満足度★★★★★
これは好きだ!
まるで「音楽」だ。
当事者になれない虚しさ。
耳がいい、音に敏感。
重力、遠心力、そしてそのバランス。
ネタバレBOX
配役は「声質」で選んだのではないかと思ってしまう。宇宙の広がりが、個人的な心、気持ち、にじんわり染みてくる。
ただ、3.11以降の観客としては、去る者、残る者、それらを遠くから見守る者、3.11以降の世界を重ねてしまう。
つまり、初演とは確実に違うモノを受け取ったのではないかと思う。そう考えると初演見とけばよかったなぁと思うのだ。
満足度★★★★★
「日本的」な「察し」
討ち入りなどはない、「静かな忠臣蔵」。
ネタバレBOX
「元禄忠臣蔵」 《江戸城の刃傷》
《御浜御殿綱豊卿》
《大石最後の一日》
という内容。
つまり、討ち入りなどはない、「静かな忠臣蔵」と言っていいのではないだろうか。
「江戸城の刃傷」も内匠頭が吉良に斬りつけるシーンはなく、すでに内匠頭は取り押さえられている。
この「静かな忠臣蔵」で見せてくれるのは、「日本的」な「察し」だ。
「何も言わずにわかる(だろう)」ということ。顔を見て、目を見て、互いに察し合い、「うむ」と頷く。
それは、観客にも必要なモノでもある。
「ここでは、彼らはわかっているのだ」ということを「察し」なくてはならない。
例えば、内匠頭が刃傷に及んだ理由を語らないことや、「刃傷なのか喧嘩なのか」という言葉の使い方、また、綱豊が助右衛門に尋ねているのはどういう意図なのか、そして、十郎左衛門が語らないのはどうしてか、さらに浅野家再興との関係など。
「大石最後の一日」での、男の姿で現れたおみのの心情、それを最初は断るが「偽りを誠に」と言うおみのの言葉に揺り動かされた内蔵助の心情。磯貝の「婿に相違ない」と言わせるまでのやり取りなど、気持ちの襞を見せるような
美しく無駄のない台詞。
そう、この舞台は、洗練された台詞を楽しむ舞台でもある。
台詞の間に隠されたり、現れてくる感情、本音や建前に隠れている感情、露わになる気持ちなどを読んでいくというところが肝であるのだ。
討ち入りのカタルシスはないものの、そうした「心情のやり取り」が、美しい台詞の中から聞こえてくるのだ。
中村吉右衛門はさすが、「ここだ」という場所をきちんと観客に伝えてくる。
満足度★★★
重厚
オーケストラの音と歌をきちんと聴かせる。
ただし、少し短いかな。
本当ならば、ニーンベルンゲンのようになったのではないか。
もっと壮大なものを期待していた。
同じ黛敏郎のオペラ『金閣寺』が内へ内へと向かう作品だったのに対して、外に向かっていくように感じた。
八岐大蛇は残念。
CDが廃盤なんだよなあ。
満足度★★★★
これを子ども向けとして上演していることにかなりの驚き
押さえておかないと、雀のように飛び立ってしまう昔話。
手の指の間からポロポロとこぼれ落ちてしまうお話。
子どものように真剣に観た。
ネタバレBOX
チラシが楽しい。
冒頭の老人の独り言から舞台に引き込まれる。
子どもたちは、埋め込まれた、よく知っているお伽噺の断片を、舞台の上から見つけ出す楽しさもあるのだろうか。
また、あるいは、断片から作られたお芝居に、自分ならではの「物語」を見つけ出しているのかもしれない。
まあ、自分が小学生とかだったら、目の前で大人たちが一生懸命やっていることは、同じように一生懸命見るだろうなと思うけど、大人は、つい、いろんなことを考えすぎてしまうのだな。
満足度★★★★
(いい意味で)まるで古典のようで
骨太で洗練された戯曲。
因縁や因習を軸に織り成す物語。
セットも生演奏もとてもいい。
当日パンフレットには、この舞台に関連する情報が丁寧に書かれていたが、これはそこまで説明する必要があったのか、と思ってしまう。
確かにそれがあるとないとでは、内容を理解するのに違いが出てしまうのだが、舞台は舞台で簡潔してほしいと思うので、ここまで必要はなかったように思う。
ただし、役者がこの戯曲には若すぎた(年齢ということではなく)のではないかと思った。
彼らにふさわしい戯曲か、戯曲にふさわしい役者だったら、と思った。
この劇団、今後も注目したい。
満足度★★★★★
もの凄い質量で現在から過去、虚構から事実までを疾走する
日本語、台湾語が塊になって観客へ降り注ぐ。
なんと! これが無料の公演とは!
ネタバレBOX
過去、現在、そして少しの未来(平成の後)の軸がある。そこに、演劇、本の中という2つの
虚構と、演劇をする人たちが演劇をする、演劇に出る人たちのこと、という事実という軸があり、さらに、演劇の空間内と外という軸もある。細かく言えば、演劇空間には本の中と外という区分まであり、それに肉体で演じる芝居と映像で見せる芝居、映像表現そのものという軸までもある。
このいくつもの軸を役者が、観客の視線を道連れにしながら、走り回る。役者は3人。3人がそれぞれの空間にいて、それぞれの場所に走り込むのだ。
もの凄い情報量である。
しかも、台詞は日本語と台湾語、少しの英語も混じり、当然台湾語はわからないので、字幕という言語も加わる。
1930年代の台湾が舞台の中心。それは日本統治時代の台湾であり、本の中の出来事である。この本自体のオリジナルがあるのかどうかは不明だが、本のストーリー自体が幻想的だ。
日本人の妻と人形遣いの話なのだが、鯉がキーワードとなっている。
池の中の鯉になぞらえる妻のこと。きれいだけど、それだけ。
食べられる鯉と食べられない鯉。きれいな鯉は食べられない。
人は池の外からきれいな鯉を見ているだけ。
このストーリーに、日本人の女性が入り込む。人形遣いの人形として。
人形なのに、全体が見えているという視点があるのだ。
さらに、日本人女性を演じる役者の祖父が台湾からやってきたということで、そのお墓を台湾の俳優たちと探しに行くというストーリーも並行する。
台湾と日本の関係が、激しいパフォーマンスと、矢内原美邦さんらしい熱のある台詞回しの中で、静かに語られる。
本の中とは言え、1930年代の台湾という設定であるとすると、真っ先に浮かぶのが、「霧社事件」。日本と台湾との間に深く暗い影を落とした事件があった。
そういう歴史的事実を含め考えると、さらに深くなりそうな物語だ。
ミクニヤナイハラプロジェクト『五人姉妹』のときは、短時間の作品をさらにブラッシュアップした作品を見せてくれたので、これも新たに再構築して、再演してほしいと思う。
満足度★★★★★
野田秀樹ってスゲーなって思っちゃう
筒井康隆らしい、過激さが日常となっていくストーリーを、役者のうまさで見せた。
ネタバレBOX
とにかく役者がウマイ!
そして痛い!
尾藤イサオが歌う「剣の舞」に歌詞を付けた曲がいつまでも耳に残る。
「剣の舞」という曲名から、ブラックなジョークを感じる。
主人公の名「井戸」は、フロイトの言うところの「イド」なんだろうなあ。
筒井康隆らしい過剰なストーリー、その過剰さ、過激さが「日常」になっていく怖さ、それを役者のうまさで見せた。
満足度★★★★
とてもいい感じの会話劇
人と人との距離感を感じる。
その距離感をうまくつかめない人々が舞台の上に。
近くても遠すぎてもあまり良くない。
それを程良い距離にしようと懸命に生きる人々だ。
久保貫太郎さん、もの凄くいい。
満足度★★
う〜ん…
橋本治が昔書いたという脚本を、若手の勢いある俳優が演じ、蜷川幸雄が演出する、ロックミュージカル! というだけで、期待は高まった。
だけど、カッコ内だけど、「ロックミュージカル」とうたっているのだが、音楽がイマイチ。
もの凄くイマイチ。
ロックと言えばロックなのかもしれないけど…。
演出が望んだロックではなかったのではないだろうか。
ネタバレBOX
いや、もちろん一口に言ってロックにはさまざまあるのは承知しているし、劇中の曲はロックであるか、ないかということはそんなに重要ではなく、とにかく、あんまり楽しくはなかったな、というのが感想だ。
また、ミュージカルってうたっているのも違うように感じてしまった。劇中で歌えばミュージカルっていうわけではないだろう、と思うのだ。
劇中の音楽が耳に残り、帰り道で口ずさみたくなるような、あるいはCDを探すような、そんな楽曲がないとミュージカルは寂しい。
橋本治が翻案した物語もそんなには面白くない。
四谷怪談を今風の時代背景と融合させ、侍が背広姿で、ってな風になっているだけで、特に面白いものではない。中途半端に古さが感じられる。
会話がポンポンとリズム良く交わされるのであれば、また違ったものになったであろうが、これはミュージカルなのだ。
やはり歌のパートになるとスピードやリズムが落ちる。
そうなのだ、今、役者が即興で歌っているんじゃないか、と思うぐらいのパッとしない音楽だった。
蜷川演出としては、ロックなんだから、シャウトして、という感じにしたかったのだろうが、肝心のメロディがこれではシャウトはできない。
できないのに、ロックっぽく役者たちは熱唱風に歌おうとしている(つまり、演出としてそう歌わせようとしている)。それがまったく曲調とマッチしていない。ギャップがあるのだ。
つまり、演出が望んでいた曲調ではなかったのではないだろうか。
明らかに、作曲の人選ミスだろう。そういうシャウト風の曲を望んでいて、「ロック」と付けたのならば、そういう作曲ができる人を選ぶべきだった。
もしくは、出来上がった曲でなんとかするという方法もあったのではないだろうか。
ただし、物語全体が、若者のもやもやした焦燥感のようなものを感じさせるのであるから、やっぱり若さを発憤させるようなシャウト系のロックであったほうが良かったのだ。
もちろん、すべての曲悪いわけではなく、ギターを弾いて歌う歌は、もの凄くいい曲だと思う。
だけど、ほかの曲はまるで役者がいま即興で歌っているようにしか聞こえず、楽しめないのだ。
それは、小出恵介さんの歌が下手すぎということもある。上手い下手という前に、声が出てないし、聞いているこちらが恥ずかしくなるほど。
主人公については、初めからきちんとキャラ立てておけよ、と思うぐらいで、中途半端で魅力を感じない。脇の手堅い固め方は、アイドルや若手人気俳優を使うときの、蜷川風なのだが、それによって舞台経験の力量の差がありありとしてしまった。
小出恵介さんは、そんなに演技は下手ではないはずなのだが、歌がダメだってことは当然自分も気づいていることから、芝居も萎縮してしまったのではないだろうか。
演出としては、ラストだけはがんばったように見えてしまう。
第一部から、とにかく人がわさわさしていて見づらいし、歌のシーンをすかっとしないと、なんだかなー、と思っているところに、ようやくスカッとするシーンがラストに来て、観客はホッとする。
ここのロックにはきちんと熱量があるし、ダンスもいい。
これができるのならば、なぜ最初からやらないのだ! と逆に怒ってしまう。
ただし、多くの観客は、この舞台に望んでいたシーンなので、気持ちが解放され、ノリノリになっている。ラストの、この感じだけで、「この舞台よかった〜」となる人多いのではないだろうか。……チケ代高いしから、そう思わないとツライしね。
ラストにこういう演出を持って来たことに、蜷川さんの老獪さ(笑)を垣間見た気がする。
満足度★★★★★
加藤健一事務所のコメディは最高に面白い
もう、それに尽きる。
ネタバレBOX
笑いが、本当にうまくヒートアップしていく。
一気に加速するというよりは、徐々にいろんなことが見え始め、面白くなっていくというのが、とてもいいのだ。
一見、さらりと演じている2人だけど、もの凄くうまいのがよくわかる。
2人の阿吽の呼吸。
彼らだから笑えるというところもあったと思う。同じ脚本でも別の人たちではここまで笑えないかもしれない。
風間杜夫さんが、さりげなく加藤健一さんを立てていたように見えた。
今度は逆の役でも観てみたい。
満足度★★★★
ブラジルっぽい、ハードボイルドなタッチ
キレのいい演出と台詞の応酬が気持ちいい。
ちょっとしたシカケで、物語の展開をサポートする。
ネタバレBOX
一体、何が起こったのか? という行方不明の友人を、ツイていない男が探すことになっていく。彼のツイてなさがなかなかハードで、人を、そして真実を追っていく姿がまさにハードボイルド。
主人公演じる櫻井智也さんのように、ふてくされたようになるのもよくわかる。
少しささくれ立った主人公の心情とともに友人捜しの旅が始まる。
櫻井智也さんオンステージ的な印象も強い。
とにかく、ストーリーに引き込まれ、キレのいい演出と台詞の応酬が気持ちいい。
サクサク行くというか、観客の心のスピードに見事にマッチしていると言っていいだろう。
また、そうした気持ちをうまくいなしたり、かわしたりするあたりも憎い。
劇中、主人公とかかわってくる人たちが、「どこか似ている人」という設定で、2役ずつ演じているのだが、これは単に役者の数ではなく、夢、それも悪夢のような様相となっていくことで、ダークで、現実離れしている物語の展開をうまくサポートするシカケだ、と言っていいだろう。
「現実なのか?」「幻なのか?」という、主人公の混乱と、混沌たる地獄に墜ちていくことへの道しるべでもあろう。
この違和感は観客にも起こることで、展開への布石として成功したと言っていいと思う。
物語の展開は、ダーク。
それもモダンホラーというよりは、土の匂いがあり、どこか因縁めいていて、寓話のようでもあり、都市伝説のようでもある。
そして、それは恐いというよりは美しい。
土中に引き込まれる手際の怖さ。
友人が一緒に暮らす女性の佇まい。
スピード感が見事。
その女性を演じる幸田尚子さんの静かで冷たい鋭利な佇まいが目を惹く。
満足度★★★★★
「今」と「現在」、子どもの時間
観客の記憶と絡み合い、甘くて苦いノスタルジーとともに切なさが、要所要所ですうっと現れてくる。
ネタバレBOX
小学生が秘密基地に転校生を招いた数十分を描く。
小学生同士のヒエラルキー、裕福、がポイントになっている。
それは危うい関係であり、ちょっとしたことですぐに崩れてしまう。
そして、大人が小学生を演じるということを見事に取り入れた作品でもある。
まあ、演劇を観るほうとしては、「小学生です」と言われれば、60代の人であってもそう見ていくのが普通ではある。中には違和感が最後まで拭えないものもあるが、トム・プロジェクトの公演の『エル・スール~わが心の博多、そして西鉄ライオンズ~』なんていう凄いのもある。たかお鷹さんが、全編小学生を演じていて、自分より年下の女優さんに「おばちゃん」なんて言うのに、まったく違和感がないのだから。
この舞台の不思議なところは、全員小学生なのだけど、衣装が変なのだ。
「?」という疑問が頭の上にあるままストーリーは進んでいく。
「今、小学生なの?」「何かふざけているの?」と。
中盤から衣装、つまり舞台の上で見えているのは、「現在」の彼らということがわかってくる。今、舞台の上で行われているのは、その彼らが小学生だったころの話であり、その彼らが大きくなるとこういう仕事をしている(あるいはしていない)、こんな風貌の大人になっている、ことを見せているのだ。
だから、大人が小学生を演じている、ということを、リアルなまま行えるということなのだ。
小学生の彼らの「今」に、「現在」の彼らの様子が字幕で現れてくるいろいろあってフリーターをしている者、警官になっている者など、小学生のときの彼らの言動とのギャップだったり、変わらなかったことだったりを伝えてくる。
これは、時間を短縮して見せているのだけど、例えば、小学生や中学生ぐらいの、まだ未来がどうなるかわからない時代を一緒に過ごしたクラスメイトが、クラス会で久しぶりに会って会話するのと似ている。
「え、あいつが今こんなことを!」とか「やっぱり、そうなると思っていたよ」とか、いろいろな感想があるわけで、小学生のころにその芽があったり、見落としていたり、なかったりということを体験するわけだ。
それが舞台の上では字幕ど「現在の彼らの姿」で一瞬にわかるという仕掛けだ。
クラス会の経験は多くの人があるだろうから、そうしたベースとなる経験が、この舞台を観ていて引き出されることで、面白さが倍増するのではないだろうか。
自分のクラスメイトのことなどを思い出したりして。
そういう面白さがあるし、さらに、裕福な少年が仲間の上に立っていて、転校生も自分の下に入れようとするのだが、思わぬ反抗でその関係にヒビが入ったり、仲直りしたり、という、いかにも小学生のころにありそうなエピソードも楽しいし、切ない。
結局のところ、こういう組織とか仲間とかの上下はもちろん、つながりの関係は、小学生のときと大して変わっていない、というつこにも気づかされるのだけど。
甘くて苦いノスタルジーが、観客の記憶とうまく絡み合っていく、といううまさがある。
例えば、いじめ的なエスカートの仕方の怖さと、それに対する仲間のブレーキ感などは、同じ体験をしたことがなくても、自分の記憶を引き出したりすることで、妙にリアルなのだ。
ヒロインを深沢敦さん演じていた。ちょっと飛び道具的かな、と思っていたがそれは違っていた。
どこのクラスにいもいるような、ちょっと生意気で勘違いをしている女子がそこにいた。
彼女(深沢敦さん)は、登場したときから足が悪そうで、片足を引きずりながら、階段の上り下りにも苦労していた。
舞台にある階段はかなり急なので、てっきり、稽古か本番で転んで怪我をしたのかと思っていたら、そうではなかった。
物語の終盤にその理由がわかる。
片足を引きずっていたのは、この、小学生のときの出来事が原因だったということ。
さらに、その後、彼女が、痛い足を引きずって階段をあるく姿。
その姿とラストエピソードには泣きそうになってしまった。
深沢敦さんは見事なヒロインだった。
満足度★★★★★
飛び散る金色の汗、肉体が輝く
ド迫力とイカガワしさが同居し、舞踏の面白さがギュッと詰まった作品。
ネタバレBOX
魅力的なフライヤー。そのフライヤーには全身金色の踊り手たちが写っている。
確か、今年のフランス公演もこのタイトル(『CRAZY CAMEL』)で金色で行ったのではなかったかな。
このフライヤーを見て、てっきりいろいろな場所で大道芸のパフォーマーに混じって行っている、金粉ショーと同じ内容ではないかと思っていたら違っていた。舞踏の公演だったと言っていい。
壺中天という会場は大駱駝艦の本拠地で、キャパは少ない。
したがって、舞台の上とは非常に近い。
どれぐらい近いかと言えば、前列2席に座ると、上演前にビニールシートを渡されるぐらいに近いのだ。
どういうことかと言えば、舞台の上からの汗対策なのだ。
今回全身金色の踊り手が多いので、金の汗が飛び散るのをカバーするということ(白塗りよりも熱くなるのだと思われる。したがって、汗も多い)。
これぐらい近い。
今まで十数年、というか20年近く大駱駝艦の公演を観てきているが、ときには舞台に相当近い席で観ることもあった。
しかし、今回はその比ではなく、目の前に肉体が「ある」のだ。
この迫力はタマラナイ。
そして、本公演の「天賦典式」では味わえない、肉体の存在を直に感じるのだ。
やはり中腰で歩けば、ももの筋肉は震えるし、口を開ければ歯茎だって丸見えだ。
汗はダラダラで、金粉が少し浮いたりするところもある。舞台上はあっという間にびしょびしょになっている。
大きな劇場で行われる公演では、そういう「生」の「肉体」の感覚はあまりなく、整ったひとつの作品としての舞踏を楽しんでいた。
もちろん、白塗りの中の肉体の躍動は、十分に感じていたつもりだったのだが、壺中天の公演での「実存感」はもの凄いのだ。
今までも舞踏の公演やコンテンポラリーダンスの公演などを小さな会場で観たことはあるのだが、今回ほど、「肉体」「身体」を感じたことはなかった。
たぶん、全身を金色に塗っていることと無関係ではないだろう。
白塗りだと、身体の印影が優しく柔らかく見えるのだが、金色だと、メタリックな感じで視覚的に強い刺激になっているからかもしれない。
例えば、オープニングでも暗闇の中で白塗りの身体が浮かび上がってくるよりは、金色の身体が、鈍く光りながら呼吸し、蠢いているほうが強い印象がある。ライトを浴びて舞台の上で踊る姿も強い。
オープニングとエンディングの、金色が徐々に闇から見えて来る、闇にじんわり消えて行くっていうのは、もの凄く美しい。照明のオペレートがいいんだな。
強い金色に、さらに足を強く踏みならすというのが、印象に残った。
ドスンドスンと強い足の音が金色に輝く肉体とともにずんずんとやって来る。
舞台の上には槍まであるし。
「鋭さ」が金色に塗った肉体にはある。
しかし、「鋭さ」だけではなく、我妻恵美子さん、村松卓矢さん(!)のセーラー服が、柔らかくもあり、なまめかしくもあり、笑いもある。さらに、若羽幸平さんの学生服が加わり、イカガワシさが倍増する。このアングラ感もたまらない。
ここのパートは、内容に合わせて、白塗りである。
こうしたバランスがとてもいいのだ。突き刺すような刺激だけでなく、笑いであったり(苦笑も含め・笑)、エロであったり、イカカワしさであったりという、舞踏の面白さをコンパクトに入れて、楽しませてくれる。
金色の6人ともに身体のキレがよく、大迫力。舞台の上に釘付けになった。歪めた顔のもの凄さったらない。
大駱駝艦は人材も豊富だし、やっぱり面白いなあ。
そして、村松卓矢さん顔でかいなあ(笑)。表情が手に取るようで、舞台映えする。
満足度★★★★★
『熱狂』/舞台上の熱狂がもの凄い熱量で伝わってくる
ミュンヘン一揆裁判でのヒトラーの演説から始まり、ヒンデンブルグのヒトラーの首相任命までを2時間で描く。
息もつかせぬ2時間。
ネタバレBOX
ミュンヘン一揆裁判でのヒトラーの演説から始まり、ヒンデンブルグのヒトラーの首相任命までを2時間で描いた。
ヒトラーの秘書リヒャルト・ビルクナーを通じて、ゲーリング、ヘス、シュトラッサー、ゲッペルス、ヒムラー、ヴィルヘルム・フリックたちの駆け引きと、ヒトラーとの関係を見せていく。
ヒトラーはあえてちょび髭ではないし、ヒムラーもメガネなどしていない。実際の人物に顔かたちを似せていないので、変なパロディのような学芸会臭さはなくなったと言っていいだろう。同時に実在の人物の顔が脳裏にちらつくことでの、違和感もあるにはあるのだが。ここは難しいところ。
それぞれの、ナチスが政権をとるまでの立場などを、単純化して見せる。ヒトラー自身の魅力は何だったのか? という大切な点についてはイマイチわからないままではあるが、ヒトラーがなぜ熱狂を持って受け入れられていったのか、の一端を垣間見せてくれる。
ヒトラーの演説の、あのパフォーマンスはゲッペルス以降ではないかと思うのだが、それは問題ではない。シンプルに熱く語ることと、組織の力学で中心に立つことを意識することで、自分へ顔を向かせ、集め、忠誠を誓わせる。
集まった首脳たちも、腹の中では、組織内での立ち位置だけを考えているようで、なにやら古今東西、政治というのはこういうものなんだ、ということを見せつける。
劇団チョコレートケーキなんていう甘い名前の劇団だけど、なかなか厚みのある舞台。
客席と舞台が近いので(1メートルぐらいで、舞台をコの字に取り巻く感じ)、かなりの迫力を感じたこともあり、なかなか良い舞台だった。
収容所をテーマにした『あの記憶の記録』との2本立てなのだが、こちらは日程が合わず断念。
満足度★★★★★
会話と女優の華を楽しむ舞台
決して派手ではないけれど、じっくり吟味された台詞が、男と女の関係を描く。
台詞(会話)を楽しみ、女優を楽しむ作品ではないだろうか。
ネタバレBOX
タイプの違う女性が出てくるが、どの女性に対しても作者の視線は優しい。
脚本を書きながら、登場人物に気持ちを込めていることがうかがえるようだ。
そこには、「愛」を感じる。
それぞれの女性ごとのエピソードに対しては、好みというか、好き嫌いというレベルでの反応もあろうが、いろんなタイプの女性の「いいところ」(華のある場所)をクローズアップして見せ、またきちんとフォローしていく。例えば、田舎に帰る女性に対しても、優しい視線で、ストーリーで優しい手を差し伸べる。
それは同時に世の中の女性すべてに対して、エールを送り、大げさに言えば、リスペクトしているということのメッセージを送っているようだ。
どの女優も活き活きして、舞台の上に確かに「いる」。
肉体としてだけではなく、その人物がいることがわかるのだ。
彼女たちの細かい背景が説明されているわけではないのだが、台詞の行間、演技の中に彼女たちのいろんなことが滲んでくるよう。
当然、この女性たちを演じている女優さんたちが、脚本の言葉をきちんと自分のモノにし、表現しているからこそ、脚本が活き、作品が面白くなっているらは言うまでもない。
どの人も本当にうまいと思う。ナチュラルさと演技のバランスがとてもいいのだ。
男性のほうの描き方も、同じ男性から見ていると、なかなか痛い(笑)。
つまり、自分を横から見ているようで恥ずかしいのだ。
いつまでも引きずっていたり(登場する男性は全部そうだったような)、自分の中だけで、いつまでもぐじぐじしていたり、とか。弱いなあと。
決して派手なストーリーやストーリー展開ではないし、甘い、と言えば甘い展開やストーリーかもしれないけれど、いいもの観たという観劇後の気持ちがとてもいいのだ。
派手ではないけど、きちんと観客の興味を先につないでいく手法はうまい。それも、とにかく引っ張って引っ張ってということもなく、気持ちのいいところで明かされ、そして展開していく。それがいい。
男と女のすれ違い、その会話の噛み合わなさ、思わず、頷き、密かに笑ってしまった。
これって、男性が脚本書いているから、男性目線の、女性の見方なのだと思うのだけど、例えば、コンビニに行くと言って外に出た2人が、別れた理由とか話しているのを聞いて、女性の観客はどう思うのだろうか。男性的には「そうそう!」と思うんだけど。
で、結局、劇団員の彼は年上好みだったわけだ(笑)。
満足度★★★★
私(たち)は沖縄のことを何も知らない
過剰で不自然なほどの説明台詞に気づかされる。
「沖縄のことを何も知らないのだ」ということを。
燐光群でなければ、坂手さんでなければできない舞台。
「今」の「問題」を「今問う」坂手洋二さんの動きの早さと意志の強さを感じる。
同じ母から生まれた2人の「星の息子」。
(ネタバレの文書は、まだうまくまとまってないが、とにかく書いてみた)
ネタバレBOX
演劇には、その場で楽しみ、劇場を一歩出れば、その余韻とともに現実の世界に戻るものと、劇場を出てからも、今観た舞台の内容をいろいろ考えて楽しむもの、そして、さらに、余韻というにはあまりにも大きなモノを現実世界にまで引きずっていくモノがある。
この舞台は、まさに後者の、余韻というにはあまりにも大きなモノを現実世界にまで引きずっていくタイプであった。
観客は、開演前から、柵を縫って歩き、まるで沖縄の米軍基地の前あたりに連れていかれるようだ。SEで座り込みに対する注意の声が聞こえている。ここは沖縄だ。
星の息子(星児)がつなぐ過去から現在への「闘い」。
それは「垂直の中にある」と星児が言うように、階級闘争なのかもしれない。
(私にとっては)古臭いと思えるロジックの中で生き続ける、闘争の象徴・星児。
彼が実は内ゲバによってすでに死んでいたというのはさらに象徴的であり、力による闘争は何をもたらしたのか、を告げている。
そして、現在。
国会前でのデモや、米軍基地前でのオスプレイ用の離着陸場工事を阻止しようとする人々には、「力(実力行使)」で「阻止」しようとするつもりはない。火炎瓶や投石ではなく。
あくまでも、普通の人々ができる範囲で、「NO!」を表明しようとしている。
つまり、星児に象徴される旧態は死に、新しい「NOの言い方」をする人たちが主流になってきているのではないか。
国会前や沖縄に幻のように現れる星児は、旧態の星児と「同じ母」から生まれ、内ゲバで死ななかったほうの、純粋な星児ではないかと思うのだ。
2人の星児は、もとはひとつのところから発生した。
政府に対して、自らと、それにつながる未来の命を守るためというところ(母)から生まれた。
ここが「母」であり、そこから「市民運動」と言われるような「星児(たち)」が生まれてきたのだ。
しかし、「NO!」が一向に伝わらず、ラジカルになっていく中で活動の方向性を見失っていき、市民からも見放され、内ゲバで自滅していくことになる「星児」がいた。
今、沖縄や国会前で「NO!」と叫ぶ人たちは、そうなるのだろうか。いや、ならないような気がする。
しかし、舞台では少し違う印象を受けた。
ラストに星児たちが彼の母を挟んで「垂直」の言葉を発するのだ。
これは新たな階級闘争の必要性と、その発動への第一歩なのか、と思ってしまった。
つまり、暴力が暴力を産み、さらに最後は内ゲバという理解不能な殺し合いで一般人の支持を得られなくなってしまった活動のことではないかということだ。
こういうとらえ方は、作者の意図とは異なるのだろうが、「階級闘争」=「内ゲバ」と短絡的な私の脳には、あのシーンにはとても嫌な感じがしたのだ。
「これは階級闘争である」と星児(たち)が宣言しているように見えてしまったからだ(「星児」が象徴するモノ自体が作者の意図とは違っているとは思うのだが…)。
また、ラストの、米軍基地前の塔から住民を機動隊が排除しようとするときの、鋭い台詞の数々には違和感を感じてしまった。
その「違和感」というのは、実は「自分の家の前に米軍基地がないからだ」ということに起因しているのではないだろうか。それは、私の想像力の乏しさ、実感のなさ、どこか他人事と思っているところではないだろうかということだ。それがもし、本当に自分の家の前にあったのならば、排除しようとする機動隊にはやはり、あのように必至に訴えかけるだろうということなのだ。
つまり、これが「私にとっての、沖縄問題そのものではないか」と気づかされたと言ってもいい。恐れずに言えば、沖縄以外の多くの人も同じではないだろうか。福島もまたしかり、だ。
舞台の上で台詞として、しかも過剰な説明台詞として(例えば、ただの会話なのにいちいち細かい数字を挙げて説明する)、語られることの多くは「知らなかった」ことばかりだった。
「知ること」がまず必要である。
こうやって芝居や映像や語りや、いろいろな方法で知らせてもらいキャッチしていくことがどんなに重要なことなのかということだ。
そして、「垂直軸がどう」とかはどうでもよく、沖縄に限らず、かつて失敗してしまった「闘争」の二の舞にだけはならないようにしなくてはならないということなのだ。
それは、いろいろな意味において、恐いことであろと思うので。
少し気になったのは、障害者や妊婦が出てきていたこと。
確かにそれぞれの意味合いはよくわかるし、啓蒙的な意味合いはわかるのだが、どうもストレートすぎて、少々都合も良すぎるような感じもしてしまった。
とは言え、燐光群でなければ、坂手さんでなければできない舞台であったと思う。
同時に「今」の「問題」を「今問う」坂手洋二さんの動きの早さと意志の強さを感じる。
本当は、自分(たち)の意思を表明できるのは、「選挙」であるということを放棄してしまった人が多かった、今回の選挙。
はたと思い当たるのは「星児」の名前。本当は「政治」だったのではないだろうか。
私たちが本来託すべきは「星児」ではなく、「政治」。
これが幻になってしまい、星児として各地を彷徨う。
そんなストーリーだったのではないか、と思ったりもする。
満足度★★
あまり響かなかった
トム・プロジェクトの作品は、手堅くそれなりにいつも面白いのだが、今回はイマイチ響かなかった。
ネタバレBOX
元華族であった、ある財閥の家族の話。
「品性」と「体面」というキーワードから、「元華族」という設定にしたのではないだろうか。
それがなんとになくピンとこないというか、しっくり合っていないように思えた。
台詞はいいし、役者もいいのだけど、物語自体がそれほど面白くなっていかない。実在感があまりにも乏しいからではないだろうか。
2人の男に求婚され、息子のみでなく、義理の娘にも頼りにされる、つまり、登場人物全員に便りにされるこの家の妻という設定が、どうなのかなと思うし。
それが破綻するわけでもなく、彼女の回りをいろんなモノがグルグル回っているだけ。
自殺のシーンも、舞台の上にわからせるために、窓から外にぶら下がるのだけど、これは違和感が大きい。
誰も驚きはするけど助けようともしない。
不自然ずきる。すぐに「降ろせ」「医者を呼べ」となるだろうに。
諦めてしまうのが早すぎる。
こうした細かい(いや、細かくないな)ことの積み重ねで、リアル感が乏しくなっていき、舞台の上が絵空事になっていく。
もともとの元華族なんていう設定も、いろいろな劇中の積み重ねで観客を説得していかないといけないのに。
一番なんだかなーと思ったのはラスト。
ラストの台詞はやけに陳腐だし、「死」と「生まれ来る生命」という対比もありきたりでつまらないと思った。
「復讐の連鎖」とか「いじめ」とか「民主主義と多数」とか、「原発」までも無理矢理入れ込んできた印象が強い。そんなキーワードをなぜ無理に入れたのか、と思う。入れ方がうまくない。
満足度★★★★
少しグロいぐらいのブラックな舞台
だけど「よいこのえほん」。
ハンガリーからやって来た劇団。
生演奏の音楽と歌が楽しい。
思わず引いてしまうところもあったけど。
ネタバレBOX
舞台自体の造作がとても楽しい。
小さいながらも演奏用のピットもある。
わくわくする感じだ。
出てくるのはどれも「悪い子ども」なので「折檻」のようなストーリーが、痛々しくも延々続く。
この公演を観たころに、痛ましい事件あったばかりなので、正直きつい。
なので、残虐シーンに「あはは」と笑っている人の神経を疑ってしまったりする。
しかし、よくよく考えてみると、「悪い子はお仕置きされるよー」なことが普通に言えて、それをブラックユーモアにして、「あはは」と笑えるぐらいが、実は正常なのかもしれないなんて、思ったりもする。
少なくともハンガリーではそうなのだろうか。
折檻とかじゃなくてね。
ひょっとして、もの凄く異常な世界に生きているんじゃないかな、と実感した。
見ている子どもたちの姿を後ろから見ているのも楽しい。
「恐い」場面の連続なので、思わず隣の母親にしがみつく子や、目を両手で覆う子など、それはそれで楽しんでいたのだろう。
劇中でお菓子を客席に投げるのだけど、その1つが見事に膝の上に落ちた。
甘そうなブドウのゼリーだった。
そして、ここからはこの公演とは直接関係ないのだが、感じたことがあったので書いておく。
東京芸術劇場はリニューアルオープンとのことだったが、小劇場のほうは、客席側にはあまり変わった印象はない。
毎回座席の設定は変わるのかもしれないが、段差があまりなく、前の人の頭で舞台の一部が見えづらいところは以前と同じ。もう少し改善されているかも思っていただけに残念。
さらに言うと、この舞台は、「家族でも楽しめる」ということで、子どもに観てほしいのならば、あの座席ではダメだ。大人だって、前の人の頭で見えなかったりするのだから。
椅子に子ども用の椅子を追加できたり、せめて厚いクッションを何枚か重ねたものを用意するぐらいの配慮ぐらいは当然必要ではないだろうか。
前のほうに座っていた親子は座席を交換したりいろいろしていたけど、子どもは見えなかったみたいだ。
今日が初日ではないのだから、それぐらい劇場側だって気がつくだろうに。
「箱」だけをリニューアルしても意味はない。
運営する人の心もリニューアルしなければな、と上から目線で。
満足度★★★★★
平田オリザって凄いと思う
まるで自分の戯曲のように演出している。
ネタバレBOX
「演劇」を観ているということを忘れるぐらい引き込まれた。
お姉さん役の内田淳子さんよかったし、大塚洋さんの青年団らしからぬ、脂っこさもいい。
引き込まれたのは、私だけではなかったようだ。舞台で危険なことが起きそうな場面で、思わず「あぶない!」という大きな声が客席からしたのだ。そんな客席からの声はウルトラマンショー以外では聞いたことなかった。
あ、ウルトラマンショーって行ったことないか…。
満足度★★★★
加藤健一の強さは絶対的であることを見せつけた
片や核シェルター、片や核ミサイルの飛び交う世界という、イミ深な2本立て。
力ずくで2本を繋げ、力ずくで面白くしてくる。あとの3人の役者もとてもいい。