『リタの教育』『オレアナ』二作同時上演 公演情報 『リタの教育』『オレアナ』二作同時上演」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.8
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    「リタの教育」も観劇。今回の企画の主眼だが「オレアナ」と同キャストによる二人芝居、男性教授とその研究室を訪ねて来る女学生、という設定も同じだ。
    設定は同じだが、当然ながら話も役柄も違う。「オレアナ」はある決意を秘めた学生との緊迫の一夜と最後に後日談がある一気呵成の芝居だが、本作は若い既婚女性が「一般人枠」に応募し教授との対話の中で「知る」喜びを獲得して行く数年にわたる経過を描いた休憩有り2時間超えの芝居。女性は夫との生活の中で素朴に感じた疑問、「このままでは先に進めない」という予感が「学び」に向かわせた模様なのだが、文学系の教授に彼女は畏怖する事がなく「あんた」と呼び、彼女なりの言葉で物事に迫って行く。その理解のプロセスが独特で教授は彼女の吸収力や学ぶモチベーションを発見する。「教える」喜びを思い出したかのようである。
    「オレアナ」はハラスメントという剣呑なテーマを扱ったが、後者は「教える・学ぶ」関係の根本を抉る辛辣な喜劇、と言える。だが彼女が学生らとの交流を話し、海外旅行の話をすると微妙な感情がもたげるのが分かる。物事の理解が増した彼女は学生らとも積極的に付き合い、特に親しい一人の女子学生の意見をまじえて話すようになる。彼女が訪ねて来て間もない頃、こんなやり取りがある。彼女が書いた(ある文学作品を読んでの)セオリーを無視したレポートの中に魅力を見出したらしい教授がいる。彼女が言う、「テストに合格するために何が必要かを教えてほしい」。と、教授「その方法はあるし教える事もできる。だがそんな無味乾燥なつまらないもののために、君が持っているこれ(レポート用紙を示しながら)を捨てる事に何の価値がある」・・数年後、彼女の訪問が間遠になり、教授はどこか荒んでいる。彼女は相変わらずこの場所を自分の場所としていたいにも関わらず、教授は元々好きだった酒の毒がいよいよ回り、酩酊状態で教壇に立って放言をした事が問題となり処分を受ける事になる。懲戒は免れ、オーストラリアにある学術施設に2年間放逐される事となり、荷造りの日に彼女が研究室を訪ね(あるいは呼び出したかして)最後にシーンとなるが、ドラマの頂点はその少し前、教授にとっての危機が全開の時。反発のやり取りの中で女学生はついに「嫉妬」の言葉を出す。前は可愛い赤ん坊だったのに、今は自分で何でもできる。それを認めてほしい、私たちは対等だと。これに対しだったら出て行くがいい、と教授が言うのに対し彼女は「ここは残しておきたい」と訴える。自分にはここが必要であり、訊ねる事は少なくなっても自分にとっての場所なのだと。明確に親離れと子離れの話と相似なのだが、ボロボロに見える教授が彼女にある事を言う。それは彼なりの文学観・世界観の表明である。即ち彼女は学問というツールを用いて学生らと議論をし、アカデミックな仕事に勤しむ手腕を手にした、のであるが、それはたかだか大学(あるいは学問の世界)で暮らす事ができる方法であるに過ぎない。本当に学問的である事、真実を見るために切り開くべきフィールドを探し続ける態度こそ、価値あるものだ・・。この芝居で、リタが怯む一瞬が過ぎるのはここだけであるが(私がそう感じただけで殆どサブリミナルなサインであったが)、去り際の場面と合せて、彼が研究者としての体裁や人からの評価に飢えた薄っぺらな人物である事を免れている。ささやかに盛り込まれたテーマは演劇製作においても、政治においても、革新であろうとする事とは何か、について考えさせられる。

    微妙なニュアンスの描出によって人間の関係の変化を抉り出し、厳しい現実の中に希望を見出させる二作であった。

  • 実演鑑賞

    『リタの教育』を観劇。

    2つのエリアに分けられた客席が舞台を挟む構造になっており、
    ごく間近で、二人のやりとりを見守ることができる。

    芝居の立ちあがりで、二人の人物造形に吹き替え的なバタくささを感じてしまったり、
    この市民講座がいったいどういう枠組みでどういうテーマで行われているのか、いまひとつ腑に落ちない——ということはあったものの、二人のすれ違いが露わになってくるほどに、引き込まれ、身につまされるものがあった。

    フランクがリタのような「無垢な素人」に刺激を受けること、その根底には女性や労働者階級への偏見があり、搾取があるという問題意識の一方で、成長を見せるリタ/スーザンの姿は、頼もしく美しいが、ある種の「意識高い学生」の類型としか感じられない自分勝手な失望——というのもよくわかってしまう。

    二人のすれ違いは、というより、フランクの危機は、はじめから、無垢な素人/搾取の対象によって救われるべき問題ではないのだろう。終幕に訪れる二人のわずかな触れ合いが、髪を切るという「ケア」であることが、皮肉でもあり、切ない。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    まず、中身から。この本は30年ほど前に見た記憶がある。10年ほど前、故人になった有川博が繰り返し長年やっていたことだけ覚えている。80年代だったのではないか。いかにもイギリスのウエルメイドプレイで、何で有川がこんなに入れ込むのか腑に落ちなかった。まさか、中村伸郎の「授業」の連続上演を習ってではあるまい。男先生と女生徒というところは同じだが、戯曲が全然違う。こちらは70年代に書かれている。翻訳も演出も調べれば解るだろうが、それはとりあえずおいて。
    酒浸りの自己にこもりがちの(あまり才能に恵まれない)中年になった教師が、小遣い稼ぎに社会人講座の講師を引き受ける。誰も来るまいと思っていたら、そこに口の利きようも知らないイマドキ娘が現われる。この二人が、観客の予想通りに心を通わせるようになる、と言う筋書きは常道だが、一つ一つの挿話の扱い方が今風であると同時に繊細でウエルメイドプレイとして楽しめる。翻訳に加えて上演台本が上手い。このボウジュというプロダクションは演出の稲葉賀恵と翻訳家の一川華が作ったプロダクションで、それなりの立場からの創立意図もあるだろうが、まず現場で(演出も役者も本をたよりに深められる)使えて(日本語を使う日本人の)客が見て素直に楽しめる上演台本を作るという点で成功している。
    翻訳がどうあるべきか、と言うことは難しい問題でここでは言い切れないが、話に聞くとある演劇翻訳家がある演出家に頼まれて翻訳して、稽古を観にいくと、肯定形の原戯曲の台詞が、否定形になっている。あまりのことに「センセイ、そこはと・・」と演出家に指摘すると、「これでいいの」とろくに返事もしないで押し通したと憤懣やりかたなく話してくれたことがある。まぁその方が全体やりやすかったと言うことかも知れないが、言葉が読めるものの特權と、舞台を仕切るものの特権は対立しがちで、しかもそれが観客にも良い形で収まることはほとんどない。文学座系の演出家はこのところ先鋭的な戯曲も次々と扱うし、折角俳優もいる総合劇団なのだからから、劇団内でも検討を重ねて観客が??の連続にならないような上演台本を練ってほしいものだ。
    舞台は演出の稲葉賀恵は気合いが入り、大きな役では見たことのない女生徒役の湯川ひなが上出来。いつも。脇役では安全パイの大石継太も主役が務まっていた。ほぼ満席。
    (念を押すが、上記のエピソードは稲葉さんのことでも文学座のことでもない。さる大劇場でのことである)



  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鑑賞日2025/01/15 (水) 14:00

    座席1階

    2人芝居の2作を同時上演、しかも新訳という取り組み。演出家と翻訳家が「翻訳」という営みを探求するとして結成したユニットだ。自分は「オレアナ」を拝見した。

    教授室をしつらえた舞台。教授の机と、その前に学生が座る小さないすがあるシンプルな構成だ。冒頭、男性教授は終身在職権の授与を目前に控え、新たに家を買うための算段となる電話をしている。女子学生が教授室のいすに座り、その様子を聞いている。聞いているというのは、教授が学生の相手をまともにしていないからだ。電話を切って学生と話すのだが、どうも彼女は講義についていけないようだ。「先生の本を買い、読み、考えたのだけれど先生の言うことが全く分からない」と懇請している。教授は親身になって応対しているが、ときどきかかってくる電話にその指導が途切れ途切れになる。この冒頭の場面では、教授は学生の指導を片手間にやっているようにも見える(言葉は丁寧だが)
    それが、舞台が進行するにつれて立場が逆転する。女子学生が大学当局に訴えたからだ。その先は、言ってみれば不条理劇。女子学生の主張は荒唐無稽なところが多々あるが、大学当局はその訴えを認めてしまう。

    別役実の不条理劇なら、追い込まれどうしようもなくなっていく主人公に対しても、その追い込まれ方がどこか優しい感じもまとっているものだが、今作では追い込まれる教授に対して容赦ない仕打ちが連続する。こうした「不条理」の描き方はアメリカ流なのかもしれないのだが、何とも後味の悪い方向に突き進んでいく。

    舞台上の二人はしっかりした演技を見せた。だからこそ、恐ろしげな空気がどんどん募っていくのがしっかり客席に伝わってきたのだが、その効果が抜群なだけにどよーんとした救いようがない雰囲気で包まれてしまった。そういう戯曲なのだ、と割り切ってしまえばよいのだが。





  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    数年前に著名俳優を配して舞台化されたタイトルだけ耳にしていた「オレアナ」初日を観た。目撃した。一度観たら内容を忘れる事はないだろう芝居。ハラスメントを扱った92年初演の作品だがとりわけ日本では正に「今」の話である。本ユニットでは新訳を施して上演。翻訳家と演出家の意図が台詞の細部にまで行き渡り、人間感情の途轍もない不可解さを解明するに等しい繊細さで発語を立ち上げている。そのように私は踏んだのだが、それは男女の認識の誤差(それも教授と学生といったケーススタディのような関係での)が無意識の領域までを嫌疑の対象とし「支配が感知された」ことを根拠としてハラスメントが成立するような一件が、実際にどのようなやり取りによって生まれるのか、という難題をリアルに描出していたから。
    一点脚本上「分かりやすい」帰結を織り込んでいる。

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