満足度★★★
対面客席で、ステージ部分は吊り屋根を持ち、円形のテープを貼った床は土俵にも見え、大相撲のようなしつらえ。長台詞をプロレスのマイクファイト風(?)にしたり、対話を分解したりと、対立関係を様々な角度でみせてシェイクスピア独特の台詞を扱うための工夫を随所に感じました。
満足度★★★
「お気に召すまま」だと思って観ると(頭ではなく)気持ちがついていけないので、途中からそれは考えるのをやめた。いい意味で俳優さんの力技な部分はおもしろく、同時に、ダンサーではない俳優さんが動くことの意味を考えさせられた。見せるもの、ではなく、解釈的な要素が強くなりがちだったかも。それを上回る「人間がそこにいること」がもう少し強くあれば、演劇である意味がもう少しあるのでは。
試みはとても面白いので、意図とは違うかもしれない(し制作面的なことにはなる)けれど、この際思いきりタイトルを変えたり副題を考えた方が、お客さんと良い関係を築けるかもしれない。
満足度★★★
吊り屋根の下の土俵のようなスペースで繰り広げられる、恋と権力をめぐる、文字通りの「闘い」。音楽やそのパフォーマンスのあり方を参照し、さまざまな演劇実験を重ねるヌトミックの、予想以上に「物語」ではないシェイクスピア劇に驚かされました。
台詞の切り取り方、発語や身体の状態、マイクパフォーマンスや土俵外での演技……といった要素の多くが、テキスト(やそれを重視する多くの上演)の構造分析や批評になっていることは伝わってきますし、そうした作品の中での俳優の立ち方にも関心を持ちました。とはいえ、これらの批評的観点が連なり重なりながら、一つの視座をつくっているというふうにも見えないので、なかなかついていくのが難しかったというのが正直なところです。
満足度★★★
実は私も以前ほかのところで「お気に召すまま=プロレス説」というのを書いたことがあったので、納得してみた部分も多々。「シェイクスピアの言葉へ向き合うことから、創作を始めました。どうして400年前の戯曲が現代まで残り続けているのか」というが、しかし音楽性や身体性への関心は、むしろ翻訳の問題を無視しては難しいのではないか?というのが最も疑問に思った点でした。