tottoryの観てきた!クチコミ一覧

1381-1400件 / 1809件中
天の敵

天の敵

イキウメ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2017/05/16 (火) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

満足度★★★★

何だろうこの感じ。何に騙された?のか?
演劇って本当に、面白いもんですねえ。

ネタバレBOX

「飲血者」という自ら選んだ在り方が、宿命としての在り方となり、マイノリティとしての存在の呼称となる。そして自らその在り方に終着点を与えようとする逆転。それが「もう十分生きた」満足からの決断ではなく、その在り方を続ける意義をついに見いだせず、弊害を突き付けられた事によるという事実は、彼に取材した聴き手(記者)の在り方、即ち緩慢な死への途上であるという在り方との見事な対照を炙り出す。
この一見荒唐無稽な話を聞き終えた記者が「いやあうまく作られた話だ」と、嘯くその口はすぐさま閉じられ、観客はこれは一体何の話であったのか、狐につままれた感で虚空を漂わされる中、記者の沈黙がやがて嗚咽に変わるに及び、これは己らが寸息なくそれに翻弄されている代物についての話であった事を思い出す。事ほど左様に直視できない、限りある命よ。
俳優の的確過ぎる演技と、嫌みなく挿入された笑いと。褒め所は多いので省略する。
爪の灯

爪の灯

演劇集団円

シアターX(東京都)

2017/05/19 (金) ~ 2017/05/28 (日)公演終了

満足度★★★★

角ひろみ作品の舞台を初観劇。新人戯曲賞受賞いらい頭の片隅にあったが、その公開審査で最終対決となった清水弥生作「ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド」を自分が推していただけに少々複雑な思いがあった。その印象を思い出すと・・鴨長明を取り上げていた。作者自身の思いよりは企画のオファーに応えた感が漂うが、作風なのかも知れぬ、と判断保留。言葉使いに静謐さがあり有能な書き手である事は確かなようだが、巧く伏せて巧く謎解きを施す、手法に目が行く。その手法は、作者の地元中国地方を襲った豪雨による災害があった年(だったと記憶する)、川の流れをその連想に導きつつ鴨長明にも重ねる「点線で導くような」叙述で発揮されていた。作者が何をどれ程取材したかは判らないが、その苦労(があったとして)を感じさせない作品で、受賞は筆力への評価に着地したとの印象だった。

その戯曲の印象が思い出される観劇だった。撒いた種を最終局面で早業で刈り取る筆には唸ったが、それまで不分明に置かれる時間は私には長く、座りの悪さは否めない。
もう一点は、(受賞作同様?)高度な舞台処理を求める戯曲だったのだろう、役者の「言い方」「処し方」が明らかに違うと思える箇所があり、もどかしい。さらりと流されるがその台詞のはまらなさが、「分からなさ」を広げていたと感じる。役者全員とは言わないが、戯曲の世界との乖離が、ラスト手前あたり、淋しかった感じがある。
ある種の演技、「相手からもらえ」という言葉で導かれる演技が、必ずしも有効でない例では?と思い巡らせながらそこを見ていたが、正解はテキストを発音する人形としてまず存在する事が第一、その上に「関係」が探られていく、という順序ではないか。適当だがそんな印象はある。

円の舞台は数えればまだ二度目。円の神髄はここに‼ という発見を、いつか。

エンドルフィン

エンドルフィン

モノモース

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/05/24 (水) ~ 2017/05/29 (月)公演終了

満足度★★★★

実力ある演者の風変わりなユニットが悪い芝居の山崎彬に作・演出を依頼した作品。

ネタバレBOX

夢の島ならぬ希望の島が、未来(あるいは架空の世界)のごみ捨て場となっている。
ここに捨てられた子供が、ごみの島でサバイバルする。何年かが経って、同じ境遇の盲目の女の子が現われる。ごみの中での二人の蜜月、死別。主人公の青年も既にいない。衰弱した状態で彼を発見したジャーナリストから渡されたボイスレコーダー(スマホ)に、男が吹き込んだ語りが芝居を構成している。・・以上が全て。ロビンソンクルーソー的に、物語実験になっている。人が訪れないごみの島。一体どんな時代を(外界は)迎えているのか・・孤独を受容するだけの生活循環の安定を得たのか・・火を使わないのはなぜか(なぜそういう設定にしたのか)といった疑問に、自分なりの解答を探り与えつつ物語を追う。グロい描写が際立ち、答えは霞んだままだが、熱情をこめた演技の爽かさがグロさを相殺、というか、昇華させていたと言えるだろうか。
最大の関心は、このユニットが今後どんな形で続けられて行くのか、だったりする。
バージン・ブルース

バージン・ブルース

うさぎストライプ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/05/04 (木) ~ 2017/05/21 (日)公演終了

満足度★★★★

役者力とオーラの勝利。

ネタバレBOX

開始から間もなく明かされる特異な設定。その後は台詞運びも普通、台詞の言い方もわりと普通。場内には「うふふ」という笑いがさざ波程度に時折起こる。好意的な笑い、つまり役者個人への好意の表明・エールの笑い。・・この気分では酷評になりそうなのでしばし休息。
二人の父に育てられた娘が結婚の日を迎える。相手の男は登場せず。二人の父と娘の三人家族が形成される経緯を描いた過去シーンが展開するが、適当感あり、役者も信じ切って演じてないというのが、敢えての演出なのか、見えている。あり得ない話ではないが、真実味を強調してもいない。
結語として「自らステップファミリーを選んだ実践例」の価値をほのめかすオチなら、不要なシーンが多い感じがする。「ある特殊なお話」として際立たせるには、理屈が勝っている気がする。緩慢に感じられたのはそのあたりが原因だ。
が、堂々たる小瀧万梨子のラストの真情吐露(結婚式での父父への挨拶)がどうにか芝居を成立させた。志賀廣太郎、中丸新将の冒頭のやり取りの噛みそうな芝居は、役者個人に見えても良いライブな演技モードで荒唐無稽さを中和する狙いと合点したが、それも緩慢さに加勢したのではないだろうか。全編、緩い空気だが、緩い演出ならピリリと辛い中身が欲しいし、緩い中身を表現したければ逆にタイトな演出が欲しかったり。
もう一歩「正解」に近づけたのではないか、という感触が残った。
「風のほこり」「紙芝居」

「風のほこり」「紙芝居」

新宿梁山泊

芝居砦・満天星(東京都)

2017/04/26 (水) ~ 2017/05/07 (日)公演終了

満足度★★★★

ふいに出来た時間で、久々のアトリエ観劇。「風のほこり」のみの観劇だったが、詩情が流れる荒唐無稽な世界、というか、即物的だったり無機質なものに詩的なイメージを当て込んで世界を立ち上げる唐十郎の世界が、今回なりのオリジナルな形で広がっていた。
唐ゼミが上演した頃(未見)、近年賞を取った作品だと知り、よく読めば梁山泊で初演とある。主役渡会久美子への当て書きで今回も度会が演じた。フォックの壊れたスカートのめくれから臀部を覗かせる奇妙な演出(戯曲)が、分かりやすい特徴。最初は大ミスではないかとやきもきした。というのも臀部を見せる必然性がなく、台詞で説明が施されるのは暫く後になってからである。唐十郎が梁山泊に書き下ろしたという後期作品だから、そのあたりを読めずに書いてしまったものかな・・あるいは悪戯心のなせる業か・・など詮索をしてしまう。
 この作品のモデルは唐十郎の母であり、彼女は一度、当時あった劇団に作品を書いて送った事があるのだという。義眼であった母にまつわる幻想的な物語が舞台だったが、事実としての母のエピソードのほうに関心が向く。唐にとっての特別な作品、従って他の作風と少し違う・・という具合であっても欲しいところが、他の作品と同列に並べて不自然がない、つまりさほど特別でない作品である事に、その経緯を読んだ後で少し物足らなさを思った。でも、これが唐十郎である・・という事なのだろう。
初演時の配役に懐かしい顔があった。本作とは関係ないが、鄭義信作品をもう一度梁山泊でやってほしい。

鰤がどーん!

鰤がどーん!

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2017/05/03 (水) ~ 2017/05/07 (日)公演終了

満足度★★★★

年末公演に続き、少数精鋭?旅費が浮く、セットも簡素な(それは毎度の事だしポリシーかも)舞台。観客の想像に委ねられるのは演劇の利点だし、観客との共同作業で成立させるのが芝居だが、長屋の花見のお酒(お茶)のやせ我慢の要素もなくはない。想像を逞しく、研ぎ澄ませたいのだが・・。
恐らく私の弱点だが、視覚的な無駄(美的要素)がさほど追求されないせいか、なべ源の芝居は思い出しづらい。場面場面の景色を都度都度、脳内で想像して補う観劇である。後半になって前半描いた図を修正したり、といった事もある。よ~く思い出せば記憶にあるのだが。
 今回は東日本大震災(津波被害)、高校演劇の顧問、浦島太郎の亀の三つのキーワードで作劇がなされていた。趣深い場面はあったが、私には薄味であった。扱う中身は濃い。だが他のなべ源作品の要素が組み込まれていて、その分薄く感じてしまった。
津波は「もしイタ」に重なり、劇中劇としても(他にも多く引用したらしい高校演劇演目の一つとして)感動の場面が再現され、思わずこみ上げるものがあったが、それは「もしイタ」の場面を思い出したからである。また、毎回入選せずに終わる大会に向けた演劇部の毎年の活動サイクルが、少しずつ省略されながら何度も何度も続くという場面がある。これは「原子力ロボむつ」を彷彿とさせる(むつのほうは年代が1000年ずつ飛ぶというものだが演劇的手法として似ており、演劇部のほうは所作を少しずつ減らして「同じ事の繰り返し」である事を「省略」によって表現する。だがこの減らし方が緩慢で長すぎ、上演時間を稼いでいるとさえ感じる)。
繰り返すこととは、一人の人生の営みでもあり、四季の循環でもあり、世代の移り変わりでもあり、無常観を漂わせる。自然そのものの営みの中に、津波というものも含まれていて、人生における「繰り返し」は広い意味での自然・宇宙に承認された「あり方」である・・といった哲学に導かれる気もするが、ドラマは「変化」の余地を観客に探させるものだ。だからその逆を表現するなら「そうではない」と知らせる何らかのインパクトある要素がほしく、やはり変化は訪れるものであるなら、どのような形で、それは訪れるものだと語りたいのか、もう少し舌足らずに思えた。
というか、焦点はそこになかったのかも・・。
間違いないと思われたのは、風化して行く災害の記憶を、如何にして風化させず「今」という時に立ち上がらせるのか、そしてそうすべき必然とは何か・・その問いに応えようとする仕事であった事。
新たな発想を盛り込んでくる、なべ源の次が楽しみ。

ズルい奴ほどよく吠える

ズルい奴ほどよく吠える

雀組ホエールズ

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2017/05/17 (水) ~ 2017/05/28 (日)公演終了

満足度★★★★

久々に新規劇団を開拓。シアターグリーン界隈で馴染みらしかった(そして見なくなった=従って観劇に至らなかった)幾つかの劇団の名を思い出したりしながら、観劇日を待つ。
当日は後部からの俯瞰で、劇場の舞台の体裁や美術の「作り物感」に、はじめは抵抗(入り込めなさ)を覚えたが、即興の感さえあるスピーディなくっ喋りを挟みながらいつしかストーリーに引き込む。伏線が敷かれた後、軽妙なテイストらしからぬ「事件」が起こり、らしからぬシリアステイストで真相が紐解かれていく。(評判の良い)ラストの謎解きに関する評価はおくが、現実にあり得る「悪」を悪としてストーリー上で露見させ、きっちりと鉄槌を食らわす場面が書かれていた事には、痛快とはこの事を言うものであったと、妙に懐かしさに見舞われた。
所狭い舞台をうまくさばいていた。

ネタバレBOX

東京五輪開催のための用地買収の対象になった、何代も続く工場兼住居の家族を巡るスキャンダルと、その家族の一員の青年(確か工場の若社長の弟だったと思う。違ったら失礼)が夢叶って教員として勤めていた私立学校におけるスキャンダル。この二つは裏で絡んでおり、前半に起こる「事件」とはその教員であった弟の自殺(学校の屋上から飛び降りた)であった。もっとも警察で自殺と断定されたものの、親族は他殺の可能性を疑っている。
どうみても彼は「殺された」としか考えられない展開で、実際に物語には学校法人の有力な財政援助者である某が登場し、自分の息子が行なった悪事を叱った若い女教師を非難すると、唯々諾々の女学校長とその金魚のフンに忖度させ女教師を担任から外させるなど、影響を及ぼす。その男が実はヤクザ(っぽい奴)で五輪用地の利権に絡んでいる。
さて辞めさせた担任の後釜に、弟が座り、学校内で抗えない立場となり、回り回って実家の土地家屋売却に同意する事となった、という。同意書には男の印鑑が捺されているが、あるいはその事が心のしこりになったか、など色々と想像されるが、少なくとも弟を追いつめただろう嫌疑は、芝居の中では固まっている。
さてその上で、弟は本当に自殺したのか(いや、自殺はないがどういう死に方、いや殺され方をしたのか)は中々明らかにならず、最後の最後に「謎解き」される。
この謎解きの前後が、少々問題ありに思われる。

社会の時代的背景と、そこから大いに生じ得る事態が、うまく描出されている。現に「金」の論理が人を、世の中を動かしている時代に、この芝居はそのカラクリに踏み込み、為政者を想起させる対象への揶揄・批判の台詞が堂々と吐かれている。
そして、法では正義をなしえないこの事件を裁く男として、家長である工場の社長がチャカを忍ばせて自殺現場の屋上を訪れ、銃(実は偽もの)に物を言わせて自白させ、悪を暴いて行く。
だが、ここで、最後まで明かされなかった事実が、語られる。それは次の通り。
・弟は、自分は立ち退きに反対だ、という。そして地上げ屋の追い込みに合い、屋上の敷地の際に来ざるを得なくなる。
・そこである事実が告げられる、それは彼の姉(つまり社長の妻、だったと思う)が売却に合意してしまった事。偽造と思われたその同意書類は、彼女なら本物として作れた、という事である。そのことに少なからず衝撃を受けた弟だが、自殺ではなく、あるタイミングでバランスを崩し、完全に事故として飛び降りる(落ちる)事になる。
この「真相」は、自殺どころか事故であり、他殺ではなかった、というものだが、「悪」として追求されてきた事実の焦点は、利権を求めて一人の人間を追いつめた事であり、そこは全く揺るがない。それによって屋上のやり取りへと発展したのであるから、間接的「他殺」と言っても過言でない訳である。「敵はそこにはいなかった」とは、行かないのである。きっちり、そこに、その本質は変らずに、悪は存在している。
気になったのはそこだ。悪を追いかけて、追いつめた。そして、現に悪は存在した。だが「弟を殺したのは誰か」を法的に理解するなら、激昂して屋上からバランスを崩して落ちて死んだ、というそれだけの顛末だ。
だが考えてもみよ、主人公である社長は、法で裁かれない悪を裁こうとやってきた。その事で言えば、たとえ彼の妻が借金苦から逃れさせたい「良心」からとは言え黙って立退きに同意した事は、淋しい事ではあるが、彼にとっての「敵」の姿を何ら違える事ではないのだ。
ところが、「なんというどんでん返し」「敵は身内にいた」と、まとめられてしまうと、地上げや土地買収のために手段を選ばない「金の亡者」、彼らを動かす「金の権化」は、免責されたッてこと?と訝ってしまう。否である。
溜飲を下げさせない展開が悪いというのではない、ただ、敵と認識しつづけて行かなければならない対象を、あれしきの展開で忘れないでほしいものだ。・・・と、これは観客への文句になってしまった。仕方ないが、ここは譲れないので書いてしまう。→→登録、ON!
60'sエレジー

60'sエレジー

劇団チョコレートケーキ

サンモールスタジオ(東京都)

2017/05/03 (水) ~ 2017/05/21 (日)公演終了

満足度★★★★

劇団チョコレート的には、歴史の検証。その対象が高度経済成長期の日本というわけである。戦犯裁判や皇室やセクトといった特殊な状況を描きながら、その状況にあっての「日常」をしっかり描出できる劇団にすれば、昭和の下町の廃れ行く蚊帳工場が舞台であっても何ら遜色ない。人情あふるるある意味典型的なお話が、むしろ水を得たとばかり、俳優の躍動を引き出していた。
蚊帳作りの具体的な手法や用語が出てこない事に中盤気づくが、どんなオチに繋ぐのかという関心がよぎる程度、ドラマ的な濃さをそぐ事なくラストまで畳み掛けられた。
見る者が懐古的にならないと言うと嘘になるが、人情噺を構成する素材でなく描く対象として「時代性」、歴史に対している。例えば近所の紙芝居屋は昼間っから将棋を打ちに工場へ来る。打つ手を考える様は時間を刻みながら働く現代の勤め人にはない、計測しない事で得られる先の長い時間というものがある。
もっとも芝居を牽引していたのはリアリズムのみにあらず、江戸落語の人情長屋の世界を若干トレース気味。工場を仕切る長男(西尾)の好演は大工の棟梁、その妻は夫に引けをとらない人情の厚いおかみさん。女性は一人だから成立したキャラでもあろうか。空襲でやられた足を引きずっている設定が憎い。三代目になる社長の兄を手伝っている弟(岡本)がまた好演。これら昭和人情伝の登場人物は、芝居の冒頭の現代に亡くなった老人が遺書を通して語る劇中劇の人物である。主人公ももちろん、本編である回想シーンに最も若い人物として登場するが、集団就職組で上京した金の卵であるから血の繋がりもない。他人でしかない彼に対し、夫婦が高校通学の援助を買って出るあたりから、長い「最も良き日々」が始まる。彼の述懐(声)に導かれての長い回想だが、ポイントは夫婦には子どもが居ない事を、誰の台詞を通しても、素振りでさえも、触れない事である。10年後に別れる事になるまでの、その夫婦と主人公との一見特別にみえる関係が、その時代に流れていたものの証明として主人公は述懐し、時代の風景としてこの物語が描かれているのもポイントだ。こんな天晴れな人がいた、という話ではなく、時代とそこに漂っていたなにものかを描き出そうとした。批評性のある昭和人情伝。

「シェフェレ」女主人たち

「シェフェレ」女主人たち

ハット企画

「劇」小劇場(東京都)

2017/05/11 (木) ~ 2017/05/21 (日)公演終了

満足度★★★★

黒テント創立メンバー服部吉次とその所縁のベテラン女優による企画、今回は本格的な舞台という事で注目、そのためステージ数が多いという事もあり、初観劇となった。演出と美術に欧州人の名があり、カーテンコールでも呼ばれて出ていた。戯曲も秀逸だが、ローマ法王との恋や信仰についての台詞など、欧州産である要素を日本人がどうクリアするか、会話主体のシュールな戯曲であれば一層難しいが、三女優はその問題を凌駕した地点にいた。
舞台は日本人離れしていながら、言動に必然性のある、しかしどこか幻想的で、クソ・リアリズムが鮮烈な、なかなかお目に掛かれない代物であった。

「蝉の詩」

「蝉の詩」

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2017/04/25 (火) ~ 2017/05/07 (日)公演終了

満足度★★★★★

これは五星にしませう。炭坑三部作にもあった兄弟(姉妹)愛のモチーフだが、そのバリエーション(同じ轍に流れない)の書き分けに驚かされる。筑豊炭田を流れる遠賀川の船運送会社の斜陽の時期を捉えた物語で、四姉妹の次女と三女、父、三女を慕う青年四名の客演が申し分なく馴染み、良い意味で際立ち、複数のエピソードの絡まり具合といい、時折「劇」をはみ出す笑い取りといい、二次曲線的に競りあがる激情の瞬間といい、全てが絶妙な按配で「静かな屋台崩し」のラストもドラマの理に適い、完成度という言葉を使うなら、高い完成度を達成した桟敷童子の面目躍如たる、というか往年の舞台。

ネタバレBOX

甘い結語に流れがちでもある桟敷舞台の中で、鋭く光る断片的な言葉が時折耳を刺激する。その背後の、現実味のある現実と言えば、例えば・・被占領国となるという事はどういう事か。身を粉にして働き、病んで死んで行くという事はどういう事か。
米兵による強姦殺人の被害者となった沖縄女性を想起する。そうやって劇場の「外」との関連の線を見つける。劇世界の中で完結したい願望と、しかしその中に作り手がこめた「現実」というものの断片を拾うべき義理とを思い、私は「米国に占領され、そして今も協定と密約によって法的に米国による占領に等しい状況にある」という事実を、この作品の横に添えおきたい。
この丗のような夢・全

この丗のような夢・全

水族館劇場

新宿 花園神社 境內特設野外儛臺「黑翁のまぼろし」(東京都)

2017/04/14 (金) ~ 2017/04/23 (日)公演終了

満足度★★★★★

笑い泣き有りの路上劇(多分さすらい姉妹)を歳末の寄せ場(所謂越冬)でやってて、あれの本体は水族館劇場と言うそうだ、と耳にしたのは十何年か前。最近HPを見つけてチェックするようになり、夢の島公演、これに二の足を踏んだ所、その年に知り合った芝居好きがその公演の事であろう、心底衝撃を受けたと証言。
それで次の太子堂公演を観、年末寄せ場のさすらい姉妹(今もやっていた!!)を二年続けて観た。こちらも芝居的には一趣向だったが、本体のテント公演の何力と呼んで良いのか言葉が浮かばぬが、圧倒的なその持てる力を今回は存分に堪能した。

初の新宿公演即ち花園神社進出、なのだとか。四方に足場を組み、傾斜客席三百席。梁山泊の十八番である池も作られているが、こちらは鯉が泳いでいそうな苔むす濁った水、これに役者が飛び込む。幕間の余興芝居で釣り師が本物の(まさか作り物ではなかろうというリアルさ)巨大な錦鯉を抱えて登場するというこだわりだ。

アングラ的尺度(紅テント的尺度と言った方が良いか)に照して、往時のエネルギーに最も肉薄しているのがこの一座なのでは・・。
役者力をみせる者もいるが、モロ素人の起用率は高く、古参女優二名は名優と言うよりきわもの感を湛えた怪優の類。だが妙なる台詞に導かれ、幻想物語は進行する(宣材に書かれたあらすじが補助になるかは怪しい)。奇妙な展開に意表を突かれ通しだが、作り込まれた舞台による説明不要で言葉を封印する屋台崩しのカタルシスは「正統に」追求されており、その中心に「水」がある。

唐十郎的世界=遊戯性と革新性を互換させ得る表現は、安全圏を相対化する危うさを醸すが、これ即ちアングラであり、源流は「面白がる心」のようである。

忘れる日本人

忘れる日本人

地点

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2017/04/13 (木) ~ 2017/04/23 (日)公演終了

満足度★★★★★

KAAT公演は初地点観劇の「悪霊」、「三人姉妹」、前回の「スポーツ劇」に続き四作目だが、毎回新たな舞台構造(役者の動作や発語を制約する法則性を伴う)を作ってみせ、想定など元よりしないが無意識の想定を必ずや裏切られるのが、今や快感である。
今回は大スタから中スタに移ったが規模を縮めた訳ではなく、2スペースをぶち抜き、大スタにあるバルコニーが無い分むしろ開放感が増している。
中央に白木の舟が置かれ、周囲の空間を十分にとって紅白の紐で四角の結界を低く渡してある。
七人の俳優の衣裳が奇妙である。モンペ姿の男、着流し等、奇妙に「和」を混入し、最初は皆小さな日の丸のシールを貼ってある以外は統一感が無い。
だが地点特有の喋りの前には、衣裳の違和感など背景程度である。
と言っても今作ではテキストじたいが謎めき、不自然に区切る喋りはだいぶ抑えられていた。
忘れる日本人」のタイトルが既に挑発的だが、手脚だか触角の先を小刻みに動かしながら動くミジンコのように動きながら喋るのが、今回のスタイル。微生物並みにすぐ忘れるという皮肉なのか、殊更に強調していないが、笑える。結界あたりの透明な壁に手が触れるとバックに流れるノイズが無音になり、結界から外に出ると不可思議な音に変わり、その者は喋りをやめて脳が停滞状態になる...忘却の時間だろうか?

芝居の中盤から中央の舟に手が掛かる。これを抱えようとしたり実際に運ぶ様は、ちょうど舟が日本列島にも見えてきた頃合い、国を背負わされて右往左往する日本人を写して雄弁。
地点の役者力を目の当たりにした。

KUDAN

KUDAN

TOKYOハンバーグ

座・高円寺1(東京都)

2017/04/12 (水) ~ 2017/04/16 (日)公演終了

満足度★★★★

中盤まで、忍耐でみた。終わってみれば絵画的な舞台であった。部分的ストーリーが最後に符合する展開も、風景の一部としてカンバスに収めて舞台上にガン!と置いたような、虚を突かれる終幕には衝撃を受けた。

ネタバレBOX

「忍耐」出来たのは「再演」に打って出る自負を考慮したからで、そうでなければ、動物モノ、それも作者の恣意で擬人化したそれは、個人的にはつらい=食指が動かない部類。というのは、今作もそうだが牛たちが人間に敵意を抱くという感情の出どころについて、具体的な一つの原因がなければ、ただ一般的に人間は俺たちの肉を食う、とか、人間の都合で動物は殺される、とか、へそが笑いそうになる。「見捨てたこと」が人間への憎しみに直結するのも何か違う。それによって何が起きたか、の方に原因がなければ。つまり殺生したり見捨てたりは、今も人間と動物の関係において生じている事であり、今も牛たちは人間たちを恨んでいる、という設定にするなら別だが、震災という事件以後そうなった、という説明はなかなか厳しいんである。はっきり言って感情移入できない。
そもそも事故後に殺気立った人間がやってきて(まるで対中戦争時のように?)牛まで犯して去っていった、その時孕ませられた牛から生まれてきたのが人間の姿をした娘(青い衣裳で区別)つまり「あいのこ」である、という設定じたいが飲み込めない。暗く沈鬱な雰囲気の中でこの事実が語られるので、リアルにしてアンリアルという背反が暫くの間、耐えがたい。
牛の衣裳は濃い茶の毛をうまく表していたが、その中の一際背の高い(確か温泉ドラゴンの役者)動物は、じつは犬だったらしい。では、この中のどれが犬でどれが牛なの?・・説明がない。まあ、犬は一匹だけで後は牛だったらしいが。
かように動物モノの設定のディテイル不足に、腰の落ち着かない時間が、ディテイルが埋められて行くのでなく平行線で長く続くのである。
ところがこの犬(バイト)、耐え忍ぶべき確かな「伏線」であった事はラストに氷解する。
あいのこの娘を仮対象として、人間への憎しみを最も烈しく表現していたバイトは、ラスト、自分らを見放し、それで妹を死なせる事となった飼い主の思わぬ訪問をうける。着の身着のままで家を追われた初老の彼が現われた時、バイトはゴロゴロと唸りながら行き場のなかった怒りを反芻し、今跳びかかるかと右左に歩いていたのが、ついに飛び出し、飼い主を慕う「本能」に負けてふるいつく。この動き、変化は、犬の気持ちなど分からない我々であるのに、見事に伝えてみせる場面であった。台詞(言葉)で説明しえない「関係の表現」を結語とした、一つの証しに思う。

開放された牛たちの群れの物語の片方で、人間のドラマが並行する。地域的には重なっているようだが、話は交わらずに進む。舌足らずに進行するかに見える人間の物語が中盤以降、目鼻が見えてくる。事故後の原発で働く者たち、その中で学歴も何もなくただ気持ちだけを通わせる恋人と結婚した青年、時間経過の後、恋人は無脳症で生まれた(亡くなった)赤子のフェイクを抱いてあやして過ごしている。原発労働者の間で、近頃人間の女の子が(線量の高い原発プラントの近くを)歩いているのを見かけた、という噂が出回る。時系列でのストーリーは憶えていないが、動物らと人間たちが、じつは同じ時空を共有していることが霧が晴れるように見えた瞬間(だったように思う)、群舞となり幕を閉じる。
原発を扱っているが、誰かを告発する話ではない。抉り出せば実も蓋もないような原発を巡る醜怪な関係の構図に飲まれず(怒りや絶望に身を任せず)、ある意味で最も酷な犠牲者の象徴と言える奇形の存在が呟くだろう問い・・「自分は何のために生まれ、何のために生きているのか、何のために死んで行くのか」・・の前に立つこと。この問いは誰しもの前に等しく立てられている。
カラマーゾフの兄弟だったか、こんな問いがあった(と聞いた)。神は全てを許される。人殺しもか。然り、だが全てが許されたと知った人間は、果たして人を殺すだろうか。・・なぜ今これを思い出したのか、ド忘れたが・・最も本質的問いに向き合った人間は、果たして瑣末な問題に足を掬われるだろうか(否、掬われる事はない)、だったかな。
エレクトラ

エレクトラ

りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館

世田谷パブリックシアター(東京都)

2017/04/14 (金) ~ 2017/04/23 (日)公演終了

満足度★★★★

昨年見逃した『オフェリアの影の一座』に続くりゅーとぴあプロデュースによる、こたびも白石加代子出演の舞台だったが、ギリシャ悲劇(32作あるという)の世界であり、その中のアトレウス家の物語(10近くあるらしい)を再構成したとの事。アガメムノン(父)とクリュタイムネストラ(母)、その娘エレクトラ、イピゲネイア、息子オレステス。トロイア戦争。・・耳に馴染みのある名前だから、知る人には有名な話なのだろう。後で調べたものと照合すれば、母は前夫を殺した男アガメムノンとの間に生まれた、上記の子らに囲まれて暮らしていたが、子らにとってはアガメムノンこそ父であり、物語はトロイア戦争から凱旋したばかりのその父を、母と結託して殺し、王座に収まったアイギストスと同じ屋根の下に住まうエレクトラ(高畑充希)の苦吟の様から始まる。そこへ亡くなったと聞いていた弟オレステス(村上虹郎)が現われ、父母に復讐の刃を向ける作戦として自分が死を偽装した事を告げ、エレクトラと共についに敵を取る。だが命乞いするアイギストスの口から、彼らの親とその親からの血塗られた因縁を聴かされ、またクリュタイムネストラ(白石加代子)が最後に見せた母の顔を目に焼き付けてしまった二人は、実母を殺めた罪で裁かれる拘留の身にあって気が触れんばかりに苦悩する。・・時系列に進む比較的分かりやすい一幕の後、休憩を挟んで二幕に進む。ここでは一幕で登場しなかったイピゲネイア(中嶋朋子)による長い一人語りに始まり、途中オレステスらの登場はあるものの、主に「語り」に終始して芝居は終わる。イピゲネイア(エレクトラの姉=長女)がトロイア戦争に勝つためアガメムノンが神に捧げた生け贄であり、幽閉された身でひっそり生きている、という事は一幕にも台詞に一度は出てきたように思うが、これは前知識がなければ分からない。生きながらえたエレクトラを中嶋が演じているのか、と暫くみてしまった。混乱し、眠くなり、二幕は睡魔の内に終えた。
以上は3階席で観てのコメント。世田谷パブリックの3階席は、1ランク料金が下がるだけの事はあって、いまいち芝居に入り込めない事は多々ある。今回もその嫌いはあったと思う。

ネタバレBOX

しかし今回の舞台、高畑や白石ら役者を見る楽しみはあった(のだろう、客によっては)にしても、上演の狙い、つまり今この時代にこれをやる視点というものが、今一つみえてこなかった。
ギリシャ悲劇の「アトレウス家物語」を一度やってみたかった作者の年来の願望が、形を成したという事だろうか? 
舞台の美術、照明の「闇」の醸し方や、打楽器生演奏の音楽(作曲演奏:芳垣安洋、演奏:高良久美子)。視覚、聴覚に訴える美的要素は浸透力があったのだが・・。
(芳垣氏は20数年前、新宿ピットインの若手枠の朝の部や昼の部で名前をみていたドラマーだが、当時みる事はなく今回漸く目にするとは・・全く個人的感傷だが。)
テキストにピンと来なかった。判りやすさはあったが、原典からどのあたりに趣向が凝らされたのか、知識のない者には分からなかった。
いささか説明的に感じたのは、アポロンの神託で復讐を遂げたにもかかわらずオレステスとエレクトラは放逐され、ゼウスの神の裁きの前に立たされようとしている、という所で、この矛盾について作者は台詞でケリを付けさせようとしており、これは原典通りであるのかどうか分からないがアポロンの神が二人の前に登場して、もっともらしい事を偉そうに(神だから偉そうなのだが)言ったりする。言い訳っぽい。
そもそもがギリシャ悲劇、この矛盾を論理的に説明するのに割かれた時間は不要ではないか・・それとも現代への翻案として必要だったのか?やや疑問として残った。
白石加代子は、初であったか。狂気に手を届かせるあの様は別の舞台でぜひまた見たい。
世界は嘘で出来ている

世界は嘘で出来ている

ONEOR8

ザ・スズナリ(東京都)

2017/04/02 (日) ~ 2017/04/09 (日)公演終了

満足度★★★★

「ゼブラ」at 雑遊以来のONEOR8、OR田村孝裕作の舞台。二、三度だけ目にした田村作品の印象は、笑わせてwel-made、少量の毒も終演時には100%解毒。
しかし今回はタイトルから、「毒」有り覚悟せよとの挑戦状? 受けて立つべし・・と観劇に至る(会場がスズナリというのも大きかった)。

甲本雅裕(どこかで見た俳優だと後部座席から見たが終演後その通りだったと確認)、あとカラテカ・矢部(こちらは一目瞭然、確か以前別の舞台でも見た)。
客席に流れる空気が少し違うのは、著名人を見に来てるモードが(大型であるかどうかはこの場合あまり関係ない)じわっとある・・これが嫌なんだと今回改めて自覚したがそれはともかく。・・ONEOR8は著名俳優を使うとはいえ、本来の面構えは普通の劇団・・・つまり舞台を軸足に置いた「作品勝負」の演劇活動に勤しむ風貌だ、と勝手に理解している。
従って断りもなく「普通に」批評対象として扱うが、さて、どんな出来だったか・・。

舞台の平均値的な「出来」はともかく、メジャー・映像系の俳優で作られた舞台の持つ弱点が、どうにも見えて仕方がなかった、そういう舞台であった、という事に残念ながらなる。出来はそこそこ、いやもっと、かなり良い「はず」なのだが・・何故そう感じるのか・・・。(また後日)

ノドの楽園

ノドの楽園

studio salt

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2017/04/06 (木) ~ 2017/04/09 (日)公演終了

満足度★★★★

ここ4、5年の数作しか知らないが、saltにとって恐らく満を持してのKAAT公演はsaltらしさ(小世界なドラマ、一見淡白)を保ちながらも、膜の向こうの世界へと浸潤して行きそうな、何かが産み落とされそうな、リアルには儚く消えそうだがそれでも何かを残しそうな、そんな感触を残す舞台だった。
各登場人物の「らしさ」に、愛着が持てた。やはり断片的で側面的な描写ではあるが、人が集まって形成された「世界」(芝居上の)が見えた。
「原発事故以後のドラマ」のカテゴリー(というものがあるとすれば)の中でも独特な設定だった。だが奇妙なこの状況が最後には馴染んでおり、かつ、この設定でなければ際立たない、美しい言葉が最後に響いていた。降り続ける灰を雪と見まごう風景のごまかしは人間の素朴な「生きる」願望を切なく、力づよく照らす。

・・とある公園。70年代あたりに作られたような、在りげな造作物が配置されたリアルな美術がまず目を惹く。中央の大きなそれはピラミッド型に左右から階段が中央に二段階延びて、中央上部には昔風のUFOからピコンと飛び出たようなアンテナ様のバーが突き出る。その下は人が通れる。そこから舞台側には石だかコンクリ製のベンチが幾つか配されており、上手手前のベンチに寝るホームレスの他、階段の上や途中にそれぞれ尻を落ち着けている者二人。この場所で幾組もの人物らの小さなやり取り(ドラマのさわり)が演じられ、暗転、時間経過の後、打って変わった後半に入るという仕掛けだ。
「みなとみらい原発の事故」後であるという全体状況の飛躍、そして、各人物のドラマの展開の飛躍。それらがこの上演時間内に、有機的に繋がったリアルな関係図として見えて来るには、役者の力量も要っただろう。
作家の意を汲むstudio saltのマスター=後半の中心人物となる役を演じた浅井氏が芝居の血液となり、同劇団員東氏、その妻を演じた客演の松岡氏の突き抜け具合、他の役者の「らしさ」もそれぞれにこの劇世界に貢献していた。

行間の広い、ややもすれば危うく解け落ちそうなsaltの虚構世界にあって、KAAT大スタジオを広く感じさせず「群像」を見出させてくれた事が嬉しく、つかんだ雪の結晶は会場出口付近ではもう蒸発していたが、記憶の欠片を大事にかき集めながら歩いた帰り道であったぞな。

あるいは友をつどいて

あるいは友をつどいて

ハツビロコウ

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2017/03/28 (火) ~ 2017/04/02 (日)公演終了

満足度★★★★

鐘下辰男作品の台詞がそこにあった。ハツビロコウ第3弾は、後で調べると2004年THE・ガジラで初演の作。というと、三菱重工爆破事件(1974年)から30年。今年は何と43年後。
限りなく犯人グループ=武装闘争に身を投じた者の側に立って論理を汲み取り、そして批判にもさらす。動機が正しければ手段は正当化される・・訳ではない厳粛な事実について言及される・・。

聞き取り役の男(ゴーストライター)が、語られる事件の当事者の関係者だった、という展開は、第三者の視線による風通しのよさを歓迎していた観客には閉塞感が増したが、犯人グループへの批判と、問題意識への傍観者性は凝縮され、議論は熱を帯びて本質に迫る。
正義感の向けどころを失ったまま突き進んだ彼らを「特攻精神」=日本の悪しき習性すなわち非論理的精神主義=への回帰として彼ら自身が疑問に感じていたことなども語られ、なぜその行動へ至ったか、人間ベースの理解を深めるための補助線が引かれていく。

60年代から70年安保の山を越えた後の「政治運動」は、敗勢の焦燥からか連合赤軍事件など「暴力」が前面に出てしまい完全に世論を敵に回してしまう。
だが、「日本が」という主語で語られる国家・社会が構造的に負っている悪・・朝鮮戦争・ベトナム戦争で兵器産業が潤い日本経済成長の原動力としたこと、それは日本がアジアを植民地化した論理(経済第一主義)の延長と言え、「あるべき関係」からの乖離であるこの実態は是正される必要があり、日本の富が他国の(人民の)犠牲や貧困の上に成り立っているならば、その恩恵に与る自己を批判し、公正さを求めて行動するか、怠って為さないかのどちらかしかない・・・。
この問題意識。「行動」の中身は多様にあれど、行動するか・しないか の問いからは逃れられない。・・そして彼らは「行動する」事を選択したわけだが、効果が早急に、目に見えるような行動でなければならない、という縛りに彼らは必然にハマり込む。迅速な効果を狙わなければ、今も搾取される人民は苦しみ続けなければならないからである。そこで「多少の犠牲」も尊い目的のためには正当化される、という事が起きる。
終盤、既に故人となった二人のメンバーがようやく当事者としての身体から解放され、「私は自己批判します。」と始め、簡潔に一言「当時の私達は人の命を軽視していた」と総括する。己の非を認めた発言は、全編でここだけである。
つまり、再び「現実」に向き合った時、何を選択するのか、正解は何なのか、彼らには判らないのだろうと思う。
そして私たちも、実は分かったようでいて、それは単に今の「常識」がそうだというだけに過ぎず、自ら出した答えでも何でもなく、結局分かっていないのだ、と思う。
考察はつづく。・・・

くじらの墓標 2017

くじらの墓標 2017

燐光群

吉祥寺シアター(東京都)

2017/03/18 (土) ~ 2017/03/31 (金)公演終了

満足度★★★★

新作も期待される坂手洋二だが、過去作品にもじっくり取り組んで欲しいと思っていた。『カムアウト』に続く再演物は、坂手氏の好きなアイテム(分野?)くじらを題材にした戯曲の一つ。場転は殆どなく、使われなくなった作業場(鯨の解体所?)の中に、多彩な光景が位相となって出現する。
主人公の青年とその婚約者、彼の亡くなったはずの6人の兄たち(鯨捕りの一家であった)、母の死後引き取られた養母、婚約者の叔父、謎の女(婚約者と存在が重なり、兄弟の母でもあるかのよう)とその姉らが、幽霊かと思えば生きてる人、かと思えば間違いなく死者である者が出現、また幻視か錯覚か解釈不能の者、だがそれら全て夢と知って納得、と思いきや最もナイーブな部分は現実で・・といった具合に関係性の転換も実はめまぐるしく起こっていて最後まで観客を翻弄する。
そして舞台上には常に、風というのか、音、空気の肌触りが通奏低音のように流れている。それまでたった一人不在であった者が、最後に異形の者として現われた時、能の構図をみて合点させられる。人間の「死に繋がる」心の風景が、結語として置かれざるを得なかった(戯曲執筆当時の)作者の時代観察を想像させられるが、今に連続する風景である。

ネタバレBOX

終盤に登場し、嵐とともにそこに居る者たちを海へ引きずり込もうとする異形の者は、20年前の漁・・禁忌とされた子連れの鯨と兄弟総出で一昼夜格闘することになったその漁で、狂気を暴走させた長男であった。船が破壊されそうな程に母鯨の攻撃が猛烈であるのに、兄弟らが子鯨を泣く泣く放った後、漁船を守るために間に入った護衛船を長男はなんと砲撃して沈め、母鯨をしとめようと目を血走らせる。この兄から弟たちは舵を奪い、引きずり下ろし、嵐の海に沈めた・・それが「事件」であり、これを一「遭難事件」として処理するため、死んだ者として身を潜めて生きてきた。・・この種明かしの後、凄絶な事実を前に、末子の青年は自身の内に負の妖気をむくむくと立ち上がらせてしまう。

「過去」を知る事は、それが真実であれば人の幸福に資するものである、そうあるべきだし、そう思いたい。が、現実にはどうか。「過去」に翻弄されるのも人間であり、脆く弱いのも人間であれば、「過去」とどう向き合うのか、慎重に語られねばならないのではないか・・。

初演は折りしも、戦後補償要求の波が喧しくなり始めた頃。日本が「過去」とどう向き合う事ができるのかが、問われ始めた時期だという事だ。

「過去」という事で言えば・・獲物を持ち帰りたい手柄への欲、あるいは一度仕留めた獲物への固執。そのために長男は周囲の状況を無視して暴走した・・これは丸々太平洋戦争時の陸海軍(特に陸軍)の「特攻」や「風船爆弾」まで動員した往生際の悪さそのもの。天皇が追認しこだわった「あと一勝をあげてから」の史実そのものを連想させる。
・・「なぜ自分があんなことをしたのか、判らない」そう呟いた長男の亡霊が、悔いと己への怨念の具現だとすれば、愚かな戦争を押し進めた日本の中枢の者は、「なぜ自分があんなことをしたのか」そう問う契機を持つ事があったのか。
反語的疑問ゆえに、「ない」というのが答えであり、これ即ち無責任体制と呼び、天皇の免罪によって戦争責任は実質上問われなかった日本では、言い古された話だが、今も亡霊が都心あたりを徘徊している。。

芝居に戻れば、婚約相手の「不貞」が、最終的に主人公の心に棘刺しており、「夢」の中で言われていたようにその相手は叔父なのか、判らないが、目が覚めた後の会話でも相手は「彼との事は事実、でもこれから私達結婚するのよ」(未来だけを見ればいい)とサバサバしている。青年はサバサバしない。「過去」に対する感覚の男女差にも触れ、悲惨な結末を予感させて、劇は終わる。

全ての人物のキャラが有機的に関与し合い、どこか愛着のある「場」を作っていた。場面の構図の美しさを感じつつ観劇した。

観劇後、吉祥寺シアターの階段からの廊下を役者が見送り。皆良い顔をしていた。私の前を歩く男性がやたらと挨拶されており、横顔を覗けば(恐らく)著名な劇作家であった。燐光群との接点は思い浮かばないが、ただ純粋にこの芝居への関心から観に来ていたのだとしても、納得な舞台であった。
エレファント・ソング

エレファント・ソング

名取事務所

「劇」小劇場(東京都)

2017/03/17 (金) ~ 2017/03/26 (日)公演終了

満足度★★★★

小さな編成での濃密会話劇、名取事務所の海外戯曲公演は今回で三作目だったか。
ミステリー要素が強い作品は、思わせ振りな展開の最後に、思わせ振りに見合うオチがしっかり用意されているかどうか、またオチをしっかり含み込んだ(客の関心を惹き付ける狙いに終始しない)人物像の形成が為されているかが、要かと思う。
今作は惹き付けは十分、人物形象は理事長はOK、青年は頑張っており、看護師は出番が少なく形象の如何を問うまででない、とすると戯曲の(オチの)問題か。
会話をぶっ通す二人の技に感心しつつも、やはり評価はまずは戯曲、物語に対してだ。

ネタバレBOX

精神科の病棟で、青年の担当医師が昨夜から姿を消したらしい。精神科医でもある理事長に、病棟の看護師がこれから面会する青年の事を告げ、彼の言葉に翻弄されぬよう用心した方が良いと進言する。行方不明の医師に最後に面会した件の青年との息の詰まる会話がその直後、青年の登場と同時に始まる。
青年が強い関心を持つエレファント(象)の話をして回答をお預けにしたり、理事長が医師としての現場を退いた背景を推論して相手の懐に入ったり、ついで自分とのやり取りによって生じた感情を言い当てたりと、確かに医師は青年に小突き回される格好だが、理事長も自分の本分を全うするべく真相追及の意志を相手に投げ続ける。
さて青年は、医師と特別な関係にあった事を仄めかし始める。証言を拒否しているというよりは、本当の理解を求めていると窺えなくない。会話を楽しんでいるというより、探っている。そうした様子の、真偽のほどについても、観客にはペンディングのままラストへ連れて行かれるのだが、終局、青年は最初からその予定であったかのように自殺を図り、青年への愛情が窺えた看護師の腕の中で、彼女の愛(母親に近い感情)の告白を聞きながら既に瀕死の体で暗転となる。
この「自死」に行き着く青年の、人生最後の時間としての(と後で判る)理事長との長い会話が、そのような時間としてあったか、そして今遠方にいる医師との関係が、彼の方が死ぬというのだから彼の依存的な愛情(想像だが)に応えられないのは医師の方であり、彼から離れるために遠方に身を置いた、という風な推測ができるが、ならばなぜ彼は死を翌日に延ばしたのか。真相を誰かに言い置いて去りたかった・・?、理屈は判るが青年の立ち方はそうなっていたか(ちょっと評価が厳しいかな)。

その事以上に、青年にとって医師との関係が「何」であったのか、彼は何を喪った(と感じた)のか。親との関係が影を落としている事が仄めかされるが、頭脳明晰な彼が、もはや出口が無いと絶望するに至った理由、心情が想像しにくい。看護師の証言から彼のナイーブさも仄めかされるが、自死が突発的な事態であり、その事ゆえに理事長は茫然とし(彼は精神科のプロであったはず)、人間の(自分自身の)限界に直面した瞬間であったのか、いや、青年の極めて理性的な自己洞察からの結論があの自殺であり、彼の心の闇が強調されたラストなのか(だとすれば医師との経緯の説明が不十分に思える)。
そんな疑問が残り、結果、ミステリーとして(娯楽作として)良くできた、という感想に導かれる。物語を完全に飲み込む事は出来なかった。(見落しがあるかも知れないが、、)
ミステリーのオチとして同性愛を浮上させる狙いだとすると、少し時代が古いのかも知れない。ただ、青年の鋭利な言語感覚は同性愛に相応しく、医師と患者の爛れた関係というより、両者に流れていた精神性の交流を想像させるものがある。もっと踏み込んだ二人の関係の描写があったなら、それが最もオチに相応しかったように思う。
The Dark

The Dark

オフィスコットーネ

吉祥寺シアター(東京都)

2017/03/03 (金) ~ 2017/03/12 (日)公演終了

満足度★★★★

思い出し投稿・・ 大竹野正典戯曲の上演で知ったオフィス・コットーネの非・大竹野関連作品を初めて観劇した。海外戯曲上演のメリットは「良いものを選んでいるに違いない」という計算が観る側に働く。デメリットは「遠い問題」「他国の文化を理解しないと難しい」といった懸念が働く。ポストトークでは演出家が10年来やりたいと願ってきた作品とか。さて、蓋を開けると。
構図が明確で意図も分かりやすい(気がする)、名品の香りがある。停電の一夜に隣り合った(同じ構造のそれが寄り集まった)ハウスの各世帯の構成員が互いの家を誤り、あるいは意図して入り込む等し、普段見られない事態が展開、その中で家族の問題が露見し、最後には闇の中で語り合う場が生まれる。と、通電し現実に戻るがそれまでの関係から何らかの変化を起こしている(良い変化に見える)。・・三世帯それぞれに抱える問題が現代の病理を表し、シリアスさが勝った芝居になっていた。そう見えたのだったが、基調が喜劇に作られたほうがシリアスさが浮上したのではないか・・と思った。
個人的には、後方席からは人物が区別しづらい俳優がおり、「判らない」状態に睡魔が襲う時間が生じてしまった。・・装置は上段まで高くそびえ、不規則に繋がる部屋が配置されているが、三世帯それぞれが芝居の中で占有する自宅領域が、ダブっていたり、また「判らない人物」が家を出て他人の部屋に入り込んだりすると、混乱である。説明的でない台詞だと尚の事だし、停電の夜という薄暗い照明もそれに加担した。どれか一つでも、我が方に歩み寄ってくれていたら・・と。特に「判別しづらかった」のは十代男性と中年男性。演技なり衣裳なりでもっと工夫できなかったのか・・とは正直な感想。

このページのQRコードです。

拡大