満足度★★★★★
素晴らしいの一言に尽きます
何より俳優のアンサンブルの凄さが際立った舞台だと思いました。真実がどこにあるのかが判然とせず、人間関係も煙に巻かれたかのような展開の中、自由を制限された社会に生きる若者たちの心の寄る辺なさが伝わってきました。
F/Tプログラム・ディレクターの次のツイートが、この作品を日本で上演する意義を何より表していると思いました。
「正直、私たちにはすぐには分からない部分も多い。その分からなさ。簡単には共感のできない、距離感。それを感じること自体が、この作品を日本でやることの意義だと、私は思う。素晴らしい俳優、一貫した演出。明らかにローカルな表現だ。彼らの足元から出てきた、強い表現だ。」
満足度★★★★
若者の切迫感
検閲があるイランの状況をシンプルな要素で大胆に描いた作品で、あまり役者の動きがない、スタティックな演出でしたが、台詞のはしばしから自由が保証されていない人達の切実さが伝わって来て、引き込まれました。
ある目的を果たす為に、友人の恋人から銃を盗み取り、その受け渡しを巡って騒動になる物語で、女達の強さに対して男達の器の小ささが印象的でした。
直接面と向かって会話する場面がほとんどなく、携帯電話でやりとりする場面が大半であるという特異な状況が緊迫感を高めていて、ときには2組の通話が同時に行われ、緊張感がみなぎっていました。
銃のことを「カツラ」と隠語で呼んで隠密に事を運ぶのですが、最後のシーンで遂に鞄から銃を取り出すとそれは銃ではなく本物のカツラで、しかしそれをあたかも銃のように扱っていて、表現の抑圧に対しての皮肉を感じました。
床の上に、包帯、ビデオテープ、写真、泥、血といった「痕跡」が残されていく演出が悲痛さを暗示し、最後にその床の映像と顔の映像が二重映しで壁に投影される表現が素晴らしかったです。
最後に鳴り響く電話の呼び出し音が次第に旋律に変化して行くのに切なさを感じました。
控え目な映像の使い方も洗練されていて、美しかったです。
満足度★★★★
イランを覆う閉塞感の片鱗を垣間見る
映画『ペルシャ猫を誰も知らない』、『これは映画ではない』からも
その一端が分かる、現イランの生活全般にわたる、目に見える・
見えない形で行われる抑圧。
本作は、その抑圧が一気に強まった2009年の大統領選挙前後の
イランの空気を、実験的な手法で見事に表現したものです。その
閉塞感はもしかしたら、現在の日本にも通じるものかもしれません。
満足度★★★★★
洗練と検閲
何より、素晴らしく洗練された舞台だった。
11/4追記
アミール氏はシーラーズの出身だったのか・・。
それでハーフィズの話が講義で出てきたんだと、最後になって納得(笑
シーラーズはサァディーの出身地でもあるし。
どんな所なんだろうか・・(19世紀の旅行記じゃたいしたことないところみたいだけど(苦笑