星の息子 公演情報 燐光群「星の息子」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    私(たち)は沖縄のことを何も知らない
    過剰で不自然なほどの説明台詞に気づかされる。
    「沖縄のことを何も知らないのだ」ということを。
    燐光群でなければ、坂手さんでなければできない舞台。
    「今」の「問題」を「今問う」坂手洋二さんの動きの早さと意志の強さを感じる。

    同じ母から生まれた2人の「星の息子」。
    (ネタバレの文書は、まだうまくまとまってないが、とにかく書いてみた)

    ネタバレBOX

    演劇には、その場で楽しみ、劇場を一歩出れば、その余韻とともに現実の世界に戻るものと、劇場を出てからも、今観た舞台の内容をいろいろ考えて楽しむもの、そして、さらに、余韻というにはあまりにも大きなモノを現実世界にまで引きずっていくモノがある。

    この舞台は、まさに後者の、余韻というにはあまりにも大きなモノを現実世界にまで引きずっていくタイプであった。

    観客は、開演前から、柵を縫って歩き、まるで沖縄の米軍基地の前あたりに連れていかれるようだ。SEで座り込みに対する注意の声が聞こえている。ここは沖縄だ。

    星の息子(星児)がつなぐ過去から現在への「闘い」。
    それは「垂直の中にある」と星児が言うように、階級闘争なのかもしれない。
    (私にとっては)古臭いと思えるロジックの中で生き続ける、闘争の象徴・星児。

    彼が実は内ゲバによってすでに死んでいたというのはさらに象徴的であり、力による闘争は何をもたらしたのか、を告げている。

    そして、現在。

    国会前でのデモや、米軍基地前でのオスプレイ用の離着陸場工事を阻止しようとする人々には、「力(実力行使)」で「阻止」しようとするつもりはない。火炎瓶や投石ではなく。
    あくまでも、普通の人々ができる範囲で、「NO!」を表明しようとしている。

    つまり、星児に象徴される旧態は死に、新しい「NOの言い方」をする人たちが主流になってきているのではないか。
    国会前や沖縄に幻のように現れる星児は、旧態の星児と「同じ母」から生まれ、内ゲバで死ななかったほうの、純粋な星児ではないかと思うのだ。

    2人の星児は、もとはひとつのところから発生した。
    政府に対して、自らと、それにつながる未来の命を守るためというところ(母)から生まれた。
    ここが「母」であり、そこから「市民運動」と言われるような「星児(たち)」が生まれてきたのだ。
    しかし、「NO!」が一向に伝わらず、ラジカルになっていく中で活動の方向性を見失っていき、市民からも見放され、内ゲバで自滅していくことになる「星児」がいた。

    今、沖縄や国会前で「NO!」と叫ぶ人たちは、そうなるのだろうか。いや、ならないような気がする。

    しかし、舞台では少し違う印象を受けた。
    ラストに星児たちが彼の母を挟んで「垂直」の言葉を発するのだ。
    これは新たな階級闘争の必要性と、その発動への第一歩なのか、と思ってしまった。
    つまり、暴力が暴力を産み、さらに最後は内ゲバという理解不能な殺し合いで一般人の支持を得られなくなってしまった活動のことではないかということだ。
    こういうとらえ方は、作者の意図とは異なるのだろうが、「階級闘争」=「内ゲバ」と短絡的な私の脳には、あのシーンにはとても嫌な感じがしたのだ。

    「これは階級闘争である」と星児(たち)が宣言しているように見えてしまったからだ(「星児」が象徴するモノ自体が作者の意図とは違っているとは思うのだが…)。

    また、ラストの、米軍基地前の塔から住民を機動隊が排除しようとするときの、鋭い台詞の数々には違和感を感じてしまった。

    その「違和感」というのは、実は「自分の家の前に米軍基地がないからだ」ということに起因しているのではないだろうか。それは、私の想像力の乏しさ、実感のなさ、どこか他人事と思っているところではないだろうかということだ。それがもし、本当に自分の家の前にあったのならば、排除しようとする機動隊にはやはり、あのように必至に訴えかけるだろうということなのだ。

    つまり、これが「私にとっての、沖縄問題そのものではないか」と気づかされたと言ってもいい。恐れずに言えば、沖縄以外の多くの人も同じではないだろうか。福島もまたしかり、だ。

    舞台の上で台詞として、しかも過剰な説明台詞として(例えば、ただの会話なのにいちいち細かい数字を挙げて説明する)、語られることの多くは「知らなかった」ことばかりだった。

    「知ること」がまず必要である。
    こうやって芝居や映像や語りや、いろいろな方法で知らせてもらいキャッチしていくことがどんなに重要なことなのかということだ。

    そして、「垂直軸がどう」とかはどうでもよく、沖縄に限らず、かつて失敗してしまった「闘争」の二の舞にだけはならないようにしなくてはならないということなのだ。

    それは、いろいろな意味において、恐いことであろと思うので。

    少し気になったのは、障害者や妊婦が出てきていたこと。
    確かにそれぞれの意味合いはよくわかるし、啓蒙的な意味合いはわかるのだが、どうもストレートすぎて、少々都合も良すぎるような感じもしてしまった。

    とは言え、燐光群でなければ、坂手さんでなければできない舞台であったと思う。
    同時に「今」の「問題」を「今問う」坂手洋二さんの動きの早さと意志の強さを感じる。

    本当は、自分(たち)の意思を表明できるのは、「選挙」であるということを放棄してしまった人が多かった、今回の選挙。

    はたと思い当たるのは「星児」の名前。本当は「政治」だったのではないだろうか。
    私たちが本来託すべきは「星児」ではなく、「政治」。
    これが幻になってしまい、星児として各地を彷徨う。
    そんなストーリーだったのではないか、と思ったりもする。

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    2012/12/17 14:48

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