確か初日
確か初日にみたように記憶している。
構えのいい世界観を据えての展開に引き込まれた。
スタッフワークも充実していて、本格的な小劇場作品になっていた。
いい芝居だった。
満足度★★★★
激烈な発想、鮮烈な舞台
大きな時空を重層的に構成していて叙情性も高い、柴幸男らしい発想に満ちていて鮮烈な印象の舞台ではある。
ただ若干の切れ味の悪さが残るのは、どうやら俳優へのあて書きが影響しているようだ。
詳細は、演劇感想サイト「福岡演劇の今」に書いています。
http://f-e-now.ciao.jp/20120210.html
満足度★★★
インパクトがあった。
キッカケ多すぎ~
どこにハケてるの~
というインパクトが大きすぎて、作品そのものを冷静にどうだったか語れないような気がする。
2,3回観たら、何かいえるかも。
1回では無理でした。
好き嫌いだけなら、好きな話でした。
途中(それも序盤)でダレて、睡魔に襲われたけど(あたしの体調のせいかもしれないです)ふわんと出てきた寺田さんで目が覚めて、そこからは集中できました。
満足度★★★
まだまだ変化中
いつもの、断片的な台詞や場面の連続がやがて「大きな物語」に
集約していく…はずが、今回あうるすぽっとの、余りにも大きな
スペースを持て余してしまったのか、演出・選曲・台本共にだいぶ
健闘しつつも、以前の作品に比較すると、やや一歩、といったところ。
ただ、役者の演技と台詞回しには、柴氏独自のユーモアと機知が
相変わらずみられるので、次回作はより自然に空間や物語を乗り
こなせるんじゃないか、と強く思いました。
あうるすぽっと、ほぼ満席、という事実に、柴氏、そしてままごとへの
期待を何より強く感じましたね。
かわいい
重いような気もするけど、それをさらっとみせるところが好きだなと。
ままごとという劇団名にふさわしい空気感で、良い意味でとても「かわいい」と感じました。かわいいという言葉は軽く見られがちですが、しかしかわいいとしか言いようが無い…。そして、最初から最後まで、優しさが溢れていたような気がしました。優しさ溢れる繰り返しだったと。
満足度★★★
雪の降る海にて
90年代以降、解離性障害が演劇のモチーフとして描かれることが多くなった。
鴻上尚史『トランス』がその代表格だが、このような「病気」が芸術の題材として普遍性をもって受け入れられるようになったのは、大なり小なり、我々がみな、社会生活を営む中で、何らかの精神的疾患を抱えざるを得なくなっている状況があるからに他ならない。私たちは往々にして、「個」を喪失してしまう。複雑化する社会の中で自分を見失ってしまっている。
「ここはどこ」「私は誰?」は、現代人に共通の、普遍的なテーマになっているのだ。
『テトラポット』の主人公は、常に周囲の「現実」に対して「違和感」を覚えている。
いや、周囲が、主人公に「現実を疑え」と問い掛け続けている。
「誰もいない」と叫ぶ主人公に、周囲の「彼ら」は、「いないのはお前だ」と返答するのだ。
我々の「主観」がどれだけ信じられるというのだろう。
我々は常に自己の認識を「騙し」続けている動物である。「言葉」は決して真実を語る道具などではなく、欺瞞を作り出し、我々を虚構へと誘う。最大の欺瞞は、デカルトの唱えた「我思うゆえに我あり」である。その思考が他人から与えられたものではないと証明することが果たして可能だろうか。
我々が現実に違和感を覚えるのは当然のことなのだ。自分が現実だと信じているものは、他者から見れば、当人が勝手に作り出した虚構に過ぎないのだから。
柴幸男は、作品ごとに手を変え品を変えて、その我々が作り出す虚構に、果たして展望があるのかどうかを問い掛け続けている。
『テトラポット』の恐ろしさは、主人公が、自らの虚構性を常に問われながらも、何一つ明確な返答もしなければ、行動に出ることもない、ということだ。
そうなのである。この主人公は、徹底的に「何もしない」ことを明確な役柄として与えられている。私たちが、観客のあなた方がみな、今現在、「何もしていない」のと同様に。
私たちは、「何かをしなければならない」時に直面してはいないのだろうか。もしも直面していながらその事実から目を背けているのだとしたら、やはり我々は自らの作り出した巨大な卵の中に閉じ籠もったまま、孵化することを拒絶している存在なのである。
満足度★★★★★
好き!
私はこの作品好き!
気に入った!
プロセニアムの劇場でどんな演劇やるのかと思ったけど、
こんな作品も作れるんだ。
柴幸男は天才だと思う。
役者も良い演技だった。
満足度★★★
わが星と比較して・・・
「ボレロ」は聞いたことはあるが曲名しらない、というレベルの私ですが、曲そのものに興味を持ちました。
しかし芝居自体は満足とまでは至りませんでした。中間の部分で退屈して眠気が・・・。
かといって全然だめだったというわけではありません。最初の急激な場面転換のところとか、最後の演奏シーンとかはかなりよかったです。
2回観たら、もう少し意味がわかるのかも。ちょっと難解に感じてしまった。機会があればもう一度観てみたいという気もします。
満足度★★★
海の底で
北九州のオリジナルプロデュース公演とのことだけど、北九州のアピールになったのかしら。
舞台は集中してみていられた。幻想的でちょっと神秘的な印象。演技も良かった。
満足度★★★
生者と死者の対話
海とラヴェルの『ボレロ』をモチーフにして、生と死の境界を漂う人の姿を描いた物語で、複雑に前後する場面展開が印象的な作品でした。
柴さんの作品には珍しい、大掛りで具象的なセットの中で、序盤は短い暗転を挟んだ断片的なシーンが目まぐるしく続き、次第に登場人物の関係が明らかになるにつれて、生命の進化や水の循環といったトピックが登場人物達のエピソードに絡み合い、生きることの掛け替えのなさを感じさせる物語でした。
台詞や役名に言葉遊びをふんだんに用い、それがただ遊んでいるだけでなく内容に密接に関係しているのが良かったです。特に最後のクライマックスの場面では同音異義の2つの言葉がその動作のレベルでも同じ動きで2つの意味を表していて見事でした。
暗転とセットを上手く使った唐突な出捌けの仕方がユニークで楽しかったです。
話や美術や音響が具体的であるがために、逆にシンプルな表現から立ち上がる演劇ならではのマジカルな質感が弱まってしまったように思いました。
音楽に影響を受けた強い形式的方法論からユニークかつ普遍的な情感を生み出していた『わが星』や『あゆみ』に比べて、この作品ではそのような形式性が弱く、物語性を原動力に展開する一般的な演劇に近付いていて音楽性やダンス性が薄まっていたのが残念でした。
台詞の発声の仕方を含めた聴覚的デザインの精度が柴さんにしては低いと思いました。ラストの場面はとても盛り上がる流れなのは分かるのですが、その意図に対して表現が甘く感じられ、気持が乗らず興醒めしてしまいました。
満足度★★★
結果としてはそれなり
会場からバックに流れ続ける「ボレロ」のイメージ。
曲そのままに何度も反復される時間。
同じでありながら、変化は確実にみられる。
観ながら、柴さんはSFが好きなのだろうなと分かる。
話は私好みの日常SF系、演出も悪くない。
暗転後に突然現れる役者たちなどいかにもインパクトがある。
役者たちは主に九州弁を話す。脚本はなく、演出はほぼ口立てで行われたらしいが、これは正解だろう。
役者もそれなりに見える。柴さんは、「下手な役者を使ってそれなりに見せる演出家」というイメージが私の中にある。なので、これも間違いではないのかもしれない。
しかし、何を言っているのか分かり辛い役者がいる。
群唱になると聞き取れない、音と被ると聞き取れない。これは辛い。しかも複数人だ。
この作品はあて書きだと聞いているが、そうなると、役者は自分本来の声を使うこととなる。当然聞き取り辛い声を持っているものはそのまま演じられる。
似た声質の者がいても、区別をつけないままとなる。
もちろん、練習段階で改善は行われたのかもしれないが、楽日一日前に観劇した私がそれを感じることはなかった。
練習中はついて行くことだけで精一杯だったのかもしれない。
だとしても、役者たちの中に、自分たちのやっていることの意味を分かっている者がいるとはとても思えなかった。
もちろん、「イカ」の意味についても。
もしも、これが小学校の学芸会だったとしたら、大感動し、惜しまず拍手を送ったことだろうと思う。
満足度★★★
プレビュー公演を観ました。
舞台装置にわくわく。照明にわくわく。開演が迫るに連れ、大きくなっていくボレロの音にもわくわく。
柴さんの作る舞台はもうなんかLIVEな感じ。心地よい。
ブログとか前情報無しで観たけど、
それで良かったなーと思えた。
一瞬だけチカっと点灯したライトが、(まさか操作ミスなわけはないだろう)
わざとらしくもあるけど、
でもやっぱり希望の光のように見えて、良かった。
リアリティがあり過ぎたり、
まったく虚構であったり、
冗長かなーと感じた場面もあったので、
もうちょっと足りないなー、と思うところがあったので☆3つで。
こなれた頃は東京かしら。
そちらもちょっと観てみたい。