アミール・レザ・コヘスタニ [イラン]『1月8日、君はどこにいたのか?』 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「アミール・レザ・コヘスタニ [イラン]『1月8日、君はどこにいたのか?』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    イランを覆う閉塞感の片鱗を垣間見る
    映画『ペルシャ猫を誰も知らない』、『これは映画ではない』からも
    その一端が分かる、現イランの生活全般にわたる、目に見える・
    見えない形で行われる抑圧。

    本作は、その抑圧が一気に強まった2009年の大統領選挙前後の
    イランの空気を、実験的な手法で見事に表現したものです。その
    閉塞感はもしかしたら、現在の日本にも通じるものかもしれません。

    ネタバレBOX

    『1月8日、君はどこにいたのか?』は、兵役からの休暇で
    戻ってきた恋人が不用意に持ち出した銃を盗み出した
    女性たちが電話でやり取りする、その模様を舞台化した
    なかなか実験的な作品になっています。

    最初、銃を盗み出した理由が分からない上、次々に電話を介して
    登場人物や場所が移っていくのについていけず戸惑いましたが、

    徐々に会話から伝わる、銃を盗むに至った理由が判明すると
    ともに、イラン社会の封鎖性と閉鎖性、保守性がよその国の
    私たちにもひしひしと伝わる内容となっています。

    基本的に、男は権威的で、すぐに逆上して怒り出すくせに
    真実を衝かれると、すぐに怯えてしまうような、情けない
    存在として描かれています。さながら、権力をまとった、
    張り子の虎のよう。

    その男たちが動かす、イランの国家も、見せかけだけの
    中身が伴わない存在と指弾しているかのようでもあります。

    登場人物たちは、目の前に対する暴力的な抑圧に対して、
    抵抗するすべを持たない。例え、銃を手にしても、それで
    戦おうという意思は希薄で、手にした武器でますます
    自分の壁を高くして閉じこもってしまう、

    そんな絶望的な、何もできない、閉塞感すらじわじわと
    伝わってくる、そんな作品でした。

    若い芸術家、サラが銃を手にして何をするか、と問われた
    ときに、自分の血を使って作っている作品に向かって、
    血液を入れた袋を銃で撃って撒き散らしたら真に迫るでしょ、と
    答えた時、私は限りない切なさを思わず感じてしまいました。

    そういうやり方でしか、抵抗を示せない状況下におかれているのかと。
    でも、彼女は芸術を通して、自分の意見を開陳できる力を少なくとも
    備えているわけで、その背後には、数え切れないほどの声なき声を
    持つ女性たちの存在があると思うと、なんだか、ね。

    最後、偶然、銃を手にすることになった、不法占拠した
    土地に住む明らかに弱い立場の若者は、観客に向かって、
    自分の家が取り壊されようとしていることを告げ、言う。

    「家の塀を乗り越えてきたら、これを見せて、家を
    壊したかったら、まず自分を殺してからにしろと言うんだ」
    「家を潰したかったら、自分も一緒に潰してしまえばいい」

    劇は、この若者が最後の電話を誰かにかける場面で
    終わるのですが、鳴り響く呼び出し音が到底、最後の
    脱出口になりえない、それどころか破局へのトリガーにすら
    聞こえ、衝撃的な作品を観た、という気持ちを覚えましたね。

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    2012/11/04 09:44

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