実演鑑賞
満足度★★★★
加藤拓也氏は直近の作・演「ポニ」「もはやしずか」を観たのみだが、演出舞台も観たくなって観劇した。序盤のステージだったが、完成形の印象であった。実は2分程遅れて到着(座席には4、5分後位)、「三場」途中から観た(場の頭に場ナンバーとタイトルの表示がある)ので、ドラマの起点となる「事件」についての情報欠落があったに違いないと思いながら観劇。後日書店で戯曲を開いて「答え合せ」をしたが特に情報の洩れはなかった。三場は服を血だらけにして戻った若い女サリーが家の男(兄?)に問い詰められていた。作者は事件の輪郭だけ提示し、サリーは事件に関与したとの前提で話は進むので確かにそれで十分であった。主題は事件の犯人捜しではなく、本件被告であるサリーが「本当にやったのか」でもないのだ。
いずれにせよ芝居を脳内で再構成したドラマの受け止め方を探っている状態。起承転結明確な完成度の高い戯曲を、完成度高く舞台化した舞台(飲み込み易い舞台)ではなく、戯曲の狙おうとした風景と、演出がどの程度具現できたかの評価は、留保したままだ。
ほぼ全編に近い「審理」の時間、十二人の女性は被告が「妊娠しているか」の判定のためやり取りをする。それによって事件への「関与」が変わるからではなく、妊婦は処刑すべからずの法の効力が及ぶか否か、女たちに判定させるのである。その間、主人公エリザベスは育ちと素行の悪いサリーを擁護し、公正な審判を行なうよう立ち回る。ある者は別の町から訪れた高貴の者を装って審理に参加し、実はサリーに私怨を持つ別人(元邸の使用人)だと露呈したり、煙突からカラスが迷い込み灰を撒き散らす等の如何にも不吉な「事件」もあるが、やがて浮上するのがエリザベス自身への疑惑。献身的なエリザベスを悪く言う者はいないが、噂はまことしやかに流れていた。先鞭をつけるのは虚言癖(妄想?癖)のある女で、話自体は全くの作り物、エリザベスが悪魔と交わる光景を見た、といった類の話であったが、魔女狩りのあった時代。彼女は無用な嫌疑を払拭するため、やむなく真実を告白する。即ち、サリーは自分が生み落とし、他人の家に預けた娘であった。だがこの事はこのドラマでは通過点に過ぎず、最終的にこのドラマは「審理」の結果を踏みにじるような結末を見る。そしてこの腹立たしくも根の深い現実を、作者は現代を映す物語として突き出している。
女らが喧しく喋り、ブラウン運動の如く室内を行き来する芝居には実際は動線処理が施されてあるに違いなく、その他諸々、演出的貢献は大きいのであるが、初演2020年にイギリスで喝采を浴びた舞台、と聞いたりするとその理由は何かと考えたりもする。
上記の執筆意図は間違いないだろう。17世紀という時代設定は、宗教心や地域共同体の中の生活という、現代と乖離した女たちの生態のなかに、逆に「変わらぬ姿」を浮き彫りにしたかった女性作家の執念を連想させる。人の目と自らを縛る観念との間で生きる絶望は、現代においても規範性の強い家庭の中の生に見出せたりするだろうが、その点、中世の女たちを作者は逞しく描いている。ただし科学知に乏しく、「悪魔」を取り沙汰する際もその機能・実態よりは、恐怖から身を守るための判断・思考を行なう事になり勝ちである。しかし、男と違って生活実感を軸に生きる女は正しさを見分ける感覚的な武器を備えている風にも見える。「瀉血」という蒙昧の象徴のような医療処置を、火照る体を持て余す女に適切に施す場面がある。医師によってでなく自分も体がつらい時に瀉血を行なっている、という女の助言によって。施された女は症状を和らげる。
問題の「妊娠」を判断する有力な材料は母乳が出るか否かであったが、女らは嫌がるサリーを説き伏せて母乳を吸い上げる。その時は母乳は出ないが、サリーは自分が妊娠している事を「知っている」し、一度母乳は出ているので、女らが他の事で騒いでいる間、地道に母乳を吸い出そうと頑張っている。そして満面の笑顔で「出たわ」と容器を見せようとした矢先、カラスが煙突を潜り抜け大量の粉塵を室内に撒き散らすという事が起きる。「証拠」は炭で汚れ、母乳だとは誰も信じず、エリザベスだけは味見をして母乳だと証言するが、他の者は口にしようとしない。
だが結局、彼女の妊娠は、助産婦のエリザベスの見立てからでも他の女の証言からでもなく、医師(即ち男性)の物々しい器材を使った診断で、確定される。(作者は女どもの不甲斐なさをここで描きたかったのだろうか。)
ところが、裁判に私怨を持ち込む事が「高貴な者」には許された・・あるいは力のある者が不正を通す法的・物理的な隙間が、その時代にはあった。(作者は近代法が機能する現代の優位性を示したのだろうか。否、その現代にあって尚力ある者の暗躍を許している事実(共通性)の方が作者の意識する所だろうと推察。)
現代では起こり得ない事、とは全く見えない悲惨な結末、そしてエリザベスが必死で擁護しようとした(自分の子だからでなく一人の誤解されやすい自暴自棄な人間に対して)サリーという存在。彼女は社会からどう遇されるべきであったか(引いては女性らはどう助け合うべきであったか)・・。
作品に込められている主題はその辺りにあると思われたが、この戯曲の特徴は言葉の過剰さにある。生々しい生活感、性感覚(意外と開放的)、神観念のおおらかさ(中世を息苦しい時代にしたのは男であって女ではない)、そうした生の根底に流れる女の力強さを滲み出させるエピソードが、12人の女たち各様の個性と共にちりばめられていてそれが「過剰」(不要、に非ず)な部分に見えるのだが、その点では例えば・・吉田羊演じるエリザベスの元に最初法廷から出廷を依頼に来る片腕を吊った男(その後審理の間入口を見張る役となる)が現われた時の会話に、昔二人が懇意になった事を仄めかす台詞があるが、男の目から見た「弱さ」を内在化し、力とする女性の彼女も一人だとして描くなら、この時の吉田羊の態度の中にもっと異性や他者に対して包摂的な、おおらかな(つまりは女性的な)要素を滲ませる演技はあり得たと思われ、それは後半明らかになる「弱味」の告白に繋がり、全人的な「女性」の姿を造形できたのでは、と思った。この部分が「果たして演出的にどうであったか」に一抹の疑問が過ぎる理由であった。ただし「再構成」したイメージからのこの印象が正しいのかどうか、自信はない。
ただ、我が娘から難じられ「拒絶」されるエリザベスの所在なさ、男に過去を仄めかされて露呈するだらしなさ・弱さ、つまり現代の吉田羊自身の感覚では受け入れ難い(みっともない)人物の要素を、排除して役を造形したようにも見え、ただ献身的で、一時の過ちは認めるが自分の本質ではないと汚点を除外した現在のあり方が、役の一貫性としてどうなのか、という疑問は観劇した当初からずっと残る。「成立していない」訳では無いが、他の可能性も想像してしまう余地はあった。