『楽屋―流れ去るものはやがてなつかしき―』
ビニヰルテアタア
浅草橋ルーサイトギャラリー(東京都)
2016/09/27 (火) ~ 2016/10/01 (土)公演終了
満足度★★★★★
幸福な時間
「楽屋」フェスでの楽屋三昧の日々も早遠い記憶の今。
場所は浅草橋ルーサイトギャラリーという、昭和な木造二階建の二階の一室。玄関で受付を済ませ、奥へと案内され、家の中程の急こう配の階段をギシギシ昇り、突き当たりを左に折れた部屋をみれば、夜光に照り映える隅田川の対岸を臨むガラス窓が川側全面に。部屋の入口が唯一の出はけ口となり、衣裳道具や雑多な物が置かれた窓側が、「楽屋」の舞台である。
近藤結宥花の名が目に入って一も二もなく観劇を決めた。新宿梁山泊の『唐版風の又三郎』以来。健在だった。
優美な音楽を使い、取る間合いはたっぷり取って、1時間20分。(楽屋フェスでは50~60分が通常だった)
戯曲と役者の魅力を細部にわたって味わった。
青
ツチプロ
OFF OFFシアター(東京都)
2016/09/21 (水) ~ 2016/10/02 (日)公演終了
満足度★★★★
正義の顔。
『青 Chong』という在日を描いた在日監督による映画の原作か‥?と一瞬思ったが別物だった。がテーマは排外主義、異民族との共存。
このユニット及び夏井氏戯曲作品、ともに初。出来る役者を起用してやった舞台、にしては悪くない役者の佇まいだった。「その芝居」を成立させるだけなら不要かもしれない有機的な繋がり、そこから立ち上る匂いが劇空間に(体内に万単位で居るという雑菌のように)存在するかどうか、私にとっては評価を分かつ要素だったりする。
千葉哲也演出は3作目で、千葉哲也が登場しているような、くたびれた背広にやさぐれ心の主人公に仮託した「男臭さ」の世界が味だと(過去見たもの含め)、思った。
戯曲、話の運びはうまい。二人の男の出会いから「運動体」を立ち上げる流れは、それに乗じて憤懣を吐き出す者らと、彼ら自身の資質が少し異なっていた事も自然に見せ、「行き違い」の悲劇を成立させる所以となっている。
ヘイトが武闘派を生んで過激化する想定の近未来は、今と紙一重だが若干風向きが異なっている「現在」だから、2016年の話として改稿すべきでなかったかと思う。「警鐘」とみるなら時期が違っている内容に思えた。
だが感動的な場面がある。右翼にしてはリベラル感性な主人公、そして本音のやり取りを経たにせよその場で転向するもう一方の元々あったと疑念を抱かせるリベラル感性は、やや現実離れしているものの、そこで勇気ある転進、命がけで暴徒を止めるという決意を彼らにさせる。その彼らを見据える女(メンバー)の顔がいい。
うつくしい世界
こゆび侍
駅前劇場(東京都)
2016/09/21 (水) ~ 2016/09/25 (日)公演終了
満足度★★★★
恐ろしげな世界
汚染された世界では「きれいな空気」が生命線。酸素は植物が生成するが、汚れをろ過したきれいな空気を作るのは薔薇だけ。もっともこの「薔薇」、植物ではなく人間の中でごくたまに生まれる、「ほめられると膨らむ」種類を指す。彼は耳を心地よくする言葉を聴くことできれいな空気を吐き出し、人を助ける。ただし、この社会ではこの空気は支配者の独占である。というか、空気を独占することで支配者となっている。最初の場面は、「薔薇」と思しい赤子が生まれたことに夫が気付き、その事を察知したらしい産科医を殺す(裏手の銃声でその事がほのめかされる)。時が経ち、その夫はやがて、狂気の支配者に使われる「官吏」となっており、薔薇の管理を任されている。支配者の片腕の大男が恐ろしげで、恐怖政治の実際の手先となって能動的に人々を威嚇する事に喜びを覚えているようである。
太陽もまともに当たらない世界、照明も茶色くくすんで人々は貧しく、世知辛く生きる。ここに善良で心のきれいな主人公の娘がいる。病気の妹がいて、仲良くくらしている。配給の空気を入れるタンクを交換してくれと言われ交換すると、穴が開いていて、困ったと妹に相談する。そんなあたりから、官吏の息子(実は薔薇だが素性を隠している)と、娘が出くわし、最初は険悪だが次第に心を通じ合わせ、精神的な愛を育む関係になる。だが娘の能天気さがアダとなり、官吏の息子が薔薇である事が支配者に知れてしまう。旧「薔薇」は次第に空気を作らなくなってしまっていた。
そんなこんなで、恐ろしげな世界の物語は綴られて行くが、ここに(我らが桟敷童子の)大手忍演じるこじきが登場してくる。これはまともに喋らず(喋れず)、いつも殺された死体があればどこかへ運んで行き、通りかかると人々から「臭い」と言って顔を背けられる。この「こじき」の独自の価値尺度や生活様式、哲学は無言の行動で表現される。万事行き詰まったときの「救い」が全身薄汚れた乞食によってもたらされる・・ファンタジーな場面は中々美しかった。喋れず、声だけの演技がよい。さすが我らが・・・
惜しむべくは物語をもっと緻密に、不具合を修正できるのではないかと思う。最後は「二人の愛の物語」的なまとめになっていたが、「汚れた世界」を生き抜く同士として、べたべたせず、同じ方向を向いていれば良いのではないか。向き合って愛してる、だの言った瞬間に空しくなる・・というのは愛を感情、心情として捉える限り、それは「自分」に属するものでしかないという難題に現われるからであり、「汚れた世界」を生き抜いてきた娘にその事を知らないなんて事はない、そう思えてならない。
舞台に出現せしめた汚れた世界の色合いは良かった。
贖い
地平線
アトリエ春風舎(東京都)
2016/09/22 (木) ~ 2016/09/25 (日)公演終了
満足度★★★★
新国立劇場研修所修了生の力量は。
見覚えのある二人。研修生公演を見始めたのは4,5年前か・・・洋物芝居でとっつきにくく、「無理してる」印象が否めなかった中、初めて顔のよく見えた「親の顔が見たい」(第8期)以来、俳優に親近感を覚えるようになった。その「親の顔」(何とあれは試演会)で中心的な役割だった坂川慶成、そして第9期の高橋美帆による二人芝居だ。(チラシデザインは8期で俳優としても目立っていた荒巻まりの)
この新国立男女のまだ若き二人による芝居は、「淋しげな背中」の溶暗から、食い食いの激しい台詞の応酬に始まり、徐々に徐々に、「ある事(人)」をめぐる真相を浮かび上がらせて行く、ミステリー仕立ての会話劇。
互いによく知る間柄だから成り立つ、相手の数手先を読む台詞、話題の飛び具合が「ミステリー」的である事を可能にしているが、「後出し」に過ぎる感が否めない部分もある。
話を迂回させつつ、観客が真相を知るまでの時間を先延ばしにする工夫はうまいが、現われた(はずの)真相である「全体像」は意外でもなく、持って回って説明されるようなことでもなく・・・という印象だ。
まだ二十代前半の二人、とは後で判ったが、とてもそうは見えない貫禄は修練の賜物と言えるかも、であるが、中盤から若さが露呈し、芝居のテンションを維持するのが精一杯、それでもよくやっている、のだろうけれど、役のあり方、演技として的確かどうかとなると厳しい。
男性の方は(性格・立ち位置として奔放である事が自然なキャラという事もあって?)「出方」にバリエーションがあって弛ませないが、女性のアプローチはせいぜい3つ位、それを使い回すのが精一杯に見えた。感情的になる。がそれを鎮めて、敢えて言葉を相手に投げる義務を負っていることへの倦み=ため息混じりの台詞、と来る。西欧だから「言葉」はどうしたって省略できないので、あの(洋物によくある)息混じりの喋りが出てしまってもある必然は無くはないのだろうけれど、「人物」になりきれていない、ゆえの「目くらまし」演技、意表をつく出方、これを二人ともやっている。終盤はこればかりに思えて仕方なかった。
問題は二人がどういう関係なのか・・・最初、夫婦に見え、その共通の親しい人の名が出て、彼が死んだ事がだんだんと判る。息子?と思いながら見ていると、それにしては一方が淡白すぎ、中盤も中盤に来てやっとそれが、男の「兄」だとわかる。そして女は彼と結婚していた女性だった。
兄は音楽家で、単なる偶然によって、衝動的な殺人の犠牲者となる。加害者は所謂マイノリティ、異国人であり、男はそうした者たちへの(恵まれた白人としての)負い目を抱いており、その事は起こるべくして起こったと理解していることがわかる。貧困の子供たちへの支援活動もしている。そんな彼を女は受け入れがたいが、理解は示す。が、男のその行動、選択は自分の全てへの恨みに発していて、実は「正義」ゆえの行動ではなく己の負の要素に負の刻印を押すための行動に過ぎない(かなり意訳すればそんな具合)、と断じる。女は女で、結婚生活に敗れて5年前に出て行った事の負い目を持ちながらも、いつか帰る場所だと考えていたのに、訃報を聞いて帰ってみれば自分にまつわる何もかもが消えてしまっている(夫の生活から削り取られていた)事に愕然とした事を弟に伝える。行き詰まった彼女は戻ってくることを考えていた、という。
さて、「問題にしている人間」を作者が中盤まで伏せた理由は、恐らく、出会っている二人が兄の(元?)妻と義理の弟である設定から、考えつくのは道ならぬ恋。だから伏せに伏せて、その間に「彼」との関係から派生する様々な「問題」のほうを話題にし、掘り下げさせた。
でもって、最終的に、二人は女がそこを去る前、電撃が走るような感覚に任せて肌を重ね、求め合ったことが語られる。女はそれで去ったのだと判る。男はその事実に触れまいとしてストイックな話題に固執していたらしい推測に導かれる。「兄」の死は9・11についてのある解釈と同様、ある恒常的な不正を放置し見ぬふりを続けてきたことのツケなのだ、と解釈し得る問題からすれば、そのような高邁な「正論」をいかに語ろうが、情欲の前に人間はひれ伏すしかない、脆弱さというものに繋がるのだろうか。。
いずれにしても、このオチが付け足しでなく、作者の最初の狙いなのだとしたら、芝居の作りは随分違ったものにせねばならなくなるのでは。
冒頭から激しく続けられたやり取りは、全て、二人の間の精神的障壁を取り除くための、前戯であった、のに違いない。そうして「変わりえない世界」の片隅で、叶わなかった愛の代償であり今や不要となった「正論」を手放し、その手で「自由となった」女を抱き締め、現実に埋没して行く・・。そんなのが正解かナ・・などと想像した。
芝居を離れるが、3年という期間を演劇修練に費やした修了生が、演劇界で活躍して行くことは喜ばしい。官製の演劇教育、などと揶揄する向きがあったりするのかどうか知らないが、私は応援したい。
郡上の立百姓
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋ホール(東京都)
2016/09/17 (土) ~ 2016/09/25 (日)公演終了
満足度★★★★
現代に突き刺さる。
こばやしひろしという人の何十年か前の戯曲だそうだ。原稿用紙が筆圧でガリガリ鳴っていただろうと想像される、力強い、物凄い作品である。群像劇だが、個人をしっかり書いている。
藤井ごう演出のテンポ良さ、見せ方のうまさもある。
ガリガリ、カリカリ、ガリガリ、カリカリ。
惜しむらくは客席の年齢層が。
ガリガリ、カリカリ・・・・
怪獣の教え
パルコ・プロデュース
Zeppブルーシアター六本木(東京都)
2016/09/21 (水) ~ 2016/09/25 (日)公演終了
満足度★★★★
音楽ライブに近い「浸る」感覚、その上にドラマが乗っかり、スクリーン一杯の映像が補強しつつ幻惑する
こたびも予習無しで観劇(・・にしてはそれなりの観劇料だが)。謳い文句の新「感覚」体験を期待して、衝動買いした。
二度目のブルーシアター、客層はややハイソな印象。開演5分前到着したが入場口にはまだチケット所持者でない長い列が出来ている。予定を10分過ぎた19:10にアナウンス「・・張り切ってどうぞ!」(板尾創路)。が、前方の席がまだガラ空きである。すでに正面には幅広のスクリーンに太陽灼けつく大海原の映像が映し出され、波音にたゆたう開演前の時間がそれを合図に終わると、舞台中央ツラに置かれた「装置」の裏に男が立ち、波音の間に地底からの呻りのような音が混じり出す。よく見るとそれは「装置」にセットされたジデュリドゥ(オーストラリア先住民の木管楽器)で、照明の変化により、彼はそれを吹き出したのだと判る。音が次第に激しくなり、波は高鳴り、映像が狂おしく同期する。この長い演奏のかん、空いた席が一組、二組と着実に埋まって行き、照明がフェイドアウトし始めた時最後の一人が仲間に手を振って通路側に登場、客をかき分け席を目指し、闇となる寸前に席に尻を埋め、空席が無くなった。測ったかのような始まり。
「期待」は裏切らなかった。ただし、「演劇」としての不足感は残る。もっとも、物語の方向性には共鳴できた。「汚れきった日本」「生きるに価しない場所」・・ディストピアをそこに浸る場所でなく「抜け出すべき場所」との明確な認識が物語の前提になっている、と感じた。
スクリーンの幕の裏では、TWIN TAILによる生演奏。迫力ある映像が必然にする「迫力ある音」に、随伴しながらタイトなドラムとギター+αが鳴り、舞台に一貫した色彩を与えている。
主人公の青年・天作が吐く告白じみた台詞によって大状況な物語が首をもたげ、詩劇的高まりをみせると、次第に激しくやがて壮絶な(という形容詞が似合う)ドラムワークが鳴り響く。耳、そして目は大海原や「夢」が作り出した不気味な風景に釘付け(それを観に来ているのだから当然だが)になり、単調なリズムで話される思わせぶりな言葉が「謎」を仄めかして脳内も支配する。
物語そのものが十分練られて(あるいは語りえて)いたかは疑問だが、主人公による批評性を帯びた詩的語りの部分で、音楽、映像、芝居の三つ巴のエネルギー放出をみて、快感であった。
「船に乗る」をリフレインする「詩」的フレーズを連打する主役(窪塚)の長台詞もその一つ。「ここから抜け出すために」・・都市生活の描写には排気ガスや放射能まみれの雨、といった表現が混じる。マイクを通しリバーブを効かせた大音量の台詞、これを「演技」として許容するのはこのライブシネマという形式の中でしかあり得ないだろう。暗く悲壮な台詞を唾するように吐き出す窪塚の「煽り」に当然バンドは呼応する。
「怪獣」はこの文脈から語られる。冒頭「おじいさんから聞いた話」として怪獣の話をするが、ラスト、「○○○○、これが怪獣の教え」と結語される。ただし、その意味するところは漠然としている。「全てを破壊する」怪獣は、現代の闇そのものの比喩なのか、どん詰まりの状況を救う最後の手段の象徴なのか・・。
(途中、テンポの変わらぬ台詞回しに睡魔が襲い、前半をだいぶ聞き漏らしたので把握しきれていないかも知れないが・・)
子どもたちは未来のように笑う
遊園地再生事業団
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/09/03 (土) ~ 2016/09/25 (日)公演終了
満足度★★★★
説明不要な存在であるはずの「子ども」に関するあれこれ。「回帰」への試み
遊園地再生、久々の観劇は三度目。抽象度の高い舞台というイメージが強かったが、今回は「意味が判る」会話、また朗読も。もっとも多様な場面の中には飛躍したシーンもあるが無駄に感じさせない。
美術、演技いずれも、ある完成されたイメージへと緻密に作り上げる手腕は、今回も改めて認識。(使い勝手の悪い)アゴラ劇場に破綻やほころびの無い劇空間が出来ていたのも、才能だと思う。起用した俳優については外れがなく、「子ども」を巡る逸話の視点は、手垢モノでもありながら、観客を頷かせてしまうのは俳優自身の身体的魅力の成せる所、宮沢氏はそうしたアピール(役者自身の身体的・容姿的強みを発揮させる)も、周到に織り込んでズルイと思う部分もある。
ただし「手垢」とは言え、正当な議論が「子ども」を巡ってはなされるべきであって、芝居はそのように説得しつつ、さほど説教臭さを感じさせない作品になったのも「丁寧さ」ゆえと言える。
様々なテキストの一部(子供に関する言及がある)を取り上げた、時折ふと挿入される朗読も面白く、興味深く、また感動的。朗読ピースの選定は、自作テキスト以上に難作業だったのではないか。
生物として思考以前の存在であったはずの「子ども」、またそれに関わる領域は今の社会状況では冷遇されている。
短期スパンの生活設計が、企業の推奨する所。
長期ローンが組める・・というのは長期スパンの人生設計と見えてさにあらず、「面倒は先延ばしにして短期スパンの人生を謳歌しましょう」・・当社はそれを支援します、という意味に殆ど近い。
スカラベ
風煉ダンス
立川市子ども未来センター 芝生広場(東京都)
2016/09/16 (金) ~ 2016/09/25 (日)公演終了
満足度★★★★
祝祭的
20年ぶりの再演とか。「まつろわぬ人々」が初風煉ダンス。昨年は惜しくも逃し、今回どうにか駆けつけた。様々な出演参加者が目につく。風煉ダンスという集団をよく知らないが、ある「価値」を求めてその事業を成そうとする主体に賛同し駆けつけている「感じ」が薫っている。今回の芝生広場に設営された客席及び舞台(広い!)は、一大事業と呼ぶにふさわしいかも知れないが、それだけではなさそうである。この「感じ」はテント劇や野外劇につき物のそれのようでもあるが、それだけでもなさそうである。 「まつろわぬ・・」にあった下から突き上げるようなある種の告発(昨年の「泥リア」も?)の様相がそのヒントかも知れない・・・これら全て想像(もっと調べて書けってか)。
ハチャメチャな登場人物や場面が、自然である物語の構造にもなっているが、空間じたいも十分にその存在を許す雰囲気を保証し、途中雨なども降ってビニールの天井がパラパラと鳴ったりしたが、生演奏と声は(マイクも使っていたが)よく通って歯切れが良く、活力がある。
予告より上演時間が長いのは場面転換、また一部俳優の台詞の間延びか。というのも通常の舞台の二倍四方ある広さがこの芝居のポイント(動かなくても良い距離を敢えて移動しての芝居は笑える)で、前の場面や台詞を食えば1~4秒位稼げそうな箇所が幾つもあった。(これから詰まって行くだろうが)
珍妙な唄、切なげな唄もいい。登場する奇矯で奇天烈なキャラたちは、また見てみたくなる。
物語は、宗教的儀礼として成り立つような筋立てで、原初的で祝祭的(ゆえにハチャメチャが許容される)。
おそらく見た目以上に俳優は肉体を酷使しているだろう、「捧げる劇」の当然の姿として。
舞台に仕込む物理的な内容物に情熱を燃やす者(たち)の手作り感あふれる諸々も、芝居の温度を上げている。
自分も野原を走りたくなる芝居である。
魔法処女☆えるざ(30)
劇団だるめしあん
王子小劇場(東京都)
2016/09/15 (木) ~ 2016/09/19 (月)公演終了
満足度★★★★
女子演劇の愉しさ
「劇作家女子会!R」での短編が所見。観劇二作目で、<エロ・ポップ・ファンタジー路線>には脚本もさる事、女優河南由良の存在も大きいな、という今回の感想。
短編(前回)は一呼吸で書いたかと思わせるような、隙のない流れの良い台本だったところ、中・長編(今回)では・・・期待通り。流れの良い自然な場面配置で話を先へと押し進めていた。
ただ、短編にあった、現代の生を抉る痛快さは控えめとなり、主人公の「痛さ」(30にして処女)の一点に集約させ、その事をめぐっての挑戦と挫折、期待と落胆の紆余曲折を物語るドラマとなっている。落しどころは設けているが、ポップで楽しい→感動の領域へとドラマを進めているにしては、もう一掘りほしい気がする。「エロ楽しい」路線のほうに比重を置きたいなら、エロ的にももう一掘りほしくなる。
うまいだけにその「もう一つ何か」が欲しくなるのは、役者達が十分に立ち回っている分だけ(俳優として表現に到達しようとする苦悩が滲んでいない分だけ?)、薄味であるせいだろうか・・。
ミラー
東京演劇アンサンブル
ブレヒトの芝居小屋(東京都)
2016/09/09 (金) ~ 2016/09/19 (月)公演終了
満足度★★★★
テキスト無し。演劇とは何?
何も無いところから作り上げた舞台。驚愕すべきは、その豊かさ、芸術性、そして依拠すべきテキストを奪われた分滲み出る俳優自身の魅力。
言うならばワークショップ発表の類とも言えるこの舞台、パレスチナから来日したイエスシアターの演出、俳優二名の1ヶ月の滞在期間中に、ひねり出し搾り出し練り上げ作られたそれは、穿ってみれば純粋演劇と名づけてみたくなる代物。「まがい物」等では全くない。
日常との地続きに演劇はある。
三億円事件
ウォーキング・スタッフ
シアター711(東京都)
2016/09/03 (土) ~ 2016/09/11 (日)公演終了
満足度★★★★
大事件の背景の中で
男だけの芝居。同作者の「東京裁判」「外交官」も同様だ。
男が「大状況」の中でヒロイックに振る舞い、格好良くその舞台上で凝縮された人生を謳歌する、そうしたものへの単純な憧れは、憧れ以上ではない気がする。フィクションの中だけ・・そう思う。
もちろん「出来すぎ」なドラマが書かれている訳ではないが、大づかみに括れば、その範疇だ。既視感がある。・・対抗できもしない米軍相手に(その相手の顔は見えない所で)鼻息荒く、ちょっと粋な啖呵を切って見せるが所詮負け犬の遠吠えに等しい、単細胞をサンプルで見せる戦争物や事件物の映画に登場するそんなやつらが、ふと過ぎる。
この憧憬の的をフィクションとして楽しめる向きには、娯楽として成立するだろうし、三億円事件の史実については、作家は誠実に書き込んでいて、知的欲求を満たす部分もある。
ただ、事件の「犯人追及」を本線とするなら、脇に当たる部分についての言及、時世に絡めての議論が、「犯人を追う」動機とは離れてなされていて、その時間が少々長く、結局進展しない捜査の「倦怠」が表現されているのか、意地は捨てていないプロジェクトXな男たちのドラマが表現されているのか。状況からして前者であるし、捜査状況の内容からして後者のポーズはとりづらいはず。そうならないための「事件」をめぐる言辞によって、辛うじてプロジェクトXが成立しているが内実はどうか・・・疑問が湧いてくるという感じだ。
あの事件に立ち向かった人々・・・という「雰囲気」は伝わったが、実際リアルな実情としてはどうだったのか・・・男が格好付ける分だけ、その情報が希薄になるという関係があるように思う。リアルに描く・・・その必要はない、と開き直ってもよいのだが、それでは大きな史実のドラマ性に寄りかかっただけではないか。史実に批判的に切り込む、その視点が、見えるようで見えなかった。
俳優では、美味しい演技を見せる方、存在感ある方。悪くなかったが・・・
月の海
日穏-bion-
「劇」小劇場(東京都)
2016/08/31 (水) ~ 2016/09/04 (日)公演終了
満足度★★★★
ほろっと家族、ふわっと人情、な芝居
素朴な人情劇、家族の物語には、実は大きな事件が起きる。家出だとか、行方不明だった兄が帰って来るとか、万引きしたとか。時には幽霊が出て来たりする。大事件である。離婚や不登校でも大きい事件と言えば大きい。ただし「殺人」は出てこない。
で、大きな事件を大事件とは感じさせず、人情話へと変換されるのがこの手の芝居だ。
さて今回は空き巣に入った男が逃げ遅れ、家主(父は他界、母は認知症で老人ホーム転居間近の長女)に数年前失った弟と間違えられて住み着く、という大ごとである。
弟は出来がよく、部屋には賞状が貼られてあり、理系の道に進みロケットの部品を開発する会社に勤めていたが、海難事故で亡くなるという悲劇があった。「遺体を見ていないから(母は)息子が死んだ事を認められない、豊(弟の名)に会わせろ、隠すなと自分を責める」と長女が台詞で説明するくだりがある。弟と姉に対する、母の扱いの違いが推測される。
この伏線から、最後のオチに向かうまでの間、脇役たちのストーリーも絡めて笑い、男気の感動シーンも盛り込まれ、うまい。
ただ、語りたいのは本筋だ。
大きな伏線が回収される一つが、弟に顔だけよく似た男が「演じる」内に妙な関心が湧いて来たり、情が湧いたり、母にも喜ばれる体験がどう実を結ぶか。彼の偽装生活は(それは家族の側の要請で成立した事でもあったが)過去を知る者の出現で暴露され、自身も開き直ってぶちまける。それを否定するのはむしろ長女だ。この男の「変化」が、ラストまでに訪れる。
もう一つは介護疲れした長女のこと。中でも母に認められない辛さ。これについては出来すぎたラストのオチが待っている。
演技はオーソドックスで捻りは無いが笑いは押さえていた。私としてはそれらの「笑い」が、「物語」に先行するのは好まず、息抜きの笑いよりは物語をしっかり見せてほしいと思ってしまう。つまりは、本筋だ。
その中心は、やはり長女の「苦悩」である。実はこの部分、作家は謎解きをうまく後に回して引きつけるが、結論的には長女と母の「関係」の問題が解消するというものだ。「面と向かって伝えられない」母がある手段(認知症がひどくなる前、一年前に仕込んだ)によって、時間差でメッセージを長女に伝える、それで長女は涙し、ある納得を得るという結末だ。
私としては、これは母が亡くなった後だからどうとでも解釈できる、死者との関係という範疇になり、今現在現実に認知症と向き合う苦しみのさなかに、見出した光ではない、という部分にやや淋しさを覚えてしまう。長女が受身なままで母からの愛を、本当はあった愛を今になって確認し、その事で能動的な人生へと転換して行く事になるのだとしたら、「出し渋った」母こそ悪、罪にも思えてくる。その「苦悩」というものをただ一般的な範囲で説明されても中々、それ以上は行かない。苦悩の薄さが、極上のラストに値しないと感じさせる。
耐えられる程度の辛さは「自己責任」で耐えられるが、本当に目を向けなきゃならないのはそれしきでは解決しない問題を抱えている人達だろう・・そう思えてくる。シンパシーを抱けないのではないが、、
この芝居では、母が奥の間に居るため、修羅場は見えない。具体的なやり取りとしても十分に語られておらず、「介護の問題」として観る者の一般認識から引き出すことで成り立っている、その分弱いというのもある。
物事は、解決して行くものである・・・その事への信頼のほうが大切である、との信条がたとえあっても、現実を描くなら「物事」のリアルな断面を見せつつ、その解決に向かわせる事でなければダメではないか、、。厳しすぎるかも知れないが、(長女の)「切実さ」のありかをもっと見たかった、という事である。
俳優の演技は安定していたが、プロデュース公演の香りがしてしまうのは何故だろう・・そんな事も思いながら見ていた。
『水はけのよい土地』
無隣館若手自主企画vol.13 早坂・福嶋企画
アトリエ春風舎(東京都)
2016/09/09 (金) ~ 2016/09/12 (月)公演終了
満足度★★★★
台風の時に思い出す水はけ
以前水はけの悪い・・というか水がよく上がる土地に住んでいた。台風の季節になって天気予報に「台」の字が出ると、「あ(面倒だ・・)」、と思い出す。
この芝居は「水はけの悪い土地」の話だ。悪い場所から、良い土地のことを思い描く。女二人、男二人の二組の交わらない物語が最後に「場所」で繋がることで閉じられる。女の過去、暗い出来事の起きた場所=空き家も、水はけの悪い(不人気な)土地柄に連想が繋がり、ブラックバイトの典型であるコンビ二も然りだ。なおコンビ二のある場所が「水はけが悪い」事実が、その夜来た台風の話題から派生して言及される。が、それだけだ。
二つの物語が接点を持つラスト・・・ただ通過する一瞬の光景に過ぎない可能性の方が大きいが、この瞬間に幕を下ろす事で、「未来」が開かれたように感じる。水はけのよい未来への時間が。
無隣館若手との事で「期待感」を抑えて観劇したが、役者も含めて思いの外出来がよい。 女の「罪意識」が、相手との遭遇によって解消する事にならない・・・時のほうが先へと進んで行く、この視線が印象的だ。
荒野のリア
ティーファクトリー
吉祥寺シアター(東京都)
2016/09/14 (水) ~ 2016/09/19 (月)公演終了
満足度★★★★
麿赤兒=リア on 荒野
再演という。男優のみによる「リア」。Tファクトリー(川村毅作品)を初観劇である(箱庭円舞曲と迷ったがこちらをとった)。
三幕一場以降を独自に再構成したという事で、話をうろ覚え(かつ冒頭15分が見れず)では、人物の判別能わず、人名を聞いても役回りをを思い出せず、「物語」は追えなかった。
かの川村氏が古典をやるんである。その演出や如何。
麿氏は舞踏家であった。それが見える場面もありつつ、全体に狂気のリアを演ずる。正に荒野がその舞台であり、襤褸をまとって咆哮しながら彷徨するリアが柱だ。舞台は終始「荒野」の様相である。ある場面、まだらに地面を照らすくすんだ赤(紫・鶏頭だか紫蘇の色)が、濃い灰色の地面に投げかけられ、役者は色彩のくっきりした輪郭で登場して明確に動く。正面に幅広・縦にも長い布が下がり、時に映像が映し出され、時にまくり上げられ丸い曲面が上方に垂れ込める。
初演とは俳優が(一部)変わっているようで、それが今回どうなのかは判らないが、役者の「個性」による判別が、付きづらいと感じたのは、「感情」で演じていないせいだと思われる。
(俳優もその一部として)演出と一体化した「舞台」を見せる、その中でも大きな要素は音響。場変わりなどの要所で「音」が鳴るが、大音量を澄んだ音でカバーしている。音のクリアさは通常の(大型の舞台も含めて)芝居には無い質の高いものだった。
加えて映像の存在感も大きく、映像の選択に大きな比重があるようである。
俯瞰して、「変わった」舞台である事は確かである。
タイトルでもある「荒野」のモチーフは巧く表現されていた。
ただ如何せん、「リア」の元を知らないでは、構成の「妙」までは理解できない。今作の趣向の片面はそこにありそうで、玄人向けと言えようか。(作り手はこういう言われ方を嫌うだろうけれど)
明るい家族、楽しいプロレス!
小松台東
駅前劇場(東京都)
2016/09/06 (火) ~ 2016/09/11 (日)公演終了
満足度★★★★
演劇型格闘技=プロレスの懐
だいぶ前、プロレス業界の裏側的な芝居を見て不意を突かれた。泣けるポイントは「裏事情」や人間ドラマ以上に、リング上の姿じたいにあった。出来レースであるのに何故か見る者をある興奮へと誘うプロレス。まるで新派の出来すぎた人情劇に涙し、でもって心の内で筋書きを先んじてなぞっていたりする、あれと同じく、プロレスを見る者も闘いの「型」を追っている。レスラーはリング上で「それ」を演じるのだ。 自分は全くプロレスを見ない口だったがその芝居にはぐっと来た。
今回もプロレスが出てくる。よけられるのにわざと技を受けている、そうじゃない、技をよけるのは格好悪い、強いから、よけなくても平気なんだ・・・そんな台詞が、少年のプロレスへの熱狂を裏打ちする。
さて小松台東は二度目(松本氏脚本は4度ほど)。前回の三鷹公演の緻密な作りに比して今回は砕けたテイストだったが、私は前回のリアリズムが好みである。ドラマとしては主人公の少年に「昭和」を感じさせ、古きよき時代の香を嗅がされる感じがあるが、この種の「懐かしさ」は持って行き場がなく、大切な物を入れる木箱に収めるキレイなまとめ方が似合うのでは。・・「現在」への切り込みが薄い(と私は感じたが)分、「懐古」に比重が傾けばそれに見合う処理があったか・・・そんな感想も。
役者の跳躍もあるドタバタの書き込まれた脚本で、楽しめたし美味しいネタ(プロレス)ではあった。
この町に手紙は来ない
monophonic orchestra
3331 Arts Chiyoda(東京都)
2016/09/02 (金) ~ 2016/09/07 (水)公演終了
満足度★★★★
無印な色彩。
終わってみると正面の白い壁、間接照明(中央左寄りの窓など)、シックなテーブルと椅子、衣裳も比較的そう・・原色系が抑えられている。この無印良品なトーンが芝居の気分とともに記憶に残った。
「場」は同一、時代を変えて6つのエピソードが5人の俳優によって演じられる。郵便局、それを世襲で受け継いで行く末裔たち。一族=何らかの「呪縛」という通低が、後半に見えてくる(執筆中に後付けの感も)。
他の通低項として「無印トーン」、また上手側の壁の額縁の数字が、エピソードごとに変わる(俳優がフックに掛け替える)仕組みも。開演前は234とあり、エピソード1で278、次いで230、180・・とよく判らない意味は後半明らかになる(これも後付けの感有り、というのは5話,6話が近接していて、飛躍させない意味が不明、これありきで書かれてないな、と)。
しかし6つのエピソードはそれぞれ、同じ場所にもかかわらず、時代を違えただけでなく、しかも「一族」の縛りがありながら、全く色彩の異なるエピソードが並べられている。そしてそれぞれに、何かが示唆されているという含みがある。 説明台詞の少ない、程よく省略の効いた、静寂を基調に時折熱のある対話が花咲く芝居。抽象的である分、物語としての「謎解き」の段で出てくる古い手紙、昔納屋で起きた事実についての証言はいま一つ謎解き効果を発揮せず仄めかしに終わる。ビッグストーリーより、個々のシーンの、ただただ断片でしかない瞬間の彫りの深さ、美しさがこの芝居の強調点だ、と思う。
何より、役者が達者である。全役者はほぼ均等に4,5役をやるが、役の勘所を押さえて気持ちが良い。
作者自身がどういう自覚で執筆したかは不明だが、人間や社会(また現在の日本)への痛烈な批評と感じられる台詞・対話が、時おり顔を出す。優れて周到な攻めで上手出し投げを決めたかのような。
「示唆」の鮮度と頻度が増せば、完全に私好みの芝居になるかも知れない(そうはならないだろうが)。
monophonic二度目の感想は、無駄をそぎ落とした(落とし過ぎ?)台詞の洗練。若き表現者の「この先」を気にしていよう。
其処馬鹿と泣く
はえぎわ
イマジンスタジオ(東京都)
2016/08/27 (土) ~ 2016/09/07 (水)公演終了
満足度★★★★
そこはかとなくニッポン放送
オールナイトニッポンのテーマ曲(Bittersweet samba?)が幽かに流れる開演前。正面の横広ガラスの向こうを歩く通行人、下手壁側の白色照明、上手どん詰まりの防音扉(恐らく)からの出ハケなど、ニッポン放送内のイマジンスタジオを使って芝居をしているが、「黒」をあしらっていないせいか、別用途の場所を借景したかのよう。だが、大いに活用していた印象だ。
二人の客演者の一人、宮崎吐夢が終演後一人残って喋り芸披露、「お詫びの印にせめて芸能人を見て帰ってネ」と締めていた。
一方、退場する客の反応は、卑下する程かな、というもの。役者たちとの雑談の輪がそこここに出来て流れが悪いが、劇団員の外仕事が続くなか久々に「劇団公演」をやれば駆けつける人たちがいる。劇団の歩んだ長さだけ築いた人脈を見た気がした(勝手な推測だが・・)。
「趣向」の数々にノゾエ氏の才が窺えるが、急ごしらえな感も。シーンとその繋ぎ合せのアイデアを連ね、何らかの落ち着きどころを見出した。・・ロードムービーならぬロードシアターの味は、役者個人の技量に比重あり。演劇は何と言っても時間をかけた分だけ濃密さが生まれ、つまり舞台上にもう一つの世界が(よりリアルな空気感をもって)生み出される、その快楽は演劇の大きな要素でもある、と思う。今回のはえぎわ公演も、より濃密さを醸成する余地が残っていたと感じた。
飛びぬけたイケメンも美女も居ない(失礼)はえぎわの、公演観劇は過去1度のみ、川上友里を客演で三度ばかり、他の俳優も客演で何度か拝見した。
が、劇団はえぎわの正体、輪郭、未だ知らず。
娼年
ホリプロ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2016/08/26 (金) ~ 2016/09/04 (日)公演終了
満足度★★★★
猥らに熱くはじけ散る女体たち・・・純正三浦大輔の舞台。
チケット発売早々、二次市場でしか買えなくなった口。キャストをみると松坂桃李・高岡早紀・佐津川愛理・・そうなると、ああなるのか・・。こたびは裏調達せず当日券狙い、平日昼間のせいか、40名程度、特段アナウンスは無かったので、全員入ったのだろう。
比較的安価な立見席がそこそこ残っており、脇の中ほど、観劇にも支障はなかった。
休憩15分挟んだ3時間が長くない。セックス三昧である。何よりその描写はリアルで、緊張のため体がしびれてくる(結果脳がぼんやりし、酷寒の山中での睡魔のように眠くなる、なんて人も居たかも知れない)。
三浦大輔主宰のポツドールの名は「ニセ・S高原から」なる企画(平田オリザ作「S高原から」を4団体で競演する)で知った。・・という事はセックスレスの芝居もやる訳だ。。 が過去に見た三浦氏の劇団公演2作、外部演出作品3作で、交合シーンの無い芝居は1作のみ。その1作も、中心となる女性が「人間」として裸にされ、衣服を剥いだ時の体臭を嗅いだかのような印象が残っている。
『禁断の裸体』では寺島しのぶが脱ぎ、今回は脱ぐ女優の「数」に眩暈を覚えるが、見どころはそれぞれのセック ス描写のリアルさ、にある。
三浦氏が演出する男女間の心の動き、中でも性衝動に結びつく瞬間の描写は緻密で、唸らせる(何度か見ると三浦風味というべき趣があるが、それは演劇の制約との兼ね合いから生まれたものかも)。
三浦氏の芝居は演技がナチュラルであるから必然的に全体がこまやかで濃密になる。性行為に関しては、物語上の必要最小限というものがあり、赤裸々には見せるが、ご愛嬌と受け止めればで笑えもする。
ところが『娼年』では、どのセックスも省略の技を使わず「行為」の始まりから終わりまでなぞる。姿態の移りゆきから声の変化までが自然で起伏があり、つまり「物語」がある。・・毎度ながら処理はうまい。女性はパンティ、男もパンツを脱ぐがうまく客席の視界をかわしつつ臨場感を失わせない。「行為」のパターンも多様だ。ともかくこの物語にとって、「娼夫」となった学生・森中領がいかに女性の抱える「核」に触れ得たかが重要であるため、その触れる手段である所の行為のディテイルは省けないのである。
互いの身体への距離感が縮まる瞬間、それは女性が欲求を自ら解放する瞬間、自己肯定へと踏み出す瞬間だ。このとき彼女らは神々しい。その根底に切実な何かが見えるからだろう。オーガズムは女性にとっての勝利。 この儀式の媒体である領が、彼女らの存在をそのままに受け入れる器となり、またテクニック(又は名器)を持つゆえ女性を昇天させるが、彼もまた「一緒に行く」(あるいは行かなくとも寄り添う)のだ。
冒頭、領が母親と最後に別れた日のシーンがシルエットで描かれる。年上の女性の心に寄り添う事のできる二十歳の青年。幼い頃に別れた母親の影を追う彼の淋しげな背中が、女性たちの「物語」を投影する映写幕であるような・・そんな具合だろうか。
冷静になれば、快楽を欲する「疼き」を正当化する「物語」としての、出会いの空虚さを思いもする。経済的余裕のある(経済的な悩みから開放された)女性にしか、取りつかない「病い」、否、「業」というものを見る。だが「時間」の芸術である演劇もまた、瞬間の快楽を追い求めてやまない人間の欲求に応えるものだったりする、かも知れない。
領が印象的な出会いを果たした女性とのシーンは最後にやってくる。そこに至る領=娼年の「物語」は存在するが、それに増して、全ての「行為」における手足の動き一つや息遣いの中に刻み込まれた「物語」に、圧倒された『娼年』であった事は確かである。
もっとも、3時間という「一瞬」が過ぎ去った後、(「行為」と同じく)感動と名の付くものは残らない。脳の一部が焼け、ただれた感覚が心地よい。
追憶のタキシーダンサー
劇団ドガドガプラス
浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)
2016/08/19 (金) ~ 2016/08/29 (月)公演終了
満足度★★★★
浅草にこの舞台ありき
前作に続き、二度目のドガドガ+を観劇できた。楽しみであった。
ストーリーのある芝居ではあるのだが、必ずある歌と踊り、お色気が、この伝統ある歓楽街の一角で過去何人もがそれを味わっただろう、その場所もろとも立ち上がるような錯覚に陥る。
時折登場して「くさい・・」とスプレーを撒く白髪オヤジ(望月六郎)の挙動が意味深。これは過去ではない、「未来のにおいだ」と吐く。
時代は昭和15年。きな臭い時代の、目一杯エロ目線で射抜いた男女(または女と女)の物語。(性)愛に生きる事の生き物としてのまっすぐさが、肌で感じられるのは、華美な演出に紛れがちであるが俳優たちの体を張った仕事からだろう。
10周年ゲストとして隈本吉成(二兎社「時の置物」以来)、もう婆役をやる年齢か、<?>一点の石井ひとみも好感。
この舞台は浅草ならではの作りだが、周りを見渡せば実はオリジナルな存在かも知れない。他には無い客層も味わいの一つ。浅草演芸ホールを横目に東洋館に足を踏み入れるのも独特な気分である。
余白狂想曲
タテヨコ企画
OFF OFFシアター(東京都)
2016/08/24 (水) ~ 2016/08/28 (日)公演終了
満足度★★★★
台詞台詞台詞。
タテヨコ3度目、リクウズ2作目。
野田秀樹「風」ではないが、「ばり」の、台詞の途切れないリレーが、感情の追っつかなさを顧みず続けられる、テンポとシュールさが良い。
台詞には十分遊びをこめているが、しかし通常の対話が軸で、言葉遊びが真実(実在)に転換したりする野田とは異なる。
話は遺産相続をめぐる醜い争い・・というよくある話だが、外郭に位置する人物たちがまたそれぞれシュール。最後に登場する公証人などはじじいの役を女性がやっている。
ただ、ストーリーは現実的に進んでおり、後半ややリアルさに欠く部分は勿体ない。意表を突くストーリー重視なので、変えようは無いだろうが・・。
遺産や遺言を巡る話なので、現行の法律が登場する。最大の転換点は、長女が二つの遺言書を破棄する場面。
・・死んだ父が自宅に残した遺言の他に、公証人に預けた遺言(あやしい)が出て来る。その他、父がよそで作った子ども(成人した女性)の登場、死を見取った家政婦による「内縁の妻」証言と、混迷がきわまる。このとき、長女がぶち切れてテーブルに置かれた二つの遺言をズタズタに破いてしまう。
スッとする場面ではあったが、ここで弁護士に「遺言書を破棄した者は相続の資格を失う」との条文を読み上げられてしまう。
多分「既に内容を確認済みの遺言」を感情にまかせて破いてしまった、程度でこの条文は適用にはならない。長女がショックを受けてしまうのもちょっと。これを見て妹が(夫の意に反して)遺産放棄してしまう必然性も見えにくい。そして、この顛末が、親族を除く全員の共謀で為されていた、というオチも、その延長で「リアル」さを欠いた。
従って、「長女の悲劇」以降のくだりをあまり深刻な作りにせず、「そんな事もあり得る」程度に、飄々と終えてくれれば、ちょっと辛子の効いたブラックユーモアに収まったのではないか。
とにかく台詞の応酬にうまみのある芝居、最後までシュール路線で突っ走ってみてもよかった。