tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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ブリッジ~モツ宇宙へのいざない~

ブリッジ~モツ宇宙へのいざない~

サンプル

3331 Arts Chiyoda(東京都)

2017/01/11 (水) ~ 2017/01/15 (日)公演終了

満足度★★★★

サンプル的フィクションの性向がとりわけ先日のKAAT公演「ルーツ」との共通項で、見えて来た、気がした。両者芝居のタイプは全く違うけれども。「閉じた世界」の中で人間はどこまで反理性、否、理性の下で、異常になれるのか。もしくは私たちの間で通常語られる範囲の人間像は果たして、その本質を捉えているのか。
昔、知らずに体験したカルト的な集団や演劇系のとあるワークショップを思い出し、あるある満載、ツボであった。

ネタバレBOX

観客を参加者に見立てた集会形式で、ステージに向かって右側に透明ビニルの幕、それを隔てた裏側(即ちステージ上手)にノートPCに向かう音響担当がいて、役者の指示で音出し=集会の演出のために=をする。ビニルを透かして音響係の向こうにこの施設の廊下が見え、時折(公演関係者でない)人が通る。
では、これは何の集会か・・。それ即ち芝居の中身である。「モツ宇宙」観の普及を目指す「団体」の集会=ワークショップ?は、団体メンバー6人がこの会場に入場しステージ上の椅子に円弧に並んで座り、一人が司会に立ってから始まる。さあどんなやり取りが展開するのか。
程よく「異常」と「正常」が交互に訪れながら次第に「モツ宇宙」へと「誘われ」るが、「異常」がフォローの許容範囲を超えて放射能漏れを検知するも、ドラマ的にはまだ「こういう団体があってもいい」範囲内を推移し、最後は駄々漏れ状態に至る。
ドラマとしては、団体の様相が個々の抱える「痛い」事情が見える事で(興味深く眺めつつも)「教義」じたいの信憑性は色褪せ、最後に至ってカルト的な集団の成立ちを批判的に描写した芝居とも見える。
が、むろん単純な科学主義からの宗教批判ではなく、「ある団体」を事例に展開した人間学のケーススタディの態で、人間の内面に潜む欲求や性向を人物に露呈させている。この各人の「露呈ぶり」がサンプルの「変態性」の所以でありこの芝居の目玉と言える。役者のキャラクター共々、ツボに嵌まったまま終幕へ連れて行かれた。
豚小屋 ~ある私的な寓話~

豚小屋 ~ある私的な寓話~

地人会新社

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2017/01/07 (土) ~ 2017/01/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

地人会じたい初めて。一昨年だったか芸能花伝舎で観た『島 island』と同じ作家(南ア出身)の作であった。うまい戯曲だ、との感想が変わらず(どちらも二人芝居だった)。一場面を除いて同じ場、二人の会話から「状況」の若干の変化は垣間見えるが、ダイナミックなストーリー展開がある訳でなく、この場所での二人の言葉による、関係の露呈のプロセスが、この芝居の柱と言える。台詞の背後の心の動きが、確固とくっきりと見えて来るのには瞠目した。隙間を埋めるといった瞬間が一秒も見えない(と、見えた)北村有起哉の演技は、「今その瞬間にあるべき状態」にしっかり身を置き、人物に一貫性があり、まるで裸体をさらけ出すように人物が見えて来る。田畑智子の女性は受けの場面が多いが、出すところでの押し出しがあり、感情表現の振れ幅、柔軟さが心地良く、妻として夫との関係が成立する距離を取れていた。ぐっと接近し、親密ゆえに突き放す「自由」。
台詞の端々が鮮烈に光り、それをフックに次第次第に劇に引き込まれた。
一人の小さな人間の「心理の軌跡」が、(己の欠落を補うべき)高邁な何かを求め続ける「魂」の存在を浮き上らせる。
演じる人物をどこまでも裏切らなかった両氏(特に北村)の姿には好感、否、尊敬の二文字も過剰表現でない。と思う。

peeeeep〜踊る小説2〜

peeeeep〜踊る小説2〜

CHAiroiPLIN

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2017/01/07 (土) ~ 2017/01/08 (日)公演終了

満足度★★★★

世田谷でのtamagoPLIN公演以来、スズキ拓朗主宰ユニットは2度目。「汚れ」を持ち込まない印象を裏切って(原作「屋根裏の散歩者」に相応しく)、隠微な部分には隠微さの隠喩となる動きを配し、意表を突いたシーン展開でストーリーが刻々と積み上がり、大詰め、結末を迎える。やりきった役者たちに惜しみない拍手。
ただ諸々の舞台効果については、この劇場の大きさでは後部客席との距離、天井の高さ等で、「客観的な視線」に寄ってしまう面があり、「もっと見たいが見えない」部分と「見なくていいが見えてしまう」部分が生じていたという感じ。もう一回り狭い劇場なら開幕から最後まで全編高ぶり通しだったんではないか、と想像した。

ネタバレBOX

照明と装置の二律背反。舞台美術はもう少しシュッとしたいと思った。
・・が予算の関係かも。
作品自身は「暗め」ではあるが、ライトはもっと照らして、役者、衣裳、装置を見せて欲しかった。
が、そう思う反面、装置については美的にこだわるなら薄い照明が相応しかった。
つまり、強力な照明を当てれば粗が目立つ。。作りがチープに見えたのは狙いかも知れないが・・
シアターイーストだと、シュッとしてスマートで小奇麗なのが似合う。下北沢の劇場ならあの手作り感がうんと合致したかも知れない。
メゾンの泡

メゾンの泡

無隣館若手自主企画vol.15 柳生企画

アトリエ春風舎(東京都)

2017/01/07 (土) ~ 2017/01/11 (水)公演終了

満足度★★★★

色白の棲息者たち
憂鬱な顔をした近未来の姿というものは「予見する」=今見えていないものを見る=ことの価値を、云々する以前にそこに現前させて溜飲が下がる。「今見えていないもの」への憧憬が辛うじて、現在の生を生かしめている、そういう所が(とりわけ現代には)ある。と思う。『ブレードランナー』『惑星ソラリス』(この二つは「遠未来」だが)『ストーカー』等の映画には、環境の大変化した場所で人間が美しくも病的な漂白された姿を見せる。「現在」に居る我々には、未来の彼らが(過去として我々の現在を知る者ゆえ?)神々しく映り、静謐の中に無尽蔵な情報の存在を予感させる。彼ら自身は多くを忘却しているにも関わらず。
この芝居では、小さな自室の内部で胎内回帰していくように女性が無言・無動作でたたずむ時間がある。太陽に背を向け地下に「引きこもる」生を選んだ人間はモヤシやカイワレを連想させる。イキウメの『太陽』はパンデミックの末に生まれた人間の亜種が世界を(一時的に)支配する社会の一コマを描いていた。今作は「想定」のつじつまに関して突っ込みどころはあるが「近未来」の提示に相応しい作法が貫かれていた。憂いを帯びた表面の向こうにある「何か」を探り出そうと思わず手を伸ばし、思考を巡らす楽しみ(憂いを帯びた)があった。下へ行く程上位に位置する完全階級社会の設定は、上位の階級がもてる力をより積極的能動的に行使するイメージとは異なり、「引きこもり」「眠った状態」のイメージを重ねた。だがある見方をするなら、小金を持つ分だけ守勢にシフトするその延長には、貪欲を通り越した「眠り」に等しい生の姿を見出せるのかも・・等等の連想も愉し。

ゴドーを待ちながら

ゴドーを待ちながら

劇団東京乾電池

ザ・スズナリ(東京都)

2017/01/05 (木) ~ 2017/01/10 (火)公演終了

満足度★★★★

初日を観劇。が、スズナリは満席、予約者にも立ち見が出、恐縮してか払戻しをしていた。ウラジーミルとエストラゴンには柄本祐と時生兄弟という事で、東京乾電池ならではの配役と言える。ポッツォとラッキーも確か知った俳優が出るはずと思いきや、ベンガル氏体調不良で急遽の代役。
祐・時生コンビ(どっちが兄だっけ)の掛け合い、案配は中々躍動感あり、飽きない。動きは演出の妙で、秀逸。客席の笑いの沸点低いのが気になった。
ずっと以前観た父・柄本明のゴドーに通じる、素の笑いが今回も出る。何に対して笑ったかは知らねど、密度の高い「現在進行形」掛け合い演技のある瞬間にこれをやられると思わず釣られて笑ってしまう。祐の通る声と感情起伏の自在な正統派演技に対し、時生のスルメの味を出す天性の?キャラという取り合わせが(兄弟だからか)気持ちよく、やりとりの滑らかな流れを促す動線ミザンス指定の演出が相まって何やら賑やかに楽しい、間抜けで愛すべき人間どもの競演(饗宴)。
ただ、二幕は一転シリアス、または人生の寂寥を詠う色彩となり、こちらのトーンは際立った趣向もなく淡々と進み、前半とは逆の真情が見えたかったが、二人にはまだ「老人」役のリアリティは荷が重かったか。

4センチメートル

4センチメートル

風琴工房

ザ・スズナリ(東京都)

2016/12/21 (水) ~ 2016/12/29 (木)公演終了

満足度★★★★★

役者によるガヤガヤ転換がうるさく感じない風琴工房が。その所以は音楽劇。曲の使い方とクオリティ(歌唱の、と言いたいがさにあらず)は、ミュージカルと言って良い。冒頭の車椅子キッズのママ事情のディテイルに意表を突かれて引き込まれた。詩森氏の得意とするらしいプロジェクトX路線だと知れた時点で、心の距離を取ったものの、畳み掛ける感動の仕掛け(歌と出来すぎたシーンの波状攻撃)に抗えず落涙。このかん数本観た限りの風琴の舞台からは思い及ばぬタイプで、テーマに適したアプローチに挑む柔軟さに大変好感が持て、年末に相応しい率直なメッセージを受け止めた。

虚仮威

虚仮威

柿喰う客

本多劇場(東京都)

2016/12/28 (水) ~ 2017/01/09 (月)公演終了

満足度★★★★

女体Sシリーズは第1作のみ、漢字三文字シリーズは「世迷言」以来。久々に柿喰う客の「現在形」を目にする事ができた。(大晦日夜の部の時間帯のお陰。)
中屋敷氏のテキストのノリ、役者の発語のノリ、一つの癖になりつつあるか。昔ばなし的な「語り」の台詞はそれ自体は意味内容が簡易なものゆえ、色々とアクションを沿えたり物言いを「型」に嵌め込んだりしている、という風に見える。(つまり、中身が薄いから勢いやノリで箔をつけねばと思っているらしく見える。)
ただ、息の合った動きや台詞のリレーの「型」、リズムが(好みか否かは別にして)密度の濃い流れを作っていて、そのリズムを壊す(ずっと流れているバック音楽もそこで途切れる)ことで、場面の変化が際立つという事がある。この「際立たせる」手法は、目くらまし的だが作者の「物語」世界には有効な文体でもあろうかと今回見ながら思った。
伏線がそれと知れずに潜伏し、ラスト近く浮上して解消される、という仕掛けが今回もあったが、荒唐無稽でもそれなりに楽しめた(伏線回収の快感があった)のは、サンタクロースという存在を日本の明治維新後の「欧化」された場面に登場させず、地主小作関係がなお残る農村に、欧米的なそれを換骨奪胎して存在させた点にあると思う。伝承物語の翻案の域を出ない本作も荒唐無稽さを目一杯盛り込もうという意志は感じ取れ、そこを応援したくなった。
が、どこか綺麗に「まとめ」ようとする底意も見えて、そうしなくとも成立する劇であって欲しかったのも本心。最後の礼まで「操られた動き」に仕立てていた。「作り事」である事など断らずとも、判ってると言うに・・。

が、村人C~∞や、座敷童役などの「周辺組」による息抜き場面の面白さはやはり「型」の作りとの兼ね合い。ストーリー語りにはさほど重要ではないが、芝居にとってはこの「茶々」が大事なアトラクション。
で、「型」に埋没したかに見えていた俳優らがいつしか心情をリアルに見せ始める後半。「型」で武装して「感情表現下手」を糊塗していたのでなく、俳優には「型」をこなしながら心情もスピーディに表現する高いハードルを課している、が真相かと推察し始めた頃には芝居は終盤。

本心を言えば、今ある力みを3割程度でいい、抜くことで「動き」や「変な物言い」につぎ込んでいるエネルギーを感情表現つまり存在の信憑性(演技論になって来るが)にシフトし、それで成立する芝居を書き、また演じてほしい。

本当の本当の気分を言えば、柿喰う客(あるいは中屋敷法仁)が本当に言いたい事をまだ言えずにいて、周辺をなぞってるか、「まだ本気を出していない」レベルの芝居を「ごめん、今回は書けんかった、今度絶対書くけん」と謝りつつ忙しく駆けずっている姿、を見せられている気分は拭えない。(結局褒めてない。)

コーラないんですけど

コーラないんですけど

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/12/30 (金) ~ 2017/01/02 (月)公演終了

満足度★★★★

高校演劇の流れからか、ナベ源の舞台は装置が簡素で無対象(小道具を使わず「有る」体でやる)演技も多い。その「約束事」を逆手に取り?演技がカリカチュアライズな、コミカルな質感を伴い、「これはお芝居です」の範疇に止まる感が冒頭から既にある。にも関わらず舞台上の役者は笑っておらず真剣そのもの、題材もシビアでやがて観客も笑えなくなる、というパターン多し。
今回の舞台も例に漏れず、クスリと笑える場面満載だが全体にはシリアスのトーンが支配し、順当に、話はシリアスの線をなぞるべくなぞって行く。
「貧困」を描いてはいないが母子家庭をモデルにした時点でその要素あり、案の定、でもないが、「戦争」が身近に存在する未来へと話は直行する。ていの良い徴兵制(誘導型)が如何にも無垢なマスコットガールに誘導される形で実質化している様も、「マイラッキーナンバー」などという歯の浮くネーミングも、無さそうでいて将来「有る」状況が想像された。あの青年のように八方塞がりな状況では、歯の浮く綺麗な言葉に、見せかけの笑顔に、乗ってしまうだろう。なぜなら、そこの他には彼の「立つ瀬」などどこにも無かったからである。
タブレットのゲームに興じる彼のルーティンな動作、時々相手を倒す瞬間に連打する力の入れよう、相手が倒れた時の瞬間的な爽快・安堵感、それらは彼がゲームに向かえば必ず得られる安定したサイクル(+ちょっとした臨場感)であり、「何もしない」怖ろしい時間を回避するため、彼はそれをし続ける(か食べるか寝る)しかない。その事がありありと滲んだ、半分ふてくされた表情。怠惰と浪費と罪悪感から抜け出せない地獄を、膠着した表情の向こうに見る思いがした。
三上氏と工藤氏による母子の劇は淡々と進み、級友や店員やマスコットキャラ等の音喜多氏と、日替わり助っ人が脇で笑わせるが、基本的には静寂のある劇で、説明的でない。音楽は限定使用、転換他の間は埋めず、声も張らない。だからぼんやり見ていると単純素朴な芝居だ。が、実はそこかしこに、ドラマを立体的に浮上させる鍵となる場面や台詞が仕込まれ、ラストにはしっかりと実を結ぶ。
一介の小さな「家族」であった二人が世界の中に取り残されたような最後、母の口から小さな「後悔」の声を聴いた時、私達は彼らを包み込むもの(毛布、的なものだろうか)を、無対象に持ちながら手をこまねいている自分を発見する。

モグラ…月夜跡隠し伝…

モグラ…月夜跡隠し伝…

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2016/12/15 (木) ~ 2016/12/27 (火)公演終了

満足度★★★★

歴史の暗部をメルヘンや冒険譚の題材に取り込んで装置と見事なアンサンブルで魅せる劇団桟敷童子(とまとめて良いのか自信はないが)。メッセージは、悲しくつらい事、人の醜さ、生きる空しさ・・それでも前を向いて行こう。
が劇団も「体夢」あたりから、新たな物語世界への「挑戦?」の姿勢を何となく感じさせ、今回もその一つの形と見えた。そして私的には十分に満足である。
松本紀保は声が裏返り、どうにか千穐楽を乗り切ったという印象。元々(桟敷童子団員のように)線の太い声の持ち主でない。がその声を駆使して芝居の昂揚に貢献し、満身創痍ながら役目を果たした、と言うような風情も、大いに貢献したのに違いない。
今回の作品、「大陸へ行く」という表現があるから時代は大正か昭和か、不詳だが現代よりは古い。舞台は前時代な生活のある山奥。「今より昔」か、「今より昔」な時代の風が吹く場所、である事が重要。数奇なエピソードや人智を超えた現象、能力が登場する。その一方で、山で採れる植物の効能等の蘊蓄が詳しく語られ、聴く・観る者の目を架空の物語世界へと誘い、惹きつける。時に「素」になる笑いまで挿入して「客」を逃がさぬよう「語る」伝奇小説ならぬ伝奇芝居は、唐十郎のそれに「テンション」においては似ており、純粋娯楽に徹した物語には潔さを感じた。
時間単位での情報量も恐らく普段の桟敷童子の芝居より多く、伏線など関係なく次から次と繰り出される、その密度の高さ。これぞ伝奇譚風冒険活劇たる所以。

愛のおわり

愛のおわり

こまばアゴラ劇場

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/12/22 (木) ~ 2016/12/28 (水)公演終了

満足度★★★★

初演を観ていたが、それを今回の再演と見比べる「贅沢」を味わいたくアゴラへ。
台詞の殆どは覚えていないが幾つかの要素を思い出しつつ、しかし芝居は初演に比べ詰まっている・・台詞を繰り出す役割を担う者、止まりでなく、そこに存在する者として観ることができた。よくある男女の別れ、それが互いに熟年にずれ込んでいる事により、多弁はむしろ嘘の上塗りとなる(何も言わなければ・・ただ「別れよう」とだけ告げていたなら、そこで終り、芝居にはならないが頭の良い男ならそうしただろう)。
 もっとも台詞にもある通り、二人は全てを曖昧にせず対話してきた関係ゆえ、男は何かを語らねばならなかった。が、その本音を語るに色々と修飾を施さずにはおれず、裏切った側の疚しさを認めては意思(離縁の)を貫徹できないそうにないから「正しい態度」は取れず、その「不適切さ」を女は見事に掬い上げて指摘し、男に突きつけ認めさせたという寸法だ。
平田オリザによる改稿は、明らかにそれと判った部分もあり、どの程度変えたのか知りたくもあるが、いずれにせよ良い具合に台詞は流れていた(一箇所だけ語尾が気になる箇所があり「おや、オリザっぽい」と思ったがどこだったか・・)。
初演と劇場が異なり、今回は二人の表情を近くから見る事ができた。私の目にはっきり認められたのは女の苦しむ表情。男に反駁する姿は痛快だが、その根底には二人の間で言葉を曖昧に(都合良く)使わせないという意志がある。即ち二人の間にいかがわしい言葉を通用させたくない、かつて存在した愛が偽物だった結論には決してしないという意志である。
この女性の態度・・・好悪で人が離別する事はあっても尚言葉を交わし合う関係は続くのだ、と暗に告げる態度は、男に対する女の愛(=代替不能な関係)の告白でありながら、人間として向き合う(尊重し合う)関係を育もうとする意志・願望の表われでもある。それは言い換えれば希望だ。二人のドメスティックな事情を超えて、そう感じ取れるものがある。
 男女の関係である以上、恋愛である以上、好悪が事の次第を決めるに過ぎない。女はただ未練があるのだ、と一蹴することも可だ。男の心はとうに彼女から離れている。男はただ「そうなってしまった」己を恥ずかしく思っているようであり、その疚しさあってこそ、滔々と前半の1時間喋り続けた。が、男を手放す以上、どこまでも女が惨めなのであり、しかし一個の人間として、愛を知った人間として立ち続けようとする「意志」はやはり彼女自身に発するものだ。
女の男に対する舌鋒が束の間溜飲を下げる一方、足場を失ったような脆さは女の孤独を示す。そして「攻撃」でない語りを語り始める女は、「愛」が確かに愛であった証を示し、「気分」などによっては容易に無に帰せられないと、信じようとする、だけでなく相手に向かって断じる。現在と未来を変えようとするのでなく、過去についての認識、共有し得るものについての議論。いかにも虚しい議論にも思えるが、女は「過去」を現在形に引き戻しそこに「愛」が存在した事を確認しようとする。その「過去」は過去ゆえに虚しいものだ、という考えを彼女は意志によって選択しない。
 現実には時間は流れ、やがて状況も変化するだろうが、その瞬間には「終わった」と感じたとしてそれも一つの真実である。希望というものは強い意志を持って、血の滲む思いで引き寄せるものだ、という事だろうか。否、そうせざるを得なかった彼女が居たに過ぎない・・・主客論争(運命論)の滝に流れ込みそうだから引き返す。が、「感動」の理由は間違いなく「意志」にある。

途中に挟まれる絶妙なハプニングといい、憎い芝居である。

妄想の祭り

妄想の祭り

劇団森キリン

アトリエ春風舎(東京都)

2016/12/23 (金) ~ 2016/12/28 (水)公演終了

満足度★★★

随所で不覚にもうとうとしてしまったためかラストがラストと判らず、台本を購入。妄想する人物と妄想との関係は判りやすいが、関連し合うエピソードの「謎解き」性が弱く、「妄想」をめぐる思索の結論として、作者の真の動機が滲み出るようなものを期待したが今一つ「そうか」と思わせるドキッとさせる瞬間もなく、部分部分面白さはあるのに深め足りない感が残った。際どいテーマに触れる予感もあるが、「焚き付け方」がうまくないのか熱して行かず、勿体ない。凡そ人間の営みは「幻想」「妄想」の介在無しに為しえない・・人間の本来的使命に属するものでさえも(例えば恋愛・生殖・仕事)。・・そんな自己理解を現代人は既に獲得しており、一般的な形で妄想を語られても「そうかもね」で終わってしまうのではないだろうか。この芝居のエピソードの具体性、リアルさを「一般論」の俎上に戻すのでなく具体性を掘り下げる方へ持って行けばどうだったか・・・そんな感想。(いや、そうしたつもりだと反論されると、そうかも知れないなと思うが。具体から出発すると「妄想」というテーマも確定ではなくなる、という意味。それはさすがに・・だろうか。)

ジュラシックな夜

ジュラシックな夜

円盤ライダー

山野美容学院マイタワー27階(東京都)

2016/12/20 (火) ~ 2017/01/15 (日)公演終了

満足度★★★★

初・円盤ライダー。チラシでの認知2回目にして観劇は早い。劇団来歴も役者も知らぬが何となく気になり、村井雄(劇団ペナントレース)作・演出とあるのも後押しして(年頭の主宰劇団公演はインパクト有り)、開演日時も都合よく観劇に至る。此度は会場を山野美容専門学校27階ラウンジ。未知との遭遇に期待、して遭遇叶った事に気をよくして帰路についた。
芝居の方は力の入った、ナンセンスギャグのノリにして実態は男ばかりの体育会系ハイテンション会話劇。奇妙な間合い、テンション、動線も、余韻を引き摺っておかしみを残す。「脱線が成り立つ」スタンダードが提示・維持されていたという事だ。
 バーに既に居る客と、新たに訪れる客。ご都合主義でなく関係が結ばれて行く様が楽しい。他愛ない会話もいい。

ネタバレBOX

ラウンジのバーカウンターの方向をステージに、客席が並べられている。他の三方は高い天井まで届く展望窓から都内の景色を映じており、芝居に入る前段の儀式はこれに巨大なブラインドを引くことである。これが夜なら夜景、晴れた昼なら陰影の趣きと、芝居とは別に副次的な効果があった事だろうがこの日は曇天。始まりも終りも似たくすんだ都内の外貌であった。
合い言葉は「恐竜」。なぜ恐竜なのかは良く判らない。この判らなさが良い。
ローザ

ローザ

時間堂

十色庵(東京都)

2016/12/21 (水) ~ 2016/12/30 (金)公演終了

満足度★★★★

時間堂を2度目にして最終。十色庵は今回が初めてだった。
1度目は一昨年、短くて抽象的な作品だったと記憶。それに比べて、という訳でないが、今作は長編、ローザ・ルクセンブルクを「証言」で浮かび上らせる黒澤世莉氏の作。十分に作家だ。戯曲のメタシアトリカルな構造が演出的にも深められ、演出の放縦な?要求に女優三人+男優一人はしっかり応えていた。柔軟なモードチェンジが後半になる程加速するのに遅れず、(意外にも)手練れであった。意外、とは単に劇の開始時の印象との差だが。そしてこれも自分の中に出来ていた勝手な基準との比較で、最大の「意外」は、硬質な中にソフトな要素をまぶして間違いない作り、つまりレベルの高い舞台だった事だ。作演出家の意図が明快かつ舞台に行き渡っていた。
時間堂という劇団への、これも勝手な印象(HP等での)であるが、様々な試みがそれなりの質で達成されるが、その軸足が「作品」自体にあるのか「演劇的実験」にあるのか、演劇の「是」を広める事にあるのか・・それぞれ「演劇」というものにとって重要な要素ではあるが、どのあたりを「主として」担う主体たろうとするかはあまり気にしていないように見える。「注目される」事を一つの道標とイメージすると、一つ分野でのこだわりと模索が個性を浮上させ、人にそれを伝えるのではないか。・・んな事をこの度湧いた親しみと共に思い巡らした。

ネタバレBOX

登場人物はそれぞれローザと関わりのあった人物で、彼女の死後、ローザを持ち回りで演じながら死んだ彼女に対するそれぞれの解釈・心情・願望を吐露して行く。「演じる」者は赤のレースをまとうルールになっており、「演じ方」のうまさを評したり、観客に自分の印象を告げたり、「何の話だかね・・」と政治論議に茶々を入れたりする。この「茶々」の挿入が私には絶妙で、ローザの時代の「熱さ」と言葉の説得力の一方で、現代の日本の「空気」というものも同等に対置している。そこに作者のある種の強い意志が感じられ、好感を持てた。

アフタートークでのやり取りも興味深かったが、またいつか。
サーカス物語

サーカス物語

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2016/11/29 (火) ~ 2016/12/23 (金)公演終了

満足度★★★★★

『モモ』『果てしない物語』の作者としてのみならず、現代文明の終焉を警告する「ファンタジー」の効用の主唱者という印象のあるミヒャエル・エンデ。その理由は例えば「モモ」で暗躍する<時間どろぼう>というキャラ一つ思い起こせば、納得できる。だが彼の晩年の作品(戯曲作品)である『サーカス物語』には彼の言わせたい言葉がバタ臭いほど率直に、道化のジョジョの口から出てくる。作者の意図というか思いが伝わる分「人物の具体的な行動」をみせる演劇の舞台としては、最後はいささか観念的な、語りの攻撃に対して敵が崩壊して行く形になっている。この戯曲の難しさを、どう克服しているのか・・・それが最大の関心でまた静岡くんだりまで足を運んだ。
ユディというインドネシアの演出家による、観れば合点されるだろうインドネシア色の、従ってアジア的要素の強い舞台だった。とはいえ異国情緒に傾かず、広がりのある普遍性の高い表現になっている。
この戯曲のもう一つの難関である「大きな溝を隔てた向こうの山とこちらで勝負する」場面では、逆光を当てると影絵風の陰影が模様に浮き上がる布を吊って「山」を表現し、その背後で、「語り」に即した影の演技が展開する格好。これもなるほど、だ。
また、「難度」の高さは、サーカス団員が「技」を心得た「様子」である必要。これも、大技を見せずともそれらしく見えていた。人形片手に腹話術で皮肉なコメントを挟む役が一人、技術をこなし、他は動きの身軽さ、全体のアンサンブル、白のメイク。
だが・・実際はそんな審査をする暇も隙も舞台にはなく、俳優らが「俳優」として立ち喋る冒頭からの「サーカス物語」、また物語上の「現実」から劇中物語へと、入れ子構造の大半は最も「内側」のファンタジックな物語だがこのモードの推移に目が離せず、持って行かれた。
劇中で語られる方の物語世界のルールは、「語り手(ジョジョ)の気まぐれ」のせいかいささか都合が良いが、これには聞き手が居て、半年前からこのサーカス団に加わったらしい少し知恵遅れのエリがジョジョに「お話」をせがんだのである。このエリという存在が、「現実世界」で団員たちをある選択の場に立たせる事になる。劇中物語(魔女の住む世界での、お姫様と、彼女がその「影」に恋した王子との物語)は、途中「現実」の場面を挟むが、この「現実」にも「劇中物語」の要素がはみ出ていて、現実世界がファンタジーに浸食されている風だ。(現実の)団員たちも「物語」に参入し、力を合わせて難題に立ち向かう事となる。
この劇中物語が一つの尊いメッセージを紡いで(その力をもって)大団円に至った後、サーカス団の「現実」が待っている。彼らはこの仕事を続けていく(生きのびる)方途を探していた折り、会社が長期契約を希望しているとの朗報がもたらされたが、それには条件が付されていた。一つ、サーカス団は会社の宣伝に協力すること。そして、不要なもの、付加価値を下げると予想される存在は切り離すこと。苦渋の選択を迫られた時、彼らはどうしたか・・
思えば随分ステレオタイプなドラマの図式が、新鮮に感じられたのは、彼らの行為が自然で、切実で、美しかったから。皆一様に「弱い」存在、だから「切り捨てる」事は出来なかったとも言えるが、うまい話を蹴らざるをえなかった「悲しみ」も、深い。「良い生活」への憧れは彼らには正当なものだ。

その前、「物語」において敵=蜘蛛女の山が崩壊したとき、落ちた布の向こうにサーカス団員たちが一列に敢然と立つ姿が現われる。どこか欠陥のある個性的な一人一人を興味深く眺めていた私は、彼らが初めて見せる姿・・心を一つにして力強く、頼もしく・・演出は彼らの頭上から灼けるばかりの光を降り注がせたが・・地を踏んで立つ勇姿に涙せずにいられなかった。(Gメン75が懐かしかったか)

私のいる、宇宙。

私のいる、宇宙。

張ち切れパンダ

小劇場B1(東京都)

2016/12/21 (水) ~ 2016/12/27 (火)公演終了

満足度★★★

ネタばれへ。

ネタバレBOX

「宇宙」のヒモ理論や物理学の最新学説などをそれに詳しい(当事者性は一見うすいが事の真相を意外な視点で浮上させるコナン風の立ち位置かに見えた)高校生に喋らせており(私はカガクに詳しくないが)、この場を支配する世間の常識が彼の証言によって覆され「いつも大人が正しいとは限らない」実例を露呈するシーンがいつ来るのか・・・という関心を持ちながら観ていた。この見方自体は正しい態度だったんではないだろうか?と思っているが、様々な点が線を結ばない時間が長く、元々知らない単語が、どういう文脈で使われるのかだけでも聞き取ろうとしてたまたま観客の咳がかぶって波間に消えたり。(日本語ヒアリング速度も疲労のせいか減衰)
作者もネタを散らしたは良いが「オチ」をつけるのに苦労したのではないか、と想像してしまった。文筆を生業としていた「らしい」父のアイデンティティのありかが不明だし、そうなるとその父と娘との関係も不明。しかも「宇宙」は父が最近興味を持ち始めた領域らしく、すれば父のその俄か興味の対象が、彼の「生き方」にどう関係してくるのか・・等々もぼやけて見えなくなる。かろうじてのオチにパラレルワールドを持ち出し、亡くなった女房が「生きてる世界」を思い、壁一つ隔てたすぐそこに「彼女は居る」、そんなイメージが語られる。この一事は父や娘にとっての母の存在の重さが見えてこそ、意味を持つのであるが、言及しきれていない印象。
時間が永遠であるなら「一切の事象」がある確率において起こり得る、というテーゼは、私たちの生きる実感にとってはほとんど意味がない。むしろ霊魂というものがこの世には存在し、いつもそこに居る、という観念の方がとっつきやすい。
もし仮に「死なせてはならなかった」理由が明確にあり、「霊魂」の気休めでは解決しない、どこかで必ず「生きていること」が重要である、というのだとしたら、それは具体的にどんな場合か、だ。この謎掛けの答えは、もう少しあって良いのでは・・と、言葉の不足を感じてしまった。
今回の挑戦の延長戦がぜひ見たい。
楽屋―流れ去るものはやがてなつかしき―

楽屋―流れ去るものはやがてなつかしき―

オトナの事情≒コドモの二乗

王子小劇場(東京都)

2016/12/23 (金) ~ 2016/12/27 (火)公演終了

満足度★★★★

楽屋を味わう。今回はユニークな配役2バージョンの上演だ。フェスで「楽屋」三昧の5月以来、既に1本観て今回2度目になる「楽屋」。つくづくリピートに耐える戯曲だなと思う。同時に、メタ構造を演技で表現したり、感情の目盛りの振れ塩梅など、難しさもある。
「をんな編」の特色は、キャラのくっきり棲み分けた三女優と、唯一の生者を演じる女形の取り合わせ。戯曲はリアルな形象を追求したくなる所、「女形」の非リアルの扱いはやはり難しい。4男優で演じるバージョンも観たいものだが、「女形」一人の混入では企画の「意図」までは読めなかった。既に「女」である事の有利さ(という言い方も妙だが)を謳歌する三人に比べ、塚越健一の女形は物怖じせず堂々と演じてそれなりだが「男」の身体で演じるハンディを、どんなメリットでもって相殺、あるいは凌駕するのか。。病んだ小娘に舐めた態度を取られ、普通なら一瞥をくれて事は収まるのに今日ばかりは、自らの女優人生の来し方が思い出されて感情が高ぶってしまう。主役の座を追われる事への恐れは彼女の体に沁みた苦労と裏腹で、生理的な反応である所、女形の演技はやはり理屈が勝って、男性的に見えた。同じ女性であり女優を目指す者同士、敵愾心はあってもどこかでかつての自分を見て愛おしくなる両面の感情があるはず。これを表現し得るのは、女性の身体しかないのではないだろうか・・。
フェスで4バージョンあった燐光群の役の組合せの中に同じパターンがあり、一見面白いが「限界」の方が意識されたのと同じ感触だった。とは言え、大きな違和感を感じさせない内に最後の場面へとバトンを渡せたのは、女形としての実力だろうか。
出色は「三人姉妹」の場面に畳み込むラストの三女優のアンサンブル。各人はポイントとなる場面での感情をしっかり伝え、それらが効いてぐっと説得力あるラストシーンに結晶した。人生の輝きの日を切望する姿は「もう遅い」ゆえの哀れさでなく「まだ先がある」希望=美しさに包まれてみえた。
テーマにジャズ組曲を据えたのは無難、というか最上の選択ではないか。

ネタバレBOX

「フェス」のあった梅ヶ丘BOXが「正解」とは言わないが、楽屋らしい広さというものがあるとすれば、王子小劇場の壁をそのまま壁として使う広さは、雰囲気としてもう一つ。ただ、照明が床近辺を明るく、一定高さの部分を暗めにしていたり(喋る人の顔が影になる事も)など、霊の世界らしい雰囲気をうまく出していた。
ルーツ

ルーツ

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2016/12/17 (土) ~ 2016/12/26 (月)公演終了

満足度★★★★★

KAAT大スタジオ一面が高低差のある「町」で、左右のバルコニーも「路」の延長として役者が移動に用いる。その意味で舞台の隅々までこの世界の秩序の行き渡り感が視覚的にも圧倒して、隙が無い。閉山した「鉱山(やま)」らしく、黒くくすんだ町(というより廃村に近い)の全容、この地にへばりつくように暮らす住民たちの独特な、歪つな、猥雑なエートスが、この僻地にやってきた青年の眼差しと体験を通して顕在化していく。「個と集団」を探る企画の狙いが、作者・松井流に執拗に追究され、答えの無い混沌の中に放逐される。「砂の女」のテーゼがなお探求に値する今の現実があるという点には同意。
休憩10分を挟んで2時間40分。架空の村の生態観察は、言わずもがな変態性に満ち、私には好みである。

ネタバレBOX

この芝居の「主人公」とも言えるこの「村」の歪さは、ある一点(村独自に生み出した宗教的慣習)にあり、村で自身のライフワーク(古細胞の研究)を続けることを望む青年は、他の事では村に従うがこの一点において村の趨勢に抗い、英雄的行為に走るという割合爽快なラストがある。
だが、宗教を生み出す「異常さ」にでなく「必要」に迫ろうとした戯曲ゆえ、その部分をもって「歪」の判子を押して打ちやるには躊躇いが生じる。
話の時代設定ははっきりしないが「今」ではなく、廃坑以来何十年かが経った、戦後のある一時期のよう。すれば世代は3世代ぐらいか。しかし村の宗教的挑戦での「神」第一号に当たる男(年齢不詳だが老齢ではない)が、「神」の任を解かれ、次の「神」の誕生への代替えの儀式が、(この宗教の開闢以来・・つまり十何年だか何十年だかを経た今)第一回目のそれとして芝居の中で展開する。ここで奇妙なのは、実験の途上でもあるこの宗教が、その独特で柔軟性のない=具体的な実践に他者を巻き込む教義における「次段階」が到来した時、村人は「初めて」の経験でも「信じる」ゆえか戸惑いがない。想像するに奇態な心理状態がよぎって嘔吐しそうになる。
ところがなんとここで、(この教義であれば当然)「あってもおかしくない」事態が起きる。それまで「神」とされた者が「解任」された事により人の視線をまともに受け、パニックを起こすのだ。それは「醜態」と呼ぶに相応しく、村の発明品(宗教)を無言の内に酷評されたに等しい。いかにひどい「試み」であったかの証左となる。そうすると、その時点で「神の目」を持つ観客は、村を脱出しようとする者、村の大勢に抗う者が本質的に「英雄」であり主役の側である、と感知する。
だが。・・「神」を必要とする事と、その「神」を頭上に頂く「方法」についての是非は別であり、世から打ち捨てられたような村で慎ましく暮らす彼らは、励まされこそすれ、一点の過ちで指弾さるべきでない、とも思われるのだ。
松井氏は単純な答えを用意したとは思わないが、この芝居での集団(村)は目先の利益のためでなく、極めてまじめに、人間救済の宗教を生み出そうとした、そこは間違いないように思われる。そして(キリスト教が発祥当初そうであったように?)カルト化していることには間違いないが、一方「私は神を<生む>人になる」と宣言して母と妻を廃業した女性の登場など、物語の副流ではカルトの権力構造に(結果的に)切り込む事で「宗教」自体に普遍性を付与させ行く契機・・世界宗教のような・・が垣間見えたりする。
「外」からやってきた青年の現代的な感覚は、差別にさらされた村で細々と暮らす感覚に比して格段に「軽」く、ヘラヘラと見える青年のほうに自分を重ねた観客も多いだろう。「閉じた」村であって何が悪い?という台詞もあった。ラストでは「村」的思考の敗勢がみえたが、一つ一つの問いは容易に答えへと導かれない。
・・終演後、「私はどこに行っていたのか」と思う。希有な体験を持ち帰り、吟味しようとするが、松井氏の爽やかな童顔と変態的存在性とのギャップに悪夢を見そうになる。
奇怪な人物(関係)の景色を、舞台上に生み出した仕事には敬服。
エノケソ一代記

エノケソ一代記

シス・カンパニー

世田谷パブリックシアター(東京都)

2016/11/27 (日) ~ 2016/12/26 (月)公演終了

満足度★★★★

三谷幸喜作舞台を初観劇。サンシャインボーイズとか伝説だしシアタートップスは既に無かったし(年表的にはさほど「昔」でも無いらしいが)。近年演劇作品をコンスタントに打ち出しているので、映像の仕事が減ったか演劇熱を再燃させたか、いずれにせよ「往時の勢いに及ばず・・」等と失礼ながら勝手に見越して観に行った。
三谷的世界を発見。伏線とその独特な回収、笑わせ方の妙が三谷的、と納得するものがあったが、序盤で笑いを取りそびれているように見え、世田谷パブリックを奥行き浅く使ってるのに広く感じる。「毒」を期待したところへウェルメイドの風が流れると、やや肩透かし。だがそこは猿之助の人情を震わすワザが十二分に補い、最終的には熱烈なエノケン・ファンたる人物像がオーラスのオチを堅固にした。
終幕の構図の美しさを見るに、この瞬間のために作られた構造物としての脚本が三谷氏の「仕事」なのであるな・・という印象だ。(過去作品で映画化されたものなどを観ての印象がそう。)
ただ、やはり伏線とオチが約束する「どう演じてもさほど外れのない」という意味での完成度の高い脚本は、「演劇」をある一面的な魅力に押しとどめてしまう面もあるという、(ウェルメイド品への)実感を裏付けもした。俳優が「人間」として複合的・多面的に持つ「リアル」を捨象してしまわずに脚本の構成の妙を生かす、両立の難しさを思う。三谷氏がそれを志向したならまた面白い代物になるかも・・。三谷演劇素人の感想。

紛争地域から生まれた演劇シリーズ8

紛争地域から生まれた演劇シリーズ8

公益社団法人 国際演劇協会 日本センター

東京芸術劇場アトリエウエスト(東京都)

2016/12/14 (水) ~ 2016/12/18 (日)公演終了

満足度★★★★

滅多に触れられない国/域の「演劇」を短編リーディングで手軽に観られる機会だが、毎度の年末。今年は運よく早くに公演チラシを手にして、2編中1編を観劇。
俳優一人によるリーディングで、毎ステージ異なる読み手で計4回。これが変わり種の台本で、俳優・観客ともにスリリングな体験となる。作家の言葉を代弁する俳優は純粋な意味で作者の媒介となっており、作者の自由奔放にしてある意志に貫かれた言葉が、観客を、俳優を揺さぶり、時に卑近な、時に壮大で高邁な思想の次元に導く。こうして過ぎる「時間」が意識される。
作家と、そこから距離を隔て、また時をも隔てた我々との「関係」とは何か・・単なる「芸術作品とそれを鑑賞する者」を超えた意表をつく呼びかけに戸惑い、ほくそ笑み、考えをめぐらす時間だった。

ネタバレBOX

場当たり性、即興性の高いパフォーマンスとは言え、当初50分から70分と聞かされた上演時間が、美加理氏の堂に入った余裕の読みと仕切りで100分を超えてしまい、後の予定を取り消すことになったのは少々残念。が、作品の性質上、これは飲まざるを得ないな・・。
挽歌

挽歌

トム・プロジェクト

藤沢市湘南台文化センター・市民シアター(神奈川県)

2016/12/13 (火) ~ 2016/12/13 (火)公演終了

満足度★★★★

「挽歌」として詠む、歌。
劇団チョコらしい/トム・プロらしい舞台。前者は古川健氏の誠実な筆致、後者は俳優たちの佇まいから。
東京公演には時間が取れず地方公演へ赴いた。作者が「福島」をどう描いたかをどうにも知りたかった。
原発事故被災地としての「福島」への切り口に、これは意外な、しかし優れた着想だ。

ネタバレBOX

数首の短歌が冒頭に読まれる。高橋長英の低く押さえた声が響くと、「喪失」と「寂寥」の風が吹いて会場をさらってしまう。「状況」がこれらの歌を生み、歌が状況と思いを伝える。・・既にここに「答え」が有るので、芝居の展開に意外性が乏しいのは今作については憾みでもあるが、やむを得ない所だ。劇中の短歌が作者の作なのか、誰かの借用かは分らないが、、31程度の文字が芝居の中で持つ浸透力に、驚いた。

ホームレス支援の現場らしいディテイルが一瞬みられるが、そうした所作に滲む「良心」の人間像が、主役の安田成美を筆頭に、群像として描き出されていた。
芝居を強力に支えているのはホームレス役の高橋氏で、この静かな芝居の「静かさ」に滋味を与えている。

帰還困難区域を抱える、第一原発に近い大熊町出身者が避難先の会津で作るコミュニティの一つが、舞台中央の畳の一間に集う、短歌グループ。
ただ、劇中に紹介されるのはこの(メンバーでない)「ホームレス歌人」の読む歌だけである。冒頭そして半ば、さらに最後と幾首かを紹介される。
最初は上記の短歌グループが新聞(役所の広報誌だったか)を通じて呼びかけた短歌募集にこたえて、役所に送られてきた(切手がないため直接投函した事が推測される)。
最後の歌は、姿を見せなくなった彼が、グループのメンバーと一度だけの交わりとなったその夜を経て、やがてもたらされたらしい心境の変化がにじみ、メンバー一人一人への、一度だけ交わした言葉に対する返歌となっていた。
歌は劇中にナレーション式に流され、心に沁みる。「孤独」を決め込み、事故への罪意識に埋もれていた彼の(死地を求めるかのような)漂白に、「歌」と共に生きた先人の姿も重ね合わさる。戯曲上の憎い計らいだ。
冬を終えて春の到来を予感させる仄明るさがにじむ歌の、文字の向こうに何かを見ようと、メンバーは顔を寄せ合って紙片を眺めている。そして照明はフェードアウト。
ラストの「形」は定番とはいえ、地域内の対立を生む構造を強いられた「福島」の現在を蓋することなく描いたゆえに、取って付けたような「希望」にはならず、「何が希望なのか」を考えるよう観る者に促していた。
語らなければ、忘却を自他に許しているのに等しい・・とすればよくぞ語ってくれたと、挙って評価すべき作品だと言える。

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