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ザ・ウェルキン【7月21日~24日公演中止】

ザ・ウェルキン【7月21日~24日公演中止】

シス・カンパニー

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2022/07/07 (木) ~ 2022/07/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

加藤拓也氏は直近の作・演「ポニ」「もはやしずか」を観たのみだが、演出舞台も観たくなって観劇した。序盤のステージだったが、完成形の印象であった。実は2分程遅れて到着(座席には4、5分後位)、「三場」途中から観た(場の頭に場ナンバーとタイトルの表示がある)ので、ドラマの起点となる「事件」についての情報欠落があったに違いないと思いながら観劇。後日書店で戯曲を開いて「答え合せ」をしたが特に情報の洩れはなかった。三場は服を血だらけにして戻った若い女サリーが家の男(兄?)に問い詰められていた。作者は事件の輪郭だけ提示し、サリーは事件に関与したとの前提で話は進むので確かにそれで十分であった。主題は事件の犯人捜しではなく、本件被告であるサリーが「本当にやったのか」でもないのだ。
いずれにせよ芝居を脳内で再構成したドラマの受け止め方を探っている状態。起承転結明確な完成度の高い戯曲を、完成度高く舞台化した舞台(飲み込み易い舞台)ではなく、戯曲の狙おうとした風景と、演出がどの程度具現できたかの評価は、留保したままだ。

ほぼ全編に近い「審理」の時間、十二人の女性は被告が「妊娠しているか」の判定のためやり取りをする。それによって事件への「関与」が変わるからではなく、妊婦は処刑すべからずの法の効力が及ぶか否か、女たちに判定させるのである。その間、主人公エリザベスは育ちと素行の悪いサリーを擁護し、公正な審判を行なうよう立ち回る。ある者は別の町から訪れた高貴の者を装って審理に参加し、実はサリーに私怨を持つ別人(元邸の使用人)だと露呈したり、煙突からカラスが迷い込み灰を撒き散らす等の如何にも不吉な「事件」もあるが、やがて浮上するのがエリザベス自身への疑惑。献身的なエリザベスを悪く言う者はいないが、噂はまことしやかに流れていた。先鞭をつけるのは虚言癖(妄想?癖)のある女で、話自体は全くの作り物、エリザベスが悪魔と交わる光景を見た、といった類の話であったが、魔女狩りのあった時代。彼女は無用な嫌疑を払拭するため、やむなく真実を告白する。即ち、サリーは自分が生み落とし、他人の家に預けた娘であった。だがこの事はこのドラマでは通過点に過ぎず、最終的にこのドラマは「審理」の結果を踏みにじるような結末を見る。そしてこの腹立たしくも根の深い現実を、作者は現代を映す物語として突き出している。
女らが喧しく喋り、ブラウン運動の如く室内を行き来する芝居には実際は動線処理が施されてあるに違いなく、その他諸々、演出的貢献は大きいのであるが、初演2020年にイギリスで喝采を浴びた舞台、と聞いたりするとその理由は何かと考えたりもする。
上記の執筆意図は間違いないだろう。17世紀という時代設定は、宗教心や地域共同体の中の生活という、現代と乖離した女たちの生態のなかに、逆に「変わらぬ姿」を浮き彫りにしたかった女性作家の執念を連想させる。人の目と自らを縛る観念との間で生きる絶望は、現代においても規範性の強い家庭の中の生に見出せたりするだろうが、その点、中世の女たちを作者は逞しく描いている。ただし科学知に乏しく、「悪魔」を取り沙汰する際もその機能・実態よりは、恐怖から身を守るための判断・思考を行なう事になり勝ちである。しかし、男と違って生活実感を軸に生きる女は正しさを見分ける感覚的な武器を備えている風にも見える。「瀉血」という蒙昧の象徴のような医療処置を、火照る体を持て余す女に適切に施す場面がある。医師によってでなく自分も体がつらい時に瀉血を行なっている、という女の助言によって。施された女は症状を和らげる。
問題の「妊娠」を判断する有力な材料は母乳が出るか否かであったが、女らは嫌がるサリーを説き伏せて母乳を吸い上げる。その時は母乳は出ないが、サリーは自分が妊娠している事を「知っている」し、一度母乳は出ているので、女らが他の事で騒いでいる間、地道に母乳を吸い出そうと頑張っている。そして満面の笑顔で「出たわ」と容器を見せようとした矢先、カラスが煙突を潜り抜け大量の粉塵を室内に撒き散らすという事が起きる。「証拠」は炭で汚れ、母乳だとは誰も信じず、エリザベスだけは味見をして母乳だと証言するが、他の者は口にしようとしない。
だが結局、彼女の妊娠は、助産婦のエリザベスの見立てからでも他の女の証言からでもなく、医師(即ち男性)の物々しい器材を使った診断で、確定される。(作者は女どもの不甲斐なさをここで描きたかったのだろうか。)
ところが、裁判に私怨を持ち込む事が「高貴な者」には許された・・あるいは力のある者が不正を通す法的・物理的な隙間が、その時代にはあった。(作者は近代法が機能する現代の優位性を示したのだろうか。否、その現代にあって尚力ある者の暗躍を許している事実(共通性)の方が作者の意識する所だろうと推察。)
現代では起こり得ない事、とは全く見えない悲惨な結末、そしてエリザベスが必死で擁護しようとした(自分の子だからでなく一人の誤解されやすい自暴自棄な人間に対して)サリーという存在。彼女は社会からどう遇されるべきであったか(引いては女性らはどう助け合うべきであったか)・・。
作品に込められている主題はその辺りにあると思われたが、この戯曲の特徴は言葉の過剰さにある。生々しい生活感、性感覚(意外と開放的)、神観念のおおらかさ(中世を息苦しい時代にしたのは男であって女ではない)、そうした生の根底に流れる女の力強さを滲み出させるエピソードが、12人の女たち各様の個性と共にちりばめられていてそれが「過剰」(不要、に非ず)な部分に見えるのだが、その点では例えば・・吉田羊演じるエリザベスの元に最初法廷から出廷を依頼に来る片腕を吊った男(その後審理の間入口を見張る役となる)が現われた時の会話に、昔二人が懇意になった事を仄めかす台詞があるが、男の目から見た「弱さ」を内在化し、力とする女性の彼女も一人だとして描くなら、この時の吉田羊の態度の中にもっと異性や他者に対して包摂的な、おおらかな(つまりは女性的な)要素を滲ませる演技はあり得たと思われ、それは後半明らかになる「弱味」の告白に繋がり、全人的な「女性」の姿を造形できたのでは、と思った。この部分が「果たして演出的にどうであったか」に一抹の疑問が過ぎる理由であった。ただし「再構成」したイメージからのこの印象が正しいのかどうか、自信はない。
ただ、我が娘から難じられ「拒絶」されるエリザベスの所在なさ、男に過去を仄めかされて露呈するだらしなさ・弱さ、つまり現代の吉田羊自身の感覚では受け入れ難い(みっともない)人物の要素を、排除して役を造形したようにも見え、ただ献身的で、一時の過ちは認めるが自分の本質ではないと汚点を除外した現在のあり方が、役の一貫性としてどうなのか、という疑問は観劇した当初からずっと残る。「成立していない」訳では無いが、他の可能性も想像してしまう余地はあった。

金色夜叉・改

金色夜叉・改

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2022/07/30 (土) ~ 2022/08/05 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ドガドガもコロナの走り(謎の感染症に最もビビッドに反応していた時期)の不安の中で観劇した一つだったと記憶するが、その後雌伏を余儀なくされ今回晴れて二作品のリバイバル上演となった由。
ただし、「金色夜叉」の末尾に「改」とある通り、以前観た(と思う)内容から相当なボリューム増しとなっていて、明治期の歴史の立役者たち及び小説の登場人物が絡みに絡んで昇華して行き、進むにつれ台詞は生き生きとして作者望月氏の魂がメラメラと舞台を焦すよう。2時間半超えが全く苦痛でなかった。お祭りだ!

TSUYAMA30-津山三十人殺し-

TSUYAMA30-津山三十人殺し-

PSYCHOSIS

ザムザ阿佐谷(東京都)

2022/07/14 (木) ~ 2022/07/19 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

他界後に漸く目にした高取英氏の戯曲の舞台、流山児事務所に続いて二作目は戦前に起きた猟奇事件を題した演目。阿部定事件と絡めている。朧ろな記憶で私は何故か津山事件の年代を敗戦直後、阿部定は大正時代(エログロと重ねていたようで)と勘違いしていたが、実際は阿部定事件が1936年、津山事件が1938年と近い。津山事件は犯人が徴兵検査不合格であった事と関係していたので、戦時中なのが自然だが、映画の影響だろうか、夫が出征した家の多い村で夜な夜な夜這いに出かける(誘われる)主人公が最後にブチ切れて殺戮に走るまでに「敗戦」が挟まったと記憶が塗り替わった模様(映画の原作は西村望「丑三つの村」)。阿部定の方は大島渚監督「愛のコリーダ」の生々しいフィルム画面が思い出される。
無関係な二つの事件(一つは岡山の内陸、一つは都東京)を撚り合わせる手捌きに、作家性を感じた。最後に二人(都井睦雄と阿部定)は対面し劇的シーンで幕を閉じる。
見ながらそう言えばこれにモメラスの松村女史が出ているはず、と思い出し、目で探した。当たりを付けた役がそれであった(後で答え合せ)が、中々鬼気迫る立ち姿であった(自分が見たのは素の姿とある舞台映像のみ)。
俳優の動きに目を奪われるのがこの舞台の特徴。同じ制服を来た女子隊が幾組かあって人物識別は難しいが、役者一人一人の存在感があり、俳優名を見て納得した所でもあった。
月蝕歌劇団の団員が立ち上げたユニットであり演技の表現形態は高取氏のテキストが要求する所なのだろう、「こういうのあるな」と懐かしい感覚に見舞われる部分もあった。
高取戯曲を中心に取り組んで行くという。現代の息を吹き込む新たなユニットの今後の発展形に期待。

岸田國士戦争劇集

岸田國士戦争劇集

DULL-COLORED POP

アトリエ春風舎(東京都)

2022/07/05 (火) ~ 2022/07/19 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

戦争にまつわる「動員挿話」以外の岸田戯曲に関心。勿論「動員挿話」も楽しみであった(私の中での出色は青年劇場のそれで、併演した秋田雨雀作「骸骨の舞跳」との合せ技で剛力な舞台であった)。
二人組の漫才のような一本「戦争指導者」(現代の漫才ノリでやるのでオチない)を挟み、一時間の「かへらじと」が上演される。これは1944年作、岸田國士の「戦争協力」期間に書かれた唯一の戯曲という。これをDULL-COLOREDは心情たっぷり心を込めた芝居にした。
戦争協力「せざるを得ない」劇作家が、質の高い作品を目指して物した戯曲でも、戦死した青年の武勲の理由を「忠君愛国」からズラすのには限界があり、虚しい努力と悟らざるを得ない代物であった。
谷賢一氏は本域でこの戯曲を舞台化し、男たる者の本懐を遂げた主人公を称揚する上官、隣近所、家族を登場させる。これが、居心地悪い事この上ない。

戦死の報を受けた家族の元に、戦地で彼が所属した部隊の上官だった者が負傷した足を引き摺りながら、彼の死に様を語り聞かせるために訪れる。異例の事である。
死に急ぐかのように敵前に突進し、一度目は戦果に繋げ、二度目は倒れた我らが戦士の行動に、実は幼い頃自分の遊び道具の弓矢で片目を失明させた親友の思い(兵役への志願)を肩代わりした意味を見出すのは、親友本人である。恐らくはその父、戦死者の母も・・。主人公はかねがね自分の妹がその親友と双方思い合っていて、親友が引け目を感じている事も知っており、妹をもらってくれと説得もするが、いじけた親友は自分が「真っ当」と評価されるのは徴兵検査で甲種合格して戦争に行く事しかない、という典型的な落ちこぼれ根性の体現者で、頑なにいじけている彼を見て、兄は妹に彼を諦めるよう告げもする。だが、上官の話の中で、無謀な行動に対する部隊長からの質問に、主人公が「自分一人分の命ではない」事を告げたという。親友はこの話を聴いて慟哭するのであるが、親友の父は息子にかわって英霊の母に、娘をもらえないかと申し入れる。つまり一つの命の犠牲が、国家のためでなく一つの命(夫婦の誕生)を生み出す因果に転換したのが、岸田國士の「苦肉の策」だったのであり、たとえ戦争協力を公言した身でも、「作品」が「国のための死」の称賛の手段に堕する事を許せなかった、と想像されるのである。
しかし、作品自体は戦争が否定されていない点において、一つの武勲を生んだ「裏話」の域を出ておらず、戦中の価値観が充満し、こういう風景が再び日本に訪れるかも知れないが、満更でもないな、そこにもドラマはあるのだ、と思わせる。
ウクライナ侵攻が、日本の防衛理念転換のエポックになろうとしているが、なるほど、兵役対象年齢の男性が出国禁止となっているウクライナに、よりシンパシーを覚える日本人は、「巻き込まれた戦争」に殉じる「物語」を抵抗なく受け入れるのかも知れない。本作はそのイメージトレーニングの意味を持った。これがダルカラ谷賢一氏の意図であったのかは聞いてみたい。
貴重な戯曲紹介ではあったが願わくは的確な注釈なり演出を施されたかった。

ネタバレBOX

コロナにより赤組の初演が後にずれ込んだ。白組を見て、その一週間後に赤組を観た。
こなれたせいもあろうけれど、白組に軍配。「動員挿話」の捨吉とその女房の関係、捨吉の主人への恭順と正直(女房には敵わないと告げる)、翌朝態度を変えた捨吉と女房のやり取り、この二人の造形は、二組とも見事、正解を打ち出したが、白組が細部にわたってリアルで信じられ、それだけに悲痛な最後に苦しくなった。

「かへらじと」では、白組は戯曲に沿った、時局協力な内容ながら人物の形象が深いので芝居としては観られる(何だかなぁと思いながらも、である)。ただ一回目だったせいか人物判別があやふや。赤組は戯曲紹介にとどまった感がある。この演目では「その他大勢」の出演が多いようで、録音を多用し、それがため「作り物っぽさ」が醸されていたようにも思うが、谷氏的には異化効果を狙ったのだろうか。
この戯曲を相対化するには、如何にも戦前な庶民の会話をカリカチュアして発語させ、武勲を語る上官を、ソ連軍侵攻に市民を置き去りにして撤退した満州の軍人をイメージさせる形で描く。その位の事はやって良いように思ったが・・。赤組の軍人役の東氏はその線を探ろうとしたようにも。

しかしこの国は経済的敗北も、人権やメディアリテラシーその他の指標の低さも、直視したくないさせたくない事のために「今は大変」気分が演出され、有事体制に繋げられようとしていると見える。
まさかと思っていたが、テレビがメディアの責務としての参院選挙の話題提供を殆ど行わなかった事を見ても、無理筋を通す事態もあり得ることに思えて来る。
戦争、あるいは戦争を理由にした人権制限、管理・監視体制、情報統制・制限の時代は、割と近いかも知れない。昔はこんなしょぼい国、出たいな、なんて思った事もあったが(中学生の頃ね)、そんな事はもう叶わないし、国を憂うるなら逃げるべきでない、なんて事を劇団印象「ケストナー」のケストナーを思い出しながら考える昨今である。
きゃんと、すたんどみー、なう。

きゃんと、すたんどみー、なう。

やしゃご

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2022/07/07 (木) ~ 2022/07/17 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

数年前の初演を観た。普段は(余程好きになった演目でなければ)二度観ないが、障害者を描いた部分について難じた者として、「どう変わったか」を見届けねばと半ば義理で観に行った。(その後のやしゃごの健闘からの期待も。。)
結論を言えば、全体としてナチュラルに抵抗なく見る事ができた。脚本そのものの骨格は変わらないが、台詞のニュアンスや演技が、初演では(自分の目には)はっきり露見してみえた綻びを、巧く均していた。
それによって強調されるべき部分が微妙に変り、作品としての質は高まった。
ただし「均した」という表現を使ったように、初演に感じた本質的な疑問(違和感)は、払拭されたわけではなく、これは戯曲の問題として付きまとうのだろう。終盤の部分も初演と同じだが、強調点が変ったせいか、不要に思えた。
今回観ていて首肯できたのは、(造形が難しい)障害を持つ男女の演技である。「障害(者)」をテーマに描く作品では障害者当人の表現は一つの挑戦となるが、(戯曲の問題は別として)、今回は人物の造形と場面の成立を嬉しく見た。特に男性の軽度知的障害を持つマサシは俳優の存在を忘れさせた。

ネタバレBOX

葛藤の源である「障害」と、家族の和解の物語だ。
次女の引越し(転出)の日、という設定が良い。
三姉妹が住まう家には、軽度の知的障害を持つ長女ユキノがおり(父母は早くに亡くなっている)、夫と住んでいた次女ツキハの転居を、今日知らされたユキノは、初対面の男性を怖がる事から引越し業者と対面したショックもあって、パニック状態らしく、業者の男女二人(付き合っているらしい)が待ちぼうけを食っている。
引越し業者は次女の夫の同期が社長をしており、後でトラブって応援に登場する。三姉妹と近しい女性漫画家がとことんマイペースで自分のネタ集めに周囲を巻き込む。長女の通所する施設のメンバーであるマサシ、その施設の自信なさげな担当者も登場し、舞台となる居間(向こう側に縁側、小さな庭と塀と勝手口まで見通せる)が、セミパブリックな場所と化している。
特に引越し業者らが当家の問題(障害者を抱える)への第三者の視線を与え、語らせているのが良い。

さて当事者を描く困難として、やはり引っ掛かる部分がある。
例えば長女ユキノが、同じ通所施設のメンバーであるマサシと結婚する、と言い出して家族は大騒ぎするが、やはりこの動揺は不自然だ。
最も「変わらない」のは、一見極大の「個性」を持つ知的障害者の方である。彼らはその変わらなさをもって、周囲の理解を勝ち取る。家族はどのように長女に接して来たのか。限界はあったにしても早く死んだ母は愛情を注ぐ努力をした人柄だった事が窺える。
どちらかと言えば「変化」するのは周りの方で、「結婚したい」発言は長女の「変わらない」性質の一つの表れだとまずは捉えてその意味は何かを理解しようとする、というのが第一。結婚は軽度の知的障害者が素朴に持つ願望であり、「結婚なんてできるわけない」と本人に言って聞かせる三女の姿は、本当は理解している何かを「判らない」と突っぱねている姿に見える。つまり、三女が業を煮やし、沸点に達したと考えるならスッと通る。現実には知的障害を持つ者同士のカップル、夫婦はいる。
障害者観は変わらねばならない、という認識から発すると、ラストの「マサシの死の予感」情報は不要で、三女が死んだ母との会話の後、長女の結婚もありと態度を変える「変化」の表れとして(長女に)白粉を塗って上げる部分も、世の女性の「結婚式への憧れ」を長女に投影したもので(長女はそれを楽しんではいたが)ユキノが求めているのはそれなのか、という疑問は残る。その前までで十分語られるべきは語られたと感じられたので、もっと前に芝居を切り上げればというのが正直なところだった。しかし作者は「和解」を明確な形にしたかったのだろう。

細かな部分になるが、明日通所先で会えるマサシの背中に永久の別れのように泣き叫ぶユキノ(瞬間的に感情が激するある種のパニック状態、という場合であれば、長い付き合いの家族は「今はあの状態だな」と一過性のものである事と悟るはずで、一緒になって大騒ぎするのは不自然)。
結婚する、という事が二人にとって具体的に何を意味するか、を確認せずに三女はムキになって反論し始めるのだが(だから劣った者に対して常識を振りかざす鬱憤晴らしに見えてしまう)、仮に結婚の形かマサシが今日からユキノの部屋で寝起きする事だ、とする。しかし両親のいるマサシがその事を告げていない事は、果してユキノの「つもり」とマサシの「つもり」は同じなのかと訝る余地がある。仮に二人の気持ちが純粋だとしても、話を詳らかにし、二人(あるいはそれぞれ)の言う中身が何か、によっても対応の仕方は微妙に変わってくるものだろう。
二人の演技は、二人が分かちがたい結びつきを築いているらしい事を伝えていたが、不明な領域は広い。
マサシは主張をした後、周囲の否定を受け入れたかのように去って行く。ユキノはそのマサシの「転換」を受け入れ難く叫んだようにも見える。
ただ蓋然性から言えば、描かれているマサシは抽象レベルの概念を否定されてその概念ごと何かを諦める、という事はしないように思われる。仮にそれが出来るなら、相当程度の理解力がある事を周囲も判っているか悟るであろうし、マサシの覚悟の深さを周囲は想定して対応するはずだ。あるいは、探る事はするだろう。周囲の鈍感が描かれたのだとしても、舞台上のマサシから、また知的障害を持つ人達の存在から、最も見出しにくいのは「死」の気配であり、それに繋がる「諦め」も然りである。
マサシを送っていった次女の夫から、最後に電話が掛かって来る。マサシが車道に向かって走り出し、車にはねられたという。先の事で言うと、この時に自殺というイメージが浮かぶテキストになっていたかと思う。(作者は可能性の範囲にとどめているが。)
「変らない」事への信頼こそが彼らの財産であるその事から考えて、自死の線は現実とは思えないが、しかし真相はどうあれ周囲には傷跡を残す(結婚をあからさまに否定してしまった事が原因に思えてしまう)。
つまり障害を持つ者の存在のリアル、よりはそれを取り巻く「我々」を問う、作品の趣旨である。だがそれは「誤解」である可能性がある、と私は水を差したくなる。障害に対する私たちの認識の投影は、別の投影を許す。投影は、理解とは真逆の態度だ。
三女の目にだけ見える母が、後半現われて、「自分のやりたいようにやりなさい」と告げる。三女は母が早く死んだお陰で、長女が姉妹に押し付けられたと思っており、我慢強く、結婚した次女よりも自分を「犠牲に」して長女の面倒を見て来た格好だが、母を前に漸く今、本音を漏らす。一人ぼっちである事=異性関係の不幸の影に、長女の存在がある・・そう観客も理解しがちになるが、果たしてどうか。もし三女に人生の転機が訪れた時、障害を持つ姉を「手放す」選択も突きつけられる事だろう(手放した場合施設に送るかグループホームに入れるかといった話が出てくるが、その時彼女が「遠慮」して他に助けを乞わなかったのなら、それは彼女の人生設計と価値観からの選択だったのである)。
母も、「あなたのやりたい事をやりなさい」とだけ言うが、自分の人生を姉のせいにするな、と読み替えるも可能である。

障害を扱う細部にはどうしても引っ掛かりは出てくるが、ドラマの構造は初演より明確になり、描写もリアルさを増し、面白く観た。
『Drunk-ドランク-』

『Drunk-ドランク-』

singing dog

サンモールスタジオ(東京都)

2022/06/30 (木) ~ 2022/07/04 (月)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

今回も映像にて。アルコール依存の題材は一度やったと言い、「犯罪」と並び作者の関心領域が分かる気が(そう簡単に分かってはならんが)。
バーの内部が舞台。なぜここだけに来るのか・・・依存症疑いだったり確定だったりする「問題児」たちが、ご多分に漏れず貧乏ならバーには来ないだろう、とか、正当化の厳しい所は色々とあるのだが、何にせよ人が集まって賑々しくやってるのは(たとえ深刻な問題を抱えていようが言ってしまえば困難は人生につきもの)見て楽しい。泊まり込んだりが許されるのも「集まる」理由かもであるが。違和感と荒唐無稽への訝りを持ちつつ、成行きを見て行く内、最初はアルコール依存に関する啓蒙劇(お説教芝居)に見えていたのが徐々に様相が違って来る。終わり近く、酒量がエスカレートし抜け出せずに孤独を抱えていた者がついに亡くなる(形としては泥酔からの事故)。状態を見かねたマスターが「普通はこんな事は客に言わない」と彼に病院を勧めた直後であった。酒飲みの事情をよく知る実は自分も断酒十年のマスターは、男を助けられなかった事に絶望するのだが・・男はしかし常連客に囲まれていた。酒を断つと決意した男も、何故かバーにやって来て炭酸水を飲む。客観的状態としてはこのバーが、何かの仕掛けでアルコール依存者が集まって来るようになっている、そういう場所と想定するのが最もスッキリするが、その真実味はどちらでもよく、徐々にこれはバーの常連たちの群像劇であり、特殊な人間や場所を描いたのではないと思えて来る。
酒を飲む以上、そしてこの社会で生きる以上、(重篤か軽微かにかかわらず)病的である事に何の不思議はないと気付き、芝居がこの社会の断面を切り取った風景とさえ感じられて来たわけなのであった。
最後にぐっと説得力を持つ。試合で言えば逆転劇。

ただどなたかも触れていたが、飲んだくれ急先鋒が最後、「炭酸水」と言ったのに、マスターは乗っからなかった。疑いつつもそれに乗る、という瞬間は欲しかった。

ことし、さいあくだった人

ことし、さいあくだった人

藤原たまえプロデュース

シアター711(東京都)

2022/07/14 (木) ~ 2022/07/18 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

最近目にするがよく知らないユニット。みそじん等に脚本提供していた西岡女史(こちらも実はよく知らない)の作品をやる。何もかも未知数だが楽しげであるので(チラシにも惹かれ)観に行く。
大方ウェルメイドな、人生の息抜き時間を予想・期待して着席したが、中々シュールなワールドに足を突っ込んでいた(と私には見えた)。関心のフックに引っ掛かるものが。。

ネタバレBOX

セミパブリックな場所であるカウンターバーに、マスター(見た目若い)と彼と同期っぽい小柄なバイトの女が居る。どうやらマスターと古くからの知己で、彼に頼み込んでバイトで雇ってもらったらしく、今しもマスターは用途別に色分けしたダスターのレクチャーをしているが女は覚えられない。客商売の経験があると言っていたが・・「松屋」「松屋!」(客席の笑い)「立派な客商売だ」。しかし彼女は仕事に困っている風でもなく先程から気もそぞろであるその理由というのが、ライター志望の彼女は今世話になってる編集長から大人の恋愛を扱うネット小説のオファーを受け、二つ返事で引き受けたものの明日の締切を控えて一行も書けていない。だから恋愛沙汰のネタが転がっていそうなこの店に知己を頼って来た、という訳なのであった。
女は男に対し我が儘を通すだけの弁が立つが、如何にも恋愛経験には乏しそうである。と、土俵を整えたところへ、店の常連がやって来る。若い女である。
彼女は新しい彼氏との出会いをノロ気気味に語る(手柄話のようにする彼女には男を漁る種類の女である疑惑浮上)。と言ってもそれはマスターの巧みな対話の誘導によるのだが、肝心のライター志望は全く乗って来ない。よく見ればアガっている。部屋で書き物をして暮らす彼女は人生経験豊富な女が大きく見え、気後れしているのだ。そこへマスター。君はこの仕事に人生賭けると言ったが本当にその気があるのか。諭された女は勇希を振い起こし、質問を投げるのであったが、どストレートな質問に客席から笑いが起きるも相手は「受ける~」と言いながら自分の喋りたいニュー彼氏の話をする。やがて待ち合わせをしているという職場のか弱げな女友達がやって来る。折り入っての話というので場所を変えようとするが、そこへライター女の不器用な直球台詞「ここで話せば?」。すると相手の女は「そうしようかな」と、予定変更。恋愛ネタが欲しいだけの女のど直球な質問に答える聴いてほしさ満載のか弱き女の悩みとは、今交際中の男彼氏の浮気疑惑、よくある話だがやがてその彼氏とは先の女のニュー彼氏らしいことが(当人ら以外に)判明。恋愛小説のネタ拾いのつもりが、予期せず大物捕獲の予兆。前半の暗転前までの展開は、この後かよわげ女が仕事中の彼氏に「来なきゃ死ぬ」と電話で脅し、トイレに籠っていると彼氏やって来る。浮気相手との目くばせ・・といった具合。

さて長い暗転の後は、新たな客、こちらは新客でスーツを来た仕事帰りの二軒目といった所。女が出来ない事に悩む男と、彼を励ます同僚と課長の三人組で先とは全く異なる場面が展開し、同じ店で展開する短編集かと勘違いしそうになるが、一くさり彼らの話を観客に聴かせたあと、先程の女らと男がそれぞれの事情とタイミングでやって来る。ここで初対面となる2グループが小さな接点から微妙に絡み合い終いは大混戦を展開する。というのが本作である。その間、先のライター志望の女も話が面白くなるように、必死に嗾ける。後に彼女が述懐するように「自分は実際にあった事しか書けないらしい」ので、事実がそうなるよう懸命に火に薪をくべる。

この舞台を興味深く感じた所以を考えてみた。またまた、と思われそうだが、別役実の舞台の味わいは、リアル(日常性)と異常が同居している事に拠り、不条理は日常の中に異常が正常の顔をして忍び入っている事にある。本作は言わばドタバタなるコメディだが、演技は心情的な根拠のあるリアルを目指しているので、「よく出来た笑える話」を観たという感覚より、異常にも見える展開をリアルな俳優の存在が正常の顔をして支えている、と感じる瞬間が多々あった。話のシュールさに私は心を掴まれる。作者の意図とは違うのだろうが、この感想は戯曲に対するものだろう。シュールでリアル、という感覚は、そのまま、現在の日本に重なりもする。物語そのものの行方もさる事ながら若干の破壊性を嗅ぎ取らせてくれたのが、自分にとっては収穫。作品の完成度としては作り手からすれば「余計なものを含ませてしまった」事になるかも、だが私はそこに価値あるものを見る。ただし狙って作れるものでもないのかも知れない。(考察はとりあえずここまで。)
スタンダップコメディ・フェスティバル

スタンダップコメディ・フェスティバル

合同会社 清水宏

雑遊(東京都)

2022/07/12 (火) ~ 2022/07/17 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

この所コンスタントにライブ活動をやってるのを(チラシで)目にしていたが、突如この規模のフェスを打つというので驚いた。毎回ゲストが異なりしかも濃い。私が行けたのはラッパー(ダース、いとう)の回だったが客は入っていた。他の回がどうなのかは分からないが「今日はこんなに来て頂いて」とか言ってないのでそこそこ入っているんだろう。スタンダップは、現在の日本に不足する栄養素、社会の空隙にピタッと収まる芸能のあり方(要は風刺である)という感じを沸々と募らせていたので、一つ観てやれと足を運んだ。
ひどく納得したのは、批判精神は健全の証であり、声を潜め目立つ者を叩くあり方は病的であり、究極恰好悪くダサい・・この普通の価値観が大前提にある、という事。
スタンダップ協会本体の出演は清水宏、ぜんじろう、ゲストにダースレイダーといとうせいこうとあったが、ダースがラップを披露するかと思いきや、胸を借りるとばかり、一くさりネタ話を語り切った。いとうせいこうとは一対一対談の予定が結局全員によるスタンダップ及び世相談義となる。
「出し物」としては3つ、という事になるが完成度が高い。にも関わらずライブ性が高い。演劇ならば稽古の賜物(もちろん俳優の力もあるが)、こちらは芸の精進の賜物。もっと言えば事実を語るので如何に生きたか、つまり体験が重要。だがもっと重要なのは生きる視点、眼差し。体験を語るのは苦労自慢ではなく、それを通して自分が何を大事なことだと考えるか、それを伝えるため、という目的に話は貫かれる。人生という海を渡る者への応援歌、やはりアメリカ産らしい芸能である。現象は全く異なるが成り立ちの骨格は意外に演劇に近いと感じて会場を後にした。
大満足。

ランボルギーニに乗って

ランボルギーニに乗って

劇団鹿殺し

あうるすぽっと(東京都)

2022/07/08 (金) ~ 2022/07/18 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鹿殺しを観たのは結構前のこと。(OFFICE SHIKA舞台は丸尾氏昨・演出で一応別物と考えている。こちらはここ数年に2、3本観ている。)「電車は・・(再演)」「無休電車」と立て続けに観たと思っていたが間に何年か空いていた。爆音とマイクで喋る台詞には、バンドのライブなら覚悟してノリに行くがここでは勘弁(だって動けないし勝手に休憩もできん)と、二つ見てきっぱり敬遠した。(OFFICE..の方も音デカの基調は変わらぬがバリエーションがある。)
8年程経って彼らも大人になり、20周年どんな構えを見せるのだろうと不安半分、好奇心で観に行った。(前置き長い。。)
どうも体調が良くなかったのだが、舞台の方は目を休ませず、場面転換もモード転換も華麗にして溜息をつく暇もない。でどうなったか。恐らく体は眠ろうとしていて眠れず、中盤を超えたあたりでげっそりしてきた。退場する程でないが、「少しだけ休ませて」と目を瞑っても寝落ちを許されない音、光、声である。
さて以上は(眠りたいのに眠れない時どうなるか、という事例ではあるが)芝居の評価とは全く関係ない。
別に判定を下す訳ではないが中々面白く、ある部分において素朴に感動できた。出色は以前は考えられなかった技術を駆使した演出そのもの。物語性のある部分は深みを与えきれずに終えている。が、舞台芸術、小説なんでも良いが、それを織りなす者が持つ表現したい共有したい「何か」(今抱いている人間や世界に対する感懐)を、この舞台で客に伝えるにおいて雄弁であったのはストーリーよりは断片あるいはその連なりであり、演出的工夫がそれをうまく伝えていたという印象である。(従って自分がダウンしそうになった、客の首根っこを揺すぶって寝かさぬ演出が、功労者という訳であった。)
お話は色々と錯綜して単線的に説明しづらいが、少し経ってそちらの感想も書いてみる。

私の恋人 beyond

私の恋人 beyond

オフィス3〇〇

本多劇場(東京都)

2022/06/30 (木) ~ 2022/07/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

初演を観たが、今回は題名に「beyond」が付いている。小説を読んでから観たのが仇したか初演は(小説の)筋を追い切れず、演出は面白いが楽曲のバランスがいまいちだったりした。進化した「私の恋人」が観られるのだと確信し、前回は最後方席だったが今回はなるたけ前の方(どうにか中程)を取り、役者の表情が見える観劇はできた。
のんの歌唱が劇的によくなり、渡辺えりとのハモりは泣かせた。劇の方は3○○の世界である。ただし歌が多めの。
舞台が進む内、(だいぶ忘れていた)話の筋を微かに思い出す。
・・主人公の青年は、ある特別な人物(男)の事を追っている。男が飛ばす車の助手席には女が居り、青年は彼女と恋人であろうとする者なのである。「特別な男」が余命の限られた身で人類史を辿る旅をする中、どん底から拾い上げたのが彼女で、挑戦が終りを見ない前に男は倒れたので、彼女は己にそれを継ぐ使命を課している。青年はその男と同時には生きていない。一方この青年は、原始時代、ナチス占領時代、そして現代日本と三つの人生を転生し、しかもその記憶を持つ存在なのだが、「どの人生」においても常に彼女の存在を探していた。ついに出会った彼女と、彼は恋人となるものの、決して「彼のもの」にはならない彼女とは別れの予感の中にある。とてつもない挑戦をした男をリスペクトしながら、それを否定せず彼女をどう愛そうかと迷っている・・大方そのような筋だったと記憶する。この小説が描いた図は一体何なのかと考え、手が届きそうに感じたイメージはこう。・・一人を愛することと人類に思いを馳せること、両極に見える両者は同じである、という方程式を成立させる哲学を持ち、それによって生きる。人生は終わらず続き、不在の中に存在を見、存在していても不在の影が重なる。彼は彼女を得るために、というより彼女を得ることの価値を最大化するために、そしてそれに相応しい自分であるために、壮大な物語を紡いでいる。

一時間半強のステージは目まぐるしく、小日向文世とのん、渡辺えりと、歌い踊れる4名のアンサンブルもガッツリ動き、ソロも歌う。
ある所までは筋を追っていた自分も3○○の不可思議の世界にいつしか浸り、漂う情感に身を委ね、そこはかとなく湧く切ない怒りや、軽やかな気分や、跳躍の不安と情熱に飲まれた。

アジール街に集う子たち

アジール街に集う子たち

劇団アレン座

吉祥寺シアター(東京都)

2022/07/02 (土) ~ 2022/07/10 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

前回あたりから気になるユニットだったが、配信にて初・アレン座観劇。(映像は定点のみ。風貌・表情は見えないが人物識別にさほど難はなく、物語の流れは掴めた。)
アジール街、と俗称される地区はその意味通り避難場所となっている。ちょうどトー横区域のように家族問題を抱えた女子が流れ着く場所であり、男も居るが、その経済の大部分は女子が売春で稼ぐ金である。だが、男らは女の経済に寄生しながらも、アジールが守られるために存在しており、微妙なバランスがうまく描かれている。一つには、女子たちに自己決定の余地がある事に拠る。物語の冒頭、主人公が母親とのこじれた関係を振り切って噂のこの街へやって来た日、男らは彼女らにここで生きる手早い方法を教え、選択をさせるのだ。一晩寝れば三日間宿が確保される、と。少女は逡巡するが、決断する。通常は物語のもっと進んだ時点で訪れる分岐点を、易々と越える。そして彼女は街に住む者たちの物語を目撃する。(彼女の目を通して街が現れる。)
力なく崩れ行く悲しいエピソードたちは、現実をある仕方で映したものと言え、力なく名も無き者の末期を「ただ見届ける」という態度の内にのみ彼らの連帯があり、しかしアジール街は結局その名前を返上する事になる・・その予感を強く残して終わる(人によっては光ある未来を思い描いたかも知れないが)。

架空の街の不思議な(現実に置き換えればグロい)ユートピアの象徴は、ホームレスの男(30代の想定か)で、彼は彼の元にやって来て話したい者たちの話を聴く、その代りに少額のお礼をもらい、生き延びている。彼が語る哲学がその来歴と深く結びついている事を周囲が段々と知る所となり、皆が彼との間に友情を感じ始めた頃、外部の「暴力」により彼は亡くなる。
この人物の存在により、作者が「アジール」に込めた願いを覗く思いがする。
女子たちの「声」が特徴的(現代的?)で、最初はこれで成り立つのかと訝ったが、演劇空間としても独特な世界が生まれていたように思う。

ユー・アー・ミー?

ユー・アー・ミー?

演劇ユニット TakeS

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2022/07/08 (金) ~ 2022/07/10 (日)公演終了

実演鑑賞

知己から手渡されたチラシを見れば「作:鈴木聡」。ラッパ屋を1回しか観れてなく、別の鈴木コメディを手近に観られるぞ、と楽しみに出かけた。ところが開幕するなり既視感。初めてラッパ屋を観た作品がこれであった(これと合せて2回観ていた。先日のSPIRSLMOONと言い、題名で気づかないのか俺、と我が脳ミソを疑う俺。)
本家のモデルを思い出しつつ、比較しながら観てしまうとどうしてもあちこち不足感を抱く事になったが、お話はやはり面白い。
舞台は開幕から終演まで、とある会社のエレベータ前ロビー。時流に鈍感な主人公が、出世コースに乗り遅れるどころか、自分の「存在」まで脅かされる。時流とは例えばスタバ・コーヒーのカップ。メールチェックと反応の迅速さ。中身のない「スタイリッシュさ」が誇張されるが、主人公はどこ吹く風である。が、芝居の序盤で「異変」が起こる。現実にはあり得ないフィクションだが、現実にあり得る事態の「本質」を映した現象ではあり、主人公の焦燥は観客にも身につまされる。

舞台は、初日でもあってか、ギクシャク不具合がある。言ってしまえば「時間の処理」と演技のディテイルの詰めで損している。音響の手捌きも。。
会社勤めの「あるある」には作者鈴木氏の見聞の裏打ちを感じさせるが、中でも「悲哀」の側面は「正直者は馬鹿を見る」的な洞察・共感をもって描き、敢えて突き放し、戯画化して笑いの対象にしている。だがカリカチュアな笑いの根底にリアルがある。
この芝居の全体像(構造)を理解し共有する事が肝要だろう所、世界観の揃ってなさが時折気になった(皆が同じ場所を目指している事自体が芝居を支えている事は多い)。
戯曲上扱いが難しそうな最終盤(不条理に情勢逆転する)も、やはり難しい。理想的な和解が成立したその直前のクライマックスでは十分にカタルシスに至ってよく、その後のどんでん返しはお遊び的なオマケ(「しかしお客さん現実はこっちだよね」、という)、匂わす程度の終わり方にしたかった気がした(「終わり良ければ」の形をもう一歩探りたい)。
・・やはりどうしても本元と比べて観ざるを得なかった。

「# FAFAFA-ファウスト」 「Like Dream and Dreams(ゆめみたい)」

「# FAFAFA-ファウスト」 「Like Dream and Dreams(ゆめみたい)」

DE PAY`S MAN

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/06/22 (水) ~ 2022/07/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

青年団系劇団の舞台ににユニークな振付を提供していた木皮成が、この度は棟梁となり構築したパフォーマンス。
アゴラ劇場の通常のステージ側(入口の反対側)に客席を組み、建物の3階に当たる会場内ロフトには中央に出力機材があり、世界を統べる佇まいのDJが音を出し、人間界を操る垂直関係が視覚化される。
パフォーマンスのカテゴリーはDanceであり、出演陣は踊れる俳優が主軸。だが、物語進行の各場面は多様なアイデアが盛り込まれる。
全体的な印象は、場面の精度・雄弁さに凸凹がある(鮮やかな瞬間もあるが停滞と感じる部分もある)。ファウストのドラマツルギーと作り手の距離感をもっと知りたく思ったが、題材へのこだわり、情熱を信じるに足る内容ではあった。演出の造形欲求を満たし、俳優の身体を解放する「場」としてのファウストなのか(間借り)、譬えて言うなら永住を前提のレジデンスで取り組む過程に俳優が参与するという関係か。テキスト重視のタイプ(後者)と見えたので、分からなさも含めて受け止めようと言う気になったという訳である。次の一歩を気長に待ってみたい。

ネタバレBOX

余談であるが、客席から見上げる三階部分を演技エリアにした光景は、日暮里のd倉庫を思い出させた。この春になんと閉鎖されたという。
悪くない劇場だったが、どうにかならないのか。コロナ関連の補助はないのか。
現代劇作家シリーズ、ダンスフェス、俳小の舞台、アンサンブルもあった。・・特に俳小の「群盗」はこの劇場が生んだ秀でた舞台だった。
ハヴ・ア・ナイス・ホリデー

ハヴ・ア・ナイス・ホリデー

第27班

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/07/07 (木) ~ 2022/07/18 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

音楽自身が生む高揚を劇に包摂する舞台を作るユニット、と認識しているが、今回は演奏が一人、プラスαの趣向で、そこ一点突破な劇構造だったな、と一日置いた後思えて来た。そう考えて漸く、私にとっての「第27斑らしい」範疇に戻って来た。つまりは実際の舞台はその狙い通りには必ずしも行かなかった、という結論になるが...致し方ない。。
架空の設定の特区での若者たちの群像が描かれ、擬人化された存在も登場するが、「SFは設定が命」と最近よく思う通りで今作も些か詰めが甘い。話の舞台は不老薬が配られる「未来の村」という特区での設定で、畦道が伸びるだけの過疎地に人を呼び込む政策意図がありそうなのだが、薬は有料であるとか、だから仕事を(自力で)見つけなきゃならないとか、幾分無理が(説明し切れてなさが)ある。だが、移住してきた若者たち(背景はほぼ説明されない)にとってのアジール的空間がそこはかと立ちのぼりそうなのが良く、ブラッシュアップされた舞台をまた観たい世界であった。

ネタバレBOX

音楽的な高揚をそのまま劇的高揚とするのはミュージカルであるが、これは大がかりである。第27班のはそれとも違う音楽と劇の絡みがある。劇伴的に挿入する場合でも生であるだけに迫力があるが、所謂「劇伴を生でやる」定型とは異なる。真髄は音楽演奏が劇に生でピンポイントにハマる、これが快感である。今回はギター一本の弾き語りを村のラジオ放送局(空き家)を乗っ取って自分の曲を演奏し始めた移住者がやるのだが、音楽が作る本作のクライマックス場面は、同じく移住者である主人公が昔取った杵柄、ダンス、タップを訪れた放送局でDJに披露し、ギターとコラボをする、ここである。クライマックスを作れてはいなかったが・・。
本命がタップでその後にダンスもさらっとやるが、ダンスはやれてもタップは厳しかった。ダンスは音楽とのブレがあっても自由さが強調され、成立するが、タップはそうは行かない。身体の動きをオンタイムでコントロールする、という点では楽器の演奏の方が近い。しかも楽器は通常狙う場所までが近いのでスッと移動でき、狙う音が出せる。タップは右足か左足を体を支えるために用いつつ、音を出すために一度ジャンプしてその着地の瞬間にオンタイムで打音を出さねばならない。重力に任せる時間が生じるのだ。コントロールは(楽器のように)音を出す直前にその場所にスッと移動すれば良いのと違い、ジャンプする瞬間の力加減のコントロールが必要になる。言えばそういう事である。猛特訓をして漸く、劇的クライマックスを演出するレベルに到達するくらいのものではないか。
その結果、訓練したものを披露する、という舞台から現実に引き戻される時間が生じてしまう。
というのも、「昔やった」のなら、実際にやってる音がリズムからズレて来た時には「あ~」とか「あちゃ」とか、「うわ~ダメや」等の発語が思わず出ないのは、不自然なのである。「うまくやった体で」芝居を続ける(観てもらう)ことは、他の事ならともかく、第27班の音楽には難しい。音楽的高揚、音楽そのもののもたらす感動がそこに生まれなければ、それは第27班の芝居ではない。着想は良かったが、着想が狙っただろう形を、観ながら想像できたわけではない。
三好十郎の『殺意』

三好十郎の『殺意』

演劇企画集団THE・ガジラ

APOCシアター(東京都)

2022/07/01 (金) ~ 2022/07/09 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鐘下辰男の洗礼を受けた若者らが舞台で咆哮する。桜美林の学生よりは年嵩だろうが、身体的な限界を攻めてる感じとその限界が見える感じは同じ。ただし学生の方が俊敏だったりする。岩野未知は脇役で補佐に留まっていたが、激情と淡調の振り幅、罵声の中にも繊細さを滲ませる岩野レベルの演技者をつい想定して、若い演者たちの「届かなさ」を想像で埋めている自分。この脳内作業を凌駕して刃を突きつけて来る瞬間を待ったが、必死に、誠実に、堂々と演じる若者たちの姿を認めつつも、鐘下舞台とあれば期待してしまう「打ちのめされる瞬間」には至らずだった。演技の問題か、戯曲(台本)演出の問題か自分の鑑賞眼の問題かは不分明。
以前の鐘下ワークショップ発表から一段上を目指した「SAT」ならば(料金もまあ普通であるし)差引いて観る必要もないのだろうが、SATの文字を見落としていて若手役者が登場すると「そうだ若手公演だった」と、仕切り直して観ている。さらに、これが「ワークショップ発表」だったとすれば、やはり見方が変り、「にしては」の枕が付いて「凄え」となったりする。料金と中身が皆直結してる訳ではないが、されど価格。観客とは現金なものと思う。

複数役に書き直した台本は原作に忠実なようだが(鐘下氏の加筆に思える台詞もあったが)、現代に重ねられている事はそこはかとなく伝わる。

当日配付の鐘下氏の文章を読んでみる。
今を生きる日本人、とりわけコロナ後の姿が語られている。戦後日本人の姿を告発的・暴露的に描いた三好十郎という作家は、本作でも戦前から戦後に橋を渡してその歩みをストリッパーに一人語りさせ、あるインテリゲンチャの変節スキャンダルを暴露させる。
鐘下台本は「語られる」人々に身体を与え、群像劇の様相となる。
だが、観ながら感じたのは、一人語りなら語られる人々は完全な主観を反映し、どう受け取るかを観客に委ねる。言葉が大きな比重を持つわけだが、これが役者の身体を借りて登場すると、語り手の統御を離れて存在してしまう。すると、様々な解釈が可能となる。これを言っては実も蓋もないが、この違いを埋めるのは大事である。「三好十郎の『殺意』より」と題した理由も納得する次第だ。
原作を「想像」し思いを馳せる。彼女が目撃し体験した事は、今この世の中を見る眼差しに深く反映している。左翼言論人の「現在」の素行の描写には、当時権威を持っただろう者たちへの私怨を感じなくもないが、彼らが語る「論」の虚しさが三好氏にその想像をさせたとも。
ただ鐘下氏は知識人の転向を描いたものとしてこの作品を規定するのは「矮小化」であると言う。
今現在の日本人は、昔読んだ萩尾望都の漫画『百億の昼と千億の夜』の「A級市民」に似ている・・このA級市民の説明はないが、想像を膨らませる事はできる。
鐘下氏の感覚に寄り添えば、戯曲の最初にストリッパーが冒頭で言う「世の中は広うございます」の「広さ」を、本当の広さとして感知できているかに疑問を呈する。この「広さ」を忘れて自分たちは「生きている」と錯覚している姿こそ、A級市民的だと言う。
例えばネットやニュースで見るウクライナ状勢に、広い世の中を実感するのも矮小化の一つであり、実感した気でいる錯覚がA級市民的である、と言う。
この一文には「言い切れてなさ」を感じる。また少し考えてみる。

JACROW#28『鶏口牛後(けいこうぎゅうご)』

JACROW#28『鶏口牛後(けいこうぎゅうご)』

JACROW

座・高円寺1(東京都)

2022/06/23 (木) ~ 2022/06/30 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

とあるアパレル系会社の中堅女性社員を主人公にすえた、一風変わった趣向の企業モノ。山東商会に勤める雨宮(川田希)は次のトレンドを見据えた新しいファッションを生み出すプロジェクトを半年間率いて今、部長(谷仲恵輔)、課長(佐藤貴也)、素材製造会社の担当者・武部(菅野貴夫)の前で若い部下たちと共にプレゼンをしている。
ファッションショー風な演出で、目を楽しませた開幕の後、照明が「会社」の現実に引き戻す。
拍手をして労う課長。労いつつも鋭く批判する部長。結果は不採用。だが審査側の3人が部屋を出ると、部長は強面を崩して自分が手掛けたブランドの新バージョンとしてアイデアを反映しようと無邪気に提案をする。
雨宮らの新ブランド<つなぐ>とは、環境問題をトレンドに押し出し、リサイクル素材(再生ビニール)100%のカジュアルを客単価17,000円で提示。
一方部長が手掛ける<エコ×××>は単価10,000円。これに再生素材を「幾らか」混ぜて13,000円で売り出す事となった。元のプロジェクトはこのチームにそのまま移行し、雨宮はチーフを任命される。一応は飲んだが、しこりは残っている。
素材会社と試行を重ね、単価13000円で可能なのは再生素材25%まで、との結果が出た。「これで環境に配慮した服だと言えるのか」と、雨宮の疑問は勢い高まる・・。

この舞台の趣向はパンフに解説があった。即ち、ベースとなる話の後、主人公の選択によって二つの異なる話「牛後」「鶏口」の両バージョンが展開するという。で、上記までがベースとなる話だ。「牛後」はその後、雨宮が会社にとどまって努力するケース。もう一つの「鶏口」は再生素材100%の商品を販売する新会社を設立するケース。

実を言えば、「混乱もあり得るので書いた」というパンフの解説を読まなかった私は、混乱のまま劇場を去った。二つの物語ではなく、「巻き戻し」の技を使いながら一つの話を描いた、と見たのであった。・・雨宮は会社に残って我慢の末、融資を取り付けた取引銀行の担当からあるベンチャー素材会社を紹介される。「良い出会いがありますように」と、舞台装置の中央に開いた神々しく光の溢れ出る扉の中へゆっくりと入って行く雨宮。このバージョンは「牛後」。2バージョンある、と観客に判らせるヒントは、雨宮のプライベートのシーンにある。タロット占いがその小道具である。
三姉妹の長女である雨宮には二人の妹がおり、一人は既婚、一人は婚約者(雨宮の部下でもある)がいる。
早くに母を亡くした三人が身を寄せるのは、育ての叔母と雨宮が住む家。下手側の装置の高台には広いリビングか屋上があり、ざっくばらんな会話が交わされるが、姉の現状を知った三女が、叔母の得意なタロット占いを勧めるのである。
同じアパレル業界の大手に勤める三女は、飽き足らない現状の反動からか、姉が会社から受けた扱いに不満を持ち、独立を勧める。これに対し堅実さを求める次女は三女を叱り、自分らの生い立ちを思い出させようとする。父は酒に溺れて死んで行った。大きな会社・組織に就職する事が何よりだ、とは叔母の口癖でもある。次女は不動産会社に勤める夫が時折、ネットの仮想通貨にハマっているのを見咎めつつ、「家計には手を付けないで」とだけ釘を刺して我慢している。これが後に離婚話の火種になるが、妻が「勝負」を嫌うのに対しこの夫は「勝負の無い人生って何だ」と真逆の考えを持つ。彼が雨宮に表参道の物件を勧めていた理由は、自分の業績になる事以上に、心底良い物件だから志の高い人間に使って欲しい思いがある。こうして私生活の中でも「安定か冒険か」、牛後か鶏口かの葛藤がある。
「鶏口牛後」とは本来は「大きな組織の末端にいるより小さくともそのトップになれ」と言った意味のようだが、この作品では前半の「牛後」を「大きな会社の中で自分のあるべき姿を見つけよ」といった意味とし、後半の「鶏口」は本来の意味としている。

さて暗転の後、実はもう一つのストーリーが始まっているのだが、私は雨宮の開業が前半の「続き」だと見たわけだった。その前にタロット占いの「結果発表」(カードにスポットが当たり、天からの声が聞こえる)の二度目が挟まるのだが、眠気もあったのだろう、大した意味とは捉えず、スルーした。
後半の鶏口バージョンでは、表参道の店は好調。新ブランドのコンセプトは注目され、雑誌にも取り上げられ、ネット上での発注数も上っている。が、歯車が軋み始めるのは、山東商会の部長が雨宮の「つなぐ」ブランドの先行きを過敏に意識していて、好調だと聞くなり妨害に走ってからの事。
ストーリーとしては、この部長の行動は「理がない」にも関わらず、これが功を奏するというのが難点である。もちろん「趣向」であるので、これを楽しむのが主眼ではあるが・・。
雨宮に振りかかった災難は、まず、彼女の思いを最も理解し、起業した後も二人三脚に見える程に意欲に答えていた素材会社リバースの武部が、震災後自分を拾って今の会社を紹介してくれた部長への恩義から、「取引ができない」と言って来た事である。
ただし表面上はリバースが会社の経営状況から「取引先条件」を改定し、「つなぐ」はそれに該当しない事になってしまった、という説明だった。だが物語は二転三転する。取引できるの条件の一つに「全額前払い可能な場合」とあった。直前、(リバースとの順調な取引が前提とはいえ)銀行から「融資」決裁が伝えられていた。従って条件はクリア出来る。山東商会を突如訪れた雨宮と、部長とのやり取りの中でそれは明らかにされ、最後に雨宮は「リバースとの取引が出来る事となった」と告げ、こう付け加える「あなたが介入していなければ」。部長の良心に迫った訳である。
ところが、物語の方はリバースの決定は変わらない。武部からの電話を受け取った雨宮の表情でそれが判る。現実はそのようなものだ、という空気が流れる。

ここは中々承服しがたいものがある。裏取引的な手回しを部長がやるにしても、個人的恩義のある武部にしか圧力はかけられないだろう。山東がリバースの発注元として力を利用するにしても、ある会社とは取引するな、といった要求は正面切ってはできまい。そもそもリバース側に素材を「売る」相手を限定する意味など殆どなく、あるとすれば踏み倒しのリスク(それは今回のケースには当たらない)、あるいは一度設定した単価が見直し対象になるといった事はあるだろうが、それなら再交渉という選択肢がある。このしこりが、その後の展開に響く。

「牛後」バージョンの終盤に新たな素材会社を雨宮に紹介した同じ銀行員が、小道具も共通にしたのだろう、表が青の「事業計画」を手に、「(融資決裁の結果を伝えて)雨宮さんの事業計画が素晴らしかったからですよ(毎度の定型句)」と言い、「相手さんも褒めていました」と、新たな提携先を示唆する。ところが、その会社は実は山東商会であった。
これも銀行員の台詞のリフレインだが、「Aは資金と販路はあるが、アイデアと技術がない、Bはアイデアと技術はあるが資金と販路がない。AとBを繋ぎ、結果ウィンウィンウィンをもたらすのがわが社のモットー、倍返しです」(ウィンが3つなのは一つがわが社の意)。

まとめれば、牛後バージョンでは、社内で素材含有率の頭打ちを乗り越えようとする雨宮にベンチャーの存在が現われ、その出会いに期待、という所で終了。
鶏口バージョンでは、理にかなった起業が私怨を抱いた元部長の横槍で敗北、相手会社にも大きなしこりを残し、結局元鞘に戻る(これをポジティブシンキングで明るく前向きに言う)。つまり銀行員の台詞は単なるおだてであり、実態は「敗北」。しかも敗北の原因を作った会社に「出戻る」という無惨な結末なわけである。(それを決定づけるのは、最後に雨宮が自己紹介する台詞「はじめまして、山東商会の、雨宮です」。芝居はなぜか爽やかに終わる。
雨宮はポジティブ思考で、「なぜ今まで気づかなかったのか」と、提携の選択肢を口にするが、「牛後」では元々のアイデアを蹴り、それを単独で実現しようとした試みを邪魔した山東商会が、なぜ今更、雨宮の案を飲もうと言うのか、この山東側の「変化」が判らない。
もっと分からないのは、「牛後」で銀行員が紹介したベンチャー(素材開発)が、なぜ「鶏口」では出て来ないのかだ。
「元鞘に戻る」は演劇的な構図ではあるが、後味は悪い。舞台は我々が「現実を苦々しくも受け止める」手助けではなく、苦々しい現実に傷つかずに済むようオブラートに包む方法を伝授しているかのようである。
痛々しい女性の姿に、「そこは突っ込まないでいて上げよう」と、誘導されてしまうがそれでいいのか、という感覚が脳ミソの端っこに残る。それをほじくり返してみた。
対立と葛藤、和解の可能性といった、溜飲を下げる場面が作品の質を押し上げているが、ストーリー自体には不服が残る。

小林秀雄先生来る

小林秀雄先生来る

ハルベリーオフィス

駅前劇場(東京都)

2022/07/01 (金) ~ 2022/07/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

壱組印が2003年に初演、2008年に再演した演目で、当時の舞台に出演していた藤﨑卓也氏が企画し念願を叶えた舞台という事らしい。壱組印で大谷亮介が演じたカッコ付き「小林秀雄」を、藤﨑卓也氏が演じる。この作品の勘所は禁ネタバレであるが、よく書けている。作者の原田宗典の娘が、原田マハだったのネ(関係ないが)。

ネタバレBOX

青森のど田舎でブンガクを志す若者たちがこなれた方言で夢を語り、同じ女を巡って悶着を起こす。彼らにとってはどちらも崇高で切実な「夢」に属するらしい。素朴で単純な心の形が、観客の感性の地ならしをする。この心の地面に、言葉が滴り、沁みて行く。
正義の人びと

正義の人びと

オフィス再生

六本木ストライプスペース(東京都)

2022/07/02 (土) ~ 2022/07/05 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「正義の人びと」6度目の上演という。Corichの過去公演ページの2公演を見ると役者数が少しずつ減り、今回は戯曲上の役は5名(他一名は作者の役)、上演時間も1時間45分で、大胆にテキレジを入れていると思しい(俳優座での上演と比較してもだいぶ削られている)。

演出が印象的だ。地下の一室の会場は、中央に地上階から階段がくの字に下り、奥側に大きく死角があるが、タイプ机が置かれ、作者カミュらしい男がタイプを打ったり佇んだりしている。役者も役人物として奥か上手ドアから出入りする以外は、ゆっくり移動したり佇んだりする。奥からの光が中央の「オブジェ」によって幻想的に動き、ドラマを胚胎す場所(あるいは歴史、あるいは人間の想念)であるかのように揺らめく。

物語は帝政ロシア時代の末期、大公暗殺に至るテログループの群像劇であるが、「正義」とその「実行」(暗殺)との乖離に揺らぐ人間心理が活写される。女優5名の内4名は男の役をやり、これが殆ど違和感も不足感もなく、非情な任務を自らに課する事となった緊迫感が、それぞれの個性において表現されていた。
ストレートな俳優座の上演より、戯曲の中心軸をとらえ、回した独楽の如く整然として切れ味がある。

ただ、暗殺を遂げ囚われの身となったカリャーエフの元に届いた大公夫人(未亡人)からの手紙が読まれるくだり、何処か冗長な感じがしたのだが、今言葉にしてみると・・
それまでの「内向き」の言葉の世界を表すに相応しい劇場環境と演出が、この時初めて、「外からの」声によって心がかき乱される、その瞬間として何等かの変化を見たかった所、「声」は相変わらず内なる心の問いのように響いている(演出的な工夫として、散在していた縦長の板(実は鏡だった)が彼を囲い込み、罪責感と向き合わせられるといった意味を付与していた)。
その声は、カリャーエフが元来持つ繊細で豊かな感性が、自らの良心から発する言葉とも思えるので、外界の、つまり実在の他者が物理的存在として現前した感じがしない、という憾みだ。
(そこが星5にはもう一歩、と思わせた要因のようである。)

しかし繰り返しになるが、愛を信じる故に悩むカリャーエフ(岩澤繭)、その恋人で爆弾製作を担うドーラ(あべあゆみ)、メンバーの扱いに長け理解力を示しつつグループの規律を重んじるアネンコフ(磯崎いなほ)、絶望と心中するかのように復讐の徒として暗殺計画を遂げようとしているステパン(加藤翠)、最初の計画で実行部隊となり、失敗によって心が折れた若いヴォワノフ(嶋木美羽)と、その演じ分け(役人物の内面化)には深く感じ入った。
最後は奥で作者を演じていた長堀博士氏(立ち姿を初めて見た)がつかつかと前に出、一人挨拶して終演を告げたのも、そぐわしかった。

ネタバレBOX

演出の高木氏の肩書「照準機関」は何時だったか目にした記憶があるが、職務的には「演出」の事をそう表現しているようである。同ユニットは2010年代に年2~3公演(3日間5ステージ)をコンスタントに打っているが自分は知らなかった。
見沢知廉の文章を取り上げていたりトークゲストに鈴木邦男氏の名があったり、取り上げる題材、関心対象が特徴的、「闘う人」の中でも独特な立ち位置がある。「正義とは何か」、そして孤高の存在。「正義の人びと」の舞台を手掛かりに問題関心の奈辺にあるかが推察できそうではある。正義を追求すれば先鋭化し、過激化しかねない。それにより(支配構造の中に生きる)大多数の人々の感覚から離れて行く。だが、だからと言ってそれが「正義でない」事になるのか。芝居を観る者と芝居の中で行動する者との間にあるのは時間差であって、歴史上の現時点での通念が、果して将来歴史を眺める観客の目にさらして「正しい」と言えるのか・・こう問うならその者は孤高への一歩を踏み出している。
サイは投げられた

サイは投げられた

劇団アンパサンド

アトリエヘリコプター(東京都)

2022/06/23 (木) ~ 2022/06/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

女優五名様によるナンセンス不条理おちょくり世相風刺入り脈絡ありそでなさそな愛と希望ほのぼの死屍累々スポコン人情劇である。(分からん物を名付けると長くなる)
五反田団系列、だろうか。新年工場見学会に似た乾いた笑いを誘うが、台詞の端々に現代風俗と皮肉がセンスがよく混じり、心地良い。だがストーリーは迷走気味。他の選択肢もあるがこちらを選んだか(作家は)、と思いながら観る。「こっちでなきゃならんかった」と思えるかどうか(戯曲の完成度のバロメータ)は疑問が残る。ナンセンスだから「何でもあり」ではあるのだが。。鄭亜美に電話で二度もアレやらせていた・・これは定番なのか。
ほりぶんの要素があったな(体を張らせたい意気込みとか)。

ネタバレBOX

落語のオチのようにサイが登場して劇を終わらせたが、「投げる」を必然化する要素はもう一押し欲しかった(途中も)。
人生損したと本人に言わせる驚異的な?(実はたいしたことない?)特技である「投げる」と、「枕投げ」に憧れながら踏み出せず「投げられない」のとは繋がらない。最初の場面に戻る、という事では枕投げに逡巡していた女の子が最後は投げる、の方がオーラス感が出る(オーソドックスだが)。それにはあの女の子が「出来る事」も挙げられてて、「それが出来ても投げられんのかい」と突っ込まれそうなやつで、それと「サイなら投げる」が繋がる、となれば理想。
難点、というか少し引っ掛かる部分。千羽鶴折りの女性(この鶴折りのボケにもスルーでなく何等かの突っ込み、リアクションが欲しいがそれは置いて)が「自分は見てなかったから見たい」には、「皆見てたのに何で」と突っ込みがある事で、わざとやらせようとしている可能性を消せる。そこも良いとして、私が嫌だったのは・・自分だけが見られないのはおかしい、と権利を主張する形で困惑させる攻撃、これはそれまでの彼女のキャラに合わない事もさることながら、物を享受する権利は平等に与えられるべき、という論理は全てのクレーマーの根底に潜む論理でして・・そんな平等なんかねえよ!と蹴散らすのが正しい。批判の対象として敢えてうざく描く、もありだが、芝居で取り上げなくても辟易するくらい見せられてる。逆に「それが普通」な展開として書かれたなら、「それが普通」という感覚、何かが摩耗してやしないだろうか・・と苦言を禁じ得ない。
とにかく台詞を書くセンスが優れ物であるので、期待。
パンドラの鐘

パンドラの鐘

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2022/06/06 (月) ~ 2022/06/28 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

昨年初観劇した(内容も初めて知った)戯曲。元は蜷川幸雄が野田氏にオファーしたものだとか(初演1999年)。他の演出家に手渡すべく書かれた戯曲を昨年は熊林弘高氏、今回は杉原邦生氏の演出で観る。真逆である。
熊林演出版は、静けさと透明感があって私は好んだが、今回はほぼ対極に振り切ると知って何故チケットを早々に仕入れたのかと言えば、出演陣、特に葵わかなの名があった故で。
朝ドラ「わろてんか」をネットで全編観終えた後、独特な笑顔で「こなしてる」葵わかなのプロフィールを見て驚いたのが出演時の年齢(20歳そこそこ)。他で目にしなかった名前を芝居のチラシで発見し、その舞台はコロナで流れたが、それで「今度こそ」とギアがかかったようである。純愛物やコメディならまだしも、野田氏の屈折戯曲を彼女がこなせる気が全くしないのに、である。杉原演出舞台も、甚だ失礼ながら「KUNIOハムレット」以来成功作にまみえた記憶がない。「外れだろうな」と期待をしていないのに楽しみに足を運んだという奇妙なケース。

舞台は意外にも、「パンドラ」の正解とは思えない出来(予感どおり)にも関わらず、楽しく観た。約めて言えば杉原邦生演出は「異化」に彩られており、一方戯曲にあるのは、眠っていたリアリズムの怪獣が姿を現わす大詰めのカタルシス(又はカタストロフ)。時系列無茶苦茶でもそれを捻じ伏せる言語力が売りの野田戯曲に対して、熊林演出は正しく、言わばレイヤー幾層も重ねる形で処理していた。軽々と捲ったり戻したりし、最後は一挙にそれを捲って「原爆」という歴史のリアルを見せる。現代と古代が、明確な区別とその侵食の具合が判るように熊林演出は見せ、全体には霞をかけていた。演技陣では古代の女を演じた村岡希美のキャラが立って関係が明確であった。
これに対し杉原演出は古代と現代の区別、それぞれの超課題、二つの関係性等が、演技を通して明確に伝わって来るという具合には行かなかった。演技陣が揃っていながらのこの状況は、少々残念である。ただ、明るい照明の中でハキハキと演じられる芝居は、「台詞を聞かせる」面で誠実さはある。熊林版では「雰囲気」で聞き流していたらしい台詞が聞こえて来たりもした。その事により、古代と現代の関係の(戯曲の)破綻具合も浮き彫りになるが、ボルテージが高まる終盤の高揚は否定しがたい。
感動の演出であるが、しかし原子爆弾の秘密が埋め込まれた古代王国の鐘を、敵方から守り切れず長崎の町を壊滅させてしまったと、現代(この芝居では現代=戦時中)の男が嘆き、それと古代の男とが「共鳴」するのであるが、因果関係を超えた殆ど「詩」の世界が、杉原演出では即物的というか「字義通りでございます」となる。
杉原氏の天然さ加減(そう仮定してみると合点が行く所も)は持ち味であり、欠点を補って余りある面もありそうではある。
さて我らが葵わかな女史は、声の良さが必死さ一辺倒の演技を補い丸みを持たせ、(杉原氏に通じるかもだが)天然ぽさが(人物造形とは関係ないところで)華を与えている感もなくはない。大型俳優が並ぶカーテンコールは壮観ではあるが、もっと「役」の存在として見えたかった。

ネタバレBOX

長崎に落とされた「原爆」という事物が芝居の終局で裸のまま提示される(それまでの台詞が全てそれを覆い隠すためのシーツであったかのよう)、という構図は、「フェイクスピア」の最後のシーンに通じる(野田戯曲の基本構図なのかも)。そのシーン即ち日航機の墜落までの時間を一塊のコロスらが演じた形が、今回の原爆のシーン(こちらは短いが)に用いられていた。元ネタが想起されたためか、コロス様式そのものの持つ効果か・・真実性を垣間見た人間の目を多くの観客がしていた事だろう。日常ではかなり目は曇らされており、晴れる時は稀だ。「真実」とはかけ離れた日々を送っている証左。だからこそ芸術を、真実なる知を、求めるのであるが、、近年感じている事の一つが、選挙前はえらく目が曇らされている気がする。
今「問題」があるからこそ人は投票行動で問題解決を誰に委ねたいか(どの考え方での解決を望むか)を意思表示するのであるが、今現在何が重要な問題として挙げられるか、テレビ媒体が親切に取り上げる事は(アリバイ的に「特集」をやる以外は)ほぼ無し。つまり「問題」は無い、が基本的なトーンだ。あるとすれば、今回で言えば防衛が危ういから軍備を増やす、位か。だが何が「問題」だから軍事力が必要か、の理由が希薄。「軍備増強」を打ち出し、これを否定する明確な論拠がなければやって当然、となる。軍備を増やせば予算割で他の支出を圧迫し、声を上げる余裕もなく単純明快なスローガンに飛びつきやすい貧困層を再生産する路線がまた踏襲される(それが政権に利する事は説明するまでもない)。

今の日本で演劇表現が生き続けている事は、一定の民度を保ち凋落を食い止めているとかねてより思っているが、健全(というより普通の)思考の源がまずテレビのコメンテータやMCの交代という形で断たれ、ネットではある言説まるごと「赤」「反日」に括って排除する仕組みも浸透し、いずれ演劇がそのままカテゴリーとして「囲われる」日もいつか来ると未来予想している。小説等の分野では作家個人が(学術会議問題で個人が標的になったように)吊し上げ。カテゴリーの囲い込みと言えば「人文系」への軽視が徐々に広まっているし。
演劇は「一部の不逞勢力が」という匂わせ付でカテゴリーごと批判対象とされ、元凶探しの動きが出、分断が成功する(許される演劇と許されない演劇)。発信する者はかつてと異なり、それで「飯を食う」方法の模索が優先されているので、いずれは足下を見られる。踏ん張れるのかな。。

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