tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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ビニール

ビニール

コンプソンズ

シアター711(東京都)

2022/05/25 (水) ~ 2022/05/29 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

大谷皿屋敷作演のコンプソンズ公演は(学生劇団時代から現在に至るまでのいずこかで)接点があって初めてでないらしい。
(両者とも数を見ていないがその上で・・)破壊的な作風は地蔵中毒を思い出すが、こっちの方が「演劇」になってる感がある(ギャグのさじ加減で芝居の土台をひっくり返すか踏み止めるかが分かれる..パフォーマンス的な表現全てにおいてそうだが)。
社会の最底辺が描かれる。・・という文字自体が作者の意向を裏切っていそうだが、意味的にはこの通りで、救いのない人生の閉じた円環の中で精一杯悪あがきをして散っていく存在たちが(清々しい、と言いたい所だが残念ながら)痛々しい。物理的に正しい意味で最底辺の「おっさん」の存在が世界観を支えている。「逃げの姿勢」と若者に突っ込まれつつもそこに居直るという一周回って手に入れたおっさんの哲学が秀逸この作者ならでは。妙な説得力を持つ。実社会の「底辺」では大概、病と無縁でないが、精神を蝕まれず常識へのプロテクトを可能にする強靭な肉体はヒロイックである(いやフィクションと括った方が早いかも)。
おっさん以外の人物は皆若者であるので、勢い、「人生をどう終えるか」という場面には簡単に立たせてくれない。現在進行形と見る以外ないゆえに「痛々しい」。荒唐無稽だったり「そんなやついねえよ」と突っ込ませる人物像たちだが、この痛さのリアリティが終盤に至ってそれなりに迫って来た。ネガティブ思考が飽和状態な中での「希望」を問うている、と書けばそれらしいが、そんな高尚なものではない、と言いつつも、泥まみれの中に光明を見出せるかは最も切実な問いなのは確か。

ふすまとぐち

ふすまとぐち

ホエイ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/05/27 (金) ~ 2022/06/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ホエイ独特のわちゃめちゃ芝居。「わちゃめちゃ」の印象は割と毎回だったりする(「珈琲法要」を除く..この作りは少し別種の感がある。「郷愁のロマントピア」はややこちら寄りだった)。
久々にお目見えの三上晴佳の嫁役、山田百次の姑役、嫁の旦那が中田麦平、その妹(出戻り)の成田沙織、その小学校の娘の井上みなみ、その年下の従弟が中田麦平いった具合。津軽弁を激しく繰り出す名手は山田氏と成田女史、ナチュラルに繰り出す三上女史。外部の人間としては姑を典型的な新興宗教に誘う二人連、また嫁をDV被害者の会的な会に招く二人連に森谷ふみ、赤削千久子のコンビ。秀逸な場面多数であるが、整理のされ方のためだろうか、「わちゃめちゃ」さが前面に出て、典型は姑だが激しい言動の起伏が「ギャグなのか」「演技なのか」と戸惑う。
オーソドックスに収束する家族の物語であるが対立する二人や嫁と旦那の過去についての言及(仄めかしでもよい)は少なく、約めて言えば観客の想像に投げている部分が大きい。
素材は光っているが扱い方が・・という印象が残る(割と毎回であるが)。

ネタバレBOX

山田氏が故郷青森で作ったユニットが劇団野の上で一度東京公演を(東京の俳優で)やったのは観た。野の上の旗揚げ公演がこの「ふすまとぐち」だとか。完全に地元人向けに書かれた戯曲という事になるが、今回はこれを書き換え無しに上演した訳である。
なお津軽弁の名手と書いた成田女史は野々上東京公演に出演したが野々上のメンバーに非ず(津軽から連れて来た女優かと勘違いした)。

先日観た水族館劇場で火噴き男をやって石油の匂いを漂わせていたが、この舞台でも同じ事(ライターの火に殺虫剤を吹き付ける)をやっていたが、押し入れの中でやられる側の三上女史が素早く裏から抜け出す音がしたから、中々な冒険を((劇場的にも)やっていたのではないか?
ただ、「扱い」の問題で、ドラスティックな場面としてグイッと立たない。(残酷さを極めるなら、ぶわっと一発やって反応を待ち、さらに続けてぶわわわわっとやる、というのが良い。)ただこのシーンは、場面変って嫁の顔に包帯の(何故か)ホッとする姿に着地する。ここまでの事をやる姑の正当化は難しいが、ゆえに過去をぼやかしているのかも。・・で、その事がある時、姑の脳溢血らしい大いびきを聴いて「寝てるだけでしょ」と放っている周囲に対して「救急車呼べ!」と嫁が叫ぶという、裏面の過去への想像を掻き立てられる場面に結実する。
のだが、その後が惜しい訳である。嫁が誘われたDV被害者の会的な会の集まりで「新入り」として証言を行なうのが、この劇では初めて嫁が「自身を語る」場面となる。ここで作者は最終的に、会が望まない証言(DV加害者を敵と見做すに足る、すなわち会の紐帯を深める証言)になって行き、彼女を誘った二人(司会)が動揺する中、嫁が出て行ってしまう場面をいわばクライマックスとしているのだが、証言の前段が劇中に起こった姑のいびりの言語化が長く続くところで、先の姑の急変時の態度はどうなったのか?と疑問が湧き、色褪せてしまう。劇を閉じるに相応しい三上女史の熱演が、「そんな姑なのになぜ私の目には涙があふれてくるのか・・判らない」という台詞と共に再び「知らざる過去」へと観客を引き戻すものの、証言の終盤に漸くである。ここは工夫が欲しく思った。
平家物語〜語りと弦で聴く〜一ノ谷・壇ノ浦

平家物語〜語りと弦で聴く〜一ノ谷・壇ノ浦

art unit ai+

座・高円寺1(東京都)

2022/05/25 (水) ~ 2022/05/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

完成度は高かった。平家物語からの抜き読み数場。ウッドベースとの相性が頗る良い(音楽的レベルが高い、というのが正確な言い方だろうが)。金子あいの語り舞台は最初、女性の声という事もあって単調にも聞こえたが、集中して行くと文語体のテキストのニュアンスを汲み取った抑揚で(細部は判らずとも)場面の情景を伝えて来るのが秀逸であった。日本人の祖先たちが「物語」に心を震わせた一つの原型が、よおく判った。軍記物は講談で断片的に耳にしたと思うが、何かこう、形式の枠を外して広がった風景を改めて見るような鮮やかさがある。予想を超えて上演に耐える内容であった。

青空は後悔の証し

青空は後悔の証し

明後日

シアタートラム(東京都)

2022/05/14 (土) ~ 2022/05/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

岩松了作演出舞台は二度目である(あと演出のみ、岩松作品の別演出はそれぞれ一本ずつ観た)。戯曲も2本位読んだが、文字では判らない舞台になって判る劇世界が岩松作品の特徴で、作品には時代の奥を見通す要素が何かある印象があるが、本作もどこか近未来か(そうとは書かれていないのだが)と感じさせる雰囲気である。現実臭さと幻想的要素が同居し、また、カテゴライズされない固有の存在(唯一無二の個人)が徐々に姿を見せて来る作劇も岩松作品のものであった。
以前観た岩松作演出舞台は中堅・若手を配して鋭さがあったが、今回はベテラン陣主体だからか?芝居の作りに丸みがあり、岩松氏の「狙い」が体現した舞台になったのかどうか・・と考える所はあった。

旅と渓谷

旅と渓谷

スリーピルバーグス

永福町駅 屋上庭園 「ふくにわ」(東京都)

2022/05/16 (月) ~ 2022/05/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

楽日。遅い時間帯と低価格で一風変わった試みだろうと推測されたが、永福町駅施設の「屋上」に昇って漸く様子が知れた。リュック一つで身軽に移動、出張公演が出来るスタイル、という。砂場を囲うように地べたに照明数台、それを近巻きに囲って椅子が置かれている。時間帯が遅いのは照明変化が「効く」環境のためだ。男優と舞監?が客いじりしながらの開演待ちの間、ドキドキの懸念要素は「雨」、開場前から「本日雨の予想」とアナウンスしている。既にポツリと来はじめており、階下のダイソーにレインコートが売っていると案内があり、買いに行く。聞けば前日は途中から土砂降りの中での上演となった由。雨具の付け方のワンポイントレクチャーなどで非日常の気分、子ども連れが居たがはしゃいでいた。ズブ濡れになる不安と、「自分一人じゃない」心理から来る妙な一体感の中、野外公演が始まった。
出演者は4名(男3女1)、内2人がポータブルカセットデッキを肩から下げ(雨なのでビニールで覆っている)、場面になるとカセットを入れ替えて流す。照明にはフタが付いており、場面転換時に俳優が開けたり閉じたりする。
上演は一時間弱、その場所を「渓谷」に見立て、旅する者、旅人にたかる者が共闘的だったり敵対的だったりな干渉をし合うが、ロードムービー的なのは脚本それ自体。背景の見え方が少しずつ変わる。当てのない旅と見えていたのが、渓谷は終点と起点(下流と上流)を行き来するだけの閉じた世界となり、最後には終点(河口)に着いたら「ある旅」への出発という別のミッションが現われ、往復する場所でもなくなる。思いつくままに書かれた緻密とは言い難い脚本は、役者の絡みを優先した野外用短編劇。カタルシスは用意されるが、演劇芸術の質を測る「統合」の要素が希薄であるのは惜しい(要は筆の成行き任せで伏線が効いていない)。
今回の着想は以前夢の島あたりでやった野外劇「南の島に雪が降る」(ベッド&メイキングス)で屋外ならではの趣向の舞台を作った福原氏によるものだろうか。一つの試みではある。
表現形態の拡張の時期は、何と言ってもアングラ時代だが、当時は時代へのスタンス・思想と上演形態・表現形態が不可分であったのに対し、現在はコロナに起因する「形式の模索」の域を出ない気もする。

花柄八景

花柄八景

Mrs.fictions

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/05/11 (水) ~ 2022/05/23 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

この戯曲があったから、コロナ禍下で「何もしない」状況を耐えられた、と主宰がパンフに書いてある。不思議なバランスで魅力を醸している本作を、DVD映像で観て、これは作者に「降って来た」作品だなと感じたが、その印象に違わぬ(正直な)文面に思わず熱くなった。中井美穂プロデュース「落語」縛り企画からのオファーで実を結んだ作品。今回はMrs.fictions俳優二人の他は客演、特に元弟子役の風貌がガラリと変っており、また細かな台詞の直しの跡がある(笑わせる台詞)ものの、作品の骨格とこれを支えるハチ役(今村圭佑)が健在。10年を経て生き生きと蘇ったという感慨をもって芝居を愛でた。

眞理の勇氣

眞理の勇氣

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2022/05/13 (金) ~ 2022/05/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

戸坂潤と言う名はうんと若い頃、古本屋に如何にも昔の学生が手にしていただろうような、茶けた紙に1サイズ小さめの字がびっしりタイプの分厚い文庫本が置かれていた朧ろな記憶がある(唯物論研究序説だとか何とかいう物々しい題ではなかったか..)。
それにしても芝居の題材にし、主人公に据えるには随分マニアックで、評伝劇なら仲介者として現代から(またはせめて戦後のある時点から)当時を射程し、そこを入り口に時代を遡って行くのが常套である所、本作は「現在」を介在させず、戸坂の研究会のかつての同志を語り手に据えているとは言え、劇はほぼ当時を時系列に辿って行く。作者はこれが最も相応しいと判断したのだろう。戸坂の思想や哲学を(恐らく)原文に逐語的に本人に語らせ、解説に走らないのもその方針の延長に思われる。(ただし彼らに貼りついた特高刑事(3人いる)の質問に用語解説はする。)
が、言葉は晦渋でも、何が問題とされているかは戦時体制(思想弾圧や監視)という状況の中に鮮明になる。
唯物論という言葉は、日本史に引き付ければ、物理的事情を無視した戦略で国民を翻弄し、甚大な被害を与えた軍部の殆ど計画性の無い決定は「神」の御名の下に為された、という視点が多分に滲んでいる。勿論軍部の原則の無さが露呈するのは戦後の事だが、渦中にあって社会と体制の矛盾を見通す視点があった事、その視点を固持し説いた抵抗者が存在した事は現代に示唆を与える事実だ。
史実を比較的忠実に反映させる古川氏の筆は、いつも思う事だが何故か「それでも見せてしまう」。息を詰めて集中する時間と、大いに呼吸をして情景を味わう時間が適切に配されているようである。
もう一点本作の「見せてしまう」要素として、戸坂や既婚の研究会メンバーの女性関係の描写がある。大杉栄を前妻から奪った野枝らにも言及され、生活のためにでなく主義、思想で結びつく関係、自由恋愛の文脈に据えようとしていたが、劇中それなりの時間を割いたわりにいまいちフィットしていなかった。「科学的精神」をもって現実と厳しく対峙する戸坂潤の人物像(役者の造形も)は、ユートピアを謳うアナーキズムやある種の共産主義のそれとは異なり、文字通り「科学」に立つ態度、リビドーの発動と一線を画する事にむしろ自覚的である態度を想像する。戸坂氏のは単純に、一度後妻に迎えたい意思表示をした相手との焼け木杭のようなもので、本筋に噛んで来るレベルのエピソードかな..というのは素朴な感想。
それはともかく、、現在、日本学術会議の非承認問題に象徴される自民長期政権の学問の軽視と、非科学的態度(というか頭の悪さ)はマスコミの事後承認により(それを批判しない大多数の市民により)放任状態となっており、来たる参院選での野党惨敗後の3年間、「科学的精神」の敗北を逐一見続ける羽目になる事は覚悟せねばならんだろう。これからの課題は科学的精神そのものではなく、戸坂ら唯物論研究所が敗勢の中で後世ためにどう闘い、どう闘いを閉じたかに何を学べるか、既にそういう段階にある事を憂える昨今、本作は「歴史は繰り返す」を思い知らせる作品になった。

サラサーテの盤

サラサーテの盤

くじら企画

座・高円寺1(東京都)

2022/05/21 (土) ~ 2022/05/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

好きな劇世界、ツボであった。思い出したのは名取事務所「背骨パキパキ回転木馬」。新作オファーに別役氏が(病体を押して)書いたよこしたのは自身のエッセイのコラージュと言えるもので、ペーター・ゲスナー氏がうまく舞台化していて秀逸であった。明確なストーリーのある劇ではないが、脳内の思考や空想のように一見文脈はなくてもどこか深層で繋がっているようなのが好きで今回の舞台にもその要素がある。
大竹野正典作品はコットーネ主催公演で6、7本観てきたが本家のくじら企画では初めて。大竹野戯曲が持つシリアスと飄然の狭間の絶妙な具合が十二分であり、さすが、魂を受け継いでるなァと感ずる。
作品は内田百閒を描いた異色作との事だが、内田氏の親友とのエピソードを軸にしながら(評伝というより百閒作品自体が出典と推察)、他の作品を織り交ぜて「百閒世界」という感じ。

mono drama live vol.1 【ROLE】

mono drama live vol.1 【ROLE】

劇団ロオル

シアター711(東京都)

2022/05/13 (金) ~ 2022/05/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

演じて書ける演劇人として数年前、今井夢子とこの本山由乃両名を同時期に知ってより、目にする機会がなかったが今回、今井女史提供の作品も合わせて本山女史の仕事を観る事ができた。舞台の構成は一人芝居の短編4つ(3つは外部依頼で本山出演、1つは本山執筆で日替わりゲスト出演)の内3つを上演する形。本山作は毎回で他の三つの内二つを合せたセット上演にしている。
自分が行けたのはゲストが高取氏存命時にはお目にかかれなかった月食歌劇団の白永女史の回。他二つは石井飛鳥(廻天百眼)作と、今井作。間に本山作が来る。前説から芝居がかった導入と幕間の語り(伊井ひとみ)が入る。
梁山泊で度々見ている(はずの)本山女史を改めて眺め、金守珍譲り?の芝居魂を見る思いがしたが、私は中身も面白く観た。一人芝居をやり切ったというだけでリスペクトの対象だが、(劇全体としての重量は落ちるとしても)観客との交流は濃密になる。

民衆が敵

民衆が敵

ワンツーワークス

ザ・ポケット(東京都)

2022/05/05 (木) ~ 2022/05/15 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

映像にて鑑賞。
古城氏の脚本はテーマに対する思考実験の要素が強い印象があるが、本作も例に漏れず、大衆の印象操作、政権批判つぶしが具体的にどのように行われているか、が正面から(政府組織は仮想のものだが)描かれる。
実行部隊は「官邸何とか調査室」、略して官調と言い(間諜に掛けてるのか)、国の政策を批判する運動や言説を監視し、取り締まる汚れ部署(公安がもっと先鋭化したイメージ)だが、ベテラン部隊員(奥村)は男手一つで育てた娘=主人公(北澤)の恋人が実は部隊で現在マークしていた男本人と知る事になる。
部隊はネットを使った世論誘導にまで手を伸ばし、内部でも不満がくすぶるが、主人公が(恋人を通して)関わった改憲に反対するグループ(人権理解を深める会という)の中でも、主戦場をネットに移そうという動きが出て対立したりと、ネット世論にも言及する。
「支配」の存在を意識化させる作品であり、立場を違えてなお人として繋がれるのかというテーマも流れている。

二度目を鑑賞し、一度目は聞き流していた終盤の大事な情報、場面に気づいた。
恋人との悲しくも胸に迫る別れの場面の後、父と娘の静かな長い会話の場面である。その前に、幾つか場面を遡れば、娘と恋人との会話の中で、娘がデモに参加した事を父が知っていた事への疑問が浮かび、恋人は父は「官調」ではないか、と言う。その後の場面では、父を尾行中に気づかれ、父娘が言葉を交わすが、その中でフリーライターでもある恋人が娘に名乗っているのはペンネームであり、本名は別にある事を娘は知る。娘は父がかねて娘に言って来ていたらしい「国のために働いている」実質を問い、父は「自分はそう思って働いている」との回答に、娘は「それなら良い」と答える。ライターの恋人は実名で「官調」の実態を暴く記事を発表する。一般市民にまで介入した諜報活動をスキャンダルとして暴露した。これにより官調内部は動揺、と同時に、彼の運動グループへの参加も潜入が目的であったと判る。そして恋人との決定的な対話となる。既に恋の総括の段階であり、父が官調職員と知って娘に近づいた事(従って名前はペンネームを名乗る事になった)、だが娘のまっすぐな心で周囲と闘う姿に惹かれた事も事実である事・・等。娘は相手の言葉を受け入れ、記事は素晴らしかったと褒め、自分もそれを励みに頑張る、と告げて去る。次の場面で、かねて噂のあった官調から外部への情報リークの本人が「父」であった事が明るみに出る。そして、最後の父娘の対話。父が娘の表情から学校で何か問題を抱えていないかと気づかう言葉掛けが何度かリフレインされるが、この場面では二人の関係の原点(母を失った家族)を観客にも思い起こさせる。正しい事を主張し続ける事は苦しい、と娘はこぼす。でも・・それを抑え込む事はもっと苦しいのだ、と娘は悲痛な宣言をする。父は娘の行動にエールを送る言葉を静かに語り、自分が官調を辞めた事を漏らす。国のために働いているつもりだったがそれが疑わしくなって行った(仕事に誇りを持てなくなった)事を吐露する。本当の顔を表した父と、本音をこぼした娘の対面で終幕となる巧い台本である。

教員の政治活動については昔から議論があるが、例えば三十年前あたりの記憶を手繰ると、活動的だったり革新系と思われる教員も中には居て、色んな個性の一つとして受け入れられ、ことさらに事挙げする問題でも無かった気がする。
もちろん「赤」への偏見は昔から存在するし、差別対象を持ちたいという脆弱な精神風土が日本社会に根強く生きているのも事実。しかし差別意識を心の内に持つことや、井戸端会議でそこに居ない人間の噂をして結束を高めるといったレベルと、公然と唱えるのとではやはり異なる。
デモに参加した教師がバッシングされる・・それは本来奇妙な現象であるはずなのに(以前はもっと違和感を持ったはずなのに)この現象を受け入れてしまっている自分がいる。
だからこの芝居の主人公も、もっと妥協点を見つけ、一旦謝罪して学校の立場を守り、自分も教員を続ける道をなぜとらないのか(あまりにリアリティのない戯曲だぞ)、などと一度目の鑑賞では感じてしまったのである。自分の現在地が露呈するというやつである。作者は「現実にはいない」(だが本来は正しい)人物を登場させ、観客一人一人に自分自身との見比べを促しているように思える。二度目の鑑賞でそう感じた。

様々な事が空気や雰囲気で決められ、一億総風見鶏状態。だが一つ一つを紐解けば、「理が無い」ものに賛同し、または嫌悪の視線を向けている「理のない自分」がいる。
行動や態度を決定する「自分」の責任が問われるのは常態であるのが、往々にして周囲の振る舞いを見てしまう。本来問われるべき「理」はその都度「周囲」や「空気」が決めている。
この「周囲」の大多数が、規範やルールを尊重する人々であれば問題は起きないが、その逆ならどうするか。そもそも、なぜ逆になってしまったのか。
オルテガを引くまでもなく民主主義なんてぇものは何時でも衆愚に陥る。実質的に今の日本は選良にお任せ体制だが、選良の働きを見て「うむ、よしよし」「いやこれはまずい」と、せめて結果を見て判断する目を持ちたいものだが・・それも無いとなれば、人は何をもって生を、行動を肯定するのだろう。快楽か。
事実としてはこの10年の間に安倍政権が倫理も規範も法律をも踏み散らしたという事がある。民主主義を返上しようが軍事独裁に走ろうが究極構わんが、ある状態が「良い」か「悪い」か、くらいは感じ取り、言える自分でありたい。

ロビー・ヒーロー

ロビー・ヒーロー

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2022/05/06 (金) ~ 2022/05/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

桑原女史が演出のみを手掛ける舞台、という関心で随分久々となる新国立を訊ねた。正直「外れ」も多い新国立プロデュースの舞台だが、唸った。
私たちは普段様々な問題が複雑に絡み合った時間を生きているが、本作ではその幾本もの糸が脚本の中の台詞という形で再現される。それらは問いを投げ掛けるが、(現実がそうであるように)言葉を与えるまでは本当にそこに何が横たわっているのか判らない、しかしそこに何か言葉を紡ぎ出さなきゃならない状況に個人は追いやられ、言葉が絞り出される。すなわち言葉とはその瞬間、その主体の未来へ向かう意思であり存在証明である、という事を痛切に思わされる。そしてまた言葉にならなかった領域の深さ、不確かさ、可能性は、人物の態度の「変化」の中に見え隠れする。
作者的には最後、「和解」の結末としたかったのだろうか...? だが次の瞬間何が起こり、それが人物の態度をどう「変えて」行くのかは未知である、との余白を残して芝居は一旦終える(人生もそのようなものだろう?)。その感じが自分にはフィットした。

桑原女史が起用された理由を知りたいが、自分的には大当たりである。

グリーン・マーダー・ケース×ビショップ・マーダー・ケース

グリーン・マーダー・ケース×ビショップ・マーダー・ケース

Mo’xtra Produce

吉祥寺シアター(東京都)

2022/05/13 (金) ~ 2022/05/19 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

須貝氏の芝居は過去二作程拝見してより数年機会を得ず、今回は手招きの手の振りも強かったのでそんならと観に行った。ミステリー好きという程ではないがヒチコックやデパルマは好物。もっとも今回は謎解きを楽しみに、というより須貝氏が演劇というフィールドで何をやりたい人なのか(才能を前提に)という素朴な興味。
舞台は面白い程気持ちよく場面が繰られて行く。この脚本化と舞台処理の手捌きは、頭よくなきゃやれねんじゃね、と思う(いやそもそも演出やれる人は脳ミソ大きいに決まってると思ってるが)。
観れても一作だけ、と「グリーン」を拝見したがanother murder caseも観れないかと考え始めてる所。

『焔 〜おとなのおんなはどこへゆく〜』

『焔 〜おとなのおんなはどこへゆく〜』

下北澤姉妹社

駅前劇場(東京都)

2022/05/11 (水) ~ 2022/05/15 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

「Boju 母樹」を映像鑑賞より2年振り劇場にて..とは行かず今回も映像鑑賞。臨場感が重要な舞台に思えたが映像の限りでも妙なぎくしゃくの狭間に詰まったユニークさ満載、作者の「言いたい事」を人物に言わせてる感も満載だが気まずくならず「どんどん言ってくれ」、ウェルカムである。不思議なバランスで成立したユニークなお芝居。

コーラないんですけど

コーラないんですけど

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2022/05/08 (日) ~ 2022/05/10 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初演を観たのは何と5年前(そんな経ったかな..)、ナベ源メンバーの美味しい配役で判りやすく観た初演に比べ、今回の花組芝居役者のは男二人で男女を演じる。ただ、母に見えるまでに時間が掛かったり、更には役の入れ替えがあるが替わり目がいまいち鮮明でなく(というより入れ替える理由が判らない)、ナベ源役者って巧かったんだなと改めて思ったりする。
もっとも戯曲の開かれた可能性を新キャストで探る意味はあり、事実、別の芝居として立ち上がった感はあったが、技を繰り出す脇の植本氏のキレを(芝居の方が)掬い切れてたか、についてはやや不全。
民間会社が紛争地へ派遣する要員(傭兵的な)を募る日本の近未来を半ば戯画的に、鋭く描く芝居ではあるが、具体的な戦争の姿がよりリアルに感じられる2022年現在、仄めかしをしている段階ではない、という感覚もよぎる。現実を刺す演劇の貴重さと共に難しさも考えてしまった。

衣人館 / 食物園

衣人館 / 食物園

牡丹茶房

ギャラリーLE DECO(東京都)

2022/05/11 (水) ~ 2022/05/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

一目見てみたいユニットの一つだったが、偶然重なってピッタンコ、てな感じで観る機会が訪れた(小品のため20時開演もあってラッキー)。想像していた「方向性」ではあったが今回のは(過去作を知らないが恐らく)中々容赦ない斬り込み様であったかと。次また観てみたいと思わせる余韻・余白を残した。

ネタバレBOX

己の感性にこだわるが故に周囲(社会)との齟齬が生じるも極少数からの承認は得ている、という構図に見えていたのが、その「少数」の内最も強力な存在(自分のこだわるファッションにおいて師と仰ぐ女性)が揺らぎ、それをきっかけに心身耗弱な自我の世界に入って行く。実は「強いこだわり」は己を守るバリア、承認の関係を再現するために「こだわり」は常軌を逸した次元に達し、崩壊を迎える。現実に起こり得ない(肉体の弱さゆえ・・従って余程思い込みが強いとか実は痛覚が鈍感とかならゼロではないかもだが)領域に至っても観客は主人公の内面を想像し、思いめぐらせその答えを探ろうとするので、中々ヤバイ。
彼女にとって(というより観客にとって?)「救い」となる三人の存在の内最も第三者的な人物が最終的に「突き放した承認」を彼女に与えるが、最後のやり取りではギリギリ聞こえる声量、もう少し内面の裏付けのある声として聴きたかった。(キーになる言葉なのでうっかり聞き洩らしたら置いてけぼりを食らう。)
グレーな十人の娘

グレーな十人の娘

劇団競泳水着

新宿シアタートップス(東京都)

2022/04/21 (木) ~ 2022/04/29 (金)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

映像での鑑賞あるあるだが、集中して見入るのに難渋。何度かトライして(性能の良いイヤホン使ったりして)視聴期間中にどうにか全編鑑賞できた(途中寝落ちして巻き戻したりもあり)。
競泳水着は初、と思っていたら6年前、二作品リーディング公演を二つとも観たという事があった。(サイトに最後だけ伏せた台本がアップされており、読んでいて話の内容を思い出したのだが、劇場で観たという記憶は抜けており、なぜか新宿の店の窓際かどこかで音声で聴いたような記憶に変っていて、物理的にはあり得ず妙な事だ。)
..それはともかく、上記の短編二作に通じる作風だと思った。怪しく雲が垂れこめる人間関係、謎解き・伏線回収の妙が今作にも。
素朴に面白く観た。リアルな家族関係の掘り下げは無いが、ミステリー作品に漂う匂いが微かに香り、家族の離散と再会の風景がドライな中にも郷愁を帯びて悪くなかった。
人間ドラマならば、五人姉妹の末っ子ノアを巡って、その引き籠り人生を開花させるといった筋を考えそうな所、ノアにとって必要な存在(そこに居なくても)である姉のニーナの「意図」が、この顛末の謎解きとなる。その意味でミステリーのある意味での王道、そこに「人の心有り」的な収まり方である。しかし私的にはこの舞台の魅力はそうしたオチではなく(「心」はミステリーのパーツ以上ではなく)、ディテイルが書かれていない描写の隙間を想像させる何か、だろうか。小説でもミステリーには作品(作者)固有の雰囲気があるが、(先の二短編を含めて)この作者の作品は何がしか世界観が漂っており、要は好みなのかも知れぬ。(癖になる程でもないが..)

「黒い十人の女」をもじったタイトルと思われるが、出演陣が女性十人に男一人、狂言殺人、という所まではなぞっていて、お遊び。映画では男がドラマの中心だが、この芝居では助っ人の一人。
小劇場ではお馴染みのザンヨウコ、橘花梨、小角まや、橋爪未萠里、その他の女優もそれぞれ存在感を示して「競演」の趣。ミステリーらしい。

親の顔が見たい

親の顔が見たい

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2022/05/02 (月) ~ 2022/05/06 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

DVDで観ていた昨年の無観客上演とは俳優が三役異なった(WキャストもDVD版と異なるキャスト回を選んだ)こともあって出来具合も若干違ったのかも知れないが、この観劇で如実に感じたのは映像と生との差。画面からは伝わらない波動が劇場では観客の身体を貫通し、映像を見る際に持ってしまう客観的な視野を許されず、いつしか「巻き込まれ」ている。
俳優と共に観客も消耗するが、ある共有体験が実は人間の人格・思想形成に重要である事を思う。教育現場を舞台にした作品であり、作・演出者自身のバックグラウンドでもあるが、作品を媒介にした体験である事に加え、劇場という場での(他の観客との)共有体験の効果とは、教育(関心と知識の両輪、広く人格形成と言っても良いか)に求められる要素に他ならない事をつい考えている。(つまり、演劇の教育的効果の事を言っているのだが。)
この舞台に登場する「親」たちは世間の通念や世論を映しており、我が身の鏡でもある。事件が持つ「特殊性」がドラマのフックになってはいても、結果的に大きな責任を担わされる事それ自体は特殊ではなく、往々にして身に振りかかるもの(自身の何らかの「瑕疵」がもたらした結果として)。そしてその「結果」の重さこそ、このドラマの核心であり、根底を支えるものであり、それと対峙する人物たちのリアルな感覚を俳優が伝え得ていた事が、最大の評価点になる。(優れた舞台だったと一言書けば終わる話でもあろうが..舞台の感動を伝えるのは本当に難しい。)

メリー・ポピンズ【3月26日~30日公演中止】

メリー・ポピンズ【3月26日~30日公演中止】

ホリプロ/東宝/TBS/梅田芸術劇場

東急シアターオーブ(東京都)

2022/03/20 (日) ~ 2022/05/08 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

作品そのものが長い宿題になっていて、以前本を買ったが未読、映画は先には見まいと取ってある(この状態が10年以上)。すぐ手が届く所にある未知なるファンタジーが、舞台でロングランの報。いつか見られるな、と悠長に構えていたら東京公演終了が迫り、「わしがメリー・ポピンズか..」と若干の逡巡を払って観劇した。
(貴重な観劇枠であったので他の「ケダモノ」「フェアウェル、ミスター・チャーリー」のいずれかを決めかね、まず「ケダモノ」脱落、残る二つをギリギリまで迷った挙句こちらを取った。その判断の当否について言えば・・、「メリー・ポピンズ」はミュージカルとしての予想を超えては来なかった印象。全くの未知数であったもう一つを観たかった・・というのが正直な気持ち。)
とは言え、マジカルな演出は優れもの、緻密なテンポ感と緩急、歌唱力と、観客が「心地よく」なる道具立ては十二分に配され、「商品」として評価するなら「値段に相応しい中身でありました」と答える事になるだろう。

ネタバレBOX

自分はミュージカルの追っかけではないが、ミュージカルである『RENT』『リトルダンサー』に「感動」を覚えたのは、やはりドラマ性とそれを支える(補完する)楽曲という事になるのだろう。
過去僅かながら観て今一つだったミュージカルが「超えてこなかった」理由の大部分は楽曲に感情移入し切れなかった事によると思われるが、ドラマ世界を理解しきれなかった感触が残る場合は己の鑑賞眼の未熟さもあるか、とも思う。ただ今作は、ドラマとしては比較的シンプルである。
一点、子どもの空想的世界と大人の世界との接点が大きな楽曲の場面として描かれる部分がある。ストーリー的には「寄り道」であるが、得てしてミュージカルではこの部分に根底のメッセージを投射する要素があったりする。
前半、主人公たる「世話の焼ける子ども(姉・弟)」がメリー・ポピンズに連れられて公園に出かけ、人格化した銅像や羊たちと戯れる場面では、メリーのこの世ならぬ魔法あるいは子どもの想像力が、「現実世界のドラマ」に食い込む重要なファクターとして提示される。だが後半、メリーと友達になる若い煙突掃除夫と、その仲間たちによる転調に転調を重ねる壮大なダンスが、前半の「寄り道」をグレードアップしたものとして展開する。人々が知らない夜の屋根の上で、自由な世界を歌い上げる大曲では、つまらないしきたりに縛られない誇り高い精神(アメリカらしい)が二人の子供も巻き込んで歌い踊られて行く。(実はこの場面こそドラマ的には最大の見せ場に違いないのだが、楽曲では気持ちがもう一つ上に行けないもどかしさがあった。ティンパニーのドンドンの響きは作曲家的には「盛り上げ」効果を狙ったものなのだろうが、「行進」のようになってしまい(自由と権利を求めての行進が1950、60年代にあったと聞くがそうした時代を映したものだろうか)、屋根の上ならもっと浮遊とか飛躍をイメージしたい所、地上に引き戻される感じがあった。まあ私の感覚ではという話だが・・『RENT』を観た者としてはもう一つ突き抜けたい欲求を否めない訳なのであった。)
演出的には、三階席の後ろまで飛んで行くメリーの壮観なラストや、煙突掃除夫が舞台前面のプロセミアムの枠を一周歩く「見せ場」では、ロープが殆ど見えなかったり、「え、今のどうやった?」と目を凝らしてしまうプチマジカルな瞬間もあったり、場面転換の妙、装置の美しさと舞台技術を「ふんだんに」投入した感ありである。なのであるが、最終的に人はドラマを見、ミュージカルにおいて音楽とそれは不可分という事である。
そう考え来ると、子どもたちを正しく導く使命を担わされるメリーの人物造形についても、考える所があった。「この世ならぬ力(見えない所で使うが子どもには見せる部分もある)」「相手に有無を言わせぬ迫力」が強調されていたが、「子どもたちを導くようプログラミングされたマシーン(AI?)」に見えなくもない。人間として見るならそこに人格、性格気質が伴うがこの舞台でのメリーはそれらが払拭されている。このメリー・ポピンズ像はスタンダードなのか?? 今度は晴れて映画を観てみる事にしよう。
僕は歌う、青空とコーラと君のために

僕は歌う、青空とコーラと君のために

ヒトハダ

浅草九劇(東京都)

2022/04/21 (木) ~ 2022/05/01 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

映像配信を拝見。小劇場での鄭義信作演出舞台というのは結構久々な気が。それだけに劇場で受けるインパクトを取りこぼしてる可能性を思いつつ、配点。
とにかく鄭義信らしさが炸裂であるのは毎度の事である。冒頭から笑いを飛ばし客も巻き込み(時にはいじりも)高めに高めてシリアスがさらっと入り込む。今舞台は米軍相手のキャバレーの設定、生ピアノと歌がある。店のオーナー(梅沢昌代)以外皆男性でフォーハーツ(当初スリーハーツであったが序盤で韓国人脱走兵が加わる)を結成しており朝鮮戦争特需の時代を背景に糊口をしのぐ手段としてショーで食っている格好。皆歌える役者で手練れの演技派揃い「だからやれる」芝居でもある。
役者集団ヒトハダの旗揚げ公演という。昨年流れた公演を目にする事ができ満足だが、この所帯でのコンスタントな活動は(傍目に見れば)中々難しいと想像する。継続のレールに乗るためのアイデンティティ、ここにしか無いもの、かつ無くしたくないと思えるものを、願わくは見出されん事を。

マがあく

マがあく

シラカン

STスポット(神奈川県)

2022/03/30 (水) ~ 2022/04/03 (日)公演終了

実演鑑賞

この所初の劇団の観劇続き。シラカンは若手ユニットとして名のみ知っていたが今回STスポットで上演との事で足を伸ばした。舞踊や身体表現系、アート系を目にする事の多いSTスポットは白い四角いシンプルな空間が「実験場」に見える。初めて観るシラカンは照明変化も音楽も無い中で役者の身体と台詞が明るいフラットな明りに晒され、今思えばだが「部屋」をかたどる形で四角く配置された色とりどりのドミノも、役者の動く身体を際立たせる効果を狙ったもの、だったかも(私はこれが何時倒されるのかと待っていたが)。
自分の大括りなカテゴライズでは「味薄若手」の部類に属する。ある不条理が堂々と日常に入り込んでいるのだが、この日常性が「静かな演劇」のもので、劇中ヒートアップする場面があっても脱力の要素がある。「これ以上追求されず」「さしたる裏付け(人物の動機として)もない」と知れてしまう事で、あまり先を期待しなくなる自分がいる。語られる世界は彼らが日常目にしているだろう範囲を出ず、私には予想を爽快に裏切る展開はなく終わった。観終わった時はこの劇が順当に時間が流れるストーリーを見せたかったのか、(演劇の特権として)時間を歪める不条理性を狙ったのか、意図が判らないという感想を持ったが、両者は絡みつつも重心は後者にあり、ポイントは不条理の「扱い方」にある、と思えてきた。後述。

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