実演鑑賞
満足度★★★
『更地』は太田省吾作品の中でも人気が高く、これまでも複数の演出家が取り上げている。元々太田自身による上演が話題となった作品に挑戦する精神はそれだけで評価に値するが、ルサンチカの本公演はテキストへの誠実さが窺え、名作の新演出という点について考えさせられる作品となっていた。
ネタバレBOX
まず、本作品が上演されたロケーションが優れていた。『更地』の内容と一致するかのように、歴史(舞台は陸軍学校があった場所の跡地である)と日常(周囲を歩く近隣住民が常に目に入る)が入り混じっていたため、本作の舞台背景として優れていた。加えて二人の俳優の演技は、このようなロケーションと同じように、過去と現在を行き来するような、すなわち過去への郷愁と未来への希望を感じさせるようなものだった。自分たちのかつての住居と生活を見ているのか、それともこれから住む場所の未来の像を描いているのか、いずれとも窺える二人の関係性は、太田省吾のテクストの普遍性をも観客に感じさせる、極めて優れたものだったと評価できる。
他方で、その普遍性ばかりが感じられたために、本作の固有性は今ひとつ感じられなかった。ルサンチカのウェブサイトにも書いてあるように、現代において『更地』は、戦争や巨大地震の跡地を連想させる。それはある特定の戦争や地震ではないが、今あるいはより身近な過去のカタストロフも連想させるものであろう。しかし、本作は非常に普遍的、匿名的であったために、「いつか・どこか」のものとして捉えることはできても「今・ここの」ものとして捉えるには、周りの風景にしか頼れなかったと言える。
制作面については、CoRich舞台芸術まつり!2024春の最終選考に選ばれた際の賞金を観客に直接的な形でバックする(しかも「これまでにチケット代を理由に観劇を諦めてしまった方」を対象とする)というアイデアは画期的だったと言える。他方で、戸山公園に入ってからの案内などがほとんどなかったためにかなり迷ってしまったのと、(私が見た時は晴れていたので不自由なかったが)雨天や風の強い日の観劇環境はさぞや厳しいものだっただろうと思われたし、バリアフリーとはおよそ程遠い客席だったことは気になった。
実演鑑賞
満足度★★★★
拠点とする北海道を主題とし、その土地と人の足どりを登場人物とともに観客も辿ることができる、短編ながら重要な意義を持つ意欲作である。
ネタバレBOX
本作の特徴は、二つの世界を描いている点にある。一方は、現在の北海道の森で生活を営む彫刻家をめぐる世界であり、他方は北海道の歴史について学ぶ学生をめぐる世界である。この二つの世界はやがて、戦時中の北海道の一家を描いた漫画を軸に混ざり、劇場全体を巻き込む。
二つの世界を交錯させる手法もさることながら、観客もその世界に引き込む劇作術は見事である。北海道の歴史について不勉強である私でも、学生に感情移入することで、作品が描く国による北海道の搾取の問題を理解することができたし、背景を知りながらその土地に住むということについて思いを馳せることができた。特筆すべき点はその描き方である。アイヌ民族の住む土地を強制的に統合した日本への恨みや責任を糾弾するわけではなく、その土地の背景を知り、知りながらその土地に住むということにフォーカスした本作は、歴史と共に生きていくことへの誠実さと尊さを克明に観客に伝えていた。
ただ、あまりに短時間であったために全体が駆け足であった印象が否めず、また舞台装置や衣装がややファンタジー的造形だったことは作品にとって効果的だったとは思えなかった。さらに、音響が大きすぎて台詞が聞こえない箇所があったことは決定的瑕疵となってしまっていた。
しかし、上記のような欠点があったにせよ本作は良作と言える出来であった。加えて、昨今のヨーロッパを中心に注目されているエコロジーやサステナビリティを意識した演劇作品として、本作を評価することもできるだろう。折角作中でそれらを実践している実在の人物(作中では彫刻家たち)を取り上げているのであれば、公演自体もその試みが見られるとより良いのではないだろうか。
実演鑑賞
満足度★★★
2022年に新型コロナウイルスの影響で中止となったためリベンジ公演となった本作は、風雷紡「よど号」ハイジャック事件を題材にしたスリリングな密室劇である。複数の勢力の利害及び影響関係が、それぞれの視点から取り上げられて見事なドラマへと編み上げられていた。
ネタバレBOX
会場となった小劇場楽園の密閉感は、ハイジャックされた「よど号」の密室感を観客に伝えており、加えて描かれる状況の閉塞感、どうにもならない息苦しさをも感じさせていた。そのような狭い空間で演じられる熱量の高い演技は、緊張感を一層高めていたと評価できる。
実際に起きた出来事を非常に綿密に調査し、一つの群像劇へとまとめた劇作能力には驚かされた。これだけの人数の人物の思想や感情だけでも大変なのに、その人物間の変化まで緻密に描かれていた。そのため観客は本作品を通じて、また劇場を出た後も、「正義」について問い続けることができた。
そのような構造の複雑さに比して、「正義」とそれを脅かす存在の掘り下げ方がやや安直だったことが気になった。国家や法の「正しさ」を問うのであれば、ハイジャックを行った赤軍派が信じる「正しさ」も問う必要がある。だが、彼らの思想や行動については(ストックホルム症候群的に同調してしまうアテンダントが描かれている割には)あまり言及されていなかったように思う。少なくとも、私は彼らが盲信者であり問い直す必要もなく「悪」であるように受け取られた。
また、これは恐らく風雷紡の演技スタイルなのだと思うが、狭い空間に比して演技と声量がやや大きすぎるように感じられた。ひょっとしたらより大きな劇場だったら適切だったかもしれない(しかしその場合は閉塞感を手放さなければならず、悩ましい)。
実演鑑賞
満足度★★★
太宰治の小説『新ハムレット』を舞台化した本作は、小劇場でありながら大掛かりで完成度の高い舞台美術と照明、そして俳優の演技に魅了される作品となっていた。
ネタバレBOX
『新ハムレット』は(小説の冒頭に太宰の言葉で説明されており、それは上演作品の冒頭でも読まれていたが)元々戯曲として描かれたのではなく、しかもシェイクスピアの『ハムレット』とは展開も結末もかなり違っている。したがって、戯曲としてというよりは太宰の小説として楽しむテキストであるが、トレモロはそのことについて明らかに自覚的であった。というのも、俳優は大振りな演技でもって太宰の書いたセリフを演じており、その文体を存分に聞かせるものとなっていたからである。太宰を連想させる人物が舞台上を徘徊していることからも、観客に太宰を常に意識させる造りになっていることは明白である。
特筆すべきは舞台美術と照明、衣装の美しさである。昭和モダンの雰囲気を醸しつつも完全な昭和時代のリアリズムにはせず、ファンタジーとの折衷的世界が展開されていた。こまばアゴラ劇場は決して広い空間ではないが、実際よりもかなり広いように感じられたことから空間演出の秀逸さが窺えた。
他方で、なぜ『新ハムレット』を取り上げたのか、という点についてはわからないままだったのが残念だった。すなわち、『ハムレット』でもなく太宰の他のテキストでもなく、なぜ太宰の『新ハムレット』だったのかを観客に納得させるだけのテーマが見えて来なかったのである。確かに太宰の文体は面白いのだが、それは読んでもわかることである。太宰自体が小説であるという点を強調している以上、この点についての演劇側の解釈や応答はそれなりのものでないと説得力がない。空間演出や俳優の演技が豪華であっただけに、もったいない上演だったと言わざるを得ない。
実演鑑賞
満足度★★★★
正直に告白すると、ブルーエゴナグ『波間』は扱っているテーマからやや警戒していた。自死を扱っていたからである。しかしそれは杞憂に終わり、本作は自死を直接的には描いていなかったし、それどころか、(よくある傾向に反して)自死へ向かうプロセスをドラマチックには描かず、したがって観客が登場人物に安易に同情したり共感したりしない構成になっていた点において、作者への信頼がおけた。
ネタバレBOX
自死は美化していなかったが、作品それ自体はとても美しいものだった。かなり特徴的な空間と言える森下スタジオを、その特徴を活かす形で用いていたのも評価できる。体育館のような空間で、登場人物たちの学校生活をテーマにした作品ということで相性も良かったのだろうが、演出はその場に合わせて変えているというからその臨機応変さが功を奏したのだろう。
「安易に同情したり共感したりしない構成」と前述したが、本作は登場人物の過去と夢の景色が混在しており、物語内容を把握することがやや難しくなっている。だがそれは観客の思考も茫洋としていくのを楽しめるような構成だった。別の言い方をすれば、見る人をやや選ぶ造りであろう。そのような作品を見慣れている人からすれば楽しめるのだが、ドラマ的な造りに慣れている人からすればややストレスに感じることもあるのではないだろうか。
演出や照明、音響は非常に美しかったのだが難点があったとすれば、機材が古いのか、スモークが焚かれた瞬間に喉と鼻がやられたことである。恐らく制作サイドもそれを把握しており、各座席にマスクと飴が置かれていたが、それらを用いても防ぎ切れない程だったのには閉口した。
実演鑑賞
満足度★★★★★
コトリ会議は書類選考の段階で期待値が非常に高かった。作品単体もさることながら企画のコンセプトに惹かれたのも大きい。会場となる扇町ミュージアムキューブを終日開放し、観客は好きなだけいることができるというアイデアは、「劇場」という場の本来のあり方、すなわち広場的役割を果たそうとしている。結果としてその期待値を裏切らなかったと評価できる。
ネタバレBOX
『雨降りのヌエ』はオムニバス作品群であり、全5作品の中から2作品ずつの上演が、期間中の日に2回ある。対象となった作品は「第夜話:縫いの鼎」で、離婚届を出そうとする夫婦を、死んだはずの兄が、離婚届に「クマさんハンコ」を押すことで妨害する話である。話の内容から分かるように、深刻な雰囲気が笑いへと転換されるユーモアの技術は秀逸である。短編でありながら不条理劇さえ想起させる。そのユーモアは俳優3人に共通しているが、特に「死んだ兄」役の若旦那家康の存在感は抜きん出ている。直前まで前説を和やかに行っていた彼が、突然「死んだ兄」としてそこにおり、無表情なのに、いや無表情だからこそ、やっていることのくだらなさが際立つ。
感想を書いてボードに貼れる付箋が当日パンフレットと共に配られたり、壁にかけてあるコンセプトボード(絵画)が日ごと増えたりというアイデアは、劇場がただ上演作品を見るだけの場所ではないことを観客に思い出させる。私はどうしても時間が取れず、開演直前に着いて終演直後に東京に蜻蛉返りせざるを得なかったのだが、スケジュールをキャンセルしてもその場に残ろうかと思ったぐらい居心地が良かった。
小規模でありながら劇場本来のあり方を模索する、深刻な状況でも笑える…そのような二重性を感じさせるコトリ会議の構成力と制作力は、アイデア落ちではなく、どこまでも観客思いの温かいものだった。
実演鑑賞
満足度★★★
ながめくらしつの作品を拝見するのは初めてであり、ジャグリングと音楽をメインとするパフォーマンス集団と聞き、また過去作品の映像も見ていたことから、元々期待値は高かった。作品における技術面でのクオリティは、その期待を決して裏切ることはなかった。
ネタバレBOX
「他者への関心」をテーマとする本作では、各人が他の出演者と、ダンスやジャグリングを通して距離を縮めたり広げたりする様が描かれた。それが時に暴力的になったり、慈しみを感じさせたりする表現力からは、技術力の高さだけではなく各パフォーマーの演技力と協調性の高さも窺えた。
特筆したいのは照明と音楽の美しさである。観客との距離が近い劇場でのパフォーマンスは、しばしば観客に閉塞感も感じさせがちであるが、照明は劇場を本来よりも広くかつ幻想的なものに感じさせており、そこに加わるイーガルによる音楽も、それだけでパフォーマンスとして成立する程に観客を惹き込むものであった。
総じて技術力の高い上演であったが、(むしろ各人の技術力の高さゆえか)全体としてまとまりがあったとは言い難い。テーマとなる「他者への関心」についても、深掘りできていたとは言えず、観客の方が寄り添ってようやくテーマが見えてくるものとなっていたと言わざるを得ない。コロナを経て他者という主題について観客もより敏感になっているため、その点についてはより深める必要があっただろう。
したがって、技術力の高さと比較して、作品としてのまとまりに欠ける散漫な印象を受ける公演となっていた。
実演鑑賞
満足度★★★
カリンカ『エアスイミング』は、女性が社会的に囚われている「規範」の窮屈さ、それによる抑圧を見事に具現化した作品になっていた。
ネタバレBOX
シャーロット・ジョーンズによる『エアスイミング』は、1920年代のイギリスを舞台に、「精神異常」という烙印を押された女性2人が、病棟で夢を見ながら生きていく話である。2人が互いをケアしながら、傍目から見れば絶望のどん底で夢を見る様は可憐である。小口ふみかと橘花梨による熱量の高い演技は、最初はお互いに警戒していたがやがて強い絆で結ばれていくシスターフッドを見事に表現していた。
堀越涼による演出は、2人が囚われている病院そしてそれが象徴する堅牢な社会的規範の狭さを観客にも感じさせるものだった。劇場となった小劇場楽園ともよく調和しており、殺風景な病院の浴室が幻想的な夢の世界へと変化する様は見事だった。
他方で、テキストに見られる解放感が今ひとつ感じられなかったのは残念だった。狭い空間でそれを描くのは至難の業であるが、本作品はそれがなくては片手落ちになってしまう。また、夢の世界を本当にただの妄想とするのか、それとも潜在的な未来の姿とするのか、解釈が分かれるところではあるが、そのいずれであるのかを観客にもっとわかりやすく伝えても良かったのではないだろうか。
男女格差や女性の抑圧が問題となっている現代日本社会において『エアスイミング』を取り上げたという点において、その問題意識の持ち方や社会に対する感度の高さが評価に値する。他方で、その問題やテキストの掘り下げはやや不満が残るものとなり、惜しい作品となっていたと言わざるを得ない。
実演鑑賞
満足度★
「演劇」や「上演」、およびそれらに対する観客の一般認識を覆す(あるいは少なくとも問題化する)であろうことが期待された本作だが、残念ながら独りよがりの印象が強い作品だったと言わざるを得ない。
ネタバレBOX
本作は二部構成だったが、そのいずれもが筆者には響かなかった。というのも、ほとんど行っていることの違いがわからなかったからである。第一部「共有するビヘイビア」では俳優・古賀友樹が客席に向かって一人語りを行い、第二部「また会いましょう」では渚まな美と西井裕美がそれぞれ話しているのだが、それが会話に聞こえたり聞こえなかったりする。発話のアドレスが客席かそうでないかという違いはあるものの、どちらも観客がいなくてもあまり変わりがなさそうであるという点において演劇的な面白みを欠いていた。
いずれも、演劇的発話の特異性を炙り出せそうな可能性は感じられた。例えば、会話になりそうでならない渚と西井のやりとりは観客の想像力を刺激し、両者が街中で出会っていたりそうでなかったりする情景を想像の中で遊ぶことはできるかもしれない。しかし、そこまでの想像意欲が掻き立てられなかった。
演劇や俳優の存在、舞台上での発話行為、現代におけるリアリズムなどを遊戯している(と類推される)という点において本企画は挑戦的であり特異だと言える。その着想は評価に値するものの、その先の議論へ展開されないことにフラストレーションを感じる。演劇に対してメタシアトリカルあるいはパラフィクション的な試みは時折刺激的だが、その試みの本質すなわち問題の核が見えないことには始まらない。残念ながら筆者にはそれが伝わってこなかった。
実演鑑賞
満足度★★★★
テーマ設定、問題提起の手法、劇場(会場)設定および運営、劇作術等において総合的にエンタメとして高く評価できる作品である。
ネタバレBOX
討論劇は演劇史上最も古い形式の一つと言え、したがってその内容と展開には目新しさが要求される。本作は「令和の時代に帯刀があったら」というIF設定がユーモラスであり、同時にそれが現代社会を鋭く反映、批評するものであったという点において、発想力と洞察力の高さが伺える。
制作・運営の手捌きは流石と唸るものがあった。世界観を崩さないよう設定に忠実であったスタッフの存在感、滞りなく投票システムが稼働するように動いていたのも見事だった。この投票システムはやはりエンタメとして面白かったし、演劇作品および政治活動への「参加」の重要性・責任を感じさせるものとなっていたが、それによって変化を付けた結末に大きく差がないのがやや気になった(もちろん劇作上やむを得ないことではあるのでないものねだりに近いとは自覚しているが)。
また、登壇者とそれを演じる俳優のバリエーションも楽しかった。恐らく実際にこのような場になったら呼ばれるだろうと思われるような人物(例えば元議員・上林美貴や「るろうに先生」と名乗る元刀剣傷害事件の加害者・吉光裕之など)から、恐らく行政はこのような人物を呼ばないのではと思われる人物(鎖鎌を推奨するYouTuber・高橋俊輔など)まで幅広い。彼らの主張は当然予想されるものから、鋭いもの、さらには突拍子もないものまで多様であり、それらが並置されているという意味で昨今のSNSやメディア上での議論を連想させた。俳優たちの演技は、その立場の「代表」という意味でも「再現」という意味でもrepresentationとして優れており、ややステレオタイプ的ではあるものの好感を持てる人物が多かった。
他方で、社会問題を取り上げるものとしてはより掘り下げるべきだった点がいくつかあったのはもったいなかった。例えば、必然的に観客の多くはアメリカにおける銃の所持についての議論を連想すると推測されるが、そこで展開されているような議論(例えば犯罪率の高さや自衛の権利、企業と行政の癒着、自由についての議論など)はあまり出ていない。
もちろん、社会問題に対する議論への鋭い指摘も散見される。例えば、司会であるはずの宮入智子が自らの立場を捨て、当事者として被害を訴えた際に、小説家・広木由一が「当事者の言葉が非当事者よりも優位にあるわけではない」という指摘は、昨今白熱しがちなメディアでの議論に必要な冷や水であろう。ただ、エンタメ性に全体が従事しているために、もう少し踏み込むべきだった点もあっただろうと思われる。
総括すると、ユーモアとシリアスが織り込まれた優れたエンタメ作品であり高い満足度を得ることができたと言える。社会派エンタメとしては、より現実社会を反映させるスリリングさが求められるだろう。
実演鑑賞
満足度★★★★
演劇的仕掛けとユーモアがふんだんに織り込まれた愛すべき作品である。劇作家、演出、俳優、美術等において総合的にその技術が高く評価できる。
ネタバレBOX
元ネタとなっているのは上方落語『地獄八景亡者戯』である。その残された妻の側を中心とし、彼女の複数の旅が重なって描かれている。俳優の演技力が高く、情景描写に長けているために観客も共に彼女の記憶/体験の旅に出ることができる。本作はコロナ禍に描かれたということもあり、好感が持てた。
何より本作で優れていたのは、戯曲における記憶/体験/想像のレイヤーの織り重ね方である。いないはずの夫・龍之介とユリのドライブからヒッチハイカー・山本ユカリをピックアップしてそのまま行ってしまう旅行、龍之介とユリの新婚旅行、ユリと母親の旅行が複層的・連続的に描かれると同時に、そこに龍之介の死者の旅路や彼の葬儀のシーン、死んだ母親との会話などが挟まれる。それらは想像/現実の区別が明瞭に付けられないまま、他の次元に緩やかに干渉しており、付かず離れずの距離感が心地よい。
死を描く際の軽やかさに対しても好感を持った。バランスよく散らばったコミカルなシーンのせいもあり、全体を通じてノリの軽さが特徴となっているが、それとの対比により、既に死んでいる母親と夫に対するユリの寂寞とした思いが伝わってくる。重苦しくならないからこそ、それが一層切なくもあった。
シンプルだが具体的な舞台美術・小道具と演技によって、描かれる旅は観客の想像力をともなったリアルなものとして劇場に立ち上がっていた。他のメディアではできない、演劇ならではの魅力が発揮されていたと言えるだろう。
実演鑑賞
満足度★
実際に起きた事件をモデルに取り上げ、その背景となる社会問題を炙り出す、真摯な姿勢が伺えた作品である。同時に、その挑戦の困難さが課題となってしまっていた。
ネタバレBOX
まず、実際に起きた事件を取り上げ参考資料を詳細に検証し作成するという、正面から向かい合う姿勢は真摯であったことは評価できるだろう。いじめ、DVとその連鎖、母子家庭の貧困など、現代社会において喫緊の課題となっているいくつかのテーマが複雑に絡み合っており、起きてしまった事件をその複雑な背景を含め断罪することの困難さはよく伝わってきた。
他方で、被害者の取り扱いにやや問題が見られる。シングルマザーの藤井あかりは2件の殺人事件を起こしている(とされる)。今回焦点が当てられるのは彼女の娘の殺害についてであり、その後起きた娘の同級生の殺害については、藤井の挙動不審さを際立たせるためのエピソードとしてしか取り上げられない。加害者の挙動は社会と家庭における複数の問題に根ざすものであるとする本作は、その2件目の被害者に「寄り添う」ものとなっているとは言い難い。作中で実際に、加害者擁護とならないよう、被害者のことを常に最優先で考えるよう、という指示が、主人公である記者の能瀬美音に対して言われているだけに、本作自体がそれを達成できていたかは疑問だと言わざるを得ない。もしも「橋の上で」の出来事が作品の最後で描かれるようなものであるならば、2件目の殺人はいかに解釈されるのか。その点が看過されたまま終わってしまっただけに、中途半端かつ説得力のある結論だったとは言い難い。
また、本作が演劇である必要性が今ひとつ伝わってこなかったのも残念だった。モデルとなった事件についての記事や文献等を当たってみたが、それらを読むのと本作を見るのとでは実は印象が変わらない。また、白い箱が新聞社のデスクになったり橋の欄干になったりするのは演劇的だったが、よく見る舞台装置であるし、むしろ登場人物が多いシーン(例えば冒頭の、新聞社で記者全員が議論するシーンなど)では箱が邪魔に感じられた。俳優たちの演技はリアリズムに則ったものであるため、むしろ映像向きのテーマと構成だったのではないかと思われる。
重ねて言うが、作品が事件を軽んじているわけではないし、その姿勢は終始真面目であった。俳優の演技は観客に訴えるものがあったし、だからこそ見ているのがつらいシーンもあった(DVやいじめ等についてはトリガーワーニングがあった方が良いだろう)。それだけに、本作の足りない点が目立ってしまったのがもったいなかった。
実演鑑賞
満足度★★
完成度の高い作品だった。独自の世界観が確立されており、ユニークな設定やストーリー展開はアングラ演劇とキャラメル・ボックスを足して割ったような印象を受けた。
ネタバレBOX
舞台美術、衣装、照明が美しく、劇的世界の立ち上がりに大きく貢献している。他方で、音楽それ自体は美しいのだが、俳優の歌唱力にバラつきが認められたのが惜しかった。コインロッカーベイビーが死者の成仏を行うという着想はこれまでにないユニークさがあり、会話のテンポが心地よい。ただ、物語の展開という意味ではやや凡庸であり、
他方で、コインロッカーベイビーを取り上げていながらそれはモチーフに留まっており、社会問題にまで掘り下げていない点がもったいなく感じられる。
実演鑑賞
満足度★
実は当該団体のコンセプトを読み、「不条理の笑い」という言葉に惹かれて期待していたのだが、非常に残念ながらあまり笑えなかったというのが正直な感想である。
ネタバレBOX
災害や死というテーマが作品の転換点に据えられているせいもあるだろう。類似のテーマで突き抜けた不条理的笑いを提供できている作品が(当該団体自身がその名を挙げている別役実を筆頭に)演劇史上に既に存在しているため、新たなアプローチが期待されたが、残念ながら斬新さも馴染み深さもなく、驚きと共感において中途半端になってしまっていたと言わざるを得ない。テーマと手法に対してやや雑な印象を持ってしまった。
また、俳優の演技にばらつきがあることも気になった。演技の質に統一感がなく、しかもそのばらつきに何か意味があるわけではなさそうなので、せめて声の大きさなど基本的な点においてはもう少し揃えられた方が良かったのではないだろうか。
脱力感の伴うやり取りや、詩情に躊躇いを感じる台詞などは特徴的であり、確かに笑いどころと思われる部分は散見されたが、今ひとつ笑うことができなかったのが悔しかった。
実演鑑賞
満足度★★
「きく」ことを複数の切り口で描く意欲作である。メディアが発達した現代において、真に「きく」とはどういうことかを考えさせられた。
ネタバレBOX
全体を通じるコンセプトが冒頭から明示されてしまっているが故に、「きく」ことに対する掘り下げが今ひとつ甘く感じられる。多くの「きく」にまつわるシークエンスが展開され、「きく」を遊戯し、観客にとっても「きく」とは何かを一緒に考えるように誘うが、それに留まるのがもったいないと同時にやや押し付けがましくも感じられる。
最終的に「きくとは何か?」を問う段階で終わってしまい、それを問うこと自体についての意義や批評的考察は作中にも見出すことができず、また同時に観客の側に喚起もされない。提起されている問いが現代において重要だと日々実感しているからこそ、その問いについての新たな何か(意義や考察、切り口など)が欲しかった。
全体として困難な作品になってしまっていたが、それでもあまり退屈せずに見ていられたのは、シークエンスの展開の速さと散見されたユーモアが刺激となっていたからだろう。俳優のシークエンスごとの切り替えの速さと、それぞれで独特の存在感はそれに大きく寄与していた。今後の作品ではそれらをより生かすことが期待される。
実演鑑賞
満足度★★
まず、唐十郎の戯曲作品を取り上げるという挑戦的な姿勢を評価したい。アングラの強烈な身体性と世界観に引きずられないようにしながら、自分たちの作品を構築するのは非常に困難であることがあらかじめ容易に推測される。それでもそれに挑戦するというのは、彼の作品の今後の展開を考える上でも重要な姿勢である。
ネタバレBOX
他方で、結果としてやはり困難な挑戦だったと言わざるを得ない。独特の劇場空間は戯曲の世界観と一致しており、存在感と異物感の強いクセが魅力となっている俳優たちが果敢に挑戦していたが、ゲッコーパレードの独自性が十分に発揮できていたとはいまひとつ言えないだろう。
劇場空間の活かし方にも課題が見られた。そこが地下トンネルには見えても、観客がひしめく華やかな劇場の舞台や満州の病院が浮かんで来ない。身体の動きに窮屈さが感じられた。
だが、課題が明白であるだけに次回以降には期待が持てる。「劇場」シリーズは始まったばかりということなので、今後の活動も注目したい。
実演鑑賞
満足度★★★
観客を惹きつける公演だった。まず出演者が楽しんでいることが伝わり、加えて観客もそれに巻き込まれていたことが大きい。上演を通じて劇場が温まっており、afterimageの常連と思われる観客たちに愛されていることがよくわかる。私は不勉強ながら落語に明るくないが、それでも落語の噺家たちに必要なことの一つにはまず観客に愛されることだというのはわかる。その点で、本公演はある意味成功していたとも言えるだろう。どのダンサー/噺家も魅力的だった。
ネタバレBOX
ただ、ダンスと落語を融合させるという点においてはやはり難しかったのだろう。ダンスの身体性と落語のそれを、ないし落語における話法技術とダンスにおけるそれを、並置させてはいたかもしれないが融合させることはできていなかったのではないだろうか。これならばダンスだけを見るか、落語だけを見るかのいずれかの方がもっと楽しめたのではと思わざるを得ない。ダンスだけのafterimageも見なければと思わされたという意味では、次回公演に期待させられた。
実演鑑賞
満足度★★
無名劇団はその劇団の意図をまず評価すべきだろう。西成という地区で自分たちで劇場を立ち上げ、その地元に根差した文化芸術を育むという目的は、将来的展望が見込まれる意義深いものである。
ネタバレBOX
他方で、今回上演されたのは過去に受賞した作品であり、その活動意図からはやや外れたものであった。あるいは、そもそも観客を呼び込むという目的があったのかもしれないが、折角ならばその活動すなわち地域に根ざした作品を応募した方が良かったかもしれず、惜しかった。
作品自体はその戯曲が既に高く評価されていたこともあり、また出演者たちが魅力的であったことからも好感を持てた。ただ、やはり劇場の大きさと作品の規模が合っていないのではと思わざるを得ず、俳優たちのダイナミックな動きがやや制限されている感もあり(なにしろ動きまくるのだ、それがコミカルでもあるのだが)、アメリカの広大な土地を想像するのはなかなか難しかった。
実演鑑賞
満足度★★★
テキストと空間の立ち上げ方に巧緻さが光る、ホエイの代表作となり得る一作。
ネタバレBOX
姑による嫁に対する「いびり」とその結果の嫁の押し入れへの引きこもりが表出する家庭内の歪みを、時にコミカルに時に不条理に描く。温かい言葉はほとんどなく、互いに対する不寛容だけが込められているが、津軽弁のリズミカルなやりとりによって本来そこにある陰湿さがなくなっている。テキストは「嫁いびり」を通り越して家庭内暴力にまで展開する粘着と苛烈さを、しかしそれらを感じさせずにエンタメとして展開しており、山田百治のバランス感覚に脱帽した。
そのバランスは俳優の演技にも見て取れる。山田が演じる老婆、中田麦平が演じる小学生男子は、もうほとんど本人であり老婆や小学生に見えるかというと怪しいのだが、それゆえに滑稽さと嫌悪感を抱かせるのに十分な効果がある。特に印象に残ったのは成田沙織の演じる小姑である。嫁や自分の娘に寄り添うように見せながら実は誰よりも自分本位である、その図々しい様を見事に演じ切っていた。
嫁が引きこもっていた押し入れがやがて姑が寝たきりになるベッドとなる構造は見事であり、また単なる復讐劇にしない結末は観客に思考の余韻を与える。他方で、テーマとなるその押入れの「ふすま」を最後まで見たかったという欲望もなくはない。また、コミカルに振ったためか、いまひとつ感情的に動かされる部分が少なかったのは(恐らく意図的だろうが)やや物足りなさを感じた。とはいえ、テキストと空間の構成、演出の合致は見事であり、本作はホエイの代表作となり得るだろう。
実演鑑賞
満足度★★★★
沖縄を描いた歴史的古典作品になるべき秀作である。
ネタバレBOX
作品単体ではなくその周囲の環境も観劇体験に含むとすれば、本作は他にないベストな状態で観劇できたと言えるだろう。那覇文化芸術劇場なはーとが、沖縄の本土復帰50周年に合わせて企画した「沖縄・復帰50年現代演劇集inなはーと」の一部であり、会場前に立てられたパネルには各劇団および作品のテーマとなる出来事の背景説明が書かれていた。これにより、不勉強にして沖縄についての知識をほぼ持ち合わせていなかった關のような観客でも、作品が取り上げる問題を事前に手軽に学習できる機会となっていた。
作品自体も予想を上回って優れたものであった。単純な社会派ドラマにせず、劇中劇の構造にストーリーを組み込むことにより、沖縄の抱える問題の複層性を明示していた。それぞれ立場の異なる群像劇ではあるが、個人の問題として散逸化するのではなく、あくまで沖縄であるがゆえに抱える「迷い」に焦点を当てられていたことも高評価に繋がった。登場人物はややステレオタイプに依っていたものの、宇座仁一氏をはじめ粒揃いの魅力的な俳優たちがストーリーを膨らましている。東京から来た身として、<うちなーぐち>でのやりとりが聞け、(簡略的なものであったとしても)組踊の一部が見られたのも楽しい経験だった。
せっかく劇中劇であるのに劇的現実と劇中劇との差があまりないことや、効果が不明の演出(作品の最初と最後にあった謎の照明転換や宙に浮いた窓枠の存在)などが散見され、また作品全体を通じてどうしても「勉強会」感が拭えない印象もあった。しかし、俳優たちが描く、もがきながら迷い続ける沖縄の人々の様は胸を打ったし、歴史的な出来事をフィクション作品のテーマとする際の姿勢が非常に誠実であると感じられた。
聞いたところ、俳優たちは一般企業の社員や公務員として就職しながらプロフェッショナルな俳優としても活動しているらしい。働きながら俳優業を行える環境は、継続的創作の基盤となるため、学ぶべきところが多い理想的なものだろう。そのような環境を整えられていることも評価に含まれた。
「沖縄」であることがあまりに強固に出た観劇体験だったため、作品単体と環境を切り分けることは困難だった。そもそも周囲の環境と上演はいかに関係し、また分けられるだろうか。他方で、演劇が現実に対して掲げる鏡であるとするならば、本作は間違いなくその姿を明確に打ち出しており、その点において高く評価できるだろう。今後も定期的に上演を重ねていって欲しい作品である。