満足度★★★★★
ブライアン・デ・パルマの作品を、トビー・フーパーが何かの片手間にリメイクしたら………
エロ・グロ・ナンセンス!
エロ・グロ・ナンセンス!
エロ・グロ・ナンセンス!
エロ・グロ・ナンセンス!
エロ・グロ・ナンセンス!
ネタバレBOX
今回の作品は、奇妙な宇宙人を自転車の前カゴに入れている、フライヤーの写真からもわかるように、映画を意識しているのではないだろうか。
……というか、タイトルにもあるしね。
それもC級のスプラッター・ホラーを。
トンデモ設定で脱力展開に苦笑してしまう、というやつだ。
下敷きは明らかに、デ・パルマの『キャリー』だ。
劇中何度も名前を「キャリー」と間違えられてしまうキャシーが、それだ。
だから、プロムパーティと騙されてキャシーの超能力が最大限に発揮されるラスト近くのシーンは納得。
しかし、ナカゴー、そう一筋縄ではいかない。
とにかく、下品である。
どこかポップなテイストもありつつの、下品が炸裂する。
ストーリー展開においても、台詞においても、キャラにしてもだ。
さらに毒がある。
今回は、客席が対面式になっていて、その間が舞台となっている。
なので、対面にいる観客の姿が目に入る。
とにかく爆笑している観客、少し怒りがあるような観客、うんざり顔の観客、口を開けて見入る観客などさまざまだ。
「受け入れる」「受け入れない」がはっきりしたようだ。
ナカゴーの観客は、いつもその2パターンなのだが、それがさらにはっきりしたように思える。
私はと言えば、もちろん、笑い、苦笑した。
急に思いついたように、名前を呼ぶときの、英語風な発音などの小ネタも豊富だし、舞台の上で同時に起こっている出来事の中にも、変質的なこだわりが笑わせてくれる。
アメリカの青春モノ的な設定なのに、食人族や四次元がどうこうなどのトンデモ展開で、さらに酷い差別ネタや必要のないエロネタなど満載なのだ。スプラッターもあるし、雑でもある。
とにかく、ナンセンスのオンパレード(いつものナカゴーのナンセンス度をさらに拡大した感じ)で、展開がまったく読めず、あれよあれよと進む。
エロ・ネタは、前作『さらに』よりは、トーンダウンした印象はあるが、それでも女性観客の多くは顔をしかめること間違いない。
思わず笑っちゃたりもするのだが。
人を喰ったようなネタ(まあ、実際人が喰われるのだけど)で大笑いさせたり、下品なエロネタや差別ネタで苦笑させる。
何も考えずにその場限りの笑いの作品として観ても面白い。
「意味」みたいなものを問えば、もちろんなにがしかのテーマ的なもの、例えば、「黒人は奴隷ではなかった」からの、歴史観的な揶揄なども考えられるのだが、それはここでで述べてもしょうがないだろう。
ナカゴーの篠原正明さんは、いつも、どんな作品でも、アメリカの青春ドラマのような演技をしている。つまり、やけに翻訳っぽい台詞と肩をすくめるようなアメリカンな演技だ。
その演技スタイルが今回初めて作品とマッチした。
そこがバカバカしくて、最初から笑ってしまった。
台東区や荒川区一帯が舞台設定の場所としての印象が強いナカゴーなので、アメリカンな演技を必要とされる作品は、この先ずっとないだろうから、(たぶん)最初で最後の演技と作品マッチではなかったのだろうか。
作・演の鎌田順也さんは、この作品のために、篠原正明さんのアメリカンな演技を鍛えてきたのならば、凄いのだが。
……それはないだろうな。
ナカゴーと言えば、過剰な繰り返しなのだが、今回はそれを封印したようだ。
ただし、しつこさ、粘っこさという点では、過去の作品に劣らず、とにかくしつこい作品でもある。
ナカゴーからの出演は、篠原正明さんと鎌田順也さん(黒子?)だけなのだが、他の役者もナカゴーにきちんとはまり、吹っ切れた演技を見せてくれた。
そこがこの作品の一番のいいところであったと思う。
エロ・グロ・ナンセンスなので、万人にはお勧めできない。
しかし、次回は、近藤芳正さんを軸として、ナカゴーをはじめ、Mrs.fictionsや青☆組などいくつかの劇団が競演する作品が待っている。
ナカゴーは、近藤芳正さんに、アノ演技を強要するのだろうか。
青☆組を目当てで来たお客さんには激怒されるんじゃないだろうか。
楽しみであり、心配でもある。
満足度★★★
4月2日(水)の回を観た
2公演目。
なので感想は2週間ぐらい古い。
私の「アマヤドリ」(ひょっとこ乱舞)への期待度からすると、足りない。
ネタバレBOX
ど、ストレートなストレート・プレイになっている。
私が勝手に名付けている「ひょっとこフォーメーション」の乱舞もない。
1人の役を2人以上の役者が演じることもない。
台詞劇。
俳優が裸にされているようだ。
そして、確かに面白い。
2時間近い上演時間なのだが、ずっと惹き付けられる。
「罪」に対しての距離感がとても面白いのだ。
犯罪者の冒した「罪」に対しての犯罪者本人とそれを更生しょうとする派遣社員たちの「罪」のイメージ。
そして、更生させようとする派遣社員夫婦間での「罪」のイメージ。
それが重なり合うことで、「罪」の意識が浮き彫りにされるという構造がとてもいいのだ。
前にも書いたが、アマヤドリは、ひょっとこ乱舞から劇団名が変わっただけでなく、変化してきている。
ひょっとこ乱舞の皮を脱ぎ捨てようともがいているように見える。
その意味での過渡期の1作ではないだろうか。
そして、私の期待度から言うと、4月2日に観たこの作品は、少し足りない。
足りないのは「緊迫感」。
舞台にキリで穴を開けるような緊迫感で出てこない。
殺人犯の門田(糸山和則さん)がキーマンではないかと思う。
彼によって、彼と絡む役者への変化も出てくるだろうから、この作品は大きく変わるのではないだろうか。
有村(笠井里美さん)と向井(松下仁さん)がガッツリ語り合うシーンや、占部(中村早香さん)のシーンの会話はスリリングであるから、それより前の部分での緊張感が高まっていれば、ドラマはもと動き出すのではないだろうか。
佐野(小角まやさん)は、役の設定もあり、なかなかいい。
ひょっとこ乱舞には、物語が大きく動くような一瞬があった。
そこからぐるりと世界が回るような快感が、だ。
一見静かで、淡々とした作品なのだが、この作品の持っているポテンシャルであれば、そして、役者&演出によれば、そういうダイナミックさが、静かな芝居を観ている観客の心に訪れることは可能だと思うのだ。
フリーパスを購入したので、このあと、少なくとももう1回は観に行きたい。
そこで、2日目に観た、この作品がどう変わっているのか、あるいは変わっていないのかを確認したいと思う。
満足度★★★
劇作家は「心の専門家」……
……らしい。
初めて知った。
力作ではある。
どこまで、どう本気なのかはわからないのだが。
ネタバレBOX
「劇作家は「心の専門家」だ」という台詞が何度も出てくる。
しかも劇作家と自称する自分自身の口からだ。
笑いそうになったが、劇場内は誰も笑わない。
ギャグでも劇作家という存在に対する揶揄でもなかったらしい、ということがラストでわかる。
「劇作家は「心の専門家」だ」を聞いて、てっきり自らの理想の中でしか生きられない(自称)「劇作家」のストーリーかと思った。
彼は「本気」で劇作家であるから自分は「心の専門家」だと思い込んでいるようだ。
それを強く主張して、他人の気持ちにズカズカと踏み込んでくる。
彼はいつもまるで「批評家」のように、「他人事」の視線で熱く語る。
妹と、DVな妹の彼が、心の病であると知ったときに、劇作家の彼は、自分は「心の専門家」なのに気がついてやれなかったと悔やむ。
妹はDVの彼と別れたが、ストーカー行為をされている。
それに対して劇作家である兄は、「会って話をしろ」と言い出す。
妹が暴力を振るわれていたのを見ていて、さらにSNSでさの彼が暴力的なツイートをしているのを確認したのにもかかわらずにだ。
「警察を」の指摘に対しては「警察は彼らの恋愛に対して他人だ」と言う。それは、劇作家のお前もだろう、と心の中で突っ込んだ。
また、こちらがあちらに仕掛けた「争い」から、あちらから来た難民たちには仕事がなく、生活するためには軍隊に入るしかない、つまり、彼ら難民(移民)たちは、自分たちの仲間と殺し合いをさせられる、と知り合いのあちらから来た男に言われると、「それは心の問題だ」「お金と命とどちらが大切なのか」「彼らは弱いからだ」「自分の心に従えば人は、人を殺すことをしない」「みんながそうすれば争いはなくなる」という主旨のことを言い出す。
なんだそれ?
と思った。
「争い(戦争でしょ)」で殺し合うのは軍人ではない。確かに実際に殺し合いをしているのは、戦場にいる軍人だが、それをさせているのは上の人間だ。
同じ地方の人間だから殺し合わないのではなく、いずれの戦争であったとしても(侵略された場合は違うとは思うが、それでも)相手を殺したいと思って戦場に出かける人間はまずいないと思う。
争い(戦争)は、戦場で戦う人(軍人)の「心の問題」ではない。
軍人が自分の心に従ったとしても争いがなくなるわけではなく、自分の心に従って相手を殺さなかった軍人は、相手か上から殺されてしまうのだ。
銃を持って政治家の秘書を撃ちに来た男に対して、劇作家は「今現実に自分が銃を持っていることに支配されている」「心の中は人殺しをしたくないと思っているはずだ」「だから心に従え」みたいなことを言う。
それは変だ。
だって、「銃を持って、秘書を射殺しようと思った」という「今」のことにフォーカスしても意味がないからだ。
つまり、「秘書を射殺しようと思い、銃を構えた今の自分」までにたどりつくまでのプロセスには何度も自分の心との対話があったはず。だから「今の状態」だけを指摘してもしょうがない。
それで説得されてしまう男もいるのだが。
簡単に考えると、「心から相手が殺したいほど憎いと思って」いる人が、「現実には銃など構えていない場合」も「自分の心に従え」と言うのだろうか。
つまり、劇作家の言っていることは、自分の都合のいいような解釈だけで、普遍性がない。その場で思いついたことを、まるで正論のように振りかざし、言ってるようにしか聞こえない。
それは、自分の目の前で起こっていることが「自分のことではない」からだ。
「他人事」なので、「批評家」のように相手の気持ちや行動を断ずる。
精神科の医者らしい男に対しても、上から目線で接するし。
自分に直接降りかかってきそうなとき(あちら側の男の父親を連合軍に引き入れた結果、悲惨な目にあったというエピソードを聞いたあと)には、薬に手を出しそうになって、現実逃避をしかける。
他の登場人物たちは、自分のできる範囲で懸命に生きている。
そこに「心の専門家」であると自称する劇作家は、踏み込んでくる。
さらにラスト近くで、テロによる爆破が鳴り響く中で、「これは音楽だ」「自分たちが信じることが現実になる」と力説していたが、それは「虚構に逃げろ」ということなのだろうか。
どこまでも現実が見えない男である。
この「劇作家」という人は。
彼は両親のお陰で今の生活が維持できているらしい。
演劇を続けるためには、やっぱり「助成金」も欲しいらしい。
ラストには、何か劇作家である彼に対して大きなしっぺ返しがあるのかと思ったらそうではなかった。
争いをやめるための席に、「重要な人物」として参加を求められる。
ここまで来ると悪趣味だ。というか、ブラックコメディ。
どうやら彼は「こちらより前にあちらで評価されている」らしい。
そして「彼はこちらでも評価されるべきだ」ということまで言われている。
まさか、それって、この作品の劇作家自身のことではないだろな。
つまり、「ほかのところではそれなりに評価されている僕」は「なぜ社会ではあんまり評価されていないのだろう」「評価されて当然だ」と思っていて、それを劇中の劇作家に演じさせた、わけではないだろうね。
この作品では「人から評価」されることがキーワードのひとつだ。
その評価は人によっては、SCVという数値であったり、愛情であったり、名声であったりする。
それを劇中の人物たちは強く主張する。恥じらいもなく、言ってのける。
どうやら、日本に似たこの場所は、劇作家の頭の中にある楽園のようだ。
そこでは劇作家は、「心の専門家」と言われるらしい。
そこでは劇作家は、親のスネを齧っても創作活動をすることは尊いらしい。
そこでは劇作家は、人々の心を浄化してくれる。
そこては劇作家は、人々に必要とされ、敬われるらしい。
日本の劇作家が、そういう楽園だけを頭の中に描いているとはあまり思いたくない。
劇作家の話なのにそれを演じた役者さんの台詞が危うい。
噛んだり、言い間違えたりしていて、なんとか台詞を言っているレベルだった。
その設定もあるのだが、そういうわけで彼には思い入れをして見られない。
議員秘書とその妻の台詞と演技は、まるで翻訳劇を三越劇場(失礼)で観ているような錯覚に陥らせるほど、オーバーで「演技してます」感たっぷりで少し冷めた。特に最初のほうで秘書とその妻がキッチンでする会話と演技には苦笑した(秘書が妻を後ろから抱きしめるとか・笑)。
その議員秘書は、ノーネクタイ、丈の合わないスーツ、ボサボサ頭と、およそ議員秘書とは思えない格好だった。
ほかの登場人物たちが、きちんとした衣装で、イメージ通りすぎるほどの、型にはまったパターンの衣装と演技なのに(特に宗教指導者に至っては、魔法の国からやって来たような衣装)、彼だけは違うということに違和感を感じた。
その中にあって、ヘーラを演じた林田麻里さんだけは、光るものがあった。特に彼との関係が露わになるシーンにおいて。
多くの言葉を重ねながら、「演劇」の限界、劇作家という人種の傲慢さを描いた作品、あるいは「観客への挑発」ならば、お見事だと言いたい。
私は見事に挑発された。
劇作家が何度も言う「物語」というキーワードは、井上ひさしさんの『太鼓たたいて笛ふいて』で使われていたほうが鮮烈だった。それを劇中の劇作家の発見のように何度言われても。
劇中では「繁栄とヒューマニズム」は「相反するもの」として述べられている。確かにブラックと呼ばれる企業もあるが、それは相反することはない、ということは今はもうすでにわかってきている。それなのに、それを声高に言われてもなあ、という気がする。「蟹工船」じゃないんだから。
と、いろいろ書いてきたが、2時間を超える作品でありながら、最後まで見せきったのには拍手をしたい。力作ではある。
満足度★★★★★
僕は自分が思っているほど、地球の中心にはいなかった
「中二病」という言葉は、伊集院光が作ったものとして有名だが、「中二」(中学二年生)を揶揄的に最初に使ったのは、チェーホフであるというのも、やはり有名なことだ。
それを冠したサブタイトルから『かもめ』の登場人物で思い当たるのは、やはりトレープレフ(コスチャ)。
どんな『かもめ』見ても、トレープレフは空回りして痛々しい。
しかし、彼が「主役」ではなかった。
Bチームを観た。
ネタバレBOX
アロッタ版の塩顕治さん演じるトレープレフは、生真面目で痛々しい。
この造形は、まあ、普通だな、と思った。
この彼が物語の中心になるのかと思ったらそうではない。
前半での感極まったような彼の台詞回しには、魂が入っていたが、中盤あまり見せ場もないことから、それが観客の脳裏から消されてしまう。
彼をかき消すのは他の登場人物による。
つまり、中盤からグイグイくる登場人物がいるのだ。
それは、トリゴーリンだ。
アロッタ版のトリゴーリンを観て、「トリゴーリン! これだ」と思わず膝を打った。
中田顕史郎さん演じるトリゴーリンがとてもスケベなオヤジなのだ。
今まで観た『かもめ』では、トリゴーリンが(舞台の上で)見せる姿は、ある程度の体面を保っていたという印象が強い。
アルカージナと釣り合わせるため、あるいはトレープレフとの対比のため。
しかし、アロッタ版のトリゴーリン(中田顕史郎さん)には、それがない。
剥き出しなのだ。
トリゴーリンがニーナに作品を生み出すことについて、自らを吐露するような場面があるのだが、これって、もともとそうだとは思っていたが、それでも若い娘だからつい本音を語ってしまった、というような体裁があったと思う。
しかし、このトリゴーリンは、芸術家を前面に出し、創作の苦悩を餌に、何も知らな少女を口説いているようにしか見えないのだ。
そう、これが彼の本質だったのだ、と改めて見せられた。
ニーナとアルカージナの2人に対する口調も動きも、とてもイヤラしいのだ。
ムスク系の香りがプンプンというか(笑)。
つまり、トレープレフの立場からすれば、トリゴーリンが売れっ子の作家だからということだけではなく、「男」としての魅力に嫉妬していたというセンで読み解いていけるようになるのだ。
母を「女」にしてしまい、さらに自分のそばにいたはずの少女も、あっさりと男性の魅力でかっさらってしまったトリゴーリン。
確かにオリジナルの『かもめ』にも、そういう見方はできるのだが、女優、劇中劇という小道具で、それが薄れてしまっていたように思う。
松枝佳紀さんは、それを露わにした、と言っていいだろう。
もともと『かもめ』は「恋愛」がストーリーの中で大きな軸のひとつになっているのだが、さらにクローズアップしていた。
トリゴーリンが体面を気にしないように、アロッタ版のアルカージナは、恋する少女のように我を忘れてトリゴーリンに向き合う。激しいアルカージナ。
つまり、アルカージナは「母」の前に「女優」であったが、「女優」の前に「女」であったのだ。さらに言えば、「母の前に女優であった」ことを選んだのも「女」であったからということが見えてくる。
トリゴーリンのスケベさ(笑)から、『かもめ』の世界がもうひとつ開いたような気さえする(言い過ぎか)。
アルカージナを演じる辻しのぶさんが、「女優」で「女」で「母」である姿がいい。
トレープレフの劇を見るときの、なんともイヤな笑う感じがとてもいいのだ。
トレープレフが押しつぶされてしまうのがよくわかる。
秋山昌赫さんが演じるメドヴェージェンコはバリバリの関西弁で「たった23ルーブリでっせ」みたいなことを言う。
これには笑った。
まるでメドヴェージェンコに命が吹き込まれたようだ。
彼に命を吹き込むことで、彼とマーシャの関係、さらにトレープレフへの複雑な想いの変化が見えやすくなってくる。
トレープレフへの慰めの言葉が本気で言っているように、暖かく聞こえ、後半でマーシャに対する当てつけから、トレープレフかける言葉が、しなやかな鞭のように聞こえるのだ。関西弁だから。これはうまい設定だ。
さらに、整理されたマーシャ(香元雅妃さん)の台詞からは、トレープレフへの想いがこぼれてくるし、メドヴェージェンコとの関係も見えてくる。「恋愛」を軸として。
この舞台で特筆すべきは、6人で『かもめ』を演じたことだ。
今回の軸になった「恋愛模様」にかかわる6人だけの登場としたことで、松枝さんの意図が明快になったと言っていいだろう。
それによって、各登場人物について、たっぷりと、その造形を作り上げることができたのだ。
メインの登場人物たちに比べれば、さほど光が当たらないメドヴェージェンコがこんなにくっきりしているのだから。
原作どおりフルに登場人物が出るのであれば、そうはいかない。
観客の視点が定まらなくなるからだ。
それは、この舞台の最初から強く感じたことでもある。
つまり、登場人物が初めて舞台の上に出るたびに、すぐに「この人は何者なのか」が明確に見えたのだ。
それは、「その人が何という役名でどういう人物なのか」ということがわかるのではなく、かと言って、「見た目でキャラがわかる」わけでもない。
もっと根源的なところ、うまくは言えないが、「この人は、舞台のどういう構成要素」であるのかがわかるような感覚がしたのだ。
この作品は6人の登場人物のバランスで成り立っているので、どの登場人物も「いきなり立ち上がる」ことができたのではないかと思う(だからトレープレフ1人がメインにはならないのだ)。
そのため、とても作品に入りやすくなった。
ニーナを演じた縄田智子さんはとても初々しくて、まさに「十代の少女」であった。
彼女だけが「白い」衣装(スカート)を身にまとっている。
4年後の彼女の白いスカートは、丈の長さこそ変わったものの、白いままだった。
これは彼女の本来持つ精神を表していたのではないかと思うのだが、やはり、ダーク系の色のほうが意図としてすっきりしたと思う。解釈と思い入れの違いなのだろうが。
また、4年後に登場するシーンでは、もっとやつれていてもいいのではないかと思うのだ。それなのにトリゴーリンの話をする彼女の瞳は……のほうがトレープレフへのダメージは多きかったと思うからだ。
で、中二病に話を少し戻すと、トレープレフはそれなりに有名な作家となる。
そこが、「中二病」と言われても「なんだかなー」のところはある。
もちろん、「中二」の部分と「成功」の部分はトレードオフの関係ではないのだが、それでもトレープレフ自体が、トレープレフから見たトリゴーリンと同じに見えてしまうのは、見る側に「中二病」の症状が出ているからだろうか(笑)。
まあ、原作が「中二病」を前面に出しているからではないけれども。
そのサブタイトルからてっきりトレープレフにもっとスポットが当たった作品ではないかと想像していたのだが、そうではなかった。
それをトレープレフの立場から言えば、「僕は世界の中心ではないんだな」ということで、彼の中二病をこじらせてしまいそうだ。
「中二病」というのは、自己愛による妄想がこじれた状態だが、そう考えると「恋愛」はまさにそれではないかと思う。
「あとから思い出すと赤面してしまう」ことを言い、やってしまう精神状態であるところも似ている。
つまり、アロッタ版の『かもめ』は、「中二病と言われてもしょうがない恋愛模様を描いていた」と言っていいのではないだろうか。
アロッタ版の『かもめ』のラストには、プラスされたシーンがある。
自殺したはずのトレープレフがニーナとまるで恋人のように抱き合うシーンだ。
6人の登場人物、つまり3組のカップルが収まるところに収まったという図であろうか。
トレープレフとニーナのカップルは、トレープレフの妄想にすぎないのであろう。
松枝さんは、トレープレフへ甘いラストを用意したのであろうか。
この2人が抱き合うラストシーンで流れる甘い曲は、たぶん、ニーナとトリゴーリンが抱き合うシーンにも流れていた曲ではないだろうか。
そうすると非常に残酷な選曲であり、残酷なシーンであったと思う。
ニーナが抱き合っているのはトレープレフではなく、トリゴーリンだからだ。
トレープレフの中二病は死んでも癒されなかったというところか。
すべての登場人物が、わだかまりを残したままなので、誰も癒されていないのだが。
余談だが、医者が登場しないので、ラストはどうするのかと思っていたが、マーシャがその台詞を引き取っていた。
アルカージナにはすぐに察せられることだとしても、「子どもがイタズラをして」の台詞はないと思う。この屋敷に子どもはいないだろう。「子ども」がトレープレフのことを指していたとしても、あの場面の言い訳にとしてはうまくないと思う。
ついでに書くと、衣装のデニムは田舎(舞台の設定する場所)への引力を表していたのではないか。
満足度★★★★★
蜷川さんは、役者の身体が発する声に、きちん耳を傾けて演出すべきだったのではないのか
と勝手に思ってしまった。
蜷川幸雄+さいたまネクストシアターの『カリギュラ』。
カリギュラは、ローマの皇帝、そして独裁者である。
しかし、その前に若者だ。
とても面白かった!
ネタバレBOX
非常にシンプルな舞台装置。
最初はイスがあるだけ。舞台の正面は例のごとく鏡になっており、そこから役者が登場したりする。
観客席の正面と舞台の間には「鏡」がある設定のようだ(実際には何もない)。
カリギュラ役の内田健司さんが登場し、最初に台詞を発したとき、それまで貴族役の俳優たちが大きく演技をしていたのとはまったく違い、あまりにも「普通」にしゃべったのが凄すぎて、震えた。
このカリギュラはいいぞ! と瞬時に思った。
いきなりラストの話をするが、貴族たちに襲われて絶命する直前にカリギュラが、「カリギュラはまだ生きている」と言う(正確に覚えているわけではないが、そんなことを言う)。
それで終わりなのだと思っていたら、その台詞の雰囲気がラストっぽくないので、「?」と思った。
すると血まみれで横たわるカリギュラがすくっと立ち、「カリギュラは死んではいない。……カリギュラはきみたちひとりひとりの中にもいる……」みたいなことを長台詞で言う。
その台詞は、なんか“ダサイ”なと思った。
つまり、その台詞はてっきり蜷川幸雄さんが、あとから付け足したものではないかと思ったわけだ。
蜷川幸雄さんは丁寧に演劇の内容を説明したがる人ではないかと思う。
例えば、高齢者が演じるゴールド・シアター『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』では、ラストにわざわざ若い役者たちを用意し、それまで演じていた老人たちを一瞬で若者に変えて、馬鹿丁寧と言いたくなるぐらいに説明してくれた。
また、ネクストシアター『2012年・蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』では、こまどり姉妹に歌わせ、ハムレットとオフィーリアの心情にぶつけて見せてくれた。
それぐらい説明して、観客にわからせたいと思っているのだ。
観客は馬鹿だと思っているに違いない。……というのは冗談として。
だから、このラストに追加された台詞は、ラストだと思っていた「カリギュラはまだ生きている」を、さらに誰にでもわかりやすくするために追加したものではないかと思ったわけだ。
しかし、帰宅後調べたら、その台詞は、今の戯曲からは外されているものの、作者であるカミュの構想にはあったものだということがわかった。
確かに、この台詞はわかりやすい。
しかし、説明的すぎてダサイ。
ダサくても入れたいと思うのが、蜷川幸雄さんだと思う。外連味と言ってもいい。
もし、そうした構想の台詞がなかったとしたら、絶対に別の何かを仕掛けてきたのではないかと思う。
カミュによる戯曲『カリギュラ』は、第2次世界大戦前とは言え、ヒトラーの存在抜きでは考えられない。
つまり、独裁者の心にあるものは、実は誰の心にもあるものだ(独裁者はいつの世にも出てくるものだ)、と言いたかったのだろう(と勝手に思った)。「カリギュラは死んではいない」「カリギュラはきみたちひとりひとりの中にもいる」と。
この台詞は、(私が勝手に解釈した意味において)ブレヒトの「諸君、あの男の敗北を喜ぶな。世界は立ち上がり奴を阻止した。だが奴を生んだメス犬がまた発情している」を思い出させる。
カミュの戯曲は、何かきな臭いことが起きそうな予感する時代の中で書かれたものであり、さらに戦中に手を入れられたらしい。
蜷川さんは、だからこそこの戯曲を今の日本と重ねてみたのだろう。
そして、何かきな臭い感じがする「今」に重ね、ブレヒトの言葉のような解釈を加えたと言っていいのではないだろか。
たぶんそこがポイントであり、ラストの台詞の選択となったというのが、最初の(勝手な)解釈だ。
しかし、実はそうではなく、若い役者さんたちが演じるさいたまネクストシアターの演目にこの作品を選択したというところに、本当の解釈があるのではないだろうか。
というよりは、この作品に『2014年・蒼白の少年少女たちによる「カリギュラ」』には、私は別のものを観ていた。
それは、「若さ故の、何かわからない焦燥感」とでも言うか、「名前の付けられない何か」がそこにある、ということだ。
何もかもをメチャメチャにしたいという欲求がある若者に、すべての権力を与えて、何かのきっかけで実際にそれを行使したら、こうなった、というような世界がそこにあったのではないか。
つまり、「悪いこと」と十分にわかっていても、何かも破壊し、汚し、痛めつけたいという欲望がある。
「愛するが故に」そうしたいという欲望だ。
それを一見、理論的な理由(もちろん、無茶苦茶なのだが)でコーティングして行ってしまう。
そして、自らの他者への破壊行為は、痛みとして自らにも及び、自己嫌悪に陥る。さらにその欲求はエスカレートしていく。
そんなダウナーなサイクルを、若いときに体験した(あるいは妄想した)ことがある人はいるのではないだろうか。もちろん、人殺しや法を犯すことなく。
カリギュラはそれをやった。しかも、彼が法であり、「世界で唯一自由な人」だった。
彼の周囲には、彼をさまざまな「愛」で「理解する人々」がいて、理解できない老人たちがいる(衣装でわかりやすく分けて見せる丁寧さが蜷川流)。
「根は優しい悪い仲間」とでもいうべきカリギュラを取り巻く者たち、さらに「カリギュラのことは理解(共感)できるが、彼の側には立たない」という「仲間」もいる。そして彼らに対峙するのは、彼らを頭から理解しない「大人たち」だ。
もう、その2軸の構図はどこにでもある。「金八先生」にだってある。
だから「カリギュラは死んでいない」のだ。
だからカリギュラの苦悩は観る者に訴えてくるのだ。
だから「カリギュラはきみたちひとりひとりの中にもいる」のだ。
ネクストシアターの役者さんたちが、その身体で、カミュの戯曲の神髄を教えてくれた。
蜷川幸雄さんの演出ではないと思う。
最初の解釈は外側にある出来事であり、あとの解釈が本当の「カリギュラ」の姿ではないのか。
蜷川幸雄さんは、最初の解釈を見せたのか、あとの解釈を見せたのかはわからない。
しかし、ラストは、蜷川幸雄演出ではありがちな、カリギュラが舞台の向こう側に去って行く、で終わる。歴史の中に戻るように。
「わかりやすく見せくれる」蜷川演出からすれば、これは最初の解釈なのだろう。独裁者についての解釈。
そう考えると、「独裁者」という「名前」に惑わされたので、余計な台詞を付けてしまった「理解(しない)できない大人(たち)」の代表が、実は蜷川幸雄さんだったのかもしれない。
「わかっていない大人」が付けたラストはこうなる。
本当のラストは「カリギュラは去らない」のではないだろうか。
蜷川幸雄さんはの解釈が最初のほうだとすれば(たぶんそうだと思う)、きちんとネクストシアターの役者さんたちの身体から発する声にも耳を傾けてながら演出すべきではなかったのか、と思ってしまう。
そうすれば、「今」の「カリギュラ」が出来上がったのではないかと思う。
……蜷川さんの解釈はどっちかはわからないので、以上は私の勝手な「解釈」である。
満足度★★★★
それにしても、文楽も面白いなあと、つくづく思う
2月文楽公演「第三部」国立劇場
演目は、
『御所桜堀川夜討:弁慶上使の段』
『本朝廿四孝:十種香の段/奥庭狐火の段』
の2本。
ネタバレBOX
『御所桜堀川夜討:弁慶上使の段』は、義経の正室卿の君が平家出身ということで、兄の頼朝から謀反の疑いをかけられた。頼朝は卿の君の首を差し出せと迫り、弁慶が義経の上使として、卿の君が世話になっている侍従太郎の館にやって来るという話。
卿の君は身重であり、首を差し出すことはできないと考えた弁慶は、代わりに腰元の首を討ち差し出すことにする。
実はその腰元は弁慶が生涯一度だけ女性と交わったときの子どもであった。
それを知らぬ弁慶は、腰元を刺殺する。刺された腰元も実の父に殺されたとは知らない。
さらに、身代わりだということを悟られないために、卿の君の面倒を見ていた侍従太郎は自らの腹を切り、自分の首を持って行き、頼朝に証明せよ、と言う。
腰元・信夫は、母の前で、自分の父親に刺し殺され、侍従太郎は、妻の前で主君のために自らの腹を切る。
弁慶が生まれたときに泣いて以来、初めて泣いた、というエピソードとなる。
親子は一世、夫婦は二世、主従は三世という時代の話。
人形劇なのだが、泣ける。
後半を務めた豊竹英太夫さんがいい。
『本朝廿四孝:十種香の段/奥庭狐火の段』は、武田家と長尾家の争いの中、両家の和睦のため、長尾謙信の娘・八重垣姫は武田勝頼の許嫁となる。さまざまなエピソードがあるのだが、八重垣姫は、長尾家の追っ手から、勝頼を助けるために、諏訪明神の使者である狐とともに、勝頼のもとへ向かうという話。
勝頼のことを思い詰めて、彼のもとへ向かおうとする娘の強さ。
それは怖くもある。
勝頼は二枚目だったから、姫もここまで思い詰めたのだろう、というのは野暮か(笑)。
3人の人間国宝が登場するという舞台だった。
確かに人形は繊細に、かつ迷いのない動きをしていたし、義太夫も渋かった。
ただ、「そう言われて見たから」ということは、素人的には致し方ないところではあるが(笑)。
それにしても、文楽も面白いなあと、つくづく思う。
文楽は、義太夫に乗せて人形が演じる、一種の音楽劇。
歌舞伎のときもそうだったが、今、義太夫がとても面白いと思っている。
若い頃はピンとこなかったのだが、歳とともに面白さがわかってきたのか、あるいはこのところ演劇を数多く観たことで、面白さを感じるセンスが鍛えられたのかは、わからないが、とにかく今は義太夫が熱い! (個人的に)
満足度★★★
会話が楽しい!
さすがの、わかぎゑふさん作品。
やはり会話(の台詞)がうまい。
台詞を中心にして、作品全体のリズムがいいのだ。
ネタバレBOX
台詞を中心にして、全体のリズムがいいのには、役者の力も大いに関係あるのは当然としても、ポンポンとつながるリズム感が台詞にある。
関西弁と東京の言葉が入り乱れるのだけれども、その間のリズムの乱れは皆無だ(噛んだ人は別・笑)。
わかぎゑふさんの作品は、台詞と台詞の噛み合わせが面白い。
その「会話」は、とても心地が良い。
だから、するすると耳に入ってきて、ストーリーもするするとわかりやすい。
舞台は明治。
洋服が日本に入ってきて、普及し始めた頃の話。
1人の職人が、子爵にその腕を買われテーラーを始める。
店長は子爵が身請けした元芸者が務める。
そのテーラーが物語の中心となり、エピソードが絡み合う。
良く言えば、ストーリーを急ぎすぎないうまさがある。
そして、それぞれのエピソードに登場する人物がすべて丁寧に扱われている。
歯に衣着せずに言えば、各エピソードがちょっと長い。ポイントが絞り込めないというか……。
それらの、いくつかのエピソードが微妙に絡み合いながら、「動物の毛の洋服」をキーワードに、ラストにかけて、急展開を見せる。
「洋服」の話から一気に行くのだ。ジャンプ率が高すぎだけど。
「鬼」と呼ばれ、人間とは見なされない被差別の人々が絡んでくる。
高貴な方々の身の回りの世話をするには、「人間」ではまずいこともあるからだと言う。
千年以上も「鬼」として仕えていた人々の話がつながってくる。
文明開化、四民平等になったのだが、そうならなかった人々が、天上と地下にまだいる、ということなのだ。
その因習や制度についての見解は、この作品にはない。
それはそれでいいとは思うのだが、例えば、それが現代とどうつながっていくのか、などの広がりを見たかったと思った。
つまり、「洋服」のように西洋文明を取り入れ、列強に並ぶ大国に変わろうとしている日本という国にあって、変わらない因習、陰の部分があるということ。
今も連綿と続く「天皇制」との関係を示唆するのであれば、(もちろん何かのイデオロギーのもとに声高に叫ぶ必要はないが)何かそうした「日本的」な「精神」などとの関係が見えて来るようににもできたのではないだろうか。
単に、ストーリー的な面白さだけではない、そうしたプラスα的なモノ、深さきちんと見えたほうが、さらに物語が面白くなったのではないかと思うのだ。
東京で生まれ育ったためか、関西方面の方々と比べ、差別・被差別に関しては、イマイチ、ピンとこないというところもあるのだろうが……。
役者さんでは、江戸川卍丸さんの関西弁の台詞のリズムがとてもいい。
浅野彰一さん、佐藤誓さん、そして曾我廼家八十吉さんが渋い。
西牟田恵さんの元芸者が見せる色っぽさと、江戸っ子っぽいタンタンタンと出てくる台詞がカッコいい。
そして、皇族らしき人を演じた若松武史さんが、あまりにも凄い怪演ぶりに、驚き、笑った。
ホントに凄かった。
満足度★★★★★
「ありがとう」と、思わず言いたくなるような作品
東京フェスティバルは社会派の劇団だと思う。
それは、現在の社会に対して厳しく問い詰めるということではなく、もっと身近に自分たちと、現在の社会について考えてみようというスタンスである。
今回も、障害者雇用という視点から、「働くこと」について考えさせられる。
笑って、ボロ泣きしながら観た。
ネタバレBOX
「一生暮らしていけるだけのお金があっても働きますか?」
という問い掛けに対して、学生のときだったら、「いえ、働きません」と答えたと思う。
しかし、いったん社会人として働きはじめてからはそういう考えはなくなった。
たとえお金があったとしても働きたいと思う。
今で言う(人事労務的に)ブラックな企業に勤めていたこともあったが、それでも働きたいと思う。
それはなぜか。
「楽しいから」だ。
また、「これからの企業にとって大切なものは何か」という問い掛けに対しては、
「人」です。
と即答できる。
「人」とは、企業を取り巻く人々(いわゆるステークホルダーのこと)のことを指すのだが、まずは「自社の社員」だ。「社員を大切にする会社」「社員を幸福にする会社」は「いい会社」なのだ。
『日本でいちばん大切にしたい会社』を読んで強くそう思った。
「人」を大切にする会社は、人からも大切にされる。
で、この作品は、『日本でいちばん大切にしたい会社』でも紹介されている、障害者をいち早く採用し、今も社員の多くに障害者を雇用している日本理化学工業がモデルとなっている。
作品では、日本理化学工業と同様に、今から50年以上前の昭和34年に、知的障害者を職場体験の形で採用し、のちに正社員として雇用するまでを描いている。
知的障害への偏見もある時代の中で、会社はなぜ正社員として雇用することにしたのかが、とてもわかりやすい。
彼らを採用する入口は、「社会的弱者」を「助ける」(同情)ということであったかもしれないが、結果的には働くパートナーとして、現場の人間が率先して受け入れたのだ。
彼女の働く姿、「楽しそうに働く姿」に心を動かされたのだ。
「働くこと」への強い意思を感じて、経営者側の心までも動かしていく。
「働く」ことは、それだけ意味があり、強いものなのだ、と知ることになる。
もちろん、「働き方」や「給与」の問題は大きい。大きいが、それは知恵を出し合うことで乗り切れるということも示唆している。
住職が人が幸せに感じる4つのポイントを挙げる(これはモデルとなった日本理化学工業の実話だ)。
すなわち、「人から愛されること」「必要とされること」「役に立つこと」「ほめられること」である。
最初の1つは家族から、あとの3つは「働くこと」で得られると言う。
これは、障害者だけの幸福ではない。
すべて人にとっての「幸福」の要素だ。
この作品の入口は「障害者の雇用」なのだが、実は、広く一般的な「働くこと」の「根本的な意味」を感じさせる作品なっていたのだ。
私たちは、本来「働くこと」で「幸福」を得られるはずなのだ。
劇中の従業員たちは、障害者を受け入れることで、幸福のひとつ、「(人の)役に立つこと」を感じた。
『日本でいちばん大切にしたい会社』を紹介してくれた友人によると(彼は日本理化学工業にも視察に行っている)、障害を持つ人と働くことことで、職場の人たちは確実に変わると言う。
その変化がここにあったのだ。
幸せを感じるための4つの要素は、会社にもあてはまるのではないだろうか。
すなわち、「幸福な(いい)会社」とは、「人から愛される会社」「社会(人)から必要とされる会社」「社会(人)に役立つ会社」「社会(人)から選ばれる会社(つまり褒められる会社)」だ。
その根本に「人」がある。
つまり、「働くことへの喜び」を感じられる社員が必要で、それは「幸福な職場」であるということ。それがなければ、「いい会社」は成り立たないのだ。
そうした、とてもシンプルで力強いメッセージが舞台の上にある。
笑いも随所にありつつも、ボロ泣きしながら観た。
観劇後、とてもいい気持ちがし、「ありがとう」という言葉が出てくるような作品だった。
従業員を演じた菊池均也さんと滝寛式さんのコンビ絶妙。
滝寛式さんが簡単に「よし賛成」と折れないところがいい。
住職を演じた朝倉伸二さんはやっぱりうまい。いい間で笑わせるし、「幸せ」について語るのがわざとらしく感じないのもさすがだ。
そして、知的障害のある少女を演じた桑江咲菜さんが、とてもいい。
相当大変たったと思うのだが、緊張感が一瞬も途切れることなく、好演していた。
このバージョンは再演だったが、その前の「幸福な職場 2009」はどんな作品だったのだろう。
終演後、日本理化学工業が作っている、ガラスに書ける「キットパス」を購入した。
家に帰って、ガラスにいろいろ書いてみた。
満足度★★★★★
若者の光と挫折を骨太に描く
周囲を観客に囲まれた、隠れることないステージの上で、若者たちの火花が散る。
舞台はシンプルなのに、どのシーンも、どの一瞬も見事に「絵」になる。
3時間超の作品なのに、ずっと息を呑んで観た。
ネタバレBOX
国家がどう生まれ(変わっ)ていったのか、ということよりも、「こうしたい」という熱く目標を掲げ、それに邁進していく若者たちの姿が印象的であった。
熱い若者たちの舞台だった。
連綿と続く古びて腐り始めた体制を、自分たちの手で変えたいという若者はいつの時代も現れてくる。
しかし、当然それに対する反感も旧体制側にいる人たちから起こってくる。
新しいことをしたいと思う者が、どうやって現れて、どうやってそれを成し遂げようとするのかは、桓武の時代であっても今の世であっても同じだ。
異端の天皇として誕生した桓武天皇は、正統な系統から見れば、しがらみが少ない。だから思い切ったことを実践できるのだろう。「変化したモノが生き残れる」というのは、生物の世界にあっても真理だ。
ただし、だからと言って、傍系からやって来た者が新しいことをしようとすれば、その出る頭は叩かれる。
どんな時代にあっても通用するリーダーというものはいない。
「変革の時代」には、「変革の時代のリーダー」が必要だ。
桓武天皇は、まさにその時代に呼ばれてきたリーダーだ。
人間力とビジョンが人を牽引する。
リーダーを精神的にサポートしたのが、最澄だ。
桓武天皇の「理想」「ビジョン」に最澄が共鳴しただけなのではなく、最澄の思う仏教のあり方(国家の精神的背骨となり得る)に桓武天皇も共鳴したのだろう。
互いの熱き心が共鳴し合う姿が、舞台の上でも輝いていた。
若者の熱き血潮の舞台と言えば、蜷川幸雄さんのさいたまネクストシアターを思い浮かべてしまう。
蜷川さんは、力技で若い役者の熱さを引き出しているように思う。
そして、無理矢理とも言えるような、独自の外連味的な演出で、観客をねじ伏せてくる。
老人だからこその、手練れであり、その力は凄いと思う。
翻って、アロッタファジャイナ、つまり、松枝佳紀さんの描く若者は、単に勢いや力だけではない。
「誰にでもわかりやすく、いつの時代も同じな、若者の苦悩と生の迸りを描く」のが蜷川さんだとすれば、松枝さんは「今、目の前にいる若者の痛みと不安を含めての、若さを描いて」いると思うのだ。
そして、蜷川幸雄さんがトップダウンであれば、松枝佳紀さんはボトムアップで舞台を作り上げているというの印象だ。
演出家もまた座組のリーダーである。
ひょっとしたら、松枝佳紀さんは密かに桓武天皇に自分を重ね合わせて演出していた、と思いながら観ると面白いのだろう。
リーダーは決断をしなくてはならない。なので、孤独である。
公式・非公式のパワーを使って、権限と人間力で組織を動かす。
ビジョンや価値観を組織内でどう共有するかが課題だ。
そして、目的に向かうときに邪魔になるものをどう遠ざけるかも大きな問題である。
桓武天皇にとってのそれは蝦夷であった。
この作品で、桓武天皇側が彼らをどう排除していくのかを見ると、逡巡が感じられる。
アテルイを藤波心さんに配役したことで、福島がアテルイの背中に見えてきてしまった。
この選択は、松枝さんがどういう思考回路で行ったのかはわからないが、主人公である桓武天皇と対抗する蝦夷(アテルイ)を両立させるわけにはいかないのだ。
蝦夷を徹底した「異物」として扱わなかったことが、史実との折り合いとしての演出の苦悩と、作品中の桓武天皇の苦悩が重なっていくという、フィクションならではの面白みが見えた。
そして、そのことへの逡巡が作品にも現れていた。
個人的には、もっと非情であってもよかったのではないかと思うのだが。
ストーリーの進行には、歴史アイドルの小日向えりさんが「小日向えり」本人で登場し、その間の歴史を語る。
これはスピード感を殺すことになるのだが、全体のいいリズムになっていたと思う。
ただ、「偽伝」と言っているのであれば、「偽伝」のまま突っ走ってよかったと思う。
話を少し戻すと、この作品と蜷川幸雄さんのさいたまネクストシアターを比べたのだが、もう1点比べるところがある。
蜷川幸雄さんは、ネクストシアターに限らず、何かを仕掛けてくる。
例えば、『2012年・蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』では、こまどり姉妹が登場し、嘆き悲しむハムレットを前に「幸せになりたい」と歌わせた。これに限らず、舞台の奥を開けて舞台の後ろを見せたりと、力ずくで演出し、それがいい意味での外連味となっていることが多い(少々ワンパターンだったりするが)。
松枝佳紀さんにも独特の外連味がある(外連味とは悪い意味で使う言葉なのだが、フィクションを見せるときに、観客をハッとさせる瞬間があってもいいと思うので、私は外連味はいい意味で使っている)。
それは、もっとポップな外連味だ。
演劇企画「日本の問題」のような企画力に代表されるような、「今」をつかんだ上での、ポップさがあるのだ。
今回で言えば、配役にそれがある。
例えば、仮屋ユイカさんの妹・本仮屋リイナさん、反原発を掲げるアイドル・藤波心さん、さらに歴史アイドルの小日向えりさん、評論家の池内ひろ美さん、映画監督の荒戸源次郎さんたちを俳優として舞台に上げたのだ。
これが外連味でなくて何であろうか。
彼らの配役は、話題性もさることながら、そのポジションの位置、使い方がうまいのだ。
先に書いたアテルイへ藤波心さんを配したことなど、彼女を使うことで意味がさらに増してくるし、「今」につなげてくる。
歴ドルの登場も、まさに観客を現代へ一気に連れ戻す。
荒戸源次郎さんの起用も、ある程度の年齢の俳優を使うことよりも、この人だったから出せたという雰囲気と、若者たちとのマッチ感があったと思うのだ。
この人の役が、うますぎる老練な俳優であったとしたら、その俳優が飛び抜けてしまい、バランスを欠いただろう。なので、「あれぐらい」(笑)がよかったのだ。その点、池内ひろ美さんはうまくなりすぎていたかもしれない(笑)。
こういう使い方は、悪い意味での外連味になってしまう可能性もあり、諸刃の刃でもあるのだが、そこに留まらせない見せ方のうまさが、この作品を含め、アロッタファジャイナにはあると思う。
ラストに空海がきらびやかな印象で登場する。
これって、ハムレットのフォーティンブラスじゃないか、と思ってしまった。
満足度★★★★
FUKAIPRODUCE羽衣のヰタ・セクスアリス
永遠に降り続く雪を溶かすような、男女の姿。
やっぱり、歌がいい!
FUKAIPRODUCE羽衣の妙―ジカル!
ネタバレBOX
糸井幸之介さんは、どうしてこんなに微妙な男女間を描けるのかと思う。
特に、小学6年生の男子と女子の関係は、愛おしすぎる。
ダイタ(代田正彦さん)が雪の中に転んで、人型を作って、その型の中に今度はイトウ(伊藤昌子さん)が入る、なんていうのは、ヰタ・セクスアリスの始まりのようであるけれど、そのときの言葉にできないような男子の感情が、痛いほど伝わってきて、「うまいなぁ」と唸ってしまうのだ。
イトウの無邪気さがさらにそのコントラストを濃くする。
イトウを演じた伊藤昌子さんはとても好きな女優さんだ。
明るい表情がとてもいいので、嵐の相葉くんをひたすら想う小6の女の子にしか見えなくなるし、その無邪気さが、イロイロ知り始めている小6の男子にとっては、残酷にすら見えてきてしまう、という空気感がいいのだ。
対する小6男子の代田正彦さんの、実際の緊張感が逆に小6のようでよかったと思う(演技ということで言えば、少しアレだけど……)。
このエピソード1つで、この作品は素晴らしいと思ってしまうほどだ。
ほかにもあと6組のカップルが出てくるのだが、おおむね、バカッぽい(バカっぽく見える)。
バカっぽいのは、他人から見ているからであって、本人たちは大恋愛の真っ最中なのだ。
(ピンサロのカップルはそうではないけど)
それぞれのカップルのそれぞれの事情が語られていく。
ピンサロのシーンは、日髙啓介さんがとてもきれいに動いて、台詞で笑わせてくれる。
しかし、その笑いと明暗を分けるように、このシーンは痛い。
ピンサロのカップルを演じる鯉和鮎美さんが哀しい。
このシーンの「闇」が濃すぎるのだ。これがあるので、作品全体の奥行きが出たように思える。
陰りが強いから。
しかし、折り返し点の殺し合いは、他のシーンと比べてもリアルさが伝わらない。拳銃があまりにも、フィクションとして重すぎるからだ。
そこは好きではない。
「性」を軸にして、男女が相対する。
性抜きでは語れないから、それを語る。
やっばり、ヰタ・セクスアリスだ。
別れることで揉めたカップルから、すべてのエピソードに戻っていく。
すべてのカップルが相手の衣装に交換しながら。
それが「男と女」を強く意識させる。
そしてその姿に、「男女は相手と一体になれるのか」と言われているような気がした。
男女は、単に「男装」「女装」ぐらいのレベルでしか、わかり合えないのかもしれない。
そう思うと、かなり切なくなってくる。
情事を墓場で終えたカップルも、バイクで事故ったカップルも、小6の男子女子も。
小6の男子女子がふたたび歌う曲も、ラストに全員で歌う作品のテーマソングも、戻ってきてからは、まったく聞こえ方が違ってくる。
それはまた、「それでも、私は相手を愛する」と言っているように聞こえるのだ。
バイク・カップルの女を演じた浅川千絵さんの、若い女性ならではの、バカみたいな無邪気さがとてもよかった。そのときどきの表情も素敵だ。
また、島田桃子さんの、ダンスのキレの良さが印象に残った。線が美しい。
舞台の両サイドにいたおじいさんとおばあさんが、もう少しエピソードにうまく絡んでくれると良かったのではないと思った。
ラストのミラーボールは「ほお」と思ったが、少しもったいない使い方だなとも。
帰りにロビーで『サロメvsヨカナーン』のCDを買った。
このタイトルチューンは、鼻歌で今でも歌える(歌詞のところは、「○○はゾロ目〜」しか歌えないけど)。それぐらい好きだ。
しかし、もう少し録音何とかならなかったのかなと思う。音質よりもバランスとして。
再録したら、また買う。
満足度★★★★★
空(宇宙)への祈り
われわれは永遠に孤独なのだろうか。
「ヨーロッパ企画の本多力さんが、ミクニヤナイハラプロジェクトに出る」という情報を耳にして、「それは面白い!」という感想と同時に、頭の上に「?」が浮かんだ人は多いのではないだろうか。
ミクニヤナイハラプロジェクトは、高速の台詞に、とんでもなく運動量の多い動きまで伴う独特の演出だ。したがって、本多力さんが、そんな勢いで台詞を話し、動いているところなんて想像できないからだ。
しかし、本公演を観て、ミクニヤナイハラさんが彼を選んだ理由がわかった気がした。
ネタバレBOX
「ヨーロッパ企画の本多力さんが、ミクニヤナイハラプロジェクトに出る」という情報を耳にして、「それは面白い!」という感想と同時に、頭の上に「?」が浮かんだ人は多いのではないだろうか。
ミクニヤナイハラプロジェクトは、高速の台詞に、とんでもなく運動量の多い動きまで伴う独特の演出だ。したがって、本多力さんが、そんな勢いで台詞を話し、動いているところなんて想像できないからだ。
しかし、本公演を観て、ミクニヤナイハラさんが彼を選んだ理由がわかった気がした。
舞台の上は、どうやら2030年の近未来らしい。
しかし、今の未来というよりは、原子力を想起させるような、危険なエネルギーに影響を受けることのない、スーパーな人類が生まれているという世界であり、パラレルな世界観の中の話のようだ。
放射能に耐性を持ち、しかも長生きの新人類の誕生なんていうのは、お伽話にしても、今の日本の現状から考えても冗談にしか思えないから。
しかし、壁のこちら側にいるスーパーな人たちというのは、自分からそうなったわけではなく、「たまたま」そうだった、ということであり、現状の日本と考え合わせると、事故を起こした原発の近くに「たまたま」住んでいなかった自分たちと重なる。
スーパーというのは、何かの能力というより、「たまたま」の結果なのだ。
それは意外と重い。
で、本多力さんである。
スーパーな2人の男たち(1人は女性になっている)に対して、普通の、つまりノーマルな人類・シミズとして、本多さんは出てくるのだ。
ここがポイントではないだろうか。
スーパーな2人、オガワとヤマムラに対して、ノーマルなシミズの動きとの差がある(ように見えてしまう)。
シミズ本人はまったく同じように話をし、動いていると思っているのだろうけれど、例えば、台詞を言うときの、シミズのどちらかというともっちゃりした感じに比べて、オガワとヤマムラはとてもシャープだ。
ヤマムラを演じる光瀬指絵さんは、ミクニヤナイハラプロジェクトの常連さんというイメージがあるので、ミクニヤナイハラプロジェクトの世界にすでにしっかりとはまっている。
オガワを演じる足立智充さんも、ミクニヤナイハラプロジェクトやニブロールへの出演経験もあるので、ミクニヤナイハラプロジェクトの世界には溶け込みやすかったのではないかと思う。
対するシミズの本多力さんは、若者が普通の感じにぼそぼそとしゃべる(笑)、ヨーロッパ企画の中にあって、さらに独特の語り口調のゆるさがある方で、体型もややぽっちゃり型だ。しかも関西弁のイントネーションが残る台詞が柔らかい。ミクニヤナイハラプロジェクトには初登場。
この役者が個性として持っている「差」は、具体的にスーパーとノーマルの演技をそれぞれつけるまでもなく、自然と立ち上がってきてしまう、「差」でもある。
つまり、本多さんが登場して、台詞を言い、動き出してから、「なるほど!」だからこの役には本多さんだったのだ、と納得したのだ。
リアルな凄い配役ではないか。
同じような高速の台詞と過剰な動きを両者にさせても、イヤでも出てきてしまう「差」というものをじわじわと感じるのだ。
さらに言えば、この作品には「笑い」も生まれている。
これは本多さんならではの結果だと思う。
話を作品そのものに戻す。
前作の『see / saw』では全体をとらえていて、「その時」感が強かった。
五感に響き、圧倒的な物量を感じた。
今回は前回と同様に3.11をベースに描いているのだが、前回がマクロ的ならば、今回はミクロ的な視点からの作品となっている。
つまり、「その後」の人々の「心」の問題を扱っているのではないだろうか。
「壁の向こう」から「避難」してきて、こちら側での日常が始まっている。
何かの作業をしている。
ノーマルな人々にとっては、危険な作業であったとしても、スーパーな人々には何の危険もない。
対して、ノーマルな人々は隠れるように暮らしている。
匍匐前進をするように。
彼・シミズは、「うざい」「きもい」などの矢を、これ以上受けたくないから、匍匐前進をしているという。
そんな日常がある。
しかし、3人それぞれの「存在の不安感」もある。
ヤマムラは男性から女性になっている。
オガワは自分の影に悩まされている。
シミズは短い命を憂う。
それぞれが、相手に自分の気持ちを理解してもらえない、という「孤独」の中にあるのではないか。
そして、たぶん、「孤独」の理由(原因)は「壁の向こう側」にあるのではないか、と考えたのではないだろうか。
だから、3人は、例えばシミズは死の危険があるのにもかかわらず、壁の向こう側に行こうとする。
「自分探し」というと、少しアレだけど、自分の孤独から解放される何かを、そもそもこうなってしまった原因である、壁の向こうの世界に探しに行く。
壁の向こうは、何か大きな災害・事故が起こって、誰もいなくなってしまった危険な場所。
中盤から後半に向かって、3人の会話の量は徐々に多くなり、会話の速度も速くなっていく。さらにそれに伴い身体的な運動量も多くなっていく。
つまり、実は「会話」の「運動量の多さ」=「会話の困難度の高さ」がアップしているのではないだろうか。
それは、会話の量により、彼ら個々の「孤独」を取り巻く「壁」が取り払われていくのではなく、一層、厚く高くなっていく様子だ。
彼らは、息が上がりながらも会話をしていく。
さらにオガワが「影」に取り込まれる度合いも高まっていく。
脚本は、ホントに凄いと思う。
何気ない会話の中に、情報が詰まっているように感じる。
「宇宙」「オーパーツ」「知識のある人ない人」等々。
オガワは、空を見上げるのが好きだ。
ロケットを見上げると、取り込まれてしまった影から解放される。
ロケットでは、キャラクターがネギを振っている。
舞台のスクリーンにはネギを振る姿がシルエットで映し出されている。
その姿は、実は小さくて地上から見えないはずなのだ。
しかし、オガワの頭の中には、その様子がはっきりと見えている。
宇宙はもの凄い速度で膨張しているという、その様子を想像するだけで恐くなる。
地上にいるちっぽけな自分が毎秒ごとに、さらにちっぽけになっていく感覚だ。
だから、「宇宙」に希望のようなものを託し、空を見上げ、見えるはずのないネギを回すキャラクターを想像する。
それは宗教的である。
ネギを回している姿という滑稽さに宗教がある。
空を見上げることは「祈り」である。
救いはこの地上にはない。壁の向こう側にも、もちろんない。
今ある危険への耐性が備わっている「スーパー(遺伝子)」は男性のみにしか出てこない。
つまり、人類は先細りしていくことになる。
スーパーは長生きできるらしいのだが、ノーマルがそのうち死に絶え、スーパーな男性の老人ばかりになっていく。
それも寿命とともに徐々に少なくなり、最後はすべて消えて行く。
寿命が長いということでの、恐ろしい「孤独」が待っている。
それを考えるととても息苦しい。
シミズの言っていた「オーパーツ」と「宇宙人」の話は、ここでつながっていく。
つまり、つまりそれらは、われわれは宇宙で孤独なのではない。どこかに誰かがいるのではないか、という「証拠」であり、「期待」であり、「祈り」ではないだろうか。
彼もオガワと同じように空(宇宙)に何かを託していたということなのだろう。
ラストは自分たちが恐れていたモノに飲み込まれてしまう。
オガワは、自問自答のように影と対話をしながら影に侵食されていく。
シミズは死ぬ。
ただし、女性となったヤマムラを待ち受ける先はわからない。
孤独の中で祈りは続くのだろう。
……どうでもいいことだけど、
ネギを回す、で思い出したことがある。
数年前にネット(の一部)で流行っていたアニメだ。
この作品とは関係ないと思うけれど。探してみたらあった。
http://www.youtube.com/watch?v=GCO62VNm67k
満足度★★★★★
ミクニヤナイハラプロジェクト『シーザーの戦略的な孤独』
と、妙な符合がある。
まず、上演時間がどちらも約70分………。
ということではなく。
あひるなんちゃら的ディストピアに繰り広げられるSFロボット大戦。
というのは、深読みしすぎ。
で、いつもの感じで笑った。
面白いぞ。
ネタバレBOX
てっきり、なんか、そういうロボットの周辺でうろうろする話かと思っていた。
たしかにウロウロするのだけれど、ロボットが直接的に関係してくる。
冒頭からの展開は、いつもの、あひるなんちゃら節。
わけのわからないことを、平常のような顔をして語る人たちと、しょーがないなという諦めの中で、突っ込む人たちの会話が繰り広げられる。
そのあたりは、観客はいつものように、力なく、笑う。
どうやら別の宇宙から攻めてきているらしい。
「電磁装甲兵ルルルルルルル」はそれに対抗するロボットということだ。
なのに、ホントにこんな人たちに任せていいのか、と思う人たちしか出てこない。
地球は、それぐらい本当に危機にあるのだろう(笑)。
今回のあひるなんちゃらは、いつもと違い、ストーリーでも見せる。
(いつもは何も話が進まないのだが)
意外と普通のコメディとしても面白い。
ラストのテーマ曲を全員で歌うという趣向も最高だ。
天才アオヤマ(篠本美帆さん)と、双子のマツナミ兄弟(兄:三瓶大介さん、弟:堀靖明さん)の3人が乗る3体のロボットが合体して、「電磁装甲兵ルルルルルルル」となる。
しかし、まったく合体できない。
天才アオヤマは、理不尽にも「自分は天才なので、兄弟が自分に合わせろ」と言う。
双子のマツナミ兄弟は、そっくりで観客もなかなか区別がつかない。
演出的には、弟を太らせるとか、弟にメガネをかけさせるとかしてほしかった。
これは演出のミスではないか。
終盤、可哀想なタナカ(根津茂尚さん)に、兄弟が見分け方を伝授するお陰で、観客の多くがやっと見分けられたと思う(なんと! 弟はメガネをかけていたのだ!)。
さらに、司令がほっぺたに「兄」「弟」と書いてくれるので、それ以降、舞台を安心して観ることができたのだ。
それなら、もっと早くやってほしかったと思う。
今回も困った人のオンパレードで、ヨシナガ(宮本奈津実さん)、カトウ(三澤さきさん)の2人がかなり酷い(笑)。理解度が低かったり、ギャンブル依存症だったりと。
こんな人がいたら周りは困るだろうな、と思っているとやっぱり困っているけど、諦めている。
オペレーターの上司ノグチ(松木美路子さん)も、ちゃんとしていそうで、相当に困った人である。
天才なアオヤマ(篠本美帆さん)は、都合の悪いことは聞こえないし、何の天才なのかわからないけど、司令官を操ることはできるらしい。
彼らは自分の仕事を淡々とこなしてはいるが、下手すると滅んでしまう、この宇宙のことなんて案じていないようだ。
コメディ的にはそうなんだろうけど、よくよく考えると少し恐い。
会話しているようで、自己完結的、コミュニケシーションは成り立っていない。
最初から自ら閉じてしまう人ばかり。
唯一、可哀想なタナカには、パイロットになりたいという希望があるのだが、いとも簡単に打ち砕かれてしまう。
登場人物たちの誰もが「未来」についての希望や願望については何も語らない。
未来をかけての戦いなのに。
ある意味、これは、この世界観は、ゆるいディストピアではないのか、あひるなんちゃら的なディストピア。
そこに「いるだけ」の存在の人々。
この宇宙が残ったとしても希望がないのではないか、ぐらいまで思ってしまった。
唯一の希望は全員がテーマソングを歌うところ。
それに笑いながら救われたのかもしれない。
というのは深読みしすぎだね。
この公演を観た翌日に、ミクニヤナイハラプロジェクト『シーザーの戦略的な孤独』を観たのだけど、その作品と合わせて考えると(いや、そんなことをする必要はないのだが)、誰もいない街、理不尽で、何だかわからないモノからの攻撃、「宇宙」のキーワード、そして、会話は成立しているが、根本的にはまったくつながっていない人々、つまり人々の孤独が見えてきてしまい、ひょっとしたら、この2作品の根っこは同じではないか、と思ってしまった。
が、それは買い被りだよね。
(上演時間がどちらも約70分ということも……笑)
ということは、観ているときには感じてなかった。
結局、わはは、とか、えへへ、とか笑って観ていただけ。
つまり、単に面白かったのだ。
あひるなんちゃらは、何回か前ぐらいから、公演の内容を録音し、終演後、すぐに販売している。
たまに公演を観たあとに台本を買ったりすることもあるのだが、この企画は面白い。
台本を読むよりもストレートだ。
落語のCDを聞く感覚で楽しめる。
どんな劇団にもマッチする方法ではないが、いいアイデアではないかと思う。
DVDよりも簡単だし、劇団側も在庫のリスクがない。
何より、終演後、今観た公演の音を、その場で買えるというのもいい。
USBメモリを持参ならば、500円で購入できる。
満足度★★★★
若さ溢れるスピード感
森見登美彦原作、松村武演出の音楽劇。
若くて気力も体力もみなぎる俳優たちを、脂ののったベテラン勢が支え、さらに重くなりすぎない超ベテランという構成で、エネルギー溢れ、スピード感のある、楽しい舞台を見せてくれた
ネタバレBOX
カムカムミニキーナの松村武さんが演出しているので、カムカムミニキーナ的な印象が強い。
すなわち、台詞が早くて膨大だ。
いわゆる「地の文」まで全部読むという方法で、役者はフル回転する。
若い役者とベテランが見事にそれをこなすので、もの凄いスピード感がある。
息抜きする場所がないぐらいに疾走する。
原作もアニメも見てないのだが、キャラクターがとてもはっきりしていてわかりやすい。
「化ける」という設定もあるため、同じ登場人物を別の俳優(しかも男女も違っていたりして)が演じたりするのだが、その切り替えがスピーディなのだが、演出のうまさか、とてもわかりやすい。
主人公が女性(女優)に化けて、そのときの心境を、もとの主人公(男優)が語る、なんていう方法もうまいし、楽しい。
主人公たちは、タヌキであるのだが、タヌキはバジリコFバジオの木下実香さんこと、KINO4TAさんの手によるものである。
なので、少々アクが強い。だからとてもこの舞台に合うのだ。
それぐらいの強烈さがないと、この、いろいろたっぷりな舞台では埋もれてしまうからだ。
全体的に若さがまぶしい。
溌剌としていて気持ちがいい。
やる気が漲っているようだ。
主人公を演じた武田航平さんは、膨大な台詞をこなし、最後までポテンシャルが落ちることなく、がんばっていた。それが爽やかだった。
女優陣がとてもいいのだ。
元タカラジェンヌの樹里咲穂さんの身のこなしはさすが。
佐藤美貴さんの怪しい美しさもいい。
そして、何より、新垣里沙さんがキュートで、身体のキレがよく、歌もいいし台詞もよく通る。
あとで知ったのだが、元モーニング娘。のメンバーだという。
こんな素晴らしい子がいたのかと、驚いた。
このまま舞台に出続けてほしいものだ。
さらに、小手伸也さん、小林至さん(双数姉妹)、成清正紀さん(KAKUTA)の3人の、脂ののったベテラン勢がうまいのだ。
数多くの役を瞬時にこなし、黒子までも、汗だくでフル稼動していく。
役の切り替えのうまさ、それぞれの役割の確かさで、若い俳優たちを支えていた。
彼らがいなければ、この舞台のスピード感は出なかったと思う。
もちろん、久保酎吉さんも確かな演技で舞台を締めていた。超ベテランなのだが、あまり重くなりすぎず、いい塩梅の軽やかさだった。
若くて気力も体力もみなぎる俳優たちを、脂ののったベテラン勢が支え、さらに重くなりすぎない超ベテランという構成で、エネルギー溢れ、スピード感のある、楽しい舞台を見せてくれた。
音楽劇としていて、歌は全部で7曲ぐらい。
どの歌も観客にきちんと届きとてもよかったので、もっと多くてもいいかなというところもある。
タクシーのシーンなど、細かいところを、あえて「人力」で演じさせる演出が、とても演劇っぽくて、いいな、と思った。
役者は大変だと思うが、これがあるから、さらに味わいや奥行きが出たのではないだろうか。
私の行った回は劇場の後ろのほうに空席が目立っていた。
もったいないな、と思った。
満足度★★★
玉石混淆
「演劇×笑い」を自認する劇団・ユニット・個人を公募し、オムニバス形式で行っている、コントライブ。
4団体が参加。
ネタバレBOX
まず、バーゲンセールという、アイドルユニット(?)が前説に登場。
微妙な年齢層な2人組の女性が、キンキラのアイドルっぽい衣装で出てきたので、それ自体がギャグかと思っていたら、そうでもなかったみたい。
彼女たちのMCがあまりにも雑すぎて……ライブにも暗雲が。
例えば、彼女たちのMC聞いていると、今回登場の団体のこともまったく知らないで立っていることがわかる。
当然、リサーチしておいて、それをMCして盛り上げるのがあんたらの役目だろうに、と思う。
1.38mmなぐりーずと津和野諒 ★★
退屈。
例えば、開店以来3人しかお客が来たことのない飲み屋で、出てきたNO.1の女の子がおじさんだった、そして、チェンジすると出てきた女の子も客をもてなしてくれない、というように、話もたいして面白くないし、演技にしても、演劇だったら怒るレベル。
雰囲気でうまく落としたい感じなのだが、それならば、演技がうまいことが前提で、間やタイミングも考え抜いてやらないとダメだろうに。
海苔のカードゲームは面白くなりそうだったが、やはりオチが、うまくない。
2.小野寺ずる ★
苦痛。
瀕死の夫を前にした妻という設定で始まるのだが、笑ったのは年齢を言ったときぐらいで、いつまで経っても面白くなっていかない。短時間なのだからぐいぐいいってほしい。
台詞が面白くないし、一人芝居自体もピンとこない。
さらに、シモネタに展開していくのだけれど、それが面白くならないので、苦痛だった。
ダンスへ展開してもたいして面白くならず。
さらにダメ押して、一人芝居にもう一人足して、それが蛇足で変な感じにグダグダで終わったという印象。
3.MU ★★★★
演劇的。MUらしい作品。
きちんとセット的な大小の道具が、より演劇的な雰囲気を出しすぎていた。
いつものMUに近しい雰囲気があるのが、それは本公演で見られるので、この作品ではなく、コントを上演して、もっとはっちゃけてほしかった。
もちろん、笑いは多めだったけど。
台詞のいちいちが気が利いていて、考えられていることがよくわかる。
夫婦の微妙な感じが、奇妙な空気の中で現れてくるという、とてもMUらしいくていい作品なんだけど、これはこういう場ではないところで見たかったというのが本音。
各シーンにじっくりと時間をかけて見せたほうが作品も活きたと思う。
もしこれが、演劇の短編を集めた企画だったら、もっと光ったとな、と。
大久保千晴さんが良かったのだが、全体的にわさわさしている感じの中だったので、良さが活きてこなかったのも残念。
そして、何より、まだ余韻が残る、MUの舞台終了直後に、例のMCの2人が「どうもー」みたいな大きな声のテンションで出てきて雰囲気をぶち壊したのには、殺意さえ覚えた(笑)。
ついでに言えば、高校生が出てくるのだが、ひと目で高校生とわかるほうがバカバカしくて面白かったと思うのだが。
4.アガリスクエンターテイメント ★★★★★
大笑いした。
さすがに自分たちの企画だけあって、つかみから面白いコントを見せてくれた。
ディスカッション的な展開は、前回の『ナイゲン』を思い出した。
満足度★★★★
<夜の部>井上ひさしさんの小説を新作歌舞伎にした『東慶寺花だより』など
<夜の部>
『仮名手本忠臣蔵 九段目 山科閑居』
『乗合船惠方萬歳』
『東慶寺花だより』
ネタバレBOX
『仮名手本忠臣蔵 九段目 山科閑居』
松の廊下で、塩冶判官(つまり浅野内匠頭)が、高師直(吉良上野介)を斬りつけたときに、後ろから止めた加古川本蔵の娘は、大星由良之助(大石内蔵助)の息子・力弥(主税)の許嫁だったが、松の廊下の一件から、解消されてしまった。
しかし、加古川本蔵の妻・戸無瀬と先妻の娘・小浪は、祝言を望み、山科の由良之助宅を訪れる。
出迎えたのは由良之助の妻・お石に拒否され、母と娘は自害をしようとする。
お石に、それを止められたのだが、お石は、祝言の引き出物に、加古川本蔵の首を要求する……。
そういうストーリー。
戸無瀬とお石の台詞のやり取りの緊迫感がたまらない。
戸無瀬を演じた坂田藤十郎さんの姿が、どのシーンでも美しく形が決まり、素晴らしい。
お石の中村魁春さんの冷たさで、さらに戸無瀬とのやり取りが光る。
義太夫に乗り、なかなかじっくりと見せる。
加古川本蔵を演じる松本幸四郎さんの登場で、劇場の空気は一気持っていかれてしまった。それだけの華やかさがある。
対する大星由良之助の中村吉右衛門さんの登場でさらに舞台は盛り上がる。
幸四郎、吉右衛門の兄弟や、藤十郎、扇雀の親子共演も見どころだ。
雪で作った五輪塔、大星由良之助が死の際にある加古川本蔵に掛ける言葉などなど、加古川本蔵と大星由良之助は、武士として互いの心中を「察する」、という物語は、日本的で心に響く。
義太夫は前半と後半の2名が語るのだが、この人はうまいな、と思う人がいるのだが(前半の方)、名前をいつも忘れてしまう。
名前がどこかに出ているのか、知りたいものだ。
『乗合船惠方萬歳』
梅の花を見に隅田川に出かけ、その場に居合わせた人たちが、それぞれの芸を見せ合うという、新春らしい舞踊。
橋之助さんは、短い出番だが、やはり踊りがうまいな、と思う。
萬歳と才造を演じた中村梅玉さんと中村又五郎さんも良かった。
『東慶寺花だより』
井上ひさしさんの短編連作小説を歌舞伎にした新作。
文庫本を去年たまたま読んでいたので、それが歌舞伎になるとは思ってみなかったので、驚いた。
連作の中の3編を舞台にしていた。
東慶寺というのは、鎌倉にある、幕府公認の縁切寺。
縁切寺に駆け込むときには、その前にある御用宿に泊まり、夫と協議をしなくてはならない。
その御用宿のひとつ、柏屋が舞台となる。
ワケありの「駆け込み人」を巡る人情話であるが、笑いもいい感じに盛り込まれ、どちらかというと軽めの作品となっている。
主人公は柏屋に居候している、滑稽本の作者の卵で医者の卵でもある、信次郎。
信次郎は、市川染五郎が軽みをうまく出して演じている。
なかなか面白い作品だった。
今後も上演されるかどうかは微妙だけど。
満足度★★★★
演出のテンポの良さと舞台上の熱気で、引き込まれた
今回も、演劇的な面白さの部分、がいいのだ。
戯曲を書いて演出も行う坂手さんは、やはり凄い。
矢継ぎ早に作品を生み出し、どれもクオリティが高い。
ネタバレBOX
第2次世界大戦中のオーストラリアにあるカウラの捕虜収容所が舞台。
234名もの犠牲者を出した脱走を描く。
いつもの、やや青臭いところや説明的なところ、盛り込みすぎなところはあるものの、「日本人」を軸に「男性と女性」「現代と過去」の対比やテーマの描き方が鮮やか。
実際に起こった出来事と、女学生たちの虚構が入り乱れ始めるあたりが面白い。
「死にたがる男たち」と「生きさせたい女たち」が、「過去」「現代」という時間の違いだけでなく、もともとの感覚としてそれがあったのではないか、と気づかせる。
もちろん、それは単に「性」の違いだけでない。
女学生たちの「歴史への介入(やり直し)」は、「死」へ「直線的」な思考しかない「男たち」への警告でもある。
しかし、歴史は元には戻らない。
一度回り出した歯車は止められず、凄惨なる脱走事件へと向かう。
「死にたがる男たち」には「生きたい女たち」の声はいつも届かないのかもしれない。
……この公演は2013年のものだが、2014年に観た、唐組『櫻ふぶき日本の心中』にテーマが少し重なるところがあるな、と思った。
満足度★★★★
この世の出現
戻らぬ時の中に、立つ。
そして、踊る。
ネタバレBOX
火・水・風・土の四元素が動き、反応し、この世が、むくむくと生まれていく様を表していく。
それは、歴史いぜん(以前)、いや、さらに神話いぜん(以前)なのか。
物質の出現だけでなく、精神的な世界の出現をも含む。
生まれ、死に、また生まれる。
それは輪廻のよう。
舞台の上にさらさらと流れ堆積していく砂。
「時間」を表すだけでなく、「戻らないもの」を同時に表しているのではないか。
その「刹那」「刹那」にわれわれはいる。
戻らぬ、時の流れ、世の流れの中に。
踊り手たちは、その時の中、空間の中でどこに立っているのか。
天児牛大は、どこに立つのか。
表現には、いつもと違う印象をいくつか受けた。
それは、「今何を踊っているのか」が一目瞭然だということ。
特に、「色」の使い方。鮮やかな色が「主張」する。
表現がストレート。
わかりやすい、とも言うかもしれない。
何か変化があったのではないかと思う。
ラストのカーテンコールの場面は、何度観ても、心が震える。
肉体とは残酷だ。どんなに鍛えても老いはある。
しかし、「老い」があることに意味があると思わせてくれる。
……ポスター買ってしまった(笑)。
満足度★★★★
観客を楽しませよう、が少々いきすぎた作品(笑)
新春らしい華やかさがあり、仕掛けの多いストーリー。
とにかく観客を驚かせて喜ばせることしか考えてない。
ネタバレBOX
新春らしい華やかさがあり、仕掛けの多いストーリー。
釣り天井なんていうのも出てきます。
とにかく観客を驚かせて喜ばせることしか考えてない。
オリジナル(けいせい青陽鳥(「鳥」は集に鳥))を改変してあるらしいですが、150年ぶりの復活とのこと。
ストーリーは、信長の死後、勝家と秀吉の対立を描いています。
織田は小田、柴田勝家は柴田勝重、羽柴秀吉は真柴久吉という名前になっています。
ただし、これも実は遠回しに徳川の跡目争い(伝説)を取り入れているということらしいです。
ただし、上演に際して、徳川の名前は使えないので、信長の跡目争いに仕立ててあるということ。
この幾重にも虚実が入れ込まれ、さらに「漁師は、実は内情探るための勝重の部下だった」「○○と××は双子だった」という「実は○○」だったという設定が随所に使われ、観客は、あっと驚くというより、大混乱してしまう物語になっています。
また、信長の跡目争いなのにオープニング(序幕)は、高麗国の浜辺から始まったり、場所の展開も意外だったりするので、とにかく「今、どこで、誰と誰によって、何が起こっているのか」を、頭をフル回転させながら観ないと、ついていけない印象です。
私は先に観に行った方から、「わかりにくいよ」と言われていたので、いつもよりも真剣に観てしまいました(笑)。
大体の筋書きは、チラシに書いてあるので、目を通しておきました(通常の歌舞伎公演でも、通しで演じられることは少ないので、必ず前もって読んでおきますが)。
そんなに慎重にしなくても、特にわかりにくいということはなかったと思います。
とにかくいろいろと「凄い」作品でした。
満足度★★★★
シェイクスピアの「リア王」であって、シェイクスピアの「リア王」ではない
座・高円寺レパートリーとなる作品。
渡辺美佐子さん、植本潤さん、田中壮太郎さんの3人が演じる。
ネタバレBOX
シェイクスピアの「リア王」であって、シェイクスピアの「リア王」ではない。
佐藤信さんの構成・演出が『リア』を作り上げた。
渡辺美佐子という役者の凄まじさを観た思いだ。
さらに、花組芝居の植本潤さんが、渡辺美佐子さんを喰っていこうとするような、獰猛な一瞬も感じた。
その、火花散る様が美しい。
1時間25分、まるで息を止めて見続けた気分。
荒野にいるだけのリア。
リアの心象だけを見せていた。
リア王とリアルにほぼ同じ年齢の渡辺美佐子さんが、リア王を演じていることの意味を、舞台の上の姿を観て感じた。
頭が足りない者という設定で、あの声色(いかにも頭の足りない風でござい、という声色)の選択だけは正直、ない、と思った。
満足度★★★★★
「演劇 is DEAD」の口調で「演劇love」を叫ぶ
公演前にふと見た、アロッタファジャイナの松枝さん、とミームの心臓の酒井さんの、「期待している」的なツイート等を見たので、急遽観に行くことにした。
ネタバレBOX
Rock is DEAD。
ジョニー・ロットン時代のジョン・ライドンが言った台詞として有名だが、これは新しいロックが出てくるたびに、前のロックに対して連綿と発せられた言葉でもある(The Whoも歌ってたと思う)。
そう言いながら、ロックの中でロックを演奏してきたのが、ロッカーやパンクスたちだ。
実験劇場の今回の公演では、ストーリーとは別に、「演劇」について語られていた。
「語られていた」というほどではないが、「演劇 is DEAD」のような口調でだ。
しかし、結局底辺に流れているのは「演劇love」な感覚。
もちろん、この公演が新入生勧誘のための「演劇」の公演だから。
タブー的なものや「アブナイ」的な要素を今様にうまく取り込み、ブラックなエンターテイメントに仕上げていたと思う。
これを見たオトナの人たちが「危ないネタ満載だった」と言ってくれれば、「へへへ」とほくそ笑んでいるのではないだろうか。
戦略的な匂いさえしてしまう。
悪く言えば、アブナさを装ったというイメージだ。
「新歓」という、主たるターゲットが決まっている公演だけに、学生が「危ないなー」とか言い、笑いながら、この企みに共感してくれればいいわけだ。
ストーリー自体は、いくつかの「アブナイ」的なネタをつなぎ合わせたような感覚だった。
しかし、この演劇(公演自体)をデザインしたセンスは見事である。
「演劇」の枠にきれいに収まりつつ、「演劇 is DEAD」の口調で「演劇love」を叫び、共感してくれる者の胸に届けるセンス。
「何をどうすれば観客は面白がってくれるか」を押さえているのではないかと思うからだ。
次もこの演劇デザイン・センスを見せてくれるのならば、是非観たいと思う。
単なる自己コピーで同じデザインだったら、それまでの力量ということなのだが。
なんて思っていたら、次の公演見逃した。