満足度★★★★★
この芝居こそワクワクする高揚感があり、飽きることなく楽しめる。
物語は、日清戦争前の国内世情を劇中劇の形態をとして展開させる。もちろん新選組の面々も登場するが、それは国内の士気を高める役割を担わされるというもの。それはタイトルに表されている。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
舞台は2階部を設け、上手・下手両側に階段があるが、取り付け向きは異なる。また剥き出しの柱があり、全体的に鈍色の配色である。一見古ぼけた造作にしているが、ここが劇中劇の小屋-江戸座を表している。この小屋は個人の屋敷を劇場に改築したという設定。この2階部をフルに利用し上下の動きに躍動感が増す。もちろん殺陣にも十分活きてくる。
梗概…日清戦争前の国内は戦争を行うか否か、世情不安な様子、新しい演劇スタイルを模索する人々(劇団員)の自由闊達さなど、史実や虚実を綯い交ぜにしたスケールの大きな内容であった。また、戦争に対する考え、それを国家的観点と庶民感覚という立場、その視点を変えることで視野の広がり、観客への納得感を増すあたりは巧である。
この劇団は川上音二郎一座、座長と妻の貞奴、劇作家は樋口一葉を登場させ、劇団員が劇中稽古に励むシーン。それを離れ世情-戦争に絡むシーンには伊藤博文や元新選組隊士が登場する。大きくこの2つの場面が実に上手く交錯しダイナミックに進展する。
さて、日本国内で開戦に躊躇する国家・首相(伊藤博文)と開戦派の大山巌大将の思惑、庶民は死にたくない、殺し合いはしたくないという本音に反戦の意味合いが…。幕末動乱、明治という元号になって27年(日清戦争開戦)、平和に暮らしてきた庶民の願いでもある。しかし戦争への軍靴が迫り、戦意高揚のため川上一座に戦意高揚芝居の上演を依頼する。その芝居の演技指導に元新選組の面々が…。
シーンに応じてコミカル、シリアスに自在に変化し、それを本公演、その劇中劇として役者陣が見事に演じ分けていく。そして先に記した世情、大劇場ならぬ川上音二郎一座(新派の誕生)の存在、伊藤博文と川上の妻・貞奴との邂逅などハッとさせられる面白さ。
ラストは戦意高揚劇という劇中劇が30年前、新選組の名を知らしめた池田屋事件を思わせる場面へ繋ぐ結末には余韻が残る。見事なエンターテイメント公演であった。
ちなみに6月は、旧暦で池田屋事件があった月。
次回公演も楽しみにしております。
満足度★★★★
戦争という最悪の不条理、転戦する青年2人の現実を通して、その悲惨さが実々に伝わる物語。時間軸は1938年から1951年という13年間に亘る。日本で徴用され朝鮮戦争中までを祖国、家族を想いながら…。その厳しい現実の中に、”生”への執着、友情を通して戦争の愚かしさを描いた珠玉作。
2016年11月、上野STOREHOUS collection No.8で上演されたらしいが、自分は未見だった。
(上演時間1時間30分)
ネタバレBOX
韓国江原道出身の2人の悲惨な戦争体験物語。今でも江原道は朝鮮民主主義共和国との軍事境界線を挟んだ行政区画にある。自分は20歳代の時、韓国に研修・視察に行ったことがあり、板門店にも訪れたことがある。その緊張感は今でも忘れられない。
セット、後景は場所等をイメージさせないためか暗幕で囲い、舞台には左右非対称に高さ、大きさが異なる台座のようなものが置かれ、中央は縦長に空間がある。一見、オセアニア、アメリカの両大陸で真ん中は太平洋かと思っていたが、帰りがけ演出の酒谷一志氏から渓谷をイメージしているとの説明があった。その他に小物として銃(銃口も含め布で覆われ、非戦を印象付けるような)や戦闘ヘルメットを用い戦時中を思わせる。
梗概は、説明文にあるとおり、日本に徴用された2人のロシア、ドイツ、アメリカの各捕虜体験が、2人の関係性(時に盗用、友情等)の中で描かれる。そして再会したのは自国での朝鮮戦争中だったが…結末は切ない。
転戦による場所移動は、役者の台詞説明で分かるが、日本、ロシア、ドイツ、アメリカそして自国での朝鮮戦争の情景は曖昧にしている。逆に言えば場所(転戦)は事実であるが、重要なのは戦争そのものの不条理を鋭く批判しているところ。
同時に、生きるため捕虜になってもその国のために戦う、アイデンティティなど関係ない。根底にあるのは人間としての「生」への執着。
なお、日本に徴用されるまでの経緯が分からず、又は自分の生い立ち、貧困等の事情があるならば、当時の朝鮮という国の置かれた状況など、そのものを捉えているのではあるまいか。作はチャン・テジュン氏であり、彼らの視点で作られた作品を日本人が観て感じるには正直難しい。表面的な理解に陥りそうで少し怖い気もするが…。
満足度★★★
”鬼(悪魔)の証明”と言われる、存在もしくは無いことを明らかにするのは難しい。本公演は途中休憩を入れ、前編・後編という2部構成のようで、特に前編は証明に拘るシーンを強く感じさせる。
全体的に個々人が持っているであろう超能力を証明しようとするシーンがくどいように思え、上演時間2時間50分は長い。もう少しコンパクトにまとめることで、後編の怒涛のように収斂する場面が活きて面白さが増すと思うだけに勿体ない。【Bチーム】
ネタバレBOX
舞台は山奥の廃屋のような研究所。セットは中央手前に古い横長テーブル、後方は玄関。上手側に電子レンジ、下手側に古机と窓が見える。何本かの剥き出しの柱があり、全体的にくすんだ配色はいかにも廃屋らしい雰囲気である。
梗概…昔から“いわくつきの場所”として噂の絶えない"トワイライトゾーン"で超常現象の研究をしていた。そこに一人の男が現れて御影達に[超能力者達を見て欲しい]と依頼するが「超能力研究はしない」と断るが、別の訪問者が現れ事態は思わぬ方向に…。
前編は、超能力者達と自分の周りにいる人々が不幸になると信じ、引き籠りになっている女性(怪奇現象を引き起こす)とが絡み、ドタバタが繰り広げられる。後編は超能力にしても怪奇現象にしても、その”力”がなかなか証明できない。しかしその”力”こそ国家権力が求めるところ。この前・後編の対峙するような展開...その意味で物語全体がフェイクであり、説明にある常識・先入観・固定観念、全ての言葉を疑問視することの真骨頂が観て取れる。
運命を”信じた”女性と運命を演じた”男性”の虚々実々のコミカル・ミステリーは楽しめる。ラストが大どんでん返しのような展開で面白いだけに、観客の集中(反芻)力が保てる長さにしてほしいところ。
ちなみに、タイトル「CLOWN」の意味は国家権力への比喩のようでもある。
満足度★★★★
現代の典型的な犯罪と言っても過言ではない題材をコミック・サスペンス風に描いた作品。何となくある映画の二転三転する展開とペテンで悪者を懲らしめるようなところが似ているような…。
物語の中心は世間的には反社会的勢力と言われている組織。そこで交わされる民主主義を絡めた場面が…。
(上演時間1時間30分)
ネタバレBOX
舞台は滝川組というヤクザの事務所。中央奥に事務机や飾棚、上手側にテーブル、下手側に応接セットが置かれている。上手側張出し部分がベランダ、舞台と客席の間を街路に見立て演技する。
梗概は、滝川組の一人娘の名を騙ってオレオレ詐欺の電話が掛かってくる。高齢者や人の弱みに付け込んだ詐欺グループを策略を巡らし懲らしめるという痛快な話。並行してヤクザの家における母と娘の怨嗟が切々と語られる。そして2人の関係にはある事情がある。このコミカルとシリアスという両極な演出が物語に陰影を刻み観応え十分なものにしている。
物語は典型的な現代世相を切り取ったオレオレ詐欺…2017年には18,000件を超える認知件数、390億円を超える被害額であったそうである。現代的と言えば、劇中に民主主義・多数決(国民の多く)に絡め政府(為政者)の平和、原発等々の課題・問題の対応に批判的なシーンが少し長く、停滞感が漂うような。内容的には共感するが、芝居としては、既に王様(為政者、権力者)が一番の詐欺師というシーンがあり、何を訴えようとしているか一目瞭然であるだけにもう少しサッパリと描いても伝わるのではないか。逆に理屈が先行すれば、意見が一致することよりも、違った意見をぶつけ合ってる状態の方が正常という考えも出てくる。
ヤクザと暴力団の違い?は堅気に迷惑をかけないこと。いずれにしても反社会的勢力に見なされ警察のブラックリストに載っているだろう。さて、1960年代に製作されたヤクザ映画は任侠道と呼ばれ義理人情を売りにしていたが、この公演でもその路線上にあるヤクザ一家として描かれている。その意味では”蛇の道はヘビ”、今日的犯罪集団と半世紀前の任侠ヤクザの騙し合いは、娯楽芝居として楽しめた(警察がヤクザに協力しているのだから)。
最後に、ある映画とは「スティング」。
次回公演も楽しみにしております。
満足度★★★★★
人の出会いと別れを抒情豊かに描いた作品。日本のどこかでありそうな、そんな有り触れた風景、街を通して人情、家族愛が見える秀作。
(上演時間1時間45分)
ネタバレBOX
舞台の両側に絵画遠近法のように立ち退きを余儀なくされた飲食店が並ぶ。中央に階段があり上部に堤防。河川柵が見える。
梗概…港湾地帯に注ぐ河川の一帯に赤線時代の流れを汲む幾つかの飲み屋横丁、舞台はその横丁一つ「通せんぼ横丁」。この一帯の横丁が河川堤防のかさ上げ工事のため区画整理地区となり、立ち退き期限を迎えた。長年この通せんぼ横丁で働いて来た、店主は最後の恒例行事の宴を開くが…。
この街の事情に絡め、ある家族、夫婦の愛憎が並行するように描かれる。夫婦とは、夫は芸術(画家)としての成功を誓い、妻は夫を支えると同時に家庭の安寧を求める。お互いに思い遣る気持ちにすれ違いが生じ離婚を決意した経緯がある。
物語は、消えゆく街(横丁)と元夫婦の気持ちに歩み寄りが生まれるハッピーエンド。ラストの花火がそれを祝福し、店主達のそれぞれの道への応援歌(音)にも聞こえる、見事な余韻である。
この芝居の圧巻は、元夫婦(増田再起サン、永井利枝サン)がお互いの気持ちを吐露するシーン。切々と訴える情感溢れる長台詞は見事。また横丁大家(阿野伸八サン)の挨拶に、先に記した元夫婦愛や街の移ろいを感じさせる名場面。そこに劇団芝居屋の「覗かれる人生劇」というコンセプト、登場人物の人間像がしっかり立ち上がった好例だと思う。
一夜限り、横丁の店看板や窓に明かりが灯り、そして消えていくという明・暗が励みと虚しさを醸し出すという見事な演出であった。
次回公演も楽しみにしております。
満足度★★★★
質素倹約(緊縮財政)規制緩和(金融緩和)という現代にも通じる政策論議を柱とした物語。史実とフィクションを絡め、踊りや殺陣で観(魅)せる芝居は楽しめた。
そして為政者とは、その正義を貫く姿勢は、現代にも通じる。
(上演時間2時間15分)
ネタバレBOX
舞台は上手側に少し高い上座を設え、後景は月が欠けたような衝立に古文字が書かれている。ほぼ中央に桜の木、下手側に赤い欄干のようなものが見える。全体にシンプルな造作であるが、それは中央客席寄りに殺陣スペースを確保するため。なお芝居は客席通路も使用し躍動感を持たせる。
梗概…説明のとおり、江戸時代中期、八代将軍吉宗の治世(享保の改革)で質素倹約令を推し進めた幕府に、真っ向から反対し、民に文化的な生き方を奨励、生きる意味と喜びを与えた尾張七代藩主・徳川宗春がいた。幕府と宗春、相容れない二つの立場に繰り広げられた「暗躍」「策略」「忖度」「暗闘」、平和な時代と言われた江戸中期の裏で、熾烈な戦いが幕を開ける。
確かに武士としての暗闘場面(殺陣)は迫力があるが、他方、庶民が生き活きと生活する様を現代にある小物(携帯電話やサングラス等)を持って豊かさを表現する。しかし、文化的豊かさを演出する一方、その対比としての享保の改革の”質素倹約”が見えてこないのが残念。
この公演は、2人の将軍職後継を巡る対立ではなく、あくまで治世の視点をもって描く。その考える方向・方法は相違していたが、”正義は1つではない”という台詞に象徴されていた。
しかし、将軍と尾張藩主という大局観の相違が前面に出ているが、治世の対象となる農民、庶民の暮らしが浮き上がらないため、2人の相違に具体性が伴わなくなり、台詞のみの説明に終始したのが勿体無い。2人の考え方の違い、同時に部屋住みという共通した境遇の親しみやすさが微笑ましい。そこに老中や勘定奉行の思惑を絡め、史実・フィクション綯い交ぜにしダイナミックに展開させる。まさに娯楽時代劇として大いに楽しめた。
次回公演も楽しみにしております。
満足度★★★★
タイトルはもちろん衣類等につく目に見える黴ではなく、人という物に憑く見えない傷を表している。パンフにある「僕の心の黴は水では洗い流せない…」とあるが、涙で浄水-浄化することが出来るような、そんな心魂奮える作品。
(上演時間1時間50分)
ネタバレBOX
舞台はある板金工務店の居間。上手側手前に台所・食卓、奥に玄関。下手側に座卓が置かれ中央奥に2階へ上がる階段が見える。階段横に、今は物置と化した黴臭い部屋がある。2階は高校生の妹の部屋で全体的に現実・生活感漂う造作である。
梗概…主人公は立石板金工務店の主、7年前に母を同乗させた車でひき逃げをしてしまった。もうすぐ時効になるが、この間、そしてこれからも心の荷を背負い続けていく。この主人公を中心として登場人物全員が何らかの傷を負っている。黴のように除菌出来ない苦しさを抱えた日々の暮らしは陰鬱だ。その心情、閉塞感はじっとり纏わり付くようだ。
舞台構図から見ると1階は心痛の場、2階はその逃避先の場であり、二重空間を用いて怒哀(もちろん喜楽はない)を見事に演出している。何となく俯瞰しているような。
結末は、予定調和のような気もするが、それはそれで良い。しかし黴と同様、早めの手当て(正直なこと?)が必要だというような寓意劇と言うよりは教訓的な流れに観えたところが勿体無い。7年間黙してきた現実、もう少しで時効という目に見えない壁を前にして悔悟・謝罪の気持が、そういう流れなのだろう。
次回公演も楽しみにしております。
満足度★★★★
身近な幸せ、足元の幸せは当たり前すぎて見えないかもしれない。タイトル「背に描いたシアワセ」は自分の背中にあるモノは本人には見えない、という比喩であろうか。
(上演時間1時間40分)
ネタバレBOX
物語は表層的には嫁・姑の典型的なバトルを中心にした家族の物語。
そのセットは、中央にダイニングルーム、上手側に廊下、玄関がある。舞台と客席間を街路に見立て立ち話をする。そして冒頭から電化製品を連呼する…20インチのキドカラーのテレビ、新しく買ったものはオーブントースターに、電子ジャー、それに冷蔵庫は2ドア。洗濯機は濯ぎまで自動と説明が続くが、実際は舞台上にない。何となく昭和の時代を連想させる。上演後、作・演出の笠浦静花女史に聞いたところ、向田邦子「寺内貫太郎一家」をイメージしたとのこと。そういえばコミカル調であるが、その中に「老い」や「介護」といったテーマ、家族の生活の中に潜むリアルな部分も描かれている。
さて、嫁姑のバトルは食事シーンが中心であり、その描写を意識したセットが活きてくる。嫁姑の優劣の立場がコロコロと変わりテンポ良く展開していく。バトルの原因をアッサリと”習慣の違い”と言い切り、くどく説明しないところが巧い。2人の争いに巻き込まれるそれぞれの夫(舅と息子)の優柔不断でオタオタする様子が面白可笑しく、思わず頷いてしまう。この家族に近所の人や友人が絡み少し違う展開が…このあたりにラストに驚かされる伏線がある。もっと早い段階でも不思議と思うシーンもあるが…。
劇中、近所の居酒屋が自分の背中に刺青があると言うが他人には見えない。本人の思い込み、自分の背中は見えないと…そこに先に記した他人からは幸せに思えることが、自分の(身近な)幸せは気が付かないに繋がるのだろう。
ラスト、バトルさえも幸せであった日々…予測を超えた結末は観応え十分であった。
次回公演も楽しみにしております。
満足度★★★★
都会の人間関係を表面の親近さと内面の疎遠さを浮き上がらせ、家族内でも本心と虚心が存在するという人間の心の危うさを描いた、少し怖い物語。
(上演時間1時間30分)
ネタバレBOX
セットはほぼ素舞台、奥壁に沿っていくつかの椅子が客席側を向いて並べられているだけ。上手に別スペースを設ける。映画「家族ゲーム」(森田芳光監督)の食事シーンを連想させる。この配置は家族という身内、身近な存在であるがよく見えない位置関係にある。隣を注視しない警戒しないという暗黙の了解があるからだ。同時に隣は何をする人ぞという無関心も窺える。また他人には好奇の眼差しを向け、色々観察したがる様子も垣間見える。しかし相手の実像、実態は掴みきれずあくまで興味本位の域である。ここに隣人、特に都会における近所付き合いの本質を表わした表現がある。
梗概…1年前、隣の家で息子が殺人事件を起こした。並木家の妻は取材陣に隣家の事情を尋ねられたが、正直よく知らない。しかしめったにない機会、自分の存在を示しておきたい軽い気持ち。そこには隣と違い我が家は安泰、たぶん幸せ家族だと思っている。
しかし一皮剥けば、この家も妹夫婦は離婚話、シェアハウスの居候住人のことや空き部屋の心配。夫婦円満と思っているが実は無関心、長年連れ添ってきた当たり前の風景、惰性マンネリという倦怠期のような…。1年後偶然か、並木家の娘が事件を起こした家の娘に会う。日常の何気ない暮らし、その情景の中、人の心に見えない”鬱積”が不気味に堆積していく様が見て取れる。このあたりの心情描写は巧い。一見、幸せ家族を客観的に見ているのがこの家の娘。その観せ方が直接ではなくカメラという媒体を通して観察しているかのようだ。そしてこの娘にも隠し事がある。客観的にすることで観客目線と同化するようだ。
公演の面白さは、直接大きな事件を取り扱わず、日常の些細な出来事の不満・心配・苛立など人が持っている説明し難い、またはコントロールし難い感情を実に上手く表現しているところ。幸せはどこにあるのか、本音と建前の会話が情況にピタッとはまる面白さ。もちろん役者の演技力もあるが、室内という緊密空間、家庭(族)から遁れられない不気味さがそう思わせる。会話(台詞)が丁々発止という訳でもない、逆に緩慢なところもある。しかし聞き逃したらいけないような緊張感がある。そこにこの劇団の巧さ、特長があると思う。
最後に、平凡な家族のあり触れた暮らしを普通に描いているが、自分は”日常生活”の中で演劇に”非日常性”という楽しみ、刺激を求めて観るところがあり、その意味で今まで観てきたシアターノーチラスの公演に比べると少し物足りなかったのが残念。
次回公演も楽しみにしております。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ストリップ劇場を廃業する最後の1日、昭和から平成にかけてストリップ業の盛衰とそこで働く人々の人生模様をコミカル、人情味豊かに描いた艶劇。上演時間は2時間20分と長いが、飽きることなく逆に引き込まれるほど観応えがあった。
(上演時間1時間50分 途中休憩なし)
ネタバレBOX
時代設定は平成と昭和を往還させ、ストリップ(劇場)の盛衰と共にスタッフ、キャストの人生-喜怒哀楽が心情豊かに描く。特に踊り子としての”芸”に対する誇り、一方1人の女としての”性(さが)”が悲哀として展開していく。
セットは、ストリップ劇場の楽屋、大きく上手・下手側に2分割し、上手側は畳敷に化粧台、派手な舞台衣装、下手側に机、出入り口に浮世絵柄の暖簾が掛かる。全体的に和風、艶福的雰囲気が漂う。ラストには畳敷がステージに場面転換させショーが始まる。
梗概…当日は小屋・踊り子への男女の記者が取材。しかし看板ストリッパーは腕を骨折、そこにかつての看板ストリッパーが戻って来る。実は彼女を呼んだのは、現在の看板スターで、共に支配人の現彼女であり、昔彼女であった新旧ライバルでもある。このストリッパーたちの因縁は、取材に来た女性記者にも関係してくる。
ステージという表舞台の華やかさ、楽屋という裏の実生活という表裏に潜む人生模様が1日という時間・場所という限定空間でしっかり描かれる。時の刻みとして、1人の女が愛する男を待つ姿、その男の娘をストリッパーという仕事で育てる母親としての姿、そこにも表裏が見える。しかし娘の思いと母の生き方の相違が痛いほど伝わる。
ラストのショーは妖艶・コミカルな多様な魅せ方で楽しませる。先のホロッとさせるシーンとの対照的な印象付けは見事である。
全編をこの小屋にいたストリッパーが地縛霊のように温かく見守るヒューマンドラマ。
次回公演も楽しみにしております。
実演鑑賞
満足度★★★
旧約聖書の「創世記」にあるノアの物語(「ノアの箱舟」)バベルの塔の伝説をモチーフにしたような公演である。”人類の言語は1つ”という旧約聖書にあることを、公演では逆に世界共通語への懐疑、画一化という不自由さへの反発が音楽・演劇という身近な芸術・文化論で比喩させており、テーマ性に拘った内容であった。
現実と妄想が交錯するような構成で、伝えたいことは解かるような気もするが、そこに理屈っぽさが前面に出過ぎたように感じたのが残念だ。
(上演時間1時間20分)
ネタバレBOX
セットは後景に繋ぎボード、下手側に変形台形の白Boxという幾何学的な造作。何となく迷宮をイメージさせるよう。
グローバリゼーションが進む現代社会では、柔軟性が求められる。そして生まれ育った場所から離れた所で学び、仕事、生活をしている。そこでは時としてアイデンティティを失い、多種多様の言葉、文化、伝統に埋没する危惧に襲われるかもしれない。
その柔軟性・多様化に呼応したような画一化への不自由さを劇中劇、または妄想劇として観せる。テーマの切り口は良かったと思うが、説明するような理屈っぽさが、描きたいことを手放したように思う。
次回公演を楽しみにしております。
満足度★★★★★
どこかに居そうな夫婦の日常を切り取って、観客の関心を惹くだけが芝居ではない。演技力によって観客を圧倒し魅了する。特にこの公演は2人芝居であるから1人ひとりの演技力はもちろん、その呼吸のバランスが重要だ。その意味で本公演は、現実とは異なる、演劇的現実をしっかり立ち上げており観応え十分であった。
「ゴドーを待ちながら」(サミュエル・ベケット)をもじったタイトルであるが、ここでは不条理ではなく、普通の夫婦が或る出来事によって平穏な日々を過ごせなくなる。その不安定・不均衡といった気持を丁寧に描いた物語である。
(上演時間1時間40分)
ネタバレBOX
セットは夫婦が暮らすアパートのダイニングキッチン兼居間。上手側にソファー、中央にダイニングテーブルで夫婦の椅子と子供用の椅子が見える。下手側に流しや冷蔵庫といったキッチンがある。正面奥はガラス戸で外に自転車が置かれている。細部にわたった作り込みは見事だ。この空間は生活の基本になる場所で、ここでの会話は自然な流れ、その演技力は素晴らしい。
梗概…義母から贈られたぬいぐるみ、正面に見える子供用の椅子が先々虚しくなってくる。もちろん子供は登場しないが、夫婦の会話から子供への愛情が伝わる。子供は心臓病で亡くなり、悲しみに耐えながら生活をしている。その坦々とした暮らしの中に、子供がいた時の想いが募る。夫婦の間でも子供との(時間的な)関わりの違いから想いに温度差がある。何となく生じてきた蟠りを解消しようと街頭募金を始め、そこで生き甲斐のようなものを見出したが…。
この公演の魅力は子供を亡くした夫婦の空虚な心、一方諦念したような坦々とした暮らし、この「気持」と「現実」を丁寧に表現する。ぬいぐるみをくれた義母へ悪口、なだめる夫。そして警察官である夫の帰宅にあわせた料理と食事。空虚と絶望に覆いつくされながらも生きる、そんな様子が宛転たる語り口によってもたらされる上手さ。
空虚の原因、その子供はいつまでも登場しない。その生きていた時(過去)への憧憬のような感情が少しづつ癒され、自己の存在意識を取り戻しつつある夫婦の姿を斬新なスタイルで描いている。登場人物が2人のため、外出から帰って来るまでの一瞬、舞台上には誰もいない。そのいない空間こそ空虚という心象表現のようだ。
セットが示す生活空間、そこでの夫婦ならではの本音、感情の衝突などの濃密な会話、それがピーンと張り詰めた緊張感を漂わす。その緊張感がゆったりとして時間の流れの中で弛緩していく、そんな滋味溢れる好公演であった。
次回公演を楽しみにしております。
満足度★★★★★
古希野球(生き甲斐)、介護、将棋という得意分野を盛り込んだスポ根ならぬスポ魂物語。同時に人生に戦争の傷痕を残す、その意味では反戦劇の一面も…。喜怒哀楽、多くの人生模様を観せる感動作である。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
セットは、中央手前にマウンドであり居酒屋・若竹の店内座敷になる菱形台座。左右に階段状のベンチが設え、上手側が飲食店・若竹の厨房等、下手側が球場スタンドや街路に見立てる。後景にはスコアボードを設え、物語の情景にピッタリの舞台美術である。
梗概…戦前か戦中に甲子園で活躍した球児たちが古希を迎えてもまだ野球を続けている。それが生き甲斐にもなっている。一方、寄る年波には勝てず持病、多種の常備薬を飲むシーンもリアル。また妻が認知症のようになり、その面倒を見ることで練習にも参加できないという高齢者介護(老・老介護)の実情も夫婦愛としてしっとりと描く。時代設定は平成10年前後であろうか?
どちらかと言えば湿っぽくなりがちな老後(古希)や介護のテーマをカラッとして日常の暮らし中に溶け込ませ、それが当たり前のように坦々と展開していく。この芝居の隠れテーマとして”地域”という街が見えてくる。学生の頃から、いや幼少の時から一緒の仲間と馴染みの居酒屋、その地域の中で支え合いながら生きている姿がしっかり浮かび上がる。都会では廃れた思われがちな隣近所の付き合い、高齢化社会が進むにつれ、古き良き時代の付き合い方が戻ってくれば良いが…。
最後に物語のスケールに対し舞台スペースが少し窮屈に見えたのが勿体ないところ。初演はシアターグリーン BOX in BOX THEATERで上演されており、その時に比べるとであるが…。
次回公演も楽しみにしております。
満足度★★★
初日観劇。
戦時中の坦々とした生活、そして結婚式という慶事を絡めた反戦劇。しかし、戦争という最悪な不条理が見えてこない。
自分は戦争体験がないだけに観念的な感想かもしれないが、戦争の悲惨さが伝わらない。原爆投下されたであろうことを印象付ける幕切れであり、その後の悲惨さは事実として知っている。それだけに演劇で用いられる観客に問いかけるという効果・意味合いは少ないと思う。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
戦時中にも関わらず坦々とした日々が綴られる。現代、自分たちは翌日に原爆が投下されたことを知っているが、当時の人々は日々の生活でそんなことが起きようとは誰も思っていない。原作(小説)では当時の状況を書いており、読者の想像力を喚起する。しかし、舞台という直接的に訴える視覚という特長を生かして原爆投下へ刻一刻と迫っている恐ろしさが伝わらないのが残念。戦時中の理不尽さを描いた場面(弱みに付け込み物資を強請る等)、空襲に怯える場面などもあるが、戦争そのものの最大の不条理が見えてこない。最後に生まれたばかり赤ん坊の”生と死”が戦争の惨さ無常さを表しているだけに…。
セットは基本的には客席寄りの空間、その奥に押入程度の高さの空間、その下に納戸を設え、上手側に床の間、掛け軸等が置かれ、下手側は家の玄関。客席寄りの空間は冒頭は街中を思わせるが基本的に住居居間として物語が進展する。シンプルな造作であるが当時の長崎市民の一般的な暮らしぶりは十分伝わる。
梗概…語られるのは1945年8月8日の長崎、原爆が投下される前日の風景。街角で遊ぶ子どもたち、結婚式を挙げる夫婦、出産を控えた妊婦等、戦時中とはいえ様々な思いや悩みが描かれる。勿論、彼・彼女たちが明日に起こる出来事を知るはずもなく、今日の延長で明日が来ると思っている。ラストは出産と閃光を思わせる真っ赤な照明で幕を閉じる。人間の生死が対比表現され、生まれてすぐに凄惨な現実が…。この描写によって原爆が投下され、全てが奪われたことを連想させる。
原作者の当時を生きた観点と今を生きている観点の違い、さらに小説という読者の想像力を引き出させるものと、演劇という五感、それも視覚・聴覚という直接訴える手段の違いを生かし観客(自分)の心魂を揺さぶってほしかった。原作を読んでいるだけにあまりにも坦々、清々しい描写、それに物足りなさを感じてしまう。
一方演出について、ラストの照明はもちろん、雨戸の開閉に応じて照度を変える、時を刻む時計の音など細かく丁寧なところはさすがに巧い。
次回公演も楽しみにしております。
満足度★★★★
ヘレンケラーを題材とした公演は3作目。前2作はせんがわ劇場で上演しており、この劇場より広い。本作におけるヘレンケラーの人物像なりは前作をも凌ぐ見事な造形であったが、芝居的にはこじんまりとした印象を受けた。
劇場の規模を比較して意味があるのか分からないが、少なくとも せんがわ劇場では素舞台に近い。あるのはテーブルと椅子が数脚。周りは暗幕で囲い、脚本・演出・演技で魅せる力作であった。本作は屋敷内を作り込み過ぎたようで、言葉はおろか自分が何者(人)かさえも認識できていない”子供=ヘレンケラー”の行動が舞台セットによって妨げられている。何気にテーブルの周りを回ったりしているが、”痛い”という感覚本能を持っていたか否か判然としないが、観客としては作為的な動きに見えてしまったのが勿体ないところ。
(上演時間2時間10分)
ネタバレBOX
セットは屋敷内_中央にテーブル・椅子や飾り棚が置かれ、下手には窓。客席寄りに階段がある別スペースを設けている。当然、有名なシーンである井戸も見える。
梗概…ヘレン・ケラー(羽杏サン)とアン・サリヴァン(坂東七笑サン)との出会い、結びつきが中心に描かれる。その意味ではヘレン・ケラーの人生に大きな影響を与えた人物との関わり、言葉の認識というプロセスが中心であり、その見せ場として井戸での水汲みシーンが有名。見せ場における2人の演技は上手い。その臨場感は圧巻である。
この公演でもその描き方は他の劇団公演と変わらない。しかし、ここではその後のヘレン・ケラーをも描き出す。人(障碍者)として社会との関わりを持った人生も丁寧に描く。多くの劇団は水汲みシーンで終幕とするが、それは演劇的な見せ方として魅力的であり、評伝(記)にも差し障りがないからではないか。この劇団では、文献では知りえない事柄を独自の解釈・演出によって表現しようと試みている。
しかし、公演ではヘレン・ケラーの人種差別に反対する運動や労働条件改善の訴え、南部黒人集会での演説や講演を紹介する。そしてライフワークになる社会福祉活動。自身の経験を踏まえた公演は、世界中へ。また経済的な困窮からボードビルショーにも出演したことが描かれるが、これらは彼女に関する文献を調べれば知れるところ。評伝の内容を演劇化する、それはそれで面白いかもしれないが観る人の感性や主義主張に左右されることがあるような。
それよりは、”人格形成後(者)”としてのヘレン・ケラーではなく、社会との関わりを持つ前のまだ学生としての未成熟でどん欲に知識を習得する。そんな彼女の上級学校に進学してからの考え方、物の見方など成長する”過程”を観てみたい。そこには完成された人物の評伝記ではなく、まだ知られていない生身の人物の生き様が刻まれそうだ。それこそヘレン・ケラーの人間的魅力(例えばダンスのシーン等は秀逸)が潜んでおり新たな人物像の形成になると思う。芝居ゆえにその自由(発想)度を広げても良いのではないか。そんな芝居を観てみたい。
次回公演を楽しみにしております。
満足度★★★★★
海洋冒険浪漫活劇…林遊眠1人芝居は楽しく、そして凄い。第26回池袋演劇祭(大賞受賞)の時にも観ているが、その時に比べると情感が増したように思う。1人で多くの老若男女を演じ、ト書を加えるから膨大な台詞になるが、物語が進むほどに世界観が広がり人間性に深みが増してくる素晴らしい公演であった。
上演時間2時間10分(途中休憩10分)
ネタバレBOX
前に見た時は、冒険活劇としてのシャープ・スピード感という鋭い面が強調されていたように思うが、今回は外観というよりは人の内面を強調したような、いわば包み込むような包容力を感じさせる。もちろん「冒険浪漫活劇」という謳い文句であるから、その醍醐味はしっかり味あわせてくれる。
さて、当日パンフに劇団代表で作・演出のナツメクニオ氏が「今回、林遊眠がほぼ全編に渡って一人で稽古し、自己演出を突き詰めて構築した新たなママナン・マクリルの羅針盤」と書いている。そうであれば、彼女は物語を通じて”人の内面”を描きたいと思ったのであろうか。その意図は十分に伝わる…物語は1700年代初頭という背景であるが、その時代の「自由」という命に代えても守りたい…それは時を経た現代にも通じるもの。
演劇でいう第四の壁のようなものを乗り越え、劇中で林遊眠さんが観客に声掛けする。劇中人物が突如、身近なところに舞い降りるような、舞台と客席を一体感に包み盛り上げた後、物語の世界へ戻っていく。関西の劇団ゆえ、東京方面の演劇ファンに馴染みがないとのこと。だからこそ観客(関西でも同様だと思う)を大切にするパフォーマンス(You tube 配信あり)。
次回公演も楽しみにしております。
満足度★★★★★
元気いっぱいに若い女性が軽快なテンポで紡ぐ(夏)物語…でも少し背筋が凍るような示唆?もある。
(上演時間2時間強)
ネタバレBOX
舞台セットはおとぎの国を思わせるようなファンタジックな張りぼて造作。アイスコーンや変形刳り貫き窓など、見た目の面白さ楽しさ。セット色調や多色彩の照明、カラフルな衣装が演技と相まってポップ調に仕上がっている。
この公演は、”人体冷凍保存実験?”といった物語。表層的には、少女視点での夏とアイス、そして地元愛、段々慣れ親しんできた東京という地が溶け混じったラブコメディのようだ。
現在から過去または未来を往還して観た時、同じ場所、または同じ少女世代であっても時の情勢や事情によって感じ方が違うかもしれないし、同じかもしれない。しかしこの公演では変容なのか不変なのかという二極を思い巡らせるのではなく、”現在”を大事にする。悩んだら、とにかく自分の中の”ギャル”を呼び起こして“今”を全力で生きればいい。そんな前向きな物語である。
そう思わせるような展開、それが”人体冷凍保存”という発想を借りて表層ポップの裏に潜む思索として説明しているように思われた。
公演の魅力は観客を楽しく元気にさせる、そんな魅せるところ。この明るく笑う、ポジティブな姿勢こそ、時代情勢や状況が変わろうとも「冷凍保存」されたように必要で大切なものではないだろうか。
次回公演も楽しみにしております。
実演鑑賞
満足度★★★★★
人間、それも女性の内面を浮き彫りにしていくが、そのあぶり出す題材が「顔」という、外面の代表格を用いる発想がユニーク。
さて、「顔」で思い出すのが、二枚目俳優・長谷川一夫(当時は林長二郎)が暴漢に襲われ、刃物で顔面を切りつけられ重傷を負った事件である。そしてそれをモチーフにした映画「貌切り KAOKIRI」である。心が豊かで美しければ、などという綺麗ごと建前など白々しいと言わんばかりの物語は、観応え十分であった。
(上演時間1時間35分)
ネタバレBOX
セットは、芸能人のメイク室。客席側に向かって鏡があるというイメージ設定。下手側に更衣スペースがあり、いくつかの騒動(恋愛沙汰)で利用する。この狭いメイク室で美人女優、演技派女優、そして各女優のメイクを担当する職人が繰り広げる嫉妬・羨望などの不快感情が交錯する物語は面白い。また出羽恭子(井上晴賀サン)の顔(顎)ネタも挟み込む。さらにはアシスタントやマネージャーという脇役が女の別一面を観(魅)せてくる。
梗概…美人女優の専属メイクは男、演技派女優のメイクは女。このメイク担当者の男と女は師弟または先輩後輩という縦社会の典型を表す。逆らい難い環境に我慢し、ようやく1人前になった主人公・小尾千恵子(岸本鮎佳サン)が、偶然にも同じ楽屋・メイク室で師・先輩と仕事をすることになるが…。
男の身勝手と勘違い、女の媚と思わせ振り、その間にある溝は深く気味が悪い。かろうじて橋渡しをしているのが”仕事”という生活の糧という味気無いもの。
さて、美人女優は”美人”というだけで何の努力もしない、一方、演技派女優は努力を欠かさないという定番設定である。そして美人女優に事件(ここで長谷川一夫事件を連想)が起きる。芸能関係者にありそうな思惑と人間関係、それを女性という視点から、笑いを纏いながら繊細、丁寧に切り取る面白さ。”コンプレックスのフィルターを通し、気まずく、切なく、恥ずかしい、人とも距離感を、何気ない会話からあぶり出す”という艶∞ポリスの真骨頂が観られた。
本当に居そうな厚顔な女、そして男の図々しさ。役者は、その分かり易いキャラクターをしっかり立ち上げ面白可笑しく観せる。表層コメディであるが、手放しで楽しんでいては足許が…そんな怖さも垣間見られる秀作である。
次回公演も楽しみにしております。
満足度★★★
自分の妄想、その脳内を三面鏡に映った姿を見るような形で展開していく。タイトル「分別盛り」は、当日パンフによればカミーユ・クローデルの作品に刺激を受けたことが記されている。本公演は、自問自答するような騒めきが多少煩わしく感じられるが、それでも描きたい内容はしっかり伝わる。
(上演時間1時間30分)
ネタバレBOX
セットは、中央に横長テーブルのようなもの。上手側にピアノ、下手側に扉がありその壁は白色で映写幕の代用にもなっている。
物語は、自分自身を多角的に捉えるための三面鏡のような展開に思える。もちろん第1は現在の自分自身の心との葛藤、第2は子供時代に形成された心、第3は本人とは関係ない第3者という客観的視点で見る。この3つの視点を本人の職業-作家としての行き詰まりの苦悩を本筋にし、子供時代に受けた心の痛みを脇筋として絡めて人物像を形成している。この2つが交錯し本人の妄想の世界を築いている。主要メンバーはパジャマ姿であることから一夜の出来事としているのだろうか。客観的な場面は、女子会のようなノリで一見主人公との関係性が見えてこない。一般的な情景、人間(ここでは女性を強調)であれば悩み苦しむ”恋”という普遍的なテーマを与え、自己が抱える色々な問題・課題の断面を面白可笑しく見せている。その会話を横長テーブルを炬燵に見立て寛いで観せるなど巧い。
物語としては重層的な見せ方を意識しており、その点は成功していると思う。しかし同時進行するような2分割の場面構成で、役者の演技(声量)が同じ。そのためどちらが本筋で脇筋なのか分らなくなり騒がしいだけの印象を与えたのが残念。カミーユの「分別盛り」は内なる叫びを表現しているとすれば、本公演は素直に心の葛藤を叫んで表現しているようだ。その対比のような演出は上手いが…。
一方、音楽は生ライブ(アコーデオン、ピアノ、ドラムなど多種の楽器)、同時にダンスパフォーマンスを観せることで楽しませる工夫は良かった。粗削りのような公演であるが、逆にこじんまりとした理屈の枠に収まらない自由な発想と構成は面白く、次回公演が楽しみである。
満足度★★★★★
古民家「ゆうど」での至福のひと時。とても素晴らしい朗読劇で大いに堪能した。たまたま観劇した日、この古民家の主が紛れ込み場内がざわつくこともご愛嬌か…。
(上演時間1時間30分)A『恋文小夜曲』
ネタバレBOX
基本は朗読劇であるが、動きや音楽(歌)があることで「総合的な感覚」…聴覚・視覚という基本に加え、味覚(ゆうどの井戸水を使用した麦茶の振る舞い)、臭覚(庭の木々の匂い)そして身近での朗読という息遣いが感じられる触覚という五感をフルに刺激される好公演であった。
それでも台詞は,朗読表現の唯一の直接的な手段であり,筋や役の性格を含めて,劇的な内容がそれを通じて行われる。その意味で、この朗読劇の水準は格段に高い。
この朗読劇は、劇公演と違ってセットの作り込みは少なく、逆にこの古民家ゆうどの持ち味である和風家屋の特長を生かした雰囲気の中で語られる。第1部は大正時代に綴った恋文と女性を称えた手紙の二本立て。第2部は、吉田小夏女史の戯曲から、恋に纏わる台詞達をセレクションした抜粋劇。「詩情溢れるダイアローグとモノローグで紡ぐ、恋物語の短編集として再構成」という謳い文句通りの印象深い内容だ。
客席エリアの左手にある廊下が役者の出はけ通路、こちらからはガラス戸を通して和風の小庭が見える。客席の対面となるステージ、その上手客席寄りに別室への隙き間があり活用する。正面に床の間、いつくかの段組み棚があり小物が置かれている。そして硝子椀の中の灯りが仄かに照らす。
朗読。第1部1篇は文豪の文(ふみ)の朗読、島村抱月が松井須磨子へ宛てた手紙は、言い訳というか泣き言のような滑稽さ。第2編は女性同士の文の往還、抒情性の中に感情が潤ってくるような繊細さ。第2部は吉田女史自身の戯曲からの抜粋。劇中場面の再現という発想はユニークだが、その場面の選択(尺も含め)が難しい。劇は全編を通じて観客の感情を揺さぶっており、たとえ山場と言われる感動シーンであっても、前後関係を省略した朗読劇が聴衆の感情を刺激するだろうか、という危惧があった。結果的にそれは杞憂であった。ここでは公演-劇中の感情を同じように”刺激”するのではなく、朗読によって情景場面を”詩劇”し抒情的な味わいを出していた。
アナグロの代名詞のような「手紙(恋文)」をあえて現代に披露する。現代では同じ文字・言葉をメールという手段で瞬時に相手に送る。手軽さや料金においては手紙より勝ると思う。手紙とメールは同じコミュニケーション手段であるが、手紙は書き手の心を伝える温かさと肉筆による味わいがある。もっとも朗読劇ではその肉筆による温もりは感じ取れない。しかし、手紙を投函して相手からの返事を待つ、その一連の時間が愛おしい様な気持が伝わる好公演であった。
次回公演も楽しみにしております。