アミール・レザ・コヘスタニ [イラン]『1月8日、君はどこにいたのか?』 公演情報 アミール・レザ・コヘスタニ [イラン]『1月8日、君はどこにいたのか?』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.5
1-4件 / 4件中
  • 満足度★★★★★

    素晴らしいの一言に尽きます
    何より俳優のアンサンブルの凄さが際立った舞台だと思いました。真実がどこにあるのかが判然とせず、人間関係も煙に巻かれたかのような展開の中、自由を制限された社会に生きる若者たちの心の寄る辺なさが伝わってきました。
    F/Tプログラム・ディレクターの次のツイートが、この作品を日本で上演する意義を何より表していると思いました。
    「正直、私たちにはすぐには分からない部分も多い。その分からなさ。簡単には共感のできない、距離感。それを感じること自体が、この作品を日本でやることの意義だと、私は思う。素晴らしい俳優、一貫した演出。明らかにローカルな表現だ。彼らの足元から出てきた、強い表現だ。」

  • 満足度★★★★

    若者の切迫感
    検閲があるイランの状況をシンプルな要素で大胆に描いた作品で、あまり役者の動きがない、スタティックな演出でしたが、台詞のはしばしから自由が保証されていない人達の切実さが伝わって来て、引き込まれました。

    ある目的を果たす為に、友人の恋人から銃を盗み取り、その受け渡しを巡って騒動になる物語で、女達の強さに対して男達の器の小ささが印象的でした。
    直接面と向かって会話する場面がほとんどなく、携帯電話でやりとりする場面が大半であるという特異な状況が緊迫感を高めていて、ときには2組の通話が同時に行われ、緊張感がみなぎっていました。
    銃のことを「カツラ」と隠語で呼んで隠密に事を運ぶのですが、最後のシーンで遂に鞄から銃を取り出すとそれは銃ではなく本物のカツラで、しかしそれをあたかも銃のように扱っていて、表現の抑圧に対しての皮肉を感じました。

    床の上に、包帯、ビデオテープ、写真、泥、血といった「痕跡」が残されていく演出が悲痛さを暗示し、最後にその床の映像と顔の映像が二重映しで壁に投影される表現が素晴らしかったです。

    最後に鳴り響く電話の呼び出し音が次第に旋律に変化して行くのに切なさを感じました。
    控え目な映像の使い方も洗練されていて、美しかったです。

  • 満足度★★★★

    イランを覆う閉塞感の片鱗を垣間見る
    映画『ペルシャ猫を誰も知らない』、『これは映画ではない』からも
    その一端が分かる、現イランの生活全般にわたる、目に見える・
    見えない形で行われる抑圧。

    本作は、その抑圧が一気に強まった2009年の大統領選挙前後の
    イランの空気を、実験的な手法で見事に表現したものです。その
    閉塞感はもしかしたら、現在の日本にも通じるものかもしれません。

    ネタバレBOX

    『1月8日、君はどこにいたのか?』は、兵役からの休暇で
    戻ってきた恋人が不用意に持ち出した銃を盗み出した
    女性たちが電話でやり取りする、その模様を舞台化した
    なかなか実験的な作品になっています。

    最初、銃を盗み出した理由が分からない上、次々に電話を介して
    登場人物や場所が移っていくのについていけず戸惑いましたが、

    徐々に会話から伝わる、銃を盗むに至った理由が判明すると
    ともに、イラン社会の封鎖性と閉鎖性、保守性がよその国の
    私たちにもひしひしと伝わる内容となっています。

    基本的に、男は権威的で、すぐに逆上して怒り出すくせに
    真実を衝かれると、すぐに怯えてしまうような、情けない
    存在として描かれています。さながら、権力をまとった、
    張り子の虎のよう。

    その男たちが動かす、イランの国家も、見せかけだけの
    中身が伴わない存在と指弾しているかのようでもあります。

    登場人物たちは、目の前に対する暴力的な抑圧に対して、
    抵抗するすべを持たない。例え、銃を手にしても、それで
    戦おうという意思は希薄で、手にした武器でますます
    自分の壁を高くして閉じこもってしまう、

    そんな絶望的な、何もできない、閉塞感すらじわじわと
    伝わってくる、そんな作品でした。

    若い芸術家、サラが銃を手にして何をするか、と問われた
    ときに、自分の血を使って作っている作品に向かって、
    血液を入れた袋を銃で撃って撒き散らしたら真に迫るでしょ、と
    答えた時、私は限りない切なさを思わず感じてしまいました。

    そういうやり方でしか、抵抗を示せない状況下におかれているのかと。
    でも、彼女は芸術を通して、自分の意見を開陳できる力を少なくとも
    備えているわけで、その背後には、数え切れないほどの声なき声を
    持つ女性たちの存在があると思うと、なんだか、ね。

    最後、偶然、銃を手にすることになった、不法占拠した
    土地に住む明らかに弱い立場の若者は、観客に向かって、
    自分の家が取り壊されようとしていることを告げ、言う。

    「家の塀を乗り越えてきたら、これを見せて、家を
    壊したかったら、まず自分を殺してからにしろと言うんだ」
    「家を潰したかったら、自分も一緒に潰してしまえばいい」

    劇は、この若者が最後の電話を誰かにかける場面で
    終わるのですが、鳴り響く呼び出し音が到底、最後の
    脱出口になりえない、それどころか破局へのトリガーにすら
    聞こえ、衝撃的な作品を観た、という気持ちを覚えましたね。
  • 満足度★★★★★

    洗練と検閲
    何より、素晴らしく洗練された舞台だった。

    11/4追記
    アミール氏はシーラーズの出身だったのか・・。
    それでハーフィズの話が講義で出てきたんだと、最後になって納得(笑
    シーラーズはサァディーの出身地でもあるし。
    どんな所なんだろうか・・(19世紀の旅行記じゃたいしたことないところみたいだけど(苦笑

    ネタバレBOX

    キアロスタミなどのイラン映画に見られる、
    シンプルだが非常に洗練された手法で人生の滋味を感じさせてくれるのと似たやり方で、
    監視社会のなか、
    現代的な技術である携帯電話やビデオカメラによって
    分断され、脅迫され、お互いを欺き合い利用されつつ、
    (言葉の)暴力的な様相を際立たせていく
    テヘランの若者たちをクールに切り取っていく。

    最早、自分がイランや台湾などの映画を通してみた、
    人間味溢れる表情豊かな人々という世界は、消え去ってしまったのかもしれない。

    携帯電話などの普及によって
    相手の顔を見ずに平気で嘘を言えるということ。

    ビデオカメラによって
    前の交際相手の人生を簡単に破滅させる力を手にすること。

    それらは、現代的な技術によってもたらされたものだが、
    同じように更に昔、西洋によってもたらされた銃のように、
    ある種の力を持って
    イランに生きる人たちの人生を別の形で変えつつある。

    日本でほんの少し前に起こったのと同じような社会の変化が、
    イランでは現在進行形で生み出されている。

    ひょっとしたら、
    かつては日本映画などの中にあったある種の洗練、
    近代以前の日本文化にあったと思われる均整とでもいうべきものの残り香、
    それに似たものがイラン映画の中にもあったような気がするのだけれど、
    その最後のペルシャ文化の光芒を今、自分は目にしているのではないかという気がしていた。

    ペルシャ人にとって、
    検閲というのはさほど問題ではないように見える。

    考えてみれば、
    サァディーの「薔薇園」の時代から、
    王様の機嫌を取りながら社会を風刺する美しい詩を吟じる話など、後を絶たない。

    英国人や日本人に比べれば、
    どうやら遥かにそれらの検閲を見透かす術に長けたペルシャ人を観客にもったイランの作家たちは、
    検閲を逆手にとって、
    見た目の刺激に流されることを免れながら、
    裏に多くの意味を含んだままシンプルだが力強い作品の制作に専念できているようで、
    それは一見、検閲から免れて自由を謳歌しているように見える西洋や日本にくらべ、
    遥かに自由な創作環境を得ているようにも感じられる。

    たぶん、
    イランの作家たちにとって、
    創作の本当の危機というのは検閲などではなく、
    携帯などのコミュニケーション技術の発達によって、
    人間が依然持っていた表情の変化を失い、
    代わりに声だけで嘘をつくときにみせる
    探るような表情が顔に張り付いて、
    他の表情が欠伸の出るような、詰まらない、味もそっけもないものになることなんじゃないかという気がする。
    (嘘をよくついている人というのは大抵シケた顔をしている気がする。
    それは、シケた顔をした人が皆嘘つきという意味では勿論ないけれど、
    嘘つきの人はどんどん自分の顔をつまらなくさせているのだと気づいてほしいなぁ・・

    もし検閲というのが文化の芽をつむものなのだとしたら、
    ペルシャや中国などでの、当時の日本からしたら目もくらむばかりの
    眩い文化というのは説明がつかない。

    一見、自由を謳歌しているようにも見える日本だが、
    良く考えてみれば、メディアにはスポンサーになったグローバルな企業群が好む
    パッケージ化された情報が垂れ流されている。

    みんな(男も女も)、AKBみたく自分もうまくパッケージ化されようと、
    特に若い人ほど必死になっているように見えるんだけど、
    それこそが生きづらさの根源で、
    まぁ、上手くパッケージ化されたフリをするのは別に人生の余興程度にとどめて、
    もっと大事なことは別にあることにもっと気づいてほしいなぁ、
    と、特に若い男子について思う。
    (女子はみんなそんなことにはとっくに気づいているのでクールだろうけど(笑

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