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ぼくらが非情の大河をくだる時

ぼくらが非情の大河をくだる時

オフィスリコプロダクション株式会社

テルプシコール(TERPSICHORE)(東京都)

2021/09/10 (金) ~ 2021/09/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

半世紀ほど前に書かれた戯曲…「岸田戯曲賞受賞」(1974年度)
社会情勢・世相を陰影のように漂わせながら、人の生と死 さらに生者の心の深淵を覗き込むような物語。抽象度が高いから難解とも思えるが…。
公演で注目すべきは演出である。説明でも「銀ゲンタの新たな演出で旋風を巻き起こす」とあったが、その意気込みは十分感じられた。少なくとも自分は好きである。

(上演時間70分)

ネタバレBOX

舞台美術、上演前の上手・下手側にあったブルーシートを捲ると、そこには男便所の便房と汚れた小便器2つと手洗い場。

物語(説明参照)…深夜、公衆便所は男が男を求めて集まる場所となる。その猥雑な場に詩人が現れ、便所の壁や柱を愛撫し始める。彼は夢なのか愛なのか、いずれにしても朽ち敗(破)れた無名戦士たちが公衆便所の下に埋められていると信じ、毎夜探し歩く。父と兄は白木の棺桶を持ってその気狂いの弟を追う。2人は何度も彼を見捨てようとする。しかし兄はかつて弟を裏切ったことを悔やみ、弟の描く兄の役を演じ続ける。その偶像が壊れたとき、詩人は兄の持つナイフで自らの命を絶つ。兄は父を見捨て、背に荒縄で詩人の死体を括り付け、夜の町に消えてゆく。公衆便所に渦巻くそれぞれの思いと淫猥な男たちの終わりなき彷徨と咆哮。詩人は名も無き戦士を象徴し、父と兄はそれぞれの観点から冷徹に見詰めているようだ。

上演(一応 暗転を目安)前、すでに舞台上では上下黒服(Tシャツ、ポロシャツの違いあり)の男たちが、エアカードゲーム、スケッチ、談笑等をしており明るい雰囲気。暗転時には街中の雑踏、人の会話といった効果音が流れる。それが明転後、雰囲気が一転する。そしてラスト近くで、冒頭の男たちが白塗顔にブリーフだけの裸体で現れた時に、上演前の光景の意図が氷解した。因みに詩人は白シャツで次元の違いを表す。

書かれた当時の社会情勢、その下敷きになっているのが学生運動。今の時代とは比較にならない過激さがあり、それが らしい風潮でもあった。そんな時代背景を現代において描き出すのは難しい。しかし公演では戯曲の真(芯)を損なわず、描かれている「名もなき戦士」を70年代から、なるべく現代に引き寄せて描いていた。自分が何者なのか、そして何が出来るのか、そんな曖昧、悶々とした感情はいつの時代でも持っている。その何者でもない人々が、例えば経済成長期(バブルという幻もあった)に企業戦士となり過労死していく。この世は、名もなき人々の無念も含め色々な屍の上に成り立っている。

詩人の意識は社会という見えざる敵に対し、人(老若男女)という戦士が必死に戦い、やがて死んでいく。訳が分かったような分からない混沌とした世界の中にある。公演では若者(詩人)だけでなく幅広い世代に問題を負わせ、生きることの困難さを格調高く描いている。
時代を半世紀遡れば、赤い薔薇は死のイメージかも知れない。しかし生死は表裏の関係のように、見方を変えれば薔薇の花言葉は「愛」であり、人間の愛おしさを噛みしめた表現とも言える。だから(見)捨てたくても出来ないのだ。上演前が生の世界であれば、上演後は死の淵、もしくは死そのものである。男たちが白塗顔で彷徨う姿は、見た目は滑稽だが不気味な情景だ。

雰囲気は、男だけの出演だが不思議と美しく妖しげ。そして退廃・虚無といった感じが漂い始める。それは単色照明をスポットまたは広角度から照射し協調を拒んでいるからのようだ。ラスト…詩人が兄に背負われている時に流れる音楽が良く、思わず終演後に曲名「PRAY~あなたがいるから」を聞いてしまった。演出の拘りであろうか、変形様式美と言うか ある統一性(黒服や裸体パフォーマンス)と歪さ(棺桶の傾斜置き)のアンバランス(=とらわれない自由)を意識・強調した観せ方のよう。それによって魂が思い思いに昇華していくイメージ。
脚本が書かれた時代状況等、そこに描かれた内容が理解しにくく小難しいと思えても、演出はそれを補って余りある見事なもの。
一言いえば、冒頭の衣装は黒統一ではなく、自由(普段着、スーツなど)にし、生を象徴。後に黒服(死の淵)、裸(死)とメリハリがあっても良かった(ネタバレが早くなるが、今の時代には分かり易いかも)

初日終演後でお疲れのところ、社長の北田万里子さんに挨拶、銀ゲンタ氏とは話をさせていただいた。感謝。
次回公演も楽しみにしております。
オペラ「フィガロの結婚」

オペラ「フィガロの結婚」

豊島区オペラソリストの会

南大塚ホール(東京都)

2021/09/04 (土) ~ 2021/09/05 (日)公演終了

実演鑑賞

ソリストの熱唱!
縁あって久し振りにオペラを鑑賞。以前はオペラやクラシックコンサートにも出かけたが、最近は観劇の方が多いかもしれない。そう言えば、もう数十年前になるが某合唱団で歌っていたことを思い出す(もちろんソリストではない)。今では声量もなく音程も取れないだろう。当時の会場は、東京文化会館や東京(新宿)厚生年金会館(今はもう無い)等といった、音響構造の優れた(クオリティの高い音楽専用)ホールであった。今回は南大塚ホールという音楽系を専門にした会場ではないことから、その点を考慮しなければならない。
なお、コロナ禍における感染防止対策として、客席1~3列目は使用しない。また「ブラボー!」など言わないようにとも…少し寂しいがやむを得ない。

さて、公演では歌唱と演出(むしろ舞台技術といった方が適切)で気になったところが…。
(上演時間4時間 45分休憩含む、15分×3回)
本公演は第33回池袋演劇祭参加作品のため、☆評価は後日付。

ネタバレBOX

舞台美術は大きな絵画風の後景が場面ごとに張り替えられる。場面に応じて仕様が異なるテーブル、椅子等を搬入するといった手作り感があり微笑ましく思う。だからか 何となく温かみのある雰囲気が好い。
キャスター付の衝立が舞台真ん中にあり、歌い手のコロナ(飛沫)感染防止対策のようだ。歌い手は、ソロの時はマスクをしないが、花娘の合唱のように3人以上で歌う時は、それぞれ絵柄が違うマスクをする。衝立は感染防止と共に、フィガロと結婚相手のスザンナ、または伯爵と伯爵夫人など、相手との関係で上手・下手側に押し動かす。それによって空間に広狭ができ、相手への圧(迫)を演出する。つまり愛が強ければ押し勝ち、広い空間が確保でき、疚しい事があれば押し負け、自分のエリアが狭くなる。なかなか上手い観せ方である。
下手側に指揮者とピアノ伴奏者。
ソリストの会だけあって皆さん上手であるが、特にスザンナ(5日:川井愛永さん)と伯爵夫人(5日:松本明子さん)の歌唱力は素晴らしかった。

有名な「フィガロの結婚」であるが、概要は次の通り。
物語はたった1日の中で起こること。 そしていくつかの要素が複雑に絡み合う。
フィガロとスザンナは、婚礼の準備をしている。 スザンナは伯爵のお気に入りで 、伯爵はスザンナを我がものとするために、「初夜権の復活」(字幕では別というか曖昧な表現)を企んでいる。 フィガロとスザンナはそれを阻止しようとする。他方、伯爵夫人は、伯爵の愛が冷めてきたことを悲しんでいる。 伯爵夫人、フィガロ、スザンナは、伯爵に改心してもらう、伯爵の反省を促すことを計画する。最後にフィガロとスザンナは無事結ばれる。 伯爵は伯爵夫人に謝罪し、これまでの行いを悔いる。 物語はハッピーエンドで終わる。

気になったところ。
〇第4幕でのフィガロ歌唱のところ。長丁場で歌うことが多いフィガロ、しかし見せ場であろうスザンナとの競演箇所で息継ぎが出来なくなったのか声量が低下し、ついには…勿体なかった。
〇会場の問題かも知れないが、字幕を天井(少し傾斜した)部分に映していた。自分は中央真ん中に着座(しかも前は通路)していたから見難いが何とか読めた。「フィガロの結婚」を何度も鑑賞しており、内容を知っている人、またはイタリア語が堪能(といっても歌詞表現は違うであろう)ならば、気にしないかも知れない。念のため1場と2場の休憩時に、前と後の列に夫々座ってみたら前列=天井を見上げるか、後列=文字が半分隠れた状態。もう少し映写角度を工夫し字幕が読めるようにしてほしかった(上演前に確認が必要だろう。何らかの指示・指摘があったのか、4場には改善したが…)。
初めて「フィガロの結婚」を鑑賞した観客にすれば、酷だったかもしれない。
次回公演も楽しみにしております。
タージマハルの衛兵

タージマハルの衛兵

東京演劇アンサンブル

野火止RAUM(埼玉県)

2021/09/04 (土) ~ 2021/09/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

東京演劇アンサンブルの新拠点・埼玉県新座の野火止RAUMで観劇。新座駅から少し距離(約2㎞か)があるが、事前に予約しておけば送迎車を出してくれるのでありがたい(毎公演かは要確認)。

初日観劇。劇場はひな壇(当日は4段)型で、少しであるが市松模様的にパイプ椅子を配席し観やすく配慮。観た回、それも1列目に小学生と思われる子供が観劇していたが、衝撃的なシーンがありトラウマにならないか心配になった。また同シーンで この劇場では可能な(目測であるが奥行きがある)演出が他の劇場で出来るか気になるところ。
(上演時間1時間55分。前半1時間 後半40分 途中休憩15分含む)【Aチーム】

野火止RAUM劇場は対象外だが、第33回池袋演劇祭参加作品(シアターグリーンBOXinBOX THEATER)になっているため、☆評価は2021.10.10日付。

ネタバレBOX

舞台は5つのキャスター付の衝立(ガラス板)が等間隔に並んでいるだけ。その前(客席側)に薄暗い闇の中に立つ幼馴染の衛兵が2人。衛兵の名はフマーユーン(雨宮大夢サン)とバーブル(和田響きサン)。2人の衣装は、頭にはターバンを被っているが、服装はスーツに棒ネクタイ、革靴である。もちろん手には剣を持っているが第一印象は違和感。が、物語の内容から或る意図が読み取れる。衛兵という規律の厳しい組織人、現代の勤務(仕事)服がスーツ(職業によって制服)であり革靴の象徴であれば、組織という枠に縛られた衣装と言えるかもしれない。しかし観た目の第一印象も大切なんだが…。

1648年。インド、ムガール帝国の首都アグラが舞台。彼らの任務はタージマハルの警備。 背後にこの世で最も美しい存在があるのに、振り返ってその姿を見ることが許されていない。建築家、ウスタッド・イサの細やかな願い、だが皇帝の「これ以上この世に美しいものを生み出さないため」の計画は残酷なもの。 私語厳禁のはずが、いつの間にか2人のダイアローグが進み、日の出とともにタージマハルの方へと振り返った2人が見た光景。

明転後、「これ以上美しいものが作られないよう、建築家や関わった人間2万人の腕を切り落とす」任務を遂行した。2人の姿と血で汚れた床、積み上げられた多数の人々の腕。狂乱しながら自分たちがした「任務」=「仕事」について話す。フマユーンは皇帝命令の「任務」 、パープルは「美を殺す」といった解釈。しかし作業は逆、器具を使って2万人の腕を切り落としたバーブル、切られた4万の傷跡に焼き鏝をあて治療したフマユーン。2人は血を掃除しながら空想した乗り物「エアロプラット(=始め 星へという台詞からロケットかと思ったが、後に飛行機、それも軍用機のイメージ)」や「持ち運び式抜け穴(=ドラえもん の どこでもドアのイメージ」の話を続ける。 この腕を切り落とすシーンが凄惨だ。2人の心情が鬼畜(別 組合わせの2人が黒子役、半裸で顔には墨)となって現れ衝立板に血の手形、血しぶきを思わせる赤塗噴射は顔を背けたくなるほどだ。そして事後処理を淡々と行わなければならない虚無感か虚脱感が痛いほど伝わる。空想した自由の産物「エアロプラット」はいつの間にか戦闘機に変わり、攻撃目標にしやすいタージマハルを目指す。それをどこでもドアから布を取り出し覆い隠そうとするが、それを行う人々の手がないという皮肉。

数日後、この「任務」によってバーブルの念願であったハーレムの皇帝警備という、新たな「任務」に2人が就く直前、彼は突然 皇帝暗殺の計画を語りだすが…。
台詞にあったかどうか定かでないが、たぶん数年後、同じようにフマユーンは衛兵の任務を続けている。そこに現れたバーブル(スーツ、革靴ではない)の幻影は悲しくも美しい。照明で輪郭を抜き取ったジャングル光景で戯れる2人の姿はあまりに無邪気で幼気だ。

個人の集合体としての組織、そこに形成される「権力」、これ以上を作り出さないという傲慢な「美の定義」、極限状態に置かれた「心理」……様々な視点を錯綜させ、舞台美術として存在しない「タージマハル」や姿を現さない皇帝や建築家、そしてフマーユーンの幹部軍人(警備隊長)である父が自然と立ち上がってくる。
ラスト、少年時代の2人の笑い声まではっきり聞こえてくるようだ。 フマーユーンとバーブルのダイアローグが限りなく想像の翼を広げ悠久の旅をしている、そんな印象が後味をマイルドにしている。
次回公演も楽しみにしております。
『演劇×オペラ フィガロの結婚・令和版』

『演劇×オペラ フィガロの結婚・令和版』

若い演奏家の為のプロジェクト

渋谷区文化総合センター大和田・伝承ホール(東京都)

2021/09/02 (木) ~ 2021/09/03 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

新しいスタイルで楽しませる好公演。
演劇とオペラの異色のコラボという謳い文句であったが、基本的に演劇チームが始めに台詞で演じ、続いて同じ場面をオペラチームが歌って聴かせる。今まで観聴きしていたオペラは、多くは原(イタリア)語で歌い、目で字幕を追っていたが、本公演は演劇・オペラという観せ聴かせる特長を活かしたもの。同じ場面でありながら、やはり違いは明白であった。演劇チームは演じるが、特に表情が豊か。一方 オペラチ-ムは聴かせる力は圧倒的で心地良い。もちろん演劇チームは歌わず、オペラチームの魅力を損なわない演出。逆にオペラチームの時にはピアノ伴奏があるが、演劇チームの時には台詞の じゃま をしない配慮。このピアノの伴奏が実に上手い。
さらに、それぞれのチームに相応しい演出で観客を魅了する。例えば、ラストの披露宴会場の空に花火が打ち上げられるシーンは、演劇チームは照明の変化、オペラチームは全員で熱唱する。

物語にはコロナ禍を反映させた台詞もあり、時に観客を笑わせる。冒頭、主人公のフィガロと結婚相手であるスザンナがフェイスシールドを着装して登場。それで歌うのか一瞬驚いたが、すぐにそれを外し、出演者がPCR検査を行い全員が陰性であったこと、三蜜にならないことは大切だが、八(蜂)蜜の甘い心情は必要などと駄洒落に近い台詞がポンポンと飛び出す茶目っ気が…。
(上演時間2時間50分 途中休憩15分)

ネタバレBOX

2幕。1幕が2場の計4場。
基本的には椅子があるだけの素舞台に近い。しかし、照明効果で場景の違いを判らせる。例えば、1幕目の1場は変化のない単色と2場は格子状の照明にすることで、1場の部屋と違うことをイメージさせるなど、ちょっとした工夫で観客の想像力を膨らませる巧みさ。

どうしても同一シーンを演劇・オペラチームが演じ歌うのは分かり易いが諄(くど)いという表裏の関係を払拭できない(冗長になる)。公演は両チ-ムの特徴を十分活かし、逆に相手チームの特長のじゃま をしないという徹底した拘りが成功していた。先にも記したが、演劇チームは歌わない、オペラチームは過度な演技(顔の表情作り等)はしない。だから自分たちの本来の持ち味を発揮することに専念できた。
端的に言えば、融合的なコラボではなく、それぞれの魅力の観せ、聴かせ合う違いの分かる「演劇×オペラ フィガロの結婚」であった。終わってみると、真の狙いもそこにあるのかな、と思ってしまうほどだが…。
当日パンフに演出の高橋正徳氏が「・・・濃密な異文化交流?」と書いていることから、確信したところ。
次回公演も楽しみにしております。
チーチコフ

チーチコフ

劇団俳小

萬劇場(東京都)

2021/08/27 (金) ~ 2021/09/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

表層的な面白さだけではなく、意味深な公演。
原作はゴーゴリの「死せる魂」であるが、公演タイトルは原作主人公の名前「チーチコフ」にしており、上手いネーミングだと感心というか納得してしまう。物語は小役人の詐欺旅(狂奔)を描いているが、この物語全体がフェイクではないかと思わせる。同時にコロナ禍における或る出来事を連想させ、揶揄というか皮肉たっぷりに描く。

物語は複雑ではないが、その観せ方が凝っており、公演自体が詐欺に絡めた騙し絵のようだ。だから原作名を付けない、そしてチラシデザインが「👅あっかんべー」なのだろう。事実は小説より奇なり というが、19世紀中頃に書かれた原作を後追いするような事件が日本で起きようとは…。舞台の雰囲気は軽妙洒脱であるが、描かれている内容は極めて辛辣だ。
(上演時間2時間 途中休憩15分)

本公演は第33回池袋演劇祭参加作品のため、☆評価は後日付。

ネタバレBOX

舞台美術は、形・色違いの可動式ジャングルジムのようなオブジェが幾つか重なり合っている。場面に応じてテーブルや椅子が持ち込まれ情景を作り出す。上手側奥にピアノ伴奏の上田亨 氏。
冒頭は、切込みの入った幕に煽情的な影絵シーン。官能的なダンスを観(魅)せた後、幕が切って落とされ、セクシー衣装を着た3人の女性(コーラス・ガール)が現れ軽やかに踊り歌い出す。

原作は、19世紀の帝政ロシアの某所で詐欺事件が起きる。戸籍だけが存在している死んだ農奴(死せる魂)を買い取り、生きている農奴として登記し、彼等を担保に銀行から多額の貸付金を騙しとろうという大胆な事件。その犯行の首謀者がチーチコフ(大川原直太サン)。貧しく育ったが、努力を重ね小役人の地位を得ている男。今はブリーチカで召使いを連れ、将来は大地主となり幸せな家庭を持つことを夢見て、「死せる魂」を買い集める旅を続けている。

公演自体がBarかPubでのショーのように思える。そう考えると、原作にあった貸付金を騙し取るような台詞はなく、ラスト近くでチーチコフの上前を撥ねる(もっと大金を脅し取る)ような台詞に違和感を覚えたから。
チーチコフを捕らえた或る県知事が「釈放」と今まで買い取った「死せる魂の名簿」と交換に多額の金銭を要求する。その際、「例の支給金ですな」とニヤリとする。人の欲は際限がなく、せっかく集めた「死せる魂」を大悪党である県知事等に交(買)わされるという皮肉。この件が、日本のコロナ禍における事件を連想させる。コロナの影響による企業への経済的支援(補助金)の施策を悪用し、ペーパーカンパニーを利用し補助金を詐取する事件に酷似している。
人の欲は、ちょっとした落とし穴で行き詰る。公演でも欲深い老女が、「死せる魂」の相場を知りたいと疑問を持ち、わざわざ県知事の社交場まで来る。また悪友・ノズドリョフの執拗な詮索(「死せる魂」を買い集める目的)がチーチコフの癇に障る。その欲に対する凄まじいまでの貪欲さを滑稽に描く。

ショー仕立てにした公演(劇中劇)は、小悪人の必死さと大悪党が悠々とその上前を撥ねる皮肉、原作の非現実的な出来事が現代の日本で類似事件として現実的になる皮肉、それを小気味よく観せる。コーラス・ガールの煽るような「チーチコフ!」の掛け声、出ずっぱりの大川原さんを休ませ、他の登場人物が揃いミュージカル風に歌うという演出的工夫も上手い。そしてコーラス・ガール等への歌唱指導、同時にキャバレーのママ・プリューシカとして登場している片桐雅子さんの魅惑的な存在も印象的だ。ショーという虚構の中に落とし込んだ虚・実の世界観を堪能した。
次回公演も楽しみにしております。
神様はつらい。 ご来場ありがとうございました。

神様はつらい。 ご来場ありがとうございました。

演劇ユニットG.com

アトリエ第Q藝術(東京都)

2021/08/25 (水) ~ 2021/08/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

雰囲気のある会場(初めてだが、気に入った)を活かした感覚劇。色々な意味で間口も広いが奥行きも感じられる内容。

脳損傷で15年間眠り続けていた「無動無音症」の男が、ある治療によって出現し出したインナートリップの世界観。設定はアメリカ映画「レナードの朝」に似ている。その世界観は会場アトリエ第Q芸術の構造を上手く活用した「こっちの世界」と「あっちの世界」を行ったり来たりする不思議な感覚。
登場人物は、主人公の男を中心に「こっちの世界」と「あっちの世界」の意識の変化によって、周りの人物が表裏関係として現れるが、そのイメージは地上と空中といった独創的な空気(浮遊)感で観客の意識を不思議と刺激する。しかし油断をしていると、そっと絡むような寓話性を持ち込み、立ち止まり考えさせる手強さもある。
(上演時間1時間40分)

ネタバレBOX

場内は舞台側と客席側を二分するようにアクリル板で仕切る。少し揺れるたび、角度によって客席側が映り込むと不思議な感覚になる。舞台は病室内、ベットに寝ている男(古口圭介サン)のところに医者、看護師、マスコミ=「ザ☆密着」の人(インタビュアーとカメラマン)が来るところから始まる。先に記した「無動無音症」の医学的説明を映像で表す。この映写、後々 会場の庭を利用した世界観の広がりにも利用する。それは病室という閉鎖的な空間と外の広く自由な世界を対比するかのような効果を示す。

ある覚醒実験(成功率7%)によって、男は短時間だが眠りから覚める。「10000年後の世界で神々と宇宙滅亡の危機を救う実験をしていた」という妄想のような言葉に驚く病院関係者。夫々の世界観(「こっちの世界」、「あっちの世界」)で登場するのが医者=コルネイ(佐藤晃子サン)、看護師=ダンプ運転手(園田シンジ サン)、インタビュアー=イエス(根本こずえサン)、カメラマン=ブッタ(辻井彰太サン)で1人2役を演じる。時に「EXILE」の「Choo Choo TRAIN」のイントロ部分での振り付け(タイミングをずらして上半身を螺旋階段状に回すパフォーマンス)を見せるなど、緩い笑いを誘う。

物語は、漂流しながらも「こっちの世界」と「あっちの世界」で生きるのか、男の生き方を巡る選択の問題へと流れていく。10000年後の世界は滅亡の危機と言いつつも、終わりはないという。しかし、看護師から「こっちの世界」は「終わりがあるから、生き甲斐も遣り甲斐も感じられる」、一方 「あっちの世界」は「永遠ならばモチベーションが保てるのか」といった問い掛けをする。何でもありの苦労なしは、生きている証をどう捉えるのか、と言った寓話的な問答。男の下した判断とは…。

本筋に関係が有るのか無いのか、さり気なく面白可笑しいネタを入れてくる。イエスとブッタ(衣装もそれなりに着替え)が大道芸人といったフェイク(「あっちの世界」にもコンビニがあるのか)、先に記したパフォーマンス等は小難しくなりそうな内容の箸休め的な演出。役者がシーンに応じて庭で演じる時には、映像で見せるか、中扉を開けリアルに見せる。会場を実に上手く使い、浮遊感(あっちの世界)を額縁演技として切り出す。一方、場内は地に足がついた現実が現れ、空気感の違いを際立たせる。
あと謎の女(酒井実鈴サン)は…男の潜在意識を性差の違いで表現したのであろうか、疑問だぁ。
次回公演も楽しみにしております。
丘の上、ねむのき産婦人科

丘の上、ねむのき産婦人科

DULL-COLORED POP

ザ・スズナリ(東京都)

2021/08/11 (水) ~ 2021/08/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

客観性ある内容を役者が熱演で体現する力作。
公演の魅力は書籍や映像資料だけではなく、実際に約30名弱の経産婦や夫婦へのインタビューを行い、収集したエピソードを再編集して演劇化しているから、説得・納得感に力がある。もちろん描かれた7場(2場は上演時に削除)だけではなく、端的に言えば人の誕生(出産)数だけドラマがある。それを演劇化することは出来ない、というか不可能であろう。だからこそ、取材等を通してある程度類型化が出来そうな場面を描いている。公演は出産の観点で描いているが、生があれば死も表裏のような関係にある。当日パンフに作・演出の谷賢一氏が「生の背景に一体どんな思いと考えがあったのか」と書いているが、むしろ描かれなかったが、流産・死産といった悲しみを経験する場合もある。それゆえ、その不安を乗り越えた先の喜び、無事に産まれた安堵が倍加して描くことも出来ると思うが…。
(上演時間2時間)【Aチーム=男女の性別のままの普通版】

ネタバレBOX

舞台美術はシンプルで、上手・下手側に椅子が並べられ、7つの場面に応じて移動させ情況や情景を表現する。後景は照明効果を利かせるためガラス仕様の壁面を幾つか組み込み、彩光の美しさを強調する。また各場の上演前に状況を説明する字幕が映し出され、物語の概観(プロフィール等)を示すので、結婚前カップル、もしくは夫婦の心情が何となく解る。

物語は7場面あるが、その中で2つの場面について。
1つ目は、若いカップルが出産に対する不安や悩み(どちらかと言えば出産費用、今後の生活といった経済面)といった、生まれるが前提の話。
2つ目は、不妊治療に時間や経済的な負担を感じている夫婦(本作は女性側が対象)。産めないが前提の話。
どちらも切実な問題意識であるが、その悩みの前提になる事が違う。その違い夫々で悩む過程が実にリアル。もちろん、取材等で得たエピソードが基になっているだろうが、舞台化すれば間接的な話(客観的)。それを役者が対象者の不安、悩みを受け止め、リアルにその人物像を立ち上げていたからこそ取材等が生きてくる。役者陣の熱演、全体のバランスが良かった。

公演で演じられた場面…出産(流産、死産等含む)や不妊治療は、人の数だけドラマがある。演劇によって、ここで描かれた体験はもちろん、これから経験するであろう人の想像力の馳せる範囲まで広がる。その意味では考えさせる内容だ。
観終わってみれば、脚本・演出・演技そして舞台美術の総合力を十分発揮した力作だ、と思う。
次回公演も楽しみにしております。
げんせんじゃ~!

げんせんじゃ~!

東京印

CBGKシブゲキ!!(東京都)

2021/08/11 (水) ~ 2021/08/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

♬げんせんじゃー…思わず口ずさんでしまうノリのいいメロディ。
舞台は或る温泉街、百年続く老舗旅館「宝や」…スローガンは「愛と情熱の宝や旅館」。この旅館の従業員の休憩室兼事務所がセットとして組まれているが、それは実に見事であった。また、登場するキャスト以外の案内スタッフも揃いの法被で会場全体を旅館に見立てようと雰囲気作りに努めていた。この団体のスタッフワークは良いなぁ。

物語は、その旅館が不況のあおりを受けて客足が途絶え経営難に陥っていた。これを打開すべくある行動を画策するが…。まさしくコロナ禍を地で行くような話。「ご当地ヒーローを作りこの旅館を盛り上げよう!!」…問題山積みの老舗旅館従業員たちがゲンセンジャーに変身&温泉の源泉を守る、は智恵と勇気(心が折れない)が求められる今にピッタリの好公演。

キャストにイケメンが揃っていることもあり、前方列は大多数が女性客だ。公演は観客の協力によって成り立つ場面もあり、さすがにファンは心得ている(感心)。音楽もノリノリであるが、劇中シーンに応じて三味線やギターといった和洋の楽器を使い分け、観せ聴かせる魅力を十分に引き出す演出の上手さ。
少し緩いようにも感じたが、1時間50分の公演を観(魅)せてしまう独特な世界観、雰囲気があった。

ネタバレBOX

経営危機を乗り越えるべくある秘策を考えていた...それは温泉街の最大イベントのパフォーマンス大会で優勝し、それを目玉として集客しようというもの。その出し物が”戦隊もの”である。そのため東京からアクションスターを招聘するということであったが、同姓同名の大部屋アクションスター(自称)の「フジオカ ヒロシ」であった。このいい加減な設定は笑いネタであるが、少しくどく感じられたのが残念。
一方、旅館で働くジュンは耳が聞えないため話もできない。このジュンの健気な仕草と優しい心が観客の胸を打つ。どうして耳が聞こえなくなったのか、その生い立ちが兄のマサルによって語られる。旅館の窮状と重ね合わせるかのように、現状を受け入れている。聞こえないのは当たり前のことになっている。それでも生きていくことの大切さを淡々と話す。この感動的なシーンと先のアクションの笑いネタを峻別し場面ごとのメリハリが効く。だから観(魅)せるシーンの余韻が強調される。

笑いネタは、楽しませるサービスとして盛り込みつつ、物語の本筋を大切にした公演。ラストは戦隊ものらしく、色鮮やかな衣装を着て踊るパフォーマンスであるが、ここでも遊びというサービス精神を発揮する。
ちなみに優勝出来たか否かは明らかにせず、単純に予定調和にしない。ただ子供に受けたようで予約電話が入る。だけど経営難と言いつつも、新たに従業員を採用するとはなぁ。

公演全体を通じて温かい雰囲気、そして観客を楽しませようとするサービス精神が感じられ、最後まで観させる独特な世界観を持っていた(一方、緩い展開でもあるが)。
次回公演も楽しみにしております。
Who’s it? 〜ニューヨークの日本人〜

Who’s it? 〜ニューヨークの日本人〜

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2021/08/05 (木) ~ 2021/08/10 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アメリカ・ニューヨークで英語禁止!…たかが言葉、されど言葉である。言葉の底には文化が透けて見えるという奥深さ。公演は「ニューヨークと歌舞伎町って似てる」みたいなところから始まったらしいが、物語の随所にそのようなシーンが登場する。
ニューヨークにあるアパートに闖入した日本のヤクザとこの部屋に出入りする人々の会話を通して浮き彫りになる居心地の良さ、自由な雰囲気、そして自分らしさ とは…笑いと苦みと少し切ない物語。短編だからこそ早い段階で引き込む興味・魅力付は上手い。
(上演時間70分)

ネタバレBOX

舞台美術は、ベースを四角に区切り部屋を出現させ、そこにソファとテーブルを置いたシンプルなもの。客席はL字で、2方向から観劇可能であるが、舞台と客席が対角に設えているため、どちらから観てもあまり変わらないと思う。

日本のヤクザ・輪島真司(長野耕士サン)がソファに座り、このケイ(寺園七海サン)の部屋に居る人々を制圧しているところから始まる。自分は英語が話せないため英語禁止ルール、そして外部との通信手段である携帯電話等をテーブルへ出させる。にも関わらず次々に友人等が訪れるため、手負いヤクザの苛立ちはピークへ。

2021年、ニューヨーク州での大麻合法化を背景に、その社会的なことを日本(人)との対比を意識して描く。輪島は対立組織と大麻を巡って諍いを起こし、銃で撃たれこの部屋へ。ニューヨーク州では、合法化以前の大麻取締まりにおいて人種差別(白人と黒人等)が著しく、それが検挙率に表れていたと。台詞にもあるが、警察での取調べでも差別的なことが多い。日本では描きにくいことをニューヨークに設定することで大麻に絡めた問題(差別)意識を描く。もちろんニューヨーク州における大麻合法化は、雇用・税収の拡大や人種差別の縮小といったメリットの説明も忘れない。
また、この部屋の住人達、集まってくる友達の言葉から、アメリカと日本の生活、文化、そして暮らし方そのものの違いが吐露されていく。例えば、日本人留学生はネイティブでない(英語)発音に悩み、意思表示・疎通に支障をきたす。一方、日系3世ともなれば、同じ日本人でも意識がアメリカに近い。日本人は仲間意識、協調性の重視という雰囲気にホッとする、など異国という設定だからリアリティを感じさせる。

先の社会性に日本人という個性というか特徴を さり気なく描き込み笑いの中に「意識」という問題を潜ませる巧みさ。
ラスト、輪島がケイに英語で「さよなら」は何て言うのだっけ?というのに対し「see you again」と回答。輪島曰く、自分でもそれくらいの英語は解る。そしてケイに改めて別れの言葉を英語で言わせる洒落たシーンが印象的だ。
次回公演も楽しみにしております。
愛でる心

愛でる心

劇団龍門

シアターシャイン(東京都)

2021/08/04 (水) ~ 2021/08/08 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

大きな愛で包まれ、温かい心持にさせる好公演。
物語は大きく2つの流れがあるが、その底流には共通した思いがある。それは人の再生というか育成という「愛情」が仄々と、しかし確りと描かれている。まさしくタイトル「愛でる心」である。
コロナ対策として役者はマウスシールドを着用しており、今では当たり前のようなこと。それでも一瞬、見た目と台詞音声がどうなのか気になったが、全くの杞憂であった。
(上演時間1時間45分)

ネタバレBOX

上手・下手側に屏風のような衝立、パソコン ソファ(置く位置によって場景が異なる)といった簡素な舞台美術。といっても基本的には2か所であるから、しっかり作り込むと視覚的に場所・情景が固定され、物語の面白さに追いつけないかも知れない。物語の場所は警察署内とその部署に配属された新人刑事の自宅。この部署は何らかの理由によって刑事としての再育成が必要になった者が配属される。この統括責任者が前田本部長(村手龍太サン)で、2つの物語に共通した愛情を渋く演じる。

物語は刑事部署内に新人が配属され、その担当者になったのが水野淳之サン。彼は10年もこの部署に居るベテランで何故か異動できない。実は10年前、犯人逮捕時に誤射し、それがトラウマになっている。もう1つは、前田本部長は既に妻は亡く、2人の子供(兄・亮介、妹・彩子)がいるが、兄の方とは音信不通の状態。家庭内に波風が立っている。本部長の口癖は公私混同するなであるが、若い女性を署内に連れてくるなど、言っている事とやっている事が違うが、何故か飄々とした態度で誤魔化されてしまう。兄は妹とは連絡を取っており、オカマbarで働いている。妹は売れない劇団員(アンサンブル)でバイトと掛け持ちする忙しさ。2人とも孤独で認められたいという欲求がある。が警察幹部の父としては容認しがたい。親子の相容れない生き方は、どうその人の人格を認めるか。寛容・不寛容は心の持ちようと言えば簡単だが、現実はそう簡単ではない(割り切れない)。その微妙な空気感の演技は上手い。

登場人物は12人であるが、その1人ひとりの場面を実に丁寧に描く。それによって物語における人物の立ち位置が確りし流れも分かり易い。2つの物語は、付かず離れず最後まで「愛でる心」の核心を包み込んだままであるが、全体の雰囲気が愛情に溢れているのは一目瞭然。この不思議と温かみのある感覚というか雰囲気が公演の最大の魅力ではないか。

警察署内の新人配属は、実はその育成過程を通じてベテラン刑事の再生を行うというフェイク。一方、自分の子供たち…妹の公演は必ず観に来て、どんな端役であろうが満足して帰る、その見守りが優しい。そして妹がそっと父と兄を自分の公演(指定席で隣り合わせ)に招待する優しい配慮。この父と兄の気まずい様な表情が最高。このワンシーンだけで愛情の深さが解る。確かに「人生はドタバタよ!思った通りなんかいかないし、伝えたい言葉だって届かない。」かも知れないが、少なくとも本公演はドタバタは魅せる力はあるし、設定は在り来たりのようだが、先に記した通り最後まで核心を明かさない。ハートフルでドタバタ人情系エンターテイメントは面白かった。
次回公演も楽しみにしております。
犇犇

犇犇

TAAC

駅前劇場(東京都)

2021/07/30 (金) ~ 2021/08/08 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

ラストは唐突という印象。
加害者「家族」の苦悩を描いた話であり、確かに軋んだ緊張感は漂うが、物語性が観えてこない。どちらかと言えば、演出や舞台技術によって犇々とした雰囲気(空気感)を醸し出している。しかし家族内における痛みのリアリティがなく、どうしても家族外_社会・世間を意識した描き方をしないと難しいのではないか。
加害者本人(長男)が服役(12年間)を終え、家に帰ってからの1年近くを描いているが、時の経過なり、家族内の雰囲気の変化は自然と流れる。例えば、アフリカの諺、自分の肘は舐められない等を挿入することで、少しづつ軋みを和みへという変化を表す。このアフリカの諺…すべての物には終わりがある。ただしバナナにはそれが2つある、はラストにおける意識の根底を示していたのであろうか。
(上演時間1時間20分)

ネタバレBOX

舞台美術は、鳥飼家のダイニングキッチン、上手側にソファーとミニテーブルのリビング。本当に生活していると思わせるくらいに作り込んだセット。5人家族であるが、父の説明はなく、母は手紙を残し出て行き、劇中で手紙を朗読するという形で表現。長男・傑(西山聖了サン)は殺人事件を犯し服役中、次男・望(鈴木勝大サン)は宅配の仕事をし生活を支え、妹・朝未(永田紗茅サン)は引き籠りという状況をサラッと説明。加害者家族を支援する男・鮫島今日矢(大塚宣幸サン)、隣家で幼馴染の小早川隼(清水尚弥サン)を加え、登場人物は5人のみ。各人がそれそれの思惑で蠢き出す。

日常のちょっとした仕草に性格や置かれた状況が見えてくる。例えば、望はコロナ禍を思わせるのか分からないが、帰宅後、手洗いうがい、また分別ごみの徹底など、何かしら強迫観念のようなものに取り付かれている。苛立ちと鬱屈の毎日だ。朝未は自宅内でも携帯電話を媒介しないと話が出来ない、それも隼だけという対人恐怖症のようだ。傑は、家族に迷惑をかけた思いでドギマギした態度、反省としての土下座。当初3兄弟妹はよそよそしく ぎこちない素振り、その微妙な距離感というか空気感を実に上手く表現している。そのバランス感覚が好い。そこに鮫島の色々な諺などが入り込み、時間をかけて ゆっくりとという言葉が時の必要を示す(例えば、朝未が直接会話出来る、傑からの差入れを受け取る等)。またアフリカの諺の意味は、結局解らないが、同様に傑がどうして殺人を犯すことになったのか、本人も判らない心持を示唆している。
子供が玩具売り場で泣いているのは、買ってもらえなくて泣いているのか、買ってもらいたくて泣いているのか、過去(原因)と未来(目的)に準えて説明する。後者によって傑が犯した事件の概要は省略し、現在以降に焦点を当てた内容にしている。テーマの「加害者家族」視点を暈けさず、過度に加害者本人を描かない説明・工夫か。

鮫島の加害者本人は弁護士が付き、人権は守られるが、その家族の苦悩等は守ってもらえない、という言葉は重い。実際、加害者家族としての重荷は生涯背負うことになるだろう。また朝未に対して、同じ血は流れていても人は1人ひとり違い、決して兄が犯罪を犯しても自分(妹)も同じ行為をするわけではない。

物語は望の解雇によって動く。世間の厳しい目に晒されながら何とか生活を支えてきたが、傑の犯歴が原因による解雇。一方、傑は淡々と平穏な暮らしを享受している。望は何となく理不尽に思える蟠りと不満が噴出。決して抗うことが出来ない現実は、いつも家族外による(無言の)圧力。朝未の誕生日ケーキを傑が買いに出かけ、帰宅が少し遅れただけで何か起きたのではないかという疑心暗鬼。社会という「分かったような分からないようなもの」を対照に置くことで家族の苦悩(物語性)が鮮明に出来たのではないか。
アフリカの諺_物には終わりがあるが、バナナにはそれが2つ…始まりがあって終わりがある、が終わりは始まりでもあると…それは負(不幸)の連鎖を意味するのであろうか。ラストシーン、その伏線があったのか、それとも誤刺だったのか?唐突だ。

公演は、母親(手紙)の朗読(声=美津乃あわサン)に不穏、悔悟(末期癌のため慟哭イメージ)を思わせる音楽を重ねているが、少し音量が大きいのが気になった。照明は時季による外光や1日の時間経過による諧調も巧みだ。その色調が家族という空気感と人物の心象をうまく表現していた。
次回公演も楽しみにしております。
中年の歩み『侘しい星、寂しい星』

中年の歩み『侘しい星、寂しい星』

第0楽章

SPACE EDGE(東京都)

2021/07/21 (水) ~ 2021/07/24 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

中年だけが侘しく悲しいかは分からないが、多くの人が味わうであろう感情、それを娘の視点から描いた回想もしくは幻想劇。タイトルにある星の在り方は、自分の感情に流されないという客観性を保つための強がりに思える。物語は主に母、娘のそれぞれの観点と親子という関係を描いた3場面を娘が集約する。舞台美術は左右対称で、上手・下手側に場を移すことで それぞれの観点が変わり、それに伴い時々に居たであろう人物が登場してくる。その変幻自在な演出と多様な人物を表現する演技力は見事。但し、技巧的になりすぎた印象もあり。
(上演時間70分) 【A=女性チーム】

ネタバレBOX

セットはベットと窓カーテンというシンプルなもの。基本的に上手が娘(今井美佐穂サン)、下手が母(中村真季子サン)の世界(都邑)。違うのは娘の方に母からの仕送りであろうダンボール箱が1つあること。そこから取り出したのはミニ卓上灯とランタン。

物語は、場所や時を特定させないが、時々に時事ネタを挟み足元を見せ観客の感情を放さない。娘は、ベットの中から ここはスカスカ星、おはよう こんにちわ こんばんわ と言った挨拶をする。一般(抽象)的な言葉で始まるが、すでに空虚、諦念といった感情が溢れ出す。

冒頭、母が声掛けし娘を起こすシーンは、自分にも記憶があり懐かしさが蘇る。郷愁を思わせるシーンから、突然、特別定額給付金(コロナという台詞があったか分からない)の申請をしたかという現実を入れる。娘は声優になりたくて上京したが、夢は叶えられていない。母は娘を思い、郷里での職探しをするが、その相手が今井サン(2人芝居ゆえ、色々な人物を入れ代わり立ち代わり演じる)。
また、物語には父はもちろん、”男”の影さえ出てこない。逆に母・娘に”女”の顔がのぞき出し、母が股を広げ太腿を露わにするなど、何かに未練がある若しくは懇願するような仕草。色々な場面が次々に現れるが、後々、それが走馬燈のように巡る思い出だと解る。

母・娘(関係)と一概に言っても、その間にある感情などは千差万別で、描くのは容易ではない。だが、現実と虚構を混在させることで、身近(主観)と世間(客観)を上手く表出させ、部分的にでも共感を誘う工夫は巧い。既に母は鬼籍。生きている時には、色々な出来事があり感情の行き違いもあったが、亡くなってみると何て思い出深いのか、そんな侘しさと寂しさが こみ上げてくる芝居である。
娘の手元にあるミニ卓上灯とランタンは、照明効果だけではなく、母との語らいの媒介ーマイク仕立にし照れ隠しのための間接話法ーとして利用しており、手の込んだ観せ方だ。
次回公演も楽しみにしております。
明日の朝、いつものように

明日の朝、いつものように

LUCKUP

萬劇場(東京都)

2021/07/16 (金) ~ 2021/07/25 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

まさしく"長すぎた春"物語。
コロナ禍から5年ほど経ったカップル。出会った頃はコロナ禍で巣ごもりの生活を余儀なくさせられたが、それも今は昔のこと。コロナ禍の前と後における男女の意識を描いているが、どんな状況下であろうと大して変わらない普遍性ある恋愛観が見て取れる。公演は倦怠期のような男女の心に、ちょっとした隙間風が吹いたら、大事になり取り返しがつかないことになる。それどころか、関係はアッという間に崩壊する。その過程を淡々と描きつつ、何の変哲もない日常に潜む不安や不信を鮮やかに浮かび上がらせる。
(上演時間70分) 【Bチ-ム】

ネタバレBOX

舞台美術は、日常生活そのままの背景を造形する。大括りに3か所の異なる場所(場面)をイメージさせる。中央にカウンター、上手側にダイニングを思わせるテーブルと椅子、下手側はカップルの部屋_2人掛のソファが置かれている。人(居場所)と距離感という物理的なことだけではなく、この空間処理に男・女の心象風景を描き込む。

主人公の男・小久保ケンジ(オオダイラ隆生サン)と女・山崎ユウキ(高橋明日香サン)は、並んで座るという近距離。上手にあるのはユウキの妹夫婦・峰岸光太郎、カオリの家のダイニング、他人ではないが当事者でもないという中距離。そして第三者との語らいの場として外の飲食店を表すカウンターという長距離を演出している。人には快適な距離感のようなものがあり、カップルであっても心が通じ合わなくなると、1人がひじ掛けに座る もしくは立ったまま話しかける。微妙な立ち位置や振る舞いで表現する。そこに一緒に居る相手(男or女)のことを理解しているか否か、疑問符を突き付ける。
演技は、ぼそっとしたさり気ない会話から、不快感顕わになり大声になっていく様を上手く演じている。演出、演技は実に自然体だ。

物語はコロナ禍で知り合った男女が5年経ち、最近(2年ほどセックスレス)は精神的な繋がりだけ。ユウキは待つことが出来ず、あなたを求めたが…。ユウキはケンジの態度にイライラを募らせ、何故そうなのか自分の内にある欲に翻弄される。そんなユウキの心の隙に入り込む店の同僚・木田テツ。一方、ケンジは従姉・工藤ユタカのちょっとした悪戯心で知り合った女性・志村シオと親しくなっていく。それぞれが持っている思いや秘密が、だんだん大きく膨らむ。不安を孕んで漂う四角関係は、悲劇的な結末へ転がり出す。甘美な関係だけでは満足できず、濃密な性への気配が漂い始める。
劇中では、女性の恋愛は心と身体すべてを投げ打つような危険な匂い。性はより深い精神の交合へ向かうためのステップで、そこに入り込んだら精神と欲望の迷路が広がっている。若い男女にとって精神と肉体は連動するのが当たり前、この公演では、更に精神と肉体の乖離を問うといった別の投げ掛けが…。

公演が面白く共感しやすいのは、「性」に対する描き方が、女と男によって異なること。例えば、セックスレスを言い出した女性側は、生理的・機能的側面は語られず、あくまで精神(抽象)的なこと。一方、言われた男性側は、ユウキの妹の夫を通して語られる。妻の妊娠期における性処理(妻は消極的ながら風俗通いを了?)やバイアグラといった性機能に係る具体的な描きをし、後は観客の想像に委ねる。このバランス感覚が好いのだ。
もう1つは、「性」的なことを社会問題と絡めず、人間に男と女がある以上 永遠に無くならないテーマ。「性」の喜びは美しいものだが、それだけに「性」の悲しみは、より一層それが際立つのかもしれない(LGBTも承知)。
日常生活…男女で営まれる「性」の普遍性を独創性をもって描いているところに新鮮味と共感を覚えるのではないだろうか。
ちなみに、ラストシーンは救いであろうか。別れたままの暗転で放り投げてもよかった気もした。しかし、5年前の出会った頃の回想は、出会いと別れ、そして新しい彼女との出発を意味するのであろう。その点では後味を良くした。
次回公演を楽しみにしております。
ルンバ!ルンバ!ルンバ!

ルンバ!ルンバ!ルンバ!

ローリングあざらし撲殺

シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)

2021/07/15 (木) ~ 2021/07/19 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

コロナ禍で伝えたいことは解るが、演出が今一つ。色々なモノを観せ(描き)たいという思いが強いようで、逆に真に伝えたい事が暈けてしまった印象だ。

コロナ禍を背景に、人々(特に若者)の生き様を絡め、観せ方として、奇抜な設定(踊らなければ死ぬ)で興味を惹こうとしている。しかし、どれもが中途半端でインパクトが弱い。もう少し(場面を)省略・整理出来ていれば、面白かったかも知れない。特に前半の話は冗長で、演出は稚拙だ。後半はまとまりが出て来ただけに勿体なかった。テーマは明確なのだから、それをどう描くか、しっかり構成出来ていれば…(それが難しのだが)。

観た回の観客は10人(コロナ感染拡大防止対策のため席間隔あり)と少なく、さらに休憩時に3人が帰ってしまうという残念な状況。
(上演時間2時間10分 途中休憩10分) 
 2021.7.24追記

ネタバレBOX

素舞台、正面はスクリーン。時々に映像を映すが、それはTV等の媒体を通して施政方針を述べる為政者をイメージさせる。またフェーズ1、2・・としコンセプトと言うかサブタイトルを映し出すが、出来れば演出力で物語を繋いでほしい。せっかく「ルンバ!ルンバ!ルンバ!」といった奇妙だがインパクトあるタイトルにしたのであれば、適当?に踊るのではなく、ルンバ ダンスを見せてほしかった。

物語は、踊ると死んでしまうという奇病(感染症)が広がり、政府(映像:グレートウォールナー)が、踊らないルールを打ち出す。他方、踊らないと死んでしまうという特異な体質を持った人々を登場させ、政府方針に異を唱える集団(ダンス解放戦線)といった対立軸を見せる。何となく新型コロナを連想させるくだり。そこにスケバンだった女性やノンポリ男など、我関せずの人々を登場させ、混沌とした社会・世相を描く。当初そのような人物、集団が緩い関わりで存在していたが、次第に政府対解放戦線の抗争へ収斂。ルールの是非を選択させる。この過程をいろいろな場面を挿入しながら展開していくが、一つ一つのエピソードが長い。その結果、冗長となり観客の集中力、関心を繋ぎ留めておくことが難しい。
例えば、防護服を着用し消毒等の感染対策を行うイメージシーンは、登場人物が でんぐり返し等のいくつのもパフォーマンス(それもスローモーション)を繰り返す。アップテンポからスローテンポ、その逆など自由自在と言えるのか疑問に思える演出。

物語には、いくつか興味深い場面が登場する。
⚪奇病は、社会的地位や生活水準が低く虐げられている人々に感染しやすい。
⚪スケバン(暴走族)は青春期の発散行為としては楽しめたが、いつまでもやっていられない。
⚪政府(グレート・ウォールナー)に心酔し、その真似事をしているうちに、(自己陶酔し)自己を失くす。
⚪ノンポリでいたが、政府または解放戦線のどちらにも影響され、自分自身(信念)を見失う。

何となく分かったようなシーンが描かれるが、断片的であり観客の感性に負うところが大きい。脈略が有るのか無いのか不思議な感覚に陥る。
たぶん、スケバン(先輩:桂川明日哥サン)の考え方・生き方に主題(ブレがない)があるのだろうが、そこを描き切れていないのが残念。

後半には、カラフルリバティ(映像:グレート・ウォールナーと同一人物)が登場し、踊りを認め対立だけの方針を転換する。グレート・ウォールナーを慕っていた者は目標を失い放心状態。また自由と引き換え=「豚」として毎日決められた作業をする(思考停止、自立放棄)といった生き方を選択するのか。その問題提起が恐ろしい。
が、ラストはハッピーハッピーと唱え、手に手を取り合う姿は何だろう。訳が分からん。
ジゼルと粋な子供たち

ジゼルと粋な子供たち

劇団昴

Pit昴/サイスタジオ大山第1(東京都)

2021/07/15 (木) ~ 2021/07/18 (日)公演終了

実演鑑賞

勉強会(=⭐評価なし)としては優等生公演。無料!!
作=フランソワ・カンポ、訳=和田誠一

自然な演出、そして役者の演技力は観てとれた。しかし、物語(フランス戯曲)は時代感覚にフィットしてこない(国と言うか文化や時代が関係しているかも)。もう少し何らかの刺激(毒薬とか良薬等)があって、空気感というか雰囲気や時間が共感出来るような”味”があれば…。
内容は典型的な不倫をドタバタに扱ったもの。以前、「不倫は文化だ」と言った芸能人がいたが、今でも不倫はTVワイドショーや週刊誌でスキャンダラスに伝える。メディアの露悪的な演出と知りつつも、つい興味本位で醜聞を見聞きしてしまうのと同様か。

舞台はフランス、その不倫劇はあまりにあっけらかんとしたコメディであり、”刺激”が少ない。当たり前だが、現実感からはほど遠く、あぁ面白かった!で終わってしまい残念(それでも良いのだが、何というかピリッとしたものが欲しい)。
コロナ禍にあって、ライブ公演はそれだけでも嬉しいものだが、だからこそ一層の満足感を求めたくなる。時代(状況)とともに変化を求め、「苦味」や「皮肉」も混じえ、単なる茶番で終わらせず、現代的な物語へ脚色(勉強会の域を逸脱しない?)出来ると思うのだが…。

(上演時間2時間10分 途中休憩10分)

ネタバレBOX

舞台美術は、この部屋に住む女性・ジゼル(新井志啓サン)のリビング、中央に横長ソファ、テーブル、上手側にサイドテーブル、上手側にハンガーや電話が置かれている。セットは高級感あるものを過不足なく並べ、丁寧な場景作りをしている。場所はパリ、シャトー通り?にこの高級アパートはある。

梗概…未亡人ジゼルが住むアパートに愛人ジョルジュが突然やって来る。彼は大きなカバンを持ちジゼルに「私たちは旅に発つ、そしてここが目的地だ」と宣言する。ジョルジュは離婚しジゼルと再婚する決意をした。しかしその日、玄関の呼び鈴が鳴るたびに彼の息子、娘、妻、さらには息子の同棲相手、妻の母まで訪ねて来る。誰も知らないはずの愛人宅へ、次々にジョルジュを訪ねてくる。

ブールヴァール劇の典型的なエピソードである三角関係の縺れに、息子と娘が奇妙に絡んでくる。この風俗喜劇は、観客を楽しませることを第一目的とし、納得ある物語性は希薄。ドタバタとしたドラマが展開し、解決が安易な点はメロドラマと似ている。が、機知と色気に富む洗練された台詞などで楽しませてくれる。ただ中流階級のモラルを皮肉りはするが、正面切っての批判はせず、気軽に楽しむ娯楽劇。フランスのコメディらしい洒落たラストシーンで、上品な笑いと香りに溢れる。但しフランスらしさが、日本のそれと同じかは疑問だ。

物語は、現実感からは程遠く、両親が離婚しようとしているにも関わらず、子供は自分たちのことを我先に話し出す。兄のジャン=ピエール(18歳)はアジア系の女性と同棲をするための資金を欲す、妹のクリスチーヌ(16歳)は、ここぞとばかりに性放蕩を告白する。子供たちは自宅の電話を盗聴・録音し、父と愛人・ジゼルの艶話を面白がって聞いていた。子供の年齢や立場からすると両親の離婚はやむを得ないと割り切ったとしても、愛人宅まで来て父親に金を強請る、という滑稽さはやはり違和感を持つ。ここでは子供たちの(救世主的)存在が肝であり、その人物像はドライな感覚とウエットな感情が同居しているといったところ。しかし、この人物像が物語の滑稽さに溶け込まず、単に身勝手なだけに思えてしまう。

フランスと日本という国の違いのせいか、または世代・時代感覚(間隔)なのか、あまりに表層的な物語という印象。勉強会という意味では、先に書いた演出や演技は確かで、他の演目を観てみたいと思わせる。
次回公演(勉強会も)楽しみにしております。
風吹く街の短篇集 第五章

風吹く街の短篇集 第五章

グッドディスタンス

小劇場B1(東京都)

2021/07/14 (水) ~ 2021/07/19 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「朝、私は寝るよ」…珠玉作。

不倫している男と女のチグハグな言葉、あえて真面目な会話をしたくない微妙な心理が透けて見える。舞台となる(彼女の)部屋をそっと覗き、上品?な痴話喧嘩を楽しんで観ている気分。しかし、まぁ男と女の立場というか身勝手さが露骨に表れ、それが何故か共感し会場内にクスッという失笑が漏れる。
男が取り繕う自分よがりの必死な姿、それを眺める女の醒めた表情、その対比が絶妙だ。そもそも男は何の話があって彼女の部屋に来たのか、といったところは寝ているような。
公演の魅力は、脚本(設定はありふれているが台詞が面白い)の力、演出の巧みさ、そしてそれらを体現する役者の演技力が素晴らしい。男(綱島郷太郎サン)の身勝手、情けなさといった二面性、女(今泉舞サン)のチャーミングで魅惑、そして哀愁漂う二面性、その表現力が公演を支えている。
(上演時間55分)

ネタバレBOX

説明にあったほぼ素舞台ではなく(スルーする)、しっかりセットがある。客席はL字型、両側から見やすいような配置で女の部屋…ベット、テーブル、TV、扇風機等が置かれ、奥にカーテンが掛けられた窓。
その彼女の部屋にビニール袋(たこ焼きパック)を提げた男が来る。もちろん女の不倫相手である。私服であるから休日であろう。

本題の会話劇に入るまでの導入が巧みだ。女はTVでオリンピック陸上競技を見ているようだ(画面が見えない位置の席)。男に走るのが早かったかを聞き、それを証明して見せろとせがむ。狭い室内で証明することが難しいため、男は前言を撤回し遅いと言い出す。男は面倒になるとコロコロ意思・態度を変えるが、女はしつこく理由を追求する。冒頭で男と女の性格をそれとなく分からせる。

不倫している男女、そして男の妻が意識不明の重体。その原因は夫の浮気で自殺未遂か不慮の交通事故か。原因如何で男の気持の在りようが違う。浮気が原因だと一生負い目(不倫=罪の意識)を持ち続けなければならないが、事故なら自分のせいではない、という責任から逃れられる。女は男の妻を尾行しており、その原因を知っている。好きな男の妻がどんな女か知りたいという気持、その健(勝)気さと行動力に女の可愛げが見える。と同時に女の怖さも垣間見える。一方、男はその結果を知りたいと土下座(そのわりには、居眠り)、その身勝手さが浮き彫りになる。心裏の駆け引き、会話がどこに辿り着くのか、その漂流するさまをワクワク ニヤニヤしながら見守る楽しさ。不倫している男と女の不幸は蜜の味のようだ。

男は困ると、キスし押し倒す行動に出るという、ありがちな展開_だからベットがあるのだが、このベットは別の意味_ラストシーンのためにも重要だ。女は、先ほどまで男に意味ありげな態度をとっていたが、男が部屋を去ると急に寂寥というか憂愁ある表情になる。そして残った たこ焼きを頬張る姿が愛おしい。照明はその心象を表すような茜色いや朝だから曙色であろうか。実に巧みな演出効果。

珍しい設定ではないが、男女のそれぞれが置かれた立場、その裏に隠された心理状態が微妙に揺れ動く様が、けっして感情移入する訳ではないが、不思議と共感してしまう。それだけ洗練された言葉の応酬劇ということ。コロナ禍を引き合いに出すわけではないが、ほんと「グットディスタンス」な2人芝居だ。
次回公演も楽しみにしております。
二等兵物語

二等兵物語

★☆北区AKT STAGE

北とぴあ つつじホール(東京都)

2021/07/08 (木) ~ 2021/07/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

面白い!
何故 こんなハチャメチャなシーンがと思うところもあるが、これがしっかり伏線になっている。頭も体も硬くなってきた自分には、即理解という訳にはいかない。まずは観たままを素直に受け入れ楽しんだ。

何故「二等兵物語」をこの時期に_コロナ禍にあって少人数での公演がトレンドと思われる中で、北区AKT史上最多となる客演陣を迎えて上演するか。これには東日本大震災の今でも消えない傷跡が関係しているらしい。当日パンフに代表・時津真人氏は、その傷跡と戦争の傷跡がリンクしているようでと書いており、夏の公演に選んでいる。その意味では、とても意義深いものを感じる。

従軍慰安婦・チュンジャ役の鈴木万里絵サン(A)の演技がほめられているが、自分が観た白濱貴子サン(B)も良かった。ということはどちらの回を観ても楽しめるということ(劇団関係者や、PRでもないデス)。白濱サンの演技は2回(卒業公演「売春捜査官」「逢瀬川(ダンスのみ)」)観ているが、ダンスが得意というだけあって集団パフォーマンスでもキレキレに踊っていた。ところで他の女優陣はモンペ姿であったが、彼女は現代(ワイドかガウチョパンツ)ファッションのまま物語に入り込む。時は昭和20年 満州という設定から違和感を覚えるが、これにも理由がある。

何故か、物語に映画「八甲田山」(当日パンフの裏面に「FOOTNOTE」が小さい字でびっしり書かれ読み難い)が挿入される。これにも理由がある。小さい文字で書かれた最後の2行が深い。

観劇中、先に書いた“何故や理由”が脳内で連発する。しかし自分の枯れてきた感性、硬化してきた思考をフル回転させるが、観ている時に理由付けなど出来ようもなく、理屈抜きに楽しんだ。観劇後、内容を振り返えり そういうことかと得心する、そんな楽しみも出来る1公演で2度美味しい二等兵ならぬ大将(賞)級の物語。
卑小と思いつつも、白濱サンの演技_凜としているが、もう少し媚というか潤が観れたら、なお良いかな~と勝手な思い入れ。

(上演時間2時間)  2021.7.12追記【Bチーム】

ネタバレBOX

素舞台。♪アカシアの径
つかこうへい作らしい、揶揄・批判等をしっかり散りばめ、物語に幅と深みをつける。冒頭のトラベルガイドのシーンで主人公の二等兵(つかてつおサン)が現れる。戦後30年ほど過ぎているこの冒頭シーンが、劇中に登場する映画「八甲田山」のラストシーンに繋がる。そもそも「八甲田山」は日ロ戦争を想定した軍事演習を描いているため、本公演とは時代背景が異なる。しかし戦争という最悪の不条理と死んでも愛をという思いを重ねる。

昭和20年満州 軍事教練のような場面。小隊長(草野剛サン)が二等兵(正直屋、花奴、教育長、福祉、高之坊、そして間男)たちに悪口雑言を浴びせている。例えば、八百屋を営んでいる正直屋に対し、人殺しが商売できるのか。教師をやっていた教育長に対し人殺しが子供に教えられるのか等々。それに対し二等兵たちは”戦争”だから、異常時だから仕方がない。戦時下にあっては理性、ましてや正義などあろうはずもない。すべて”戦争”が悪いのだと言い張る。その戦争に勝つためには病気、特に性病などに罹ってはならない。そのために従軍慰安婦がいるのだ。人格崩壊の必要性や慰安婦の必要性などを歪に説明していく。面白可笑しくデフォルメしているが、底には狂気を孕んでいる。

主人公・二等兵と従軍慰安婦の場面。1回の安らぎの時間は40分。兵は何もせずに、慰安婦の肩を揉んだり、自分の身の上話を始める。しかし残り10分になったところで欲情し、突然襲い掛かる。あと5分、2分と計3回も…。慰安婦の呆れ悪態を聞き流し、結婚しようと口説きにかかる。2人に情愛が芽生えるが、状況が許すはずもなく兵は銃殺。その直後に敗戦の知らせと玉音放送が流れる。2人が庇い合うシーンが見せ場の1つであろうが、自分は兵の身の上話も印象深い。青森県の貧農出身、八男坊で生きて帰っても田畑はなく生きていけない。むしろ家族にとって自分が戦死してくれたほうが恩給?が貰えるからよい。他の二等兵たちも同じような境遇にあることは容易に想像がつく。
さて二等兵(小隊長も含む)たちの服装は薄汚れた当時のもの。一方、慰安婦は現代ファッションのまま。これは、二等兵にとって慰安婦はあくまでミューズであり、同質化させない演出であろう。

戦後の「スナック満州」場面。戦後の荒廃した状況、占領下におけるGHQへの媚び諂いといったシーンを挿入するが、これはスナックでの寸劇。つまり劇中劇である。元二等兵たちの前で、元小隊長が恥も外聞もかなぐり捨て土下座するような内容である。一見、不自然な場面に思えるが、戦後の何と大らかで平和な、そして状況が変われば、権威・権力等は取るに足りない薄っぺらなものと思わせる。戦時中との対照場面として強調している。何でも”戦争”のせいにしてきた、コンプレックスを抱えた人たちの笑うに笑えない悲哀と似非ヒューマニズムが透けて見える。

元小隊長と慰安婦だった女が寄り添う所へ、主人公二等兵が現れる幻の邂逅場面。元慰安婦の告白…自分は朝鮮人と言っていたが、実は日本人であると。朝鮮人ということにすれば、威張り襲う等という差別的意識や行為がし易いといった心理を鋭く指摘する。また度々出てくる「八甲田山」のシーンは、神田大尉が徳島大尉を慕うといった同性愛(つかこうへい氏 らしい少数=弱い立場)を描き、弱者(貧農等)視点をそっと観せる。同時に神田大尉=銃殺された二等兵、徳島大尉が従軍慰安婦であり、賽の河原で会ったのだと…。狂界であった満州平原、それでも2人にとって思い出の場所で待つのだ。ラストは感動だ。

最後に、良い芝居なのに何故⭐5ではないのか。
実は、自分が観た回で通路を隔てた隣席人の携帯が鳴り、見所と思われるシーンの台詞が聞き取れなかった。周りの人達の顰め面は言うまでもない。この御仁、急いでいたのか、居たたまれなかったのか、終演後、脱兎の如く会場を去った。開演前の場内アナウンスで携帯の電源は切らずにマナーモードで可。またコロナ対策のため列ごとの退場を呼び掛けていたが、終演後にアナウンスしているから徹底できていない。公演は、制作面も含め観客に満足してもらうもの、と思っている。今回の隣り合わせは不運。
改めて言うが、芝居は面白い。場面ごとに観れば面白可笑しいが、全体を通して観ると恐怖と感動の隣り合わせ。こちらは大歓迎だ。
次回公演も楽しみにしている。
春の終わり〈青年座・那須凜主演!シアター風姿花伝 劇作家支援公演〉

春の終わり〈青年座・那須凜主演!シアター風姿花伝 劇作家支援公演〉

ENGISYA THEATER COMPANY

シアター風姿花伝(東京都)

2021/07/06 (火) ~ 2021/07/12 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

舞台には、 美しく佇んでいる婦人たちが描かれ、そこに抒情的な説明文が添えられている。そんな絵(人物)画を鑑賞してきた気分である。つまり描かれた婦人たちは立ち上がり動いてこない=長い人生が見えてこないのである。自分の感性が渇いてしまったのかもしれないが、期待したほどではなかった。

物語は現在(70歳)と約50年前(20歳代)を往還し、外見的な老若の違いを見せる。確かに若い女優が素のままの姿で溌溂と老女を演じ、外見的には円背姿勢、ゆっくり、ハッキリ話す口調など、高齢者の特徴を表していた。また若い時代を挿入することで演技の違いを際立たせる。いや逆に、実年齢に近いこともあり、若い時代の方が生き生きと本来の演技を観せてしまう。良し悪しは別にして”演技の力”は観ることが出来た。しかし演じている彼女(老女)たちの人生は置き去りにされ、表面的な物語だけ。これは演技の問題だけではなく、脚本・演出が「女の一生」の過程と終末期を描き切れていないことが原因だろう。

ENGISYA THEATER COMPANYは、「何もない空間に 命の風景を創る」をテーマに役者育成に取り組み公演を重ねているという。演技で言えば、外見的なことだけではなく、「女の一生」その死生観の内面を演じ切らなければ、真の「春の終わりに」ならないのではないか?素のままでも、この先を想像し(それも膨らませ)て老女にならなければ、と思うのだが…。
(上演時間2時間25分 休憩10分含む)【Aチーム】

ネタバレBOX

舞台美術は、中央にブランコ、それとベンチが2つ。前半のみ箱馬がある。色はすべて白であり、どんな人生にも染め(照らし)上げられるようだ。ベンチは、それを動かすことによって時々の状況や情景を描き出す。舞台技術ー照明は単(淡)色をスポットに照射、音響はキャストが自ら歌(「星の流れに」「木綿のハンカチーフ」等の昭和歌謡)い、物語に人生を吹き込むような演出だ。演技は老人時と若い時では立ち居振る舞い、そのテンポの軽快さで観(魅)せる。もちろん衣装も着替える。小道具等は無しでパントマイムで補う。

梗概…小説家しのぶ(那須凜サン)、その友人たちが住む「老女たちのシェアハウス」の物語。しのぶ の独白「死、というものがとうとう私の身に迫ってきている。物書きとしても、一人の人間としても当然そのことについて考えざるを得ない。・・・命の春の終わりをどう締めくくればよいのだろう?もうあまり時間は残されてはいない。」と。人生は自分だけのもの、最期 どう自分の死を見つめ後始末をつけるか、その小説を書きたい。

基本的には現在から過去を回想し、物語は現在・過去を往還するように人生を表現する。併せて自分の孫娘や同居している友人の娘、孫娘との関りを、ある問題・心配事を絡めて描くことで起伏を入れる。

シェアハウスの6人(少なくとも、しのぶ・優子・藤子の3人だけ)の性格や人生の歩みをもう少し具体的に描き、人生の哀歓が見えると良かった。優子は早い段階で病死(以降は霊のような存在で俯瞰)しており、子供を現さず孫が登場する。時間の経過は見え感じることは出来ず、逆に20代と現在(70歳)の間に時間の分断が生じている。

物語が動いて見えないのは、次のようなことではないかと思う。
第1に、シェアハウスに居る6人の老女(優子<古藤ロレナ サン>は早い段階で鬼籍)の20代から70歳に至る過程がほとんど省略されていることから、人生の歩みを描写しきれていない。かろうじて藤子(岩永ゆいサン)が独身を貫き舞台女優として生きてきたこと。唯一の男優・周 役(松田周サン)との恋愛事情を絡ませたことぐらいしか印象にない。後の3人(静佳〈諸藤優里サン〉が愛人、咲〈大竹華サン〉が元国連職員、春子<大地葵サン>が看護師)は、ほとんど台詞で説明。
第2に現在は、孫(例外は春子と娘・玲奈のみ親子)との関りを主にしているため、直接子供の存在を飛び越え、時の経過とともにあるべき家族関係が描けていない。人との関り、その中で生きてきた証ーー喜怒哀楽といった情感を削ぎ落したよう。それゆえ「生きる」もしくは「生きてきた」が希薄で、逞しさのような生活臭がない(第1と同趣旨かも)。美しく纏った人生、抒情的そして感傷的な印象が前面に出ていた公演。
次回公演を楽しみにしております。
銀の骨

銀の骨

やみ・あがりシアター

王子スタジオ1(東京都)

2021/07/02 (金) ~ 2021/07/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

物語のベースは小説「銀の匙」(中勘助)、構成はシュニッツラーの戯曲「輪舞」に工夫を凝らし精緻な構造を成しているようだ。
この公演は実験公演・オーダーメイド#2となっており、いくつかの約束事を設けている。その中に上演時間60分程度というのがある。ところが、本公演は70分で目安時間を超えており、終演後の挨拶で脚本・演出の笠浦静花女史が律義にも謝っていた(誰も気にしていないと思う)。たかが10分であるが、案外重要なことでもある。例えば〇△演劇コンクールのような賞レースでは、時間制限を設けている場合がある(芝居に優劣と言うか順位はどうかと思う時もあるが、事実「コンクール」等はある)。
また実験公演は第3弾も考えているとの案内もあった。

さて、最近「別役実短編集」(基本2人芝居)を観たが、いつの日か、「やみ・あがりシアター実験公演オーダーメイド作品集」(1人芝居)なる企画をしてほしいものである。第1弾「アン」は未見であるが、高評価(未見のため他者評価を信用 無責任か?)のようであり、少なくとも本公演を観る限り、企画に値すると思うのだが…。
コロナ禍ということもあるが、観客12名という贅沢な観劇空間で至福の70分。堪能した!

ネタバレBOX

小説「銀の匙」は、「私」という1人称で書かれているが、この芝居は私(1人称)、友人(2人称)、客である彼・彼女(3人称)を1人で演じる。相手役は登場しないが、さも相手が喋っていることへの返事や反芻といった言葉(台詞)で実在感を表現する。また実験公演の約束事である人形や紙芝居を用いて状況や情景を描き出す。これら全てを1人で行うから、その演技力、演出力は並大抵ではない。その点、久保磨介サンの演技は良かった。

舞台セットは、複数の裸電球(点滅による心象効果)、四角に切出した石垣のようなカウンターというシンプルなもの。会場出入口にドアチャイムを取り付け、物語の区切りにメリハリを付ける。
舞台はアクセサリーショップ、私(接客担当)と友人(=人形 制作担当)の2人で経営しており、オーダメイドで受注制作している。構成は輪舞のように小話(5話)が次々連関し、それをプロローグとエピローグで観せ始め 締め括る。会話劇が中心となる5話(景)からなり、最初(プロローグ的)に出てきた女性客と最後の依頼・男性客の邂逅によって「輪舞」が完成する構成。また話(景)の間には、その小話に纏わる洒落たオチを入れる。公演全体を饅頭に例えれば、5つの話が餡、プロローグとエピローグが皮で優しく包んでいるようだ。この皮が少し厚(長)めのような気もしたが…。ちなみに紙芝居で5話の(サブ)タイトルとオーダーアクセサリーが紹介されるという分かり易さ(第1話「銀の骨<ペンダント>」 第2話「あわただしいスプーン」←間違っているかも 第3話「外れない指輪」 第4話「小説の腕輪」 第5話「傷ついた指輪」)。

エピローグ...私は店を去り、その後、友人(擬人化した人形)の独白が始まる。友人の長い人生が語られ、命の限りがみえてくる。一方、私は吸血鬼(ここでも「銀」が関係してくる)という設定であるから基本的には不死である。友人関係でいる限り、年を取らない不自然さを悟らせないため去ったのだと。しかし私(吸血鬼)こそが真に不在で、友人の幻想・妄想の類ではないかと、自分は思って観ていた。「銀の匙」の回想をさらに変化・深化させた芝居であると思う(深読みか?)。
最後に、命に限りがあるからこそ、人との関わりは大切なのだと…。そうそう「関係」の話がこの公演のオーダーでしたね。
次回公演も楽しみにしております。
花のもとにて春死なん

花のもとにて春死なん

ピープルシアター

シアターX(東京都)

2021/06/30 (水) ~ 2021/07/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 現代社会の断面を切り取った問題作にして衝撃作。老人問題は、“人生100年時代”どころか「生きろ」ではなく「遺棄老」といった扱いである。
 戦後のベビーブームに生をうけ、増えた人口のままに数々の流行と需要を作り、高度成長期、バブルとその崩壊を経て良し悪しはあっても日本経済を支えてきた。一方で「一億総中流」といった意識、過当競争、過剰設備を残したこの世代が年老いた今、日本人の戦慄の未来、いや現在を描く。初演が1985年、なんという時代の先取りか(脚本の一部書き直し、配役は全員新規メンバー、演出も新たにしていると)。
 また、相手の気持や立場を考える、人間はひとりで生きているわけではないーこんなもっともらしい、そして きれいごとを言う典型的な日本人への自業自得(自立しない、他人任せ)ではないのかといった逆説的な問題意識も突き付けているようだ。
 日本の今、そして狂気の老後問題を感じたければ、この作品を観たまえ!と言いたくなる(年齢がそう言わせる)。
 物語のラストは、観客の受け止め方が異なるかもしれない。何もあそこまで描き切らずとも、観客に委ねてもと言った感想があるかも…。事実、自分も観劇直後はそんな思いもあったが、帰宅する頃にはあそこまで描くことで、より老人問題が鮮明に出来る。敢えて踏み込んだ領域とも言える。観応え十分。
(上演時間2時間 途中休憩なし)

ネタバレBOX

舞台は「こころの里 桜の杜むつみ苑」。低い段差、中央奥は演壇のような高さ。所々に萎れた草というシンプルなもの。中央上部に桜が見えるが、当初 桜の木という心象風景と思っていたが、それはこの老人ホームの飾り物。つまり偽りの桜。老人ホームにいる人々の何も「無い」という心象を表している。劇中「老人は夢、希望、欲を持ってはならない」と。ただ静かに時を過ぎるのを待つだけ。生き甲斐を持つことは許されない。死への旅路の準備期間なのだ。かと言って準備することは何もない。が突如、日本国に姥捨山法が施行され、救いのないラストシーンへ…。

冒頭、老人姿勢から直立しタンゴを踊るシーンから始まる。生き生きと踊る姿、しかし間もなく「静かに!」という看護師の一喝で沈鬱な状態へ逆戻り。物語はホームに入所している老人たち1人ひとりの生き様なりを切々、淡々と描く。戦災孤児、口減らしのために身売り、同性愛者(少数=弱者視点か)等の人生を次々に展開していく。同時に老人に見(看)られる健忘、妄想、せん妄、痴呆、排尿障害といった症状を非生産的に描き出す。
子供叱るないつか来た道、年寄笑うないつか行く道 といった言葉は空しいだけ。

この姥捨山法は、単なる老人排除(殺害)に止まらず、老人問題の根本を考えず安易な方法で解決しようとする。つまり現役世代の大人たちは思考停止、傍観し不作為を決め込む。そして実行部隊は子供(14~16歳くらい)に任せるという無責任さ。さらに法の但書きには、年収2億円以上あれば適用外という富裕層優遇措置、まさに現在の貧富格差への揶揄・批判。

登場人物は個性豊かな老人たちで、役者は猜疑、相愛、嫉妬のような感情を表しつつ、踊ることで生きているを体現している。その精神・肉体の表現力は素晴らしい。中でも、自分を絞殺してくれと頼む姉婆(前田真里衣サン)、それを何か(月の不思議な力)に憑りつかれたように実行するメリー老(片平光彦サン)の謂わば嘱託殺人(自殺ほう助?)の場面は圧巻。この場面で歌われる曲(あざみの歌)、哀愁溢れ実に印象的だ。
日本で“月”が登場する話は紫式部の「竹取物語」が筆頭に挙げられるだろう。周知の通り、竹取物語の末尾に登場するのが不老不死の薬である。月と不老不死は月が欠けていって死に、また満ちて生き返るため ごく自然に再生の象徴とされている。その月を敢えて用いることで老人問題(社会批判と死生観の両方)への鋭い切り込み材料にしている。見事な公演であった。
次回公演も楽しみにしております。

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