満足度★★★
雪の降る海にて
90年代以降、解離性障害が演劇のモチーフとして描かれることが多くなった。
鴻上尚史『トランス』がその代表格だが、このような「病気」が芸術の題材として普遍性をもって受け入れられるようになったのは、大なり小なり、我々がみな、社会生活を営む中で、何らかの精神的疾患を抱えざるを得なくなっている状況があるからに他ならない。私たちは往々にして、「個」を喪失してしまう。複雑化する社会の中で自分を見失ってしまっている。
「ここはどこ」「私は誰?」は、現代人に共通の、普遍的なテーマになっているのだ。
『テトラポット』の主人公は、常に周囲の「現実」に対して「違和感」を覚えている。
いや、周囲が、主人公に「現実を疑え」と問い掛け続けている。
「誰もいない」と叫ぶ主人公に、周囲の「彼ら」は、「いないのはお前だ」と返答するのだ。
我々の「主観」がどれだけ信じられるというのだろう。
我々は常に自己の認識を「騙し」続けている動物である。「言葉」は決して真実を語る道具などではなく、欺瞞を作り出し、我々を虚構へと誘う。最大の欺瞞は、デカルトの唱えた「我思うゆえに我あり」である。その思考が他人から与えられたものではないと証明することが果たして可能だろうか。
我々が現実に違和感を覚えるのは当然のことなのだ。自分が現実だと信じているものは、他者から見れば、当人が勝手に作り出した虚構に過ぎないのだから。
柴幸男は、作品ごとに手を変え品を変えて、その我々が作り出す虚構に、果たして展望があるのかどうかを問い掛け続けている。
『テトラポット』の恐ろしさは、主人公が、自らの虚構性を常に問われながらも、何一つ明確な返答もしなければ、行動に出ることもない、ということだ。
そうなのである。この主人公は、徹底的に「何もしない」ことを明確な役柄として与えられている。私たちが、観客のあなた方がみな、今現在、「何もしていない」のと同様に。
私たちは、「何かをしなければならない」時に直面してはいないのだろうか。もしも直面していながらその事実から目を背けているのだとしたら、やはり我々は自らの作り出した巨大な卵の中に閉じ籠もったまま、孵化することを拒絶している存在なのである。