満足度★★★★
コンヴィチュニー演出オペラ「マクベス」
前半はピンと来ないところもあったけど、後半はソロも良くて、特にラストの演出がイイ!(笑) と、ご機嫌な帰り道で、「あれはないですよね」と言い合ってるスーツのおじさまたちと遭遇。意見分かれるのもイイね!
満足度★★★★★
ヴェルディ『マクベス』
オペラという場合,ミュージカルとか,オペレッタというものは入らない。オペラは,宮廷文化から,近代市民社会への移行期に発展した。絶対王政の威光を表現したものだったから,オペラは,浪費芸術でもあった。もしかして,バッハは,プロテスタントで倹約思想家だったから,オペラを書いていないのかもしれない。
最初,古代ギリシアの悲劇復興をめざして,気がついたら,単なるショーであり,物語性より,スペクタル性の強いものになる。パターン化され,体制芸術といえる。グルックは,オペラの脱ショー化をめざす改革をおこなった。いずれにせよ,フランス革命までは,イタリア・オペラこそが,正当なものだった。ヨーロッパ全土で,イタリア語によるイタリア・スタイルが上演された。フランス流は,バレエを使い,合唱を重視した。また,音楽よりも,文学性に重点があった。
バロック・オペラにおいては,作品よりも,場に比重があったかもしれない。貴賓席にいることは,大衆を見下ろすことであり,また,彼らの視線を浴びることでもあった。一番前で観るのは,むしろはしたないことだった。
オペラが時代を超越して,普遍的な芸術になるには,モーツァルトの存在が大きい。彼は,喜劇をオペラとして,人間性のある作品で人気を得た。人間業とは思えないカストラートは目立たなくなる。テーマも,男と女の哀しいすれちがいを描く。
オペラの本質は,御用芸術であって,時の支配者の好みでスタイルは変わっていく。オペラの観客層は,やがて,教養ある貴族でなく,一般大衆も取り込んでいく。ナポレオンが失脚すると,また次の時代に突入する。ロッシーニ『ウィリアム・テル』が有名。グランンド・オペラの魅力は,音楽と台本と舞台が一体となる総合演劇といえる。ビジュアル性を尊び,事前に台本など読まなくても楽しめるようになっていく。視覚効果を重視したといえる。この頃,オペラの大衆化を見越し,ヴェロンは上階のボックス席を廃止し,天井桟敷に改造した。
18世紀まで,オペラにおいて,イタリア様式が唯一の国際様式だった。やがて,政治体制の不安定な国々で,国民オペラが生まれる。誰もが,いつかどこかで聴いたことのある,遠い民族の歌声の記憶,といったものだ。異国オペラと呼ぶべきものもある。異国を舞台として,白人と現地の娘との悲恋なども多かった。スッコットランドを舞台としたヴェルディ『マクベス』1847も,異国オペラに含まれるかと思う。
浅薄なイタリア,フランスのオペラを追放し,総合芸術としてのオペラを確立したのは,ワグナーということになる。オペラは,貴族の遊びで,シャンパンのように消えてゆく性格をもっていた。しかし,これを,文化財と考えるようになっていく。定番の名作,すなわち,レパートリー・オペラという言葉も1845年頃から,イタリアで使われる。ワグナーによる,総合芸術としてのオペラという理念が浸透するにつれて,オペラ上演における演出家の地位ははね上がる。映画という強力なライバルの出現により,自らの存在理由に,オペラは苦悩する。
参考文献:オペラの運命(岡田暁生)中公新書
満足度★★★★
この『マクベス』は,史実からプロットを取ったと言われています。
1605年,国王ジェームズ一世の時代のことですが,政府転覆をはかる事件が起こります。これは,ガイ・フォークスが首謀者です。彼は,カトリック弾圧に腹をたて,国会議事堂を爆破計画をたて,逮捕され,八つ裂きになりました。
このとき,共謀者で,ガーネット神父という人がいるのですが,『マクベス』に登場する「二枚舌野郎」のモデルになったといわれています。
国家的危機を回避して,ジェームズ一世にシェークスピアが何か作品をプレゼントしようとします。ジェームズ一世は,とても,悪魔好きだったのです。
この『マクベス』は,史実からプロットを取ったと言われています。
スコットランド王ダンカンは,とてもばかだったようです。悪政が続き,マクベスとバンクフォーは,協力して,この王を倒したようです。しかし,シェークスピアは,武将バンクフォーは良い人にして,マクベスを暴君に仕立てていくのです。
実際のところは,1040~1057年の治世において,善政が施された。17年間は,前の王のダンカンよりは,落ち着いていたとされています。国王にささげた作品は,史実をかなり歪曲したものだったということになるでしょう。
また,この『マクベス』は,年代記に出て来るダフ王と,ドナルドの話からもヒントを得ています。ダフ王は,かつて,ドナルドの一族を処刑したことがあって,ダフ王とドナルドの関係が良好になっても,ドナルドはこれを忘れませんでいた。
ダフ王は,ドナルドに褒美も与え,今後とも仲良くやりたかったにちがいないのですが,ドナルドの妻は,もしかして,過去処刑された一族の血縁だったかもしれませんね。そういうわけで,楽しげに立ち寄った宴会の席が修羅場になるのです。
だれが,王になっても,世の中が平和ならそれで良いのかもしれませんが,ドナルドという人は,悪に徹することができない凡人だったので,罪の意識に苦しむのです。そもそも平和裏に,政権についた王などいない気もしますが。
王妃様がお亡くなりに。
何も,今死ななくてもよかったものを。
そう聞かされるにふさわしい時がもっとあとにあったはずだ
明日,また,明日,そして,また明日と,
記録される人生最後の瞬間めざして,
時は,とぼとぼ毎日歩みを刻んでいく。
そして,昨日という日は,あほうどもが,死にいたるチリの道を
照らし出したに過ぎぬ。
消えろ,消えろ,束の間のともしび。
人生は,歩く影法師。あわれな役者だ。
出番のあいだは,大見得切って騒ぎたてるが,
そのあとは,ぱったりさたやみ,音もない。
白痴の物語。なにやらわめきたててはいるが,
何の意味もありはしない。
参考文献:新訳マクベス:河合祥一郎
満足度★★★★★
短剣を頂戴。眠っている人も,死んでいる人も,絵のようなもの。
マクベスは,サラリーマンかもしれない。ある日,自宅のアパートに戻ろうとする。と,近所の三美人ママから,イケメンだってほめられる。きっと,将来は,出世するわよ・・・とか,お世辞を言われる。このお追従に,のぼせあがったマクベスは,家にもどるのが待てず,その話を愛妻にメールする。妻は,そうよ。あんたは,まじめ過ぎるからだめなの,もっと汚い手でもなんでも使って,同僚を次々につぶしていけばいいのよ。そうすれば,社長だって,夢じゃないわよ。
というような話になって,二人は,三人の魔女の預言に振り回され,人生の歯車を狂わせていくのだ。マクベスは,もともと仕事の鬼でもあったので,何人かは,会社から追い出せた。まだ,残っている連中は,逆に,組織の上層部に訴えでて巻き返しをはかろうとする。負けてなるものか,買収でなんでもやってやれ。夫婦の結束は,こうして,素晴らしく深くなるのであったが,没落の日が突然やって来るのであった。
シェークスピア演劇では,結婚はあまり肯定的に描かれていない。これは,シェークスピア自身家庭生活に満足していなかったから,といわれる。18歳のときに,8歳ちがう姉さん女房をもち,すぐに女の子,さらに何人かの子どもを持ったとされている。しかし,その結婚生活は,ほとんど別居であったとされる。結婚後,俳優をへて,脚本を書き始め,ヘンリー六世などを書く。劇作家としては大成功するが,円満な家庭を演じることはなかったのか。
しあわせな結婚生活を,ほとんど書かない作家が,『マクベス』という作品で,仲の良い夫婦を初めて書いた。それは,王位簒奪を計画し,連続殺人にいたる,グロテスクな物語だった。真っ赤になった血の手袋が,オペラ『マクベス』の小道具では一番印象的だったと思う。音楽も素晴らしかった。また,いつの日か。
短剣を頂戴。眠っている人も,死んでいる人も,絵のようなもの。
絵に描かれた悪魔を怖がるのは,子どもの目です。血を流していたら,護衛たちの顔になすりつけてやればいい。なすりつけるのよ,護衛たちに罪を。
満足度★★★★
シェークスピア文学は,人生を肯定的にとらえるもの。
シェークスピア文学は,人生を肯定的にとらえるもの。
シェークスピアが愛されるのは,人生に対し肯定的である点かもしれない。演劇そのものは,必ずしも明るいとか,わかり易いとかいえないが,意外と,前向きなのだ。逆にいえば,太宰治みたいに死ぬことばかり考えながら,生き,最後玉川上水で入水自殺した人もいて,そっちは,お世辞にも人生を肯定的には観ていないだろう。
どのみち死ぬから,同じじゃん。という人は,遊園地で遊んでいてください。
シェークスピア演劇は,人生をありのままに写すことが狙いになっている。人生とはこのようなものだ。人間は,こんな風に生き,そして,死んでいくんだよ,といった感じだ。それを,五幕とかに上手にまとめる。
シェークスピアは,36歳頃から,続けて,四大悲劇を作った。『ハムレット』『オセロ』『マクベス』『リア王』。彼は,人生に悲観し,悲劇を作ったわけでは,まったくなかった。悲劇的要素の,演劇における効果に興味を持っていた。だから,悲劇的な人生を作ってみて,悲劇が人の心に与える力とか効果をさぐっていた。
シェークスピアの作品には,厳密にいうとオリジナルはない。元になる脚本は必ずあって,それを,少しばかり脚色するのが,彼の腕の見せ所だった。自然に対し,鏡を掲げて,民衆に演劇として提示していく。彼の作品は,人物の性格が生き生きしているのだ。人生を劇場にたとえた。だから,『マクベス』でも,人生が,歩いている人の影,影法師だっていうんだ。人間の影なんて,月の光がなくなれば,いとも簡単に消えちまうものさ。
『マクベス』は,野望に駆りたてられた男の物語だ。良心の呵責はあるものの,まっすぐ,破滅につき進む。各場面は,比較的シンプルでもある。展開するスピードも,恐ろしく速い。加速度を増す。魔女の呪文。殺人事件の連続。マクベスという一人の凡庸な将軍が,生き,死んでいくのをどう評価してもかまわない。とにかく,一人の男は,生き,そして,死んでいったのである。
やっぱ,死んじゃうんだね。
まあね。
参考文献:福原麟太郎著作集(研究社)
満足度★★★★★
オペラ『マクベス』魔女の呪文の謎を解く!
オペラ『マクベス』魔女の呪文の謎を解く!
先日,オペラ『マクベス』を観た。感想は,というと,これは,難解な作品だ。たとえば,魔女が出て来て,「きれいは,汚い。汚いは,きれい。」などと,意味不明の呪文が出て来る。シェークスピアには,ハイレベルの技巧がある人で,子どものミュージカルの方が,気が楽ですね。でも,オペラ『マクベス』どうでした?わかりましたか,とかいわれちゃうと,気になりました。
で結局,この魔女のことばの意味は,なんでしょうか。埴輪雄高の説明によると,トルストイと,ドストエフスキーの視点を対比するとわかるという。彼の「表現者とは何か」という文章から推察する。
トルストイには,『復活』のような宗教的な作品が印象的で,『アンナ・カレーニナ』も良い作品だ。それらは,背景に,神の視点というか,全的視点がある。そういう「表現」があって,哲学・思想がある。それは,まっすぐな,子どものような視点でしょうか。
これに対して,ドストエフスキーは,『地下生活者の手記』というへそまがりな作品があって,そこでは,終始変なおじさんがぶつぶつ言っているわけです。こっちの作品は,複雑で,屈折したプリズムの世界であって,全的視点(まっすぐな)ではないというわけです。
この「地下室的視点」というのは,世の中には,正しいことが,すぐに,まちがいになったり,まちがいであったものが,正しいことでもあったりする。正しいとも間違いともいえず,次に進むことも多い。(これは,難しく言うと,ヘーゲルとか,マルクスを読むとき出て来る弁証法的な考え方,というのでしょうか。)
で,問題は,こういう考え方は,さかのぼると,シェークスピア『マクベス』で,魔女の呪文にちゃんと出て来たという。つまり,ヨーロッパの人は,『マクベス』を読み,気がつくと,哲学にめざめたことになりますね。(ちなみに,ブレヒト『サロメ』によれば,善が悪,悪が善という聖書からの引用もあった)
PS
原作とオペラのちがい
「Fair is foul, and foul is fair.」は,演劇『マクベス』では,抜群に有名ですが,オペラ『マクベス』になると,この魔女の呪文は,fairとfoulという形容詞が確認できるだけで,直接台詞にはなっていなかったようですね。
満足度★★★★★
もう一度見たいものですね。
マクベスと夫人は,ダンカン王暗殺で共同正犯
英語のTomorrowが,『アニー』には良く出て来る。このとき,このTomorrowは,古語の朝を意味するmorrowへ向かう,つまり「朝」に向かうという意味もある。これは,マクベスでもそうなる。ひとつのTomorrowが,「明日」という意味と「朝」という意味があるのだ。
役を演じている人間が,マクベスの台詞をしゃべりながら,「明日」へ,あるいは,「朝」に向かって舞台上で,歩みを進める。すると,背後から光が射して,自分の小さな影が消えていく,つまり,人間がこの世という舞台から退場することになる。
シェークスピア劇で,マクベス夫人は,Lady Macbethとされる。特に名がつかないのは珍しい。これは,マクベスと夫人は,ダンカン王暗殺の共同正犯・一心同体のカップルという印象になる。たとえば,終始,
Macbeth : If we should fail ?
Lady Macbeth : We fail ?
といった感じである。
Weということばが,強く使われ,あくまで「しくじる」のは夫婦同罪なのだ。
マクベスは,ダンカンの寝込みを襲って,短剣で刺殺する。ダンカンのお付きの者も殺す。
マクベス夫人は,夫に「短剣を貸して」という,「二人を犯人に仕立てるおめかしよ」という凄い台詞がある。こうして,ふたりの従者に濡れ衣を着せる。
シェークスピアは,マクベス夫妻の言葉の劇を書いている。一心同体に,王位簒奪の野心の旅が完成した後,狂死・崩壊への旅が始まる。
どうしたというの,妄想などにとりつかれて。済んだことはすんだことじゃないの。
食事のあいだも,眠っていても,びくびくするんだ。悪夢にうなされるくらいなら,いっそ死人と墓場で寝ていたいよ。
バンクフォー殺害については,マクベスの独断になり,夫人は計画も知らない。ここにいたって,ふたりの共犯は,崩れ始める。マクベスは,暴君に向かう。マクダフ,マルカムから悪魔のマクベスと呼ばれ始める。
マクベス夫人は,手についた血が,どうしても取れないと何度も何度も手をこする。そして,ついに発狂して自殺するのである。
参考文献:深読みシェークスピア(松岡和子)
満足度★★★
上野の東京文化会館で,オペラ『マクベス』を観た。
上野の東京文化会館で,オペラ『マクベス』を観た。このホールは,学生時代,ジャン=ピエール・ランパルのフルートを聴いたとき以来だったと思われる。今回,初めて,三階席から観劇することになる。少しめまいがして気持ち悪かった。
正しいという字を,何度も書き加えているのが,不思議だったが,どうやら人が死ぬ度に訂正を加えていたような気がする。
シュエークスピアの全作品は,昔NHKのBBC版でひとおとり観たことはあったが,内容はほとんど忘れている。四大悲劇も,劇場ではまったく観たことはなかった。オペラも,フィガロの結婚とか,ツーランドットとか,それがオペラだったかもしれないくらいで縁がない。
さて,作品はきわめて斬新だった。一度だけしか観てないので,細かいことは無理である。『マクベス』は,17世紀,スコットランドの武将マクベスが,魔女の予言に誘発されて,ダンカン王を殺害し,結局は,悩み苦しみ,マクベスの息子にその座を奪われる物語であるというくらいのことを念頭にじっと見入っていた。
岩波文庫の解説によれば,どうやら『リチャード三世』が似た作品らしい。しかし,どちらかといえば,『リチャード三世』の方が史実的であり,わかりやすい。シェークスピアの全作品で,魔女が出て来ることも珍しく,そういう点でも短い作品でありながら,とっつきにくい要素があるという。
ダンカン王は,まぬけだ。自分の一番信頼を置いている部下に会いに来て,その城で夜襲に遭遇する。マクベスが,短剣を持ちかえると,非情冷酷な夫人は,それを取り上げ,当初の予定のとおり,王の従者の手に握らせる。この日から,マクベスは,良心の呵責に苦しむ。あげくのはてには,魔女の予言のせいだと,魔女を怨む。しかし,魔女などは,どこにもいない。最初から,マクベスは自らの卑しい野心のすがたであり,それにのみこまれて,自滅していく。
マクベス夫人が,「私の手もあなたのように,真っ赤よ。でも,あたしの心臓は,あなたの心臓のような青白くて,やわくはないんだわ」,という。それに対し,「王であるだけでなんの意味もない。心安く王であるのでなければ,何の意味もないのだ。」とあくまで人間的である。
たしかに,今回のオペラの演出にもあったように,殺人が殺人を呼び,王位簒奪は永久にくりかえされるだろう。そして,魔女はその人間の運命の愚かさを,あざわらうだけである。そうして見ると,壮大なオペラのすべての仕組みも良くわかる。とても良いオペラだったと思う。
満足度★★★★★
魔女達の喜劇
通常の解釈と異なる奇抜なことをしつつも、分かり易く説得力があるというコンヴィチュニーさんらしさがはっきりと打ち出された演出で、エンターテインメント性と社会に対するメッセージ性のバランスが良く楽しめました。
悲劇の物語にも関わらずヴェルディが作曲した音楽は妙に軽やかだったり和やかだったりするのに合わせて、皮肉的・喜劇的な面を強調しつつ、物語中で描かれる男性優位の権力闘争が現代でも止むことなく続いていることについて考えさせる演出でした。
幕が開くとカラフルな現代的な格好をした魔女達の集まるキッチンで、そこに現代の軍服とベレー帽を身に付けたマクベス達が現れて始まり、スロープ状になった巨大な回り舞台を用いながら物語としては原作通りに展開しました。
開演前から最後まで舞台手前の下手に、死者が出るたびに「正」の字記が書き加えられる黒板が置かれていたり、元々のト書きでは出て来ない場面にも頻繁に現れる魔女達はいかにも作り物な着け鼻をしていて、血は赤い手袋や紙吹雪で表現されたりと、意図的にチープでコミカルな表現を多用して、権力を巡って争う男達を嘲笑うかの様でした。
魔女が様々な動物を材料に釜でスープを作る場面では、材料がパソコンや銃、放射性廃棄物等に置き換えれていたり、歴代の王の幻影が現れるシーンでは、先代の王を次の王が殺すシークエンスをシルエットで演じたりと、ブラックジョークが効いていました。
シェイクスピアの原作にはなくヴェルディが書き足した、混乱の続く虐げられた祖国の状況を嘆く合唱のシーンでは、それまでのコミカルさが皆無で、客電の灯った客席を直立不動で凝視しながら歌い、現在でも戦乱が続いていることをシリアスに描いていて強く印象に残りました。
普通なら、マクベスが倒された後に勇ましい大団円の合唱で終わるのですが、クライマックスの途中でオーケストラと合唱が演奏を止めて、セットが冒頭の魔女のキッチンに替わり、ラジカセから流れる録音を魔女達が聴いているシーンで終わるという大胆でシニカルな演出となっていて、壮大なエンディングを期待するオペラファンを挑発する態度がとても衝撃的でした。
走りながらや、宙吊りの状態や、高い脚立の上で歌ったりと歌手にとっては過酷な演出でしたが、歌がおろそかにならずしっかりとした歌唱で、聴き応えがありました。荒々しさを感じさせるマクベス夫人を演じた板波利加さんと、気弱なマクベスを演じた小森輝彦さんの対比が良かったです。
オーケストラもまとまりのあるドライブ感がある演奏で、気持ち良かったです。