出鱈目 公演情報 TRASHMASTERS「出鱈目」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    少し日が経ったので配役を見ながら思い出してみた。
    カゴシマジロー演じるのは過疎地域にある自治体の市長。経済に翻弄され疲弊した日本社会の未来を開く道はアートにこそある、との考えに至った彼は使命感から市の主催で芸術祭を企画しようと動き出す。だが彼が興した会社を継いで経営者となっている息子(長谷川景)は、もっと他に予算を割くべき事があるとして反対の立場。だが父の説得により一定の理解を示す。市長の妻(藤堂海)は、地元では最も大きな企業の代表取締役を退いた有力者を父に持ち、市長に選挙協力もしているようだが、夫婦関係には政略結婚の痕跡はなくフランクで対等な関係を築いている。息子が父と対立関係にあっても夫婦を見ていると深刻な不和には至らないと知れる。
    市長の職場では、男性に対しトラウマを持つらしい女性秘書(安藤瞳)が誠実なキャラでドラマ中では良心を体現する。県職員の女性(石井麗子)はこう言っては何だが役人に徹するが故の俗物性を代弁する。この件が無ければ普通に仕事のできる常識人だったろう彼女の「芸術に対する無理解」を露呈させたのは、芸術祭のプログラムであったレジデンス製作(この地に滞在して作品を仕上げる)を行ない、出品した「カルニゲ」で優勝した若手画家(倉貫匡弘)である。優勝の記者会見で彼は受賞した絵画についての質問に、癇に障る言い方で先の県職員に食ってかかる。ふてぶてしい態度に映った彼に職員はあなたの滞在費も税金で賄われている、もっと口の利き方があるのでは、と感情的な反論を行なう。だが議論が進むと、恐らく画家共々作品が嫌いになったのだろう彼女は絵が示唆する「戦争」(この公演の時点ではウクライナ戦争が重ねられている)とそれを傍観し、あるいは笑う者が描かれている事(とそれへの不快感を示す観客が居た事)をもって、「芸術は万人の者であるべき。あなたの絵は多くの人を不快にさせる。そういうものを作るべきではない(少なくとも税金を使う以上は)」と言ってのける。究極の芸術無知の台詞を中津留氏は役人に吐かせたわけだが、しかし蓋を開ければ同様の認識を持つ人は少なくないだろう(愛知トリエンナーレの例やネット言論を見れば凡そ推察はできる)。
    芸術無知と、芸術祭に協賛した企業の論理に対峙する側として、画家の他に、市長が芸術祭の格を上げるために審査委員長を依頼した絵画界のオーソリティ(ひわだこういち)がいる。経済界に属する人物としては先の市長の息子の他に、地元の大手(妻の父がいた会社)から家長クラス(太平)が実行委員に顔を出しており、同じく協賛企業として地元メディアの記者(星野卓成)も入り、記者会見では先の県職員と共に質問を行い、芸術家の挑発的とも言える態度と良識を代弁する側との対論が展開する格好である。

    面白がりたい自分としては、まず優勝作品を現物として登場させた事に驚く。もっとも台本上、モノクロの抽象画に描かれたパーツを逐一指して、作品の意図を説明したり質問する側が疑問を投げかけ、答えを聞きたがったりするので、絵は「見せなきゃ成立しない」。のであるが、その指摘されるパーツというのが、「人が笑ってる」と見える図柄や、並んでいる戦闘機(格納されてるだけで稼働してなさそう)であるとか、ここ(絵の中のある場所)が戦場だからここ(手前の方)は第一線から相当距離のある場所だろう、等のやり取りを舞台上の「絵」を使って行なうのである。中津留作品が持つB級性はどこか滑稽で安心できる部分を作るが、今回私はこの、実際に受賞作を展示し、侃々諤々本気で議論しているという光景、これを微笑ましい「B級」要素として愛でた。
    奇妙な展開もある。受賞した作品の中に描かれた戦闘機は、実は地元大手企業が作っていた戦闘機の部品の事を指している、という説が巷で話題になり、滞在製作を行なった画家は地元をつぶさに歩いて情報を仕入れ、この土地で発表するに相応しい作品としたのだ、という説明が説得力を持った。そこで「困った」その会社から派遣された実行委員は、最終的には上部からの意向「優勝の取り消し」の要求を伝えて来る。しかしその前段では、この絵に対する批判が湧きおこっている、と伝えられていた。一部で企業批判に乗る人も出て来た、位の事で何をあたふたしているのだ・・と言うのが正直な感想なのだが、さてこの通告でカタに取られるのが市長の妻との離縁(という形での選挙協力取消し)で、最終局面に至って市長の家族は翻弄される。ただ、地元企業が兵器産業の下請けをしていた事が批判の対象になっているのだとしたら、火を点けたのは一枚の絵であっても「優勝取消」は火を消す事にはならない。(この企業は地元に需要が無いから兵器関連に手を染めたのであり発注元は東京かどこかの財閥系企業であり、地元で不買運動が起きようが買うのは彼らではないのだ。)
    が、それも中津留作品ではご愛敬。妻の父を介した地元企業からの娘夫婦への要求は、市長にとっては骨身に堪え、一度は授賞取り消しの記者会見を開いてしまうが、最後はその取り消しの記者会見を開く。この転換の間には、取り消し決定のための委員会から外された地元メディアと実行委員長による市長への抗議もさる事ながら、ここで市長に進言するのが先の秘書であった。何が正しいか、もう答えは出ています・・と心からの(市長を思う気持ちからの)言葉を発する。市長は撤回の撤回を決定する。
    なお彼女については市長の息子との間で、芸術祭開催までの途上で「恋愛」沙汰が生じるが、その実は、協賛金集めに苦労していた彼女が、以前から恋心を伝えられていた市長の息子に「一度の食事」を条件に協賛金を取り付けた、という事があり、市長の前で(息子もいる所で)白状するのであるが(笑い所)、男性への恐怖心を抱えていた彼女が彼にだけは何故か萎縮しない事に気づいて行き、いずれ真の恋人となるオマケが付く。
    授賞を撤回し、その後本来の考えに戻った市長の変化の、行間を埋めるカゴシマジローが逸品であった。

    劇中、「人を不快にする表現」は怪しからん、と売り言葉に買い言葉で画家に対し「税金」を論拠にしてマウントを取ろうとした役人のこの言葉は、「不快」の源を自己省察しないと宣言しているに等しい意味で傲岸な言葉だ。
    芸術とは日常を見直す契機を与える、という意味でのみ、価値を有する。日常を肯定し何も問題はないとお墨付きを与える芸術について語るとすれば、恐らくスポンサーや顧客が付きやすく支援の必要がない。だが公共が支援をしてでも社会に一定確保されるべき芸術とは、自らを照らし、時に生き方を変えられてしまう「力」(潜在力)を持つそれを言うのだと思う。人が芸術に触れようとする正しい態度とは、比喩的に言えば頬を殴られたくて赴くのである。
    この劇に即せば、「不快」の源は、地元の企業が戦争に加担しているかも知れない事、それゆえそれを許している自分は戦争に協力しているとも言えてしまう事。現在の社会構造に依存し、これを変えようとしない事で不利益を被って来た者の存在を無視している事・・等々の「不快な」自己評価は、正に改められるためにこそ必要な「不快さ」であり、これを不快と感じてしまう自分に気づかせる芸術がそこにあるという事なのである。確かに演劇にも、そのまま苦味を発するものもあるが、ソフトなガワに包みながら実際には苦い内容を飲ませられている事は多い。「死」そのものも、不快だろうが芸術は「死」を語るのである。

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    2022/08/02 03:38

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