満足度★★★
確かに人間賛歌、しかも壮大(的)な
だけど構成的に、とか、いろいろどうかな、なんて少し思ったり。
ネタバレBOX
冒頭に各時代の人々が赤ん坊の話をする。それぞれの時代によって、どう生きられるのか、なんてことだ。
これで、この舞台の全体像が見えたような気がした。
つまり、「時代」と「人の命」の関係。
果たして、そんな感じの演劇が始まった。
日本の歴史を生きていく一族の長い歴史というか、短い歴史というか、そんな感じ。
途中から学校の先生のような人が現れて、時代背景などを説明しだす。
だけど、それはあまり成功しているようには思えなかった。
何か意図があるのかな、と思っていたけど、特に感じられなかった。
舞台の上で行われていることが観客に伝わりにくいので「戦国時代は・・」なんて言わせているようにしか見えないのだ。
そういうことは、観て、台詞を聞けばなんとなくわかるのだから、なくてもよかったと思うし、入れるのならば、観客が想像もつかないようなコメントで、「へぇ」とかぐらいは思わせてほしかった。
時代は幕末、文明開化ぐらいで終わる。確かに学校で習うと近代史まで到達せず、ここまで来ればいいほうかもしれない。そんなことを思いつつ。残りは、「現代社会」だったかな、そんな文字が出て、文明開化の一種の象徴であろう「エレベーター」のくだりとなる。
これってどうなの? と。
現代の日本を描くのであれば、「エレベーター」に驚きつつも、技術を革新し、さらに新しいモノを創り上げていった様子を入れるべきではなかったのだろうか。
単に原始人のように驚いて、楽しんで、で終わってしまっては、「現代」とは思えないからだ。
このエレベーターへの構成がどうもぎくしゃくしているように思えた。どうもすっきりしないのだ。
そこまでは「命」が主人公であったのだが、ここはそうではない。「テクノロジー」と「命」の関係は、冒頭の赤ん坊のくだりととても激しく関係してくるのだろうが、エレベーターのシーンではそれを感じないのだ。それを感じさせるのは大切なことだったように思うのだが。
テクノロジーにしては、先に述べたような「日本的なイノベーション」が見えないし、命にしてはつながりが見えない。
それがなんか不満なのだ。
ガレキの太鼓って、主人公が1人立って物語を進めていくというのではなく、人々がきゃっきゃいいながら形を作っていくという劇団だと思う。
したがって、今回のテーマはド・ストレートなわけで、もっとどうにかなったような気がするのだ。
フライヤーのような、「どーん」としたところが太く真ん中にあれば、もっと面白かったのではないかと思うんだけど。ガレキ好きなだけに。
もちろん、こちらの感性に問題があるのかもしれないのだが。
満足度★★★★★
しつっこいし、くどい
大ナカゴーなので、大しつこい、大くどい。
凄いや。
白パン一丁が好きな劇団のようだ。
そんなことも含めて、ナカゴーでしか、絶対に為し得ない劇空間がここに存在する。
ネタバレBOX
ナカゴーって、ホントにくどいし、しつこいと思う。
それが嫌いとか肌に合わなければ地獄だと思う。
じゃ、合えば天国かと言えば、そうでもない。
天国、地獄はどうでもいいので横に置いておいて、大ナカゴーである。
どうやら大きな会場でやるときには「大」と付けることにしたらしい。
座・高円寺は大きな会場だ。
そして、それを無駄にはしなかった。
いつものナカゴーに増して、サイズに合わせて、くどく、しつこくなっていた。
その名も過小評価という青年が、が町の住民に非難を浴びて、自分は過小評価されているので、一矢報いたいと、何かをしようとするのだが、彼が「丸く座ってくれ」と言っても誰もががやがやしていてなかなか座りもしない。それが延々とあり、彼が何かしようとすると横から誰かがもっと凄いことをしてしまうという図式が、また延々繰り返され、くどくしつこいループへ突入。
ただし、今回は、前回のように「海に行く」「行かない」の単純な繰り返しではないところが進化したのかもしれない。
なんか「評価さん」とか「伏線さん」とかそういった名前や、「掃除機」を公園で飼っているとか、そんなネーミングとか台詞の口調とか変な手振りとか衣装とかエピソードとか、そういった一見、成立させるのが危うく、ベタな笑いにもなり得ないぐらいの要素が微妙に絡み合って、俯瞰すれば「ナカゴー」を形作っている、そんな印象だ。
いろんなものが横並びで存在し、それぞれへのメッセージとか、存在をどう、とかそんなことはどうでもよく、思いつきで入れてみた、というわけでもない。
不思議な感覚。
独特の奇妙さ、気味悪さ。
わいわいがやがやしているシーンが多いのだけど、どうやら全部台詞らしいのだ。それと過小評価が思わず咳き込むシーンも脚本にあるらしい(アフタートークにて)。
そういう、実は細かいところが舞台の上で効いているのだろうとは思う。
役者もいい。
キスシーンで、この女優さん、嫌々やってるんだなあ、という感じもまたおつなものだ。
……といろいろ書いて、まだまだ書きたいことがあるのだが、なんかそんなことどうでもいい気分になってきてしまう。
結局のところ、ナカゴーでしか、絶対に為し得ない劇空間がここに存在するのだ。
満足度★★★★★
生きろ! 生きろ! 生きろ!
機関車のように力強く、向日葵のように明るく。
ユーモレスクに導かれながら。
『泥花』『オバケの太陽』に続く炭鉱三部作の最終章。
ネタバレBOX
桟敷童子の良さがたっぷり詰まった作品。
一番好きな作品かもしれない。
ハジメは、母の死と引き替えにこの世に生を受けた。
ハジメたち3姉弟は、「神様」と呼ばれ炭鉱夫たちにも慕われている炭鉱主を父(辰介)に持っている。
父の義母は、町の有力者であり、炭鉱夫たちと仲良くしている辰介のやり方を気に入らない。
ハジメは自分の殻に閉じこもりがちな少年で、家にある祠が恐いと感じていた。
あるときその祠に願掛けをしていると、手作りの段ボール機関車に乗った少年が現れる。ハジメはこの孤児の少年を「神様」だと思い込む。
父の炭鉱で落盤事故があり、さらにエネルギー政策が石炭から石油へと転換していくことにより、炭鉱主の父は追い詰められ、家を出てしまう。
そんなハジメとその家族の物語。
前の2つの作品(『泥花』『オバケの太陽』)に対して、一番最初のエピソードになる、ハジメたち親子が温かい環境の下ですごしていた時代のストーリー。
ハジメの父は、「人は悲しみの上で生きている」、そして「炭鉱からわいてくる地下水が冷たいのは、炭鉱夫たちの涙だからだ」と言う。
父はハジメに、だから、その地下にある冷たい海を温かくするような男になれと言う。
ハジメは出会った神様(孤児の少年)と一緒に、泳ぐ機関車で海を温かくしようと思うのだ。
「悲しみをぽかぽかにする」(温かい悲しみ)と。
この設定自体が泣ける。
悲しみ自体は受け入れても、そこに「温かさ」を少し足してあげることで、人は楽になるということなのだ。
悲しみを直接癒すことはできないかもしれないが、温めてあげて、「そばにいる」「私がいる」ということを伝える。それは悲しみを背負った人に対してとても優しい態度であり、悲しみを和らげることができるだろう。
「悲しみをぽかぽかにする」は、『オバケの太陽』で大人になったハジメが、同じような境遇の少年と出会い、自分のことを思い出してくるところのシーンと静かに共鳴してくる美しい台詞だ。
しかし、ハジメには父との辛い別れがあり、唯一の友だちだった「神様」とも別れなくてはならなくなる。
でも「生きろ!」と、ハジメの背中を強く押す声が非常にポジティブでいい。
ストレートだけど、これがいい。
ハジメには確実に届いている。
そして、その声はハジメを通して『オバケの太陽』で出会った少年にも届くのだ。
炭鉱・石炭と機関車、そしてハジメの母が好きだった向日葵、向日葵のように明るく笑う。
ラストのシーンは、すでに想像の中にあるとおりだったが、それでも感動的であり、気持ちのいい余韻を強く残す。
今回は、作・演の東さんも出演していた。単なるカメオ出演ではなく非常に意味のある位置づけだったと思う。
彼は、3姉弟を引き取ることになる遠縁を演じている。
彼が舞台に現れたときから醸し出された雰囲気から「いい人のところに行くんだ」という印象を受ける。ただし、それでも上っ面だけの可能性もまだある。しかし、倒産した鉱山の社員たちが社長宅(ハジメたちの自宅)に押しかけたときに、「いいか、人の浅ましさを見ておけ」と言う台詞から、この人(遠縁の男)は、そっち側の人ではないのだ、と確認でき、安心したのだ。
この遠縁が現れ、いい人のようだと思ったときから、泣けてきてしまったのは、それぐらい感情移入していたからだろう。
そういう意味で、この役は大切であり、それまで舞台の上ではどちらかと言えば、痩せてギスギスしていた人ばかりの中で、少し太った(笑)遠縁の男の登場は場の雰囲気も和らげてくれたように思う。
役者は、三部作の他の作品では姉を演じていた板垣桃子さんが、ハジメのお祖母さんを演じていたが、台詞に気迫がこもり、カリスマ性のある女性を見事に演じきっていた。
ハジメの父・辰介を演じた池下重大さんは、実はうっかりすればポキッと折れそうな弱さを秘めながら、ハジメに対しての父の威厳や人の良さ真面目さを好演していた。
親族のダメ男を演じた原口健太郎さんは、そんな人に見えてきて、その妻でぐいぐいと押してくる、もりちえさんとのいつもの悪い(笑)黄金コンビを見せてくれた。
また、登場シーンは少ないが、ハジメの母を演じた椎名りおさんには、妄想野球シーンで、ハジメに対する母性を感じるようだった。
辰介の右腕・能嶋を演じた中野英樹さんは、辰介の自宅を漁りに来たあとのラストの表情の見せ方がとても良かった。
かつてハジメを演じていた外山博美さんは、久々の子役復帰で、神様を演じていた。穢れを知らない真っ直ぐな子だけど、哀しさを背負っているように見え、とてもよかった。
ハジメの姉たちも、中井理恵さん演じる長女は、美しくきりっとした長女で、徳留香織さんの次女は苦労を知らない次女という感じでそれぞれがいい味を出していたと思う。
そして、ハジメを演じた大手忍さんは、これだけ大勢の濃いキャラの中で、ハジメを見事中心に立てていた。
本当に良かった。
今回も、劇団員が作るセットが素晴らしい。セットの展開、ラストのスペクタクルな感じも。
草花が「墨」風になっているこだわりとか。
また、毎回のことだが、客入れから客出しまで劇団員が総出で行うところも、好感度が高いのだ。
次回は来年5月ということだが、今から楽しみだ。
満足度★★★★★
やっぱり面白い
1年以上前の初演も観たが、それでも面白い。見応えあり。あっという間の4時間。
役者が変わったことで、若々しさ(生)がクローズアップされた。
ネタバレBOX
4時間もの大作で、初演からそれほど時間も経っておらず、役者が一部変わったようだが、セット等には変化はないというので、ひょっとしたら前ほどの面白さを感じないのではないか、などと思っていたら、違っていた。
やはり4時間釘付けで面白かった。
役者が一部変わっただけでなく、演出(照明を含め)には、初演に比べてエモーショナルな印象を受ける。特に照明の効果は大きいのではないだろうか。
そのためか、泣けてしまうシーンが出てきた。
「泣けてしまう」ということは、この戯曲が本来提示していることと、どうなのか それでいいのか、などと上から目線で考えてしまったが、これも演出家の解釈のひとつであり、それを観客として受け取ることにした(偉そうな書き方だけど・笑)。
違和感を感じたわけではなく、台詞や演技が染みたのは間違いなのだから。
初演では、「静」「黒」のイメージで舞台全体が「死の影」に蝕まれていくように感じたのだが、今回は、「生」「色」であり、「動」であって、「死の影」はあるものの、それに抗う人々や、「死の影」が近づいていても「今、生きていること」を大切にしている人(たち)というものを感じた。
なんとなく、きらきらしているというか、そんな印象。
五郎の慟哭に似た台詞も、今は「こちら側(生)」にいるから、あがいている、と。
舞台のセットは前回とどうようで、舞台中央には「砂」が敷き詰められていた。「砂」は、どうあがいてもさらさらと指の間からこぼれ落ちていってしまう「生(命)」や、借金まみれの五郎たちが置かれている、足元の危うさ、足元を取られて歩きにくいという「生活」を見事に表しており、さらに戦争の匂いがかる時代も表していたのではないかと思う。
役者は、五郎の親友の赤井は、こちらのほうがしっくりきていたように思えた。
ちなみにこれが初演のときの感想。
http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=90524#divulge
満足度★★★★★
ヨーロッパ企画っぽくないけど、ヨーロッパ企画っぽい
「えっ?」って少し思った。
今までは、どんな世界、どんな時代にいても、そこの「ごく普通の青年」を等身大の自分たちで演じていたが、今回演じるのは「普通の青年」ではなかった。
と、いろいろ書くとネタバレになりそう、なのでネタバレをどうぞ。
ネタバレBOX
オープニングで手負いのヤクザたちが舞台のデットエンドに現れてくる。
1人は撃たれ、1人は刺され、1人は背中を切りつけられ、もう1人は特になんともない。
最初からヨーロッパ企画らしからぬ、血の臭いがする。
救急車を呼ぶ呼ばないから、マツキヨ、スギ薬局のくだり、そのあたりにはヨーロッパ企画っぽいところがうかがえたのだが、なんか様子が変。
てっきり、「なーんちゃって」的な展開になるのかと思っていたら、まったくならず、片言の日本語を話す香港マフィアまで登場してくる。
ヨーロッパ企画と言えば、ドラゴンが出てきたり、超能力が使えたり、人魚が出てきたり、土の巨人が動いたりと、どんな状況下にあっても、「日常」というものを、若者のぐだぐだしゃべりで見せてきたと思う。そのユルイ会話が楽しい舞台だった。
しかし、今回は少しだけ違う。
いつもだったら、ヤクザという設定であったとしても、ヤクザがぐだぐだしゃべっていて、という展開だったろうし、結局、誰もヤクザでなかったりしそうなものなのに、ヤクザだし、抗争で仲間の1人は死んでしまうし、という「えっ?」と思う展開になってくる。
もちろん「ヨーロッパ企画らしさ」は随所にあり、未来からやって来る男は、いつもの場違いな、変な空気とともにやって来る。ぐだぐだしゃべりはあまり得意ではない(失礼)酒井善史さんのキャラにいかにもマッチした役だ。
また、「結構大変なことになっている」のに、全体的にそーでもない雰囲気というのは、まさにヨーロッパ企画らしい。未来から来た男に対して、敵味方の変な一体感とかも。
そして、ラストにも驚かされた。ぐだぐだした感じで終わるのかと思いきや、任侠映画(ヤクザ映画というよりは任侠)さながらの、情感たっぷりな、ラストだ。
結構、グッと来てしまうラスト。
こんなラストは、今までヨーロッパ企画にはなかったものではないかと思う。
最後の最後になっても、雪見だいふくの1個はピノの3個に相当するとかしないとか、の台詞もいい。
これって、たぶん、「ヤクザ」(たち)を主人公に設定したことから起こったことではないかと思う。詳しくは知らないが、ヨーロッパ企画は、エチュードを重ねていって作品にするようだ。
だから、今までは、どんな世界、どんな時代にいても、その場においての「ごく普通の青年」を「今の自分たちの延長」で演じていたので、彼らは、どんな設定であったとしても自分たちの等身大な姿をそこに投影できたのではないだろうか。そして、ぐだぐだしゃべりで、「日常」が表現できていた。
しかし、今回演じるのは「普通の青年」ではなかった。「ヤクザ」だったのだ。したがって、見たことも聞いたこともなく、ましてや体験したこともない「ヤクザ」というモノを彼らが思い描いたものが、今回の舞台の上にいたヤクザだったのだろう。
したがって、その中で彼らが共有・共感した「ヤクザ」というモノ(世界)を演じるにあたって、彼らヤクザたちの行く末というのは、決して明るくなく、さらに、任侠というかキッズリターンというか、そういう「情感」的なところに行き着くということを選んでしまったのではないかと思うのだ。
つまり、それが彼らの頭の中での、バーチャルな「ヤクザ」の姿だったということではないだろうか。ヤクザものだから、こんな「感傷的」な感じにラストを結んだ、ということだ。
それは、今回うまくいっているように思える。
結局のところ、空間が歪んで(2段階も!)というSFちっくな展開で、結構面白かったし。
彼らが演じ、演出する人々というのは、彼らの頭の中にしかない。
したがって、今後、こういう「日常の延長線にない役柄」が主人公になったときには、また違ったヨーロッパ企画が見られるのではないかと思う。それはそれで楽しみだ。
満足度★★★★
センスよくまとめられた短編集
本公演とは別に、バーやカフェで上演するbootlegシリーズの第3弾として、気軽に演劇を楽しむというコンセプトに一番マッチした作品ではないだろうか。
ネタバレBOX
本公演とは別に、バーやカフェで上演するbootlegシリーズの第3弾。
気軽に演劇を楽しむというコンセプトに一番マッチした、短編集。
脚本も他人の作品を交えた、5本の短編からなる。
ハセガワアユムさんという人は、センスが良く器用だ、ということは衆目の一致するところだろう。
果たして今回の公演でもそれが披露されている。
他人の作品を集めながらも、脚色を加えて、MU色に染めながら、さらに1本のつながりを持たせて、興味を先に進ませるテクニックを見せる。
もともとはそれぞれ関係のない短編たちを、「豆」つながりでうまくつないだと感心してしまう。オープニングの豆工場がハリケーンで吹き飛ばされたことで、「豆が降る」ことになるというのだから。天気予報の「クロワッサンのような月」ってのも、枝豆のようにサヤに入った豆だったのだろうし(笑)。
しかも、「豆」が意外と重要なエッセンスとなっていて、初めからその作品にそんなシーンや台詞があったように、すんなりと思えてしまう。
『フリマ』
このオープニングがあっさりしているのにうまい。「懐かしい」の台詞がいい。こういう細かいところの気の利かせ方がハセガワアユムさんらしい。
『ジャンクション』
もとは女性が主人公だったのを男性にしたと言う。そうとは思えないぐらいにしっくりしている。今、アカペラっていう設定。バンド名(笑)。ネットワークビジネス(笑)。普通名詞なのに面白い。
『暗い日曜日』
これは、当たり前だけど、一番MUっぽい。なんか狂っているというか、ズレている感じが笑えるけど恐いし、しっかりと軸を通してある感じ。OL演じた渡辺まのさんがもの凄くいい。何でも屋の斉藤マッチュさんのちゃらい感じも。
『まめまめしい女』
そういう展開だろうな、と先は読めるものの、役者の絡み方が面白いから楽しめる。
『こちらN公演管理人事務所爆発前』
管理人を演じる友松栄さんがいい。この人が他の短編でもいい仕事をしていた。ちょっとした飛び道具?(失礼・笑)
どれも軽い笑いと、気の利いた台詞があり、いい台詞はうまくクローズアップしてくる。そして、MUっぽい余韻をきれいに残す。他人の作であっても。
短編〜中編の演劇は、MUのお得意とも言えるジャンルであるということもある。
ただ、見終わった後に、「面白かった」以外は、すっきりと何も残らない。
「それでいい」のかもしれないし、それがbootlegシリーズの楽しみ方なのかもしれない。
しかし、MU好きとしては、やっぱりもの足りない。確かに面白いとは思うのだけど、もっとメッセージと言うと別モノになってしまうけど、「MUだなぁ」という爪痕を残してほしいのだ。
また、このシリーズのコンセプトとして、「お酒などを片手にリラックスしながら観劇」ということがあるのだが、人気が出てくると、観客席はギュウギュウで、リラックスできる環境にはなくなってしまう。お酒のために机を置いてあるのだけど、逆にそれが邪魔になってしまうこともある。それはこのシリーズの今後の課題ではないだろうか。客数に合わせてレイアウトを変えるとか、そんなことか。
本公演とは違うとはっきりと言っているのだけど、やはり、MUには別のモノを期待してしまう。
もちろん意図があってこの公演を続けているとは思う。勝手に考えてみると、1つには、「劇団化」したことにより、劇団員間のグループ感の確認とか、役者の腕試しというか、トレーニング、どこまでできるかの実験の場ではないかと思う。さらに、年1回とか2回公演で劇団のことが忘れられてしまうことがないように、毎月公演を打つことで、チラシを目にし、噂を聞き、会場に訪れる人を確実に増やして、本公演への下地にしていくためではないかと。
であれば、ここでそろそろ「本公演」を打って欲しいところだ。それも、ル・デコやカフェやバーなどといった、サロン的な雰囲気ではなく、観客と舞台が対峙するような、いわゆる「劇場」で。
ハセガワアユムさんが、単なるセンスが良くて器用な人に留まらないように、変な器用貧乏なヒトに陥らないようためにも、是非本公演をお願いしたい。
それが今回と同様の短編集であったとしても、他人の作であったとしても、「MUらしい演劇」が見られるのではないかと思う。
満足度★★★★
「家族」をつなぐ「モノ」がたり
アットホームなコメディだけど、少し気負いすぎたかな。
ネタバレBOX
今や妹1人しか住んでいない実家。
その妹も引っ越しをすることになり、家の整理をするために、久しぶりに集まった兄弟と従弟たち。
両親の思い出の詰まった、星座早見表、招き猫、鳩時計をどうするか揉めている兄弟。
その当の本人たち(星座早見表、招き猫、鳩時計)が、捨てる前にお願いを聞いてほしいと言い出す。
百鬼夜行ではないけれど、モノに生命が宿り、いろいろ語り出すという趣向は面白い。
正確には、生命が宿って語り出すのではなく、モノの声が聞こえるようになる、ということなのだが。
登場人物全員の暖かい気持ちが伝わってくる。古いモノを持って帰ることに反対していた長男の嫁も、実は……ということがわかってくる。
アットホームなコメディ。
ただし、その見せ方は、勢いで見せようとしすぎたのではないだろうか。
つかみの雰囲気は、多少のテンションがあるのはいいのだが、3つのモノもそれぞれがすべてテンションが異常に高く、見ていて疲れてしまう。
もろちん、テンションの高いところとそうでもないところは、はっきりと分かれているのだが、とにかくテンションが高いところのレベルが高すぎるのと、テンションの高いのを、テンションの高いのが受けてしまっていること、さらにその部分が長く持続するので、全体的に無闇にハイテンションとなっているように感じてしまうのだ。
8割世界は全編ハイテンションではないものの、明るく元気な劇団だと思う。
しかし、その元気の良さ、明るさは、物語の盛り上がりに寄り添いながら、あるいはキャラクターの明るさが際立つように使われていた。
しかし、今回はなんとなく気負いが先立ちすぎているように感じた。
例えば、3つのモノでいえば、それぞれが方向性の違うキャラづけをされているにもかかわらず、テンションの高さで同じように見えてしまう。
何十年も家にあり、兄弟たちよりも年齢の高いモノたちなので、老人、と言わないまでも、もっと落ち着いていてもよかったのではないだろうか。
落ち着いた口調で兄弟たちが振り回されるという図式だ。そして、「ここぞ」というときには声を張る、でよかったように思える。
つまり、モノと兄弟たちが同じようにハイテンションなので、そういう意味においてはメリハリに乏しいと思う。
明のファンの女性たちも、両者とも同じようにハイテンションで、舞台の上が賑やかになる、を通り越してしまっている。彼女たちをそうするならば、テンションを下げて、バランスを取る登場人物や、シーンが用意されていないと、可哀想。
また、そういうテンションに全体があるので、長男の妻が、キレて怒鳴るシーンが生きてこないように思える。
朝から片付けでバタバタして、少し疲れ気味の兄弟たちが、古びたモノたちに振り回される、という、普通と言えば、普通の演技で進めていたとしても、コメディとしての演出のうまさと、役者が揃っているのだから大丈夫だったと思う。
長男夫婦のこと、弟の仕事のこと、妹と幼なじみの恋の行方のこと、などや、兄弟たちの過去の思い出、両親の思い出などが、「モノ」たちによって、うまく盛り込まれているのだから、そういう物語を大切に演出していけば、「家族」がテーマとなった、さらに味わいの深い作品になったのではないだろうか。
「モノ」は実際に声を出さなくても、「家族」の歴史を語るものである。それが「実際に語り出す」ことで、テーマがくっきりとしているのだから。
例えば、星座早見表が話す、ペガススのことなんか、とてもいいのだから。そこに向けての道程は、もう少し丁寧にしていってもよかったということなのだ。
「元気」な8割世界という特徴づけというか、差別化、というか、「こうありたい」が先に出すぎたのかもしれないけど。
ラストは、ちょっとホロっとさせた。こういうのをベタと言うのかもしれないが、それでもいいものはいい。
そして、ラストのあとの「オチ」はさらに「家族」というキーワードを絡めて、笑いつつ、いい締めであったと思う。
兄弟たちは、実家を片付けに来ているということなので(ほぼ片付いたという設定ではあるが)、軍手をしているとか、頭にタオル巻いているとか、ほうきがあったりとか、そういう細かい設定もほしかったところだ。
役者は、2人の兄弟(佐倉一芯さん、白川哲次さん)がいい味。妹役の日高ゆいさんも良かった。星座早見表の小早島モルさんは、何をやってもいい役っほいのでズルイけど面白い。嫌みにならないところがこの人の持ち味かも。
客入れのときに、鈴木雄太さんと小林肇さんが舞台の上から挨拶し、客を誘導するというのは、なかなかのアイデアではないかと思う。
今回、小林肇さんが芸名を付けるということで、アンケートに欄が設けてあった。どんな芸名になるのか楽しみだ。いい芸名を書いたので採用される・・・わけないか(笑)。
満足度★★★★
事件によってかかわりを持った人々にとっての、下山事件
事件の謎解きではなく「人」。
あいかわらず、うまい台本にうまい男優たち。
120分釘付け。
ネタバレBOX
下山国鉄総裁が轢死体で発見され、その死亡の状況から、不自然で謎が多く、ついに迷宮入りしてしまった「下山事件」を扱ったパラドックス定数の事件モノ。
下山総裁を轢いてしまった蒸気機関車「D51-651」を運転していた機関士と、この事件の周囲にいる人々の話をフィクションとノンフィクションを行き来しながら、というパラドックス定数お得意の手法によって描く。
この舞台では、「下山事件」の真相究明や謎解きが行われるわけではない。
機関士とその助手、そして同じ貨物列車に常務していた車掌の3人と、事件によって彼らにかかわった弁護士、刑事、そして役人たちの動く様が語られる。
「事件そのもの」が語られるわけではなく、事件の真相のひとつではないかということが囁かれていた「国鉄職員の大量解雇」と「それに反対する労組」という構図が、浮かび上がる。
しかし、それは、「謎解きのためのアイテム」や、他人事のような「解雇」「首切り」ではなく、「仲間」や、「明日の自分たち」のことという身近な出来事として語られ、車掌はかつて組合運動をしていたことから、微妙な立場に追いやられていく様が描かれる。
経営側と組合側のどちらにいるか、ということではなく、そのときの現場の様子なども台詞にうまく盛り込まれていく。
さらに、事件の裏で蠢く得体の知れない何か。それも事件の真相を究明するというよりは、彼らにどう影響を与えていったか、という視点だ。
この構成は「さすが」だと思った。
正直、「下山事件」の「謎」を解いていくとすると、松本清張のベストセラー『日本の黒い霧』や、その後、数多く出版された書籍、さらに熊井啓がメガホンを取った『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』を、超えるのはかなり困難だと思うからだ。
たとえ、それらを起点として、フィクションを交えていったとしても、それらの偉大な作品群が観客の脳裏から離れづらいということもあろう。
そこで、そことは少し距離を置いての、この作品となるわけだ。
「事件」より「人」、というか「人間臭い」物語になっていたと思うのだ。
したがって、主人公たち「末端」の人々にとっては、「お役人」や「国鉄の非現業(国鉄職員なので役人ではない)」の人たちは、「上の人」であり、彼らが「誰なのか」は知ることもないし、知ることもできないのだ。
だから、「お役人」は、 植村宏司さんが「1人」で演じるわけなのだ。
そういう視線からの「下山事件」ということなのだ。
この植村さんが演じる「お役人」というのが、なかなかのミソである。これは演劇だからできることなのだけど、彼は、そのシーンによっていろいろな「上の人」を、瞬時に演じ分ける。
たとえば、「下山総裁その人」や「下村総裁に似た人(幽霊と思われる人)」などもそこに入る。
映像作品であれば、下山総裁の轢死体が見つかった場所にいる男が、「下山総裁の幽霊ではないか」と思われるというのは、下山総裁に似ていなくてはならない。しかし、彼と話をする弁護士は、最初はそう見えておらず、後から「幽霊だったのでは」と思い出すというのだが、これは「似ていたり」「似ていなかったり」するとできないことなのだ。
台詞だけで観客をそう思わせるという演劇的なマジックであると言っていい。
ただし、この「上の人(役人)」が「今、彼は誰なのか」がわかりにくいので、戸惑う観客も多かったのではないだろうか。
車掌との関係もあったりしたので。
刑事も同様で、「警察」という組織のようなものを体現していたところもあった。
物語では、機関士と助手は、事件の真相を明らかにすることではなく、車掌が首切りの対象とならないようにウソの証言をする。
そして、それを「ウソ」と知りながらも、刑事はさらに車掌のウソ証言を促していく。
刑事は、上からの圧力により捜査が打ち切られることを嫌っての企みだ。
そうした「人間臭い」動きがあるものの、実際の事件は真相が明らかにならないまま、迷宮入りしていく。舞台はそこまでを描いていない。なぜならばそこは大切ではなかったからだろう。
見終わって思ったのは、「事件」ではなく、とても狭い範囲での「人」たちの様を描いたのであれば、「人」の背景をもっと深く描いてほしかったということ。
特に機関士、彼は満鉄から引き上げて国鉄に入ったという男であり、仕事一筋で、労働組合とは一線を画しているということからも、もう少し彼の人となりが描かれていれば、もっと深みのある作品になったのではないかと思う。
電車と蒸気機関車のことも少し話していたのだから、そんなことをもう少し…。
ほかの登場人物も、「生活感」に乏しく(弁当ぐらいで。その弁当も芋とかだったらなぁ…)、そのあたりが個人的にはもう一歩だった。
実際には、機関士と下山総裁の関係はかつて部下と上司の関係にあったということを知っていたので、機関士が下山総裁を「知らない」「上の人だ」と言い放っていたのが非常に気になっていたのだが、ラストにそれを払拭する、とてもいいエピソードがあった。これはもの凄く良かった。
これを活かすためにも、やはり機関士、その人について描いてほしかったと思う。
(弁護士と東京裁判の関係なんていうのはとても面白いし、パラドックス定数ファンなら思わずニヤリとしてしまう。そんな背景の書き込みがもっとあれば…)
セットは鉄パイプのような足場が組んであるだけ。
しかし、その細いパイプの無機質な無骨さが、同様に無骨な鉄の塊である蒸気機関車を見事に表しており、このセットのうまさには唸った。
気になったのは、衣装。
鉄道について詳しくはないのだが、機関士たちの上着はあれでいいとしても、あのブーツみたいな靴はないと思う。普通に安全靴でよかったのでは。さらに車掌の衣装はあれでは……。少し調べれば戦後間もないころ、車掌はどんな制服だったかぐらいはわかると思う(『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』DVD借りればすぐにわかるものを…)。衣装は予算の問題だとしても、調べれば銀河鉄道999のようなあんな衣装ではないものが作れたのではないかと思う。
実際の事件を扱うのだから、そのあたりはできるだけ丁寧にしたほうが物語に入りやすいと思う。
とても細かいことだけど、機関士と助手がそれぞれ証言する「ビュイック」や「ロープ小屋」は、当時あのタイミングでそれらについて新聞発表などがあったのだろうか。ちょっと疑問に思った。
下山総裁を轢いてしまった「D51-651」という機関車は、下山事件よりも前の1943年に土浦駅で列車事故を起こしている。タイトルが機関車番号だったので、こちらにも触れるかと思っていたが、そうではなかった。
いろいろ書いてきたが、大傑作とは言わないが、ラストまで観ていくと、パラドックス定数らしい、いい作品だったと思う。
ちなみに今回の先行予約特典は、「D51-651」キーホルダー。チケットは切符を模したものだった。
蛇足ながら、これを観て「下山事件って?」と思った方で、松本清張『日本の黒い霧』を読んでなければ、是非読んでみるといいと思う。台詞の中の言葉が結びついたりするかもしれない。
満足度★★★
「タンタタンタンタン」という声が耳にこびりつく
・・・申し訳ない、最後までピンとこなかったなぁ。
面白いところもあったけど。
ネタバレBOX
ああ、なるほどねー、宇宙ができる瞬間。
タイムズというコトバの中に、その瞬間、10のマイナス44乗(だったかな?)秒とかそんな間の出来事を入れ込んだようなストーリー。
とてもうまくできているな、と思った。
台詞がいちいち面白い、ところがある。
細かいネタがとてもいいのだ。
台詞は良く練られているのだなと。
こういう言い方は、アレかもしれないけど、テーマは違うものの、電動夏子安置システム『Performen』シリーズによく似た構成。中心となるシリアスなドラマに、それにまつわる笑いの要素もあるショートストーリーが散りばめられている。ダンス風なものもある。それも似ている。
わずかな時間と「6時間100円」の対比、100円ハーキングという日常、家に戻ろうとするフェイクガールズたち、宇宙、混沌、そして秩序・・・。
確かに、なるほどとは少しは思うのだが、でもなー、とも思う。
グッとこない。最後に延々絶叫されてもグッとこない。
なんでだろう?
それは、例えば、観客にとって、「どこに軸(足)があるか」が判然としないからではないだろうか。壮大なストーリーなのだろうけど、「それが?」になってしまうのは、こちら側の問題として、問題という言い方がアレであれば、こちら側の実感とか共感として、感じられる「糸口」がつかみづらいからではないだろうか。
もちろん、こちら側に引き寄せなくても、「壮大」なストーリーに気分が良くなる、という効果でもあれば別なのだが、そうでもない。
ショートストーリーと、中心の物語の距離感がわかりづらい。
「卑近なものと」「壮大なもの」の対比?
ゲームも知らないしポンセなんて知らない。
そんなこと1つも知らなくても、本来は面白く感じられるはずだと思うのだ。
1つひとつのエピソードが織り成す宇宙(世界)と、テーマが共鳴していくはずではなかったのだろうか。
ラストに「ヒッグス粒子」なんていうキーワードが出てきて、物語が収束していくのだけど、自分たちの家を目指して帰る「フェイクガールズ」が、「おかえり」なんていう台詞で迎えられて、オシマイ、というのは、あまりにも予定調和で少しガックリ。
暗転後に役者が整列する姿を見て、「えー、それで本当にオシマイなの??」と…。
何回かダンス風な場面もあるのだけど、キレが悪いし、揃ってもいないし。
小劇場系の劇団では、よくダンス的なものを取り入れているが、多くの場合、上手い下手は別にして、なんとなく納得がいくし、退屈することはほとんどない。下手は下手なりに、考えられているからだろう。
しかし、今回は、申し訳ないが退屈だった。退屈道場………。そこでダンスする必要性がわからないのだ。ダンス的なものの面白さというか、気持ち良さが感じられないからということもある。
もちろん、これは私の個人だけの感想かもしれないのだが…。
「タンタタンタンタン」という延々続いた声が耳に残った。劇中で延々聞こえるので、これもちょっとなぁ・・・という感じ。それはもちろん意図されたものであろうが、その意図は、私は伝わらなかった。
あと、どうでもいいことだけど、「ファミマ」のイントネーションが関西風だった。
ほかの作品はどういう雰囲気なのかは、とても興味がある。これなら先に『サブウエイ』を観ておけばよかったなとも。
満足度★★★★
地球はカラッポ、空洞
地球はもうじきおしまいだ!!
「テラヤマ見世物ミュージカル」は、「お祭り」だ。
「大騒ぎして、空虚で虚しい」って、なんて素敵なんだろう!
ネタバレBOX
公園にある公衆便所の上から始まり、ここで終わる。
流山児祥さんたちがここに乗ってハンドメガホンで口上を述べ、「地球はもうじきおしまいだ~」の歌に送られて観客は劇場に入る。
みらい座いけぶくろなんて洒落た名前にしているけど、豊島公会堂のこと。古めかしくて味わいがある。ここで上演する意味があるなとも感じた。本当は野外のほうが面白かったとは思うのだが。この登場人数では無理だな。
みらい座いけぶくろ(豊島公会堂)は、独特の反響がある。
だから、合唱の感じがいい。
生演奏で50人ぐらいの俳優が舞台で歌い踊る姿は圧巻!
J・A・シーザーさんの曲は、当然のごとく寺山修司との相性がいい。
J・A・シーザーさんの曲は、やっぱり「合唱」だと思う。
若い男女の合唱が切なくなる。
かたやももう1人の音楽担当、坂本弘道さんの曲もいい。
J・A・シーザーさんだけでない分だけ幅が広がったように思えるし、別モノだ、という違和感も感じなかった。
今回演出にクレジットされているのは、天野天街さん、村井雄さん、流山児祥さんの3人。
だからそれぞれの持ち味がそれぞれ活かされていたようだ。
特に天野天街さんは、「いつもの天街ワールド」で、夕沈さんもいつもの「な〜」の語尾のような少年王者舘風味でもなんか、「見つけた」感があっていい。
確かに「いつもの」すぎるところもあるのだけど、「テラヤマ見世物ミュージカル」としてはそれでもいいと思った。
劇場の時計の表面が実はニセモノでだらりと垂れ下がるのがツボだった。
銭湯帰りの男が1人、蒸発ではなく、余分に「勃発」することで、カオスになっていくという物語。
自分が自分だ、と言い張る男たちや、母だと言い張る母たち、妹だと言い張る妹たちが、どんどん出てくる。「自己の喪失」ではないところの「(自己の)勃発」による、「オレは誰なのだ」というアイデンティティ的な問題もあるのだけど、結論としては「地球はからっぽ」で、「もうじきおしまいだ」なのだ。
日本の今を見ても、ぐるりと世界を見渡しても、やっぱり「地球は何にもない空洞」で、「もうじきおしまいだ」と思わずにはいられない。
空気女などの寺山演劇のシーンも盛り込まれていたり、あざとく、30年前(だったか?)のオレたちは何をしていたか、などと昔話をしたり、福島のことをちょろっと入れたりしていたが、基本は、大人数で大騒ぎして、お祭り騒ぎ。
公演そのものも「からっぽだ」とまでは言わないけれど、それで十分だったと思う。
つまり、「大人数で歌い、踊り、大騒ぎして、空虚で虚しい」なんて、素敵じゃないか! と思うのだ。
「世界初演!」なんてのもバカバカしくていい。
セットだった垂れ幕が落ち、劇場の姿になり、幕。
そして、外に出ると最初と同じに公園の公衆便所の上に立つ、流山児祥さんがハンドメガホンで「終わりました」と客出しをする。
上空にはぼんやり気球が浮かぶ。
祭りは終わった。その虚しさが池袋の雨上がりの街に寒々しくっていい。
満足度★★★★
ダークってほどじゃないけど
コスチュームはやや刺激的で、やや大人向けっぽくて、いかにもホテルのショー的な雰囲気。
ネタバレBOX
直径4メートルの小さな舞台で繰り広げられるシルク。
とにかく舞台と客席が近い。だから本気の表情がよくわかる。演技に入る一瞬前の演者たちの表情は鋭く、美しい。これを間近で観られるだけでもこの公演を観た甲斐があるというものだ。
どの演技、技も凄い。
手に汗握るというか、反対側の客席で口を開けて観ている観客がいるものよくわかる(笑)。
休憩込みの140分だけど、あっという間。
とにかく飽きさせない。
それには客いじりがとても多いこともある。サーカスのピエロ的な役割の人が最初から盛り上げ、客いじりをしていく。それがとにかく多い。
観客のTシャツを脱がすというパフォーマンスで仕込みもあるのだな、ということもわかってしまうのだが(笑)。
どのパフォーマンスも濃厚。日本人ではこのような濃厚さは表現できないだろうと思う。
満足度★★★★★
大駱駝艦は大地を踏みしめ、天使舘は宙を行く
天使舘主宰の公演。
天使舘・笠井叡と大駱駝艦・麿赤兒はが、ガップリ四つに組んだ。
ベートーヴェンの第九を鳴り響かせ、大祓。
年の瀬にふさわしい公演。
ネタバレBOX
オープニングが素晴らしい。
何もない舞台に照明が丸く当たり、暗転、再び照明が灯るとそこには少数の男性を含む20名ぐらいの女性たちが円陣を組んでいた。
もう、これだけでジビレてしまった。
笠井叡さんが踊る、踊る、踊る。とにかく踊る。御年69歳とは思えないほど軽やかに舞台の上を滑るように踊る。
まるで、少しだけ(ほんの数ミリだけ)宙に浮いているような感覚すら覚える。
対する麿赤兒さんは、客席から現れる。音もなく横に立っているのに気づきびっくりしてしまった。音や気配などを一切出さず、客席を歩き、笠井叡さんが踊る舞台に上がる。
この静けさ、どっしり感が大駱駝艦の現在の姿ではないかと思う。
天使舘から笠井叡さんとメインの4名、そして大駱駝艦からは麿赤兒さんとメイン4名が参加している。
大駱駝艦は白塗りで、天使舘はそのままの裸で舞台に上がっているが、まったく同じ見た目であったとしても、この2つのカンパニーはひと目でわかるのだ。
天使舘の面々は軽やかに宙へと身体を動かし、大駱駝艦は足に根を生やしたようにどっしりと大地を踏みしめているからだ。
2つの違いは「腰」にあると感じた。腰の入り方、位置がまったく違う。
したがって、身体自体の造り方もまったく違うのだ。びっくりするほど違っていた。
それは、「舞踏(踊り)」というものへの「思想」の違いであり、身体がそのすべてを示していると言っていい。
2つのカンパニーがぶつかり合って、改めてそれを実感した。
今回は、天使舘が主催であり、笠井叡さんの振り付けであるので、今まで観たことないような、大駱駝艦の、速い舞踏があった。ひたすら第九に合わせて踊るような感じ。
それでも、「大地を踏みしめている」さまは変わらない。
特に最近は、すべてを削ぎ落とし、「立っているだけで舞踏」と言い放つような麿赤兒さんなのだが、笠井叡さんとのぶつかり合いでは、火花を散らして踊っていた。
笠井叡さんの「軽み」みたいなものも凄いと思う。麿赤兒さんが舞台の中心で踊り、決まった、というところで、舞台袖から「麿赤兒!」というかけ声まで掛けてくる(麿さんは、ラストで笠井さん「アキラちゃん」と呼んだのは笑ったが)。なんとも言えない「軽さ」が強さでもあろう。その徹底ぶりは凄まじい。
第九のラストでは、バックの女性たちも舞台に居並び、圧巻であった。
高らかに流れる第九にふさわしいものだ。
そして、ラストは、笠井叡さんと麿赤兒さんの微笑ましい姿があり、柔らかな気持ちになってくるのだ。
公演のタイトルである、速佐須良姫とは、大祓の祝詞にも出てくる神様で、底の国にいらっしゃり、穢れなどを流し消滅してくださるという。
そして、音楽は、ベートーヴェン第九。
つまり、「歓喜の歌」で、大祓を終え、祝福の新年を迎える。
そんな、まるで年末にふさわしい公演内容だったと思う。
もちろん、単に「年末」「大祓」ということではなく、「(良い)転換」という意味も込められているし、芸術への賛歌も込められていると思う。
大駱駝艦は、震災直後の昨年3月に『灰の人』を公演た。そこで、「ミタマシズメ、ミタマフリの念を込めて、ただひたすらをどるのみであります」と、麿赤兒さんが公演の冒頭に語ったように、鎮魂の舞踏であった。
そして今回は、天使舘の公演なのだが、さらに大祓をする。
これは偶然ではなく必然としての、公演であったのではないか。
それには、笠井叡さんと麿赤兒さん、お二人の強い想いが込められていたと思う。
次は、大駱駝艦主催で行ってほしいとも思う。
こうした「他流試合」は、土台がしっかりしていて、かつ柔軟性のあるカンパニー同士で、もっと行うと面白いのではないかと思った。
ちなみに、公演で使われた第九は、フルトヴェングラーがタクトを持ち、バイロイト祝祭で演奏されたものを、麿赤兒さんが気に入ったものだという。
だから、演奏の最後には拍手が入っていた。それがまた効果的だったのだ。
この盤を使ったことを「文化」という表現で麿さんが述べていたと思うのだが、それで思い当たることがあるので、引用する。
まさに今回の公演内容とも、共鳴している内容で、麿さんの意識にも似たようなところがあるのでははないかと思うので。
フルトヴェングラーは、戦中ナチスに協力したという疑いで、非ナチ化裁判にかけられた。
そのときの彼の最終弁論の一部である(うろ覚えなのでネットで検索しました)。
「芸術とは、政治や戦争、あるいは民族の憎悪から生まれたもの、また こうした憎悪を生み出すものとは無縁であるというのが、私の考えである。芸術は、こうした対立を超越しているのだ。人類全体が一つの共同体であることから 生まれ、またこれを顕し、またこのことを証明する何かが存在せねばならない。このことを述べるのは、現在ではいつもよりいっそう必要なことである。こうし た事物には、まず宗教、さらに学術、そして芸術がある。たしかに芸術は、それを生んだ国民を証すものである。しかし、その国の政治とは無縁である。芸術は 民族から生まれるが、それを超越する。我々のこの時代において政治に左右されないことこそが、芸術の政治的役割なのである」
満足度★★★★★
食べ過ぎで満腹
ラーメンの世界だと、いわゆる「全部のっけ」というやつか。ついでに「替え玉」も頼んじゃったというか。この舞台をラーメンでたとえる意味はないが…。
ホントに凄いと思った。
踏み出すことのない場所へ、「敢えて」一歩踏み入れて、「嫌悪の中」でしか描くことのできなかった、「仄暗い何か」を両手ですくって見せたのではないか。
どこが「マシュマロ感覚ドリーミングギロチン」だよっ!
ネタバレBOX
もの凄いな、と正直思った。
「何のかんのと言ったって、結局はコメディじゃねえの」という態度で観ていると足元をすくわれる。トラックでバーンとなる。バーン、と。
今回の舞台の、深みと痛み、それらがキツく突き刺さる。
小劇場系の劇団というのは、(ひょっとしたら失礼な言い方なのかもしれないが)自分の発したいコトを思い切ってできるところにあると思う。だから、「今日的」だったり「リアル」だったということがナマで登場することが多いと思う。
ひっとこ乱舞(現・アマヤドリ)やジエン社などは、その最右翼に位置するのではないかと思っているのだが、鋼鉄村松も、この作品での方向性は彼らと同じではないか、と思ったぐらいだ。
その2つの劇団が好きならば、この舞台を観て、感じるところもあったのではないかと思う。
「死」「殺人」「他者によって訪れる死」「死刑」という(たぶん)最初のキーワードから溢れ出した世界が舞台の上を埋め尽くす。それはお世辞にもきれいな世界ではないし、秩序だった世界でもない。混沌として、結論の出ない世界。
混沌、カオスを撒き散らしながらも、笑いにさらりとくるんでみたりする。
しかも、踏み込むのをためらう場所へズカズカと笑いを浮かべつつ踏み込んでいく。
ヤバイところを笑いながらこじ開けていく感じだ。
「死」から始まるキーワードの世界から、「人の存在」まで無理矢理広げていき、理屈だったり、屁理屈だったりする、重厚な台詞がポンポンと勢い良く役者の口から飛び出す。その台詞の濃さに、「おっ!」っ一瞬なるのだが、舞台の上では観客を待ってはくれない。凄い台詞の応酬だったりする。そしてそれらの台詞が絡み合い、仄暗い何かを見せてくれる。
その「仄暗い何か」は、作のボスさんも、はっきりと手につかんでいるものではないだろう。つかめないから、例えば、水面に映った月をつかもうとして、両手で水を掬うようにして「これだ」と見せることしかできないような、そんな感じではないだろうか。
それを見せるために、敢えて、今なお生々しいアキバでの無差別殺人や、敢えて、その犯人らしき男が「自分が知ってしまったことを見せに行く」と言わせて、敢えて、それによって殺された少女と父親の関係を設定したのではないだろうか。
踏み出すことのない場所へ、「敢えて」一歩踏み入れて、「嫌悪の中」でしか描くことのできなかった、「水面に写る月」を両手ですくって見せたのではないかと思うのだ。
「こういう題材を扱うのはいかがなものか」という声は織り込み済みで。
物語っていうのは、広げていったものをラストに向けて、回収していくときに快感が生まれる。しかし、この舞台では、回収する気もないし、それが「答え」なのだと言ってるようだ。あらゆる角度からの視点を取り込むために、広げていく、そんな印象を持った。
ホントに凄いと思った。
役者は、ムラマツベスさんのいつもの感じが良かった。また、グルグルメガネの後藤のどかさんはぐいぐい物語を引っ張っていく感じがナイス!、父親役の村松かずおさんの吐露のシーンの、熱く語れば語るほど暗く黒い世界が滲む感じもいい。普通に父親が娘を想って語っているような演技と内容のギャップがうまいというか。
多田無情さんは本物の職人にしか見えなく、また、工事開始前の朝礼などの無闇なリアルさはたまらないものがあった。工事関係者がいるんじゃないかな。
高橋役の菅山望さんの、いかにもいそうな頼りない現場監督がもの凄くいい味。
公演終了後は、8割世界の鈴木さんが、初見のこの舞台にダメ出しをし、さらに演出し直すというイベントがあった。
ボスさんにしろ、引き受けた鈴木さんにしろ、勇気のある(笑)イベントだと思った。村松中華丼さん汗だくだった(笑)。
冒頭のシーンで鈴木さんが引っかかったところを演出し直していたのは、ボスさんもそう言っていたが、私も「なんだかなー」と思ったシーン(失礼・笑)なので、「おお! さすが!」と思った(上から目線・笑)。ここは、有りモノのギャグを敢えて使うことで、笑いをとるというよりは台詞の勢いを見せるところなので、鈴木さんの演出が正解だと思った(またまた、お前何様だよ、の上から目線・笑)。もの凄く面白かったので、次は8割世界のアフターイベントにボスさんが登場して欲しいと思ったりした。
次回の作は、バブルムラマツさんの順番のはずなのだが、どうやらボスさんが担当するようだ。今回の路線をパワーアップさせるのか?
満足度★★★★★
登場人物が相互に、それぞれの役を成立させる見事な関係にある
それは物語と深くかかわっていて、誰かが誰かを気にして、支える、家族や友人のコミュニティの形に似ている。
コメディかと思ったらそうではなかった。
ストレートプレイ好きならば観たらいいと思う。
ネタバレBOX
異儀田夏葉さんがお母さん、佐藤達さんが小学生の息子、内山ちひろさんが中学生の娘、そして永山智啓さんがおじいちゃん……そんな役柄を見て、てっきりコメディかと思ったら(先日デフロスターズ松本企画のコントみたいなものを観たあとなので)、違った。いい意味で裏切られた。もの凄くいい会話劇。
89〜90年ぐらいの、宮崎にいる家族たちの物語。
中島家では、父は母との関係で、家に寄りつかず、たまに帰ってくる程度。思春期にある中学生の娘はそういう父親を嫌っている。小学生の息子は単純に父が好きで、なによりも今一番興味があるのがプロレスだ。
おばあちゃんは、痴呆か何かで入院中。母はパートをしながら見舞いに行っている。
おじいちゃんは、自分の息子が留守がちの家を気にし、毎日のように訪れる。自転車の「切り替え」好き。
そんな中島家を中心に、母の友人や、喘息持ちで、プロレス好きの近所の高校生、娘の部活で一緒の、シンバル担当の男子などが、どこか懐かしい香りがするストーリーを繰り広げる。
最初はコメディかと思っていたのだが、途中からそうではないことに気づき、また、「それから数年後」のような展開があるのかと思っていたのだがそうでもなく(大人が小学生を演じていたりするので)、その設定のまま淡々と物語は進んでいく。
そんな舞台に、実は違和感を感じることはなかった。なぜならば、ほとんどの役者が実年齢と違う年齢を演じているのだが、あまりにもしっくりくるからだ。
小学生を演じた佐藤達さんは、よく舞台で大人が子どもを演じるようなあざとさが一切なく、さらりと演じていて、小学生の息子になっているのだ。中学生を演じた内山ちひろさんも、同様にさらりと中学生の娘になっている。
そして、その2人の母を演じる異儀田夏葉さんが素晴らしい。2人への声のかけ方、夫や義理の父(おじいちゃん)への接し方が、リアルというか、さらりと「母親」「妻」になっている。
その台詞や動きが、まさに「毎日繰り返される日常」を体現しており、「お母さん」という感じ。兄弟げんかしたらあんな風に怒られたな、なんて素直に思える。
異儀田夏葉さんのお母さんが中心にきちんといるから、この舞台は、きちんと成立しているのではないか、とも思ってしまう。彼女が「お母さん」を演じているから、「息子」も「娘」も揺るぎなくそういう存在としていることができるのではないだろうか。
おじいちゃんも、しかりだ。頭を白髪にしても見た目は若いおじいちゃんが、「おじいちゃん」に見えて来る。
異儀田夏葉さんは、あひるなんちゃらで初めて観てから、結構気になっている役者さんで、この人の突っ込みのスルどさにはいつも感服していた。しかし、今回の芝居を観て、考えが新たになった。「突っ込みが凄い」のではなく、台詞のタイミングや声のトーンなどが的確な人なのだということだ。だから突っ込みもうまいし、今回のような芝居もできるし、西友のエスカレーターを不気味な笑顔で降りてこれる(笑)ということなのだ。
ますます目が離せない女優さんだ。
もちろん、今回の舞台は、異儀田夏葉さんだけが凄いということではなく、それぞれの役が、それぞれの役を見事に互いに支え、成立させていると言ってもいだろう。相手が本当にそういう役なのだ、と信じ切っている。そういう相互関係・信頼関係があるから、この舞台は成り立っているのだろう。
また、台詞のタイミングや絡ませ方、声のトーンなどなど、細かく気を遣っていて、それも見事であったと思う。役者の力量もあるのだろうが、そこには演出のうまさもあろう。
ストーリー自体も、母親の友人の息子の退学や、隣の高校生の入院(身体が弱いから近所の小学生の相手をしているのではないか、という切なさも含めつつ)、東京にプロレスを観に行けなかったり、娘の部活で一緒だった男子の転校など、ちょっとした波紋はあるものの、そこには、それらを支える、家族とご近所の関係(コミュニティ)がきちんとあるのだ。
今観ていて、逆にそこがちよっと切なくなったりするのだけど…。
心配してくれる家族や友人、知人がいて、遊んでくれるお兄さんが近所にいて、なんて、そんなことはもうないんじゃないかと思うからだ。
昭和から平成のころには、そんな関係が、宮崎ではまだあったのかもしれない、と思ったりもした。「ケンタッキーだ!」って喜べるのはいいよな、なんてね。
その「誰かが誰かを気にして、支えてくれる関係」は、先に書いた、「役者さんたちが、それぞれの役を成り立たせる関係」とよく似ていて、舞台のテーマと、演劇自体の在り方が、まさに密接な関係にあると言っていいだろう。
2代目の社長となった息子(中島家の父)を、なんとなく頼りないと思っている祖父が、小学生の孫(啓太)がカツ上げにあったと聞き、「タカシ(啓太の父)を呼べ」と思わず言ってしまうところや、ラストでみんなで食事をしようとなるあたりに、簡単には切ることのできない家族のつながりを感じたりもするのだ。
母親の友人・柴田薫さんのどこかにいそうな感じもよかったし、緑川陽介さん、塙育大さんの2人の男子の、少しエキセントリックだけど、実直さ、いい人ぶりも良かった。また、父親の野本光一郎さんの、実は真面目そうな感じ(だから家に戻れないような)、その友人の松本哲也さんの「一緒に風呂入るか」というような台詞に表現される、胡散臭い感じは、その風貌とともに短い登場ながらいいアクセントになっていた。
観た後、暖かいものが残る舞台だった。
満足度★★★★
粒ぞろいの劇中劇が楽しめる
それはここの劇団の持ち味が余すところなく活かされている構成となっているので、面白い。
だけど、ここの劇団の持ち味が仇になってることもあるのかもしれないな、と。
素人考えだけど、そんなことも少し感じた。
ネタバレBOX
ライオン・パーマの面白さ、特徴は、1人の役者が複数の役をこなすことにあるのではないだろうか。
それだけだとどこの劇団でもやっているのだが、ここはそれが少しだけ違う。
それは早替えのようなスピードで、衣装も替えて(微妙なものもあるが・笑)、まったく違った役でドンドン出てくるところだったりする。キャラがきちんと変わっているのだ。ほかの劇団の場合、衣装は替えても雰囲気があまり変わっていなかったり、というのはよくある。
しかしここは、どの役もそれぞれぴたっとはまって見えるうまさがある。
今回も、劇中劇があるということで、1人平均何役やってんだろう、と思うぐらいドンドン変わって出てくる。
それぞれの役の成り切り方がいい。
役の違いの幅をあまり大きくしないところでの、別の役というのは難しいのではないだろうか、それを見事にこなしていく。
同じ役者だけど別の役なのだろう、と思っていると、本屋のおじさんとマンガの編集者は実は同じ人だった、なんていうのもちょっと面白かったりする。
物語はマンガ家の話。
なので、マンガ家たちが描く内容が劇中劇でドンドン出てくる。
冒頭の「えっ何??」となるエピソードも含め、つかみはOK。
それぞれの劇中劇自体が、どれもシュールネタのオンパレードなのだが、とても面白い。
個人的には、ハズレなし、というところだ。
……ん? ひょっとしたら劇中劇となっている個々のショートストーリーをつなげて見せるための物語ではないのかな、これは、と思うほど。
とは言え、あまりにも劇中劇がしっかりとしているのと、数が多いので、全体的には少々中だるみのようなものも感じないわけではない。
それには、ひょっとしたら、ここの劇団の持ち味が関係しているのかもしれないと思い当たる。
前に見たときもなんとなく感じていたのだが、作品全体を締めるタガのような役割、背骨のような役割がいないということ。
つまり、ここの持ち味である、1人何役もこなしているということで、逆に作品の軸、中心のようなものが見えにくくなっているかもしれない。
それを解消するには、(あくまでも素人考えではあるが)主人公となる人物については、他の役をさせずに、どっしりとさせ、中心、軸を担わせていたほうが、全体が締まり、中だるみや脇道感を感じないのではないだろうか。
それには、もちろんそれだけの「オーラ」を持った、「主役」ができる「役者」が必要であることは言うまでもない。
どの役者もうまいのだから、変化させていくことではなく、今度はじっくりと自分の役に向き合うような役を、「主役」としてさせてみるのはどうであろうか。
変化とは違うスキルが必要だと思うので、それをきちんと育てることが必要かもしれない。
今までのライオンパーマとは違った役者の姿かもしれないが、ひっとしたらこれから、それが必要になってくるのではないかと思った。
ストーリー的には、ラストで「恋愛漫画」ということなので、ほとんどの観客が火山火山夫婦のエピソードが出てくるだろうと予測したであろう。実際そうであった。
観客の予想がつくラストならば、途中で火山の妻が語るエピソードにプラスして、うまくまとめる、さらなるエピソードが欲しかったところだ。
確かに、雨上がり、ベンチでもたれ合って眠る2人の姿というのは美しいのだが、それだけではもうひとつインパクトに欠けたような気がする。
劇中劇であれだけ面白い展開が描けたのだから、ここはひとつ、もっと感動的で美しいラストエピソードが描けたのではないかと思う。そこが少し残念だ。
…しかし、これって「バンカラ編」ってあるのだけど、続編もあるのかな??
今回の作のチャー・アズナブルさん以外の誰かが引き継いで続編書いたりして(笑)。
満足度★★★★
童話『ごんぎつね』の作家・新美南吉の物語の向こうに、10代〜20代前半の青年が醸し出すハズカシさを感じた
世田谷・下馬の住宅地にポツンとある、古い民家・土間の家での上演。
夜は冷えるので暖かくして行ったほうがよい。
上演時間90分・前売1200円(!)
ネタバレBOX
日記は恥ずかしい。
書くのも、もちろん読むのも。
『ごんぎつね』などの童話作家として有名な新美南吉の日記をもとに構成された舞台。
新美南吉の17歳〜22歳ぐらいまでの日記から内容を選び、「私」というこの作品の作家の視点や、新美南吉の恋人M子からの視点も加わり、フィクションが、新美南吉のノンフィクションを削り出していく。
自意識過剰で、自虐的なところがストレートに見えて来る新美南吉。これだから日記は恥ずかしいなと思って観ていると、どうやらそれだけのせいではなさそうだ。
作品自体は新美南吉の物語だと思っていたのだが、中盤から「新美南吉」という人物を通して、10代〜20代前半の若い青年が持つ、ハズカシさが溢れてくるのだ。
たぶんそうした年齢を過ごした多くの人が感じるであろう「あの頃は私はバカだった」というような「ハズカシさ」がそこにある。
日記という赤裸々なものだから、そのときの感情が露わになっているので、さらにその「ハズカシさ」は輪を掛けていく。
小学校の教員であるにもかかわらず、貧乏の子どもを避け、「やっぱり顔がいいと良い点数を付けてしまう」「みすぼらしい服装の子どもと一緒にいるところを知っている人に見られたくない」などとまで言ってしまうのは、本音であったとしても、かなり恥ずかしい言動だろう。
日記は誰に書いているわけだもないのだけど、それがすべて事実であるとは言い切れないが、本音であることは確かであろう。
「本音」と言っても、ストレートにそれを記しているかどうかはわからない。ただし、事実であろうがなかろうが、ストレートな本音であろうがなかろうが、実のところ、書いていることの矛先は、どうやら新美南吉自身に向けているようだ。
自分のことを、貧乏だとか継母に虐められたとか、ありもしない想像までも書き連ね、自虐的になっていく。
自虐的なところと自意識過剰なところは表裏一体であり、あとからその行動や言動を自ら振り返るとかなり「イタイ」。だから、とても「ハズカシイ」。
新美南吉がのちのち日記を読み返したら、そう感じたのではなかったのだろうか。
彼は、29歳の若さで夭折してしまうのだから、あとから日記を読み振り返り「ハズカシイ」と思うことがあったのだろうか、なんてことも思ってしまう。
しかし、この作品で、われわれ観客が彼の「ハズカシさ」を見、そしてわがこととして振り返ることで彼の日記は生きてくるのかもしれない。
新美南吉にとってそれは本望でないにせよ、「青年期のハズカシさ」の「供養」にはなるだろう。
私たちもそうした「供養」を経て少しだけ大人になるのかもしれない。
「ハズカシイ」にはやはり「恋愛話」は外せない。
新美南吉の日記に出てくるM子という女性との恋愛話は、とても心にグサリとくる。もちろんまったく同じ体験をしたわけではないのだが、若いときの恋愛とは、ともすれば身勝手で自意識過剰の嵐の中にあるわけで、新美南吉にしてもM子との関係では、自分の身勝手な妄想や自虐的な感覚の裏返しから発せられた言葉で、破綻してしまう。
このあたりの様子は、自分の、それぐらいの幼さを思い出したりして、泣きそうになるぐらいグッときてしまうのだ。
自分にもあった、若さ故の「ハズカシさ」だが、自分と遙かに違うのは、新美南吉は、そうした中で作品に昇華していったことだ。
ここがクリエイターと、凡人の違いなのかもしれない(笑)。
そして、ラスト。
『ごんぎつね』の最初の原稿にあり、カットされてしまった「ごんぎつねは、うれしくなりました」の言葉にまたグッときてしまうのだ。
彼の詩『貝殻』にも。
窓を開けると、外には新美南吉とM子が恋人のように楽しそうに歩いている姿が、下馬の車道に見えてくる。
これは、誰もが眠れぬ夜に布団の中で「あのときこうしていれば…」と、取り返しのつかない過去をくよくよと妄想する、誰もがご存じの「あのシーン」なのではないだろうか。
新美南吉がそうしたかどうかはわからないが、「こういう姿もあったかもしれない」と思ってしまう、選択しなかった未来の1シーンだったのではないかと思う。
奥村拓さんという人は、(たぶん)もの凄く生真面目で、(たぶん)そんなに器用な人ではないような気がする。
そんな人柄が表れているような、彼の作品(演出)が好きだ。
これからも観ていきたいと思わせる。
役者は寒かったのか、特に前半呂律の問題や台詞の問題があったが、いい雰囲気であったと思う。
前半、波を作るためか、少しオーバー気味な演技や声を張るシーンがあったのだが、これは少し違和感を感じた。無理にそんなにしなくても、そのままのテンションでいいのではないか、と個人的には思った(後半は別)。
それと、素人考えではあるが、『ごんぎつね』のラストが作品のラストと重なるところがあるのだが(詩『貝殻』との関係を整理しなくてはならないが)、そうであれば伏線として、この作品の内容と絡めつつ、『ごんぎつね』を劇中劇として(ラストでけでも)入れてあったらよかったのではないか、とも思った。
…これぐらいのキャパで(私が観たときは8名。マックスでもそんなに多くは入れそうにない。20名は無理かな?)、こんなに安い料金で大丈夫なのかな、と思う。ずっと続けてほしいから、料金はもう少し上げてもいいんじゃないかと思ってしまう。
余談だが、この公演を観た帰り、会場からわずか数十メートルの住宅地ででハクビシンに遭遇。キツネじゃないのが残念だけど、奇跡の出会いだ。
寒かったから手袋を買いにいくのかな、兵十の家に行くのかな、なんてね。
満足度★★★★
3本の芝居(コント?)と1本の紙芝居(紙コント?)4本立て
サクサク進んであっという間の70分ぐらい。
とても気持ち良く笑った。
役者さんたちを贅沢に使って、いい感じ。
安いし。
ネタバレBOX
東中野のRAFTを横に長く使っての公演。
なので、舞台部分が非常に狭いし、客席と近い。
観たのが最終日(と言っても2日間)の最終回ということもあるのかもしれないが、役者さんたちの呼吸の合い方も抜群で、良いものを観た、という印象。すごく笑ったし。
「アイダホリ」
テレビ番組での打ち合わせに来た2人組。お笑いコンピのアイダホリと言うらしい。プロデューサーが現れ、お笑いコンビの人たちだから、とボケて来る。お笑いのツッコミがしかたなく突っ込むのだが、ボケ担当のアイダが「お笑いを舐めているのか!」と突然起こり出す。そんな感じの話。
今回の公演の、つかみの話としては、テンションもいい感じに上がり、よかったのではないだろうか。アイダ役の相田周二さんがキレた感じが恐い(笑)。というか、それを受けるプロデューサー役の松本哲也さんのうまさもあるのかもしれないが。
腰が砕ける感じのオチもナイス。
「せーの!」
タレントさんらしき人の部屋に、知り合いの知り合いぐらいから頼まれた4名が大きな荷物を運んで来る。そんな話。
シンプルでバカバカしい。観ているこっちが、いろいろと突っ込みたくなる感じ。オチも含めて。タレント役の松本哲也さんの嫌な感じがとてもいい。
「三姉妹」
舞台で三姉妹を演じた3人。梨木(梨木智香さん)が他の2人、異儀田(異儀田夏葉さん)と浅利(浅利ねこさん)を呼び出す。どうやら梨木の誕生日を2人が忘れ、メールをくれなかったことについて、文句を言うためらしい。異儀田は忘れていたと謝るが、浅利覚えていたけど、メールしなかっただけなのだから、忘れてしまった異儀田と覚えていた自分はどっちがいいのか、などと言い出す。そんな話。
本人が本人を演じている感じになっていて、キャラのハマり具合が楽しく、会話のやり取りで楽しませる。浅利ねこさんが出てきてから、3人のバランスが微妙な具合に動き出してからがとても面白い。ホントにうまい3人で、狭いながらも舞台の使い方もいいし、なにより台詞の応酬がとてもうまい。そして、3人ともいい表情しているなぁと、間近で観ながら思った。
「紙芝居:力士から米」
貧乏でお金のない一家が、母親が買っていたライフルを持って、食べ物がたくさんあるだろうと、相撲部屋に押し入る、という佐藤達さんの紙芝居。
変な間と佐藤さんの声がマッチしていて、芝居(コント)がポンポンポンと続けてきての、いい意味での箸休め的な位置づけ。一呼吸入れるというか、いい塩梅。
「どうしようもない奴ら」
芝居の稽古を始めるために人が集まってきている。
どうやら小林(小林俊祐さん)がみんなの足を引っ張っているらしい。それを払拭するために演出家に何かを見せることになっている。しかし、小林は徳本(徳本直子さん)の胸を触ったらしい。小林は「やってない」とウソを言ったりする。徳本は降板すると言い出す。そんな話。
これは一番笑った。とんでもない展開と、堀靖明さんの突っ込みが炸裂していた。この人は突っ込み俳優だなぁとつくづく思う。第一話でも突っ込んでたし。とにかくタイミングとテンションがいいのだ。
林弥生さんの、なんともなキャラも楽しい。
そして、小林俊祐さんの「えっ?」がもの凄い。凄い破壊力で、観ていてこっちもイライラしてしまう。「うまいな〜」とホントに思った。小林俊祐さんって、もうそんな人にしか見えないぐらい。
紙芝居を含めて、どの作品も1アイデア的なストーリーに、役者のキャラクターをうまく活かした作品になっていたと思う。
役者さんたちは、誰もがノビノビとやっていたように見え(ホントはわからないけど)、気持ち良く笑えた。
疲れ気味な感じで劇場に足を運んだんだけど、なんかすっきりして劇場をあとにした。
ちょっと思い出し笑いしながら帰る、こんなのもいいなと思う。
これ、続けてもう1回観ても、同じぐらい笑う自信はある(笑)。
デフロスターズの本公演も気になってきた。
満足度★★★
初演と再演の間には、2011年3月11日が横たわる
九州に建設された火力発電所反対の運動にかかわってきた、実在の人物を描いた作品。
しかし、舞台としての面白みには少々欠ける。
ネタバレBOX
タイトルとか、フライヤーの写真とか見ていると、老夫婦のちょっといい話なのかと思っていた。
が、少し違っていた。
松下竜一という実在の人を描いた舞台だった。
豆腐屋を営んでいた松下竜一は、短歌からエッセイを書くようになり、豆腐屋をやめて、作家として生活していく中で、公害を知り、九州にできる火力発電所反対の運動にかかわっていくことになる。
そうした彼の姿を、彼の妻とともに描いた作品だった。
この作品は3年8カ月ぶりの再演だと言う。
初演と再演の間には、2011年3月11日が横たわる。
したがって、この作品の後半で述べられていく火力発電所建設反対の意味も、観客にとって大きく変わってくる。
確かに、そういう意味では興味深い物語ではある。
しかし、舞台としての面白みには少々欠ける。
すなわち、オープニングとエンディングは別として、松下竜一とその妻の話が、あらすじのように、説明されていくだけなのだ。
特に後半では実際の写真や彼の肉声まで流れる上に、基本、妻のモノローグが物語の中心となっているのだ。どうもこれでは舞台として面白くない。
役者の再現ビデオを交えながら、その人と業績を紹介していく、ドキュメンタリーの映像作品のような構造なのだ。
ラストは、彼がその後どうなったのかが、字幕で示されるに至っては、そういうことを含めて、舞台作品にしてほしかったなあと思った。
この作品と同じく、ふたくちつよしさんが、作・演した『一銭五厘たちの横丁』と、この作品は似たようなアプローチであり、演出方法なのだ。
『一銭五厘たちの横丁』のときはそうした写真などの実写が大いに生きていたのだが、今回はそうはならなかった。もっと大胆に脚色してもよかったのではないかと思うのだ。モノローグはもっと減らして。
舞台は、高橋長英さんと、斉藤とも子さんの2人芝居。
50歳になるはずの斉藤とも子さんは、19歳の妻から演じるのだが、若々しくって驚いた。うまいなあと思う。かたや、30歳の竜一を演じる高橋長英さんは、少し無理があるようだ。動きがなんとなくお年寄りなのだ。しょうがないけど。やはり味があってうまいとは思うのだが。
竜一の作った短歌が、暗転・セット換えのたびに幕に映されるのだが、後ろの席からだと読みにくい。出すタイミングも失敗していたりしているし。
全体的にあまりにも暗転が多すぎるので、テンポが悪く感じてしまうのはもったいない。
満足度★★★
もっと激しく空虚に
飽きなかったけど意外と満足度は低い。
ラストかなあ。
もっともっともっともっともっとを望んでしまうのだよ。
「面白ければいい」という暴力で、他者の口を閉じさせるのは、皆もこちらの世界で体験済みのはずだからね。
ネタバレBOX
さわやかでもなければ、ファシズムでもない、そんなどうでもいいことは脇に置いたとして、インモラルでもなければ、反体制でもない。
彼らの立ち位置が……なんてことはどーでもいいのかもしれない。
なんていうか、すでにインモラルと思える世界とこちらはすでに地続きなわけだから。それは承知の上だろう。
「面白ければいい」という暴力で、他者の口を閉じさせるのは、皆もこちらの世界で体験済みのはずだ。
いつも「安全な側」にいたいのも同じ。
マイノリティという名の下に、負けた人たちを集めて、逆恨み的に復讐をしていく。
そこには利用する者と利用される者があり、それは気がつかないところが恐い。
オロチも業田もそれは同じで、数の理論と空気がすべてを支配する。
彼らのバカ騒ぎは、騒げば騒ぐほど空虚になっていく。
ラストの大合唱の先にある、客電が点いた後の、観客が互い顔を盗み見たりして、ゴソゴソと立ち上がって、羊のようにもそもそと出口に向かう、その一瞬一瞬が、この演劇の本当のラストではなかったのだろうか。
ナントカいう折ると光るヤツを手にして、ちょっと振ってみたりしして、にやけつつ、階段を上がっていく、その後ろ姿にラストがある。
本当に虚しいわ。
つまりだ、1人でテレビ見て、1人で毒吐いたり、仕事で同僚や先輩のことで陰口叩いていたりする私たちが、オロチが集めたマイノリティたちであり、業田的なところに一緒に面白がって乗っていくのも、同じ私たちであるということ。
面白がるだけだから、「アレルギーだからちょっと…」という人に、「食べろ! 食べろ!」とはやし立てても、当然責任感とかは微塵もない。当たり前だ。
これが、新しい暴力的なファシズムなのかもしれない、とか。
そんなことはどーでもいい。
ただ、舞台としては、オロチがマゴコロとかデッパとか集めるところが、実に丁寧に描かれていくのだが、ラストがなんか拍子抜けである。
「えっ何、これだけ?」と思ってしまった。
整理された結論が出るとは思ってない。たぶん混沌が描かれると思っていたのだが、意外にそうでもなかった。
モロ出しのシーンも、最初は少し笑ったが、途中からはさほど面白くなかった。
意味はわかるけど、ただ出せばいんじゃなくて、何か見ている者をうんざりされるようなこととか、「バカじゃないの」と呆れさせるところまでの昇華が欲しかった。
単に、他人の下半身を見ているだけというのが面白くも何ともないということもあるのだが。
これだけの作品を作り上げたのだから、ラストは、もっともっともっと、を望んでしまう。
そこが非常に残念無念。
もっと激しく空虚に!
世界は虚しいのだから!
にしても、みんないい感じにうまい。
服部の満間昂平さんとか、デッパの鈴木アメリさんとか、ちか先生の帯金ゆかりさんとか、いい仕事していた。
<2012.10.13追記>
若干マヨさんの「観てきた」を読んで、目からウロコでした。
あの光るヤツ受け取らない自由も観客にはあったはずなんですね。
「笑いながら全員が受け取ったかどうか確認しています」みたいな脅し(笑)で、全員が持たされ、立たされ、舞台の都合によるタイミングで振らされ・・・まさにこれが「さわやかファシズム」でした!(笑)
そんな意味があったのか〜! そういう「意味」で、「参加」してたわけだ。
知らず知らずのうちに、取り込まれていたということで、意図しているんだろうな〜。劇中と同じことをやられて、やっていたとは!
お見事と言っておこう。
満足度★★★★★
これは凄い!
鳥肌。
ネタバレ長々と書いてしまいました。
ホントにネタバレなのでこれからご覧になる予定の方は、ご覧になった後で。
ネタバレBOX
『ヒッキー・カンクーントルネード』の「森田が引きこもりから脱した」その後の話。
森田は、自分を外に出した引きこもりを引き出すサービス会社「出張お兄さん」で、実際に森田を外に出した黒木の下でスタッフとして、一生懸命に働いていた。
彼は、引きこもり8年の太郎や、20年の和夫たちを、黒木とともに外に出し、自分たちの寮に住まわせようとする。
太郎と和夫は、彼らの努力により、寮に住むことになり、さらに働く場所も探してくる。
しかし…。
そんなストーリー。
ハイバイなので、胃のあたりに何か重いモノが残りつつも、笑ったりして楽しいのではないかと想像していた。
確かに笑えるところもあったが、有川マコトさんが、オムツ姿で、何やら訳のわからないことを、強い口調で話しながら出てくるあたりで、うわわわわ、となった。
彼、有川マコトさんは、かつて森田が引きこもっていたときのエピソードとして、どんなところにも順応してしまうという「飛びこもり」(!笑)の人を演じていて、森田ともの凄く通じ合っていたように見えた。
同じ人が演じているから同じ人であるとは限らないのだが、同じ人と考えると、「引きこもり」とは別の症状だった彼が、社会に出ることで結局、あのように壊れてしまったのかと思うと、かなり恐い。
「飛びこもり」の彼が黒木に連れて行かれるときに、「実験をする」というようなことを言われていた(タオルがない世界)だけに、いろいろされて壊れてしまったのではないかと思うのだ。
そして、和夫。
古舘寛治さんが演じる和夫は、古舘さんらしい口調で、静かな不気味さというか、不安さを秘めている。「大丈夫な人」のようなのだが、それは(たぶん)繕った外見であり、中身は不安の塊であることを隠しきれない。
和夫がお弁当屋さんで働くことになり、その壮行会のときに、彼の母が見せた涙を見たあとの、和夫(古舘寛治さん)の、一瞬の表情には鳥肌が立ち、その後の彼の言動・行動の揺れの表現は素晴らしいものがあった。
すぐそこに奈落がある予感をさせる。
彼の行動を筋道立てて考えてみると、太郎の就職発言に対して、擁護する発言をしていた和夫だが、つい、口が滑って「自分も…」と言ってしまったのではないだろうか。弁当屋のおばさんの視線のことまでサービストークをしてしまっているし。だから母の涙を見た和夫は、初出勤のときにああするしかなかったということなのだ。
いったん社会人として働いたことがあった彼が、引きこもってしまった一端が見えるようだ。
なんて、ふうにもとらえることはできる。
しかし、そう単純に、彼の最後の行動をとらえることもなく、それは「わからない」であっても、このテーマの感想としてはアリなのだと思うのだ。
結局は「なぜそうなったのか」「なぜそうしたのか」が、家族や他人はもちろんのこと、自分にだって、いろいろ「わからない」のだから。
ラストの前に、森田が家を出ることができるはずのエピソードが繰り返される。しかし、彼は、玄関ではなく、「窓」から出て、スローモーションで倒れる(落ちる…)。「いやいや、家を出たんだから違う」という台詞に戦慄した。
「ああ、これはキツイぞ」と思った。
さらに暗転前に、彼がまた窓を乗り越える一瞬が見える。
「これは……」。
てっきりこのキツいやつで幕、かと思っていたのだが、実はそうではなかった。
あまりにも「普通な」「日常」のようなシーンがラストには待っていた。
いつもの通りに、黒木とともに森田は引きこもりのいる部屋の前にいる。
そして森田は「用がある」と言ってそこを立ち去る。
黒木は何かわかってしまったような顔をしている。
そして幕。
このシーンは泣きそうになるぐらいのインパクトだった。
先に書いた、暗転の「窓」のシーンよりも何十倍も、ずしーんと心に重くのし掛かる。
もちろん、窓のシーン、森田が去っていくシーンについては、解釈はいろいろできるのかもしれないが、例えば、今まで舞台で行われたシーンすべてが、森田の脳内のシミュレーション(和夫もやっていた)であり、「窓のシーン」がその結論であった。つまり、みちのくプロレスには行かなかった、ともしれるし、太郎や和夫など、多くの引きこもりに接してきた体験の後、彼がたどり着いた、悲しい結論ともとれる。さらに彼の未来の分岐点だった、ともとれる。
なんて、いろいろとああだこうだと、筋道立てて考えることをしないで、観たそのままを感じるということが一番のような気もする。
しかし、それは楽しい結末ではないように思える。
どんなに説明されても、「わかる、わかる」なんて簡単には言えないけれど、それぞれがそれぞれの事情でそういう状況になっているのであって、黒木も言っていたように「なぜ外に出たのかわからない」ということが、森田や太郎や和夫たちにとっても、実は同じということ。
もう1回同じことを書くけど、
「なぜそうなったのか」「なぜそうしたのか」が、家族や他人はもちろんのこと、自分にだって、いろいろ「わからない」のだから。
「今の状況はマズいかも」と気がつくところが、あまり良くないと思われている引きこもりなどから脱するための、第一歩であることは間違いないのだが、そこから「普通の暮らし」「普通の社会」と言われているところに出て、「普通の生活」をするということは、とんでもない距離があるということなのだ。
もちろん、太郎という人もいるので、その距離も人それぞれだろう。
家族を含め、周囲から常に言われ続けてきた「普通」と言う言葉。「普通」という「言葉」に縛られてしまい、「普通」が何なのか突き詰めすぎてしまう彼ら(和夫のファミレスでの注文練習のように)にとっては、見えないほど彼方に「普通」はあるのだろう。
和夫の感じていた「普通」が母の涙によって、現実になってしまったのかもしれない。
鈍感になることが、唯一生きていける方法なのかもしれない。
森田の行動を見ていると、かつて自分がそうであった引きこもりたちと、懸命に寄り添い手助けをしようとしている。その姿はあまりにも美しい。しかし、寄り添いすぎることで、自分の中に「完治」してない部分が共振してしまったのだろう。
黒木は、厳しい口調と態度で常に臨み、「闇黒」に引き込まれないようにしている。
「引きこもりはなぜダメなのか」という台詞が重い。
なんという観劇後感を残してしまう作品だったのかと思ってしまった。
唸りながら帰るしかない。
森田などを演じた吹越満さんは、やっぱりうまい。嫌みなほど(笑)うまい。「うまい演技」をしている、と言ってもいいかもしれない、という嫌みをつい書いてしまうほど(笑)。あの演技は、大きな舞台ということを考えてのものだったのではないかと思う。引きこもりの人だった森田の動きとか。ただし、吹越満さんの表情が凄い。これはホントに凄い。
そして、先にも書いたが、和夫を演じた古舘寛治さんの、母との、あのシーン、古舘寛治さんのの一瞬の姿が素晴らしい。
オムツ姿でうろつく有川マコトさんはなんか恐い。社会に出てこうなってしまうかもしれない、という行く末のひとつとしての怖さが、常に舞台の上にあった。
黒木を演じたチャン・リーメイさんももの凄く良かった。きっぱりした口調の中に、自分の仕事への疑問(揺らぎ)のようなものがうかがえる。ラストに近づくにつれてその配分が多くなるところもうまい。
さらに、森田の妹を演じた岸井ゆきさんが良かった。兄への愛情と、明るさが救いであった。森田が唯一心を許せるたった1人の存在であることが、よくわかるのだ。
舞台は、シンプル。ドアや壁を想像させるパイプがあり、それがくるくる回る。そのくるくる回すシーンが、なんか恐い。そして、ドアの構造がハイバイだった(ハイバイ扉と呼んでもいい・笑)。
舞台の下手奥には俳優たちが出番を静かに待っている。そういうことも含めて、小劇場の香りがした。
私の観た回は、後ろのほうが、すっかーんと空いており、「大丈夫か?」と思ったのだが、今はどうなのだろう。パルコだからちょっと高いけど、観る価値はアリ、だと思う。