満足度★★★★★
さすがLIVES! 面白い。
「情感」があって笑いも豊富。
市井に生きる普通の人々の希望や哀感がある。
笑いが多く、楽しい舞台。
ダブルコールぐらいの拍手があった。
ネタバレBOX
仮面ライダー・イナズマ映画版の撮影初日。
キノコ怪人が作り上げたキノコ戦闘員役に、役者が集まってくる。
役者としてキャリアはあるが、映画が初めてだったり、定年後シルバー劇団に入り、演技自体が初めてな、“売れない”役者たちが控え室に集まって来る。
また、仮面ライダーの中に入り、顔を出すことのない経験豊富な役者、映画に出るのは20年ぶりのアイドル、ジャンケンだけでアイドルになったGKP(ジャンケンポンの略・笑)のメンバー、昼ドラの売れっ子女優に、彼女の尻に敷かれている脚本家、プロデューサーに監督、スタッフなどなど、大人数が登場し、映画の初日が始まる。
しかし、音声のスタッフが来られなくなったり、雨が降ってきて撮影も危ぶまれたりする。
戦闘員役の役者たちは、緊張しているものの、真剣さはがあまりないように見えた。そんな中に1人ピリピリしている、売れたいと強く願う男の熱い言葉に動かされ、また、ライダーの中に入っている役者の後押しもあり、やる気を出そうとする。
彼らは、台詞がほとんどなかったり、全然ないのだが、自分たちのシーンをきちんし解釈をして、自分たちが出演したという、爪痕を残したいと思うのだった。
中には、これで役者を辞めて故郷に帰ろうとする者もいて、その思いは強い。
しかし、彼らの脚本の解釈はどこかズレていたり、緊張で台詞がきちんとしゃべれなかったりする。
監督は、そのシーンをすべてカットすることに決める。
戦闘員役の俳優たちは、それをなんとか考え直してほしいと思い、あれこれと策を巡らすのだった。
そんなストーリー。
LIVESらしい、いるいる感の強いオジサンたちがとてもいいのだ。
彼らを含め、市井に生きる普通の人々の希望や哀感がある。
「役者」が主人公の舞台であり、笑いにしていたが、身につまされることもあるのではないかと思った。
かつて、そうであった自分たちを演じていたのかもしれない。
大人数の舞台なのだが、どのキャラクターもきちんと見えてくる。
つまり、それぞれへのスポットの当て方がよく、短い台詞でもきちんと印象が残るようにできているのだ。
説明がいちいち再現されるのは、少々丁寧さを通り越してしまうのだが、それをまた笑いに結びつけるのがうまい。
役者を辞める男の最後の台詞は、仮面ライダーの戦闘員の台詞なのにもかかわらず、ぐっと来てしまった。渾身の台詞を、本当に役者が渾身の台詞としていたことに感動した。
また、劇中に歌われる、アイドルグループと元アイドルの歌は、かけ声や振り付け、歌の外し方までが、とてもよくできており、本当に面白い。『ROPPONGI NIGHTS』を彷彿させる、やけにうまい男性コーラスがちらりとだけ聞けるというのも憎い。
笑いに関しては、普通1つネタについては、引っ張るだけ引っ張る(もういいよ、と思うまで)劇団が多い中で、さらっと流していく。
例えば、プロダクションの社長がセーラー服に着替えてきても、それで無理矢理笑いを取りにいったりしないし、アイドルグループの3人目の女の子(?)についても、いじり方は軽い。なんと言うか、年季の違いだろう。まだまだ面白いことはあるんだよ、という余裕すら感じる。
笑いには、瞬発的なものや、腰が砕けるようなしょーもないものまで幅広く盛り込まれている。「悲哀」の聞き違いはあまりにも、しょーもないのだが、それがいい塩梅に膨らんでくる。
辞める役者が「やっぱり役者続けるよ」というような大団円にならないあたりも、ある年齢以上の劇団らしいラストだと思った。
「どうやって自分たちのシーンをカットされないか」となってきたあたりから、バカバカしいことも含めての展開がとてもいいのだ。
とにかく全編いい感じで笑え、楽しい舞台だった。こういうLIVESは大好きである。
終演後の拍手は、ダブルコールぐらいの響きだったので、多くの観客も同じ感想だったのではないかと思った。
満足度★★★★
楽しさの中に込められた最後のメッセージ
全員が一体となって、歌い踊る姿が楽しいエビビモpro.。
最初の、そんなシーンでつい笑みがこぼれてしまった。
中盤は少々中だるみ(歌が少ないんだよね)があったものの、「え?」という展開とともに、楽しんだ。
それは、やっぱ、エビビモpro.好きだからなんだよね。
ネタバレBOX
「神」に選ばれた12人が、まるでノアの箱船のような箱船に集められ、これから起こる世界の破滅に、「何か」をして世界を救う。「何が起きるのか」そして「世界を救うためには何をやればいいのか」というテーマで物語は進むように見えた。
つまりのところ、今現在のこの状況を取り込んだ物語になるんだろうと誰もが思ったに違いない。
もちろん私もそう思った。
しかし、様相は終盤で変わってくる。「え? 何?」と思う間もなく「え? え?」という展開に。
多くの動物も乗っていることから、「箱船」とは「種の保存」であり、つがいの性は「生殖」が目的であろうが、実は12人のほとんど(全員じゃなくてほとんど)が同性愛者だったという展開になるのだ。
これは、「性」を「生殖」にしかとらえられないことへの、アンチテーゼではないだろうか。
「何も考えずに楽しんで」と当パンには書いてあるが、そこには、実は思い入れがあったに違いない。
「え? 何?」とびっくりしつつも、ストーリーにも出てきた「種の保存」を根底から覆す展開には、単なる思いつき以上の何かがあるのでは、と勘ぐった。
つまり、単なる思いつきであれば、もっとおちゃらけた雰囲気になるのだが、そうはなっていなかった。
幸せな雰囲気で終わるし、何よりも「神」たちがそこに介在しているからだ。
エビビモpro.では、前に観た『鬱病のサムシンググレート』でも、「神」が絶対的な存在として出てきていた。
今回も神たちが出てきて、登場人物たちを翻弄する。もっと具体的に言えば、背中を押したり、操ったりするのだ。
たぶん、そこには、作者にとって抗えない「運命」のようなものを強くいつも感じているのではないだろうか。
与えられ、用意された運命の中で、人はできることをやっていかなくてはならないということを。
この舞台の登場人物たちも、神たちの導きで、本当の自分を手に入れることができる。なんだか不器用な人たちばかりだったしね。
ちなみに、タイトルにある「ユビキタス」は、もともと宗教用語で「神はあまねく存在する」という意味らしい。
ということは、「運命」にさらばを告げたいという意思でもあったのだろう。
結果、世界は破滅しないことになる。それを下すのが、一番上にいる神、ジーザスクライスト・アマデウステラスであり、それを演じるのが作・演の矢ヶ部哲さんなのだ(あの舞台での位置はいい。みんなを見下ろす感じが)。
つまり、自らが神であり、人の運命を左右する。「運命」を演じる。
で、今回のテーマ(メッセージ)となったことは、当パンの矢ヶ部さんの、ちょっとした告白から「なるほど」と思った。「運命」とか「性」とか、そんなことだ。
そして、本作で、退団することになる矢ヶ部さんが、面白おかしい舞台の上で言いたかった(最後、そして切実な)メッセージ(願望)だったのかもしれない。
さらに言えば、世界を救うために登場人物たちが行うのは「ミュージカル」。これも、作の矢ヶ部さんのことと考え合わせるとなんとも言えないものがある。
矢ヶ部さんに限らず、劇団員自体が「ミュージカル」に救われているかもしれないからだ。
矢ヶ部さんにとっての最後の公演は、劇団にとっての1つの精算と確認だったのかもしれない。
エビビモpro.は、ミュージカル劇団ということで、歌とダンスが楽しい。全員が歌い踊るシーンが一番楽しいのだが、中盤にそういうシーンが少なく、やや中だるみしてしまった。
もっと、歌のシーンが多いと楽しいのにと思う。
そして、今まで軸であった矢ヶ部哲さん退団ということで、エビビモpro.はこれからどうなるのだろうと思う。
次回その答えが観られるのだと思うと、新しいエビビモpro.に期待せざるを得ないのだ。
満足度★★
「昨日」の泉鏡花(キョウカ)は「今日」とか「明日」とか「私」とかの泉鏡花になり得たか?
作曲が林光、テーマが「泉鏡花」、そして合唱ということで観に行った。
「合唱」と頭に付くが「オペラ」という言葉にも惹かれたからだ。
ネタバレBOX
前半4分3ぐらいは、泉鏡花の世界観と人となりを、残りに短編作品『貝の穴に河童の居る事』を合唱オペラというよりは、音楽劇で見せた。
世界観は、潔癖症なことと、「水」と「おばけ」を、鏡花の作品を少しだけ散りばめながら取り上げていたが、どうもそれぞれがぶつ切りで、「世界観」までは到達しない。
基本、合唱の人たちなので、歌はいいのだが、台詞が届いてこないのだ。なんとか台詞を言っています、というふうに見えてしまう。特に物語を語るところではないと。
台詞は最小限で全部合唱でよかったのではないだろうか。
もしくは、台詞のところは客演で俳優に任せるべきではなかったのか。
また、音楽劇パートは、物語なのでそれなりに面白かったのだが、逆に合唱の面白さに欠けてしまっているように思えた。
しかも、前半部分との関連は薄い。
もちろん、前半で見せた世界観を具体的にするとこんな作品になるのだ、ということなのだろうが、とにかく結び付きが弱いのだ。
どうせならば、ある物語を軸にして、それに泉鏡花の人となりや世界観を見せていったほうがよかったと思うのだが。
さらに、鏡花をキョウカとして、「今日か」として「明日」「昨日」とか「狂歌」とか言葉遊びをしていたが、それももうひとつ響いてこない。せっかくそこから「昨日の人だと思われている鏡花とその作品を」「今」「あたなに」というテーマで始まっているのだから、大切なキーワードとして、ラストまで持って行ってほしかったと思う。
ラストで、交差点の音と自動車を表して、「現代」にしていたのだけど、そこに「今日」も「明日」も「昨日」も「鏡花」さえもいなかった。
そもそも、引用する泉鏡花の作品自体が少なすぎたのではないかと思う。せっかく取り上げたのだから、もっと思い入れを持って、大切に取り組んでほしかったと思う。
「合唱オペラ」ということで、その専門家たちが出演しているのだから、そこに特化して、独自の世界を見せてほしかったと思う。
せっかくの曲ももったいないし。
満足度★★★★
3.11(以降)を巡り、今、何を感じているのか、何を思っているのか
テキストと役者たちの動きで、舞台を刻む彫刻のような作品。
3.11を巡る「気持ち」を刻みあげていく。
張り詰めた気配そのものが美しい。
わずか60分。
もっと観ていたいと思った。
ネタバレBOX
作者と出演者たちによる、「今」の感情・想いを表現したものであり、これは(たぶん)明日、明後日、1週間後、1カ月後と時間を経るごとに変化していくのだろう。
受け取る側の観客にとってもそれは同じである。
流れるテキストと役者の動き、それらを総合した表現は、表現者側の3.11であり、それが観客それぞれの3.11の感情とリンクしていき、作品となっていく。
もちろん、それは3.11に限ったことではなく、日常や演劇そのものに対する感情でもいい。「日常」というキーワードはとても大切だ。
「残すもの、残されるもの」がキーワードということだが、「別れ」(その予感も含め)を意識させるテキストで、3.11以降、くっきりと分かれてしまった2者について、具体的な「コトバ」や「形」にできないもの、想いを、具体的な「コトバ」や「形」にできないものとして提示していた。
正直な想いがそこにあったと言っていいだろう。
震災の当事者でない者にとって、一体何がわかるというのか、という想い。しかし、わからないからと言って、なかったことにはできない。表現者としてそれに対峙したいという気持ちの発露がこの作品を生んだのではないだろうか。
つまり、「わからない」が、それを何らかの形に留めておきたいという想いへの正直な結実が、この作品ではなかっただろうか。
直接的な「洪水」等に触れるコトバがテキストの中にいくつか散見されたが、特にイプセンの『小さいイヨルフ』からの引用とわかるテキストに気がついたときはには、ハッとさせられた。
それはこの震災で失われた多くの子どもたちと、残された親たちを思い浮かべずにはいられないからだ。その直接的なシーンは今回の舞台にはないものの、『小さいイヨルフ』というテキストには、青く冷たい水底に沈んでいくイヨルフのことと、残された親の嘆きがある。
役者たちが身体だけで表現する動きは、舞踏のように意味が込められていたのだろう。その解釈は受け取る側の自由だ。
登場人物たちが、まるでイヨルフのように水面に向けて手を挙げながら、沈んでいくように見えたし、飛び跳ねていた全員が倒れ、1人残されてしまった男は、何を物語っていたのだろうか。残されることの憐れさなのか、滑稽さなのか、哀しさなのか。
shelfらしい静謐さが支配する中で、限られた(に見える)設備なのだが、照明が美しい。そして、気配のように響く音響も美しい。その張り詰めた気配そのものが美しいのだ。これがshelfなのだ。
ラストに、舞台に1人残った(残された)男の、子どもたちへの呼びかけは、まるで、亡くなってしまった親から、残された子どもたちへの呼びかけにも聞こえ、同時にそれはまた、震災に遭わなかった人々(未来へつながる人々)への呼びかけでもあった。
役者は、特に女性が印象に残る。川渕優子さんの絶対的な存在感。小山待子さんも迫るものがあった。あとは名前と顔が一致しないのが残念。今回、役名がないので、名前と顔が一致するような写真を当パンに載せてくれるとよかった。
満足度★★★
謂われなき不安と恐怖
今現実に起こっていること、あるいは歴史的に起こっていたことを、意欲的、実験的な手法で描いていた。
ネタバレBOX
ある日、理由も(ほとんど)なく、選別されてしまったことによる不安と恐怖。具体的に見えないものへの恐怖でもあることは、言うまでもなく今、現実に起こっていることとリンクする。
「なぜ私が?」という問い掛けは、選別されてしまった人の口から、必ず発せられるだろう。現実の世の中では、原発事故による放射能汚染からの避難はまさにそれである。謂われのない選別と不安・恐怖である。
それは、今現在のことだけではなく、歴史にもたびたび顔を出してくる。例えば、人種、民族、宗教などなどによる選別と迫害。
何かにより選別され、その結果迫害される、そんな歴史は枚挙にいとまがない。
人は他人と違うことを探し、それを攻撃したがるのだ。
舞台の上でも、通知が来ることで何らかの被害を被るであろう人々が、終わることのない「かくれんぼ」をしている。
一度その隠れ家に入ってしまえば、二度と外に出られないことはうすうす感じている。
それはまさに、ガレキ版『アンネの日記』か。
いや、そうはならなかった。そこはあえて避けたのかもしれないが、その要素がいくつかあれば、もっと面白いものになったのではないだろうか。
基本、人は善意である、というもとに成り立っている物語ではないかと思った。ある狭い場所でいざこざらしきことが起きるのが、何カ月も経ってから、しかもすぐに鎮火する、というあたりがそれであり、隠れている人たちを支える人もいる。
とても意欲的な作品だとは思ったのだが、特に前半のリズムの悪さが気になった。それぞれのドアの開け閉めがあるということから、しょうがないことなのかもしれないが、後半、それが少し解消されるのだから、もう少し何かやりようがあったのではないかと思ってしまった。
舞台を観ながら思ったのは、なぜみんなそれぞれが家具の中に隠れているのか、ということだ。普段の生活は全員が室内出ていて、寝るときや、何か起きたときに隠れるのが普通ではないだろうか。
例えば、「アンネの日記」でも「戦場のピアニスト」でも隠れて生活するときには、そんな感じであったからだ。
だから、そうしないことへの理由が欲しかったと思う。ほとんど寝るシーンばかりだから、ということもあろうが、それでも中央に集まって、というシーンが少なすぎるのではないか。
それと、身の危険を感じて隠れているのにもかかわらず緊迫感がない。具体的に何をされるのかがわからないという恐怖というより不安が支配している状況だから、そういう緊迫感が生まれにくいということもあるのかもしれないが、それでも異常な状況であるのだから、もっとヒリヒリ、ビクビクしていてもいいのではないかと思うのだ。
さらに言えば、疲弊感もあまり感じられない。1年以上もそうしているのにもかかわらず、夏の暑さにだるくなるぐらいで、疲弊したり、人間関係がギスギスしてこないのだ。あの狭い空間では何が起こっても不思議ではないと思うのだから。
そうした、リアルだ、と感じる要素が少ないような気がした。
こうした、ある意味不条理な世界観を立たせるためには、そうした下支えが必要ではなかっただろうか。
失礼を承知で言えば、もっと練ったほうがよかったのではないかと思う。
そうした「リアル」を取り込んで、ここは「ガレキ版・アンネの日記」でよかったのではないかと思うのだ。
しかし、ラストはとてもいい。こうした予想外の展開はうまいとしか言いようがない。
深読みすれば、どんな大変なことが起こったとしても(震災とか放射能汚染とか)、時間が経てば、世の中から忘れられてしまうのだ、というきついメッセージが込められているように思ったのだ。
透明になってしまった人々は、世間からも他人からも自分にとっても、存在がなくなってしまうという怖いメッセージでもある。
ただし、現実とのリンクや、メッセージ性が直接的すぎて、少々物語的な面白さが消えてしまったような気がしないでもない。
もっと、ラストに見せてくれたような、センスを全編で見たかったと思うのだ。
役者は皆うまい。地に足が着いている、その存在は「リアル」さがあったと思う。それだけに、物語全体にもそれを支えるリアルさは欲しかったところである。
ちょっと気になったのだが、「なんでこんな目に遭わなければならないの」的な台詞はNGワードではなかっただろうか。そんな台詞があったら、ちよっとイヤだなあと思って見ていたら、残念なことにあったのだ。その台詞が特に生きてくるわけでもなしに。
満足度★★★★
もの凄いドラマはないのだが、一人の女性としての物語はある
どちらかと言えば、実験的な舞台なのに、すっと身体に入り、とても心地良い。
美しくまとまりがあり、センスのいい舞台だ。
その美しさは「過去」のことだから、ということもあろう。
ネタバレBOX
基本としては、1人舞台×10人なのだが、ところどころで見せる、台詞のシンクロがうまい。
それは、戯曲や演出もあるのだが、役者同士の呼吸や声のトーンの合わせ方がうまいということもある。
別の話題について話している2者の会話が、付いたり離れたり、でとてもいいのだ。
21〜28歳までがリラックスした部屋着というのもうまい設定(衣装)だと思う。
つまり、外出着に身を包んだ20歳と29歳が誰か他人に話している(フォーマルな会話)のと違って、よそ行きではない、本音を語っている(インフォーマルな会話)ように見えるからだ。
女性の(こういう言い方は、差別的だったりセクハラだったりするのかもしけないが)、微妙な年齢である30歳を目前とした29歳が、20代を振り返る。さらにまだ先を知らない20歳が、まだ見ぬ未来の自分を語る。
つまり、取り上げられた20代というのは、10代とは大きく違う。それは「就職」「結婚」や「自立」というキーワードが大きくなってくる。つまり、社会や人生(これからの一生)との関係で、何かを諦めたり、何かを目指したりということを「選択する」時代でもあるからだ。
もちろん男性もそういうことにおいてはある部分同じだが、「30歳」への意識は女性よりは低い。男性にはあまり「30歳までには」という意識がないからだ。
女性にとって微妙な20代。
本人からすれば、いろんなことが起こっている。
それは、もの凄いドラマはないのだが、物語はある、ということだ。
特に「恋バナ」はとても重要(笑)。20代のほぼ全編で、思いを寄せた男性との関係が、ひょっとしたら、と思わせる甘いラストを含め美しく仕上がっている。
たぶん、本当は、混沌とした時期だけでなく、いろんなドロドロとしたこともあったに違いないが、過ぎてしまったこととして語る29歳にとっては、美しい想い出となっている。
「過ぎてしまったことはすべて美しい」というところか。
それは、この舞台の形式になている、「誰かのインタビュー」に答えるということで、深い話までしていないということにもつながってくる。
先に書いた「本音」を語っているようで、実は浄化された「想い出」を語っている。もちろん本音もそこにあるが、あえて触れないこともあろう。
そういうパンドラの箱を開ける必要はないのだが。
自分で語る自分の歴史は、都合のいいように改変されていくのはしかたがないのだが、そこのズレが少し見えてくると、さらに深みが見えてきたような気がする。もし、これが女性が描いた物語だったとしたら、たぶん結構な陰やトゲがあったような気もしているのだ。
この舞台では、唯一、20歳の自分が未来を無邪気に語る姿は、すでに過ぎてしまったことを知る29歳にとっては、かなり厳しいものである。
思い通りにならなかった9年間。
しかし、後悔はまったくしていないところが潔い。
自分が選んできた道には、迷いはあったとしても、間違っていなかったという自信のようなものがあるのではないだろうか。
言い訳などをしない29歳の彼女はとても強くて美しいと思う。
果たして、誰もがそういう姿でいられるものなのだろうか。
そう考えると、「こうありたい」あるいは「こうであったらいいな」という願望が舞台にあったのかもしれない。いや、女性は常にそうなのかもしれない(と、男が勝手に思っているということかも)。
男性から見た女性は美しい、ということでOKかも。
劇場を出て帰りながら思ったのだが、30〜39歳編もあると面白のではないだろうかということ。例えば、今回の20〜29歳編上演から休憩を挟んで30〜39歳編を上演する、なんていうのは面白いのではないだろうか。
しかし、男性編はつまらないだろうなと思うのだ(笑)。
満足度★★★★★
演劇の面白さに溢れている
面白い! 凄い!
演劇にしかできない巧みさ。
立ち見がこんなに多いトラムは初めて。
人気があるのも頷ける。
ネタバレBOX
どうなっているのか、そしてどうなるのかという興味で進む、物語自体が面白いし、役者も演出もいいから引き込まれていく。
笑いも用意されている。
観ながら思ったのは、自分を含め、多くの人が「概念」をきちんと考えずに言葉を使っているのではないかということ。
どれだけの人が「概念」を意識して言葉を発していたり、受け止めていたりしているのだろうということなのだ。
一見、「概念」を奪われて大変なことになると思いつつ観ているのだが、ひょっとしたら、概念を奪われても、誰も日常生活にはまったく困らないのではないかと思ってしまう。
「言葉」は「言葉」だけで存在し、自由に行き来する。そんなに重みもないし、それが実態ではないか。
フリーターの丸尾と長谷部が言う「戦争」も「平和」も、本当に理解して発しているのかはわからない。単にそういう言葉があるだけなのだ。
(所有の概念を失っただけでそんなに共産主義っぽくなっちゃうのか、という台詞には大笑いしたけど・笑)
逆に、もちろん、言葉に付いてくる「概念」はあるということも言える。つまり、言葉に託している「気持ち」がそれにあたる。
その「気持ち」は、あまりにも個人的すぎて、誰にでも共感できる共通項にはなり得ない。それだけに、奪われてしまうことは怖いとも言える。
だから、宇宙人がどんなに「概念」を集めたとしても、人間の総体は見えてこないことになる。
つまり、もしこんな形で侵略してくる宇宙人がいるとすれば、でたらめで適当に発せられる概念なき言葉と、極個人的な概念に支えられた言葉、そういうものを集めてしまうと、宇宙人たちは困惑し、混乱するだけなのかもしれない。
それは、どういうことかと言えば、「人間同士だって、そんな簡単にはわかり合えない(理解できない)」ということなのだ。
言葉は適当だし、それに付いてくる「概念(思いとか気持ちとか)」は、その人の中にしかなく、それも発している本人が意識しているかどうかもわからない曖昧なものだから、その意味(気持ち)の交換と共有なんてできるはずはないということなのだ。
宇宙人じゃなくても人間は、わからないというのが本当のところなのだ。
物語の落ち着く先に「愛」があるように設定されていて、それを軸に新たに光の差す物語が展開するように見えるのだが、それは人間たちが勝手に思い込んで、盛り上がっているだけで、「愛」の概念を知った宇宙人の真治は何も言っていないのだ。
確かに人間の思考を手に入れ、あらゆる概念を知ったのだが、それによって真治は人間になったわけではなく、彼は、あくまでも人間とは異なる思考の者であるのだ。
だから、勝手に盛り上がる人間たちの思うようになるとは限らない、と思わせるあたりが、またSFっぽい幕切れでもあると思う。
灰色で、その存在を意識させないセットや道具が配置され、それを巧みに使いながら、時間や空間が重なり合う。
ふとした瞬間に自宅から病室に移ったりする。
そういう演出があまりにもうまい。一気に見せてくれる。
役者も誰もが素晴らしい。特に中学生・天野を大窪人衛さんの、あのイヤったらしさは凄い。宇宙人とは言え、イヤな中学生だ(笑)。
真治の妻・伊勢佳世さんの、後半にいくに従い感情が上がっていく様も見事だし、奇妙さがうまく表現されていた真治役窪田道聡さんとのコントラストもいい。真治の義理の兄・安井順平さんのきちっとした感じ、フリーターの丸尾(森下創さん)と長谷部(坂井宏光さん)のいかにも、もいい感じ。
満足度★★★★
やっぱり万有引力、イカガワしくて面白い
寺山修司のテキストをJ・A・シィザーが再構築して演出。
まさに「鉛筆の」。
アングラだ。アングラだねえ。アングラなんだ。
ネタバレBOX
客席が舞台を囲んで観るという形式はよくあるのだが、これはどちらかと言うと、客席が舞台に飲み込まれているようである。
客席の後ろにスクリーンがあり、舞台と同じように役者が行き来する。
コトバと音楽とが溢れ、画のように舞台を構成する。
つまり、舞台そのものに観客は抱かれるようになる。
台詞というよりもコトバの断片が、歌のメロディーや歌詞のコトバの断片が、リズミカルに観客を飲み込み渦を巻く。
起こっていることを耳で聞き、目で見るという体験から、もう1ステージ上がった状態というか、なんかそんな感じ。
その渦に巻き込まれて、あっという間に時間は経ち、劇場の外に吐き出された。
J・A・シィザーらしい音楽、特に合唱は、やっぱり素晴らしい。
J・A・シィザー、凄いと改めて思う。
今回も19時開場、19時開演という不思議な時間設定。座ったと同時に始めるのをベストとしているのか? うーん、わからん。あたり前だけど、絶対に開演時間は押すのだ
満足度★★★★
なんとも言えぬ味わいと余韻
メガネな登場人物たちが織り成す物語とともに、連れて行かれる世界のほの暗さとおかしみ。
ネタバレBOX
微妙なズレと隙間から展開する物語の面白さがある。
冒頭の悲しみから、少しだけ開いた隙間を無理矢理広げていき、ややダークな世界に陥っていく。
メガネ妻の気分の変調の度合いが大きくなっていくのを、いちいち受け入れていってしまい、後戻りできなくなっていく様子が、恐ろしくもおかしい。
他人の不幸はなんとやら、で覗き見趣向で楽しんでしまう。
隣の音楽評論家、あの指揮のシーンの面白さに隠れた不気味さ。
息子は一体何者なのかという怪しさ。さらに大家の妻も怪しい。
パートナー(女性)に振り回される男性たちという印象がする。
前回もそんなイメージだった。
つまり、中心にいる男性キャストの、控え目で受け入れようとする姿勢の設定が同じだったように感じた。
この、パートナーに振り回される感じ、作者の実感なのかも(笑)。
あれよあれよというままに、連れて行かれる不気味な世界。
妻をあまりかまっていないという象徴だった猫の死を通じて、メガネ夫が「いやいや妻も悪いんだ」という思考による、メガネ妻の大家の妻や音楽評論家との仲などとの悪い妄想の結果、夫が垣間見た悪夢だったのか。
この舞台の「あらすじ」として書いてあることも、この舞台の内容に含まれるのならば、もっと怖い物語として成立しそうだ。もっと捻れた世界がそこに出現する。ただ、それはないだろうな、と思っているのだが。
役者はどの人もうまいなあ。それぞれの印象を、きちんと残していくのだ。
当パンが「3Dじゃないメガネ」っていうのも、ちょっとだけ面白い。
満足度★★★
言葉遊びに溢れ楽しい舞台
牧歌的な下ネタや歌も楽しい。
ネタバレBOX
観客を楽しませようとする心意気はたっぷりと感じた。冒頭から最後まで、客席を通ったり、歌ったりと、本当に楽しいのだ。
ただ、たいこもちのポンポンと口から出てくる言葉の勢いが楽しい舞台になるはずが、私が観た回だけなのかもしれないが、そのたいこもちの桃八・古田新太がお疲れのようで、テンポが悪い。
もうひとつ、言葉が乗っていかないのだ。軽やかでなく、重たい感じ。ちょっとはらはらしてしまう場面もあった。
そこは残念。
他の出演者は複数役をこなしうまいだけに。
特に中村橋之助さんの若旦那とってもいい。粋で甘ちゃんさがいいのだ。さすがにうまい。
そして、鈴木京香さんは、ワルでも華があり、役によっては艶も愛嬌もある。訛の台詞にもいい。
さらに、瑳川哲朗さんは、お下品な歌を楽しそうに歌っていて、貫禄も十分。六平直政さんの悪役も楽しい。
別の日に後方の席で観劇した人に聞いたのだが、最後に大きな波が出てくるとか。席(かなり前方で端のほう)の位置のためか、書き割りや役者の陰に隠れてしまったのか、それが見えなかった。見えたらまた感想も違っていたものとなっただろうと思う。
満足度★★★
熱とエネルギーが溢れていた
6番シードの印象は、大人数で、ちょっとだけ入り組んだストーリーを熱っぽく見せるというものだ。
今回も、その軸は揺るがない。
ネタバレBOX
しかし、これはこちらの当日の疲れ度合いもあるのか、熱くてエネルギッシュすぎる舞台には疲れてしまった。残念ながら、心地良い疲れではない。
それはなぜか。
まず、ストーリーが進行していく中で、中盤以降にやっと誰が物語の中心にいるのかが見えてくる。
冒頭は、意外とたっぷりに盗賊たちを見せて、設定を語らせるのだから、てっきり彼ら、合戦の中心にいない者たちの関ヶ原かと思っていたのだが、実は戦に駆り出された農民たち、その中の1人が中心になっていくことがわかる。
群像劇ではなく、彼が中心にいるのならば、もっと早くから中心に出てくるべきではなかっただろうか。
彼と彼の泣き虫兄弟たちと彼らのおっかあにスポットを当てるべきだったと思うのだ。
なぜそう感じないのかと言うと、似たような登場人物が多いからだ。もちろん設定は違うのだが、誰もが同じようなトーンで叫ぶところが多い。全体的に叫んでいる。そんなに声を張り上げなくてもいいだろうと思うシーンでも張り上げる。
うまい役者であれば、実際には声を張っていなくても、十分に客席に届かせることができるのだが、そうではないと単に大声で叫ぶことしかできず、だから単に叫んでいるようにし聞こえないのだ。力量の差はどうしようもないが、演出で、各立場をわきまえさせるべきだったのではないだろうか。
また、これは特に女優陣なのだが、これぞという自分の台詞を言うとき(基本叫んでいる)に、半身になって見栄を切るようにするところがあまりにも多い。そういう役柄、つまり、いちいちカッコをつける役ならばそれもわかるが、誰も誰もがそういう形になってくる。これはさすがに…。
さらに、「関ヶ原にダンス」の「ダンス」部分がわかってからの、ラストまでのくだりが長い。いや、長く感じるということなのだ。
もっとテンポよくできなかったのだろうか。
登場人物がどうなったのかをいちいち全員見せていくので、冗長に見えてしまっているのではないだろうか。
ラストへ力づくで、怒濤のようになだれ込めば、もっと面白かったと思う。
しかし、そのためには、主人公となっていった農民の男のことが、もっと丁寧に前半で描かれていなくてはならない。つまり、脇は脇としてくっきり陰影が見える程度に留めておき、主人公を浮かび上がられるべきだったのだ。
全体が同じトーンで、熱っぽくエネルギッシュだったことで、せっかくの物語が薄まってしまった感じがしてしまうのだ。
また、舞台に登場している人物が常に多いのだが、ダンスシーンを除き、その配置がしっくりこない。ぞろっといる印象だ。やはり、全員が前へ前へという想いが強すぎるのかもしれない。そのシーンでの中心をきちんと引き立てる演技(演出)が必要だと思うのだ。
どうでもいいことだが、農民というと判で押したように「オラたち」という訛になるのはどうもなあ…と最近思っている。もちろん、きちんと設定どおりの土地の言葉であれば問題ないのだが。
ただ、力ある劇団なので、今後には期待したいと思う。
満足度★★★★
舞台そのものが彼らの「宗教」であった
「宗教劇団」という不気味ネーミング。
しかも、『仏教キリスト教イスラム教』なんていうタイトル。
怖いモノ観たさというか、なんか期待と不安半ばで観に行ったのだ。
「雑」で「ぐだぐだ」だけど、自分と向き合う(あるいはそういう体の)彼らがそこにいた。
ネタバレBOX
会場に入るとすでに板付きで俳優がいる。板付きというよりは、泥付きというか、土の中に頭だけ出して埋まっている。
悪意と悪夢のゴミ箱のようなセットがそこにある。なかなか悪趣味。
冒頭(ほぼ)前キャストが下着姿で現れ、舞台に置いてある衣装を身に纏う。そして、「仏教キリスト教イスラム教」と歌い踊る。
これはラストにも結びつくのだが、「始まり」の儀式だ。「虚構への始まり」の宣言であり、「役者」になる儀式である。
いい意味で「雑」であり「ぐだぐた」であった。
近未来かそんな感じの時代の話。
宇宙からの光線で、人々は肉体が変化し、ある者は傷を負ってしまう。
昔のことしか言えなくなってしまったり、内臓が出てきたり、排泄物の輪が頭の上に付いたりなどなど。
人々は元に戻りたいと願う。
ゴローとトネツグは、自分の身体を治すために旅をしている。その途中で出会ったショウジョにトネツグは恋をする。
ショウジョは男に捕らえられていたところをゴローとトネツグに助けられる。
ショウジョは、この世界を救うのは、マオウを倒すしかないと告げる。
ゴロー、トネツグ、ショウジョの3人はマオウと戦うが負けてしまう。
しかし、ショウジョの口から出てきたセンニンに鍛えられ、再度マオウたちに立ち向かう。
と、まあこんなストーリーな、少年マンガな世界が展開するのだ。
(舞台の周囲にはマンガが貼り付けられていた)
悪との戦い、友情に、鍛錬、恋のフレーバーがあり、主人公の成長ものあり、の世界。
だが、主人公が悟ったとき、自分の負を含め、すべてを受け入れる、という「ありがちな成長譚」を見せて、さらに「悪」であるはずのマオウが「実は私も最初から悪かったわけではない」的な展開の、あるある感、まではそれほどではなかったのだが、登場する役者全員が、負の疑似(たぶん)体験談を披瀝するにあたって、ここはちょっと鳥肌であった。
ここで冒頭シーンと重なってくるのだ。
彼らは来ている衣装を脱ぎながら、つまり最初の下着姿に戻りながら、自分の抱えていたトラウマや今の状態を語るのだ。
どういう心境でこの劇団に加わったのか、などをヒリヒリ感たっぷりに語る。
実名を入れながら、あるいは家族との関係、人間関係そのものについて語る姿は、明らかに彼ら自身の姿である。
「演じている」姿ではない。衣装を脱ぐことで虚構も脱ぎ捨てていく。そして自分の姿で自分を語る。
この内容そのものが、実は虚構であったとしても(同じ文体なので、よくできた脚本だと思っているが。もちろん役者が自分の言葉にしている)、それはまったく問題ではない。舞台(劇団)そのものが彼らのセラピーであり、シェルターであるということの吐露である。
つまり、それは「宗教」であり、彼ら自身の本当の姿と向き合った上での「宗教劇団」というネーミングであったのだ。ホンネが聞こえた。
ここに気がついて「ああ」となった。
「虚構」の冒険物語は、あくまでプロローグであり、彼らのリハビリでもある。「虚構」としてのみ存在できることに意義がある。
ラストは、「雑」で「ぐだぐだ」な「虚構」の部分とは一線を画している。
もちろん、そこまで含めて全部が「虚構」であっても構わない。しかし、ホンネである幹は揺るがないだろう。
唯一1人、ホンネを語ることのなかったピア(土に首まで埋もれた小学生)の視点が、ト書き的な位置づけにあり、彼ら自身を第三者的な位置から見ている視線であろう。
自分可愛さに酔いしれるだけでない冷静な視線というものを感じた。この「視線(視点)」こそが「劇団」という形であろう。つまり、それがなければ、薬物や人間不信の中に閉じこもってしまっていたということなのだ。だからとても大切なのだ。
全体的に悪趣味で、それは若さゆえで、なんかそんな神経も理解できる。理解できる、と言うのはおこがましいが、多くの人が通ってきた道であろうから、理解できると言ってしまう。
彼らの心象風景は、今はこれでしか表現できないのだろう。
ストレートプレイを好む、万人向けではないが、「今」観ておく劇団なのかもしれない。
刹那に存在するというか、何かのedgeのあたりをふらふらしているというか。
第2回にして、こう切り込んできたのだから、これから自分とどう向き合っていくのか、ということを踏まえて、今後に期待、というか興味津々なのである。
なんとも気の抜けたのに、ヒリヒリした感じが、舞台の上にあり、「共感」のようにものが生まれる。「不器用さ」ともいえるその感覚があるからかもしれないが、舞台にいる女優たちすべてがキュートに見えてしまう。そんな姿に胸きゅん的な。
満足度★★★
パゾリーニの戯曲の舞台化!
に期待は高まった。
しかも、川村毅さんの演出だし、手塚とおるさんというクセのある俳優に、伊藤キムさんという踊り手まで加わるというのだから、これはどんなことになるのかとワクワクせざるを得ない。
のだが…。
ネタバレBOX
劇場に入ると、やけに広々した印象の舞台がある。
正面には大きく白い布が下がり、ここに映像が映し出されていた。
パゾリーニに持つ印象には、グロテスクさと生々しさがあるのだが(『豚小屋』で言えばカニバリズムと獣姦とモロモロと)、ここではその要素を逆に削いで、クールに虚しくしている。
衣装もモノトーンが中心。
パゾリーニの映画『豚小屋』の第2部が物語の軸となっていた。
すなわち、戦前からの軍需産業としての大企業を継いだ父親(ハンス・ギュンター)とその息子(ユーリアン)。
さらに、父親とかつて友人だった男(ヘルトヒッツェ)が、互いの負、つまり、ハンス・ギュンターの息子の、人には言えぬ状況と、ヘルトヒッツェの大戦中における悪行の部分を相殺して合併する中での惨劇。
そして、映画の第1部にあった古代の物語が随所に現れるというもの。
第2次世界大戦のときへの郷愁のようなものが、ハンス・ギュンターとヘルトヒッツェにはある。
このあたりは、バリバリのファシストだった父を持ち、本人は戦後、共産党に入ったパゾリーニだからというだけでなく、イタリア人の大戦への想いは複雑、あるいは微妙なものではないだろうか、ドイツのそれとは大きく違うと思う。67年当時のイタリアの感覚でもあろう。
だから、パゾリーニが舞台に選んだのはドイツだったのだ。
67年の作だが、すでに資本主義の本質、すなわち、消費を中心にした新たな全体主義、ヒトラーもムッソリーニも力では為し得なかった状況を描いている。
資本主義の終焉後に来るのは何か?
ここが、この舞台が2011年にも響くところではないだろうか。
その現代(67年)の状況を、ハンス・ギュンターとヘルトヒッツェたちに重ね合わせる。
右手を高く掲げ、ナチス党歌「ホルスト・ヴェッセル」が鳴り響く。
これは、なかなか面白い。
しかし、演出はスケベ心を出したと言っていいのではないだろうか。冒頭で舞台スクリーンに、例のACのテレビCMを流すのだ。これには苦笑してしまった。というより苦々しく見たと言ってもいい。
消費を陰に潜めながらの、ACCMというあたりをも含んで見てくれということなのだろうが、そうはいかない。
それはもうひとつぐらい山を越さなければ、この舞台と結びつかないのではないだろうか。
どうも全体的に演出のキレが悪い。
舞台の広さがいつまでも寒々しいだけでなく(それは意図としても)、このサイズで上演する意味が見いだせなかった。
ラストにややスペクタクル的な展開が待っているのだが、足元の白布が取り払われことは、誰が見ても最初から明白だったし、新聞がずらっと貼られた幕が下りて、近づいてきても別に感動するわけでもない。
しかも、新聞がずらりと貼られているのは、前にすでに出ているのだろから、ここは違うことで少しは驚かせてほしかったところだ。
さらに第2部に盛り込んだ第1部らしきシーンの数々がどうも消化不良。
意味ありげなのだか、意味ありげのままという印象。
伊藤キムさんのキレのいい振りを生かしきれていないというか。
天使もなんかいいんだけどなあ(「天使が通る」ってことでもないようだけど)。
役者はさすがにうまい。見せたし聞かせた。手塚とおるさんの目の光(実際に見えたわけではないのだが「気配」とでもいうか)が妖しい。
ただし、これは極々個人的なことなのだが、ヘルトヒッツェ役の笠木誠さんはどうも好きになれない。台詞頭で、独特の一拍詰まるようなしゃべり方が鼻につくのだ。前見た『わが友ヒットラー』でも気になってしょうがなかった。相性が悪いということなのだろうが。
この舞台、空席が目立った。
よくよく考えると、今や名画座が壊滅状態にある中で、パゾリーニをスクリーンで観る機会はほとんどないし、よほどの映画マニアでもないとピンとこないだろうから、「パゾリーニだ!」なんて思う観客はいないわけで、そういう意味では、パゾリーニの戯曲をやるということが魅力的と思う層はある年齢以上だろう。
つまり、今回の舞台のウリのひとつは、幻だったのだ(ある世代より下、つまりほとんどの観客にとって・笑)。そこは誤算だったように思う。
満足度★★★★
なるほど89年
1989年にこだわった物語。
伝奇モノと劇団内幕モノ(笑)の融合か。
ネタバレBOX
物語は、大昔から連綿と続く一族と、時代の転換点だった89年へのこだわりを、ある劇団の舞台という装置の中で見せていくものだった。
連綿と続く歴史と転換点というところか。
問題は、なぜ89年だったか? ということだ。
確かに汎ヨーロッパ・ピクニック、そして日本のバブル崩壊もわかる。で、その2つがダイナミックに結びついて、さらにどこへ向かって行ったのか、どうなるのか、あたりまで盛り込んであれば、「今」とつながってくるように思えたのだ。
舞台となる場所を客席で挟んで観る「サラウンド・ミニキーナ」という方式。
普通にいろんな劇団がやっているスタイルだったのだが、劇場を上下左右うまく使いこなし、(たぶん)どこから観ても違和感を感じない演出だったと思う。
しかも、演出がスピーディで面白い。視点の変化や複数役の転換など、わくわくさせる。
笑いの塩梅もいいし。
稽古中のダメだしの雰囲気とか笑ったなあ。
演出もいいのだが、役者もいい感じで熱量がある。
村松武さんが出ると、とたんに、舞台の面白度がアップしていた。
松川を演じた佐藤恭子さんの前に迫ってくるような勢いと、みずこを演じた田端玲実さんの雰囲気と間の良さが印象に残った。
亀山役の亀岡孝洋さんは、容姿的にずるいのだが(笑)、ホントにポイントポイントで面白かった。
アフタートークは、今回出演がなかった八嶋智人さん。村松武さんとは中学の同級生だったとか。ただし、友だちではなかったとか。
満足度★★★
これからどこかの舞台で出会う人がそこにいたのかもしれない
会場に入って、セットを見てワクワクした。
舞台が始まってからもワクワク感あり。
ネタバレBOX
しかし、なかなかエンジンがかからない。
中盤以降になって、ようやく暖まってきた感じ。
後半に行くに従い、ああそういうことか、という内容ではあった。
ラストはイマイチすっきりしない。
そう持っていくのならば、どこかに救いがほしい気がしたのだ。
いや、別にイイ話にせよ、ということではない。
彼女の気持ちを通して、残された者たちの救い、というか、何かの変化をくっきりと見せてほしかったということだ。
そこの印象が強ければ、物語にリズムやうねりのようなものが出てきたのではないだろうか。
役者たちは、当然というか、何と言うか、まだ、やはりもう一歩、二歩という感じは否めない。しかし、たぶん、これからどこかで観るであろう顔も中にはいるのかもしれないと思うと少し楽しみではある。
満足度★★★
まとまりがいい
のが、良さでもあり、もの足りないところでもある。
ネタバレBOX
ファンタジー的世界での物語。
架空の世界の話でも、もっと等身大の何かがあったのではないか。
主人公や登場人物の葛藤とか、成長とか、そんなことは関係ないにしても、演じる役者たちの感覚に近い何かを、舞台を通じて見せることができたのではないかと思うのだ。
笑いにしても、完全に虚構であっても、その立脚する場所には、自分たちがいるからだ。いや、単にもっと笑わせてくれてもいい。
きれいにさらっとまとまっている印象だから。
もっと、弾けてほしいと思ったのだ。
次回は『クッキング』。前回の『クッキング』は大笑いしたので期待したい。ナマ身の彼らが剥き出しになっていたから。
満足度★★★★
熱量のある舞台
キャラのダークさと物語のどす黒さは、あまりにもナイス。
ネタバレBOX
グイグイくるので、グイグイ気持ちを持っていかれた。
不気味さもありつ、面白い!
衣装が見事にキャラを際立ていたのが印象的。
ハンドルの小道具も面白い。
ただ、ラストはもうひと味、ふた味ほしかった。
にしても、森下亮さんの、アノやり過ぎな感じはたまらないなぁ。
音楽(音響)にこだわりがあるのか、劇場では見たことないような、長い低音用のスピーカーが左右の壁に設置されていた。
が、劇場自体がそういう音(特に低音)の環境となっていないためか、ボコボコと響き割れていたのが残念(座る位置によって違うかもしれないが)。
設定は面白だが
この時期(3.11以降のその時期)に観る舞台としてはかなり微妙な設定となっていた。
ネタバレBOX
ゾンビ絡みのストーリーには面白要素がたくさん隠れていそうなのだが、弾ける面白さには結びつかなかった。
この時期、わざわざ劇場に足を運んだのだから、バカバカしくても、もっとスカッとさせるか、納得度の高い物語にしてほしいと思ったのだ。
その意味では、観客の気持ちとしては、もやもやさせただけで、方向性(具体的な内容という意味ではない)として予測可能なエンディングは、その内容とともに、好みではなかったし、後味もあまりいいものではなかった。
後味のいいものだけを観たいということではないのだが、悪くするなら、悪くするだけの納得度の高いものにしてもらわないと、演劇を観に行ったかいがないのだ。
満足度★★★
中屋敷色全面大爆発の怪作!
バッドテイストで毒々しい感じがとてもいい。
とにかく物語とその語り口のエンタメ感がたまらない。
ネタバレBOX
北京蝶々が中屋敷さん(柿喰う客)を招いての公演。
姉妹作(?)『あなたの部品 リライト』(黒澤世莉さん(時間堂)演出)に比べると、より演出家寄りに作られた戯曲のような気がする。
独特のリズム、特に笑いに関するリズムは、やっぱりナイスだ。
面白いから、ついつい下品な笑い声さえ上げてしまいそう。
バッドテイストで毒々しい感じはいいが、なんだか演出にマッチしてない役者もいたように見えた。無理してるように見えたということ。
柿からの客演が活き活きしているのと比べてしまうと、慣れなのか、何なのか、いまひとつの感が拭えない。
ぼよよ~んと股間に手のくだりは、特に違和感。
例えば、ぼよよ~んは、自前ではなく、誇張した作り物を装着して、それを揺らすというほうが、より毒々しくて面白かったような気がするのだが。意味合いとしても。
独特の演出リズムも、ワンテンポずれがあったように感じてしまったのだ。それぞれの動きが、演出の意図を頭で理解しているが、身体に染みこんでないというか、そんな感じ。
にしても、登場人物たちの設定や人物造形は、けたたましくて愉快。
なんとも楽しい。
これが全面的に柿の公演だったら、もっと弾けたような気がするのだが。
逆に言えば、北京蝶々は、この公演で何を目指したのだろうか。
「いつもと違う」こととの化学反応なのか。
であれば、演出家を飲み込むぐらいの逞しさを見せてほしかったとも思う。
そうした化学反応が生まれるには、もう少し時間をかけ。ぶつかり合いをする必要があったように思う。何様なの? の偉そうな意見だけど(笑)。
北斎は、残念ながら中止になってしまったが、これからも中屋敷さんの外部演出は続くだろうから、今後も期待したいと思う。
満足度★★★★
極彩色の過剰な台詞がまさに80年代演劇
リーディングだけど、1時間50分引きつけられた。
そして、リーディングの醍醐味、イメージが広がる。
これ、演劇の舞台として観たいなあ。
1,000円安い。
ネタバレBOX
とにかく、台詞が過剰である。連発。
そして、その台詞は極彩色であり、舞台の上をキラキラさせる。
シンプルな舞台と衣装、ライティング、音楽なのに、色を言葉に感じる。
悪夢のような展開(いや、実際悪夢なのだが)に、引き込まれる。
次々と現れるクセの強い登場人物&登場犬。
本当に面白いと思うのだ。
けたたましい閉塞感とでも言うような状況が続く。
主人公のはな子が軸になりつつも、猫河原の物語でもあり、その妻の物語でもある、戯曲の面白さ。
80年代にはまだ「未来」があったのだ(Bプロの『夜の子供』も「未来」が大切なキーワードだった)。
今は「未来」があるのだろうか。
3.11以降、とつい考えてしまうが、その前まで不透明だったかもしれないのだが、今、一番熱望しているモノではないかと思ってしまう。
冷蔵庫の中という、閉塞感たっぷり状況から、はな子の叫ぶ声、突き出した手、飛び出した身体は、未来に抜けていく入口なのだろう。
ラストの力強さに、それを感じた。
とにかく面白い戯曲であり、今回演出した北川大輔の手によって、「現代」の演劇として観てみたいと思った。
Aプロも観たかったな。