『花と爆弾~恋と革命の伝説~』
劇団匂組
OFF OFFシアター(東京都)
2019/10/23 (水) ~ 2019/10/27 (日)公演終了
満足度★★★★
劇団匂組の旗揚げ公演が「花と爆弾」であり、その再演のようだ。旗揚げ時は大逆事件(明治天皇暗殺未遂事件)の百年後を意識しており、それは主人公・菅野スガ の没後100年を意味する。初演(「~恋と革命と伝説」の副題はないようだ)は観ていないが、描かれている内容は現代においても色褪せない。その骨太作品は観応えがあった。
初日に観劇したが、奇しくも前日は令和、今上天皇 即位礼正殿の儀が行われた日であり隔世の感を覚える。
(上演時間1時間50分)
ネタバレBOX
舞台セットは横長テーブルと丸椅子が数脚のシンプルなもの。それを時代や場所に応じて変化させ状況を上手く表す。セットによる場所や時間イメージを固定させない工夫、また上手側の柱に時代や場所を記した(半)紙を貼り替え、何人かの役者がストーリーテラーの役割を担い物語を展開させて行く。菅野スガ はもちろん大逆事件に詳しい人であれば問題ないが、自分のように詳しくない者にとっては丁寧な演出で好かった。
物語は、明治42年 千駄ヶ谷 平民社 初夏、菅野スガ 27歳頃から始まる。登場人物はその時代に相応しい衣装などで時代に引き込まれる。時代はすぐに3年前に遡り和歌山県田辺の牟婁新報社で スガ が編集長代理になり荒畑寒村と出会う場面。後々結婚するが、出会い時は原稿執筆に対する指摘という上司と部下という感じである。その時は娼婦を取材した寒村の(男)の視点を質したが、この公演の全体を支配する問題意識が提示されたと思った。
スガ の半生は主義者に信奉し自ら主義者になり処刑されたが、国家的というか大局観に立った不平等が描き切れていない。むしろ不平等の1つとして男女平等という、もう少し身近で具体的な観点に絞って、その先にある大きな社会的な不平等、平和を描いたほうがイメージし易いような気がした。スガの史実(半生)を中心に描いているが、他の登場女性に不平等を担わせ膨らませても良かった。それは明治時代ほどではないにしろ現代にも通じる問題であるから。
一方、「恋」は主義者への共感や尊敬といった感情から人間が持つ本能的な部分を上手く表していた。同時に スガ の勝気と思われるような性格、その反対に幸徳秋水をはじめ男の主義者達は扇動はするが実行できないといった男(理屈)女(行動)に関わる皮肉も垣間見せており面白い。主義者としての スガ は表層的に思えたが、その生い立ちから恋というよりは、好きでもない男と結婚させられ離婚、その虐げられた姿を通して明治時代の”女”の理不尽さが浮き彫りになる。逆に主義者の虐げられた姿が観えず、台詞による情況・状況説明だけでは弱い。
公演は 菅野スガ という女性の生き様を通して現代を見つめ直す、という寓話的な面もある。そして気になるのがタイトルにもある花、物語では向日葵・秋桜などが紹介(チラシの 椿は意味深)されたが、その花イメージを持つのが登場女性(スガ、妹の秀子、手伝いの百代)のようだ。全編を抒情豊かに謳い上げた公演は素晴らしかった。公演は 菅野スガ という人物の視点から描いていることから彼女以外の人物の描きが暈けて影が薄くなったのが残念。さらに言えば スガ を演じた岩野未知さんの演技が素晴らしい。その意味で、スガ の人物造形は上手く出来たが、彼女以外の主義者人物の魅力を引き出しきれず、その結果、不平等などという社会背景が描き出せなかったところが勿体ない。
最後に「みんなが ぬくいなと思える世の中へ」という台詞、自分もそう思う。
次回公演を楽しみにしております。
Photograph2019
劇団カンタービレ
ウッディシアター中目黒(東京都)
2019/10/17 (木) ~ 2019/10/21 (月)公演終了
満足度★★★★★
実話をベースにした感動作。劇団カンタービレ10周年特別公演は観応え十分、自分は好きです。今まで観てきた公演(コメディタッチ)とは趣が異なり、感情が大きく揺さぶられました。観劇できて良かったです。
(上演時間2時間強)
ネタバレBOX
物語は、体調不良で検査入院した柴崎時子が、実は脊髄小脳変性症という難病になっていることが判明し、家族(時子の実父・一太郎、夫・正夫、長女・沙織、次女・恵、長男・健一)をはじめ近所の人や病院関係者が介護や医療にあたるが…。その闘病記のようなもの。内容的には重苦しいが、時折ユーモラスなシーン(時子の姉妹や近所のおばちゃんの姦しさ、一太郎のふるまい等)を挿み人生の哀歓をしっかり観せる秀作。公演の見所は、夫が定年前に自己都合退職し介護をし出す、同時に時子がリハビリに励む様子、そして家族がそれぞれ生きる中で出来得る限りの介護に向き合う姿を感動的に描いているところ。
物語は、本筋-症状が顕著になり8年にわたり介護(要介護5)している現在と脇筋-2人が付合いだした頃や新婚時代を往還させ展開していく。本筋は、順々に時を経過させることで病気の進行と介護(される本人も含め)の辛苦、生活状況が一変したことをしっかり表す。冒頭、時子が元気だった頃、夫は仕事一辺倒、子供たちは母親に甘えてばかり。それが介護によって生活環境が激変し、それまで妻に家庭内のことはすべて任せきりにしていたことが浮き彫りになっていく。状況と情況の変化を刻々ときざむことで観客の感情を揺さぶる上手さ。
物語を支えているのは舞台セット。柴崎家の居間、病院の入院部屋、医師室、集中治療室など、どれもが丁寧でしっかり作り込んでいる。その場転換も観客の気持を逸らさないため、会場入り口近くにある別スペースで若かりし頃の柴崎正夫・時子の微笑ましい姿を観せ、本筋と脇筋をうまく繋ぐことで違和感なく物語が展開する。時代間隔はピンクの公衆電話-自宅の黒電話という固定電話から現代はスマホに変わるという小道具で表す。もちろん1役2名で本筋-脇筋で役者や衣装等も違うから一目瞭然であるが。
現代医学では治癒の見込みのない難病、しかし医療施設における短期間での転院という不都合、困難さへの批判、また日本の神経科医療の後進性への課題など社会性も垣間見せる。この社会性と(家族)介護という個人性の両面を持ち合わせた公演は、観る者に感動を与え、そして考えさせる。ラスト、ベットで横たわる時子への照明と次女・恵が出産したであろう赤ん坊(命名は時恵)の泣き声、死と生の交差(バトン)の演出は見事。
最後に、この素晴らしい公演は役者の演技なしでは成り立たないことは言うまでもない。
次回公演を楽しみにしております。
小刻みに 戸惑う 神様
劇団ジャブジャブサーキット
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/10/17 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
満足度★★★★
葬儀を行う親族と死者の両観点から描いているが、情緒的な絡みは少なく淡々と執り行う記録劇であり記憶劇のようだ。アフタートークのゲスト、山下千景さんも話していたが、葬儀当日は葬儀社との打ち合わせなど、やることが多くて悲しみに浸っている暇がないというのが、自分の実感。その後じわじわと...。
公演は、醒めてはいるが思い出は尽きない、湿っぽくなく、どちらかと言えばカラッと描いた世界観が逆にリアルで面白い。
(上演時間1時間45分)
ネタバレBOX
セットは、ある地方都市の葬儀場の祭壇脇の控室といった場景。中央壁の時計、手前にテーブルと4脚の椅子、上手側にもミニテーブルと向かい椅子。下手側の壺にユリの花が生けられている。まさに葬儀場で見かける光景。今まで葬式をテーマにした劇は何度か観ているが、多くは鯨幕や祭壇・棺があるが、この公演ではバックヤード的な描き。そして遺族である娘達(長女:早苗、次女:京果)は直接 父親(故人)と向き合わず、現実の葬儀準備に忙しい。同時に早苗の夫の失踪、夫の近況と若い同棲相手が出現など、生きているがゆえに起こる騒動が厳かな葬儀という光景に生活感を映し出すというアンバランスが面白い。
物語は劇作家の楡原拓一郎の葬儀。故人は質素な家族葬を望んでいたが…いつの間にか意に反してドタバタし出してきた。冒頭は住職から始まる宗教談議、そして斎場スタッフや葬儀ディレクターによる葬儀に関する うん蓄話など、その場の説明・記録劇のようだ。一方、亡くなった拓一郎は、彼岸と此岸の間に立って自分の死を見届けるかのように葬儀場を徘徊する。その様はシュールな観察というか俯瞰劇。こちらも娘や孫への気持よりは、若くして亡くなった妻や劇団仲間との会話が中心。舞台上、遺族と故人の直接的な絡みは少ないが、娘の思い出を刻んだ記憶を大切にしていることは十分伝わる。その雰囲気を醸し出す演出は見事だ。
当日は楡原家の葬儀とは別に、この町の副町長(拓一郎の同級生)の葬儀も執り行われている。アフタートークで作・演出の はせ ひろいち氏が劇作家が政治家に見劣りした葬儀でよいのか、思わず対抗心を燃やしたと吐露。その結果、暗転中のナレーションから拓一郎の遺志に反した葬儀になったことが知れる。自分としては、しめやかに余韻ある結末でも良かったが。
ちなみに、タイトルは拓一郎が書いた劇作のうち、気に入ったシーンの台詞らしい。神様でも小刻みに戸惑うのであれば、滅多に執り行わない葬儀、その対応に戸惑いがあるのは当たり前かも。
卑小とは思いつつも疑問が…。
死後の時間概念は必要なのだろうか。亡き妻(花楓)や友人(百道)が回想シーンへ繋げる際、壁時計の針を動かすために椅子などを踏み台として動かす。そこは照明やパフォーマンスで演出しており、時計はあくまで現世を表現しているのでは。
もう1つ、葬儀コーディネーターの助手・荻野が1人の時に4脚の1つに何か隠し置いたような動作は何か。その後、早苗が息子・晃司に香典の在りかを教えるシーン。そのため盗聴による香典泥棒かと思ったが、その前に1香典を失敬しておりコーディネーターが香典紛失時?の対応で庇っていることから経過順が逆で違うようだ。
次回公演を楽しみにしております。
じゅうごの春
やみ・あがりシアター
アトリエファンファーレ東池袋(東京都)
2019/10/17 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
満足度★★★★★
こういう人いるよなぁ、と思わせるような人物像を描いた観察劇のようだ。自分では「観て ごらん」と思えるような面白さ、そして最後まで目が離せない公演。あまり書くとネタバレになってしまいそうだ。
(上演時間1時間40分) 2019.10.21追記
ネタバレBOX
舞台セットは、畳敷きに丸卓袱台。幕(緞帳風)や衝立に夏休みの自由研究を思わせるような造作が微笑ましい。序盤はポップで笑いを含んだ展開であるが、だんだんと主人公・じゅうご(石村奈緒サン)の完璧というか偏執的な行為が狂気じみてくるような。
物語は1999年8月1日から始まる。「ノストラダムスの大予言」で人類滅亡を信じ夏休みの宿題(特に自由研究)を行っていないことを嘆いているところから始まる。その前年は教師から自由研究について評価され、やればできる子といった暗示のような言葉「やってごらん」に縛られた主人公・じゅうご。この じゅうごのその後の人生を10年刻みで35歳まで描いた物語。つまり35歳は今年であり現在を生きていることになる。なお当時の時代表現は、姉とその友達の ヤマンバ メイク、ルーズソックスなどの衣装で見せており笑える。
じゅうごは、8月1日時点で夏休みの宿題を終えていない、自由研究のテーマさえ決められないと嘆いており、計画通りに事が運ばないと気が済まない性格。そして何事にも高みを目指し、ある種の完璧主義者で、さらに教師の期待しているといった言動に捉われる。しかし計画が破綻すると途端に自暴自棄になるといった、どこかに居そうな人物像が立ち上がってくる。友達のお気楽な性格との対比で偏狭さが浮き彫りになる。そして物語のキーとなるのが友達が拾った拳銃。
物語は10年刻みで、15歳の「じゅうご」、25歳の「にじゅうご」、35歳の「さんじゅうご」と名前は変わるが同一人物。外見的成長-変化と内面的本質-不変という構図を表す。年代の人物連携は、始めのうちは じゅうご と にじゅうご が同時に登場しているが、徐々に じゅうごが登場しなくなり25歳の にじゅうご へスムーズに引き継ぐ。映像のフェードアウトするようなイメージ。25歳から35歳も同様。この人物移行の演出が実に巧い。人物移行は同時に情況や状況も一変させる、ここに笠浦ワールドの真骨頂を観ることができる。にじゅうご は大学院生、さんじゅうご はニート、引き籠りといった状態である。そこには15歳時の自由研究-やってごらん-未完成という呪縛から解き放たれない。この呪縛の原因は担任教師であるが、その教師が姉と結婚することになり元凶?がさらに身近にという苦悩。どこか歪な、もしくは壊れた世界観が窺い知れる。
物語は じゅうご の人間(内面)性の描き、同時に父親が息子を見る、その育児もしくは観察日記のようでもあった。父親のとぼけた振る舞い、後日この家に出入りしている保険外交員が読み上げる父のノート。書かれているのはそれまでのシーンの数々、過去がフラッシュバックするようで、色々な感情がこみ上げてくる。自分の気持を自由に弾けさせることが出来ず、衝動的なのか他の感情が或る物で別の者を弾いてしまい...。
後には虚無感、空虚感が漂うという独特な結末が重量感ある余韻を残す。
次回公演を楽しみにしております。
花隠想華
ZERO Frontier
萬劇場(東京都)
2019/10/09 (水) ~ 2019/10/14 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
公演の魅力は、妖しげな登場者によるアクション、ダンスといった身体表現の素晴らしさと民俗・伝承を題材にした物語性だと思う。そして舞台美術がその怪しげで謎めいた空間を演出していると言っても過言ではない。
(上演時間1時間50分)
ネタバレBOX
場内に入ると、鬱蒼とした山の中といった雰囲気を漂わす舞台セット。山中を表す高さ、やや上手側中段に神社の鳥居が立つ。木々が茂るセットだが、特に上手・下手の両側は本物の竹を配している。段差があることから、その上下運動は躍動感を表す。
不思議な夢、それが正夢のようになる現実...ここから物語は始まる。ラスト近くに明かされるが、この地は”遠野”だという。もっとも今作で登場するのは架空の国「やまとの国」であるが、どうしても岩手県遠野、その民俗・伝承もしくは伝説を連想してしまう。登場するのは女鬼(「山都」に住み)、男鬼(定住せず山を渡って生きる「山渡」)、天狗(「山門」に住む)で、住んでいるのは みな「やまとの国」の中。この人間以外の者が住む場所に人間が迷い込み、それによって起こる奇怪な出来事が観客を時間も空間も超える劇の深みに飲み込んでゆく。この迷い込んだと思われた人間は、理由(わけ)あって意識的にこの地へやって来た。過去と現在、その300年の時を経て明かされる真実が切なく悲しい。人間と鬼を結ぶ出会い・友情から、この地(山)の神となって見守るへ繋げるのは、アナグラムの機知、緩い笑いと逸脱を盛り込んだ脚本の面白さ。そして「事実と真実は違う」などの台詞で心に響かせる。
女、男それぞれの鬼や天狗、その隠し事や思惑が交錯し謎めいた物語に観客を引き込んでゆく。山の神へ神事(女鬼といえども実娘は犠牲にしたくないという本音も垣間見える)...それを女鬼による華麗なダンス、その結果起きる不幸な出来事に起因する男鬼と天狗の格闘、そのアクションの迫力は観応え十分。登場する者のキャラクターをしっかり立ち上げて、個々の役どころの演技とダンス等のアンサンブルとしてのチーム力を発揮するというエンターテイメントな各々の観せ方が実に上手い。
最後に山中の物語であるが、海を治める神や人格を解し万物に精通するとされる星獣が現れたりと世界観を広げるなどサービス精神?もあるような公演であった。それこそ、民俗・伝承を通してこの地は人間だけが住んでいるのではなく、他の動植物も含めてという暗喩であろうか。
次回公演も楽しみにしております。
Blank Blank Brain
劇団芝居屋かいとうらんま
OFF OFFシアター(東京都)
2019/10/12 (土) ~ 2019/10/14 (月)公演終了
満足度★★★★
どんなことを考えているのか、人の頭の中を覗いてみたらという興味津々の物語。チラシ説明にあるように人気作家が突然倒れ編集者達が作家の脳内から依頼原稿を抽出しようと試みるというSFファンタジーといった作風だ。
(上演時間1時間30分)
ネタバレBOX
舞台に長さが異なる白い短冊状の紙が何枚も上の方から吊り張られているだけの、ほぼ素舞台。短冊状は何となく体内の襞のようで、まさしく脳内をイメージさせる。照明は白短冊状、それが幾重にも張られているから諧調することで鮮やかに演出され、音響は場面の雰囲気に合ったものを流す。役者の演技、照明・音響という舞台技術は巧い。
この人気作家は少なくとも3本の連載を抱え、サスペンス、時代劇、ミステリーといった異なるジャンルの執筆をしていた。冒頭は先の連載ジャンルの内、サスペンスシーンから始まる。そのタイトルは「弾丸黒子」であり、この劇団の次回作(2020年2月上演予定)のタイトルで、しっかり宣伝の意味を込めて観せているところが笑える。脳内の連載シーンから始まる構成のため、物語の全体観を捉えるには難しいが、編集者がバーチャルゴーグルを掛けて登場することで、物語の概観が分かってくる。
構想していた小説は、第1に「弾丸黒子」というサスペンス物。狙撃手の狙撃に関する うん蓄話、彼に殺された男の恨み辛み、それが結末がないまま続く。第2に「ごめんこうむる~竹田光吾朗の最期」という時代物。父の敵討ちをするため娘・かえで が浪人・竹田に助成を請うもの。敵討ち=殺しは容易く出来ないと諭すが、こちらも堂々巡りの展開。第3が「黒と黒のオセロ」という探偵もの。探偵と助手が出てくるが、オセロの白・黒の反対ではなく黒・黒という探偵に助手が同調するばかり。一応ミステリー小説を思い描いていたようだが…。
この3つの小説を執筆しており、それぞれ脳内で構想していた内容をバーチャルという形で観せているが、本来別々の話が脳内小説を抽出する段階で混乱、錯綜し出し編集者は自分の担当部分だけを早く抽出したいと無理強いすることで、更に迷走し出すというブラックコメディ。
自分の頭の中、その考えや空想・妄想を人知れず具体的な形に表すことが出来たらと思うことはある。そもそも具体的に出来るのか?思っていることを、これまた何かの”力”で何となく表象化されて、それを都合よく追認しそうな気がする。自分は他の人(第三者)に自分の意思を伝える時、具体的に示せない時やど忘れした時に「あれ、それ」という指示語を使っているが、相手も「あれね」「それね」と受けて何となくコミュニケーションがとれている。ここに”空白”の意思の伝達のようなものがあると思う。これって公演とそれを観ている観客の関係のように思える。観ているシーンがどのように繋がっているのか、その空白を制作側から委ねられ観客がイマジネーションで埋めているようだ。
小説家は先の別々の物語を構想していたが、意識混濁の中で物語が錯綜し勝手に展開し出したようだが、何となく付かず離れず微妙な関係・関連性を保ち描かれる。同一作家の無意識下における性格や本音のようなものが浮き彫りになる。真面目、責任感の強い人物、そして重く書き上げる作風のようだ。3つの話は編集者の思惑が反映されるから断続的に描かれるが、それぞれには”殺人”という共通したキーワードが含まれている。それに対する考え方がしっかり示される。物語過程は面白いが、惜しむらくは結末部分が弱いという印象だ。
次回公演も楽しみにしております。
ホテル・ミラクル7
feblaboプロデュース
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2019/10/04 (金) ~ 2019/10/14 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
新宿歌舞伎町という歓楽街にあるホテル・ミラクルの一室で繰り広げられる痴態を覗くような感覚の公演。その一室で起こる男女の濃密な痴話を通して人間の、それも身の下相談を見聞きするような面白さがあった。
(上演時間2時間40分 途中休憩あり)
ネタバレBOX
セットは、劇場入口近くにシャワールーム、ベットや冷蔵庫、ソファー、丸テーブルと椅子2脚のリビングセットが配置され、ホテル室内の雰囲気を十分漂わす。客席はL字型で2方向から観ることが出来るが、座る位置によって観え方が異なるかもしれない。例えば、ベット近くに座ると出歯亀(でばがめ)状態だ。窃視(のぞき行為)をしているようで少し背徳感がある。他方、後方客席から観ると客観的もしくは俯瞰したような感覚。それゆえか、ベットはL字のコーナー部分に置かれており、その傍に座った観客(自分)は窃視症かも。
物語は4話+αであり、それぞれ趣の異なる内容で飽きることはなく、むしろドキドキして観ることが出来る。全体観としては、同一の部屋における時間差で起きている事なのか、同タイプの部屋で同時進行している事なのか判然としない。イメージ的には前者のような気がするが、自分としては、何人かの登場人物(役者)が他の話に現れ、話と話の連携があると、一室における痴話からホテル全体としての痴態が浮かび上がると思うが…。
上演順に「Pの終活」(ハセガワアユム 氏) 「光に集まった虫たち」(本橋龍 氏) 「48 MASTER KAZUYA」(目崎剛 氏) 「よるをこめて」(笠浦静花 女史)
「Pの終活」
3Pの話。中年男・黒田は既婚ではあるが孤独を抱え風俗嬢ユキを指名している。そして黒田は奨学金返済の為この世界にいる理樹を呼び3P行為。しかし黒田の真の狙いは…。1人の中年男がぼんやりとした不安、言葉にし難い心の激情をユキ、理樹を相手にぶつけようと膨らんだ感情話。
「光に集まった虫たち」
既婚の中年女と年下の彼氏。虫嫌いの彼女の前に虫が現れ、そのうち正体不明の老女も闖入してくる。男女の会話は上滑りし好きという気持もおぼろげで、老女もいるのか居ないのか記憶とも妄想ともつかぬ奇妙な夢を見ているような錯覚に陥る。光という幻影に集まった孤独と情感という心象を描いた話。
「48 MASTER KAZUYA」
戦隊ヒーローものイメージでコミカルな作風。若者は四十八手の奥義を極めた性豪。性技バトル...その男がある女性を満足させることが出来ない。落胆している彼の下へ師匠が現れ、”好き”とはという初心を思い出させる。人を引き付ける、上手く掴めないもどかしさゆえの魅力の考察を性技に絡めた話。
「よるをこめて」
職場の上司部下で男女関係にある2人。性欲の女(係長)と醒めた男(主任)、ホテルの一室にいるが行為もなく2人の会話はちぐはぐで成り立たない。そこで平社員の男をジャッジとして呼ぶが…。会社組織における関係は逆転し、女は哀願し男は諦念、さらに平社員は2人からアドバイス料として金を受け取るという皮肉。
わけありな男と女、腐り縁の男女、現実と夢の境界線が曖昧な関係、泡沫のような光のゆらめき関係、など色々な男女の関係を官能と寂寥感をもって描き出したオムニバス作品、まさに千夜一夜物語である。公演は、感度が非常に良く(欲)、肌理というか触知性に優れたもの。
次回公演も楽しみにしております。
瘋癲老人日記
劇団印象-indian elephant-
小劇場B1(東京都)
2019/10/02 (水) ~ 2019/10/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
「瘋癲老人日記」は<老人の生と性>を主題にした谷崎潤一郎の小説である。チラシ説明によれば、主人公・卯木督介 77歳が息子の嫁の足に異常な執着を見せながら魅かれていくというもの。今まで観てきた劇団印象(いんぞう)の公演イメージとかけ離れていたため、どのように観(魅)せるのか興味津々であった。この劇団は「遊びは国境を越える」という信念の元、”遊び”から生まれたイマジネーションからの創作であるが、原作内容を考えれば、下手をすれば息子の嫁との”火遊び”と勘繰りたくなるような…。
この公演は、原作の対象というか観点を変え、演劇的手法を十分に発揮し原作とは異なる魅力を秘めた作品になっていた。その意味で劇団印象の、そして構成・演出を担当した鈴木アツト氏の新しい一面を観ることが出来た。
(上演時間1時間30分)
ネタバレBOX
中央に平台があるだけ。後ろは暗幕その前に中央と左右に3枚の白幕。それだけを見ると鯨幕のように思える。しかし主人公の卯木督介はまだ元気で息子の嫁・颯子の足に異常な執着をみせ魅せられていく。タイトルの「瘋癲」は、精神状態が正常でない人という意味だから、督介は颯子に翻弄されることで生きる実感を得、生きる希望を見出しているようだ。一方、颯子は美しく小悪魔的で、男を翻弄することに長けており督介にまとわりついては欲しいものをねだる。まさに瘋癲老人と蠱惑女性の織りなす喜劇。
公演の面白さは、原作の小説や映画化された映像と一線を画す演劇的と思われる演出手法だと思う。颯子という1人の女性の多角的な面を5人の女性に演じさせることで、1人の女性の内面の違いを鮮明に際立たせ、一方、外見の違いは誰しもが持っている性癖なのではないかと想像させる。もちろん戯曲として原作の面白さを十分引き出し描いている。同時に演劇ならではの健康的なエロチシズムで魅せるダンスなどサービス精神も好い。蒼然となりそうな原作の偏執的部分をクローズアップさせ、人間が持つ性癖的な部分を現代的に描いたように思える。
人間、死の淵にあっても性欲は疼くのか、死んでもなお自分の骨を踏みしめさせることで女を支配しようとする。もちろん観せる場面は、颯子の足を舐める変態的なところ。この件は、視覚ではなく自分の妄想に浸れる原作、その偏執的描き方が面白いかも...。
公演でもその見せ場はしっかり観せるが、何故か厭らしさと言うよりは滑稽さを感じてしまう。もはや直接的な欲望ではなく精神的な安息を求めているようだ。それゆえ母や乳母などが登場する。人は死ぬ間際に”人間人生のすべての場面が走馬灯のように目に映る”という話を聞くが、まさしく颯子を通して関わった女性...脚の美しい踊り子、男を支配する悪女、慈愛に満ちた菩薩、記憶の中の母親が次々と現れる。
公演は老人・督介を演じた近童弐吉サンの怪演が素晴らしい。ほぼ素舞台であるにも関わらず、俳優陣の演技力によって狂態の世界観を表出している。そして衣装、傘などの小物使いも巧みだ。督介の衣装は和服、颯子は喪服の黒、妖艶な赤い服、看護服の白といった原色で場面印象を際立たせる。同一服による同一人物を演出しながら、颯子という女性、1役5人の女優による連携演技で人間の多面性を浮き上がらせる見事な公演であった。
次回公演も楽しみにしております。
木立によせて
芸術集団れんこんきすた
新中野ワニズホール ( Waniz Hall )(東京都)
2019/10/04 (金) ~ 2019/10/06 (日)公演終了
満足度★★★★
本公演は第1部、第2部あわせて上演時間2時間30分(途中休憩15分)、その時間もさることながら、内容的に”学び”を通して人間讃歌を高らかに謳った力作。久しぶりに拝見した 芸術集団れんこんきすた公演は、第1部の1910年代の先生と生徒の相互の視点、第2部の1920年代の先生の変化した観点と生徒の思いを全編通じて抒情豊かに描いている。それを役者陣が熱演をもって観(魅)せてくれる。
この公演は、観劇後に観客が金額を決める言い値公演となっており、「本当に観て良かった」と思ってもらうための作品作り、妥協なく創り上げるための挑戦でもあると。
素晴らしい公演であることを前提に、卑小とは思いつつも少し気になったところが...。
ネタバレBOX
第1部「ポプラの淡き翼」、第2部「白樺のいたむ瞳」で、舞台セットは基本的に同じ。上手側に木のベンチ。1部と2部のセットの違いは、新緑と冬の枯れ木、2部には下手側に椅子が1つ置かれる。気になるのは舞台となるのが、キルギスの田舎村であるが、後景はチラシの絵柄と違い鉄扉で鉄鋲もある。広大な放牧地帯のような台詞に似つかわしくない。後景の工夫が難しいようであれば暗幕にしてはどうか。
第1部「ポプラの淡き翼」
キルギスの田舎村。そこに住んでいるロシアから来た女性オリガと村の少年ジェイシェンとの交流から物語は始まる。待ち合わせの場所に遅れてくる少年を叱る先生。約束の時間を守らない事+嘘の言い訳をすることを叱っている。何気ない会話の中に村の事情と少年の心情が次々と語られる。第1部は大括りに3話で構成されている。先生の観点から①少年の無知・無恥振り、土産と称し牛馬の糞を持ってきて、その効用と効率的な労作業への疑問と提案に驚き(12歳前後)、②知識(読み書き計算など)を付けるが、驕り真に活かされていないことへの諭し(15歳)、③村を出て国(ロシア)のため戦場へ行く(18歳)。自分で認めた信念であるが、教師は戦場へ行くことの無意味さを説くが…。
最後は、戦場での恐怖に耐えながら書いた先生への手紙-学んだ結果、戦場という死地にいることへの後悔。学ばなければよかったと…。手紙を読んだ先生の哀しみ、慟哭が痛ましい。
第2部
1部から10年あまり後の話。村の少女アルティナイは結婚の条件として読み書きと計算の習得を言われていた。そこでオリガに教わることになるが。冒頭オリガが約束の時間に遅れてくる。1部と逆の展開であるが、ここにオリガの今の心境が描かれる。ジェイシェンの死は、教えることの空しさ、もしくは恐れを抱いたかもしれない。しかし少女の学ぶ熱意、姿勢に絆され教え始めるが…。第2婦人として40歳以上も年上の男と結婚、その見返りが羊1頭というもの。そこに当時のキルギスの貧富格差、さらにはロシアへの従属という事情が浮き彫りになる。少女は誓う...学びの証として自分が出来ることは、幸せに生きること。ラスト、共に学んだ生徒としてジェイシェンの手紙の真意が分かるという。”学ぶ”ことの意義、人生を豊かに暮らすための人間讃歌が語られる。当時のキルギスの女性たちに課せられた運命、選択肢のない生き方。しかしアルティナイにとって先生の教えにより、彼女は学問を通して生きる価値を見出すという感動作。
1部・2部に共通しているのは、学びは人生を切り開くすべを示唆し、切ない結末でも「希望」を持てば可能性は残されている。人生は未来があれば耐えられる、かもしれない。「希望」という言葉に象徴されるような結末、実に観応えがあった。主題は「学び」であるが、その対としての「教え」の無意識な傲慢さも垣間見せる。例えば、ジェイシェンに教えた言葉はロシア語であるが、本来であればキルギス語ではないか。当時キルギスはロシアの属国であり、「教え」にも その地の文化や風習・習慣を無意識に無視することもある、そんな皮肉が込められているようだ。
さて、物語は1部2部を通して面白さが倍加する。しかし第1部だけでも完結できそうな展開なのに対し、2部は1部の救いの物語で、インパクトが弱いように思う。確かに虐げられ何もかも奪われていく中で、学んだこと-読み書き、計算は自分の頭に吸収、蓄積し奪われることはない、という台詞には胸が締め付けられる。しかし、1部の12歳頃から18歳迄の時間軸のある”学び”、外見的な変化(例えば風貌、衣装)などは劇的な観せ方をする。2部は結婚までの期間であり外見的な変化は見られない。物語は少年、少女の置かれた立場や境遇という心象劇であるが、それでも2つの話の流れの印象・インパクトに差があったように思えたのが少し残念。
次回公演も楽しみにしております。
糸瓜咲け
URAZARU
上野ストアハウス(東京都)
2019/10/02 (水) ~ 2019/10/08 (火)公演終了
満足度★★★★★
正岡子規の24歳から亡くなる35歳までを、彼を支えた家族や交友関係を通して描いた力作。子規(ノボさん)の生への執着や言葉との格闘という内面の掘り下げ、友達への羨望という人間臭さを観せることによって、”人間 正岡子規”が立ち上がってくる。劇中ではノボさんと呼ぶことで、少し距離ある人物を身近、親しみに感じさせるあたりが上手い。
(上演時間2時間5分)
ネタバレBOX
舞台セットは子規庵のイメージであろうか。和室・畳に縁側、奥の襖戸を開けると格子を通して玄関が見える。その部屋に文机。下手側には庭があり糸瓜、紅葉した葉、新緑の葉や花々が咲いている。そこには四季が見える。この狭い空間が正岡子規の行動範囲であるが、彼が思い描いている世界観は遥かに広い。目に見える実際の空間に対して、彼の心的空間の広がりの対比を演出しているようだ。
物語は子規24歳から35歳までの人生を順々と描いており、奇を衒わず実生活を通して彼の生き様を魅せる重厚な作品だ。冒頭は、子規の妹・律がストーリーテラーのように、伊予弁で場所や年代、登場人物を紹介するように始まる。これによって一瞬のうちに時代設定や家族・交友関係が分かる。そして客観的な観点として、闇鍋を通して人柄なり親交振りを表す。一方、子規自身は学者にも軍人にもなれず、小説家として生きて行こうと決意。その小説「月の都」の批評を夏目漱石、さらには子規本人が幸田露伴から聞いたことを述べる。批評は、子規の書きたい思い、その芯というか真がなく、単に文章を飾っているだけという辛辣なもの。以降、詩人として生きて行こうとする心情過程が実に丁寧に描かれる。その間に好きな野球のエピソードや従軍記者になれた喜びなどが語られ、その人柄なりを活写するような演出は上手い。
一方、彼の人生は、結核や脊椎カリエスという病魔との闘いでもあった。それを家族の関係、支えとして描いている。妹・律の買い物、カリエスへの処置等を通して、いかに家族の献身的な支えがなければ、彼の偉業は達せられなかったことか。献身的介護をしても、病人の側からすれば不服もあった。身勝手なようだが、彼も耐え難い痛みと、一切の自由が効かぬ体に苛立っている。病になる前は、野球を愛するなど快活だった子規だからこそ悔しい思い。それは「病牀六尺」という台詞に表れている。しかし彼も介護は律しか出来ないことを知っている。他に代わることのできない事を偉業というのであれば、律の介護はまさにそれである。律と同じように誰かの支えとなっている、それは現代にも通じる、いや介護が声高に叫ばれている現代だからこそ大切な事と思える。しっかり現代性に合わせるところは巧みだ。
交友関係では、夏目漱石がイギリスへ、秋山真之がアメリカへと旅立つが、自分は外国どころかこの庵から出ることが出来ない。その もどかしさが切々と伝わる。しかし子規は言う、この庭には草花...自然があり森羅万象。ここに舞台セットの四季の意味があるようだ。その胸の内にある世界観を俳句や短歌として残したい。もっと生きたい、その切実な思いが鬼気迫るように描かれる。知らなかった”人間 正岡子規”を感じられた素晴らしい公演であった。
もちろん、役者陣の演技力があっての芝居であることは言うまでもない。
次回公演を楽しみにしております。
『GUNMAN JILL 』&『GUNMAN JILL 2』
チームまん○(まんまる)
萬劇場(東京都)
2019/10/03 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
下ネタで笑いを誘いつつ、根底は愛情に溢れ、ちょっぴり社会批判するような内容。当日パンフのあいさつ文の中で、チームまん〇代表の小山太郎氏が「提唱する不快感のない下ネタがきちんと構築され」と記しているが、その通りだと思う。
劇中のS&M対決を通して、人の本性を哲学的に語るが、視覚的に描かれているのは西部劇。劇中のS&Mとは意味が違うが、(S)素晴らしい(M)物語であった。
(上演時間1時間45分)「GUNMAN JILL」編
ネタバレBOX
舞台セットが物語を支えていると言っても過言ではない。上手側に車輪と樽による酒場席、中央にこの町の名「COWPER TOWN」ゲートと酒場入口、下手側は2階部を設え、1階は出入口、2階は遠距離場所イメージ。そして店入口傍にBarカウンター(ボトル棚)がある。
梗概…凄腕ガンマンのジルリキッドはこの町を守るためにやってきた。街の護衛に雇われたゴールドマン一家の早撃ちガンマン、Sのクリトスと対峙する。ジルのドMっぷりには、依頼者・市長の娘アナベラもうんざりしている。しかし逆にジルはいたぶられるほどに強くなる。そしてこの2人の勝負が始まるが…。ジルのM(マゾ)持論は、いたぶられる=ガマンすることは人間を強くする。それは拳銃の早撃ち効果だけではなく、人間としての思いやり、愛情の表れでもある。アナベラだけではなく、この店の女達にも蹴られ殴られるほど、早撃ちが出来る。ジルがドM性癖を指摘し、クリトスが自問自答する姿も滑稽だ。この遣り取りの中で、自分は3.11東日本大震災のことを思い返した。ゴールドマン一家の強欲、そのボスに拾われ育てられたクリトスに、ジルは物質的に乏しくなったことや、痛みや悲しみを忘れ豊かさだけを求めている。あの時の”我慢”をすっかり忘れてしまっている、に深く感じ入った。
公演の面白さは、スピード感、テンポの良さにある。ドMの力を発揮させるための平手打ち等に連動した拳銃さばき。400ḿ先は2階部でイメージさせ、早撃ちスタイル⇒銃声⇒命中⇒倒れるの演出・演技のタイミングも絶妙だ。また痛みを感じない薬、それによって最強一家を作ることを目論む。その危険性を鋭く批判するような啓蒙的な描き方。身近には薬物中毒、その延長線上にある軍事転用(連射銃等の武器開発を含む)の恐ろしさが伝わる。さらにBarで働く娘シリルに厳しく当たるマスターの心遣い(娼婦にさせない)など、いろいろな愛・情を盛り込んだ表層的な西部劇、根底は人間ドラマである。
この物語は、凄腕ガンマン・ジルの活躍を新聞記者とカメラマンが後に取材しているという記録と記憶の劇中劇という構成になっている。それゆえ時間というか時代の違いから、西部劇の登場人物と新聞記者は同地しないような描き方になっている。だから物語が順々に展開し分かり易く観せているところが上手い。
さて、チームまん〇は「下ネタは世界を救う」を基本理念に掲げ制作している。本作は役名や台詞で下ネタを連想させており、台詞としては喋り難いことを サラッと言い笑いを誘う。脚本はもちろんだが、この笑い台詞とアクションが公演の最大の魅力だと思う。
次回公演を楽しみにしております。
三十と十五の私
神保町花月
神保町花月(東京都)
2019/09/26 (木) ~ 2019/09/30 (月)公演終了
満足度★★★★
タイトル通りの30歳と15歳の私が、時を往還しその年齢における女性の心情という視点で描いた秀作。夢見る15歳の少女、焦燥・苛立つ感情があらわになる30歳女性。その間の15年間の経過を語ることなく、思春期と自立期の対比として観せる。そして15歳のある事をきっかけに物語は進展するが…。実は物語に人生の節目、選択における「たら れば(サブリミナル効果?のような)」も刷り込んでくる巧みな演出だ。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
舞台美術は収納Boxを組み合わせ、上手・中央・下手側の壁際に配置し、中央にテーブルがあるだけのシンプルなもの。Box内には固定電話や小物が飾られている。セットによって時代間隔や学校・家庭という固定観念を抱かせないよう、あえて機能的な造作にしていると思われる。
主人公・エナ(西田さおりサン)は15歳で妊娠、その処置をめぐる女友達の言動。また、その事実を知った彼氏・時夫の態度・行動が表層的に描かれる。女友達は親身のようで、他人事のようである。彼氏は中絶前提の行動。現実的なものの考え方なのだろうか。時の流れは、もちろん衣装などで一目瞭然であるが、些細であるが携帯電話・スマホの違いなど台詞にも表れている。
時を経て、30歳のエナ。会社をクビになり実家に帰ってきているところに同窓会の案内が...。過去の出来事と現在の心境が混じり苛立つ。髪の毛を掻き毟る、物(ダンボール)を投げる、椅子を蹴るなど、その激しい行為(表現)に胸が痛む。友達関係も上辺だけなのか、あまり会いたくないと思う気持ちも垣間見える。観たら感じられる表現も文章にするのが難しい。そんな女性の心の内を描くのは上手い。女友達の結婚話、中学時代の影の薄い友人、夜逃げした中学時代の親友、継母、母の連れ子(弟)の関係など盛り沢山のエピソードを散りばめ面白可笑しく観せる。
人生に「もし、あの時に戻れたら」という思いも描く。中絶した現在の在り様、子供を生んだ人生がどうだったのか...こちらも幸せそうに描いている。何気なく挿入される別人生。少し違和感も感じるが、中学生のエナと中学生のカナが同じ時代(同時に登場しないが)に生きているような、そこに母娘の親和性を抱かせるような不思議感覚がある。さてエナの15年の時を隔てた自分との邂逅、別の選択をした場合の夢想...その両方の描きはハッピーエンド。そこは作・演出の梨澤慧以子女史の優しさの現れであろう。
テンポが良いことから心地良く観ることができる。一方、その流れるように観えることが、インパクトある出来事の割りには印象が薄い。やはり登場人物が皆善人なんだろうか。30歳という若さに少し翳りの見えた年齢...15歳の時からすれば30歳女性は大人だと...しかし、そこには未経験という錯覚がある。これはこの先40歳、50歳も同様かも。
次回公演も楽しみにしております。
絵師 松蔭堂
Project JUVENILE
中板橋 新生館スタジオ(東京都)
2019/09/25 (水) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★
公演の魅力は、大正時代と絵師というあまり観られない設定の中にミステリー風の物語を紡ごうとしているところ。それは舞台美術や衣装などで表し、ミステリーは活動(映画)屋や風鈴屋の存在や妖しげな風貌で魅せる。
しかし、物語にひねりがなく直截的な描きになっているため、時代設定や絵師という職業を活かしきれていないところが残念だ。せっかく舞台美術などで雰囲気を出しているのに、その演出効果を十分に活用できていないのが勿体ない。
(上演時間1時間40分) 【桜花チーム】
ネタバレBOX
舞台セットはそれほど広くない劇場にもかかわらず、上手側に2畳+縁側の部屋を設え、和箪笥、障子戸を配置し、さらに外には桜の樹があり和空間を演出している。下手側には縁台らしきものが1つ置かれている。登場人物は大正という時代や職業を意識した衣装であり、男女とも洋装や和装姿、そして絵師らしい格好、夜鷹の色香ある着物姿など見る楽しさ。さらに風鈴屋の顔のタトゥーペイントなど観(魅)せ方に工夫や凝らしがある。
梗概は説明にあるが、絵師を生業とする室谷松蔭は「平穏」を題目にした絵を描けずにいた。そんな時、松蔭は疎遠になっていた旧友、江崎兼光の妻 詩子の訃報を耳にする。兼光の見舞いに訪れた松蔭が、その姿に違和感を覚え、共通の悪友である面屋と探りを入れると…。日本の信仰で知られる「百度参り」。その信仰を物語の中に取り入れ、風鈴を100個集め亡くなった妻を蘇らせるという祈願をミステリー風に描く。ラスト、それを桜の樹との関わりで印象的に魅せる。
また 八重との かくれんぼ 遊びを通して無垢・無邪気さ、一方神隠し・誘拐などにあうとの言い伝えを場面場面に落とし込む。それによって物語に妖しさを漂わせようと試みている。
物語の雰囲気作りが優先し、話にひねりがなく奥行きが感じられないのが残念。もう少し展開にメリハリと意外性があると物語に引き込まれ観応えがあったと思う。
一方、人の優しさ、愛情、愛するがゆえに歪んだ行為など、人に背負わせた心情の設定は上手い。そして知恵遅れと思われる八重を通して、人はそれでも生きて行こうとする光明を見せるようで...。演出・舞台美術と脚本に良い悪いの差があり過ぎて、もう少し公演全体の上方バランスに工夫が必要だろう。
次回公演を楽しみにしております。
ラッキーガール、ノッキングループ
ソラカメ
中野スタジオあくとれ(東京都)
2019/09/21 (土) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★
「ソラカメ初のプチロングラン公演に挑戦いたします。」という謳い文句の公演、実に面白かった。
誰かの書評に純文学作家と大衆作家の違いは、純文学作家は「自らの業」を掘り下げて共感を集め、大衆作家は「他人のエピソード」を面白く書き読者を喜ばせるとあった。
この公演は、7人の女性の小学生時代から30歳になるくらい迄を描いた少し時間軸が長い作品である。その中で「個々人の業」と「他人の噂話」で少しづつ軋んでいく関係を実に上手く表現した「中間小説」ならぬ「中間演劇」のように思える。
(上演時間1時間45分)
ネタバレBOX
公演の魅力は、表現し難い微妙な心の変化、それを7人の女性の多感な時期を経た関係性の中で具象化しているところ。心の荒みは冒頭の舞台セットに表れており、同じ荒みが中学の同窓会後、部屋に集まって飲酒している時の光景に見られる。舞台美術や照明(夜明け等の時間経過を照明の諧調)といった舞台技術で心象を描くところは巧い。
冒頭は、この部屋の引っ越しシーンから始まる。舞台は6畳一間に押入れ、上手側に窓と白いカーテン。テーブルの上にビールの空き缶、畳の上に本や服が散乱している。窓の傍には蒲団が積まれている。物語が進むにつれて、この乱雑さが心の在りようを表していることが解ってくる。
物語は、地方都市のしがらみや閉鎖性を背景に、親の離婚による家庭環境の変化や母の同棲相手による暴力を思わせる行為で、彼女達の心を浮き上がらせていく。本人の成長とともに友人関係にも変化が生じていく。自我の形成、意識の変化といった本人のことと同時に、(母)親たちのちょっとした意地悪な言動、噂話が子供の心に動揺や不信を与え、友人関係にも影響を及ぼすという負の感情連鎖を描く。彼女達の成長を通して見えてくる不寛容な社会に息苦しさを覚える。
物語は小学、中学、高校、大学生・社会人といった期間別に、部活、進路、恋愛などその時期に話題になりそうな事柄を織り込みながら、関係性が歪んでいく様を実に上手く表現する。例えば小学生の頃は友達の家でお泊り、そして扇風機に全員が重なるように向く。しかし中学、高校になるにしたがい風見鶏のように都度立場を変え、または無視したり悪評を流すなど歪になると7人が揃って登場することがない。仲の良いグループだけの集まり、または嘘や誤魔化しで表面を取り繕う姿をしっかり見せてくる。誰もがピリピリし他人を許さない、そんなこわばった雰囲気を漂わす。何か特異な事件・出来事を描くのではなく、身近でありそうな暮らしや関係性だけに身につまされる。だけどいつの時代でもありそうな事、そこで何を汲み取るかは観客それぞれだろう。
役者はそれぞれのキャラクターを立ち上げ、表情も豊か。お泊りシーンなどは女子会(普段の「ソラカメ」活動?)を覗き見ているような楽しさがあった。それが徐々に表情が険しくなり、責任を押しつけ罵り合うシーンなどは圧巻だ。その意味で劇的にはバランス良く演じている。また女優陣の中で唯一の男優で、不穏さを漂わせている山下(松本哲也サン)の存在はインパクトがあった。当日パンフで作・演出の岡本苑夏女史が「女が集まると大概面倒くさいのだ---女ばかりの話。原点回帰。」とあったが、まさにその姿を観せていた。
次回公演も楽しみにしております。
国粋主義者のための戦争寓話
ハツビロコウ
小劇場 楽園(東京都)
2019/09/24 (火) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
戦争という事実に伝承という土俗的な内容を挿入させて、人の疑心暗鬼を誘い狂気を浮き彫りにするような公演。タイトルにある「国粋」の対象は…。物語は、戦争という極限状態、山奥・山里という限定空間、目的遂行までの時間制限など、選択余裕のない状況下を設定し、人間の精神・心理を激しく揺さぶる。まさしく戦争という不条理劇。その緊張感や緊迫感がリアルに迫ってくる、実に観応えのある公演だ。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
舞台セットはベット大の箱、そこも含め床一面に藁。別に置台に破れた日の丸国旗がある。全体的に薄暗く、山奥という雰囲気を漂わすと同時に得体のしれない不気味さを表す。そして時に照明を暗転し懐中電灯を照らし、何かが鳴り軋むような音響が緊張感をもたらす。また箱への上り下りが躍動感を生んでいた。
物語は終戦間際の8月上旬の約10日間を描いているようだ。冒頭シーンの日こそ分からないが、それ以外は広島原爆投下、長崎原爆投下そして終戦を知らせる無線傍受という台詞から日の経過を知ることが出来る。
米軍機の攻撃に対してロケット式軍機で迎撃する作戦(キ203号)を立案し、その秘密基地へ向かうが先遣隊が忽然と消えて…。先遣隊が消えた原因を探るというミステリー仕立て、そして山奥にある自称、平家落人村の魔物(蛇女)伝説というサスペンス風な観せ方は、戦時中と相俟って一層緊迫感を生む。この地から縄文時代の鏃などが発見され、遥か昔から人が住んでいたらしい。
さて「国粋」主義者の論議。
1つは主人公の龍巳少尉(草彅智文サン)と先遣隊指揮官であり少尉の兄である龍巳大尉(松本光生サン)の言い争いに集約される。少尉の青年将校らしい 皇室皇統の「万世一系」は至上の価値であり、日本国は優れた特別な存在と言い、大尉はそれより以前に居た人間、その先住民こそが真の日本人だと言う。国家存亡の危機という現在(戦時中)、そして縄文時代という過去を掘り返し「国粋」を土着順といったことで議論する滑稽さ。
2つ目の「国粋」は情報、世論、風潮といった見えざる手といったことだろうか。蛇女伝説は、橋を渡った先で美女に化けた蛇が甘言を弄し不用心になった人を食ってしまい、骨で山が出来ているというもの。終戦間際らしく、軍司令部の統制は不能に陥り、情報は虚実綯い交ぜになり正常な思考が出来ない。その見えざるものに飲み込まれている様はまさに蛇女伝説そのもの。そこに戦死者の山を連想してしまう。無謀な戦意に煽られ雰囲気に流されそれに慣らされてしまう怖ろしさ。
また兄弟には白痴妹(登場しない)がいたが、今は亡ない。何かと手に負えないことから集団強姦を仕組んだ結果…。この負い目がフラッシュバックし、さらに少尉の精神状態を追い詰めるという色々な要素を盛り込んでいる。
役者陣は、まず坊主頭、軍服姿という外見で観せる。そして緊迫した状況下における精神状態、軍隊という階級社会の中での立場・言動を実に上手く表現している。そこには戦場未体験者の将校(少尉)と戦地を転々とした兵士の理屈を超えた説得力。現場を知らない上官という悲哀と虚勢、そこに見るアイロニーが悲喜劇のように思える。そして時季的に蝉の鳴き声が騒がしいほどの音響であるが、蝉に掛けて「(少尉の)今だ空を飛ばず、地面を這いずり回る」という言葉が端的に精神状態を表す、実に見事な公演であった。
次回公演も楽しみにしております。
リタ・ジョーのよろこび
劇団俳小
d-倉庫(東京都)
2019/09/21 (土) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★
自分は、文明その利便性の中で暮らしており、社会システムに組み込まれ規範に従い行動をする、それが当たり前という感覚にある。その感覚は、物語における一方の視座であり常識である。しかし物語に登場する先住民(ネイティブ)にとっての常識ではなく、文化等の違いによって常識が非常識になるかのようだ。”文明(文化も含む?)”という語彙からするとすぐに利便性を連想するが、そもそも文明は農耕での食糧生産とそこから生まれる余剰農作物が前提だったことを思えば、この物語は常識・非常識も含めた大きな対立ではなく、どこかで行き違った人間の感情、意識、その延長線上の社会組織等々を描き出しているような気がするのだが…。
同時に今、世界的な問題になっている環境についても考えさせる秀作。
(上演時間2時間10分 途中休憩15分)
ネタバレBOX
舞台美術は、判事席の椅子を除けばすべて木(廃)材による造作。この劇場の特長を生かした高さ、2階部を設えることによって場所・時間の遠隔感(故郷と町・過去と現在)と物語を俯瞰的に観るといった構図を演出する。上手側には滑り台状の可動台座のようなもの、中央下手寄りに判事席、下手側には別スペースを思わせる立方型木材。木(廃)材は人の温もりと同時に、先住民が暮らす自然豊かな土地、年代を表しているようだ。
梗概…冒頭の法廷シーン、この場所空間における被告であり主人公のリタ・ジョーの回想が次々と展開していく。それは故郷での懐かしい日々や町に来てからの酷くみじめな暮らしが描き出される。そして判事に(白人)社会の規範を諭されてもリタには罪の意識が目覚めない。文明社会の価値観がそれまで生きてきた先住民たちの価値観と違うから。
物語は、まず先住民と判事を代表格とした白人社会の文明の違いなどによる対立や批判を直截的に描き牽引していく。その印象的な台詞が、白人による宗教と絡めた教え諭しの後に残ったのは、土地と引き換えた聖書。口巧みに土地を収奪する、そこに白人の狡猾さを描く。さらに土地だけではなくもっと大事なものも奪われたと…。しかし何でもかんでも白人=資本主義の悪として描いている訳ではなく、そこに潜む功罪と人の知徳を伝えるところに見所の1つがある。主人公リタの父(酋長)は、自分の後継者には大学を卒業し教養ある人物をと願っている。従来通り、自然とともに暮らしていくことへの危惧も懐いている。それ故か、父として娘を絶対連れて帰るのではなく、町で暮らす自由意思を認めている。
また先住民と白人の対立だけではなく、先住民の世代間(酋長とリタやジェイミーなど)の考え方の相違なども絡める。故郷ではなく町で働き暮らしたい、故郷は自然は豊かだが暮らしが成り立たない停滞感、閉塞感を激白させる。ここに人間としての本音も見えてくる。
さらに先住民=自然と考えれば、そこには世界的な課題となっている環境問題が垣間見えてくる。既に手に入れた利便性は手放せない、一方文明の始まりと言える自然と共に歩んできた収穫、その根幹が揺らぎ始めていることへの警鐘。公演は人種的な対立を思わせる社会批判ドラマであり、先住民を通しての世代間ギャップ、若者の衝動的とも思えるようなエネルギーに人間ドラマ、さらには環境問題を示唆するといった重層的な描き方。それを歌や(太鼓)楽器を用いリリカルに表現している。
さて、町に暮らす象徴場面としてベットを運び入れる。確かに部屋の狭隘感は出ているが、シーン時間としては短いわりには手間がかかる配置。卑小と思いつつも必要な運び入れだったのだろうかと疑問。とは言え、全体的に脚本はもちろん演出、演技とも観応え十分。
次回公演も楽しみにしております。
スリーアウト〜サヨナラ篇〜
ドルミ
新宿シアターモリエール(東京都)
2019/09/14 (土) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★
物語の根底にある”優しさ”は良かったが、それを表現するには力不足に思えた。
(上演時間1時間30分)
ネタバレBOX
段差を設けただけの素舞台。それだけに演技力で風景や状況・情況を表現する必要があるが、それが十分に出来ていない。
梗概は、女子高・新聞部のネタ探しから、自分たちの高校の女子野球部が地区予選を突破して全国大会出場することが分かり、取材することにした。その野球部の内実は、他の部活部員の兼部で何とか9人揃え不戦勝で...。新聞部の取材時に野球部監督が嘘をついたことから起こるドタバタコメディといった内容。監督の母親の美談的な話が公演の伝えたいテーマのようだが、役者陣の経験不足のため優しさ温かさが十分表現しきれていない。台詞の噛みや会話の間の悪さなど、残念なシーンが散見された。
物語のエアホームランなどは、優しさを思わせる。一方真剣に女子野球に取り組んでいるスポーツウーマンに失礼ではないのだろうか、などは余計な心配か?
この公演は、演劇部員が野球部へ入(兼)部するという結末だが、自分は「野球部員、演劇の舞台に立つ!」を少し連想した。こちらは、女子だけの演劇部に事情があって男子野球部員が応援入部するというもの。そこには、“本気”で向かい合った演劇部と野球部、そしてそれぞれの部の顧問と監督の思いがあった。
本作では監督の母親が、生徒たちに自信や勇気を持たせるという感動を、台詞だけで伝えようとしている。出来れば冗長と思われるシーンをカットし、その代わりに”本気”の感動的なシーンを挿入し物語に厚みある情感を持たせる工夫や表現があればと思った。
次回公演を楽しみにしております。
さるみ、一人舞台 はじめます。
猿美企画
Route Theater/ルートシアター(東京都)
2019/09/21 (土) ~ 2019/09/22 (日)公演終了
満足度★★
【第31回池袋演劇祭参加公演】
一人芝居としていくつかの演劇スタイルを試演(入場無料も含め)するような印象。当日パンフに「私は足掻き続ける。」とあるが、まさしく表情を誇張するために変顔を作り、色々な動作を観せるため肢体を駆使した姿態が足掻いているようだ。一生懸命に演じているが、何となく空回りしているような…。
(上演時間1時間)
ネタバレBOX
舞台上には姿見、化粧品等の小物だけのほぼ素舞台。プロローグは下手側に寝ているが、蚊(羽音)が気になって眠れない様子。エピローグは逆に上手側で同じような仕草で、演劇パターンではよく見かけるもの。
①ワタシダ サイコ 35才
●モノローグ~自分が恋愛や結婚などで、世間的に言われる学歴・年収などの条件ではなく、愛を重視した結果、婚期を逸しているような理由を独白する。
●ダイアローグ~結婚を意識し、出会いを求めて結婚相談所へ出向き、それらしい相手を紹介してもらう。その相手との見合いでのニ役ひとり会話。
自身と同年代の女性の露な仕草であろうか。それゆえ無理のない自然体の姿が見える。まさしく自分の等身大範囲であるから心情表現も納得できる。
②翼をください(もちろんソロ)
次の演目への繋ぎ。そして洋服の背中ファスナーを開けたまま外出していたことへの羞恥、背中と翼を掛け合わせ、さらに自分自身を飛躍させる意味での歌であろうか。
③「一人舞台」(アウグスト ストリンドベリ作 森鴎外訳)
登場人物は2人だが、タイトルは「一人舞台」。どこかの外国の婦人が召使と夫との関係を疑っているような展開だが、実は2人とも劇中でのライバル女優のようでもある。1人が一方的に喋り、心情を吐露するような展開。実はこの「一人舞台」の内容が解らず、この短編戯曲を十分表現できていたのか。しっかり自分なりに取り込んだ芝居であろうか。何となく喋っているだけで、内容はもちろん人物像も見えてこない。この演目を選んだ意図に疑問が…。
既に記したが、モノローグ、ダイアローグ、歌、翻訳劇(一人芝居)といった演劇スタイルを試みている。先に記した「私は足掻き続ける」の前には「愚かな自分を隠し、年齢や環境を言い訳にして、悟った気でいて何もせずに終わるのはもっといやだ」と。とにかくやってみる、という心意気の公演であった。
「あなたの」「明日見た笑顔」
しみくれ
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2019/09/18 (水) ~ 2019/09/22 (日)公演終了
満足度★★★★
「あなたの」観劇。
ストーリーというよりはシーンに重きを置いたような公演。とは言っても物語としては、日常に見られる思いやりが、時として誤解、勘違いもしくは行き違いなどで相手を傷つけることがある、そんなちょっとした人間関係の機微を面白悲しく描いた好公演。
公演は、以前の作品「明日見た笑顔」をリニューアルしての再演と「ココロノカタチ」とは違ったリンクのさせ方の新作「あなたの」の2本。時間があれば「明日見た笑顔」も観たかった。
(上演時間1時間40分)
ネタバレBOX
客席は対面、自分は入口側に座った。その位置から上手側に公園であろうか、白いベンチと男・女トイレの衝立。中央に(ラブホテル)ベット、下手側に同棲している部屋を思わせる四角いスペース。その前に簡易なゲージが立っている。それぞれはシンプルな作りであるが、物語の構成と展開には優れた造作だと思う。3場面の同時進行(もちろん、照明で主シーンは分かる)は、それぞれが奇妙な繋がりがあること。それまで分割したシーンとして観ていた観客は、少しずつ登場人物の関係性が分かってくる。登場人物全員に直接的な繋がりを持たせることなく、間接的な繋がりを見せることによって、無理のない現実感を表現している。
物語への誘引が実に巧い。冒頭の同棲しているアベックの刃傷沙汰かと思わせておきながら...。一瞬にして狂気の世界観を演出し、その後、日常に見られるような場面を3分割した舞台で断続的に観せる。どの場面の登場人物がこの場面で繋がり関係性を持つという自分の思考を巡らせる。ちなみに繋がりのキーワードは「愛」と「金」だろうか?
ストーリーを追うというよりは、シーンを楽しみながらストーリが おぼろげに解ってくる。そこに公演の面白さの真骨頂を観るようだ。冒頭の狂気なシーンは、それ以降に展開するシーンを少し歪んだ世界観、そんな感覚を観客に持たせ、公演全体の雰囲気を支配する演出は巧みだ。
役者の演技とバランスは良い。同時に分割している舞台で照明を照射した主シーンと薄暗く暗転しているシーンでも細かい演技をするなど同時進行を思わせる。そこに日常生活における時間の分断はなく、絶えずどこかで会話が行われ、人が生きていることを思わせる。その会話に潜むもしくは漏れる歪んだ感情が、相手に不安や不信などの思いを与える。紙面に表すことが難しい感情、機微といったことを舞台上で上手く表現しており、観応え十分であった。
次回公演を楽しみにしております。
わたしは…
ソラミミ
北池袋 新生館シアター(東京都)
2019/09/13 (金) ~ 2019/09/16 (月)公演終了
満足度★★★
チラシには、「3人の出会いと回復のお話」とあるが、自分は説明文の「少女は人生の荒野を目指す。」から、五木寛之の小説「青年は荒野をめざす」を連想した。もっともそのスケールと世界観は異なる。しかし何となく”自立”という人間の成長過程を描いているようで興味深かった。そして自立は各人のことを示す。また小説ではジャズ音楽であったが、本公演は劇中音楽として生演奏という手法で見聞きさせる。
物語は父親と思春期の娘を通して、立場や経験その思いが空回りし上手く相手に伝えらない。そんな苛立ちもどかしさ、逆に押し付けに感じる意識の違いが、素直に描かれる。
この作品はソラミミの旗揚げ公演、そして第31回池袋演劇祭参加作品である。その意味で人生の荒野ならぬ劇団の挑戦のようでもあるが…。
(上演時間50分)
ネタバレBOX
セットは演技スペースにキューブが3つ。中央奥に1つと客席寄りの上手・下手側に各1つ置き動かすことはしない。ほぼ素舞台、役者の演技力で情景と情況を紡ぎ出す。演技スペースの奥に一段高くしたところに楽器が置かれている。
登場人物は3人。そのバックボーン的なことは説明文にある。補足すれば、少女は中学1年生で体操クラブに通わされている。父親はPTA会長等、娘に関わる組織の要職にある。この2人は父子家庭で母親はいない。ホームレスにはかつて家族がおり娘も...。
この3者が絡んだ物語であるが、個々人の悩みや強要(教養ではない)行為は表層的で演技を眺めている感覚だ。といって演技力が劣っている訳ではなく、何となくニュース等で見聞きした事を人物に語らせて繋いでいるようで新鮮味がない。味わいがあるとすれば、ホームレスとの絡みであるが、中学1年生の少女がホームレスに喋りかけるか?その意識下に蔑み見下し、興味本位はなかったのだろうか?という疑問もある。
演技はキューブを立ち位置とし、それぞれが行き来したり歩き回っている。その空間がご近所であり公園を思わせる。少女という設定が、行動範囲を限定させ空間的広がりが感じさせられないところが残念だ。また家庭内という2人空間が出現しきれていないとも思う。1人ひとりに背負わせた悩み・問題は、親という名の怪物プレッシャー、世間という名の無情・非情プレッシャーのようだ。その問題の提示は身近で興味深く、それを表層的ではなく十分に際立たせた展開に出来れば良かった。
演出は、もちろん生演奏の効果であろう。音響機材を用いてもよいが、いくつかの理由で好感をもった。第1に直に音楽が聴ける魅力、第2に素舞台というそっけなさをカバーする空間作り、第3に人の温もりが伝わることなどが挙げられる。公演は物語やこれらの要素をもって成り立つであろうが、自分は物語中心に感想を書かせていただく。
ちなみに「青年は荒野をめざす」では、父宛ての手紙で大学へ進まなかったことを後悔せず、人間の生活の中で学問をしたことを綴っている。劇団としても、今後色々な挑戦をし続けて飛躍してほしい、と思う。
次回公演も楽しみにしております。