿佐ヶ谷TABASA(東京都)

2013/04/25 (木) ~ 2013/04/28 (日)公演終了

満足度★★★★

寓話
 テーマが、ハッキリしており、シナリオも明解。役者陣の演技、演出も良い。結果、友情というものの極めてデリケートな性質を炙り出すことに成功していると同時に、人の情、命の論理、倫理に対するシステムの論理の優位性を提示して見せ、この「国」で、人倫に関わる総ての論理が、システムの論理によって排斥される様を描いた。同時に、システムの論理は、ヒエラルキー上位のものに対しては従属的である構造も示すことで、終にはシステムそのものの硬直性を示唆している。

ネタバレBOX

 サバイバルゲームに参加する為、相棒欲しさに、フレンドリーライフサポートジャパンに「トモダチ」を発注した男、だが届けられた「トモダチ」は、過去4回も返品された商品だった。返品はクーリングオフ制度や国の審査の結果である。商品審査が行われるようになったのは、この手の製品で以前、購入者と商品が組んで銀行強盗事件を起こしたり、喧嘩をして、商品が購入者を怪我させたりという事件が起こった為、このような事態を未然に防止する為、国が設けた審査基準に通らない商品は、製造元に送り返され、5回返品された商品は殺処分されることになっているのである。
 ところで、今回送られてきたトモダチは今迄4回返品されていた。男と商品、つまり一人の人間とアンドロイドの、真のサバイバルが始まる。
 審査は、商品到着後、1週間以内に実施される。審査概要は、手元に資料がある。審査は明朝9時。1人と1台は、審査をパスするために猛特訓を始めるが、アンドロイドが、廃棄処分になることをクライアントに話したことが、服務協定違反に問われ、会社側は、アンドロイドを持ちかえり、廃棄処分にする旨通達。クライアントのたっての願いを聞こうともしない。だが、スイッチを切ったはずの審査プログラムは機能し続けており、国家は、審査を続行、合格の判定を下す。会社は、服務協定違反を主張し、廃棄処分を主張するが、国家判定を覆すことはできなかった。
 意地の悪い見方をすれば、実際には、日米地位協定の下位に置かれた日本国憲法以下総ての国内法が、責任無化のシステムとしてしか機能していない、被植民国家、日本とそこに住む我々日本人を炙り出すアイロニーとしてのみならず、この被植民国家システムの硬直を示して痛烈である。
ブルーノ・シュルツ『マネキン 人形論』

ブルーノ・シュルツ『マネキン 人形論』

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2013/04/25 (木) ~ 2013/04/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

彼我の差を越えて
 ポーランド人の魂に焼きついた深い傷。それは、現代においても彼らの魂の奥底に滾るマグマである。独ソ不可侵条約後、東西を分割されたポーランドは、民族の土地を奪われ、喪失していたばかりではない。彼らは殲滅戦の対象だったのである。周知の通り、ナチ以降のドイツは、分轄領内でもユダヤ人を、ソ連は、矢張り分轄領内でポーランド人を殲滅しようとしたのだ。結果、この作品で描かれているように、人は存在し続ける為に、マネキンになった。即ち、人間が、マネキン化されたのである。言い換えれば、生きている人間は、人間としての所作を剥ぎ取られ、マネキンとして生きるしか無かったという状況を表しているように思われる。そこには、故失くして存在の根拠を奪われ、自らの土地に安住することも妨げられ、存在そのものが、アポリアと化した彼らの苦悩の歴史が読みとれよう。
 然し乍ら、演出家は、俳優が単にマネキンをマネキンとして演じることを潔しとしていない。マネキン化は、演技の死を意味するだろうからである。かれは、俳優が演じるマネキンが、人格を持つことを要求する。ここが、この演出家の優れた点である。その為に俳優達に演出家が望んだのは個々の俳優自らの方法論である。再度言うが、人格を持たない存在が、人格を持つことを要求したのである。俳優達は、これに見事に応えた。
観ている自分は、始まる早々、役者が竹馬を履いているのではないか、と思うほど大きく見えて、彼らの力量を見せつけられた。(追記4.28)

ネタバレBOX

 演出家は、俳優達が、役をどう解釈するかに任せるという方法を採っており、如何にもヨーロッパの自我対世界という世界認識をベースにした方法だとは思ったが、現代の日本人は、アジア的な汎主体性と欧米流の自我主体性の差異を見分けることのできる個人も増えてきているだろう。とは言っても、まだまだ、文化レベルの差異は大きいので、充分に理解したという納得感を持てる人はそこそこに留まる、歴史も歴史認識も異なる。カントールを想起させるような工夫が凝らされているので、日本の和歌の伝統にある、本歌取りなどのような輻輳化も見られる。言語の差も大きい。ポーランド語以外に、ラテン語、ドイツ語、ロシア語等も使われているので、ヨーロッパで、ヨーロッパ人に立ち混じって暮らした経験を持たない日本人には、難しい点が多々ある作品ではあろう。
 だが、彼我の差を埋める、舞台上に用いられている物にも注目したい。これらは、無機的なオブジェでは無い。様々な意味を仮託され、我々の死後も存在し続ける、不変の実体である。このことの不気味と救済のイマージュをも受け取って欲しい。そして、一つの物に仮託された複数のイマージュや意味も考えて欲しいのだ。そうすることによっても、この作品に込められた別の一面が、見えてこよう。
 今作は、我々の認識に応じて、様々な壁を越え、尚訴えかけてくる根本的なものを持つヴィヴィッドな作品である。例えば、ラストに近い所で再三登場する鳥のイマージュにも注目。何を意味するか、明らかであろう。同じ物が、別の事を意味していることもある。例を挙げれば、受話器だ。これは、鳥のイマージュ、烏のイマージュ、更には、共産党幹部の机上にいつもデンとして置かれた、電話でもある。その会話によって誰が、いつ、どんな形で粛清されたかも、当然のことながら想起させるのだ。また、今でも、米兵やイスラエル兵が、其々の占領地域で同じことをやっている、壁に書き込まれた、“ポーランド人が居ない・居る”、“ユダヤ人が居ない・居る”の表示の非人間性を暴くと同時に、「ユダヤ人が居る」と叫び、壁にその旨書き込んだ、ポーランド人を通して、絶滅の危機に立たされた人間一般についても、その想像力を働かせて観て欲しい。
 その想像力を働かせるに相応しい、濃密で深い舞台である。
で・あること

で・あること

明治大学実験劇場

明治大学和泉キャンパス・第一校舎005教室(東京都)

2013/04/24 (水) ~ 2013/04/27 (土)公演終了

満足度★★★★

示唆的
 所謂“人間らしさ”なるものが失われ、システムが、幅を利かせる時代になってかなりの時が経った。このような社会の激変に対し、人々が皆上手く対応しているとは言い難い。結果、多くの人々は、その存在感の喪失に悩み、自らの立ち位置を失くし、ただ、漂うのみである。そう言って過言ではあるまい。作品に語られている女子大生監禁事件は、実際に起きた事件だということだが、その背景に在るのは、存在感喪失の不如意ではないだろうか? その辺りの事情を若く鋭い感性が掬いあげているのではないだろうか。(追記完了4.25)

ネタバレBOX

 東電、F1の人災事故を今更挙げる迄も無かろうが、存在感の喪失と嘘でずぶずぶの不信の時代に、論理や倫理で如何に立ち向かうか。否、立ち向かい得るか? その試行錯誤の涯に辿りついたのは一種の存在論であった。それが、究極的にはゴジラという形を取るのは謂わば必然である。意味の成立し得ない時代、人々が、根拠づけることのできる唯一の位置こそ、我らに残された唯一の自然、身体そのものであるだろう。無論、既に、この身体は、核汚染によって痛く傷つけられている。そのような身体以外に我らは持ち得ていない。それは、第五福竜丸被ばく事件の時代、当時の農林省、厚生省が実施した公式記録だけでも992艘の鮪延縄漁船が被ばくしている実態を見、日本全土を覆った死の灰の拡散データを記録した、アメリカによる定点観測結果からも明らかである。(因みにアメリカは、自国の地上核実験によって生じた死の灰拡散についても日本全国、朝鮮半島など、自らの力の及ぶ範囲に定点観測所を設け計測していた。即ち、我々日本人は、総てモルモットにされていたのである。)
 今更ながらのことをもう一つ。我らヒトは地球上では食物連鎖の最上位に位置する。その我々が、作り出した核兵器に被ばくして生まれたのが、ゴジラである。(ゴジラ第一作を見よ)ゴジラ同様、ヒトの作り出した爆弾と“形の異なる”原子力。それが、原発だ。どちらもヒトが作り出した原子力であるが、それが制御を失って暴走し始めたのが、F1人災である。ところでそれを推進した自民党と推進諸勢力は、アメリカに恥を忘れて追随している。日本を潜在的核基地にしておくことがアメリカ並びに自民党の意思であるとき、我々、日本の庶民は、声を挙げて、核廃絶に向かうので無い限り、最後に再登場する豚の群れのように放射能まみれで生きる家畜同然である。
あ〜あ

あ〜あ

泥棒対策ライト

多目的スペース・キチム(東京都)

2013/04/24 (水) ~ 2013/04/26 (金)公演終了

満足度★★★★

核拡散の時代
 中心性を喪失した我々はいわばépaveの如きものである。集約点を持たないから意味を持たない。従って意味の無い時間・空間の央を彷徨う他に無い。その旅の徒然に我らは遊ぶのだ。恰もそれが、我々が人間であるということを証明する唯一の術であるかのように。人間が遊ぶ動物だと言ったのは、確かホイジンガだったと記憶するが、他にもたくさんの知識人が同じ意味のことを指摘しているだろう。日本でも、後白河法皇が編纂させた「梁塵秘抄」の一節に“遊びをせんとや生まれけむ”の有名な一行があるのは、周知の通りだ。
 何れにしろ、今回、このパフォーマンスに採用されたタイトル“あ~あ”は、表現している者達が、この状況を存在の不如意と捉え、意識してのつぶやきと捉えることができよう。遊ぶ姿は、紙相撲、満員電車、だるまさんがころんだ、閉店間際のファーストフードショップで、一円が足りなくて財布をひっかきまわし、長蛇の列を作らせる男、男と女、憧れの投手にラブレターを渡そうとする女子の争い等々が、巧みな振付によって、パフォーマンス形式で演じられる。だが、核技術が制御不能、処理不能のまま、拡散し続けている以上、様々な形式で遊ぶ我々が辿りつく先は、No Mans Landかもしれない。“あ~あ”!

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