“だいじょうぶじゃない”短編集
果てとチーク
アトリエ第Q藝術(東京都)
2021/07/22 (木) ~ 2021/08/15 (日)公演終了
映像鑑賞
青年団若手企画「升味企画」で観た劇は、とあるサークル内の現代女子の生態に宗教的要素、超自然要素を投入した感触良い作であった。今回の短編も若者の生態を窺うそれぞれバリエーションに富む4作。超自然やSF要素やが入り、そちらに目を奪われるものの、全体に漂うのは現代日本の断面、といった感じである。
二つ目、三つ目は台詞の聞こえに難あり。それぞれの趣向と味があるがもう少し観客の方に寄り添っても良い。一つ目と四つ目は日常が舞台なので分かりやすく、考えさせるテーマに触れ問いを投げていた。
勅使川原三郎版「羅生門」
KARAS
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2021/08/06 (金) ~ 2021/08/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
笙奏者とのコラボが以前評判だったので此度は観に行った。今作はそれに加えて仏人ダンサーを招き、アンサンブルの女性ダンサーが5、6人加わって舞台上は熱を帯びる密度。
「羅生門」は芥川の原作の世界(黒澤映画のでなく)。人が飢え荒む戦の世の抜き差しならなさを基調に、多様な場面が息つく間なく展開。KARASのスタイリッシュの要素は照明、音(音楽)であるが、「青い目の男」を思わせるエッジの利いた音と照明の中で踊る勅使河原、対照的に悠久の時に流れる笙の音の中で踊る佐藤利穂子、意味深で混沌とした音の中で勅使河原と超絶に絡む仏人ダンサー。
笙奏者とのコラボ、という念頭で観に行った自分としては、笙の場面は3場面と少なく、また笙と全く相容れぬ(和の音でもない)音が観客の現代感覚にアピールするのと比してバランスが気になった。
だがラスト、掠れたような笙の小さな音に儚く舞う佐藤の舞いでフェードアウトとなる。ニュアンスを作り出す勅使河原氏の才能にはやはり感服する。
その上で・・「羅生門」という題にさほどまで忠実でなかったようにも。
一九一一年
劇団チョコレートケーキ
シアタートラム(東京都)
2021/07/10 (土) ~ 2021/07/18 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★★
昨秋配信限定の『無畏』から『帰還不能点』そして今作とコロナ以降の劇チョコは全て配信で鑑賞・・と書いた所で「待てよ..」と手帳を見たら、「帰還・・」は劇場で観ていた。
思うに記憶の中の「帰還」の風景が定点観測的で平板なのでそう勘違いしたらしい。芸劇の後部座席だった。不思議に「無畏」と「一九・・」の方は残像が濃いが、考えてみれば自分はやはり映像の世代で、俯瞰と抜きを組み合わせた「映像言語」の雄弁さが「生」より勝ってしまうのは自然なのである。ただし、「生」を見るレベルにまで集中力を高め、入り込むまでが映像鑑賞の場合ハードルである。今回の『一九一一年』も一度観た時は殆どの時間意識が飛んでおり、脳が覚醒した状態で集中できたのが配信期限間際の事だった。
余談はさておき・・日本近現代史の中心部に踏み込む硬質な歴史劇が三本続き、前の二作とも懐を掴まれる内容であったが、本作も見事な出来だった。歴史事実のスピンオフでなく事実の本質を抉り出す入射角に感服する。
本作の焦点は、明治末期「近代国家」を目指した日本司法の罪刑法定主義、法治国家の理念を大きく踏み越える「大逆罪」の立件・訴訟が為された事に対する、法律家の受け止めである。
法の正義の遂行を自任する法律家(本作では若い判事・田原)にとって、大逆事件は法が大きく捻じ曲げられた出来事であった。
「目的」のためには手段を選ばず。原則を違えてでも目的を遂行する。「原則」という所がミソである。戦前、旧憲法下では国家は何でもやれたわけではなく(法の構造の不備は戦後指摘された通りだが)、原則とすべき事は存在した。立憲制による文明立国を目指す大義あってこそ、それへの貢献とその結果としての立身出世は栄誉であり、競争を勝ち抜いた勝者である事の意味は個人でなく社会に還元されるものだ、というサイクルが成立していた(戦後においても暫くは)。
物語は田原判事を26名の被告の紅一点、菅野須賀子と対峙させる。一個の「自由」な人格と遭遇するのである。「他に現実を乗り越える術のない者らがたまさか見た夢物語」だ、と田原は彼らの社会主義、無政府主義の本質を看破して言う。1911年1月18日、24名に死刑が宣告され、「思想撲滅」の特命を帯びた「難しい裁判」を成功裏に終えた美酒を要人らがかわす中、田原は上のように言い、全員の「特赦」を求める。
謀議を為した4名(他の22名は検察のでっち上げによる冤罪)を含めて、彼らは「夢を見たに過ぎない」とその人間性を愛おしむ田原の眼差しは、当時そのような判事が存在したかどうかはともかく、共感を誘う。
物語は「当然のことを当然のこととして」描いた、かのように見えるが、はたと立ち止まれば、原則を違えることを国に許している己らが浮かび上がる。誤りを正させるべき責任を、多くの民が放棄しているのがこの国の現実だ。
段差インザダーク
コメディアス
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/08/11 (水) ~ 2021/08/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
中々うまい線を行っていたと思うが、観客の心ない観劇態度で大いに邪魔をされた。しばしば話題になる「笑い男」が今日もいて、相手にしたくはないが、冒頭から「ちょっと先に笑いをぶっこむ」という本人だけは「してやったり」と快感だろう高笑いのせいで芝居の滑り出しを掴みそこねた。
が、それでも土台もしっかり作った芝居はすぐさま様相を現わし、和製インディジョーンズらが遺跡から重量級のお宝を台車で運び出そうとして突如現れた「段差」と格闘するお馬鹿芝居を追い始めた。
その後は男の笑いも気にならず芝居の道筋が辿られて行く。いい頃合いに新たな登場人物が加わって意外な展開をもたらす。冒頭から登場の三人の会話がほぼ「段差と台車」の試行錯誤だけに終始する所、新たな情報は新人物からしか持ち込まれない、という作りが潔いというか、馬鹿馬鹿しさに拍車をかけていた。
あと木乃伊の作りがうまい。包帯の裂け目(目の部分とか)を黒塗りしてあるのがちょいグロで笑う。
プチな笑いネタにももっと目を届かせたかった。
雨花のけもの
彩の国さいたま芸術劇場
彩の国さいたま芸術劇場 小ホール(埼玉県)
2021/08/05 (木) ~ 2021/08/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
ほろびての名は目の端にあったが未見。さいたまネクスト・シアターは蜷川氏の死後、「第三世代」等3つばかり観たに過ぎぬ。何をもって「最終」かは、説明されない所を見ると大方行政の事情だろう。
今回の舞台は、俳優たちの力を存分に証明し、若い作家の可能性も確かに感じさせる公演となった。
岩松演出は作品の世界観を余すことなく具現する空間、豪奢な装置、調度、衣裳を配し、有終の美を飾るに相応しかった。力作である。
丘の上、ねむのき産婦人科
DULL-COLORED POP
ザ・スズナリ(東京都)
2021/08/11 (水) ~ 2021/08/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
DULL-COLORらしからぬハートウォーミングな(他に想像のできぬ)タイトルが、一つの謎掛けである。
蓋を開ければ・・包摂を旨とする「ねむのき」のイメージそのまま。だが語られるのは「場」ではなく、医師も看護師も登場せず、場を訪れた夫婦(カップル)数組のエピソードが綴られていく。
「妊婦」という縛りが窮屈に感じない普遍性、「新たな命」といったありきたりな感動のパターンに収めない、不思議な手触りの舞台であった。
タイトルは「守り」でなく「攻め」。私なりの謎解きだ。
新作能 『長崎の聖母』『ヤコブの井戸』
銕仙会
座・高円寺1(東京都)
2021/08/04 (水) ~ 2021/08/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
「新作能」とは「古典」に対する謂いで、多田富雄作『長崎の聖母』は2006年初演、ディートハルト・レオポルト作『ヤコブの井戸』は2017年初演。新鮮な体験となった。
シアターXのユニークなコラボ企画で最近目にしていた清水寛二氏が真正の能舞台で堂々とシテの貫禄を滲ませている。「亜流の人」と勝手に認識していたので意外であった。
個人的には昔よく見た能楽堂や屋外(薪能)の古典作とも異なり、演劇観賞者として見た現代能楽集や能のエッセンスを入れた舞台とも当然違う。能の形式にのっとった能楽師による「能」(複式夢幻能)にして、テキストは現代のものであり趣向が盛られている、という形は初めて観た。霊が登場し、舞を踊る。ワキがそれを眺め鎮魂の祈りを捧げる・・この形式が現代の文脈でも生き、「今」に迫る演劇の高揚がある。囃子方、謡い方が作る高揚にこれほど揺さぶられる体験も、初めてである。
ぞうれっしゃがやってきた
公益財団法人武蔵野文化事業団 吉祥寺シアター
吉祥寺シアター(東京都)
2021/08/07 (土) ~ 2021/08/11 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
パリッと明快で判りやすい舞台。でもって繊細な感覚を織り込んでいる。
子どもに届ける、という要素は青☆組の志向に合致する所があり、舞台表現の質をぐっと引き上げたに見えた。特に、、汽車ぽっぽの振りは秀逸で動き一つ一つは平易だが気味がよい。覚えたくなる。
笑みに包んだ悲しみに嘘が見えないシチュエーションと題材ではあるが(福寿奈央の本領でもあるが)、日常と非日常の中で双方向的な交流が可能な波長でもあり。
擬人化された物語なのだが、象という動物の知性、神秘性を思わされる。
病室
劇団普通
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2021/07/30 (金) ~ 2021/08/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
個人的に「来た!」芝居に時々☆5を付けているが、今回は5に近い4。(欠けは聞こえない台詞。聞こえなくても成立する芝居もあるが「ここは聞こえたかった」場面が二箇所ばかり。)
数年前の初「普通」観劇から随分間が空いたが、このクオリティまでの成長は自分的に驚きではある。以前観たのは少人数、短めの芝居で「静かな演劇」の変異株、模索する若手走り出しのユニットという印象であったが、今回先行して配信のあった短編が茨城弁のそれでツボにはまった。「病室」も、ほぼ全員が茨城弁で通している。
言語にはその特徴が表れる瞬間に言語共同体の文化、感覚が発露するという事がある。方言も一言語なれば、厳密な意味で翻訳不能の領域がある。この芝居にも、恐らく作者が茨城弁でしか思い描けなかったシーンが織り込まれている。異文化との遭遇は80年代を最後に激安本並みまで値が下落している模様だが(とって付けたようなダイバーシティだのヘソが茶)、言わばエスニックに触れる美味しさで、今まで見なかった(けど分かる)感覚、心情、場面が、眼前で展開するのが楽しい。
死と無縁でない、「病気」が話題になる場所が、辛気臭さを受け入れた(デフォルト化)時に訪れる風景の見え方だろうか、とも想像する。とにかく笑った場面を反芻してまたにんまりである。
奇跡を待つ人々
東京夜光
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/07/24 (土) ~ 2021/08/04 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
昨夏、コロナ渦中の演劇界でポジションを得ようと足掻く青年を主人公に大所帯で描いた「BLACK OUT」が秀作であった東京夜光。アゴラで何をどうやるのか想像がつかなかったが、今作はのっけから「人類初のタイムトラベル」の訪問先の場面から始まるSF譚で全く趣向が違った。いわゆるタイムリープ物、ではないが、架空の未来世界(バーチャル世界でもある)の<ルール>を読み解く作業が(ミステリー同様)観劇の大きな要素となり、4名の俳優の内約1名が都合上複数の役に使い回され笑も取っていたが、作者は人類の未来に待ち受ける進化(あるいは退化)という視点を一本貫く事で諸々をねじ伏せつつ最後まで書ききった、という印象だ。劇団化第一作目として実験的な公演になり得たと思うが、「次」へと渡すためのどういう中継点になるのか、は見えない。見えないながらも作者の筆の胆力に期待感を持たせるものはある。
物語なき、この世界。【7月31日(土)13:30、18:30、8月1日(日)13:30の回は公演中止】
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2021/07/11 (日) ~ 2021/08/03 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
歌舞伎町を思わせる街を舞台にした一夜の物語、という三浦大輔らしいフレームだが、食傷を起こす場面は一つもなかった。台詞を追えば、自分たちの現実と、自分たちが感動を求めて見るドラマとの「重ならなさ」がモチーフになっている。だが「これってドラマじゃね?」と期待させる展開が訪れる点では、以前の「裏切りの街」の無味乾燥なオチ「やりたいだけ」の方が殺伐としていた。
夜の街では「物語なき」人生の主人公らが行き交い、人生模様を垣間見せるが、主観的にはドラマ性を否定される現実の中でも、他者のドラマを見ていたりする。現実の中で、「ドラマのように」行きたいという願望に直面した時、例えば端的に男女の関係なら不成立か成立のいずれかとは言え大半が「ドラマ始動せず」で終る。それでも限界に見えるものを何らかの形で超越する瞬間が全くないかと言えばそうではなく、きっと何処かにある、という「可能性」をこの舞台は言葉では否定しながらも漂わせており、この程よさ加減が(三浦作品に通低する)心地よさに思える。元よりニヒリズムを声高に嘆く時代でもなく。
ドラマの主人公になり得ない己の現実、つまり「ドラマを見てそれに自分を重ねることで満足している」己自身を見よ、とは出てくる台詞の意訳だ。「何処にでもいる」冴えない(かどうかは問題にしてはいないが)男らだが、この言葉はさりげなく観客を刺した事だろう。東急bunkamuraで芝居を観る私たちは「映画館に向かう人波」の一粒に違いない。
峯田和伸の歌が舞台の中で浮いてなく、程よく「ドラマティック」に彩る。人間模様あるある集・・芝居ってそういうもの。
シビウ国際演劇祭2021 招聘作品『砂女』国内プレ公演
うずめ劇場
調布市せんがわ劇場(東京都)
2021/07/27 (火) ~ 2021/07/29 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
北九州市時代からの4名の団員と、主宰ゲスナー氏の「次が読めない」ユニークな演劇製作。20数年も続けばこの独自さも持ち味という事だろうか。うずめとしては「演劇」らしい舞台(会場がスズナリだし)の二本立て企画「砂女↔砂男」から、既に7年も経ったとは・・(時の速さよ)。この時自分は「砂男」(ホフマン作/天野天街演出)のみ観劇し、天街作品にハマりかけの私は大満足だったが、並んで評判だった「砂女」を今回観て衝撃を受けた。
驚くべき舞台だ。なぜ「砂の女」か?・・の問いを殆ど無化する(舞台が全てを語っている)。原作小説を遥か昔に読み(高校か大学か)、勅使河原監督の映画もたぶん同じころ見たが、芝居を観ながら小説を思い出した。「思い出した」と言っても大昔の記憶だが断片的に附合するものを感じた。そして、この作品に流れる人間存在の根拠の危うさ、定住や婚姻、家族、共同体、人生の目的や意義、といった概念の揺らぎを措定範囲にしながら具体的な一つ一つのエピソードを時系列に刻んで行く。実在するモノを数えた方が早そうな砂丘の村の簡素な生活のなかで男と女は具体的行動により場面を作る「演劇」を体現し、「砂の女」の世界が見事に結実していた。
29万の雫-ウイルスと闘う-
ワンツーワークス
赤坂RED/THEATER(東京都)
2021/07/15 (木) ~ 2021/07/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
10年前に起きた畜産界のウイルス・パンデミックを、コロナにぶつけてきたな。だが所詮別物だ...というのがチラシを見た正直な感想だったが・・。十年前宮崎県で感染爆発を起こした口蹄疫を見事に「現在劇」化させた。
ただしこのドキュメンタリーシアターには10年の来歴がある。2010年口蹄疫禍発生、大量の殺処分により数か月で終息。これの舞台化を劇団ゼロQ(宮崎)の岡田心平氏が企画、氏は2011年故人となるが、数十人から聞き取った証言を元にこふく劇場(宮崎)永山智行氏構成・演出で2012年初上演。その後2015年演出に黒木朋子(宮崎)を据えて再演の際、監修として古城氏関わる。昨年古城氏構成・演出による当地での上演を経てこのたびのワンツー・ドキュメンタリーシアター公演となった。証言の多様さ、生々しさは「当事者」による舞台化の賜物であり、劇の完成度は10年にわたる製作の成果である事は間違いない。
一地方の一時的な事象として、当時マスコミで伝えられていた記憶はあるが、そう言えば「○○地区全頭」「数万頭」といった殺処分される牛豚の多さに僅かながら違和感を覚えたのを思い出す。テレビ報道だけでは知る事のなかった背景と当事者の心情が目から鱗が落ちるように体に入って来た。
「証言」で構成される演劇が、ドラマティックに、しかし「事実」から離れずに成立するばかりでなく、現在の状況との間に一筋の(雑草に覆われて所々見えなくなってる)小道が伸びているのを感じる。「現在が語られている」事こそ演劇の醍醐味。しかと脳に刻んだ。
森 フォレ
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2021/07/06 (火) ~ 2021/07/24 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
世田パブのワジディ・ムワワッド作品シリーズ観劇は「岸」を飛ばして「炎」以来で7年ぶりとなった。途中、静岡で作者自身による一人舞台を観たが、彼がカリカリと書き刻んだ血と縁のフィクションの方が自演による舞台(渾身の舞台であったが)より作者自身の証言のように感じる。一見不要にみえるディテイルが書かれているせいだろうか。家族というものはどれ一つとして同じものはなく(むしろとてつもなく多様で)、その有機的絡まりを紐解くことなしに家族は描けないと信じているかのよう(我々は「家族」という社会的イメージに自分の家族を当てはめてそうと信じているだけなのかも)。あるいは、実際にあった特殊なケースに取材したものかも知れない・・ただし戯曲にみる作者の明確な作劇意図がその想像を打ち消す。三部作に通底する主題とは、単純化すれば命はどのように引き継がれてきたか(今存在する者はなぜ今ここに存在し得るのか)..。
上演時間を確認せず足を運んだ所が、2回休憩を挟んで3時間40分。それでも数代前までに遡る壮大な系譜辿りの物語を事細かに把握するのは難しい。しかし目が離せず、長いとは感じなかった。
「アンネ・フランク」なぜあなたが死んで、私たちが生き残ったの?
MyrtleArts
アトリエ第Q藝術(東京都)
2021/07/07 (水) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
かつての新宿梁山泊女優(現役含む)が集う同窓会公演、どんな趣向が...と想像を膨らませていたが予想を上回り、物語の深みに誘われる舞台であった。「アンネ・フランク」という、演劇界でも古典に属する作品を読んでも観てもいないが、そのためか新鮮に物語(実話であるが)を味わった。当時目にしていたはずの梶村女史は面影も覚えてもおらず、ただ太い声に舞台上の風格あり、数年前10年越しで目にした近藤女史も今作では往年の少年役を彷彿させる少女役、言わずと知れた三浦氏は見た目変わらぬ演技でもこの三人では息ピッタリで馴染んでいる。懐かしさと共に、紐帯の力を見た思いである。
ウィルを待ちながら~インターナショナル・ヴァージョン
Kawai Project
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/07/02 (金) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
面白い。こういう出し物はありそうで無かった(というか観なかった)。演じる役者が沙翁と深い縁であるのも要素になっている。全編に流れる「生の終わり」の匂いと併せ、作者の演劇へのオマージュと受け止めた。「ゴドー」的な場面が確か三度訪れるが、何者かを待つともなしに待つ姿とは、究極「死」を待つ姿、言わば人間そのもののありようである、という解釈が窺え、全編においては僅かな挿入シーンに過ぎないが、これをベースに、シェイクスピアの「死」の場面と台詞などのコンテンツが披露される。何度もリフレインされる中心場面は、めしいとなったリア王が召使(実は息子)を案内役に自死を遂げるべく岸壁へ行き「一度死んだ」と思った王がもう一度生を手にする(と解釈する)場面。死地からの劇的な生還が本旨のはずだが、この舞台を通して見ると「人生の総仕上げ」、死の予行練習に思える。誰のか・・シェイクスピアか、リアか、俳優二名か、それとも作者か・・。
俳優両名とも「年輩」であるが、一方の「たかさん」はシェイクスピアカンパニーの元主要俳優で「老境にあって昔とった杵柄をやる」趣向が相応しい、死者役。もう一名の「はるさん」がたかさんを慕い、慮る(車いすを押す=リアと召使のように)関係。俳優自身と役がうまい塩梅で混在し、最後は高らかに演劇よ永遠なれを謳う。
数年前、死色の濃い「ゴドー」を演出した作者が自ら書いた舞台であるが、殆どが「引用」にも関わらず平板にならないのは、戯曲に知悉した作者ならではと諒解。「想像の世界」大なり「現実」、故に舞台の方が現実より大事、との明快な理屈は因数分解したシンプルな数式の如くで個人的にはこれが頂きである。
母と暮せば
こまつ座
紀伊國屋ホール(東京都)
2021/07/02 (金) ~ 2021/07/14 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
念願叶ったり。それでも途中寝てしまった。
畑澤聖悟の台詞、松下洸平の溢れ出るかの演技、富田靖子の佇まいは殆ど完璧と言える世界観で、寝落ちした部分を差し引いても満点を献上。
解体青茶婆【7月8日19:00公演中止】
劇団扉座
座・高円寺1(東京都)
2021/06/30 (水) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
かなり久々の扉座である。コロナを経て以前と何か変わったような・・という気配が見えるとつい覗いてしまう。「解体青茶婆」なんだこの題名は・・医学にまつわる芝居らしい・・成る程コロナ騒ぎから何かを嗅ぎ取ったかエンタメ寄りな横内氏も・・と、観に行った(実は急遽予定に穴が開いたため観劇できた)。
戯曲の印象はシンプルで飾り気なく、線が太い。ただ、終幕の場の直前、戯曲としてはお膳立て整って漸く迎えた緊張の場で、我が体力持たず寝落ちと相成り、(その場が戯曲上果たす役割はシンプル故に凡そ推察できるが)どんな話をその人物にさせたかが聞けぬとは・・ここが肝心ではないか、恨めしや、と独り言ちて帰路についた。
時代物とは言え女役が一人はいささか淋しかった。男女同権とは程遠い時代の無念を担わせる意図は理解できたが一様に収まらない側面も見えたかった(芝居自体は長くなるだろうが)。ドラマの本筋では、「医学の道」を志す者が研鑽を積む場で、旧弊を乗り超え「人の命を救う」真の使命に従うべき理想が語られる。その言葉は、江戸の時代を軽々とワープして今現在に届けられる。「扉座らしさ」を思い出す。らしさ、と言えば涙に訴えるシーンの多いのも私てきには扉座らしさであり、「そこはドライで通したい」と思ってしまう感覚の差があるが..、徒手空拳で物申す姿勢だけは、端から愚直に見えようとも頑固親父らしく堅持し抜いてほしいと思う(主宰の人となりは殆ど知らないのだが頑固に違いないと勝手に想像している)。
DOORS
森崎事務所M&Oplays
世田谷パブリックシアター(東京都)
2021/05/16 (日) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
倉持裕舞台はPPPPの晩年(?)の一作のみ、他は随分前になる新国立での「イロアセル」、今回と同じM&Oプロデュースの「磁場」、他にあっても一つ位か。「DOORS」配信有難く拝見した。
パラレルワールドの話。「イロアセル」もSF要素のある話だった気がするが、SFには思考実験の側面があり哲学的な作品が多いのは頷ける。透明人間やタイムマシンと来れば人の直接的な欲求や願望に直結するが、「同じだが微妙に違う」あちらの世界の話は必ずしもそうならない(設定も難しいがうまく整理されていた..元の世界の人物の関係性が微妙にずれながら成立している形が上手く描けている)。もっとも母の願望には直結していたが。。「惑星ソラリス」を幽かに連想させたのは、脳が勝手に感じ・思うことに人間は抗えない「中毒性」を匂わせている点。母はあちらの世界で生き直そうとした。不仲であった一人娘を置いて、であるが予想に反して・・娘は「向こうからやってきた」姿かたちの同じ母を「別の人間」と一発で見破り、当然の事として「本当の母」を探すこととなる。母(早霧せいな)への複雑な感情と欲求を滲みだす娘役・奈緒の演技はこの舞台に一本貫く軸を与えた。学校で異端児キャラの彼女を「いじめ」ている、付かず離れずの仲の女子(伊藤万理香)も憎さ余ってな心情を意地悪く愛らしく好演。彼女らの担任教師(田村たがめ)、その元夫で警察官(菅原永二)、近所の変な人(天文物理学にはまった引き籠り)(今野浩喜)が脇筋を盛り上げる。それぞれがパラレル(あちら側)でも登場し、たどった道が少しズレているが、そのズレが人格や関係まで変えており、「母」は荒んだ人生に見切りを付け「DOOR」を潜った先に平和を見る。
演劇的面白さはパラレルワールドでの少し(いや大分)異なる人格を演じる点。ただ、一つ難点は奈緒演じる娘が(衣裳で見分けが付かないというのもあるが)演じ分けが甘く「どっち?」と判りづらい所があり、脳ミソを駆使するが追いつけなかった。
(その主な原因は、優しい母の下でわがままに育ち、オーディションに受かって芸能界に入ろうとしている「向こうの娘」がその高慢さを発揮した後、奈緒は同じ目つきで「元の」娘を演じてしまっていた。切り替えが難しかったのだろうと想像したが、そのあとドアを焼くくだりも「どっち」かが判らず脳内は迷走した。)
新型コロナについて一切触れていないのが潔い。SFでも硬派。
別役実短篇集 わたしはあなたを待っていました
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2021/06/25 (金) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
別日に両方を観劇。4作品全てが「別役戯曲的合格ライン」(個人的な基準だが)クリアでハッピー、とは行かなかったが..収穫はあった。2015年前後にあった別役フェスでは二、三の優れた舞台によってフェスの価値は否が応にも刻印されたが、一公演としての評価は難しい。なんて小賢しさを嫌うのも別役流に思われ、個々の舞台の見たままを書きゃいいんじゃね。とも思うが。
いずれ詳述してみたい。